子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -8ページ目

長女と2人で富士登山 1回目【私の内観#10】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

前回、パパ、スキー教えて【私の内観#6】からの続き

 

 

 

長女がまだ5歳の頃、富士登山にチャレンジしました。

 

長女が通っている保育園で一緒の子供が、富士山に登頂したと聞いて影響されたのと、次の年から通う予定にしていた小学校が、在学中に富士山に登頂することを課題にしていたためです。

 

この時は、まだ離婚をしておらず、単身で米国ボストンで別居生活をしていました。

 

早朝、駐車場に到着してシャトルバスで5合目までいき、自分と長女の二人で登り始めました。

 

この時、次女はまだ1歳。とても富士山に登ることはできないので、5合目の旅館で妻と待機することにしました。

 

長女はまだ5歳だったので、自分は背負子を用意してきました。

 

そして、いつでも娘をおんぶしながら歩こうと思っていました。

 

最初は自分で歩いていましたが、やはり途中から歩けなくなり、背負子でおんぶしながらの登山となりました。

 

事前に予約していた山小屋を目指して歩いていきましたが、娘は途中で背負子の中で寝てしまいました。

 

宿泊予定の山小屋は、8合目の山頂に近いところにあり、暗くなってもまだ歩いていました。

 

すると、眠っていた長女が目が覚めて、泣き出しました。

 

「降りる、降りる」と言って。

 

まだ5歳の娘は、眠りから覚めたら周りが真っ暗になっていたので、不安になったのでしょう。

 

仕方がないので、登山道を逆走して下ることにしました。下山しながら、「ごめんね、ごめんね」と言って。

 

途中の山小屋につき、泊まらせてほしいと頼みましたが、いっぱいなので無理、と断られてしまいました。事前に予約していないために、仕方がありません。時期的にも八月の週末でしたので、大勢の登山客が次から次へと登ってきていました。

 

さらに下山して、山小屋でまた尋ねると、そこでも断られました。

 

さらに下山して、数カ所の山小屋を通り過ぎて、やっと泊まれるところが見つかりました。

 

そこで、長女と雑魚寝しながら考えました。

 

明日は、山頂を目指さずに下山しようと。

 

昨日の夕方、背負子の中で目が覚めたら真っ暗だったので、不安になって「降りる」と言って泣き出した娘でしたが、翌朝は元気でした。

 

そのまま、山頂目指してもよかったのですが、昨日のこともあり、そのまま下山道にトレースして山を降りることにしました。

 

5合目で次女と待っていた妻は、びっくり。まさかこんな早くに降りてくるとは思ってなかったので、どうしたの?、と聞かれました。

 

長女との1回目の富士登山は、このようにして終わりましたが、また、チャレンジすることに。

 

 

次回、米国永住権【私の内観#18】に続きます。

 

 

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元妻と次女と3人で富士登山【私の内観#9】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

前回、祈りの力【私の内観#43】からの続き

 

 

 

離婚も正式に成立して、しばらく月1回のペースで子供たちと会うことができました。ファミレスなどで食事を一緒にするだけでしたが、1時間から2時間程度、子供たちとの過ごせるようになったのでありがたかったです。

 

ちなみに、子供たちと会うときは、元奥さんと義理の母親も一緒でした。

 

子供と全く会うことができないという人の話も聞きますので、それに比べればありがたかったです。

 

その後、仕事の都合で、再び米国に引っ越すことになりました。

 

そうなると、月1回の子供たちとの食事もできなくなってしまいました。仕方がありません。

 

あるとき、次女が富士山に登りたいと言いました。

 

その前に、長女は、何度か富士登山に挑戦して山頂まで登ったことあるので、次女も登りたいと言ってきたのです。

 

富士登山の時期は、七月から九月の始めごろまでですので、お互いに日程調整して、八月の後半に行くことにしました。

 

次女のために、登山に必要な道具も買ってあげて、元妻と3人で登ることになりました。長女は、すでに登っているのでこのときは来ませんでした。

 

いつもの富士吉田口の5合目にシャトルバスで到着。

 

元妻は、「足の調子が悪いので途中で泊まる予定の山小屋まで登ったら下山する」といい、「山小屋からは、次女と二人で山頂まで登って行って欲しい」、といいました。

 

事前に予約していた8合目の山小屋までは3人とも無事に到着。

 

8合目と行っても下の方の山小屋でしたので、まだ、明るいうちにつくことができました。元妻は足が痛いと行っていたので、山小屋で足をマッサージしてあげました。また、次女も足が痛いというのでマッサージしてあげました。

 

次女も元妻もマッサージしている間に寝てしまいました。

 

翌朝、目がさめると、マッサージがとても気持ちよかったと言ってくれました。マッサージセラピストになったらいいんじゃない、とも言われました。

 

当初、元妻は、山小屋から下山する予定でしたが、そのまま3人で山頂を目指して登ることになりました。

 

9合目あたりから、次女は頭がいたいと何度もいうので、持ってきた子供用のバッファリンを飲ませました。

 

休み休み、少しずつ歩いて行ったら、山頂の鳥居が見えてきました。娘も最後の一踏ん張りで山頂に到着。

 

でも、山頂に着いたらベンチで横になったまま動きませんでした。

 

元妻は、9合目あたりから「先に2人で行っててくれ」というので、後から一人で登っていました。

 

山頂から登山道を見下ろすと、下の方に元妻の姿が見えたので、自分はそこまで降りて行って荷物を背負い一緒に山頂まで登りました。

 

当初は山頂までは無理と言っていた元妻と娘と3人で富士山に登頂できました。

 

しばらく休憩後、下山開始。でもまだ娘は頭が痛いといい、休み休み歩きました。

 

高山病の症状が出たらすぐに下山した方が良いので、休み休みではなく一気に下山しようと言いました。8合目まで降りると、娘もケロっとして元気になりました。さっきまで、頭が痛いと言ってすぐ休んでいたのが嘘のようでした。

 

5合目のバス乗り場まで無事に下山。でも、日が落ちて真っ暗になってしまい、最終バスで駐車場まで降りることになりました。

 

離婚した後の2017年8月。

家族で登った富士登山。

 

いい思い出になりました。

 

 

次回、おばあちゃんとの思い出【私の内観#24】に続きます。

 

 

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私の内観ブログ まとめ記事一覧

 

今日は、斎藤宏幸です。

 

いつもブログを読んでいただき、

ありがとうございます。

 

人一倍子供が大好きで、一緒に暮らしたかったのに、

なぜ、家族と離れて、子供たちと会えない生活を送るようになったのか。

 

そして、そんな自分がなぜ、子供と離れて暮らす心の悩みカウンセラーになったのか。

 

離婚を経て、悩みを克服して行ったストーリーを

【私の内観】のテーマで、

胎内時期から綴っています。

 

気になるところから、ぜひ読んでみていただければと思います。

 

内観ブログ まとめ記事

第1章 【父母と自分】

1、自分の胎内記憶【私の内観#22】

2、パパ、行かないで【私の内観#3】

3、土砂降りの雨の中、自転車で帰ってきた時の母の優しさ【私の内観#1】

4、塾の送り迎え【私の内観#2】

5、そろばん教室【私の内観#31】

6、父のゲンコツ【私の内観#12】

7、傘を届けにきてくれた父【私の内観#34】

8、中三の夏期講習【私の内観#32】

9、高校受験【私の内観#13】

10、補助教材を買いに行ってくれた母【私の内観#35】

11、忘れ物【私の内観#33】

12、大学受験【私の内観#14】

13、ある宗教団体にハマりかけた日【私の内観#37】

14、母への暴力【私の内観#36】

15、診療内科【私の内観#40】

16、人工中絶【私の内観#39】

17、薬害からの克服【私の内観#41】

18、母親の一言【私の内観#38】

19、心の底から親に感謝できるようになったきっかけ【私の内観#42】

 

 

第2章 【妻と娘と自分】

8、妻のサポート【私の内観#27】

9、長女誕生【私の内観#15】

10、娘の成長が楽しみだった幸せな日々【私の内観#28】

11、家を購入【私の内観#16】

12、義母との同居【私の内観#17】

13、要介護3認定の認知症の義母との対応【私の内観#26】

14、次女出産【私の内観#19】

15、長女の胎内記憶【私の内観#20】

16、パパ、逆上がりできたよ【私の内観#29】

17、勝どきでの一人暮らし【私の内観#30】

18、パパ大好き、ずっと一緒だよ【私の内観#4】

19、パパ、スキー教えて【私の内観#6】

20、長女と2人で富士登山 1回目【私の内観#10】

21、米国永住権【私の内観#18】

22、長女の小学校入学式【私の内観#21】

23、長女と2人で富士登山 2回目【私の内観#11】

24、内観法との出会い【私の内観#5】

25、再び日本へ【私の内観#7】

26、離婚調停【私の内観#8】

27、瞑想と祈り【私の内観#23】

20、祈りの力【私の内観#43】

28、元妻と次女と3人で富士登山【私の内観#9】

 

 

第3章 祖母と自分

29、おばあちゃんとの思い出【私の内観#24】

30、おばあちゃんとの思い出2【私の内観#25】

 

第4章 魂の話

45、人に対して怒りや恨み、憎しみなどのネガティブな感情を手放す方法【私の内観#45】

46、過去は変えられるけど、未来は変えられない【私の内観#46】

47、人は変えられないけど、自分は変えられる【私の内観#47】

 

 

 

 

 

 

離婚調停【私の内観#8】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

前回、再び日本へ【私の内観#7】からの続き

 

 

 

やり直そうと思って再び日本へ戻りましたが、ダメでした。堂々巡りと自己処罰の日々を過ごしていましたが、いつまでもこんな生活を続けていても仕方がないと思い、また日本の家族の元に行きました。

 

今後のことを話し合おうと思って。

 

すでに妻は離婚届けを市役所から取り寄せていました。離婚届に必要事項を書いていると、長女は言いました。「ママと一緒に暮らす」と。

 

今まで子供の前で喧嘩ばかりしていたので、そんな親を見たくなかったでしょう。

 

子供にとって、父親がいないという寂しさよりも両親の喧嘩を見るのが辛かったと思います。

 

次女は、「パパと暮らす」と言ってくれました。

 

この時、次女はまだ3歳くらいだったと思いますが、離婚の意味をわかっていたのかどうかわかりません。

 

どっちの親と暮らしたいか、などと娘たちに聞いた訳ではないですが、娘たちから自発的に言ってくれました。

 

離婚届にお互い記入したものの、親権や家の名義をどうするかなどは話し合いが付いていませんでした。

 

お互いに直接話し合おうとしても、冷静に建設的な話し合いはできなかったので、家庭裁判所に調停の申し立てをすることにしました。

 

離婚調停では、財産分与、養育費、親権の3つが主に話し合われます。

 

調停にあたり、色々な弁護士に相談しました。

 

別居期間中、子供の面倒を見ていたのは母親なので、自分が親権を要求しても無理だと、どの弁護士からも言われました。

 

親権が無理なら、定期的に子供と会える機会を作って欲しいと要求しました。

 

ただ、調停員の人からはその要求も却下。

 

日本の家庭裁判所において、調停員は母親の味方をする傾向がある、と聞いていましたが、実際、自分が体験して見て、その通りだったと再認識しました。

 

次に、家を自分と妻の名義で持っていたので、その名義をどのようにするのかで話し合いましたが、平行線のまま。

 

この時も調停員は妻の側について、執拗に妻の要求を受け入れるように言ってきました。

 

妻には弁護士と調停員の2人の強力な味方がおり、自分の主張が聞き入れられるのは、なかなか難しい状況でした。

 

離婚調停は密室で行われるので、どのように調停が行われているのかを、外部の人が知ることもありません。

 

何度か家庭裁判所に通った後、自分は調停を取り下げることにしました。

 

その理由は、あまりお互いにいがみ合っていても、あとあと禍根を残すことになってしまうだろうと思ったからです。

 

後から、調停を取り下げたことを聞いた母親は、自分に注意しました。その選択は間違えだよ、と。

 

母親としては、自分がどれだけ今まで悩んでいたのかを知っていたので、離婚することに協力してくれていたのです。

 

だから、離婚調停を取り下げたと聞いて、なんで?、と思ったのでしょう。

 

しかし、自分が調停を取り下げた後、今度は妻から離婚調停の申し立てがありました。

 

一旦、調停の取り下げをした後なので、すでに弁護士との契約も終了。また、同じ弁護士に頼むか、別の人に頼むか、弁護士を雇わないか、の選択をする必要ありました。

 

調停では弁護士を雇わない場合も多いようですが、相手が弁護士を雇っているので、交渉を有利に進めるためにも弁護士を雇う必要あるのかな、と思いました。

 

調停員も妻の味方ですし。

 

でも、弁護士にお願いしないで、自分一人で調停の話し合いに臨みました。

 

また何度か、家庭裁判所に通いましたが、平行線のまま。そして、調停は不成立で終了。調停で離婚が成立しなかったので、次は裁判へ。

 

裁判となると、さすがに弁護士が必要です。

 

最初の人と別の弁護士に相談すると、裁判ではなく、再び調停をした方がいい、というアドバイスを受けました。

 

「2回も調停の申し立てできるのですか?」と聞くと、できるというので、そのアドバイスに従い、再び調停をすることにしました。

 

しかし、調停の場で妻とその弁護士も欠席。

 

最初に調停を申し立てしてから、すでに2年近くが経過していました。あまり、長引かせるのも精神的に辛いので、この調停も取り下げることにしました。

 

自分は、2度も調停の申し立てをして、2度とも取り下げしたのです。

 

そして、妻の弁護士と相談して、協議離婚という形で、2013年離婚成立。

 

2人の娘の親権と家の名義、そして養育費の支払いを無条件で受け入れました。

 

 

次回、瞑想と祈り【私の内観#23】に続きます。

 

 

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再び日本へ【私の内観#7】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

前回、内観法との出会い【私の内観#5】からの続き

 

 

 

ハワイで生活していた時期、日本で内観を体験してから観の転換が起きて、また家族とやり直そうと言う気持ちになりました。

そして、再びハワイから日本に向かいました。

 

家族と過ごしながら、仕事も探そうと履歴書をあちこちに送りました。この時、下の娘はまだ2歳ぐらい。久しぶりに帰ってきた自分にベタベタとして離れようとしませんでした。

 

子供の成長は早いものです。ついこの間まで赤ちゃんだったのに、2本足で歩いてお話もできます。

 

しばらくすると、家族でグアム旅行に行こうと言う話になりました。両親も誘ったのですが、遠慮したのか行かないという返事。

娘2人と4人で久しぶりの家族旅行になる予定でした。

 

しかし、また妻と大喧嘩。理由は金銭問題。旅費をどちらがいくら負担するかと言うことで言い争いになりました。

 

今から思えば、些細なことだったのかもしれませんが、当時はお金の問題での言い争いが絶えなかったのです。

 

結局、自分はグアムに家族で行くことをしないで、ハワイに単身で戻ることにしました。

 

残された妻と娘2人は、グアム旅行を楽しみにしていたので、予定通りグアムに行くことに。空港では、下の娘が「パパがいない」と言って大泣きしたそうです。

 

この時もまた、子供たちをがっかりさせてしまいました。

 

せっかく、再出発しようと決意して日本の家族の元に戻ったのに。仕事も探そうと履歴書をたくさん送ったのに。また、単身でハワイにきてしまったのです。

 

ハワイで過ごしていても、心の中ではいつも娘たちのことを思い、自分で自分を責めてばかりいました。

 

周りは常夏の青い空でも、心の中は辛く苦しい日々でした。

 

なんども同じようなことを繰り返してばかり。

 

なんでまたハワイにきてしまったのだろう。

でも日本に戻っても喧嘩ばかりで、また家をでることになるし。

 

この堂々巡りはいつまで続くのか。

自分は一体どこで何をしたいのか。

 

彷徨った挙句にたどり着いた結論は。

 

 

次回、離婚調停【私の内観#8】に続きます。

 

 

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パパ、スキー教えて【私の内観#6】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

前回、パパ大好き、ずっと一緒だよ【私の内観#4】からの続き

 

 

 

小学校2年のころ、宿題を家でやっていてわからないところがあったので、母親に聞くと、「今忙しいから自分で考えなさい」と言うように言われて教えてもらえなかったことがありました。

 

子供から色々質問されても、「うるさい、今忙しいから後にして」と言ってしまいがちです。

 

実際、親は仕事や家事で忙しいので、子供の相手をしたくてもできないという事情はあります。ですので、子供の質問にいちいち答えてあげられないと言うのもわかります。

 

「今忙しいから、後にして」と言ってその場で答えてあげないのも仕方がないことですが、その後に、しっかりと時間をとって子供の質問に答えてあげることが必要となってきます。

 

子供の立場からすると、かまってくれなかった、とか教えてもらえなかった、と言うのはとても寂しいことですし、がっかりして残念なことです。

 

大人になってもその時の記憶は残ったりしますので、忙しいのを言い訳にして、何もフォローしないのは避けたいものです。

 

娘がまだ5歳くらいの頃に、スキーを教えて欲しいと頼まれたことがありました。

 

母親もスキーができるので、母親から教えてもらえばいいんじゃないかな、と思ったのですが、娘はわざわざ「パパから教わるスキー」と言うようなタイトルのビデオを母親に買ってもらって、自分に頼んできました。

 

そこまで頼まれたのでは断れないので、家族でスキーに行くことにしました。娘は大喜びでしたが、スキー場に着くと、ちょっとしたことで妻と口論になり、自分は、娘を残して一人でスキーのゲレンデに行ってしまいました。

 

娘は、「えー」と一言残しました。

 

どこかへ行ってしまったパパから取り残された娘は、仕方がないので、スキー教室に入りインストラクターの人から教わりました。

 

自分は、娘のことなどお構いなしに、一人でスキーを滑ったあと休憩所で休んでいました。

 

果たして、この時の記憶は、娘にどう残ってしまったのでしょうか?

 

初めて自転車に乗れるようになった時、側についていてくれてサポートしてくれた親の記憶は、親にとっても子供にとっても、忘れません。

 

同じように、初めてスキーに滑れるようになった時に、側についてサポートしてくれた人のことは、子供にとってもとても印象的な記憶となるでしょう。

 

「パパから教わるスキー」と言うビデをを買ってまでして、パパからスキーを教えてもらいたかったのに、自分のことなど構ってくれず、パパは一人でどっかに行ってしまった。

 

自分は娘に、悲しい記憶を植え付けてしまったのです。

 

 

次回、長女と2人で富士登山 1回目【私の内観#10】に続きます。

 

 

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内観法との出会い【私の内観#5】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

前回、長女と2人で富士登山 2回目【私の内観#11】からの続き

 

 

 

別居生活を始めてからしばらくして、米国に行くことにしました。たまたま永住権が当選したからです。

 

ハワイに行き、数ヶ月を過ごしてからボストンに行きました。そこで約1年間過ごしてからまたハワイ島に戻りました。

 

その間、年に2回程度日本に戻りましたが、日本に戻っても喧嘩ばかりしてましたので、また米国に戻ると言う生活を繰り返していました。

 

しかし、単身で米国暮らしをしていても、頭の中ではいつも子供のことばかり思っていました。それまでたくさん子供に辛い思いをさせてしまった、と自分を責めてばかりいました。

 

自己処罰ばかりしていても辛いだけです。また、子供と会えない寂しさもありました。カウンセリングを受けたり、心をどうやったら平常心に保てるのかと色々な書物を読み漁りました。

 

そんな時に、たまたま知ったのが『内観』と言うものです。

 

七日間泊まり込んで、一人静かに狭い空間の中で過ごし、自分の過去を振り合えると言うものです。

 

たった一週間なのですが、これが効きました。

 

座禅をしたり瞑想をしたりという体験はありましたが、どれもその場限りで終わってしまい、なかなか根本的な改善にはなりませんでした。しかし『内観』は全く別でした。

 

親に感謝しなくてはダメだよとよく言いますが、心の内面に記憶として残っている、グツグツした感情はなかなか消す事はできません。

 

頭(顕在意識)では理解しても、心の奥底(潜在意識)までは理解できません。そして潜在意識の力が顕在意識よりもはるかに強力なので、いくら頭で感謝しなくちゃいけない、と思っても、潜在意識に負けてしまいます。

 

『内観』はこの潜在意識に働きかけるので、過去のグツグツした記憶を書き換えることができるようです。

 

自分の中の”観の転換”が起きてしまったのです。

 

「内観」おそるべしです。

 

 

”観の転換”が起きた自分は、再び家族とやり直そうと決めて、ハワイから日本に飛びました。

 

 

次回、再び日本へ【私の内観#7】に続きます。

 

 

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パパ大好き、ずっと一緒だよ【私の内観#4】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

前回、勝どきでの一人暮らし【私の内観#30】からの続き

 

 

 

娘がまだ4歳ごろ、別居することにしました。時々週末など家に帰ってきましたが、すぐに家を出ると言う日々を過ごしていました。

 

別居の理由は、妻の母親との同居が原因です。義理の母は認知症の要介護認定を受けており、毎日デイサービスに通っていました。

毎日、送迎がきて、ゲームをしたり友達とおしゃべりしたりと、義母はデイサービスに行くのが楽しみなようでした。

 

週に一日だけデイサービスを休む日がありましたが、休みの日も義母は出かける用意をして、送迎の車が来るのを待っていました。

そして、今日は休みだと知ると、残念そうな暗い表情になりました。

 

よほど、デイサービスに行くのが楽しかったのでしょう。

 

そこでは、デイサービスだけではなく長期滞在もできるのですが、妻はそれはかわいそうと行って施設に預けることをせずに、同居することにしてました。

 

自分は、いつも義母のことで妻と喧嘩をしてました。精神的にも限界を感じたので、別居することにしたのです。

 

ある時、ボイスメッセージが自分の携帯に入っているのに気づき、再生してみると次のメッセージが残っていました。

 

「パパ大好き、ずっとずっと一緒だよ。絶対、離さないからね」

 

娘がいつの間にか録音していたのです。

 

このメッセージを聞いたら、涙が止まりませんでした。

 

「ごめんね、ごめんね、バカなパパでごめんね」と泣きながら繰り返していました。

 

かつて、自分がまだ3歳くらいの頃、親と離れて暮らしていた時期に、たまに会った父親がまたいなくなってしまった時、大泣きに泣いたことがありました。

 

父親になった自分は、かつて自分が経験した辛いことを娘に対してしてしまったのです。

 

 

次回、パパ、スキー教えて【私の内観6に続きます。

 

 

 

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パパ、行かないで【私の内観#3】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

自分の胎内記憶【私の内観#22】からの続き

 

 

 

まだ小学生にならないころ、3歳くらいだったと思いますが、祖父母の住む田舎に数ヶ月間、一人で預けられたことがありました。理由は、母親が病気で入院していたからだったと思います。

 

近所に年が近い従兄弟が住んでいて、仲良く遊びました。夜は、おばあちゃんの隣に布団敷いて寝ましたが、寝る前に横になりながら、毎晩絵本を読んでくれました。

 

ある日、父親が自分の様子を見に田舎に訪ねてきました。久しぶりに父親に会えたので、嬉しくて仕方がありませんでした。

 

でも父親は仕事があるので、すぐに帰らなくてはなりません。

 

「パパ、行かないで」といって、自分は駄々を言いました。

 

父親も困ってしまい、昼寝しようといって自分を寝かしつけました。まだ3歳くらいなので、昼寝の習慣があったのです。

 

自分はそのままウトウトと寝てしまいましたが、しばらくして目がさめると、そばにいた父親はいません。周りを探し回りましたが、どこにもいません。

 

おばあちゃんに、「パパはどこいったの?」と聞くと、「もう帰ったよ」と答えました。

 

自分は、悲しくなり、大声で泣きました。

 

あまりにも泣き続けるので、そばにいたおばあちゃんも困っていたほどです。

 

パパっ子だった自分は、父親と離れて暮らすのがとても寂しかったのでしょう。

 

今度は、親となった自分が、娘に対して同じようなことを繰返すこととなります。

 

その話は、また後ほど。

 

次回、土砂降りの雨の中、自転車で帰ってきた時の母の優しさ【内観#1】

に続きます。

 

 

 

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塾の送り迎え【私の内観#2】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

土砂降りの雨の中、自転車で帰ってきた時の母の優しさ【私の内観#1】からの続き

 

 

 

小学低学年の時、学習塾に通わせてもらいました。ただ、そこは歩いて行くには遠いので、親が一緒に送り迎えしてくれました。

主に父親が車で送迎してくれたのですが、平日の午後、学校が終わってからという時間帯ですので、今から思うとよく送迎してくれたなと思います。

 

米国では、子供の学校や塾やクラブ活動に、親が車で送迎するのは当たり前ですが、公共の交通機関の発達している日本で、平日の午後に父親が車で送迎してくれるというのは、あまりなかったと思います。

 

ある時、その塾のテストを父親が見つけました。とても悪い点数で親にも見せられないような成績だったのですが、それを見た父親は、がっくりと肩を落としていました。

 

はっきりと覚えていませんが、そのテストはミニテストのようなもので、それほど重要視するものではなかったと思うのですが、父親のがっくりと落ち込んでいる後ろ姿は印象的に覚えています。

 

その後、いつものように車で送り迎えしてもらっている時、父親が言いました。

 

「もう無理に塾に行かなくていいよ。」と。

 

父親としては平日の午後、仕事の合間を時間調整して、子供のために塾の送迎をしていました。家計的にも苦しい時代でしたので、その月謝も負担になっていたと思います。

 

そんな無理をしてまでも、子供のために親が塾に通わせてくれていたのです。

 

しかし、悪い点数のテストを見て、おそらくこう考えたのでしょう。あいつは、勉強したくないのだろう。やる気もないのに親が無理に行かせるのもかわいそうだ、と。

 

自分としては、当時、その塾に通うのが嫌だとか楽しいとかいう感情は、よく覚えていません。どちらでもなかったと思います。ただ、新しいことを学ぶのは新鮮でした。

 

その日を最後に、父親が送迎してくれることもなくなり、自然と塾に行かなくなりました。

 

 

次回、そろばん教室【私の内観#31】に続く

 

 

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