子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -6ページ目

勝どきでの一人暮らし【私の内観#30】

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

前回、パパ、逆上がりできたよ【私の内観#29】からの続き

 

 

長女が4歳のころから、東京と勝どきのマンションで一人暮らしを始めました。週末に時々、埼玉の家族の住む家に帰り、また、勝どきに戻るという生活を送りました。

 

当初は4月から8月半ばまでの予定でした。というのも、当時、税理士という資格試験の勉強をしており、その試験日が8月半ばにあったので、それまでの期間限定という予定でした。

 

娘は、「パパは今、勝どきに住んでいるけどね、8月になったらまた戻ってくるんだよ」、と親戚など周りの人たちに言っていたそうです。

 

その別居中に、浦和にあるサッカースタジアムに、Jリーグの試合を娘と見に行ったこともありました。

 

しかし、自分は8月を過ぎても埼玉の家族の元に帰らずに、千葉の幕張で一人暮らしを始めることにしました。

 

東京の勝どきは、始めから仮住まいということで、荷物をそれほど持たずに生活してましたが、千葉の幕張の時は、埼玉の家から自分の荷物をほとんど全て運んでの引っ越しとなりました。

 

そして、引っ越しが済み、埼玉の家族の住む家から千葉に向かおうと最寄駅に向かって歩いていると、娘から携帯に電話がかかってきました。

 

「パパ、行かないで」

 

と泣きながら。

 

妻から「パパはもう帰ってこないかもね」と聞かされた娘は、悲しくなって慌てて携帯に電話をかけてきたのです。

 

自分は、娘からの泣きながらの訴えに心を動かされて、とりあえず、駅の近くのファミレスに呼んで、家族と食事をしました。

 

「家を出るのは仕方がないけど、近所のアパートに引っ越しをして。それが私たちのお願い。」と、妻は言ってきました。

 

自分は、そのリクエストに、その場でははっきりと返事をしないで別れました。

 

しかし、すでに敷金も払い、管理会社との契約も交わし、引っ越しもした後のことです。今更、すぐに引っ越しなどできないと思いながら、千葉のアパートに着くと、そのまま数ヶ月そこで暮らしました。

 

家族の願いに、全く聞く耳を持たずに。

 

時々、週末に、埼玉の家に戻りましたが、ある時、娘が「パパの住んでいるところに行きたい」と言って、車の助手席に座ってシートベルトもきちんと閉めて、しばらく待っていました。

 

娘は、てっきり、パパは家の近所にアパートを借りてくれたと思ったのでしょう。

 

埼玉から千葉までは、高速を使っても数時間かかる距離です。

 

ちょっとちたドライブではないので、自分は何も言えずに、そのまま助手席で、けなげに待っている娘を放置してしまいました。

 

待てどもパパがこないので、しばらくして、娘は車から降りて家に入ってきました。

 

「かわいそうなことをしたな。」と思いましたが、正直にいうこともできずに、そのまま、何事もなかったかのようにスルーしてしまいました。

 

結局、千葉での生活も約半年で終わり、米国の留学ビザ(F1)を取得してハワイに旅たつことにしました。

 

次回、パパ大好き、ずっと一緒だよ【私の内観#4】に続きます。

 

 

 

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パパ、逆上がりできたよ【私の内観#29】

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

以前の、長女の胎内記憶【私の内観#20】からの続きです。

 

 

娘がまだ4歳くらいの頃だったと思いますが、近所の鉄棒で逆上がりを練習しました。

 
娘は、「できない」、「できない」、と繰り返し言いました。
 
それを聞いて、すぐに「できるよ」と自分は言いました。
 
娘「できない」
 
自分「できるよ」
 
と、何度も娘が逆上がりにトライするたびに、繰り返しました。
 
そして、娘の腰に手を当てて補助しながら、娘はくるりんと逆上がりできました。
 
「ほら、できたでしょ」
 
と言うと、娘の表情が明るくなりました。
 
この時、すでに別居してたので、しばらく娘と会わずにいましたが、久しぶりに娘と会うと、「パパ、逆上がりを見て」と言ってきました。
 
鉄棒のところに行くと、娘はくるりんと見事に一人で逆上がりを披露してくれました。
 
あとで妻から「毎日、〇〇は家に帰ってくるとすぐに、鉄棒のところに行って練習していた」と聞きました。
 
「できない」、と繰り返していた娘は、「できるよ」、と言って、実際に補助を受けながらでも出来た体験をすると、「本当にできる」と、自信ができたでしょう。
 
逆上がり上手に出来て、良かったね。
 
 
 
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娘の成長が楽しみだった幸せな日々【私の内観#28】

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

長女誕生【私の内観#15】からの続き

 

 

長女が生まれてから約一ヶ月の間、妻と赤ちゃんは、妻の実家で過ごしました。自分も生まれたばかりの赤ん坊を見たくて、毎日のように、妻の実家に通いました。

 

というよりは、自分も妻の実家に居候してました。

 

約一ヶ月後、赤ちゃんを連れて、それまで住んでいたアパートに移りました。

 

そのアパートは、ゴキブリの子供がたくさんいる部屋でして、炊飯器を開けると、内なべの外側の溝に数匹の子供のゴキブリが必ずいるというところでした。

 

 

 

 

 

妻の職場に歩いていけるというロケーションだったので、妊娠中の妻の負担が軽くなると思って、そのゴキブリだらけのアパートに引っ越しました。

 

無事、出産が終わったので、そのアパートに住み続ける必要もなくなり、隣町で少し広めのアパートに引っ越すことにしました。

 

そこでは、娘が2歳まで過ごすことになりましたが、楽しい思い出がいっぱいできました。

 

初めてのタッチや伝え歩き、初めてのおしゃべり、などなど、毎日の赤ちゃんの成長していく姿が楽しみで、とても充実した日々でした。

 

休みの日は、娘と近くの公園に行って、砂場遊びや滑り台、ブランコをするのが楽しみでした。

 

後から振り返ると、このままこのアパートに住んでいればよかったな、と何度も思いました。

 

なぜなら、この後、娘が2歳の時に、新築一戸建ての家を買ったのですが、そこから家族の崩壊劇が始まってしまったからです。

 

その家は、夢のマイホームではなく、毎日が戦場でした。

 

次回、家を購入【私の内観#16】に続きます。

 

 

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妻のサポート【私の内観#27】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

前回、心の中のクレンジング【私の内観#44】からの続きです。

 

 

30歳になる頃、税理士になることを決めて、資格の勉強を始めました。実家が社会保険労務士という仕事をしている関係で、関連性がある資格でもあり、自分にとって身近な存在だったからです。

 

税理士の資格を始める前は、日本商工会議所主催の簿記の資格をとりました。この簿記の世界にはまってしまいました。世の中にこんな面白いものがあったのかと。

 

もともと大学も理系でしたので、数字は大好きです。そして、数字合わせのパズルのような簿記の世界が、面白くて仕方がありませんでした。

 

もっと早く簿記に出会っていればと思ったくらいです。

 

税理士の資格の勉強を始めた頃に、ある女性と出会いました。

 

その人は自分より5歳年上。社会人の登山サークルで知り合った人でした。

 

9月で出会って、同じ年の12月に結納。そして翌年の1月1日に入籍。と、スピード結婚でした。

 

そして、自分が税理士を目指して勉強中だと話すと、彼女は、言いました。

 

「早く資格をとってください。私の給料で生活費を賄うので、仕事を辞めて勉強に専念してください。」と。

 

彼女の言葉を聞いて、「えっ」とびっくりしました。

 

それもそのはず。なんと自分が、寿退職することになるとは、夢にも思っていませんでした。

 

それが、彼女からの結婚の条件でもあったので、お言葉に甘えて、当時勤めていた保険会社を辞めて、試験勉強に専念することになりました。

 

自分は、仮にも”男”です。妻の給料で食べさせてもらうということは、屈辱でもあり、恥ずかしいことでした。

 

そこで、早く資格をとって経済的に楽にさせてあげよう、という思いで、必死になって勉強に励みました。

 

そんな、”ヒモ生活?”を2年間過ごしたのち、長女が出産するということもあり、仕事を始めると妻に言いました。

 

妻からは、「なんで?」と聞かれましたが、自分は正直に「男として、妻に食べさせてもらうのは辛かった。もうこんな生活はやめにしたい」と言いました。

 

すると、妻は「そうだったのね。わかってあげられなくて、ごめんなさい」と涙を流して謝ってくれました。

 

でも、まだ資格は取れていません。税理士試験は科目合格制でして、5科目合格すれば、税理士資格がもらえるようになります。

 

毎年1回、8月に試験があり、12月に試験発表があります。試験日から合格発表までに随分と時間がかかる試験です。

 

8月の試験を受けた後、仕事を見つけて会計事務所に働き出しました。そして、9月に待望の長女の出産。

 

さらにその年の12月、簿記論と財務諸表論という科目を2科目合格。

 

この合格通知が家に届いた時、妻と一緒に抱き合って喜びました。

 

この時、妻のサポートを受けながら試験勉強に専念して、2年半が経過していました。

 

また、結婚してから長女が出産するまでも、同じく2年半が経過していました。その前に流産を経験しているので、この時は待ちに待った出産でした。

 

待望の長女出産と、税理士試験2科目合格が重なり、幸せの絶頂期でした。

 

 

離婚した今でも、この2年半に及ぶ、”ヒモ生活?”、ではなく試験勉強に専念させてもらった恩義は忘れてはいません。

 

経済的に楽をさせてあげたい。そして、この時の妻の恩に報いたい。

 

離婚した今でも、その思いでいます。

 

次回、娘の成長が楽しみだった幸せな日々【私の内観#28に続きます。

 

 

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要介護3認定の認知症の義母との対応【私の内観#26】

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

前回、義母との同居【私の内観#17】からの続き

 

 

家を購入してまもなく、義理の母との同居生活が始まりました。

 

義理の母は、当時、要介護3の認定を受けていて、デイサービスに週6日通っていました。

ある日の朝、義母にお米を炊飯器にセットするのを頼みました。要介護3認定を受けているとはいえ、食器の洗い物など簡単なことでできることを、お手伝いしてもらっていたのです。

 

義母が、コメを洗って水を入れているところをちょっと見てみると、水の量が極端にすくなかったので、「もう少し水を足してくださいね」といいました。

 

しかし、義母は、次のように言いました。

 

「私は、ちゃんとやってます。」と。

 

要介護3認定を受けている人との対応に、あまり慣れていなかった自分は、繰り替して言いました。

 

「これじゃ水が足りないので、もう少し足してね」と。

 

すると、義母も応戦。

 

「私は、今までずっと台所仕事してきましたので、わかってます。ちゃんとやっています」と。

 

それ以上口を出さないで、義母が台所から離れた隙に、こっそりと自分で水を足せばよかったのですが、そのまま自分も応戦。

 

少し言い争いになってしまいました。

 

その後、自分は娘を保育園に送り、会社へ出勤。

 

夜、家に戻ってくると、妻が心配そうに言いました。

 

「今日、デイサービスから電話がかかってきた。おばあちゃん(義母のこと。孫から見たらおばあちゃんなので、そう呼んでました)がデイサービスから家に送迎してもらう時、『帰りたくない』と言って、大騒ぎになった」と。

 

「何があったの?」と。

 

自分は、妻に今朝あったことを説明しました。

 

それから、妻の自分に対する態度が変化して行きました。

 

義母のことになると、妻は義母を守ろうとして戦闘モードとなり、全く話し合いができない状況に。

 

家の中は、喧嘩が絶えない、戦場と化して行きました。

 

妻は、よく、母親に怒っていました。ゴミ出しや食器の洗い物などがうまくできないので、しつこく怒りました。

 

あんまりきつく怒るので、時には、義母が涙を流して、自分の部屋に閉じこもってしまうこともありました。

 

自分では言われた通りやっているつもりでも、うまくできないので、泣いていたのでしょう。

 

子供のいることろで、平気でネチネチと1時間も母親に怒っているので、こちらもかわいそうになるし、また子供にとってもよくないので、怒るのをやめるように言いました。

 

そんなことは、何度もあったのですが、デイサービスから「家に帰りたくない」、と言って大騒ぎになることはありませんでした。

 

しかし、たまたま自分が義母に注意したら、「帰りたくない」と言って大騒ぎとなってしまったのです。

 

やはり、いくらネチネチ1時間近く怒られようとも親子です。実の娘から注意されるのと、娘の夫から注意されるのでは、受け取り方が違うのでしょう。

 

自分は、要介護3認定の方で、しかも義理の母との対応の仕方が、よくわかってませんでした。

 

この一件からしばらくして、妻が自分に怒鳴るようにして言いました。

 

「私は、母親と暮らすことを選びます。あなたと暮らすことを選びません。母親が大事ですから」と。

 

これは、事実上の別居宣言。

 

もともと、「しばらく落ち着くまで、この家に住んでもらったら」と、義母との同居を提案したのは、自分でした。

 

義理の父が急に亡くなり、認知症が進行してしまった義理の母を、一人暮らしさせるのは心配というので、自分から提案したのです。

 

しかし、妻からは、「私は、母親と暮らすことを選びます。あなたと暮らすことを選びません。母親が大事ですから」と。

 

マイホームを買ってまもなく、自分は新居を出て、別居生活を始めることとなりました。

 

次回、次女出産【私の内観#19に続きます。

 

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おばあちゃんとの思い出2【私の内観#25】

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

前回、おばあちゃんとの思い出【私の内観#24】からの続き

 

 
20代の頃、田舎の近所にあるゴルフ場で働くことになりました。
 
そこで、しばらく祖母が住む家に居候させてもらうことにしました。
 
おじさんの家族も住んでいるので、共同生活になりましたが、ゴルフ場に通いだして間もなく、その家を出ると言って荷物をまとめて出て行ってしまいました。
 
もちろんゴルフ場も辞めて。
 
おばあちゃんは、突然、孫が出て行くと言い出して、その日のうちに荷物まとめて出て行こうとするのに、驚いた様子でした。
 
「なんで、また、そんな急に出て行かなくちゃいけないんだい」、と。
 
おばあちゃんとしても、孫が一緒に住むことになって、嬉しかったんだよ、とあとから親から聞きました。
 
でも、その時は、人の言うことに聞く耳をもちませんでしたので、おばあちゃんからなんと言われようとも、出て行くと言って、とっとと出て行ってしまいました。
 
そして、どこへ行ったかというと、北海道です。
なんのあてもなく。仕事先も住まいも見つけずに。
 
今から振り返ってみると、なんでそんな行動をとったのか、自分でもわかりません。
 
ただ、その時、ふと、耳元でささやく声が聞こえてきました。
 
「お前は、いつまで、そこにいるつもりなんだ、」と。
 
その声は、「そんな、おばあちゃんがいる家で、ぬくぬくと暮らすことはやめて、早く外に出ろ」、と言っているように聞こえました。
 
誰が語りかけたのか、知りません。空耳かもしれません。
 
でも、自分は、その声に影響されて行動してしまいました。
 
愚か者かもしれません。また、これでよかったのかもしれません。
 
おばあちゃんや親、おじさん、ゴルフ場など、周りの人に迷惑かけてしまったことには、変わりありません。
 
 
 
 
 
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おばあちゃんとの思い出【私の内観#24】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

前回、元妻と次女と3人で富士登山【私の内観#9】からの続き

 
 
 
小学1年か2年生の時、家族で田舎に帰省したとき、わがままを言って、おばあちゃんを困らせてしまったことがあります。
 
毎年、お盆と正月に帰省していたのですが、ある時、スーパーカーの写真が写っている下敷をみつけて、「これ欲しい欲しい」と言って、ダダをこねてしまいました。
 
祖父母の家は、八百屋を営んでいて、スーパーカー下敷は、その店で売っていたコカコーラジュースの景品だったのです。
 
「これは景品なのであげられないんだよ」と、おばあちゃんは困ってました。
 
いつも帰省すると、お小遣いをくれる優しいおばあちゃんでしたが、この時だけは、孫のわがままを聞いてあげたくてもできないので、困りはてといたのです。
 
母親にも、「いい加減にしなさい」、と怒られましたが、自分はどうしても諦めきれずに、「欲しい欲しい」とねばり続けて、とうとう無理やり手に入れてしまいました。
 
なぜこれほどまでに、スーパーカーの写真が写っている下敷が欲しかったかというと、その当時、スーパーカーブームだったからです。
 
手に入れた下敷を自分の机のところに飾り、大切にしてました。
 
でも、これは無理やり手に入れてきた、というか、奪ってきた下敷です。
 
その後、おばあちゃんがコカコーラの景品の数が”当たり“と合わないから、業者の担当の人から
怒られたかもしれません。
 
そんな事もお構いなしに、人の迷惑省みずで、わがまましてました。
 
まだ、小学低学年だから許されたのかもしれません。
 
何をやっても許される、子供時代。
 
でも、その影で母親もおばあちゃんに謝ったりと、気遣いしていたことでしょう。
 
そのおばあちゃんは、今年の夏、他界しました。99歳でした。
 
おばあちゃん、わがまま言ってごめんなさい。そして、ありがとう。
 
 
 
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瞑想と祈り【私の内観#23】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

前回、離婚調停【私の内観#8】からの続き

 

 

 

米国にて家族と別居するようになってから、朝起きてからと、夜寝る前に瞑想するようになりました。

 
瞑想の時に、家族の幸せを祈ります。
 
娘と元嫁、義母、父と母、弟など。
 
 
そして、最近サボり気味ですが、先祖供養もします。
 
やり方は、色々あるかと思いますが、縦長の紙にご先祖様の名前を書いて、それを読み上げて、お経を唱えます。
 
これも瞑想と一緒にやります。
 
この瞑想を始めた当初は、雑念ばかりが浮かんで、なかなか瞑想になりませんでした。
 
でも、毎日のように続けていると、次第に雑念は浮かんでこなくなります。
 
そして、日常生活で起きる様々な選択や判断など、この時に、ふと思い浮かんだ事をやるようにすると、スムーズに物事が運ぶようになります。
 
今では瞑想や先祖供養をやった日とやらなかった日では、まわりの景色が違ってみえます。
 
空気感も違います。
 
以前は、娘に対して自己処罰ばかりしてました。
 
趣味が、自己処罰。自分で自分を痛めつける事、でした。
 
それが、瞑想をはじめて、その自己処罰をクリアにするような祈りも合わせてやっていたら、だんだん自己処罰の頻度が軽くなっていきました。
 
 
いままでの自分の経験と知識の範囲内で、判断したり、ああでもない、こうでもない、と理屈をこねくりまわしても、大した発想は思いつきません。
 
でも、祈りと瞑想を習慣にして毎日やっていると、思いつかないような発想が出てきます。
 
祈りと瞑想には、驚くほどパワーがあるんだな、と実体験しました。
 
次回、祈りの力【私の内観#43】に続きます。
 
 
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自分の胎内記憶【私の内観#22】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

過去の振り返りを通して、なぜ、自分が子供と離れて暮らす心の悩みカウンセラーになったのか。

 

自分の使命がわかる気がします。

 

あなたにとっても、何かの気づきになっていただけると、とても嬉しいです。

 

お好きな記事から、読んでみていただければと思います。

 

ーーーーーー

 

 

自分は、家庭の中で居場所がなくなり袋小路にはまってしまい、離婚をしようかどうしようか悩んでいたとき、ヒプノセラピー(催眠療法)に出会いました。

 

ヒプノセラピーでは、自分の深い意識の中に眠っている記憶を再体験することができます。

 

その再体験することで、自分の周りに現れている問題の原因は一体なんなんだろう、ということに気づくことができます。

 

このヒプノセラピーのセラピスト養成講座を受講した時のことです。

 

退行催眠というものがあり、子供の頃の自分に戻って行くのですが、子供の頃を通り越して、母親の体内にいる時の記憶が蘇ってきました。

 

その時の映像が出てきてまるで、映画のスクリーンをみているような感じです。

 

自分が子供の頃過ごした団地の部屋の様子が映し出されて、その部屋に妊娠している母親と、その母親のお腹に手を当てたりして、お腹の様子をみている父親の姿が見えてきました。

 

自分はどこにいるかと言うと、母親のお腹の中にいるはずですが、そうではなく、その部屋の中の様子を、窓の外からみているのです。

 

そして、しばらくして母親のお腹の中に入ったり出たりして、また窓の外から部屋の中をみているのです。

 

なんとも不思議な体験でしたが、この時の映像がはっきりと脳裏に映し出されてきました。

 

そんな頃の記憶など無いですし、なぜ、母親の中にいるはずの自分がお腹から出たり入ったりできるのかよくわかりませんでした。

 

後から、色々な本を読んでいると、母親の胎内にいる赤ちゃんの魂は、母親のお腹から出たり入ったりして遊ぶのが好きだと書いてありました。

 

あなたは、ここまで読んで、何をイっているんだ、馬鹿馬鹿しい、と思っているかもしれません。

 

安心してください。

 

あなたは普通の方です。

 

このような話を理解して信じられる人は、私のように少し、イってしまっている人です。

 

おとぎ話だと思っていただければ、ちょうどいいかもしれません。

 

このヒプノセラピーにより、退行催眠を経験した時、すっかり眠ってしまって意識が無いのかと言うと、そうではありません。

 

意識ははっきりしているので、外の雑音など聞こえてきます。

 

ですので、麻酔などを受けて、意識がもうろうとしている状態ではありません。

 

でも、その一方で、過去の記憶が映像としてスクリーンに映し出されてくるのです。

 

映画館でスクリーンに映し出された映像をみて、感情移入してその映像の世界に入り込んでいる時に、隣の人がお菓子を食べている音や咳払いなどが聞こえてくるのを、経験したことあると思います。

 

それと似ています。

 

自分は、この母親の胎内にいる時の記憶を観てから、父母からどれだけ愛されて生まれてきたのか、理解できるようになりました。

 

次回、パパ、行かないで【内観#3】に続きます。

 

 

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長女の小学校入学式【私の内観#21】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

前回、米国永住権【私の内観#18】からの続き

 

 

 

2010年、長女が保育園を卒業して小学校に入学しました。

 

保育園の卒園式が3月で、小学校入学式が4月なので、両方は無理でもどちらかに出席しようと思い、4月の入学式に合わせて日本に帰国しました。

 

長女は、保育園の卒園式にパパにきてもらいたがっていました。

 

その保育園では、父兄が舞台に上がって子供と一緒に卒園証書を受け取るセレモニーがあったので、それにママではなくパパに出てもらいたかったと、長女は言いました。

 

でも、そのとき自分はハワイで別居生活していたので、ちょくちょく日本に行くこともできず、小学校の入学式に参加することにしました。

 

しかし、ひさびさに帰ってきたのに、また大げんか。

 

妻からは、「入学式に来ないで」と言われてしまいました。

 

感情的になって言ったセリフなので、真に受けなくてもよかったのかもしれません。

 

でも、自分は、娘の学校にいけないと思い、仕方なく入学式に参列しないで、ハワイに戻ることにしました。

 

せっかく、卒園式をスキップして、入学式に合わせて帰国したのに、その入学式にも参加できずに戻ることになりました。

 

こんなことなら、保育園の卒園式に帰っていればよかったと思いました。

 

長女もそれを望んでいたので。

 

その後、小学校の行事として運動会などありましたが、一度だけ参加させてもらったきり、2度と学校行事に参加させてもらうことはありませんでした。

 

次回、長女と2人で富士登山 2回目【私の内観#11】に続きます。

 

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