第37章    20年の運転が始まる

20年の運転生活

第23章は

一度チャンスを逃すと次の節目まで

膨大な時間がかかるということを学んだ体験です。

 

 

師匠の家の近くに引っ越すようにと

すすめがあり中野区に引っ越しをしました。

 

駅から1分、

師匠の家まで歩いて

5分ほどの線路沿いのアパートでした。

この頃は能楽界は舞台数も多く

毎日荷物を運んで過ごしていました。

 

 

23歳のときある夕方に

「免許証を持ってくるように」といまれました。

 

いつも財布に免許証は入っていたので

何の用事か出かけていきました。

そうすると道すがらにある駐車場に

新車が納入されていました。

 

「これから運転してもらうから」といわれました。

 

えっ

 

実は19歳で免許を取ったとき

友人の別荘がある御宿までいくことがありました。

 

行く途中も危ないことは

結構ありましたが

かろうじてぶつからずに御宿に着きました。

 

細い土手の上の道を走っていて

向かいからトラックが来ました。

 

このトラックと正面衝突!!

 

かろうじて助かりましたが

土手からはみ出て落ちそうになったことがあります。

 

 

このとき以来、

「運転はしない」ときめていました。

 

免許取得後、

一回しか運転していない状態です。

拒絶したらやめさせられるかもしれません。

 

運転自免許は自分の収入でとりました。

その時点では車を運転する気は満々でした。

 

しかしながら

初めての運転でトラックと正面衝突寸前になり、

高校の時の交通事故の記憶もあり、

かっこつけて車を乗るより命の法が大切です。

 

無理をしてリスクの高い運転にとりくむより、

稽古に取り組みたいと思っていました。

 

そんなこともあって

人を乗せて走るというのは自分だけでなく、

乗っている人もその家族も、

また自分の親、

親戚に対する責任も重く23歳の私にとっては

責任をとれる範囲を超えていました。

 

そして運転には向いてないと思っていました。

 

教習所を出てから

2回くらいしか運転もせず4年ぶりです。

 

それが急に運転することになってしまいました。

 

なんとか事故を起こさず戻ってこられましたが

最後に車庫入れでドアをこすってしまいました。

 

ここから毎日の運転責任に対する

精神的重圧は

舞台の10倍くらいエネルギーを消費しました。

帰ってくると目も神経もすりへって

毎日死にたいほどの疲労でした。

 

最初が肝心

自分のルールを破ったときに

うまくいかないことが起こります。

 

ここで運転を断らなかったため

にこの日から20年運転手をすることになるのです。

 

人生で20年変わらないってすごいことです。

 

自由にすればいいじゃないかと言うことですが、

思考、想像の自由が

全くなくなって

ただただ

毎日を過ごすだけだったように思います。

 

なにしろ高校の時の交通事故から

交差点に来ると横から車が来るような感じで

動悸がするような状態です。

 

交差点にさしかかるたびに

ブレーキを踏んでしまいます。

 

そのたびに恫喝される。

そんななかでも

人生に必要な体験なんだと

自分を納得させて生きていました。

 

今になって思ってみれば

貴重な期間だったと思います。

運手している期間には

早く解放されたいという思いしかありませんでした。

 

一番長いときでは名古屋まで行き11時間、

帰り6時間無休で運転したこともありました。

 

目の前にやってきた課題を

しっかりと受け止め開く才能もあるとききます。

 

このときは

ほんとにこのまま隷従して

人生が終わってしまうのではないかという不安ばかりでした。

 

そしてロボットのように

言われたことを遂行し

なんの面白さも感じなくなってきました。

 

また26歳の国立能楽堂の研修終了時も、

32歳の独立の時も

「もうそろそろ運転も大変だろう」という言葉は

ありましたが運転は継続しました。

 

タイミングを逃すと

新幹線の駅のように

次のタイミングが来るまで

非常に長くかかるということを学びました。

 

その中でも

貴重なことはたくさんあり

多くの先輩、先生方からいただいた言葉は

大きな心の支えになりました。

 

 

ある日、朝の5時に

ゴルフのお迎えにいったとき

大先輩がこんなことを話してくれた。

 

「50になったときに能楽師としてスタートラインに立ったような気がした。」

 

当時はまだ30代、

スタートまではずいぶん遠いと感じていたものです。

 

稽古場で鼓を打つより

ハンドルを握っている方が長かったので、

送迎の行き帰りなど車の中が稽古場でした。

 

独立の時の道成寺の稽古も

大半は羽田空港を往復する高速の上でしていました。

 

こんな生活ですから、

この世は魂が遊びに来ている

遊園地と思えるようにようになってきました。

 

それぞれの能の舞台のように

役柄を演じているだけ。

そう思えばその役を精一杯演じることで

人生が充実する。

 

しかしてこの運転は43歳の脳梗塞で入院するまで

継続するのでした。20年長い期間です。

 

次は「第32章 独立記念能」です。

https://ameblo.jp/yuji-nohgaku/entry-12598893257.html

 

生まれる前

第01章【誕生前】 選んだ家庭
第02章【 0歳 】 誕生

幼少期

第03章【  2歳  】 トイレに落ちるのをこらえていた
第04章【 4歳 】 幼稚園に送迎なしで通っていた
第05章【 4歳 】 祖母にコップで殴られる
第06章【 4歳 】 祖母に仕返しをする
第07章【 4歳 】 茶化されるのが嫌い
第08章【 4歳 】 ブランコの鉄パイプが顔に刺さる
第09章【 4歳 】 本をひたすら開いていた
第10章【 5歳 】 世田谷線を止める

小学生

第11章【 6歳 】 小学校初登校
第12章【 9歳 】 弟の病気
第13章【 9歳 】 柔道を始める
第14章【 10歳 】 給食着の紛失
第15章【 10歳 】 光に包まれる

中学生

第16章【 13歳 】 父が亡くなる
第17章【 13歳 】 ギターを始める
第18章【 14歳 】  国士舘大学の柔道部にゆく
第19章【 15歳 】 天敵が現れる

高校生

第20章【 15歳 】 サッカー部に入る
第21章【 17歳 】 交通事故
第22章【 18歳 】 柔道大会で優勝する
第23章【 18歳 】 ビンテージギターを手にする
第24章【 18歳 】 テンプル大学とのご縁
第25章【 18歳 】 引っ越し
第26章【 18歳 】 衝撃の初月給

大学

第27章【 18歳 】 テンプル大学「卵」と「バナナ」
第28章【 18歳 】 アメフトを始め防具を譲り受ける
第29章【 19歳 】 失恋劇場は上手ばかりではない
第30章【 19歳 】 座間キャンプで英語が通じない
第31章【 19歳 】 小鼓を初めて見る
第32章【 19歳 】 休学する
第33章【 20歳 】 国立能楽堂に願書提出

国立能楽堂研修生

第34章【 20歳 】 国立能楽堂の試験
第35章【 20歳 】 人生を決めた一冊「行動学入門」
第36章【 21歳 】 国立能楽堂の稽古とアルバイト

内弟子

第37章【 23歳 】 20年の運転が始まる

独立

第38章【 32歳 】 独立記念能
第39章【 41歳 】 演奏家の妻と結婚
第40章【 42歳 】 娘が誕生
第41章【 43歳 】 舞台から集中治療室に運ばれる

退院後

第42章【 43歳 】 退院後に待っていたもの
第43章【 43歳 】 いのちの電話
第44章【 44歳 】 野菜自給生活
第45章【43~47歳】社会勉強勉強でセミナー通い
第46章【 44歳 】 自分を変えなければ何も変わらない
第47章【 47歳 】 重要無形文化財能楽保持者の認定
第48章【 47歳 】 初出版『ビジネス版「風姿花伝」の教え』
第49章【 49歳 】 読書の習慣化
第50章【 50歳 】 神社とお寺に立ち寄る習慣

まとめ

これから