合格した!!生活はどうする??

人生大変なときも楽にうまくいくときもある物です。

風向きがいいときもあれば

逆風が吹くときもある。

 

 

第36章は、

きついと感じても一生続くわけではない。

いつまでと期限を区切ったら

きついときは味わってみるのも対処法のひとつだと学んだお話です。

 

 

国立能楽堂に合格したものの収入はありません。

合格と行っても仮合格のようなものでした。

 

一通りの基礎研修をして、

半年後に適性試験に合格すれば

正式に研修生になります。

 

5月の試験の後は6月にこれからの説明が

ありすぐにお休みでした。

 

授業は8月から始まりました。

実際は半年をまたず11月に適性試験がありました。

 

このときは第一希望 小鼓、第二希望 狂言で試験を受けました。

小鼓を選んだのは理由がありました。

 

 

3ヶ月の基礎研修で、

謡、笛、太鼓、脇、狂言、の稽古を体験しました。

 

わからないながらも

それぞれが舞台でどんな役割なのか程度はわかりました。

 

私は20歳なので

同世代の能楽師はすでに舞台に出演しています。

 

マラソンだったら先頭が20kmまで行っているときに

スタートするような物です。

 

元来、私は勤勉な方ではありません。

舞台に関わるところが少ない物を選んだら

自分に関係するところしか勉強しないかもしれない。

そんな危機感がわいてきました。

 

小鼓を選ぶ

そこでよくよく調べてみると

舞台に一番広く関わるのが小鼓だったのです。

 

基礎研修で大鼓はありませんでした。

大鼓があったとしても小鼓を選んだと思います。

 

通常の能でははじめから終わりまで打つ部分があります。

「翁」という曲も前半は小鼓が中心になります。

 

しかも小鼓は大鼓、太鼓の

手組みの変化を受けて打つ手組みを換えます。

 

ですから小鼓の稽古をしているときに、

大鼓、太鼓がどう変わるかを

知ることになります。

 

覚える負荷は多いですが、

他の稽古に行くときに0からでないことは

自分には大きなメリットでした。

 

このあたりで音が大きくなるとか

予備知識があって稽古できます。

 

 

そんな訳で成人してから能楽を始める

怠惰な性格の私にとって

小鼓をえらんで広く学ぶのが

最適という結論になりました。

 

実際30年以上たってみて

やはり小鼓を選んで良かったです。

 

 

一番広く覚えるところが多い小鼓を選んだので

当然、日々の課題は山盛りです。

 

しかも舞台の事は

何も出来ませんから

舞台収入はありません。

 

研修も10時から17時30分まで

詰まってますから

終わってからアルバイトをすることになります。

 

新聞奨学生をしていたときからの習慣で、

B5の大学ノートの罫線に

1から31まで数字を書き入れて

横のドットを目安に縦に線を

引き24時間の枠をつくりました。

 

はじめは渋谷の飲食店でバイトでした。

このときに岡本太郎さんが常連でした。

 

4歳の時に「太陽の塔」を見てから

実際の作者と話が出来るのは感動的でした。

 

研修が始まったときは時間もおおよそ決まっていたので

スケジュールが立てられました。

 

食事もでるので新聞配達しているよりは

集金ノルマもなく快適でした。

 

それもしばらくの事で楽屋に入るようになると

研修の授業に加え土日もない状態になりました。

 

東京湾のシンフォニーにも1年くらいのりました。

 

定期的なアルバイトは不可能になり

家庭教師の電話営業、

能率給の携帯電話の営業などもしました。

 

アポイントは飛び込み営業よりは

ストレスがないのでまあ良かったのです。

それでも好きな時間で急に行くというわけにはいきません。

 

24時間営業やってみました

そんなときに

中日のピッチャーだった板東英二氏が

24時間アルバイト掛け持ちしていたと

話しているのを聞きました。

 

 

本当にそんなことができる半信半疑でしたが、、、。

一度はそんなことも試してみようと思い立ちました。

 

 

国立能楽堂の稽古は

10時から17時半までだったので

その後から

10時の稽古開始まで長く続けられそうなものを

いくつか選んで組み合わせてみました。

 

急に入っても大丈夫な

高校の時から縁のあった掃除のバイト。 

 

しかし夜はどうした物かと思っていたところ、

ヤマト運輸の配送場の夜勤がありました。

 

これはなかなかよい体験になりました。

何しろ名前で呼ばれないのです。

ゼッケンをつけて番号で呼ばれます。

「さんじゅうななばーん、こっちきて」という感じです。

 

この名前がなくなる経験はすごいですね。

刑務所に入るとこんな感じなのかと、

小学校4年生の時の護送車の中を思い出しました。

https://ameblo.jp/yuji-nohgaku/entry-12598907164.html

 

ゴルフバックやワイン、スイカは結構壊れてました。

 

仕事内容で時給も違いました。

一番時給が高いのが、クール宅急便の

冷凍の大きなカートを仕分けすることでした。

 

これもやってみました。

 

「昨日来てた人指切っちゃったね~」

 

などという話が普通に飛び交う場所でした。

切ったというのは切り傷ではなくて切断という意味です。

 

ステンレスの大きな冷凍庫が

バンバン飛んできますから挟んだら指切断です。

 

これは少々時給が良くても

小鼓を打てなくなるので本末転倒です。

 

筋トレ好きの人にはいいかもしれないですが、

研修終わってから次の朝までですからリスクは高かったです。

そんなこともあり最終的には伝票事務にしてもらいました。

 

ただ倉庫作業は、

慢性的な人手不足でした。

 

それなので

当日電話で申し込めばいけたのがありがたかったです。

 

研修が10時から17時30分、

終わって20時から次の日の8時まで12時間拘束でした。

 

あさ終わると早めに千駄ヶ谷の国立能楽堂にきて

稽古の準備をしてまた10時から稽古、

楽屋に行くときは楽屋で勉強。

 

おかげさまで板東英二氏の話していたような

24時間営業を体験することが出来ました。

 

もうしたくありませんが、

人生においては貴重な体験でした。

人生に失敗がなければ人生を失敗する」という言葉があります。

時間の切り売りの限界を味わえたのは大きな経験です。

 

大変な中でも、

食事と朝の風呂に貸し切り状態で入れることは嬉しかったです。

毎日温泉気分でした。

 

まだ20代前半ですから

仮眠だけで何ヶ月も倒れることなく過ごしてました。

 

ここから20年たって脳梗塞で入院する事になりますが

このときは想像もつかないことでした。

 

ただ

「20代の無理は40になってくる」

ということはよく耳にはしていましたが

当時の私に時間配分を変える選択肢はありませんでした。

 

この時期学んだこと

一番きつかったのは曲を覚えることでしたね。

小鼓の稽古は本を見ながらではありません。

覚えた所を見てもらうことになります。

 

当然、仕事中には覚えられないので

トイレに行くときや休憩時間に

本を見て覚えます。

その時間で大量に覚えることはきつかったですね。

 

それでも、人間の順応性はすごいものです。

生活基盤をなくすことが

できないと諦めがつくと

そんな環境でも隙間時間を見つけて

勉強するようになってきます。

 

それなので

いつもトイレが長くなる。

用を足さなくても一時間に一回は

トイレに行って本を広げて覚えていました。

 

そんなこともあって

記憶するということの大変さは

身に染みました。

 

この時点で文章の味わいは

全くなかったです。

丸暗記です。

 

食事もできるだけ時間を短く丸呑みです。

 

そんなこともあって

脳梗塞後になりますが

アクティブブレインセミナー記憶術を

50回ほど自分で主催しました。

 

またこの時期、

アルバイトでいろいろな所に行きました。

 

精神病院の清掃、

産婦人科の分娩室、

養護施設ではダウン症の年寄りが7人のこびとのように

歌いながら歩いているのを見ました。

 

そのときの現場責任者が

「みんな親と連絡取れなくなってここで死ぬんだよ」

と言われたのは衝撃でした。

 

実際に能楽の中の登場人物は

不条理の中で苦しみ救いを求めているキャラクターが多いです。

この時期に時代と環境は違いますが、

そんな不条理の世界をたくさん勉強できたと思います。

 

倉庫作業は月給でも受け取れるのですが、

その日払いもありました。

 

切羽詰まったときは

早朝に大森交差点の事務所に行くと

日給をもらうことが出来ました。

 

このときに、

何度か顔を合わせる同性代の若者がいました。

 

スキンヘッドだったので

ちょっと危ない人かと思っていました。

 

あるとき、「何してるんですか?」

ときいたら「僧侶です」と答えが返ってきました。

 

事情があって近々にお金がいると話していまいた。

お互い社会の役にたちたいですねと話したことを覚えています。

 

その時々に経験することは

自分の人生にとっては

意味のあることだと思います。

 

今になって思えば、

きつかったが生きてる手応えを感じる時間でした。

 

今きつい人も

今の経験が役に立つときが来ます。

 

きつかったら味わう。

そんな考え方が生まれたのもこの時期の経験からです。

 

さて次は「第37章 20年の運転が始まる」です。

このアルバイトも序章にしかすぎませんでした。

https://ameblo.jp/yuji-nohgaku/entry-12598893457.html

 

 

生まれる前

第01章【誕生前】 選んだ家庭
第02章【 0歳 】 誕生

幼少期

第03章【  2歳  】 トイレに落ちるのをこらえていた
第04章【 4歳 】 幼稚園に送迎なしで通っていた
第05章【 4歳 】 祖母にコップで殴られる
第06章【 4歳 】 祖母に仕返しをする
第07章【 4歳 】 茶化されるのが嫌い
第08章【 4歳 】 ブランコの鉄パイプが顔に刺さる
第09章【 4歳 】 本をひたすら開いていた
第10章【 5歳 】 世田谷線を止める

小学生

第11章【 6歳 】 小学校初登校
第12章【 9歳 】 弟の病気
第13章【 9歳 】 柔道を始める
第14章【 10歳 】 給食着の紛失
第15章【 10歳 】 光に包まれる

中学生

第16章【 13歳 】 父が亡くなる
第17章【 13歳 】 ギターを始める
第18章【 14歳 】  国士舘大学の柔道部にゆく
第19章【 15歳 】 天敵が現れる

高校生

第20章【 15歳 】 サッカー部に入る
第21章【 17歳 】 交通事故
第22章【 18歳 】 柔道大会で優勝する
第23章【 18歳 】 ビンテージギターを手にする
第24章【 18歳 】 テンプル大学とのご縁
第25章【 18歳 】 引っ越し
第26章【 18歳 】 衝撃の初月給

大学

第27章【 18歳 】 テンプル大学「卵」と「バナナ」
第28章【 18歳 】 アメフトを始め防具を譲り受ける
第29章【 19歳 】 失恋劇場は上手ばかりではない
第30章【 19歳 】 座間キャンプで英語が通じない
第31章【 19歳 】 小鼓を初めて見る
第32章【 19歳 】 休学する
第33章【 20歳 】 国立能楽堂に願書提出

国立能楽堂研修生

第34章【 20歳 】 国立能楽堂の試験
第35章【 20歳 】 人生を決めた一冊「行動学入門」
第36章【 21歳 】 国立能楽堂の稽古とアルバイト

内弟子

第37章【 23歳 】 20年の運転が始まる

独立

第38章【 32歳 】 独立記念能
第39章【 41歳 】 演奏家の妻と結婚
第40章【 42歳 】 娘が誕生
第41章【 43歳 】 舞台から集中治療室に運ばれる

退院後

第42章【 43歳 】 退院後に待っていたもの
第43章【 43歳 】 いのちの電話
第44章【 44歳 】 野菜自給生活
第45章【43~47歳】社会勉強勉強でセミナー通い
第46章【 44歳 】 自分を変えなければ何も変わらない
第47章【 47歳 】 重要無形文化財能楽保持者の認定
第48章【 47歳 】 初出版『ビジネス版「風姿花伝」の教え』
第49章【 49歳 】 読書の習慣化
第50章【 50歳 】 神社とお寺に立ち寄る習慣

まとめ

これから