日本橋から京都の三条大橋までの東海道五十三次を踏破した思い出を忘れないために、、、
という事で書き始めた旅歩きの記事。
東海道五十三次としては19日目になります。
2014年10月26日
大津市街地を過ぎて少し行くと旧東海道はJR東海道本線(琵琶湖線)を越える。
東海道本線はそのままトンネルへ。
蝉丸跨線橋(上関寺トンネル)
今でも使用されているレンガ造りのトンネルです。
このトンネルは「線路の下に掘られたトンネル」としても有名で、先に開通した京阪京津線が上を通っています。
道路沿いから撮った蝉丸神社下社の入口
社殿はこの奥にあります
お参りしている方が結構いらっしゃったので下社社殿前にある建物を撮って退散。
近くには小町塚がある。
平安時代の歌人で六歌仙の一人でもある小野小町がこちらで暮らしていたとの言い伝えもあるとか。
いつの日か機会があればゆっくりと蝉丸神社三社を参拝したいです。
逢坂(おうさか)
百人一首の第十首
蝉丸
『これやこの 行くも帰るも別れては 知るも知らぬも 逢坂の関』
で有名な逢坂です。
※逢坂の関はもう少し先です
「日本書紀」によれば、神功皇后の将軍・武内宿禰がこの地で忍熊王とばったりと出会ったことに由来すると伝えられています。
この地は、京都と近江を結ぶ交通の要衝で、平安時代には逢坂関が設けられ、関を守る関蝉丸神社や関寺も建立され和歌などに詠まれる名所として知られました。
旧東海道はこの先で国道1号線と合流する。
合流後は歩道が左側にしかないので国道と京阪京津線の間を歩くことになる。
久しぶりに見る国道1号線のキロポスト
東京の日本橋から486km地点
名神高速道路をくぐり抜けると山側に石段と赤い鳥居が見える。
こちらが関蝉丸神社上社である。
逢坂山関址
石碑の近くの解説板がありました。
逢坂の関
逢坂の関の初出は、平安京建都の翌年延暦14年(795)に逢坂の関の前身が廃止されたという『日本紀略』の記述です。
その後、逢坂の関は京の都を守る重要な関所である三関(鈴鹿関・不破関・逢坂関)のひとつとして、弘仁元年(810)以降、重要な役割を果たしていましたが、平安後期からは徐々に形骸化されその形を失ってきました。
逢坂の関の位置については現在の関蝉丸神社(上社)から関寺(現在の長安寺のある辺り)の周辺にあったともいわれてますが、いまだにその位置は明らかになっていません。
逢坂関の址の石碑を過ぎると旧東海道は一時的に右側道へ逸れる。
江戸時代からある峠茶屋で、明治5年(1872年)に創業した”日本一のうなぎ 逢坂山かねよ”で食事をしたかったが、お昼時だったためとても混み合っていたため「いつの日か再び訪れた際には是非とも味わってみたい」と誓い泣く泣くスルー。。。
その先には蝉丸神社分社がある。
すぐそばには京阪京津線の大谷駅がある。
10年前に私が通った時とは違い、今は世界的に大谷翔平ブームだからこの駅もブームにあやかっているのだろうか!?
※当然、、、駅の画はありません(笑
短い距離の旧道から国道1号線に戻ります。
歩道橋を渡り歩道がある左側へ。
(画は東方面)
国道1号線のキロポスト
東京の日本橋から487km地点
歩いて来た道を振り返ってみた。
この辺りは、国道1号線・京阪京津線・名神高速道路が並走するエリア
月心寺
月心寺は江戸時代は走井の茶屋だったそうです。
走井の井戸があり溢れんばかりの湧き水が当時の旅人の喉を潤してきたと言われています。
茶屋の頃は走井の水を使って餅をついて旅人に振舞ったのが走井餅の始まりだと言われています。
走井餅は六代目から京都の石清水八幡宮の門前町に移転。
移転後の跡地を大正時代に日本画家の橋本関雪(はしもとかんせつ)が買い取ったが、没後寺となった。
走井一里塚がこの辺りにあったとされている。
今はこの石碑だけが残されている。
江戸日本橋より123里
名神高速道路が上を通るこの立体交差地点で国道1号線のキロポストを発見!
東京の日本橋より488km地点
このキロポストが東海道五十三次踏破の旅の最後のキロポストで見納めになりました。
旧東海道は国道1号線追分町の歩道橋手前を左に入る。
目印は交番。
交番から少し歩いたところにこのような地域表示板がある。
ちょうどココが京都市と大津市の境になる。
この先200m程は境界線上を歩くことになる。
ただただ、、、ひたすら一人で山科方面へ歩いていたら民家の軒先にいらっしゃったご婦人が声をかけてくれた。
道中は話し相手もいないので人として会話らしい会話をしていなかったので久しぶりに人と会話する気がしました。
聞けば東海道を歩いている方に励ましの声をかけていらっしゃるとか。
お茶までごちそうになり僅かな時間とはいえ心温まる一時を過ごせました。
お礼を言って出発しようとしたら『これあげるネ!』と言って手作りの飾り付けを頂いた。
背中に背負っているリュックサックのファスナーに付けてくれたので「お守りにします、ありがとうございました」と挨拶をして京へ向かって出発しました。
本当に一人で歩いていて寂しい心が癒され勇気づけられました。
十年もの月日が経ってしまったが色あせることなく綺麗なまま残っています。
いつの日かお礼を兼ねてまたあの道を歩いてみたいです。
まだいらっしゃるのかな・・・
さらに歩いていくと、山科追分とも呼ばれる髭茶屋追分がある。
以前はここに石碑が建立されていたが、私が通った時は建っていたと思われる箇所に赤いコーンが置かれていた。
Googleストリートビューで見る限り、現在は石碑が復活しているみたいです。
追分ですのでここは分岐点で右が旧東海道の三条大橋方面、左は伏見・宇治方面。
東海道五十七次(現在の大阪方面)では大津宿からこの追分で左に行き伏見宿~淀宿~枚方宿~守口宿~高麗橋(京橋)と続いた。
私は東海道五十三次踏破の旅ですのでここを右に行きます。
車石・車道
東海道 大津・京都間三里(約12km)の道には物資を運送する牛車の通行を楽にするために、花崗岩の厚板石が敷き詰められていた。
これが車石で、溝は牛車の頻繁な通行によって擦り削られて、できたものである。
文化二(一八〇五)年には、画期的な車石敷設工事が行われ、歩車道分離が整備された。
この付近は、京に向かって右側が車石の敷かれた車道で、左側は人や馬の通る人馬道であった。
人馬道は、旅人の安全の確保のために、一段高く設けられていた。
境内には当時の状況を一部復元して保存している。
旧東海道は国道1号線バイパスを越える歩道橋があってそこを渡るのだが、私は勘違いをして手前の歩道橋に行ってしまい井筒八つ橋本舗追分店の方に行ってしまい10分程ロスしてしまう。
国道1号線と国道161号線の分岐付近を歩道橋で越える。
画は東を臨む。
ここから先が京都市。
東京ー神奈川ー静岡ー愛知ー三重ー滋賀と歩いてきて最後の京都に入る。
徳林寺
旧東海道沿いに建つ寺院で1157年に後白河天皇の勅令により、京の都の主要街道六箇所に安置された地蔵のうちの1体が安置されている。
山科駅前交差点
この日はここまで。
時刻はまだ14時でここまま三条大橋まで行こうと思えば十分に行く事が出来たけど予約しているホテルがある大津まで電車で一旦戻ります。
実は、京都にお住まいの知人に連絡をしてあって東海道五十三次踏破の旅の最後の区間をご一緒してくださることになっていました。
そんな理由から宿を大津駅近くに取っていたのだが、あまり長距離を歩き慣れていない方に対して10km近くの距離を歩かせる訳にはいかないので山科~三条大橋までを一緒に歩くことにしました。
JR大津駅に戻ってきました。
大津駅の1・2番線ホームには北緯35度モニュメントが設置されている。
地球儀上に記された北緯35度の線
北緯35度線と大津駅の解説版
大津駅は、北緯35度線上に位置しています。
線上を東の方向に進むと千葉県千倉町で太平洋に出、アメリカ大陸ではオクラホマシティー、メンフィスなどの都市を通り、地中海のクレタ島、キプロス島を横断し、バクダッド、テヘランの2つの首都、チベット高原、西安の北方を通過し、島根県江津市で再び日本に上陸し、この大津駅に戻って来ることができます。
(一部抜粋)
☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆☆
2014年10月27日
東海道五十三次としては20日目になります。
前日夜に京都の知人と合流できたので、大津駅から山科駅まで電車で移動し山科駅から再出発。
五条別れ道標
石碑には「右ハ 三条通」「左ハ 五条橋 ひがしにし六条大佛 今ぐまきよみず 道」「宝永四丁亥年十一月吉日」と刻まれています。
「ひがしにし」とは東本願寺・西本願寺を表しているそうです。
この先に京都薬科大学があるので通学時間帯に当たってしまったみたいで大学生の方々と思われる方々が多かったです。
JR東海道本線のガードをくぐり少し行くと右手に天智天皇御陵入口がある。
旧東海道は、御陵入口から道挟んで向かい側の遊歩道を入っていっても良いが遊歩道の途中を左に曲がるので間違いやすいから遊歩道を使わずその先に左へ逸れる小道があるのでそちらからの方が迷わない。
細い道をしばらく進むと一時的に僅かに道が広くなる。
ここら辺に御陵一里塚があったとされているが現在は何も痕跡が無い。
江戸日本橋より124里
道も細くなだらかな上り坂が続く旧東海道。
この先に亀の水不動尊があるが場所が判りづらく旧東海道沿いではなく細い道?みたいなところを左に入っていく感じ。
三条通に出るとここにも車石があった。
暫くの間、なだらかな上りの道が続く三条通
三条通も下り坂になり峠を越した感じ。
この先は京都市街地になり三条大橋までもあと僅かの距離まで来た。
蹴上浄水場が左手に見える。
浄水場先の蹴上交差点で旧東海道近くの南禅寺で休憩。
蹴上駅近くに煉瓦造りのトンネルがあるが上には琵琶湖疎水が流れている。
ここを通って南禅寺へ。
南禅寺の山門
風情があり立派で見とれてしまいます。
「絶景かな、絶景かな」と言ってしまいそうですね。
再び蹴上交差点に戻り西へ向かいます。
画は蹴上方面を振り返り山々を眺めたところ
もうすぐ三条大橋
旅の途中の画はこれで最後。。。
三条大橋の東詰で全国に勤皇を訴えながら旅をした高山彦九郎が御所を拝んでいる。
遂に三条大橋でゴールしました!
三条大橋の解説版
旧三条大橋の石柱
京の高札場
石柱や高札場の解説板は三条大橋の西側にあります。
三条大橋の西側のほとりには東海道中膝栗毛の弥次さん喜多さんの像がある。
口にはタバコが咥えられていた。
こういうイタズラは絶対にやめてほしいと切に願う。
美しい鴨川の風景と遠目に見た三条大橋
最後に、、、
三条大橋を渡ろうとポーズを取る私(恥笑
((サービス画像))
※同行してくださった知人に撮っていただきました
大津宿~三条大橋までの9.8kmを足掛け2日で4時間半掛けて歩きました。
三条大橋に到着したので東海道五十三次踏破の旅はこれで終わります。
2020年1月から書き始めた東海道五十三次踏破の旅路もこれで完結。
書き始めた当初は一ヶ月に2話を目標にして2年半で完結させるはずだったが、、、捕らぬ狸の皮算用的な曖昧な考えが裏目に出て結局予定の2倍の4年10ヶ月も費やしてしまいましたことをお詫び致します。
そして、最後の山科~三条大橋までの区間をご一緒してくださった知人に御礼申し上げます。
・・・届かない声だと判っていますが日本橋~袋井まで一緒に苦楽を共にしたQさんありがとうございました。
虹の橋を渡った後も天国で私の行く末を見守ってください、もうチョット今世で体験した笑い話などを土産話にしてからそちらに行きたいと思うので今しばらくお待ちくださいマセ。。。
気力体力が復活した時は東海道五十三次踏破の旅と並行して歩いていた大山街道(矢倉沢往還:赤坂見附(東京)~大山(阿夫利山(神奈川))を綴ってみたいと思います。
このような愚作記事を最後まで読んでいただき厚く御礼申し上げます。
ありがとうございました
<バックナンバー>
第1話 日本橋~品川宿 11.6km
第2話 品川宿~川崎宿 9.8km
第3話 川崎宿~神奈川宿 9.5km
第4話 神奈川宿~保土ヶ谷宿 4.4km
第5話 保土ヶ谷宿~戸塚宿 9.4km
第6話 戸塚宿~藤沢宿 7.7km
第7話 藤沢宿~平塚宿 12.7km
第8話 平塚宿~大磯宿 3.3km
第9話 大磯宿~小田原宿 15.8km
第10話 小田原宿~箱根宿 15.5km
第11話 箱根宿~三島宿 14.4km
第12話 三島宿~沼津宿 6.2km
第13話 沼津宿~原宿 6.1km
第14話 原宿~吉原宿 9km
第15話 吉原宿~蒲原宿 11km
第16話 蒲原宿~由比宿 5.4km
第17話 由比宿~興津宿 10km
第18話 興津宿~江尻宿 4.2km
第19話 江尻宿~府中宿 11.4km
第20話 府中宿~丸子宿 5.3km
第21話 丸子宿~岡部宿 8.5km
第22話 岡部宿~藤枝宿 7.8km
第23話 藤枝宿~島田宿 8.1km
第24話 島田宿~金谷宿 4.4km
第25話 金谷宿~日坂宿 6.5km
第26話 日坂宿~掛川宿 8.6km
第27話 掛川宿~袋井宿 8.3km
第28話 袋井宿~見附宿 6.5km
第29話 見附宿~浜松宿 14.5km
第30話 浜松宿~舞坂宿 11.1km
第31話 舞坂宿~新居宿 4.6km
第32話 新居宿~白須賀宿 6.8km
第33話 白須賀宿~二川宿 5.9km
第34話 二川宿~吉田宿 7.7km
第35話 吉田宿~御油宿 11.1km
第36話 御油宿~赤坂宿 2km
第37話 赤坂宿~藤川宿 9.9km
第38話 藤川宿~岡崎宿 10.7km
第39話 岡崎宿~池鯉鮒宿 11.8km
第40話 池鯉鮒宿~鳴海宿 11.7km
第41話 鳴海宿~宮宿 6.6km
第42話 宮宿~桑名宿 25km
第43話 桑名宿~四日市宿 12.6km
第44話 四日市宿~石薬師宿 12.2km
第45話 石薬師宿~庄野宿 3.3km
第46話 庄野宿~亀山宿 8.5km
第47話 亀山宿~関宿 5.1km
第48話 関宿~坂下宿 5.3km
第49話 坂下宿~土山宿 10km
第50話 土山宿~水口宿 11.8km
第51話 水口宿~石部宿 10.8km
第52話 石部宿~草津宿 10.5km
第53話 草津宿~大津宿 14km