持ってきたはずなのにない!!
第14章は無条件で信じるということを学んだ体験です。
私の通っていた区立若林小学校は
給食当番のときに白衣を
着ることになっていました。
学校の備品の給食当番用の白衣です。
週末になるとこの白衣を持ち帰って
洗濯する決まりになっていました。
その白衣は白い巾着袋にはいっていました。
その袋を学校から持ってでました。
帰ったら手に持っていない。
どこかで落としたのか??
手にいろいろな物を持っていたので
どこかで落としたようです。
自分ではしっかり手に
持って帰ってきたと思っています。
それなのでどうしてなくしたか
母から問い詰められても
まったく答えられませんでした。
母にはだいぶ怒られました。
そして学校までの通学路を
何度も行ったり来たりしても
物の給食着は見つかりませんでした。
見つからないので
学校に謝りに行くことになりました。
無条件で信じる力
担任の先生にお詫びをしに行ったところ、
「森澤くんがなくしたんじゃありません」
とかばってくれました。
担任の先生は新任で、
少し訛りのある若い女性の先生でした。
自分が持ち帰ってなくしたという自覚はありました。
なぜ、自分がなくしたのではないと
かばってくれるのか不思議な感じがしていました。
母は「うちの子がしたことですから」
と言っていました。
このときは、
逆じゃないかと思っていました。
先生が問い詰めて
母が子をかばうなら
あり得ると思っていました。
このときは母は私がしたと言い、
担任の先生は私がしたのではないといってくれる。
もうこのあたりから
給食着をなくしたという罪悪感とは
違う何かが湧き上がってきていました。
今から思えば
母は普段の私を見ているので
なくしても
おかしくないと思ったのかもしれません。
先生は新任だったので
初めての生徒を無条件で信じたかった。
そうなのかなとは思いつつ
理由がなく人を信じられる物なのか。
無条件で人を信じるって出来るのか。
出会ったことのない状況に戸惑うのでした。
この頃の日常は、
自分がしたことでなくても
決めつけられて頭ごなしに
怒られることが多い日々でした。
明らかに自分がなくしたと
自覚しているし
はっきりとなくしたと言っているのに
かばってくれることに
不思議さを感じていました。
法律は事実関係から善悪を判断するが、
人間社会では信じていれば無罪、
疑われたらやってなくても
有罪ということが
成り立つのではないかと感じ始めました。
これは今の舞台活動にはものすごく役に立っています。
どんなにきちんと準備をして
舞台を勤めたとしても、
つまらなかった、よくわからない
そんな評価は一瞬です。
弁解する機会もなく下されます。
人の世界は決めつけで作られている。
そんなことを感じた出来事になりました。
事実を証明したところで
何の意味もないこともあります。
このときに初めて他人から
信用されるという経験をしたと思います。
担任の先生は「森澤くんは普段から見て
わざと捨ててしまうようなことを
する子ではありません」
ということを
母に言ってくれたのをよく覚えている。
今なら白衣よりも時間が大切、
探すなら新調してと思います。
当時は何かと
ものを大切にする時代とも言えるし、
もののために時間を浪費する時代とも言える。
母が頭ごなしに攻めるのとは対照的でした。
明らかに自分がなくしたのに
信用してくれている人がいることを
嬉しく感じました。
今思い出してみると
どんな人でも
無条件で信頼されているところがある。
それを学ぶための
出来事ではないかと思います。
脳の特性からすると、
人は無条件に決めてから
理由を見つけるといわれています。
物を盗んだと言うことも
裁判で争って無実を証明する方法もあります。
しかし法律がない時代だったら
「盗んだ」と思われていた人が有罪になったでしょう。
無条件で悪いことを
決めつけるのは有益とは思いません。
それでも
無条件で人を信用することが出来る人は素敵だと思う。
ただしこれは犯罪に関わることを
見極められないという意味ではありません。
信頼関係の事です。
20歳くらいになってフロイトの
囚人のジレンマという説にであう。
これはお互いの信頼関係がない
よい例になります。
仲間通しが自白するかどうか
自分の中で駆け引きしてしまう。
よき友、家族、よき仲間は無条件で信じる。
そんな信じる力を誰でも持っている。
しかし使える人は少ないかもしれない。
家族なら有りますが、
他人を無条件で信じる事ができたら
自分も強くなれると思います。
さて次は「第15章 光に包まれる」です。
電車を止めただけではまだ治らなかった、、
この後まだまだ修行を積むことになります。
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