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・『歴史』を その身にしっかりと

 

 

2 関東大震災と白色テロ

 

━今もなお潜む集団妄想を清算するために

 

一九二三年九月一日の関東大震災━一〇万人が死に、三〇万戸が焼け、東京市民の七割が被災した大災難である。だが、日本歴史の上で、ぬぐい去ることのできない、ひとつの恐ろしい罪業を記録した。

 

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『1923년 간토대지진 당시 거짓 보도와 경찰 및 자경단의 조선인 학살. <1923年 関東大震災当時の虚偽報道と警察また自警団の朝鮮人虐殺>』

 

(반도에서 온 조선 난민들 품은 일본 교회[일본 기독교 현장에서] 탄고미야즈교회 이야기<半島からきた朝鮮難民をかくまった日本の教会[日本キリスト教の現場から]丹後宮津教会のエピソード)

 

https://www.newsnjoy.or.kr/news/articlePrint.html?idxno=218582

 

 

『▲ 도쿄 아자부 근처 재향군인단과 자경단. 아이들도 봉을 들고 무장했다.<▲東京麻布近郊 在郷軍人団と自警団。子どもたちも竹槍を持って武装した>』

 

출처<出典>: https://qq9447.tistory.com/179 [이 풍진 세상에]

 

それは混乱に乗じた軍隊や警官や自警団の、朝鮮人数千名の虐殺と、社会主義者と労働組合員への謀殺だった。

 

われわれが歴史上の史実を記述してセンサクするのは、誤った過去の罪業や謀略や幼稚性を分析して、教訓を得るためである。そのためにも、史実の原点状況を、確実に把握し、認識することである。本題を考察する上で、すくなくとも八項目を要するであろう。

 

が、限られた紙面なので特色的な事例のみを記しておきたい。

 

 

震災の状況

 

 

九月一日の夜明けに激しく雨が降り、十一時ごろに空がにわかに晴れると熱気に帯びた風が吹いた。そして正午二分前<11時58分ごろ>に、家が揺れる。これが七、八分と続き、揺れ幅は一三センチから二〇センチもあり、さらに上下に激しく揺れた。

 

そして二度目と三度目の大震動が起きたとき、東京の密住地に火の手が上がった。

 

 

『300명의 목숨을 살린 한 남자<300人の命を助けたひとりの男>』記事より

 

http://www.inven.co.kr/mobile/board/powerbbs.php?come_idx=2097&l=850993

 

ちょうど午食の炊事支度の時刻であり、多くは薪を燃やしていた。

 

警視庁の火の見やぐらの消防手の報告では、自身から一〇分のあと、七〇ヵ所に火の手が上がり、十二時ニ十分には三〇〇ヵ所に増え、それ以上は数えることができなかったという。

 

こうして東京・横浜の市街は、うちつづく余震とともに火炎の海となった。

 

かくて逃げおくれて焼け死ぬ者、倒壊する建物の下敷きとなった者、避難したものの風にあおられた火に焼け死ぬ者が続出し、東京を貫いた川には黒こげの死体が点々と浮くほどだった。

 

川の船まで焼けたという。

 

もっとも犠牲者の多かったのは工場の密集した本所・深川地区で、ことに城のような壁に囲まれた紡績工場に幽閉されていた女工の群れが、逃げ場を失って焼死したという。

 

こうしたなかで一帯の数万の住民が、安全地帯とみた空地━公園を造成中の被服廠<ひふくしょう-

 

下士官以下に支給する軍服類を造り、整備しておく、軍の役所>の跡地(約八万平方メートル)に避難したものの、おりからの旋風にあおられた飛火<火災旋風>に襲われ、一度に三万八千余人が焼け死んだ(ここで奇跡的に助かった生存者八人が一昨年=一九七二年=現地で初めて顔合わせし「一二九<ひふく>会」━大正十二年九月の被服廠の意━をつくった)。

 

東京と横浜市街は一日から二十日夕方にかけて燃えつづけるなかで、ところどころの工場と薬品倉庫が大音響とともに爆発する。さながら戦場の爆弾の音である。燃え上がる炎と大爆音のなかを互いに呼び合って喧噪のルツボにひしめいた避難民衆は、否応なく恐怖のどん底に陥った。

 

上野公園に群がった避難民は五〇万を数え、このうち臨月の婦女子で一夜に七十余の産児があったという。

 

震源地に近い横須賀軍港では、二年分を貯蔵した鶏群の軽油倉庫が爆発し、全市が震えて燃え上がった。横浜は東京よりも凄惨な状況で、残った建物といえば正金銀行と波止場の倉庫など数える程度であった。

 

ところが、九月一日の夕方、燃え上がる巷に、降って湧いたようなデマ(官憲側が用意した用語では「流言飛語」が広まった。)

 

「鮮人が火をつけて歩くぞ」「<共産・社会>主義者が暴動を起こすそうだ!」と(当時の官憲は“社会”という言葉を禁句とした)。

 

※<>は筆者註

 

『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社 35~37頁より

 

 

・虐殺の「確信犯」であった 政府(軍)やマスコミ

 

 

『▲ <매일신보>(1923.9.10.)가 ‘조선인 폭동설’을 보도하고 있다.<▲毎日新報>(1923年9月10日)が‘朝鮮人暴動説’を報道している』

 

출처<出典>: https://qq9447.tistory.com/179 [이 풍진 세상에]

 

この凄惨なる出来事の系譜をたどると、政府とマスコミが「結託していた」事実が浮き彫りとなります。

 

邪な目的のもと、租税乱造したデマ工作により、帝国主義下の『皇国史観』教育により、洗脳しつくした民衆を動員して、朝鮮人や中国人、さらには当時のリベラル派日本人を「スケープゴート」にした所業は、この先も決して忘れてはならないこととして、未だ日本人の『決定的弱さ』である「差別意識」「歴史的無関心」を抱えたまま、その「引き金(契機)」は多種多様で、いつ何時や集団心理に駆られてもおかしくないと、私自身は危惧し続けている。

 

ひとたび『戦争状態』が起きれば、「何でもありの状態」となり、日本が愚かで不遜な態度で、北東アジア諸国に「敵意」や「不信」を抱くかぎり、仮に朝鮮半島との有事が、アメリカ経由で引き起こされれば、日本人はその都合の良い「鉄砲玉」として、虐殺なり、略奪・破壊行動なり、「本当の支配者たち」から利用されつくされ、やがては自身らの『破滅』を招く結果となるだろう。

 

ゆえに、私は声を大にして、現代の政治状況の「本質」である、近代史における「日本の過ち」をしかと見届け、それを脳に刻み、この先の未来のための『教訓』として、アジア地域の真の安定と平和づくりに役立てる「ひとつの素材」として、これからも記事を書き続けていくでしょう。

 

 

<参考資料>

 

・『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社

 

 

<ツイッター>

 

【歴史学を学ぶ大切さを伝えるブログ(ふーくん)】

 

https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As

 

 

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