引っ越しの準備
第25章は
人は追い込むと
思わぬ行動に出るという事を学んだ体験です。
このころ、
私は家を出たくて仕方がありませんでした。
そんななか
高校三年間アルバイトで通った
中目黒に新聞奨学生があることを知りました。
アルバイトの帰りに立ち寄って
話を聞いてみると学費も全部確保できそうです。
大学はといえば、
高校からの推薦で試験は受かったものの
学費は出してもらえない状況でした。
いくつか新聞社を調べてみると、
朝日新聞は必要な学費が
全額出ることがわかりました。
1月31日に高校の授業も全部済んだので
家のはんこを押して
履歴書を作り面接にいって合格しました。
家の中で怒鳴り声が飛びかう割には食事が出てくる。
食事が出来るのは感謝するとことです。
しかし当時の私はこの環境にいると
本当に自分がダメになる恐怖で包まれていました。
そう思いながらも
1月31日に高校の授業が終わってから
家にはいないで遊び回っていました。
毎日、夜中に帰ってくるよな状態です。
そんな合間に新聞奨学生の話をまとめました。
引っ越しは4日後の2月4日にしたが
母には黙っていました。
引っ越し当日は
その後も夜中帰りで、
2月2日に
「もういい加減にして出てって」
といわれたので
「はい、そうします」
といってそのまま過ごしていた。
引っ越しの前日も遊び歩いて、
親戚の家に泊めてもらいました。
そして、朝になりました。
一度家に帰ってからでは営業所にいく
約束の時間に間にあいません。
それなので直接、中目黒に向うことにしました。
引っ越し前日には支度をするつもりでしたが
そんな状態なので全く何もしていません。
荷造りも準備もしていません。
それで新聞の営業所に
行き車に乗せてもらい実家に戻りました。
全く準備はしていなかったので
梱包もせずにどんどん荷物を
トラックに積み込みました。
また怒鳴られるかと思いましたが、
母は泣きながら手伝ってくれました。
きっと引っ越すことはもうわかっていたのだと思います。
そのとき思っていたこと
ほんとに家にいるのがいやで
早く自分で決めた人生を進みたいと思っていました。
もう一つ大きな要因は、
繰り返しになりますが、
幼少の時から殴ったりやけどをさせられたり
怒鳴られたりはするが、
最後には家に入れてくれて
ご飯を食べさせてくれることでした。
5歳くらいの時に
「出てきなさい」と言われて、
そのつもりで外にいたら夕方になって
「入ってきなさい」と言われました。
これを繰り返すうちに、
母の言葉の有効期限は
5時間くらだと計算するようになっていたのです。
かわいげの無い子どもです。
そして、模型など完成するまでで、
楽器などきるまで繰り返したいと思っていても
現状批判だけで「どうせできない」と始まる。
そして食事が出てくる。
実はこれは甘い環境なのではないかと思うようになっていました。
動物園にいる動物のように
ずっとだらっとしている。
いい加減このままうちにいたら
人間だめになるという危機感がほんとに限界でした。
母は父親を尊敬していたこともあり、
とにかく会社員至上主義でした。
またことごとく母の提案は
自分が気乗りしないものばかりでした。
単に反抗的だったのかもしれません。
そして自分の依存心の強さもよく知っていました。
地道に計画を立てて決めたタイミングで
やるというのはこのときからかもしれません。
このときは、
とてつもない歪んだ発想をしていました。
母に対する反発心から、
育て方を間違っていたとわかってもらうために
いかにだめになるかということばかり
日々考えていました。
また変に本をたくさん読んでいたので、
母が一番ダメージを受けるのは
反発よりも無視だろうと思いつき
とにかく連絡するのはやめました。
「成功するまで帰ってくるな」
という映画の台詞のように
自分に酔っているところもありました。
新聞配達は、
親に反発して出て行くような自分にとって
ちょうどよい環境だと自虐的な満足もしていたのです。
そして、年季奉公も2年と決めていました。
なんとかその2年で
何かをしないといけないという
漠然とした思いだけが空回りしてました。
あまりにも速く環境が変わったので
人は追い込むと思わぬ行動に出るということを学びました。
これ以後、
周りの反骨心のありそうな人は
追い込まないように気をつけています。
次は「第26章 衝撃の初月給」です。
聞いていた月給でなんとかなると思っていた初の給料は、、
社会の仕組みを知らなかったという学びになりました。
https://ameblo.jp/yuji-nohgaku/entry-12598902676.html