子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -7ページ目

長女の胎内記憶【私の内観#20】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

 

前回、次女出産【私の内観#19】からの続き

 

次女が生まれてからしばらくして、長女がこんなことを言いました。

 

「〇〇が先に、パパとママの所に生まれてくるからね。

 

▷▷は後からきてね。待ってるから。と▷▷と約束してたんだよ」と。

 

長女と次女は、いつどこで、こんなことを約束したのでしょうか?

 

それは、天国(あの世)です。

 

自分は、子供は親を選んで生まれてくる、と信じています。

 

ただ、2人の魂が天国にいるときに、お互いに同じ親の元に生まれてこようと約束してきた、と言うのは初耳でした。

 

そんなこともあるのかと。

 

そして、約束した後、3年、4年の時間差をおいて、次女がこの世に生まれてきたわけです。

 

親を選ぶと同時に、姉妹としても、今世を生きていこうと約束してきたとは。

 

「神様との約束」というドキュメンタリー映画があります。

 

胎内記憶を語り出す子供たちをインタビューした動画ですが、一人、二人ではありません。

 

たくさんの子供たちが、皆同じようなことを話しています。

 

天国にいるときに神様と約束して、今世に生まれてきた、と。

 

滑り台のような所から、スーっと、未来のお母さんになる、妊娠中の女性のお腹の中に降りてきた、と。

 

長女は、天国にいる時のことを、何気なく、フッと話しました。

 

でも、それは次女が生まれる前後の、4歳のときだけでした。

 

また、こんなことも言いました。

 

「〇〇は、今回は穏やかな性格で生きようと思って生まれてきたんだよ。でも、ママのせいでそれができなくなった」と。

 

いつも母親からガミガミ叱られていた長女が、ママに言った言葉でした。

 

これも確か4歳前後の時だったと思います。

 

4歳の子供が輪廻転生や天国とか魂の話しなど、知識として知っているとは思えません。

 

しかし、実際、自分はこの長女の言葉を耳にしました。

 

元妻はこの時、「何わけのわからないこと言っているの」、と言う感じで、ただ単に親に抵抗しているだけと思っていたようですが、自分は、ハッとしました。

 

おそらく、今、このことを長女に話しても、「そんなこと言ったっけ」、と言う感じでしょう。

 

なぜなら、胎内記憶を語る子供の特徴で、4、5歳を界にして、それ以降は全く記憶を失うからです。

 

次回、パパ、逆上がりできたよ【私の内観#29】に続きます。

 

 

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次女出産【私の内観#19】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

前回、要介護3認定の認知症の義母との対応【私の内観#26】からの続き

 

 

 

2008年、次女が生まれました。長女のときとは別の近所の産婦人科で産むことにしました。

 

妊娠中、産婦人科で撮影した3Dの画像を家で見ていると、長女はとても嬉しそうにはしゃいでいました。

 

その様子を見ていて、もうすぐ生まれてくる弟か妹(妊娠中は、あえて男の子か女の子か聞きませんでした)を、よく面倒見る、いいおねえちゃんになるなと思いました。

 

そんなあるとき、たまたま結婚式の時の写真アルバムを見ていました。それを長女も一緒に見ていたら、ふとこんなことを言いました。

 

「◯◯もこの時いたんだよ、気づいてた?」と。

 

それを聞いて、思わず鳥肌がたちました。

 

実際、結婚してから長女が生まれたのは4年後です。ですので、結婚式に長女がいるはずもありません。

 

普通の人でしたら、「何わけのわからないこと言ってるの?」、と聞き流してしまうでしょう。

 

しかし、自分は娘のこの一言を信じました。

 

なぜなら、自分は見えない世界、魂の世界のことにとても興味があり、そちらのジャンルの本をよく読んでいたからです。

 

私たちの魂は、もともと天国(あの世)にいます。そこで今度はどの両親の元に生まれてこようかな、と天国(あの世)から品定めしています。

 

優しそうな両親だったり、金持ちの両親などを探しているかと思いきや、必ずしもそうではありません。

 

あえて、辛い人生を送れそうな両親を選んで生まれてきたりします。

 

なぜでしょうか?

 

そこが面白いところであり、不思議な世界です。

 

私たちは、輪廻転生をなんども繰り返しています。ですので、今世だけが初めての人生ではありません。

 

数十年前であったり、数百年前であったり、人それぞれ違いますが、一度、地球上に生まれてきて人生を経験しています。

 

いや、一度ではなく、何度も。その回数も頻度も人それぞれです。

 

ですので、「娘が結婚式にきていた」というのは、肉体人間として参加していたのではなく、目に見えない魂として参加していたということです。

 

あんたは、信じられない話かもしれませんが、信じなくて大丈夫です。

 

信じられない人が普通です。

 

また、あえて辛い経験ができそうな両親を選んで生まれてくる人もいますが、それは、この地球上に輪廻転成して生まれてくるのは、ある理由があるからです。

 

それは、魂のレベルを上げるためです。

 

魂のレベルを上げるというのは、どういうことかというと、辛い経験をすることによって、それを乗り越えていく過程で、魂に磨きがかかり、波動が上がるという意味です。

 

それをなんども経験することで、次第にどんどん魂レベルが向上して言って、神レベルまで行ったら、すごろくで言う「あがり」、となります。

 

そして、輪廻転生をすることはなくなります。

 

もしかしたら、娘は天国(あの世)から品定めしていた時、この両親の元で生まれてきたら、親の離婚を経験できるかもしれない、とわかっていて、あえて生まれてきたのかもしれません。

 

なぜなら、その経験を乗り越えることで、魂の向上ができるからです。

 

でも、あなたは、このような考え方は、親の都合の良い考え方だ、と思うかもしれません。

 

そう考えれば、離婚を経験させてしまったことで、子供に対しての罪悪感を和らげることができるからです。

 

確かにそうかもしれません。

 

親にとって都合いい考え方かもしれません。

 

でも、子供の魂は、生まれる前に親を選んで生まれてくるという考え方は、本当です。

 

母親の子宮にいた時のことを記憶している子供がいます。

また、天国(あの世)にいた時の記憶を喋り出す子供もいます。

 

その記憶を覚えている年齢は、だいたい、3、4歳くらいまでです。それ以降は、すっかり忘れてしまいます。

 

娘が、結婚式の写真を見て、「〇〇もこの時、ここにいたんだよ、知ってた?」と言った時は、4歳でした。

 

次回、長女の胎内記憶【私の内観#20】に続きます。

 

 

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米国永住権【私の内観#18】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

前回、長女と2人で富士登山 1回目【私の内観#10】からの続き

 

 

 

次女がまだ0歳のとき、別居生活を始めました。

 

たまに週末など日帰りで帰ったりしましたが、あまり長居しないようにしていました。なぜなら、すぐに喧嘩が始まってしまうからです。

 

まだ4歳の長女は、自分が家を出るとき、いつも泣いていました。

 

後ろ髪をひかれるようにして家を出て、しばらくしてまた、戻ってくるという生活が続きました。

 

以前、家族でハワイ旅行をしたことがあり、そのとき、将来はハワイに住みたいな、と思いました。

 

一人暮らしを始めたので身軽になった自分は、ハワイへの移住を具体的に実行しようと思いました。

 

ビザの問題があるので色々調べると、永住権が抽選で当たるというのを知りました。

 

早速応募してみると、見事当選。

 

このとき家族4人で応募したので、4人とも当選しました。

 

まだ、このときは、正式に離婚していなかったので、家族で応募したのです。

 

妻にメールすると、よかったね、と返事。

 

しかし、その後、予防注射を何本も打ったりしなくてはならず、妻は面倒くさがっていました。

 

私は永住権などいらない、と言ったり。

 

それもそのはず。

 

妻は、仕事をしているので、その仕事をやめて米国に移住することなど、リスクを取ろうとしなかったのです。

また、認知症の母親と同居していたので、その母を置いて米国にいくという選択を取ろうとしませんでした。

 

なぜなら、それまで散々自分とやりあって、母親を施設に預けることなどできない、と言い張っていたからです。

 

とりあえず、米国大使館での面接までは付き合ってくれたので、しばらくして4枚のグリーンカードが届きました。

 

自分は、すでに米国に住んでいたので、そのまま永住権はキープできましたが、妻と子供の永住権を維持するには、また費用と手続きが必要でした。

 

日本に住み続ける場合、何もしないで放っておくと、米国の永住権は失効してしまうからです。

 

妻はいらないというので、それはいいとしても、娘2人の永住権は維持したいと、自分は主張しました。

 

将来、娘たちが高校生や大学生になるときに、留学したいというかもしれないので、そのときに、永住権があったほうがいいと思ったからです。

 

費用も手続きも自分でするからと言いましたが、妻は全く受け付けず。

 

このときは、離婚するしないと言い合っていた時期でしたので、将来、娘たちが、母親を置いて自分が住む米国に留学することなど認めたくなかったのかもしれません。

 

結局何も手続きもせず、その後何年も米国へ入国しませんでした。

 

 

それから8年後の今年の夏休み、妻と娘たちが米国に遊びに来ました。入国審査のとき、別室に連れて行かれるかと思ってビクビクした、と元妻は言っていましたが、観光ビザで無事入国。

 

そして、観光地巡りをして日本に帰る日の前日、来年高校生になる長女は、「米国に今すぐ留学したい」と言いました。

 

次回、長女の小学校入学式【私の内観#21】に続きます。

 

 

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義母との同居【私の内観#17】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

前回家を購入【私の内観#16】からの続き

 

 

 

2006年、長女が2歳の時に、自宅を購入することになりました。それと時期を同じくして、妻のお父さんが亡くなりました。

 

妻の父母は、それまで2人暮らししていたのですが、父が亡くなってから母の認知症が進行してしまい、一人暮らしをさせるには心配ということで、施設に入れようか、誰が面倒を見るのか、など話がまとまりませんでした。

 

たまたま、家を購入したばかりで一部屋空いていたので、「しばらく、義理のお母さんに住んでもらったら」、と気軽に妻に言ってしまいました。

 

その安易に言った一言が、のちに重大なことになってしまったのです。

 

義母は、近所のデイサービスに行くように妻が手配して、週に5、6日通うようになりました。家族で出かけるときは、いつも義母が一緒でした。

 

家で留守番してもらったら、とかデイサービスに預かってもらったら、と妻に言っても、「かわいそうだから、そんなことできない」の一点張り。

 

デイサービスでは、ショートステイとかロングステイができました。また、義母はいつもデイサービスに行くのを楽しみにしていた。お友達もたくさんいたし、色々な遊びができたので、楽しかったのでしょう。

 

そして、”しばらく”と言った時期が、1年以上経過してしまったのです。

 

自分は、妻とこの事でなんども話し合おうとしましたが、その都度、妻は戦闘モードにスイッチが入ってしまうので、建設的な話ができませんでした。

 

自分としては、母親を追い出そうというつもりはなかったけれども、妻にとっては、母親をかばおうと必死の抵抗を続けたのです。

 

子供のいる前でも言い争いが絶えず、このままでは子供にとっても悪影響が出てしまうし、自分自身も精神的に限界でしたので、別居することにしました。

 

家庭は崩壊寸前まで行ってしまったのです。

 

せっかく、夢のマイホームを手に入れたと思ったら、認知症の義母との同居生活が始まり、常に喧嘩が絶えず、という、自分の居場所が全くない状態でした。

 

こんなことなら、無理して家など買わなければよかった。

 

近所に、長女が2歳の時まで住んでいたアパートがありましたが、その前を通るたびに、「この時期が一番充実していて楽しかったな」、としみじみ感じました。

 

次回、要介護3認定の認知症の義母との対応【私の内観#26】に続きます。

 

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家を購入【私の内観#16】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

 

前回の娘の成長が楽しみだった幸せな日々【私の内観#28】からの続き

 

 

 

娘が2歳になった頃、そろそろ家を買おうかと思い、色々な物件を見学に回りました。

 

また、同時に投資物件を買いたくなり、そちらも同時に物件をみて回りました。

 

当時(2005年頃)は、「金持ち父さん貧乏父さん」シリーズが大流行りで、自分も何冊も読みました。そして、サラリーマンでも副業で大家さんになれるということを知り、セミナーに参加したり本を読んだりして、勉強していました。

 

あるとき、いい投資物件が見つかったので、妻に恐る恐る相談してみました。

 

てっきり反対されるかと思ったのですが、「いいんじゃない」、という返事。

 

不動産屋にも話を進めて欲しいと頼みました。

 

しかし、その物件はちょっと訳ありな物件だったので、キャンセル。

 

その後も、物件探しを続けましたが、利回りがあまりよくないので、なかなか具体的な購入まで行きませんした。

 

そうこうしているうちに、自宅として住む家で良さそうな物件が見つかったので、結局そちらを買うことになりました。

 

妻と自分とそれぞれ名義を分けての購入。自分の与信枠はこれでいっぱいとなったので、投資物件を買うことはできなくなりました。

 

これがよかったのか悪かったのか、わかりません。

 

それから数年後、区分所有で、マンションの部屋をたくさん持っている方の話を聞きました。その人は、毎月、家賃収入が入り、それだけで生活していたのですが、借金を何十億と抱えていました。

 

サラリーマン大家さんで、権利収入を手に入れるという夢は実現しませんでしたが、夢のマイホームを手に入れることができました。

 

しかし、この家を購入したことで、家族がバラバラになってしまうことになったのです。

 

次回、義母との同居【私の内観#17】に続きます。

 

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長女誕生【私の内観#15】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

妻のサポート【私の内観#27】からの続き

 

 

結婚してからなかなか子供ができませんでした。

 

どちらかに問題があるのかわからず、不妊治療を受けようかと妻と話していた矢先に、妊娠しました。

 

妻の年齢が30代後半ということもあり、妻は、近くにあった周産期母子センターで産むことに決めました。

 

周産期母子センターとは、出産前後における、高度な医療を対象とした産科と新生児科が合わさった医療施設です。

 

自分は、自宅で出産することを強く望みました。

 

なぜ、自宅出産を望んだかというと、陣痛促進剤の弊害を知っていたからです。陣痛促進剤とは、なかなか陣痛が起きない人のために投与される薬ですが、その薬には当然副作用がり、その害が怖かったからです。

 

昔のサリドマイド児のように奇形児が生まれる訳ではないのですが、色々な害があるので、病院出産は避けたかったのです。

 

でも、病院で出産したからと言って、陣痛促進剤が必ず投与される訳ではないじゃないの?

と思う人もいるかもしれません。

 

しかし、実態は、ほとんどの場合、投与されてしまいます。また、帝王切開というのも流行りです。

 

自分が子供のころは、帝王切開で出産するとうのは、よほど危険な状況でないと行われないケースでした。

でも今では、当たり前のように行われています。

 

帝王切開も、色々な弊害があります。

 

この話をしだすと止まらなくなるので、ここではしませんが、陣痛促進剤にしろ帝王切開にしろ、母子の都合ではなく病院側の都合で行われているのです。

 

自分は、自宅出産を希望したのは、このような理由です。しかし、妻はなにそれ?と言った感じで、聞く耳を持ってくれませんでした。

 

あなたも、おそらく自宅出産には反対でしょう。

 

大多数の人は、妊娠したら病院で出産することを選択します。

 

そのほかの選択があることを考えません。

 

 

妻は仕事をしており、満員電車で通勤するのも大変なので、妻の職場の近くにアパートを借りて引っ越すことにしました。

なぜそこまでするのかというと、以前、流産したことがあったので、大事をとったのです。

 

産前産後休暇が、6週間と8週間あったので、出産予定日から逆算して6週間前から休暇をとりました。

 

それと同時期に、自分は、その近くで仕事を見つけて働き始めました。その職場では、「もう産まれたの?」と毎日のように聞かれました。

 

妻が妊娠中、なぜ、男は出産できないの?と悩んだこともありました。これは男女不平等だ、と。

 

9月後半に、妻が破水したというので車で病院に向かいました。病院についた妻は、余裕の様子。本当に破水したの?という感じでした。

 

そのまま入院しましたが、なかなか陣痛が起きず、陣痛促進剤を投与することに。そして、無痛分娩で産むことを希望していたので、脊髄から麻酔を投与して下半身麻痺の状態で出産に臨みました。

 

そして、陣痛の頻度が強くなったので、もうすぐ産まれそうという連絡を病院から受けて、急いで車で向かいました。

 

時間に間に合い、出産に立ち会うことができました。

 

赤ちゃんが妻の子宮から出てきて、「オギャー」っと泣いたとき、なんとも言えない不思議な感覚を覚えました。

 

「本当に自分が父親になっていいのだろうか」と。

 

感動と戸惑いの中、待望の出産。

 

女の子でした。

 

妊娠中、男の子か女の子かを、あえて事前に聞かないことにしていたので、産まれてから初めて女の子とわかりました。

 

産まれたばかりの赤ちゃんは、消毒のために別室に連れて行かれるのではなく、母親の胸の中でしばらく抱っこされていました。

 

その病院は、カンガルー出産を奨励していたのです。

 

10ヶ月の間、母親のお腹の中ですくすく育った赤ちゃんは、子宮を通って外の世界に出てきてすぐに、母親と抱っこ。

 

母子の絆が深まる瞬間でした。

 

パパとママの所に産まれてきてくれてありがとう。

 

 

次回、娘の成長が楽しみだった幸せな日々【私の内観#28】に続きます。

 

 

 

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大学受験【私の内観#14】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

忘れ物【私の内観#33】からの続き

 
 
 
高校3年の時、担任の先生と父と自分の三者面談ありました。
 
大学進学を控えての進路指導ですが、担任はこの時、推薦で指定の大学に行くように言いました。
 
推薦してくれるなら、その大学に行けば良いじゃない、と思うかもしれませんが、担任が言った次の言葉にカチンときてしまいました。
 
「お前は、一般入試で現役で受かる大学などない」と。
 
さらに
「浪人しても、試験勉強に耐える精神力などお前には無い」と。
 
この言葉を聞いて、推薦を断りました。
 
しかし、担任は頑固な人であくまで推薦を受けろ、と強要。
 
自分が断り続けても、全く聞く耳持たないので、仕方がなく、「わかりました」、と言ってしまいました。
 
推薦入試の当日、まったくやる気が起きずに適当に答えを書いて提出。そして、結果は不合格。
 
担任は、なぜ落ちたのか不思議がっていました。推薦で落ちる人はあまりいなかったからです。
 
その後、一般入試を受けましたが、全滅。担任の言った通りになりました。
 
仕方なく浪人することに。
 
そして、浪人中に病気になり緊急入院することになりました。
 
受験料や予備校の授業料、入院費用と親に余計な経済的負担をかけてしまいました。
 
もし、あの時、担任が言った一言に反発せずに、素直に推薦入試で全力を出していたら、こんなことにならなかっただろうに。
 
担任が推薦した大学もそれほど悪くはないところだったので、もし、その大学に行っていたら、その後の人生はどうなっていただろうと。
 
ある時、また内観をしていたら、この時のことが思い出されました。
 
「推薦入試で落ちる人は滅多にいないんだから、なんで、真面目に答えを書いてこなかったの?」
と、小言を言われても仕方がないと思っていました。
 
しかし、この時、親は、何も言わずに自分が行きたい大学に行けるように、経済的なことはもちろん、そのほかの援助も惜しまなかったのです。
 
それは、自分が真面目に勉強していた姿を見ていたからかもしれません。
 
親父、お母さん、ありがとうございます。
 
 
 
 
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高校受験【私の内観#13】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

 

中三の夏期講習【私の内観#32】からの続き

 

 

 

中学3年の時、高校進学のための進路指導が担任の先生と父親の3人でありました。

 

担任の先生は、自分の今までの偏差値に基づいて、この学校なら合格の可能性あるのでこの学校を受験するように、と指導ありました。

 

自分が行きたい学校があったので、「嫌です」、と断ったのですが、担任は「お前にはその学校は無理だ」、とはっきり言いました。

 

埼玉の中学に通っていたのですが、そこでは北辰テストと言うものが定期的にあり、そのテストに基づいて偏差値が決められました。

 

しかし、その北辰テストは、何回か行われるのですが、最終テストは確か9月ごろだったと思います。

 

そして、その9月までの偏差値によって進路指導が行われていたのです。

 

高校受験は翌年の1月、2月ごろでした。

 

したがって、9月から1月までの成績は考慮される事なく、進路指導が行われていたと言うことになります。

 

担任からは「お前にはその学校は無理だ」と決めつけられたので、結局、妥協案で担任の勧める学校と、自分が行きたい学校の中間くらいの偏差値の学校を受験することになりました。

 

年が明けて、滑り止めで私立の学校をいくつか受験しましたが、全て合格。

 

担任からは、「お前には脱帽した」と言われました。自分の偏差値からして、合格は無理だろうと思っていたようです。

 

そして、いよいよ、公立の受験です。

 

試験当日のペーパーテストでは、自己採点をすると合格圏内でした。

 

しかし、結果は不合格。

 

当時の合否の判断として、ペーパーテストの成績と内申書で判断されていました。その割合は半々。

 

内申書とは、中学の担任の先生が書いた成績表です。

 

自分は、担任からあまり良い評価をもらっていなかったので、内申書の成績はよくなかったと思います。

 

この時不合格だったのは、中学の担任が書いた内申書のせいだと思い込んでいました。

 

自分はよく頑張った、自分は悪くない、担任が悪いのだ、と決めつけていたのです。

 

その後、社会人となり、ある時「内観」をしていたら、ふと、この時のことが思い出されました。

 

そして、自分はよく遅刻をしていて担任からいつも怒られていたな、と思い出しました。

 

「もう遅刻をするなよ、3回遅刻したら欠席扱いになるからな、わかったか」と。

 

自分は「わかりました」といつも答えてましたが、翌日また遅刻。

 

そんなことを、なんども繰り返してました。

 

そんなことをしていたら、先生からの信頼もなくなります。評価も悪くなるのは当たり前。

 

今まで、高校受験に失敗したのは、中3の担任が悪いと決めつけていたけど、実は、自分の責任だったと気づいたのです。

 

自分の身の回りに起きる結果は、全て自分に原因がある。

 

改めて、この事を実感しました。

 

 

次回、補助教材を買いに行ってくれた母【私の内観#35】に続きます。

 

 

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父のゲンコツ【私の内観#12】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

前回、そろばん教室【私の内観#31】からの続き

 

 

中学生になると声変わりをしたり親ともあまり話さなくなります。これは自然な成長過程の変化であり、特に親に反発しているとか反抗していると言う訳ではありません。

 

自分は中学のある時期に、父親から毎日のように殴られていたことがあります。

 

それもゲンコツの時もあり、武器(ビール瓶の巨大の栓抜き)を使ったり。

 

自分にとって、身に覚えのないことで殴られていたので、なぜ殴られるのかわかりませんでした。

 

父親は、「お前の返事の仕方が生意気だ」、とか、「お前の態度が生意気だ」、と言って殴りました。

 

小学生の時期は、パパ、パパと言って色々なお話を親ともしましたが、中学になるとほとんど話もしなくなりました。

 

何か質問されても、「知らない」、とか「そうなの」、と言った感じです。

 

父親にとっても、小学生の時の息子のイメージから、全く違う態度を取るようになったので、その変化が理解できなかったのでしょう。

 

自分が何を言っても「生意気だ」と言ってゲンコツが飛んできました。

 

ある時、父親に質問したことがあります。

 

「なんで、そんなに自分を殴るの?」と。

 

すると父は答えました。

 

「親というのは、子供を殴りたい時に殴っていいんだ」と。

 

まるでサンドバックです。

 

父親も子供時代に、その親(自分にとって祖父)からしょっちゅう殴られていたと聞きました。

 

海軍を経験してきた祖父は、お風呂を沸かす薪を持って、息子を追いかけ回したそうです。

 

その経験があったので、長男である自分にには厳しくしようとしたのかもしれません。

 

でも、ある時から、ピタっと殴られることがなくなりました。

 

後から聞くと、武器として使っていた大きなビール瓶の栓抜きを、金槌で粉々に砕いていたそうです。

 

「こんなものがあるからいけないんだ」、と叫びながら。

 

その時から、全く嘘のように殴られることがなくなりました。

 

もともと、子供のことを第一優先に考える子煩悩な父でしたので、暴力を使うことがなくなり優しい父になりました。

 

表面上は。

 

しかし、自分の心の深い意識では、この時の経験がグツグツといつまでも残りました。

 

社会人になって、親に感謝しなくちゃダメだよ、と、お道徳を言われて、確かにそうだよな、と理解しました。

 

表面上は。

 

しかし、自分の心の深い意識では、中学時代のあの時の経験がグツグツと残り続けました。

 

いくら意識を強くして、「親に感謝」「親に感謝」と思っても、敵う相手ではありません。

 

相手は、心の奥底を支配する潜在意識。

 

表面上の顕在意識がいくら頑張っても無駄な抵抗でした。

 

ある時、「内観」というものを知りました。

 

これは一週間泊まり込み、朝から夜まで狭い空間の中で、ひたすら自分の過去と向き合うというものです。

 

試しにこの「内観」というものを受けてみたら、ガラガラっと心の奥底を支配していた潜在意識が崩れ落ちました。

 

360度、観の転換が起きたのです。

 

360度では元の場所に戻ったの?

 

違います。

 

360度と言っても、らせん状に意識のレベルが上がったので、元の場所ではありません。

 

理屈はどうであれ、それまでいくら頑張っても「親に感謝」できなかった自分が心の奥から「感謝」できるように変わってしまったのです。

 

それも、たった一週間で。

 

驚きでした。

 

それ以降、父親のゲンコツに対する自分の認識が変わりました。

 

あれは、”父の愛だったのではないか?”、と。

 

それまでは恨みの対象でしか父のゲンコツ。

 

それが、実は、父の愛だったのだ、と思えるようになったのです。

 

何を綺麗事言ってるの?

 

と、思われるかもしれません。

 

自分もそれまで色々な心の問題を扱っている本を読んだり、自己啓発系の本を好んで読んでいましたが、似たようなことを書いている本あります。

 

でも、それを読んでも、ピンときませんでした。

 

しかし、「内観」を経験してしまった後では、全く認識が変わってしまったのです。

 

本で読んだことが、心のそこから実感できるようになったのです。

 

また、父親になって初めて、親の気持ちがわかるようになる、とよく言います。

 

確かにその影響もあるでしょう。

 

初めて「内観」を経験したのは、2010年。この時、すでに2歳と6歳の2人娘の父親でしたので、父親の気持ちもわかるようになっていました。

 

それ以降、なんども「内観」を経験して、自分の内面を掘り下げることに集中するようになりました。

 

 

次回、傘を届けにきてくれた父【私の内観#34】に続く

 

 

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長女と2人で富士登山 2回目【私の内観#11】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

前回、長女の小学校入学式【私の内観#21】からの続き

 

 

 

2011年8月、再び長女と一緒に富士山に登ることになりました。

 

2009年8月の時は、自分の判断で途中で引き返してしまいましたので、今度は再チャレンジです。

 

ちなみに、その前に、妻と離婚について話し合うために家庭裁判所に行ってますので、微妙な時期でした。

 

長女は、今度こそ絶対に登頂すると意気込んでいたそうです。

 

妻と2人の娘は3人で8合目の山小屋に先に到着。

 

別居していた自分は、一人で翌日の朝、5合目から登り始めました。

 

以前は何度か、日帰りで富士山登頂していたので、家族が待つ8合目の山小屋まで、それほど時間かからずに登れるだろうと思っていました。

 

しかし、その考えは甘かったです。

 

前日、ほとんど寝てないせいもあったのか、途中で足が止まり、休み休みの登山となりました。

 

8合目の山小屋で前泊していた妻と娘たちは、なかなかパパが登ってこないので待ちくたびれていました。

 

10時すぎに8合目の山小屋に到着し、家族と合流。

 

次女はまだこの時、3歳。山頂まで登るのは難しいので、妻と次女はそのまま下山道にトレースして下山することに。

 

この時、妻におんぶされた次女は、大泣きしました。

 

てっきり、一緒に登るのかと思っていたのでしょう。

 

自分は慌てて追いかけて、もう少しだけ一緒に登ろうと言いましたが、そのまま妻は下山していきました。

 

ここからは、長女と2人で山頂を目指します。この時、長女は7歳。

 

2年前は、途中から背負子におぶさっていたのに、この時は、一人で全て歩きました。

 

9合目あたりからは呼吸が苦しくなり、休み休みにゆっくり歩くようになりましたが、長女は全く平気な様子。

 

先にどんどん歩いて行くので、「ちょっと待って、ゆっくり歩かないと後で苦しくなるから」、と言って制止するほどでした。

 

途中で休憩している時に、雲の動きを説明しました。

 

この日は晴天で少し雲がある程度でしたが、その雲の流れが上に上がって行っていたので、上昇気流の時は天気はいいんだよと、説明しました。

 

すると、長女は泣きべそをかきました。何かきっと勘違いをしたのでしょう。雲が出てきたから下山しなくちゃいけない、と。

 

2年前に、自分の判断で途中で下山してしまったことが、残念だったのかもしれません。

 

無事、山頂に到着。でも、出発が遅れてしまったためにすでに午後1時をすぎてました。

 

長女は、山頂にある郵便局からハガキを送りたいと言ったのですが、山頂の浅間神社から郵便局まで行くのに、また時間がかかります。明るいうちに下山しないと、また長女が不安がってしまうかもしれません。

 

それと記憶が曖昧ですが、郵便局の営業時間の関係もあったかもしれません。

 

「今から郵便局までは行けない」と娘に言うと、残念そうにしてました。すると、そばにいた浅間神社の人が、「後で届けますよ」と言ってくれたので、そのハガキを預けました。

 

しばらく景色を眺めた後、下山開始。

 

歩きながら、長女は、途中8合目で別れた妹のことを「かわいそうだった」、と繰り返して言っていました。

 

妹思いのお姉さんです。

 

予想した通り、下山途中に日が沈み暗くなってしまい、ヘッドライトをつけながらの歩行になりました。

 

娘は、この時も不安がっていました。

 

大丈夫だよ、大丈夫だよ、と繰り返し声がけしながら歩き続けました。

 

下山道もほとんど誰も歩いていなかったので、なおさら不安だったのでしょう。

 

しばらくして登山道と合流地点が見えてきました。この時期は、夜中でも続々と多くの人が登っていきますので、たくさんのヘッドライトの列が、遠くに見えてきました。

 

「ほら、大丈夫でしょ。道も間違ってないよ。これで帰れるよ」

 

などと励ましながら、声がけを続けました。

 

無事、5合目のバス乗り場まで到着。娘は、背負子に乗らずに最後まで一人で歩きました。

 

すごい、頑張ったね。

 

シャトルバスに乗り、駐車場で待つ妻と次女と合流。

 

長女を残して、自分は一人、車で帰っていきました。

 

 

その後、長女は登山はもうこりごりと言っていたそうです。

 

暗い夜道を歩いたことが、不安だったのでしょう。

 

自分も山小屋に前泊すればよかった、そうすれば、もっと早く8合目から出発できたし、明るいうちに下山できたかもしれない。

 

今回も反省だらけの富士登山でした。

 

 

次回、内観法との出会い【私の内観#5】に続きます。

 

 

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