とまどう能楽の習慣

第38章は「決める」と「やり方」が出てくるという体験です。

 

なにか考えるときに

なかなかアイディアが出てこない事があります。

 

 

アイディアを出すための思考法も

数多く世間に出回っています。

 

 

確かにアイディアはたくさん出てくるのですが、

肝心の「決める」がないと

全く成果に結びつかないものです。

 

 

能楽師の修業は一生です。

しかし内弟子修行には節目としての終わりがあります。

対外的な「独立」という節目もそのひとつです。

 

地方から修行に出てきた人は

地元に帰り能楽師として

活動する場合もあります。

 

東京や、大阪、京都など修行した土地に

残って舞台活動を続ける人もいます。

 

そんな能楽師の修業は

「道成寺」の初演が区切りになります。私にも

20歳で国立能楽堂の養成事業に入ってから

10年がたとうとするときに

この話がありました。

 

初演の準備は大きな経験でした。

はっきりいって楽ではありません。

 

この時点で11年たっていたので

早く節目を迎えて内弟子生活から

解放され稽古の時間がほしいと思っていました。

独立とは能楽師の成人式のような感じです。

ここからがスタートです。

 

紆余曲折ありながら準備は進み、

養成の講師であった宝生流宗家にお願いして

公演日の1年前から稽古が始まりました。

 

初演は一生に一度ですから

うまくいっても行かなくても

自分の記憶にも

経歴にも残る大事な舞台です。

 

この舞台で全部出し切るという

覚悟を持って取り組みました。

 

能楽の稽古全般にそうですが、

いきなり始まるのです。

 

はじめは段取りを確認して、

本格的にやる日を決めてという

段取りはまったくありませんでした。

 

能楽の小鼓にとって一番体力をつかう

「乱拍子」という部分が有ります。

この稽古も一番はじめに

見ていただくときに

「やってみて」といわれて

すぐにスタートです。

 

「えっきいてないです」とは言いませんが

これはわかっていても

かなりプレッシャーがかかります。

 

独立するわけですし、

やると決まっているわけですから、

見てもらう準備はして

稽古にのぞむのが標準です。

 

わからないところは行ってからという

姿勢ではなかなかうまくいきません。

 

稽古は大変な事も多かったですが

順調に進んでいきました。

 

第37章でもお伝えしましたが

運転は多かったので

声出しの練習はもっぱら首都高速の上でした。

 

一般道で大きな声を出していたらかなり

不振ですし人の目を気にするというか

マナーとして不審なことはしない方がいいものです。

 

その点、高速道路は

大きな声を出しても

前後の車に聞こえるような事もなく

思い切って声だしの稽古が出来ました。

師匠を送った後の車は良い稽古場になりました。

 

稽古だけでは舞台は出来ない

稽古意外に大変なのが会の運営です。

このときに「切符はどのくらいいるか?」ときかれたので

「全部じぶんがうります」と答えました。

 

もちろん心意気というかあてはないですが

本当にそうするつもりでした。

 

ところがこの「つもり」と「やる」には

明確な違いがあります。

 

能楽界に限らず

仕事の早い人たちは

クッションはありません。

 

全部くださいといえば、

その日のうちに発送、

次の日には到着します。

 

これは親切であって

相手を困らせようなどという

気持ちはかけらもありません。

 

当時の私は心意気として

「全部」と言ったのです。

 

実際には招待するにも

リストも作ってません。

 

ご案内用の手紙も何も用意していない状態でした。

 

この言葉の違いは気をつけないと

自分が販売する立場になったとき

「行きます」といわれてすぐに

切符を確保したら

「話の流れでいっただけ」のような事もあるので

注意が必要です。

 

 

また逆もあって話の流れでさそわれた催しに

「行きますね」といって会場に行ったら

「ほんとに来てくれたんですね!」と

驚かれたこともありました。

 

口約束が守れる人と

言葉がだけの人

この違いは大きいものです。

 

さて、話は戻って

「森澤勇司独立記念能」と題名のついた

会の切符の販売作戦をたてることにしました。

 

この時点では何の当てもありません。

 

幼稚園から大学までの名簿をかき集め、

年賀状のやりとりをしている方々も含め

大学ノートに名簿を作り始めました。

1998年ホームページを作る

ポスターを作って貼ることも考えましたが、

できあがってきたポスター、チラシには私の

連絡先は入っていませんでした。

 

別な方法で販売していく事を自分で決めました。

まずは預かった切符のお祓いに行きました。

 

ご祈祷をして完売と

受け取った方の幸運を祈願しました。

 

そして持っている小鼓の

馬供養もして気持ちスッキリさせました。

 

手紙を出すにもかき集めた名簿が1000件、

当日予定を空けられて、なおかつ

能楽堂に来ていただける方は10%でも100件です。

これでは遠く完売に及びません。

 

どうやって売ろうか考えているときに

書店でインターネットで

ホームページをつくるという本を見つけました。

 

これが私がインターネットとの初めての出逢いになりました。

1997年この独立の話が決まったあたりから

ホームページを作り始めました。

1997年に「能楽の小鼓」という

ホームページを作っていたので

本格的に1998年に

nohgaku.comというドメインを取得しました。

 

そしてインターネットで販売受付ました。

半信半疑でやり始めましたが結果は良かったです。

 

予算内で購入したのはNECの一体型パソコンです。

ハードディスク850メガという

今では化石のようなパソコンでした。

 

エクセルをスクロールすると

動きが止まるまでに5分くらいかかる

気の長い作業は今では考えられないですね。

 

元来、機械いじりや好奇心は旺盛なので、

本を見ながらHTMLを綴っていくのは

さほど難儀ではありませんでした。

 

 

初めてのホームページ

「能楽の小鼓」には

小鼓の胴と革や昔の名胴のことなど

小鼓にまつわる情報を発信しました。

 

またドメインを取得したnohgaku.comには

能楽の総合情報を記事を掲載し始めました。

 

掲示板には角川系の少女漫画家さんが多く集まって、

メーリングリストは60名ほどで運用が始まりました。

 

このときYAHOOで「能楽」と検索すると

60件くらいしかでてこない時代です。

 

1番上に表示させる方法も把握できたので

「独立記念能」の申し込みも出来るように

フォームを作って設置しました。

 

いまなら5分もあればできる事を

1日がかりでやってましたね。

 

もともと機械いじりが好きなので

書いたコードが見える化されるのは

趣味としても最適でした。

 

このインターネット作戦と、

幼稚園から大学まで集められる名簿を全部集め、

自分用のチラシと手紙をを作り

約1000件送付しました。

それだけで、飛ぶように売れるわけではないのです。 

手紙が届いたころに電話をし、

アポイントを取って菓子折を持って、

訪問するということを繰り返して

直接受け付けて230枚売ることができ

600席は完売になりました。

 

毎月催しをしている先生方には

ほんとに頭が下がります。

 

またこのときは、直近に「道成寺」があり

同時期に同じ曲が3回上演される

ことになっていました。

 

能楽堂で無名の能楽師の初演は

厳しい物がありましたが

おかげさまで切符も完売し

当日を迎えることが出来ました。

 

当日は、高円宮様もご来場いただき

終了後宴席でご一緒させていただき

「よい声でした」とお言葉をいただいたのは

よい思い出です。

 

 「やると決める」と「やり方」が出てくる。

これはこのときにほんとに実感したことです。

 

戻ってくる不思議な切符

振り返ってみると稽古のこと、多くの人に会いに行ったことが思い出される。

小学校の先生、中学校の先生が三味線の発表会が

あるからと交換条件を出されたり、

怖かった数学の先生がお琴の稽古をしていたり、

私が中学の時の新任の先生が、

転勤して同業の能楽師の担任をしていたり、

人のつながりはほんとに面白い物です。

 

 

また前後には、大失敗が続いてしまいました。

旧観世能楽堂で「淡路」があったときは、

朝からで卒業した小学校にも足を運び、

切符を渡すアポイントも何件も入れていました。

 

それなのに気持ちが切符のことだけになってしまい

舞台についてから紋付きをもっていないことに気が付きました。

稽古用の着物をいれて出かけていました。

 

楽屋にはわりと早く行くことにしているので

自宅まで取りにいき舞台には支障はありませんでしたが

ヒヤヒヤでした。

 

 

遠方にすんでいたら一大事です。

ほんとに気が引き締まりました。

 

また喜多能楽堂で「東北」があったとき、

喜多流は曲の最後の部分が違うのはわかっていましたが

稽古が不十分で大失態をしてしまいました。

20年以上たっていますが、

このときのシテを勤めたKさんには

今でも心の中でお詫びしています。

 

また不思議な切符が一枚ありました。

会は結果的にキャンセル待ち多数で

切符が足りない状態でした。

 

客席は全部埋まったのですが

一枚だけどうしても戻ってきてしまう

切符がありました。

 

私の手持ち切符でGB席といわれる

脇正面後部の1列目1番が

どうしても戻ってくるのです。

 

研修生時代、舞台を見るときはこの

GB席のあいている場所で

見せていただいてました。

 

このGB席1列1番は森澤家の席だなと納得して

自分の席にしました。

この切符は今でも大事にとってあります。

 

 

 

さて次は「演奏家の妻と結婚」です。

人生山あり谷ありです。

https://ameblo.jp/yuji-nohgaku/entry-12598892981.html

 

 

生まれる前

第01章【誕生前】 選んだ家庭
第02章【 0歳 】 誕生

幼少期

第03章【  2歳  】 トイレに落ちるのをこらえていた
第04章【 4歳 】 幼稚園に送迎なしで通っていた
第05章【 4歳 】 祖母にコップで殴られる
第06章【 4歳 】 祖母に仕返しをする
第07章【 4歳 】 茶化されるのが嫌い
第08章【 4歳 】 ブランコの鉄パイプが顔に刺さる
第09章【 4歳 】 本をひたすら開いていた
第10章【 5歳 】 世田谷線を止める

小学生

第11章【 6歳 】 小学校初登校
第12章【 9歳 】 弟の病気
第13章【 9歳 】 柔道を始める
第14章【 10歳 】 給食着の紛失
第15章【 10歳 】 光に包まれる

中学生

第16章【 13歳 】 父が亡くなる
第17章【 13歳 】 ギターを始める
第18章【 14歳 】  国士舘大学の柔道部にゆく
第19章【 15歳 】 天敵が現れる

高校生

第20章【 15歳 】 サッカー部に入る
第21章【 17歳 】 交通事故
第22章【 18歳 】 柔道大会で優勝する
第23章【 18歳 】 ビンテージギターを手にする
第24章【 18歳 】 テンプル大学とのご縁
第25章【 18歳 】 引っ越し
第26章【 18歳 】 衝撃の初月給

大学

第27章【 18歳 】 テンプル大学「卵」と「バナナ」
第28章【 18歳 】 アメフトを始め防具を譲り受ける
第29章【 19歳 】 失恋劇場は上手ばかりではない
第30章【 19歳 】 座間キャンプで英語が通じない
第31章【 19歳 】 小鼓を初めて見る
第32章【 19歳 】 休学する
第33章【 20歳 】 国立能楽堂に願書提出

国立能楽堂研修生

第34章【 20歳 】 国立能楽堂の試験
第35章【 20歳 】 人生を決めた一冊「行動学入門」
第36章【 21歳 】 国立能楽堂の稽古とアルバイト

内弟子

第37章【 23歳 】 20年の運転が始まる

独立

第38章【 32歳 】 独立記念能
第39章【 41歳 】 演奏家の妻と結婚
第40章【 42歳 】 娘が誕生
第41章【 43歳 】 舞台から集中治療室に運ばれる

退院後

第42章【 43歳 】 退院後に待っていたもの
第43章【 43歳 】 いのちの電話
第44章【 44歳 】 野菜自給生活
第45章【43~47歳】社会勉強勉強でセミナー通い
第46章【 44歳 】 自分を変えなければ何も変わらない
第47章【 47歳 】 重要無形文化財能楽保持者の認定
第48章【 47歳 】 初出版『ビジネス版「風姿花伝」の教え』
第49章【 49歳 】 読書の習慣化
第50章【 50歳 】 神社とお寺に立ち寄る習慣

まとめ

これから