どこに消えた??
2歳の時の出来事だそうだ。
当時、実家のトイレはまだ汲み取り式だった。
遊んでいて声がしなくなったので
どこに行ったか探しても見つからなかった。
ハッとトイレの中に落ちたかと家族が気が付き
トイレを開けてもいない。
なかに落ちたかと穴の中を見てみると
穴に落ちないように頭と足をつっぱらせていた。
手の届くところだったので
下には落ちずに救い出されたらしい。
2歳の子にそんなことができるのか
あまり信じられないので
大げさに盛られているのではないかと思っている。
また物心ついたときに、
繰り返して聞いていたので
家族にとっても印象的な出来事だったようだ。
自分には全く記憶がないので、
普段思い出すこともない。
自分史に取り組まなければ
風化してしまった思い出です。
自分の子どもは
なにか特殊な能力があってほしいという期待は
多少なりともあったのではないかと思う。
幼少期はかわいがられますし
必要以上に大きな期待をかける物かもしれない。
少し大きくなって、
小学生以降に掛けられる言葉は
否定的なもののほうが多くギャップを感じている。
この話を聞いて
幼少期の私が一番気にしていたことは
トイレの下まで落ちてなかったかと言うことだった。
助け出されたことよりも
本当は下まで落ちて糞尿まみれになっていたら
どうしようとすごく気にしていた。
小学生のことは
えんがちょなどといって一度でも
汚い物に触ったら一生汚れがつきまとうような
変な思い込みのある時代だった。
それなので
下まで落ちていないかどうかものすごく気にしていた。
小学校に入ると
実際にそんなことができるのか何度か試してみた。
といってもトイレに入ったわけではない。
狭い隙間があると
頭と足をつっぱらせて踏ん張ってみる。
小学校低学年くらいでは
2歳の時より
体も重くなったわりには筋力はない。
10数えるくらいしか体を支えられなかった。
もしそのくらいの時間で
すぐに見つけてもらえたとしたら
テレパシーでも飛ばして
知らせたのではないかと思っていた。
いまから思うと祖母、
両親も冗談も混じっていたかもしれない。
他のことで「信じたの?」なんていう
からかいをされると激昂して泣いていたように思う。
事実はどうであれ
小さいときには、なにか危ないところを
救われているということは否定のできない
事実だと思っている。
確認のしようもないことなので
「なにか」があった
それを助けてもらったという事だけは受け取っている。
正確な事柄がわからないが
家でお世話されていたのは事実です。
それなので
聞いた話を素直に受け取り
素直に感謝すれば良いのではないかと思うようになった。
否定して何度も聞き返すよりは
「そうだったんですね。ありがとうございます。」
といっている方がスッキリする。
次は 第4章 幼稚園に送迎なしで通っていたお話です。
ここからは記憶がはっきりしてくるので現実の話が中心になってきます。
送迎なしは何かと長く影響することになります。
https://ameblo.jp/yuji-nohgaku/entry-12598921948.html