子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい





今日も
ついてる
うれしい
たのしい
ありがとう
感謝します
許します
幸せ
な一日でした。

・親はみな、未熟な魂で試行錯誤して子供を育てていきます。
 あなたの親もそうしてきました。大丈夫です。

・子育てとは親が子供を育てること?
 子育てを通して親は育てられるのです。

・子供は親を選んで生まれてきます。あなたは子供から選ばれた親なのです。
 その事を意識して子供と接してみると親子関係よくなります。

・親に感謝する心を持つ、また、子供から感謝されるような親になる。
 これができれば苦労しません。 

・親に感謝、先祖に感謝、守護霊さんに感謝。
 1日24時間365日感謝することできれば、あなたの身の回りに、
 ついてる事が津波のように起こります。

・あなたの子供に「人に感謝する心」「ありがとうと言える心」を育てると
 あなたの子供は成功できます。


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日露戦争の際、講和会議に全権大使としてした小村寿太郎。その時に締結したポーツマス条約の内容を巡って、国中から激しい非難が起きました。

誰も味方をする人がいなくなり、四面楚歌となった小村寿太郎に対して、決して信用を失なわずに擁護を続けた人がいました

小村寿太郎とポーツマス条約 その時の友との強い絆
明治37年(1904年)2月8日、日本とロシアとの間で戦闘が開始されました。(日露戦争)

明治38年(1905年)1月1日、乃木希典率いる第三軍が旅順要塞を陥落。

それに続き、乃木軍は奉天に向けて出陣。奉天(現在の瀋陽)では大山巌大将率いる日本軍がロシア軍と対峙しており、お互いに牽制していました。

明治38年(1905年)2月21日、ついに戦いの火蓋が切られました。(奉天会戦)

この戦いでは、すでに「乃木」の名はロシア軍の間では有名になっており、乃木軍が来たとわかるとロシア軍の士気が下がり、日本軍に優位の戦いとなりました。

この奉天での戦いに勝利した後、大山総司令官の本部を奉天に置き、西は旧蒙古の辺境より東は朝鮮国境の連山まで約290キロにおよぶ戦線を拡大しました。

乃木希典率いる第三軍の司令部は法庫門という小さな町に陣地を構えて、駐屯するようになりました。

明治38年5月28日、日本海海戦で日本海軍の連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を殲滅して大勝利。

講和会議
それに続く8月10日から米国のポーツマスという場所で、米国のルーズベルト大統領の仲裁の元、日露の間で講和会議が行われました。

日本全権大使として小村寿太郎外相が出席。

この講和会議の間、満洲の前線に駐屯している日本軍はどうしていたのでしょうか?

日本本土から兵隊が毎日のように送られて来ており、来るべきロシア軍との戦闘再開に準備を怠りなく進めていました。

満洲を走る鉄道では、武器弾薬や大砲、馬、食糧などを満載した貨物列車が頻繁に南方から北に向けて輸送されていきました。

この時期はまだ、講和会議が始まったというだけであり、それが首尾よく終わり「平和」が訪れるという確証がありませんでした。

ですので、講和会議が決裂したあとのことを想定して、戦闘態勢を着々と整えていたのです。

また、東京の参謀本部においても、当初の計画では奉天(現在の瀋陽)での会戦で戦争集結というシナリオを描いていたので、その奉天会戦後のロシアとの戦いについてはまだ、白紙の状態でした。

参謀本部でも急遽、奉天会戦後の作戦計画を詰めている状態だったのです。

一般的には、日本軍の戦争継続力は、資金的に旅順陥落時点ですでに枯渇しており、ロシア軍司令官のステッセルが、明治38年1月1日に降伏してくれたおかげで、日本はかろうじて勝利することができたといわれていますが、必ずしもそうではなかったのです。

歩兵、騎馬、砲兵、その他の軍需品の数々が、陸路を長蛇の列をなして前線に運ばれていきました。

乃木大将率いる第三軍の将兵の士気はすこぶる高く、日本内地から続々と送られてくる兵士の補給もあって、ロシア軍の極東での侵略の野望と殲滅してやるという、戦闘意欲が日に日に高まっていきました。

ポーツマス条約
3月の奉天会戦から約6ヶ月間を経て、いよいよ戦闘再開かと思われた矢先、明治38年(1905年)9月4日、ポーツマス条約が締結。

しかも、その条約の内容はロシアからの賠償金が無いという、日本にとっては敗北的なものでした。

この知らせを聞いた、満洲に展開している日本軍の将兵はどのような心境だったでしょうか?

ある騎兵軍曹は、乃木軍に従軍していたロンドンタイムスの記者のスタンレー・ウォシュバンに次のように憤慨していました。

「この知らせが本当であるならば、我々は裏切られたのだ。我が勇敢な軍人は皆売られてしまったのだ。しかし、我々戦地にいるものは、そんなことは断じて許さない。そんな条約は認めない。戦を続けるのだ。講和しようがしまいが、ロシア軍を打ち破ってしまうのだ。」と。

またある兵士は言いました。

「小村大使は日本に帰国したら暗殺されてしまうだろう」と。

乃木大将はどのような心境だったのでしょうか?

乃木大将は講和条約締結の報告を受けて、失望してしまいました。あまりにもその落胆が大きかったのでしょう。

寝込んでしまい、しばらく眼病のため面会謝絶という状態になってしまいました。

無理もありません。

あれだけの多大な損害を払ってまでして勝ち取った旅順要塞。そして奉天。

その代償が、賠償金無しとは。

無賠償とはいえ、南樺太や南満州鉄道の租借権などを勝ち取りました。

しかし、賠償金無しという事実は、前線で戦ってきた将兵、そして日本国民にとっては決して受け入れることができないものだったのです。

ましてや、旅順など満洲の地で犠牲となった英霊たちにとっては、納得できるものではなかったでしょう。

杉浦重剛とは?
講和条約が締結された後、日本各地で暴動がおきました。東京日比谷公園でも暴動が起きて交番などが破壊されたり焼かれたりて、東京は戒厳令が敷かれるほど治安が悪化しました。
(日比谷焼討ち事件)

小村寿太郎外相が日本に帰国すると、案の定、非難の嵐でした。

日本国中から非難を受けた小村寿太郎。

しかし、ただ一人彼を擁護する味方がいました。

それは、友人である杉浦重剛(すぎうら じゅうごう)です。

明治初年、杉浦重剛は東京の開成学校に学んでいた頃、同級生の小村寿太郎と親しくなりました。

後に、小村寿太郎が外交官となった頃、父の残した負債のために経済的に困窮していました。

杉浦重剛は、小村寿太郎のこの苦しみを見るに忍びず、友人と相談し、連帯保証人になってまでして借金返済の協力をして、小村を救ってあげようとしました。

連帯保証人になるということは、もしかすると、自分が借金返済しなければならなくなるという危険があリます。

このことについて、杉浦重剛に方法を誤らないようにと、忠告した友人もいました。

しかし杉浦重剛は、今、小村寿太郎の目前の急を救うため、少しもためらってはいられないと思いました。

そこで、連帯保証人となるのは止むを得ないと、その友人に言って納得してもらいました。

このような杉浦重剛の友を思う友情に感銘して、その友人自身も、連帯保証人になると言い出しました。

このようにして、杉浦重剛を中心とする数名の友人は、小村寿太郎の差し迫った経済的な困窮を救ってあげたのでした。

小村寿太郎が、貧乏のどん底に落ちて、なおその志を伸ばすことができたのは、杉浦重剛の友情に負うところが、少なくなかったのです。

明治38年7月、外務大臣であった小村寿太郎は、米国における日露講和会議に、全権大使として東京を出発。

この時は国中あげての歓声の中での出発でした。

この時の小村寿太郎の心境はどのようなものだったのでしょうか?

小村寿太郎の苦悩
戦局の実情を深く洞察すると、講和会議の内容が日本国民が期待するものとはならず、きっと非難を受ける結果になると覚悟してました。

杉浦重剛は病気で寝込んでいたので、小村寿太郎が米国に出発するのを見送ることができず、人に頼んで次のような送別の言葉を伝えました。

「たとえ、どんなことがあろうとも、あくまで自己の所信を貫け。事の成否は、あえて恐るるに足らない」と。

ポーツマスで行われた講和会談では、案の定、日本国民が期待するものとはならなかったので、激しい非難が小村寿太郎に対しておきました。

杉浦重剛の塾にいる人たちでさえ、その非難を始めました。けれども、小村寿太郎を信じていた杉浦重剛は、次のように言って小村を励ましました。

「小村君は、君国のあることを知って、少しも私心のない男だ。しかも今、日本第一の外交官である。日本一の外交官がやったことだ。あれで良いのだ。」

しかし、国民からの非難の声は高まるばかり。

小村寿太郎を弁護する人は、杉浦重剛の他は、誰もいなくなってしまいました。

小村寿太郎の同窓生の人たちまでも、外務大臣に辞職勧告しようと息巻いて、杉浦重剛のところに押しかけてきました。

杉浦重剛は言いました。

「小村君なればこそ、あれだけやれたのだ。辞職勧告どころか、総理大臣にもなれる者だと思っている。」と。

朋友
朋友はよく選ばなければなりません。良い友と交われば、知らず知らずの間に、良い風に感化せられ、悪い友と交われば、いつのまにか、その悪い風の染まってしまいます。

古語に、「朱に交われば赤くなる」

「ヨモギ、麻の中に生ずれば、助けずして自ずから直し」

という言葉があります。

参考図書
修身教授録 (致知選書)

[復刻版]初等科修身 [中・高学年版]

国民の修身

注釈『初等科国史』『初等科修身』(復刻合冊)

乃木大将と日本人 (講談社学術文庫)

昭和11年2月26日、陸軍の青年将校たち1404名が決起。首相官邸などを襲撃したクーデターがおきました。この事件は首都東京で、皇軍(日本軍)同しで戦争をするという危機であり、また、日本が滅亡してしまうという国家存亡の危機でもあった事件だったのです。

226事件とは
事件の3日前の昭和11年2月23日、磯部浅一(元一等主計)は、西田税(みつぎ)(元少尉)の自宅を訪問しましたが、留守だったので、奥様のはつ氏に次のようなことを話ました。

「今度こそは決起します。もし西田さんが反対してもやります。西田さんの命を頂戴してもやります。」と。

この伝言を聞いた西田は次のように言いました。

「今までは反対してきたが、もう止められない、黙認する。軍人だけにやらせる」と。

それまで、西田税(みつぎ)は、決起するのに反対していましたが、この時にはもう止めることはできない状況になっていました。

西田税(みつぐ)(元少尉)は、病気のため予備役となっていましたが、皇道派に大きな影響を与えていました。

昭和11年2月26日の早朝、栗原安秀中尉率いる歩兵第1連隊は首相官邸を襲撃。

岡田啓介首相を殺害したつもりが、殺害したのは義弟の松尾伝蔵であり、岡田首相本人は部屋の片隅に隠れて無事でした。

高橋是清大蔵大臣、斎藤実内大臣、鈴木貫太郎侍従長、渡辺錠太郎教育総監、牧野伸顕が次々と殺害され、警視庁も占拠されてしまいました。(鈴木貫太郎侍従長は、奇跡的に命は助かり、その後、終戦へと大きく貢献した首相となります)

栗原安秀中尉は、西田税(みつぐ)に電話をしましたが、本人は留守であったので、奥様のはつ氏に伝言しました。

「首相官邸を目指して来てください。合言葉は尊王斬奸」と。

安藤輝三歩兵大尉率いる歩兵第3連隊は赤坂にある料亭、幸楽(後のホテルニュージャパン)に立てこもりました。

ドイツとの不可解な関係
当時のドイツ大使館(現在の国立国会図書館)は、陸軍省と参謀本部に隣接していました。
戦後、駐日大使になったヴィルヘルム・ハース氏(WILHELM HAAS)もこの時、ドイツ大使館で勤務していました。

参謀本部でドイツ班に所属していた馬奈木敬信陸軍中佐は、反乱軍を避けるようにして、ドイツ大使館の裏門から頻繁に進入。

昭和11年(1936年)2月8日、兵器ブローカーでドイツ人のフリードリヒ・ハックが、日独防共協定の交渉のために来日。

この協定は、昭和11年(1936年)11月に締結されますが、そのための工作は前年からドイツで後に外務大臣となるリッベントロップらと始まっていました。

ドイツ大使館にて馬奈木敬信陸軍中佐は、ドイツ駐在武官のユーゲン・オットーに事件の進捗情報を提供していました。

その面談の場にはいつも、ユーゲン・オットーの秘書も同席していました。

その秘書の名はリヒアルト・ゾルゲ。

ゾルゲとは、コミンテルンのスパイであり、大阪朝日新聞の尾崎秀実と共に、日本帝国を滅ぼすために暗躍していた人です。

なぜ、ゾルゲがドイツ大使館にて駐在武官の秘書をしていたかというと、ゾルゲは元々ドイツ人だからです。その後ドイツ人でありながら、ロシアのコミンテルンのスパイとなり、様々な工作活動に従事していました。

戒厳令
昭和11年2月27日、戒厳令が公布。

この日から、東京の交通網、通信網などは遮断されて、治安、警察、行政の大半は九段に設置された戒厳司令部が管轄することとなりました。

昭和11年2月28日、天皇から奉勅命令が発令。「決起部隊は原隊に帰れ」

東京湾には戦艦長門を始め40船の連合艦隊が集結して、永田町に砲門の標準を定めて艦砲射撃する配備についていました。

また、2万4000人の兵隊と戦車隊が反乱軍を包囲して、上空には戦闘機が飛び交っていました。

交通は完全に遮断されて、麹町区の住民には避難勧告が出されました。

山下泰文少将と鈴木貞一大佐は、栗原中尉など反乱軍の青年将校たちと必死の交渉が続けられていました。

反乱軍は天皇の大命に従わず、原隊復帰せず、武力行使を辞さないという態度を固めました。

これにより、ついに反乱軍に対して討伐命令が出されました。

青年将校たちが決起した理由
「日本改造法案大綱」(改造社)を書いた北一輝。

華族や貴族の廃止や私有財産の制限など、この北一輝の思想は、青年将校たちに大きな影響を与えました。

青年将校たちの目的は、真崎甚三郎陸軍大将を首相として担ぎ上げたかったのです。
陸軍には統制派と皇道派の2つの派閥があり、皇道派の大将が真崎甚三郎大将でした。

皇道派の青年将校ちは、自分たちの大将を首相とする内閣を作りたいという思いで、クーデターを起こしてしまったのです。

その一方、安藤大尉など青年将校たちに従った兵隊たちは、どのような心境だったのでしょうか?

すでに2月28日には、天皇からの命令が発令されており、国賊となっていたのですが、兵隊たちにはその事実を伝えられていませんでした。

下士官たちには、天皇の命令に従うのか、上官である青年将校の命令に従うのか、という2つの道がありました。

陸軍の統帥権の最高指揮官である天皇の命令系統から、外れてしまった青年将校たちは国賊でありますので、下士官たちの生きる道は、青年将校の命令から脱却して投降するしかありませんでした。

兵に告ぐ
2月29日午前9時、九段に設置された戒厳令司令部から投降勧告の放送が流れました。

ー兵に告ぐー

「勅令が発せられたのである。すでに天皇陛下の御命令が発せられたのである。
お前たちは上官の命令を正しいものと信じて、絶対服従をして誠心誠意活動したのである。

この上お前たちがあくまでも抵抗したならば、それは勅命に反抗することとなり、逆賊とならねばならぬ。

正しいことをしたと信じていたのに、それが間違っていたと知ったならば、いたずらに今までの行きがかりや義理上から、いつまでも反抗的態度をとって天皇陛下に背きたてまつり、逆賊としての汚名を永久に受けるようなことはあってはならぬ。

今からでも決して遅くはないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の元に復帰するようにせよ。

そうしたら今までの罪も許されるのである。お前たちの刑はもちろんのこと、国民全体もそれを祈っているのである。速やかに現在の位置を捨てて帰ってこい。」

2月29日の午後2時ごろには、ほとんどの下士官たちが原隊に復帰。そして、青年将校たちは、渋谷にあった陸軍衛戍刑務所に収容されました。

青年将校に投降するよう説得した二人の運命
陸軍の皇道派として青年将校と親交のあった、山下泰文(ともゆき)少将と鈴木貞一大佐は、事件が収束するまで、将校たちに投降するように説得していました。

山下泰文(ともゆき)少将は、事件の第一報の連絡を受けて次のように語っていました。

「何、やったか! 陛下の軍隊を使ってそのようなことをするとは、けしからん!もってのほかだ!」と。

また次のようにも語りました。

「この事件が解決したら、自分は責任をとって辞める」と。

その後、昭和16年末、日本軍によるシンガポール陥落の際の司令官として、またマレーの虎としてフィリピンで活躍した山下奉文少将。

戦後はフィリピンのマニラにて戦犯として処刑。

山下奉文少将の運命は、226事件によって大きく変わっていくこととなりました。

内閣調査局の調査官であった鈴木貞一大佐は、それまで皇道派でしたが、事件後に統制派に転向して、やがて東條英機の側近となりました。

事件後も皇道派に所属していたので、出世からは遠ざかっていた山下奉文とは異なり、統制派に転向した鈴木貞一は首相の側近にまで出世していきました。

その鈴木も終戦後は、A級戦犯となり巣鴨プリズンの収監されましたが、昭和30年に釈放されました。

226事件の黒幕
『経済更生案』、『農村政策』などを書いた亀川哲也氏は、民間人として、226事件を資金面などから援助していました。

青年将校たちは自分たちの意思というよりは、北一輝の思想に強く影響を受けており、活動資金も北一輝から受け取っていたと思われます。

つまり、北一輝が陸軍の兵隊を動かして、自分の理想とする日本に改造するために仕掛けた、クーデターであったという見方もできると思います。

予備役となっていた斎藤瀏(さいとうりゅう)は、親しかった栗原安秀と共に陸軍衛戍刑務所に収監されました。

首相官邸を襲撃した池田俊彦少尉は、官邸を襲撃した青年将校八人の中で唯一処刑を逃れました。

昭和11年7月11日、事件の首謀者である青年将校ら15名の処刑が執行。
7月17日、戒厳令が解除。

昭和12年(1937年)8月19日、北一輝、西田税、村中孝次、磯部浅一の処刑が執行。

参考動画
NHK特集『戒厳指令「交信ヲ傍受セヨ」 二・二六事件秘録』

昭和2年(1927年)に日本全国の銀行で取り付け騒ぎが起きて金融危機が襲いました。その時にもっとも重要な役割を演じたのは、日本内地の銀行ではなく、日本統治下の台湾銀行でした。

昭和恐慌での台湾銀行の功罪

大正3年に第1次世界大戦が勃発。日本経済は未曾有の好景気になりました。
しかし、大正7年に戦争が終結すると、その2年後の大正9年(1920年)春から一転して不況となりました。
また、近い将来に金解禁になることが想定されていたので、経済を立て直すことが急がれていました。

金解禁とは何かというと、金本位制度に移行するという意味になります。

政府や日銀は、紙幣をその時の経済政策に応じて好きなだけ発行できるのが管理通貨制度となりますが、金本位制度では紙幣をいつでも金と交換できるというものになりますので、紙幣の発行に制限が生じてしまいます。

なぜなら、政府日銀が保有している金は有限だからです。

それまで日本では管理通貨制度を採用していましたが、世界の主要国が金本位制度に移行して行ったので、日本でも金本位制度へ移行するのも時間の問題でした。

そのような中、大正12年9月1日、関東大震災が発生。

明治政府は、この震災の影響で東京や横浜などの被災地で、9月中に支払いができなくなってしまった手形を、日銀が再割引して補償するという緊急勅令を発行。(震災手形)

震災手形

震災手形の返済期限は、当初2年後の大正14年(1925年)9月末とされていましたが、毎年延長されて昭和2年(1927年)9月末となっていました。

昭和元年末における震災手形未決済残高は2億680万円、(うち日銀割引残高は1億5903万円)。
もし、この金額を全て返済期限をもって回収するとなったら、どういう事態になるでしょうか?
倒産者が続出し、経済界は大混乱に陥ることは容易に予想できました。

昭和2年9月末の返済期限を控えて、日銀が肩代わりした手形の不良債権化した損失を、明治政府がどこまで補填するのかが政治的な争点となりました。

 

昭和2年1月、今治商業銀行(今治市所在)、 深谷商業銀行(埼玉県所在)が休業。
2月、広部銀行(東京市所在)、 徳島銀行(徳島市所在)、徳島貯蓄銀行(同) が休業。

3月14日、衆議院予算委員会において昭和2年度追加予算案の審議が開始。
この予算委員会の中で、片岡直温大蔵大臣は、次のような答弁をしました。

「現に今日の正午頃において渡辺銀行がとうとう破綻しました。これも誠に遺憾千万に存じますが、これらに対しまして預金は約三千七百万円ばかりございますから、
これらに対して何とか救済をしなければならぬと存じます」と。
(片岡失言)

この片岡大臣の発言をきっかけとして、日本全国の金融機関(1420行、昭和元年時点)で取り付け騒動が発生していきました。
3月15日、東京渡辺銀行(東京市)とあかぢ貯蓄銀行が臨時休業。

3月19日、中居銀行(東京市)が臨時休業。

3月21日、左右田銀行(横浜市)が2週間の臨時休業。
3月22日、八十四銀行(東京市)、中沢銀行(東京市)、村井銀行(東京市)が2週間の臨時休業。

この日は東京市内のほとんどの銀行で、取り付け騒ぎが起きました。

3月23日、日銀の損失を、明治政府が10年で償還する国債を発行して損失を処理するという震災手形関係法案が成立。

この法案の審議に時間がかかってしまったことが、金融恐慌の原因の一つとなってしまいました。

台湾銀行と鈴木商店

震災手形をもっとも多く保有していたのは台湾銀行であり、その大部分が鈴木商店関係のものでした。

台湾銀行にとって最大の足かせとなっていた鈴木商店は、当時最も規模の大きい商社の一つであり、その傘下に65の系列企業(直系35、傍系30)を保有していました。

台湾銀行は鈴木商店に対してどのくらいの貸付をしていたのでしょうか?

台湾銀行の固定貸は4億5640万円で、総貸出の6割を超える膨大な額であり、このうち3億387万円が鈴木商店系への貸出(利息手形を含まない)でした(昭和元年時)。

また震災手形についても、その総額(4億3082万円)のうち、最大の比重を占めていたのは鈴木商店関係のもの(7189万円)で、しかもその大部分が台湾銀行の割引依頼によるものでした。

日銀による台湾銀行に対する貸出は、3月12日に1億516万円、3月23日には2億3225万円へと急増。

3月24日、台湾銀行の役員総会において 「鈴木商店に対する援助は打切る」ことを決議。

これに対して政府側は、議会開会中の融資打切りという事態を避ける意味から、その実行を3月28日(月曜)まで延期してほしいと要望し、台湾銀行もこれに同意。

4月13日、政府は台湾銀行調査会を招集して、台湾銀行の資金難を救済する方法について、片岡蔵相、井上台湾銀行調査会会長、市来日銀総裁、土方日銀副総裁で協議。

日銀は、台湾銀行を援助するのはやむをえないとしても、台湾銀行の担保にも限度があるので政府による損失補償が必要であると要請して、日銀が損失を被った場合には、2億円を限度として政府が損失補償するということで合意。

4月13日、明治政府は、台湾銀行を救済する緊急勅令案 「日本銀行の特別融通及之に因る損失の補償に関する財政上必要処分の件」を閣議決定。

4月15日、東京手形交換所および東京銀行集会所は、急遽明治政府に次のような陳情をしました。

「ここ最近、各地銀行の臨時休業が続いており、財界の動揺はいまだに安定しておりません。 この時期、日本内外に対して極めて重要な地位を占め、また日本内地の多数の銀行よりも巨額の資金を投下している台湾銀行が、万一うまく進まずにつまずいてしまった場合、全国の財界におよぼす影響は真に重大なるものであり深憂に堪へません。 よって、政府は極力難局に善処し速かに財界安定のために適当の措置をとっていただくことを切望します。」と。

4月15日、明治政府は臨時閣議を開き、台湾銀行を救済する内容の緊急勅令を枢密院において審議してもらうよう要請。

4月17日(日曜)、枢密院にて審議した結果、緊急勅令を否決。

4月17日、緊急勅令が枢密院で否決されたことにより、金融危機の収束の見込みが立たなくなってしまった責任をとり、岩槻内閣総辞職。

この枢密院とはどういった機関なのでしょうか?

大日本帝国憲法では次のように規程されています。
第56条 「枢密顧問は枢密院官制の定むるところにより、天皇の諮詢に応え重要の国務を審議す」と。

枢密院への諮詢としていくつか規程されてますが、その中で、”帝国憲法の条項に関する草案と疑義について”審議するような場合には、枢密院にて審議が行われました。

枢密院での審議で、岩槻内閣にて閣議決定された緊急勅令法は、違憲であるという結論になり、否決されてしまったのです。

政権交代

当時の議会は憲政会と政友会の2大政党が激しくしのぎを削っていました。

4月17日、憲政会の岩槻内閣は総辞職

4月18日、台湾銀行は台湾島内の本支店・出張所を除き臨時休業。近江銀行(大阪市)が休業。
4月19日、蓋品銀行(広島県)、泉陽銀行(大阪府)、蒲生銀行(滋賀県)等が休業。
4月20日、憲政会の若槻内閣のあとをうけて、政友会の田中義ー内閣が発足し、大蔵大臣として高橋是清が入閣。
4月21日、以前から業況悪化が伝えられ、預金取付けにあった十五銀行(東京市)が休業。

十五銀行は当時の大銀行の一つであり、 また宮内省本金庫を受け持つ名門銀行であったので、 全国各地に影響が及び、人々が各銀行の窓口に押しかけるという状況になりました。

この時期が金融不安の頂点でした。

4月21日だけで日銀の貸出は6億182万円増加し、兌換銀行券発行高は6億3902万円増加。
兌換銀行券が不足し、支払いに支障を生じることが懸念されました。

兌換銀行券とは、金と交換できる紙幣のことをいいます。
この時の日本では、管理通貨制度を採用しており、金本位制度ではなかったのですが、1885年に銀兌換銀行券を発行し、1887年、日清戦争後、金本位制度に移行に際して、金兌換銀行券を発行していました。
1914年、第一次世界大戦勃発時に、金との交換を停止して、再び金本位制度から管理通貨制度に移行、という経緯を経ていました。

片面印刷のみの銀行券

緊急処置として日銀は、紙幣を印刷発行することになりましたが、紙幣の両面印刷をしていては間に合わないので、片面のみを印刷した二百円紙幣を発行しました。

4月21日、高橋蔵相は、東京手形交換所・東京銀行集会所からの陳情を受けて、
1、21日間の支払延期令(モラトリアム)を全国にしく。
2、台湾銀行の救済および財界安定に関する法案に対し協賛を求める、という緊急勅令を提案。

直ちに審議が始まりましたが、この法案の可決は早くとも4月23日になってしまうので、高橋蔵相は民間銀行に対して、4月22日、23日の両日、自発的に休業するよう要望。

その要請を受けた全国の民間銀行の本店支店は一斉に休業しました。

4月22日、枢密院にて緊急勅令案が審議され、満場一致で可決。

以前、岩槻内閣の時には枢密院で否決されてしまった緊急勅令案ですが、田中義一内閣の時には可決されて即日公布施行されました。

緊急勅令
「私法上の金銭債務の支払延期及手形等の権利保存行為の期間延長に関する件」
(昭和2年4月22日勅令第96号)

この緊急勅令の主な内容は、給料・労賃の支払い、1日500円以下の銀行預金の支払い等を除き、私法上の金銭債務の支払いを21日間延期(モラトリアム)するというものでした。

この勅令は、同日併せて公布された地区指定勅令により、当初内地(日本本土)のみに適用されることになっていたのですが、4月25日の改正により、内地(日本本土)のほか、朝鮮•関東州・樺太にも適用されることになりました。

4月22日(金曜)、23日(土曜)の全国的な銀行の臨時休業のあと、4月24日は、日曜にもかかわらず、日銀は民間銀行に対する貸出を実行。また「取引先以外の銀行にも極力資金融通の便宜を図るので、預金者はいたずらに不安に陥らないように」と呼びかけました。

そして、いよいよ週明けの4月25日(月曜)が訪れました。

どのような混乱が起きるのか、かなりの緊張と不安を持っての営業再開でしたが、予想以上に平穏で何事もなく、銀行側としても「手持ち無沙汰な位」でした。

5月9日、台湾銀行は台湾以外の店舗の営業を再開。
5月13日、支払延期(モラトリアム)を解除。

こうして、昭和2年に起きた金融恐慌は収束していったのでした。

政治的な駆け引きのために翻弄されてしまった、震災手形法案。この法案の可決が長引いてしまったのと、審議中の片山大臣の失言。さらに枢密院での緊急勅令案が否決されてしまったことが重なり、金融危機を起こしてしまう引き金になってしまいました。

そしてこの危機を引き起こしてしまったもっとも重要な銀行は、日本内地の銀行ではなく、日本統治下の台湾銀行だったのです。

参考図書

 

日露戦争において、旅順を攻略する責任者に任命された乃木大将。しかし、その旅順攻略の作戦指揮を問題視して、乃木大将を愚将として評価している歴史家がいます。

その一方で、世論の批判や明治政府首脳陣からの乃木大将の更迭要求を跳ね除けて、乃木大将を信じて起用し続けた人がいました。

その方は明治天皇です。

乃木大将と明治天皇の深い絆

まず、日露戦争に到る歴史的経緯を簡単に振り返ります。

日本とロシアが軍事衝突する遠因となったのは、日清戦争に日本が勝利した際、戦勝国の戦利品として認められた、遼東半島の領有権があります。

その遼東半島の領有権について、納得ができない清国は、ドイツとフランスとロシアの3か国に根回しをして日本から取り返そうと画策しました。(三国干渉)

明治維新から27年。日本は、眠れる獅子と言われアジアの宗主国であった、清国に勝利することができるほどの軍事力を持つまでに到ましたが、ドイツやフランス、そして当時世界最強と言われたバルチック艦隊を率いる大国ロシアと戦えるほどの国力は、まだありませんでした。

明治政府はこの時、止むを得ず、戦争に勝利して勝ち取った正当な権利である遼東半島の領有権を、返上することにしました。(臥薪嘗胆)

その2年後、その遼東半島にある旅順にロシア軍が進駐して、難攻不落の巨大な要塞を構築してしまいました。

当時の明治政府は、このようなロシアの行動を見て見ぬふりをしていたのでしょうか?

事なかれ主義の今の日本政府は、旅順におけるロシアのこのような行動について、何も反応しないでしょう。

しかし、明治政府は違いました。

着々と軍事力を増強していき、来るべきロシアとの戦いに備えていたのです。

すでに開戦の数年前から、参謀本部において旅順攻略のための作戦計画が練られており、その総指揮官として、乃木希典大将が選任されていました。

 

ーーー日清戦争における旅順口の戦いーーーー


明治27年(1894年)、日本陸軍は清国からわずか1日で旅順口を攻め落としました。
そんときの攻略方法は、銃剣を持った歩兵達による総突撃によるものでした。
この肉弾突撃は、日本陸軍が得意とする戦法になります。
高い士気を持った日本兵は、機関銃の一斉掃射による敵の弾が雨あられのように降る戦場でも、勇敢に突撃して行くので、敵の堡塁を次々と奪って攻め落とすことができました。

 

ーーーー南山の戦いーーーーー

 

ロシアは、日本から奪い取った旅順口に、鉄筋コンクリート造りの要塞を構築していました。日本軍は、日清戦争時の経験から、この時も銃剣を持った歩兵による突撃作戦を行いました。

まず、旅順の中の南山という地域を攻撃しました。数千人の犠牲者が出ましたが、南山を攻め落とすことができましたので、日本陸軍の銃剣突撃は最強であるという認識が定着していきました。

しかし、この南山攻略は、日本陸軍の単独行動で攻め落としたわけではありませんでした。実は、日本海軍の連合艦隊が、密かに着弾距離内に侵入して、陸軍歩兵の正面突撃に伴い、ロシア軍の側面と後方の陣地に向けて絶え間なく艦砲射撃を繰り返していたのです。

この日本海軍の援護射撃があったおかげで、陸軍による銃剣突撃が成功したということになります。

でも、日本陸軍はこの事実を認めようとせず、海軍の援護射撃は局部的なことであり、あくまでも、日本陸軍による銃剣突撃によって、南山を攻め落とすことができたのである、という認識でした。

この陸軍の誤った認識が、その後の旅順攻略において多大な犠牲者を出してしまうことにつながります。

 

ーーーーー旅順口の戦いーーーーー

 

乃木大将の指揮のもと、旅順口への銃剣突撃による攻撃が繰り返されていきました。しかし、なかなか陥落しません。

そんな中、明治37年(1904年)8月19日から総攻撃が行われるということで、事前に、まだ陥落していないにもかかわらず、日本国内の東京や大阪では、旅順口陥落大祝賀会が計画されて、その入場券が発売されていました。

全国民がこの大祝賀会に参加するようにと広告され、日時まで決まっていたのですが、総攻撃でも陥落しなかったので、販売された入場券が回収されるということが起きていました。

日清戦争では、わずか1日で陥落できたのに、なぜ、こんなにも長い時間がかかるのか、そして多大な犠牲者を出し続けていたので、日本国内の新聞各社は、「乃木大将は間抜けな愚将である、直ちに更迭せよ」、というような世論を先導していきました。

旅順口に陣地を置いていた乃木大将のもとにも、日本からたくさんの手紙が送られてきました。その手紙のほとんどが乃木大将を非難するものでした。

東京の乃木大将の自宅にも石を投げつけられたり、ヤジを言われたりしていて、ひっそりと暮らしていた乃木大将の奥さんや書生の人たちも、忍耐を強いられていました。

 

ーーーーー乃木大将への思いーーーー

 

乃木大将が率いる陸軍第3軍の将兵たちは、乃木大将に対してどのような思いを抱いていたのでしょうか?

乃木大将は二人の息子がいました。2人とも陸軍に所属していて、この日露戦争にて戦死してしまいました。

乃木大将は日頃から、息子達に次のようなことを言い聞かせていました。

「政治に口を出すのではない。一旦大命が降りたら、軍人として国のために命を捧げる覚悟を持ちなさい。」と。

また、旅順に出発する前に、東京の自宅で奥様にこう言われました。

「戦争が首尾よく終わるまでは、自分のことは死んだものと思いなさい。その時までは便りをするな。自分も手紙を送らない。自分は、生命も時間も考えも、全て、陛下と国家に捧げているのだから、少しも私情もこの間に入ってはならない。」と。

戦争中、乃木大将の元に、毎朝戦死者名簿が届けられました。乃木大将は、その戦死者名簿を毎朝見ながら、どのような感情を抱いていたのでしょうか?

乃木大将は、一兵卒の戦死も身内の死と同じように感じていました。旅順口攻撃に伴い、戦死者が増えていくと、乃木大将の精神的苦痛はどれほどであったのでしょうか?

東京の参謀本部から、将棋の一つの駒のように与えられた任務である旅順口攻略。
ロシア軍による難攻不落の要塞と化した旅順を、攻略しなければならない任務を背負って、乃木大将は、戦場に立っていました。

常日頃から軍人として、命を国に捧げるように言い聞かせていた二人の息子を、戦場で失ってしまった乃木大将。

その報告にも動揺せずに、そのストイックなまでの精神を持った乃木大将の指揮の元、喜んで命を捧げようと突撃していった兵隊達。

乃木大将に対する愛情と尊敬と崇拝の感情が、多くの将兵たちの間にあったのでしょう。そのために、あれほどまでの絶体絶命の難攻不落の旅順攻略に、突撃して行けたのだと思います。

 

ーーーーー203高地ーーーー


8月以降も毎月のように総攻撃を繰り返していきましたが、日本兵の士気は全く衰えることはありませんでした。

地下に坑道を掘っていき、ロシア軍の銃弾を避けながら徐々に敵の陣地を奪取していきました。
それに伴い大砲を持った砲兵隊も進軍していき、ついに旅順湾内に停泊していたロシア艦隊に向けて着弾できる距離まで縮まりました。

バルチック艦隊が日本に向けてロシアを出発していましたが、その到着予定が翌年の明治38年(1905年)4月頃と推定されていました。

乃木大将には、そのバルチック艦隊が日本に到着する前に旅順を陥落することが義務付けられていたのです。

徐々に陣地を奪取して旅順湾に停泊しているロシアの旅順艦隊に攻撃できるまでになりましたが、まだ、旅順要塞を陥落するには至っていませんでした。

11月、乃木大将率いる第3軍の司令部では、さらに総突撃を行うべきである、という意見が大勢をしめていましたが、その議論を聞いていた乃木大将が最後に決断しました。

「諸君、ロシア艦隊を攻撃できる地点はだた一箇所しかない。それは203高地の頂上である。あれさえ手に入れば、2日で旅順艦隊を全滅できる。なかなか奪取できない陣地ではある。

多大の犠牲を払わねばなるまい。しかし、観測地としての価値からいったら203高地は一個師団にも換えられない。第7師団が到着したから203高地へこれを差し向けよう」と。

旅順要塞の攻略ももちろんですが、その背後の旅順湾に停泊しているロシアの旅順艦隊を全滅させることが大事であると、乃木大将は考えていたのです。

なぜかというと、バルチック艦隊が日本に到着した際、この旅順艦隊も、対馬沖に待ち構えていた日本海軍の連合艦隊に向けて出港して、挟み撃ちにされてしまうことが懸念されたからです。

それを避けるためにも、バルチック艦隊が日本に到着予定の4月までに、これを全滅させておく必要があったのです。

乃木大将の鶴の一言により、それまで旅順要塞に正面突撃すべしといっていた参謀たちは、自分たちの意見を抑えて、203高地を奪取するために任務についていきました。

また、8月の総突撃以来、多大な犠牲者を出していたので、日本本国から旅順に向けて、追加の援軍が送り込まれてきました。

 

ーーーーー旅順陥落ーーーーーー

 

12月5日、203高地が陥落。
翌年の1月1日、旅順要塞を守備していたロシア軍のステッセル司令官が降伏。

日本からの祝電が嵐のように旅順の司令部に届き、乃木大将は一夜にして英雄となりました。

また、この難攻不落の旅順要塞を日本軍が陥落したというニュースは世界中に流れて、乃木大将の名が、世界中の人々に知らされることとなりました。

そして、シーザーやナポレオンなど、歴史的に名将といわれている将軍と肩を並べて、乃木大将の名前が呼ばれるようになりました。

ある日のこと、司令部で祝賀会が行われましたが、その時のことをある副官が次のように伝えました。

「私たち幕僚が皆祝賀にふけっていると、いつの間にか閣下(乃木将軍)の姿が見えなくなってしまった。もう退席してしまわれたのだ。

行ってみると、小舎の中の薄暗いランプの前に、両手で額を覆って、一人腰掛けて居られた。閣下の頬には涙が見えた。

そして私を見るとこういわれた。

今は喜んでいる時ではない。お互いにあんな大きな犠牲を払ったではないか」と。

 

ーーーーーー明治大帝との深い絆ーーーーー

 

かつては乃木大将を更迭すべし、と明治天皇に進言していた桂太郎首相をはじめとする明治政府の首脳陣達。

その時に、ただ一人、乃木大将に絶対の信頼を寄せて、乃木大将の更迭に反対した明治天皇。

明治天皇からの絶対の信頼を受けて旅順での戦闘を指揮した乃木大将。

明治天皇と乃木希典大将との間には深い信頼関係があったのです。

乃木大将はそれまで切腹を覚悟したことがありました。

それは、西郷隆盛をリーダーとする反乱軍との戦い(西南戦争)において、政府軍の軍旗を奪われてしまった事件がありました。

その責任をとって、乃木希典は切腹を覚悟して、明治天皇へ進退伺いをしました。

しかし、明治天皇は、乃木希典に対しては、この件で一切の責任を追求することをせず、また、軽はずみな行動をしないようにと注意も受けました。

軽はずみな行動とは、切腹のことを差します。

武士としての責任感が強い乃木希典の性格をよく見抜いて、明治天皇はこのような言葉を発したのです。

このように、乃木大将を信用している明治天皇は、桂太郎首相をはじめとする明治政府首脳陣から、更迭を進言された際にこういわれました。

「それはならぬ。もし途中で代えたら、乃木は生きていないだろう」
「乃木の代わりをするものが他にいるか?」と。

 

ーーーー切腹ーーーーーー


日露戦争が終わり、明治天皇の御前にて報告した乃木大将は、明治天皇から次のような言葉をかけられました。

「日露戦争の勝利は、乃木の功績によるところが大である。」と。

また次のような言葉もかけました。

「乃木よ。くれぐれも軽はずみな行動をとるなよ」と。

軽はずみな行動とは、責任をとって切腹するということです。

この時、乃木は、旅順包囲戦に際して多大な被害を出してしまったことへの責任をとり、武士として切腹をする覚悟だったのです。

しかし、明治天皇にそのことを見透かされてしまったので、切腹することもできずに、学習院にて教育者としてのお勤めをして過ごしていました。

 

ーーーーー崩御ーーーーーーー


明治45年(1912年)7月30日、明治天皇が崩御。同年9月13日、多くの日本人が悲しむ中、大喪の礼が行われました。

そして、その大喪の礼が行われた日の9月13日、乃木大将とその奥様が自宅で切腹。

西南戦争で軍旗を敵に奪われてから、常に死に場所を探していた乃木希典。
明治天皇の崩御により、ついにその目的が達成することができました。

 

ーーー信用するということの意味ーーーーー

 

上司や社長から信頼された人間は、自分の持っている能力の120%を発揮して仕事をすることができると思います。

その反対に、上司や社長から不信感をもたれて、「あいつ大丈夫か?」と心配されているような人間は、自分の持っている能力の50%、いや30%程度の力しか発揮することはできないと思います。

部下を信頼するということはとても大事なことなのです。

ましてや国家存亡の重大局面で、このような天皇と指揮官とが深い信頼関係で結ばれていたということは、日本にとってとても幸福なことだったと思います。

 

ーーーーーーーーーーーー

参考図書
「乃木大将と日本人」 Sウオシュバン著、目黒真澄訳
「機密日露戦史」谷寿夫著
「新史料による日露戦争陸戦史 覆される通説」長南政義著
「日露戦争第三軍関係史料集 大庭二郎日記・井上幾太郎日記で見る旅順・奉天戦」長南政義著

最後の審判

 

釈尊が亡くなってから、56億7千万年後に日本に弥勒菩薩が下生する(現れる)。

 

それは、大本教の教祖の出口王仁三郎が56歳7ヶ月の時であるとして、大正11年(1922年)が建て替え立て直しの年であるとしました。

 

「明治55年5月5日は結構な時ぞよ」

 

 

明治25年(1892年)2月3日、京都府綾部にて出口直(なお)が、自動的に手が動いて筆記(御筆先)するようになり、婿養子の出口王仁三郎とともに、新興宗教を立ち上げました。

 

その御筆先には次のようにかかれていました。

 

「3千世界一度に開く梅の花。

丑寅の金神の世になりたぞよ。

根に花咲くは虎耳草(ゆきのした)。

上も下も花咲かねばこの世は治らんぞよ。

金は世の滅びの因(もと)であるぞよ。

世をたてかえて心安き世に致すぞよ。

今までは悪の世で、強い者勝の世であったなれど、

これから先は悪では一寸も行けぬ世に致すから早く改心致されよ。

改心致さねば、

地震、雷、火の雨降らして悪の霊(みたま)を平らげるぞよ」

(大本教「初発の神癒」)

 

また、御筆先で次のように予言しました。

 

「明治55年5月5日は結構な時ぞよ」

 

明治55年とは、元号が変わって大正11年(1922年)5月5日となります。

 

その日には、地上には大地震が起きたり、雨のように隕石が落ちてきたり、と言うような天変地変が起きて、

神様の御心に合わない人は、皆殺される。人類の90%以上の人が殺される。

 

清い心の持ち主だけが救われる。

 

建て替え立て直しの時期にキリストが再臨するとして、出口王仁三郎こそが、キリストの再臨であると説いていました。

 

この大正11年(1922年)とはどのような時代だったのでしょうか?

 

大正7年(1918年)の後半からスペイン風邪というインフルエンザが世界中を席巻して、パンデミックを起こしていました。

大正10年(1921年)に収束しますが、それまでに世界中で1700万人から5000万人もの人が死亡したと言われています。

 

また、米国の平均寿命は12歳低下しました。

 

日本でも2280万人が感染して、40万人近い人が亡くなりました。当時の日本の人口は5500万人でしたので、全人口の約4割の人が感染したことになります。

 

大正7年(1918年)は、米価格の相場が急騰したことに伴い、日本全国で暴動事件が発生。(米騒動)

 

1917年2月から、ロシア帝国でレーニンを指導者とする社会主義革命が起きて、10月にロシア帝国が崩壊して、翌年の1918年に世界初の社会主義国家であるソビエト共和国が成立。

 

これに伴い、ロシアは内戦状態になっていましたが、極東のシベリアにおいて、チェコスロバキア軍がロシア革命軍に捕虜となっていました。

 

そのチェコ軍を救出するために、連合国がそれぞれシベリアに軍隊を派兵。日本も国連からの要請で帝国陸軍をシベリアに出兵。

(シベリアへ出兵)

 

このように激しく揺れ動いていた時代、最後の審判の時が近ずいていてキリストが再臨する、と大本教団では信じられていたのです。

 

ある時、富める青年がキリストに天国に行く方法について質問しました。

 

キリストは次のように答えました。

「汝の持てる全ての物を売って、それを貧しきものに施せ(与えよ)。しかして汝の十字架を置いて我に従え。

富めるものが天国に行く難しさは、背中にコブがあるラクダが針の目(穴)を通るよりも難しい。」

 

 

国之常立神(くにのとこたちのかみ)を、鬼門の方角(丑寅)に封印してしまいました。

そして、そこから出られないように、縄を張りました。この縄がしめ縄の由来となっています。

 

出口ナオは、この国之常立神(くにのとこたちのかみ)の分霊(わけみたま)で豊尊(とよくものみこと)(国常立尊様の妻神)の分霊(わけみたま)だと言われていました。

 

この鬼門の方角(丑寅)に封印されていた国之常立神(くにのとこたちのかみ)が、大本教が拠点としていた京都の綾部に現れて、最後の審判をすると信じられていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

もしかして、あなたは自己処罰をしていませんか?

 

自己処罰とは文字どおり、自分で自分を処罰するということであり、罪悪感や後悔などの感情が強いと、このような自分で自分のことを痛めつけてしまうというような行為をしてしまいます。

 

責任感が強かったり、申し訳がないという懺悔の気持ちが強い人は、この傾向が強く現れてきてしまいがちです。

 

自分もかつてはそうでした。

 

小さな娘を残して、家を出て離婚してしまいましたので、子供のことを思い出すたびに自己処罰を繰り返していました。

 

どんなに外が青空で、まぶしいくらいの太陽が照り輝いているような天気の日でも、心の中はどんより曇っていました。

 

そんな状態をいつまでも続けてられないので、カウンセリングや自己啓発や、内観とかヒプノセラピー(催眠療法)、座禅や瞑想など色々と試していても、この自己処罰の習慣を克服することができませんでした。

 

そして最後にたどり着いたのが『祈り』でした。

 

祈りというのは、ものすごいパワーを持っています。

 

それまで、まともに祈りなどしたことがなかったのですが、やってみてその驚くような効果にびっくりしてしまいました。

 

こんなにも祈りにはパワーがあるのかと。

 

ただ、闇雲に自己流で祈れば良いかというと、そうではありません。

 

自己流ですとあまり効果は期待できません。

 

やはり、祈り方にもコツがあるのです。

 

自分が学んだ『自己処罰を克服する祈り』は、まず両手を顔の前に合わせます。

そして次の言葉を唱えます。

 

自己処罰を克服する祈り

 

「神の無限の愛、我に流れ入り給(たま)いて、

全ての過去の罪と業(ごう)とを洗い清め給(たま)うたのである。

 

今、我は完全に洗い清められ給(たま)いて、

本来、罪なきところの完全円満(エンマン)清浄(ショウジョウ)無垢(むく)なる

 

神の子に生まれ変わったのである。

 

もういかなる罪の束縛(そくばく)も受けることはないのであって

自由自在である。」

 

これを毎朝、瞑想する時に唱えています。瞑想する時に限らず、自己処罰をしてしまった時に思い出して、この祈りを何回か唱えてみると良いです。

 

ただ、一回や二回祈ったからといって、すぐに自己処罰をしなくなるということはありません。

 

あなたが今までどのくらいの頻度と深さで自己処罰をしてきたか、というその期間と度合いにもよりますので、一概には言えませんが、最低でも21日間、できれば数ヶ月は続けると良いでしょう。

 

徐々に薄皮が剥がれていくように、自己処罰の頻度と深さが軽くなてっていくのを感じると思います。

 

魚釣りに例えると、今までは大きな魚が釣針に引っかかって力強く糸を引っ張っていて、こちらも負けじと釣竿を戻そうとしていました。しかし、魚の力が強くて、なかなか『ウキ』が水面から出てきませんでした。

 

しかし、祈りを続けていくと、いつの間にか、釣針を垂らしていたその餌に小魚がつついて、その拍子に少し『ウキ』が沈みますが、すぐにまた水面に浮かび上がってきます。

 

このような状態にあなたの感情が変わってくるのを感じるでしょう。

 

つまり、一旦、自己処罰が始まってしまうと、今までは沈みっぱなしで、なかなか気持ち(ウキ)が水面に浮かんでこなかったのですが、祈りを続けていると、気がついたら、ちょっとだけ気持ち(ウキ)が沈んだと思ったら、すぐにまた浮かんできているという状態に変わってくるという感じです。

 

それからこの祈りの中で『神の子』という言葉があります。

 

もしかしてあなたが、キリスト教の信徒の方でしたら、ちょっと引っかかったかもしれません。

 

一般的なキリスト教では、皆『罪の子』であると教えられています。

 

ですから、生まれながらにして『罪の子』である私は、心を清くして行いも正しく生活することで、キリストを通して天国に行けるようにしてもらえる、と信じられています。

 

ですが、本来、私たちは生まれながらにして『神の子』なのです。

 

『神の子』とは神様の子供という意味ではなく、神様のわけ御霊、神様(想像主)から分かれ出た御霊(魂)であるというような意味になります。

 

私ちは、物理的には、母親のお腹の中から生まれ出てきます。しかし、魂的には、神様(想像主)とある約束を交わして、そこから分かれ出た魂が、ヒューっと、地上で妊娠中の女性のお腹の中に入ってきます。

 

この地上に降りてくる時、天国から、どの妊婦(未来のお母さん)のお腹の中に入ろうかな、と品定めしてから降りてきます。

 

あなたがお母さんでしたら、あなたは、お子さんから選んでもらったのです。

 

よく『魂が宿る』という言い方をしますが、それはこのことを指します。

 

稀に妊娠しても、魂が宿らない場合がありますが、その時は、お腹の中で細胞分裂が起きるだけで人間の体にはなりません。

胞状奇胎といって、子宮の中で分裂した細胞が人間の姿にならずに、ぶどうの房のようになってしまう病気になります。

 

子宮の中で受精した精子と卵子が、細胞分裂して人間の体になるためには、この神の子(神様のわけ御霊)である魂が宿ることが必要不可欠なのです。

 

自己処罰という感情を持っている状態というのは、神の子としての本来の姿ではないのです。

 

神様との波長も合いませんので、瞑想しても統合することができません。

 

それを本来の神の子としての状態に戻す方法として、祈りがとても有効なのです。

 

もしあなたも、自己処罰で悩んでいるようでしたら、この祈りを試してみてはいかがでしょうか?

 

きっとあなたの気持ちが軽くなってくるでしょう。

 

 

 

 

 

 

 

 

あなたはご先祖様に対して何かしてますでしょうか?

 

お盆やお彼岸の時期にお墓まいりする方も多ですが、お墓が遠方でなかなかいけなかったりと言う人もいるでしょう。

また、家の中に仏壇を置いて毎日、手を合わせている方もいるかもしれません。

 

人それぞれ状況が異なるので何とも言えませんが、普段の日常生活の中で、ご先祖様に対して供養すると言うことがとても大切になります。

 

なぜなら、あなたが今こうして当たり前のように生きていると言うことは、とても奇跡的な出来事だからです。

 

朝当たり前のように起きて、当たり前のように食事をして、当たり前のように仕事をして、当たり前のように人と会話をして、当たり前のようにテレビやパソコンをみて、当たり前のようにゲームをして、といった普段、あなたが当たり前のように過ごしている日常生活を送ることができるのは、あなただけの力ではないのです。

 

全ての出来事はあなたの両親がいて初めて可能となっているのです。

 

「え、何それ。」

 

と思われたかもしれません。

 

だって、朝起きるのも食事をするのも仕事するのも、他の好きなことをするのも、いちいち両親に手伝ってしているわけではない、自分で全てのことをやっているし。

 

確かにそうです。

 

でも、あなたが今この世に生きていると言うことは、両親がいなかったら成り立たないのです。

 

両親が愛し合ったから、あなたがいるのです。

 

両親があの時あそこで出会っていたから、あなたが今この世で生活できているのです。

 

そうでしょう。

 

この理屈は理解できると思います。

 

また、その両親もあなたと同じようにその両親がいたから、この世で日常生活を送ることができているのです。

 

同様に、その両親もまた、といった具合に、ご先祖様を遡っていかないと、あなたが今この世に存在していることは成り立たないわけです。

 

なので、両親に対してももちろんですが、ご先祖様に対しても感謝の気持ちをお伝えすることがとても重要になるのです。

 

木と大地に例えると、大地が神様(命の元)、その大地からエネルギーをもらっている根っこがご先祖様、その根っこからエネルギを吸い上げている木の幹が両親、その木の幹からエネルギーをもらって生きている枝葉があなた、と言えます。

 

あなたが、普段から常にエネルギーをもらっているご先祖さまに対して感謝の気持ちをお伝えすることで、あなたは生かされているという実感も湧き上がり、守られているという実感も沸き起こることでしょう。

 

ではどうしたら普段からご先祖様に対して供養したら良いかというと、次のようなやり方をお勧めします。

 

まず、御位牌を作ります。

 

専門業者に頼んで立派なお位牌を作る必要はありません。

 

紙に書くだけで良いです

 

その際に名前の最後に男性でしたら「〇〇比古命之霊位」、女性でしたら、「〇〇比女命之霊位」と書きます。

 

また、命日がわかっていたらその日付も脇に書きます。

 

それから、その一家全てひっくるめて「〇〇家先祖代々親族縁族一切」と書いてもいいです。

 

それを仏壇などの所に向かって次のように唱えます。

 

「何年何月何日を現世(うつしよ)の限りとして幽世(かくりょ)に帰りましし〇〇比古(ひこ)の命(ミコト)之(の)霊位(みたまいー)」

 

女性でしたら「〇〇比女(ひめ)の命(ミコト)之(の)霊位(みたまいー)」とその霊を呼び出す気持ちで唱えます。

 

「〇〇家先祖代々親族縁族一切(いっさい)之(の)霊位(みたまいー)」

 

次に両手を合わせて合掌しながら数え歌を唱えます。

 

数え歌とは招霊の際に唱えるものであり、招霊する人が精神統一して招霊の助けになる波動をだす働きがあります。

 

「一二三四五六七八九十百千万」

 

読み方は「一(ひと)二(ふた)三(み)四(よ)五(いつ)六(ムユ)七(なな)八(や)九(ここの)十(たり)百(もも)千(ち)万(よろず)」となります。

 

数え歌を数回唱えたら、次に「この御霊代(御位牌)(みたましろ)に鎮まりませ」と唱えてから「イユーっ!」と気合をかけます。

 

気合をかける際に、合掌している両手の向きをその御位牌に向けます。

 

この気合によって、招霊された霊魂が御霊代(御位牌)に付着して、その御位牌を媒介としてご先祖様と交流ができるようになります。

 

そして、御位牌に対してお供え物をしたりお経と唱えたりすると、直接、そのご先祖様に有線で伝わるようになります。

 

次にその御位牌に対してお経を唱えます。

 

あなたの宗派に応じて、それぞれお経を唱えても良いでしょう。

 

母方、父方で宗派が異なっていたら般若心経でも良いです。

 

それから、この先祖供養は、あなたの夫または妻のご先祖様に対しても行います。もし、離婚している方でしたら、その別れた相手のご先祖様に対しても同様に行います。

 

祖父母あたりまでなら名前を知っていても、その先になるとわからないと言う人も多いと思います。

 

その場合は、市役所に問い合わせして「除籍謄本」を取り寄せるとあなたの直系のご先祖が遡ってわかります。

直系なら教えてくれるので、あなたの家系図がこれで作れてしまいます。

 

霊供養をすると、様々な功徳があなたの身の回りに起きてきます。

 

もし精神的な病を抱えている人でしたら、その病が治ってしまうかもしれません。

 

あなたもぜひ、この先祖供養を日常生活の中に取り入れて行ってみてはいかがでしょうか?

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

前回の「調和の祈り」をやっても許すことができない場合は、次の方法を試してみてはいかがでしょうか?

 

親であったり、嫁や姑、夫や妻など、同居していて身近な家族が対象であったりすると、根が深くて許すことができない場合があります。

 

そういう時は、紙に書いてみるというワークがお勧めです。

 

紙に書くということをすると、それまであなたの心が強く握っていた感情を手放すことができます。

外に発散することになるので、その効果で、あなたの心の中にグツグツと溜め込んでいた思いが解消されていくと言う理屈になります。

 

ではどのような内容を紙に書けば良いかと言うと、何でも構いません。

 

あなたが思っていたことを素直にそのままの言葉で書けば良いです。

 

例えば、「クソババア!」とか「ふざけるな!」とか、とても相手を目の前にして言えないような暴言を、紙に書いていくのです。

ある嫌な出来事を思い出しながら、それについて詳しく書いて言っても良いでしょう。

 

「お前があの時、あんなことをしたから、こうなったのだ」とか被害妄想でも構いません。

 

とにかく、道徳的にとか倫理的にとか言う理性を外して、思いのたけを素直にそのままの言葉で紙に書いていきます。

 

全て吐き出したら、次にその紙を火をつけて燃やします。

 

そのまま机の引き出しに置いておくとかすると、いつか、その本人にその紙が見つかってしまう恐れもありますので、紙に書いたら後回しにせずに、その場ですぐに燃やしてしまいましょう。

 

(その時はくれぐれも火の取り扱いは注意してください。)

 

そして、燃やす時に、神様に懺悔の言葉を言います。

 

「神様、申し訳ございません。まだ、私はこのような醜い感情を持っていました。どうかお許しください」

と言うような言葉を言います。

 

次に、お経を唱えます。

 

お経を唱えることで浄化作用がありますので、その黒く廃になった紙に向かってお経をとなえます。

 

特にあなたの信じている宗教がなければ、何でも構いません。

 

仏教徒でしたら「般若心経」とか、神道系でしたら「大祓の祝詞」などでも良いでしょう。

 

これで証拠はなくなりましたのであなたも安心です。

 

そして、あなたの心に強く握っていた、「許せない!」という感情も浄化されていき、手放すことができました。

 

この浄化のワークも試してみてはいかがでしょうか?

 

 

 

 

 

 

なかなか人を許せないで困っている人はいませんか?

 

私もそうでした。

 

過去に言われた言葉やされたことを思い出しては、その当時の嫌な思い出や怒りやイライラした感情などが蘇ってきてしまうのです。

 

最近のことならまだしも、5年前、10年前、20年前、30年前まで遡って、またその当時の嫌な思い出をリピート再生してしまうのです。

 

一体、なぜそんな昔のことを思い出して、またその場面を再生してしまうのでしょうか?

 

それは手放しができていないからです。

 

よく嫌な出来事が起きると、「時間が解決するからそのままほっといたらいい」、というようなことを言ったりします。

 

そのうち、その嫌な出来事も忘れてしまって、記憶のかなたに消えてしまうだろうから、という理屈です。

 

そのようなこともあるでしょう。

 

気づいたらその嫌なことも忘れてしまって、あとで振り返ると、「ああ、そんなこともあったな」という具合に、エピソードは思い出しても、その当時の嫌な感情は消え失せてしまっているという状態です。

 

しかし、心の深い意識にその嫌な感情が記憶されてしまって、手放しができない出来事もあります。

 

そうなると、30年前の出来事であっても、ふとした時に思い出して、また、当時の嫌な感情がふつふつと込み上げてきてしまうのです。

 

これは意識の力ではどうすることもできません。

 

いくら、その出来事を忘れようとしても、いくらその相手のことを許そうとしても、いくら手放そうとしても、とても難しいです。

 

では、どうやったら、手放しや許しができるようになるのでしょうか?

 

それは「祈り」です。

 

祈りの力に身を任せるのです。

 

祈りをバカにしてはいけません。

 

また、祈りというと宗教か?と警戒する人もいるかもしれません。

 

これは特定の宗教をさすのではありません。

 

あなたは、今までの人生で、一度くらいは正月元旦に神社に初詣に行かれたことあるでしょう。

 

その時に神社で何をしに行かれましtか?

 

そうです。

 

お賽銭を投げてから手を合わせて願い事をしたでしょう。

 

それが「祈り」です。

 

祈りにも色々な種類があります。

 

健康祈願、合格祈願、家内安全、商売繁盛、などなど。

 

今回は、その祈りの中でも、許して手放す祈り(調和の祈り)になります。

 

では、その祈り方は次のように祈ります。

 

「私は〇〇さんを許します。〇〇さんも私を許します。

私は〇〇さんを許します。〇〇さんも私を許します。

私は〇〇さんを許します。〇〇さんも私を許します。

私は〇〇さんを許します。〇〇さんも私を許します。

私は〇〇さんを許します。〇〇さんも私を許します。」

 

と何度か繰り返して言います。

そして、次のように言います

 

「私と〇〇さんとの間には何のわだかまりもありません。神において一体です。」

 

今度は、次のように言います。

 

「私は〇〇さんに感謝します。〇〇さんも私に感謝します。

私は〇〇さんに感謝します。〇〇さんも私に感謝します。

私は〇〇さんに感謝します。〇〇さんも私に感謝します。

私は〇〇さんに感謝します。〇〇さんも私に感謝します。

私は〇〇さんに感謝します。〇〇さんも私に感謝します。」

 

と何度か言います。

そして、次のように言います。

 

「私と〇〇さんとの間には何のわだかまりもありません。神において一体です。」

 

今度は、次のように言います。

 

「私は〇〇さんを愛してます。〇〇さんも私を愛してます。

私は〇〇さんを愛してます。〇〇さんも私を愛してます。

私は〇〇さんを愛してます。〇〇さんも私を愛してます。

私は〇〇さんを愛してます。〇〇さんも私を愛してます。

私は〇〇さんを愛してます。〇〇さんも私を愛してます。」

 

と何度か言います。

そして、次のように言います。

 

「私と〇〇さんとの間には何のわだかまりもありません。神において一体です。」

 

相手に対してのネガティブな感情が強いと、なかなか「愛してます」とは言えないかもしれません。

でも、相手を目の前にして言うのではないので、機械的に言葉に出して言ってみましょう。

 

すると、不思議なことが起きます。

 

それは、次にその相手に実際に出会った時に、その相手があなたに対して親身な態度で接してくるのです。

 

それまでは、その相手に会うと嫌な感情や苦手な感情が起きていたとしても、この祈りをした後に会うと相手に対する嫌な感情が消えてしまうのです。

 

相手もあなたに対して、挑戦的な態度であったり攻撃的な態度を改めて、フレンドリーな感じに変わってしまうのです。

 

また、ふとした時に、過去に嫌なことを言われたり嫌なことをされたりした出来事を思い出しても、再び怒りやムカムカといった嫌な感情が湧き上がることがなくなってしまいます。

 

ただ、「そんなことがあったなー」と言う程度になります。

 

一回で消えなければ、2回、3回と繰り返します。

 

騙されたと思って、この祈りをやってみてはいかがでしょうか?

 

また、ハワイにも似たような祈りがあります。

 

それは「ホ・オポノポノ」と言われているものになります。

 

ホ・オポノポノとは、4つの言葉を繰り返して言います。

 

その言葉とは、「ありがとう、ごめんなさい、許してください、愛してます」です。

 

この4つの言葉を繰り返して唱えることで、深い心に蓄積された嫌な感情などがクリーニングされていくというものになります。

 

心の浄化方法になるので、このホ・オポノポノを実践することでも、相手を許したり手放したりすることができるでしょう。

 

「ホ・オポノポノ」でも「調和の祈り」でもどちらを実践しても良いと思います。

 

あなたにあった方法で試してみることをお勧めします。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

過去に未来を予言してきた人はたくさんいます。

 

そういう人の中で、「我はキリストの再来である。我は〇〇の再来である。」といい、霊媒などの手品的なことを行い、人を惑わす人がいます。

 

しかし、彼らはキリストの再臨では決してありません。

 

「汝ら心せよ、あらかじめ皆、汝らに告げ置くなり。」とイエスは言い、マルコ伝には次のように記載されています。

 

「そこで、イエスは話しはじめられた、「人に惑わされないように気をつけなさい。

多くの者がわたしの名を名のって現れ、自分がそれだと言って、多くの人を惑わすであろう。

 

また、戦争と戦争のうわさとを聞くときにも、あわてるな。それは起らねばならないが、まだ終りではない。

民は民に、国は国に敵対して立ち上がるであろう。またあちこちに地震があり、またききんが起るであろう。これらは産みの苦しみの初めである。」

(マルコ伝 13章5、6、7、8節)

 

「その日には、この患難の後、日は暗くなり、月はその光を放つことをやめ、

星は空から落ち、天体は揺り動かされるであろう。

そのとき、大いなる力と栄光とをもって、人の子(イエス)が雲に乗って来るのを、人々は見るであろう。」

(マルコ伝 13章24、25、26節)

 

イエスは雲に乗って再臨する。そして、天変地異が起きる。ということが書かれています。また、そのような天変地変が起きるような危機的な時期に、妊娠中の女性や赤ん坊を抱えた女性は足手まといになるので、これからは結婚や子供を作ることは控えたほうがいい、と書いてあります。

 

「その日には、身重の女と乳飲み子をもつ女とは、不幸である。」(マルコ伝 13章17節)

 

「そのとき、彼は御使たちをつかわして、地のはてから天のはてまで、四方からその選民を呼び集めるであろう。

 

いちじくの木からこの譬を学びなさい。その枝が柔らかになり、葉が出るようになると、夏の近いことがわかる。」

(マルコ伝13章27、28節)

 

「さて、あなたがたが書いてよこした事について答えると、男子は婦人にふれないがよい。

しかし、不品行に陥ることのないために、男子はそれぞれ自分の妻を持ち、婦人もそれぞれ自分の夫を持つがよい。」

(コリント人への手紙 聖パウロ 7章1、2節)

 

そうはいっても、性欲が満たされないと性犯罪も起きてきてしまう可能性もあるので、やはり女性と男性は結婚することもやぶさかではない、というようなことも書いてあります。

 

「おとめのことについては、わたしは主の命令を受けてはいないが、主のあわれみにより信任を受けている者として、意見を述べよう。」(コリント人への手紙 聖パウロ7章25節)

 

「わたしはこう考える。現在迫っている危機のゆえに、人は現状にとどまっているがよい。」(コリント人への手紙 聖パウロ7章26節)

 

「しかし、たとい結婚しても、罪を犯すのではない。また、おとめが結婚しても、罪を犯すのではない。ただ、それらの人々はその身に苦難を受けるであろう。わたしは、あなたがたを、それからのがれさせたいのだ。」(コリント人への手紙 聖パウロ7章28)

 

「兄弟たちよ。わたしの言うことを聞いてほしい。時は縮まっている。今からは妻のある者はないもののように、」(コリント人への手紙 聖パウロ7章29節)

 

1999年7月には世界は滅亡するという予言(ノストラダムスの予言)がありましたが、現実には起きませんでした。

 

「彼から軍勢が起って、神殿と城郭を汚し、常供の燔祭を取り除き、荒す憎むべきものを立てるでしょう。」

(ダニエル書 11章31節)

 

 

ここでいう「荒す憎むべきもの」とは何でしょうか?

占領軍(GHQ))のことでしょうか?

 

また、「神殿と城郭を汚し、常供の燔祭を取り除き」とは何を指すのでしょうか?

占領軍が発令した「神道指令」のことでしょうか?

 

神道指令とは、昭和20年12月15日に占領軍(GHQ)が日本政府に対して、政教完全分離をするために、神道行事の一切を排除して国家神道の廃止を指令したものになります。

 

「その時あなたの民を守っている大いなる君ミカエルが立ちあがります。また国が始まってから、その時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時があるでしょう。しかし、その時あなたの民は救われます。すなわちあの書に名をしるされた者は皆救われます。」(ダニエル書 12章1節)

 

ミカエルとは、キリスト教でいう大天使(アーク エンジェル)のことです。

神道でいえば、住吉大神に該当するでしょう。

 

「また土の中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、また恥と、限りなき恥辱をうける者もあるでしょう。

 

賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう。

 

ダニエルよ、あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい。多くの者は、あちこちと探り調べ、そして知識が増すでしょう」(ダニエル書 12章2、3、4節)

 

このダニエル書の予言と似たような予言をしていた人がいます。

 

それはノストラダムスであり、1999年の7のつく時に、世紀末が起きると予言していました。しかし、この予言は外れました。

 

その後、1999年の大破壊を逃れて生き残った人類が完全に絶滅する、と解釈する人もいます。

 

「土の中に眠っている者のうち、多くの者は目をさますでしょう。そのうち永遠の生命にいたる者もあり、賢い者は、大空の輝きのように輝き、また多くの人を義に導く者は、星のようになって永遠にいたるでしょう。」とある「土の中に眠っている」とは幽霊のことであり、地上に住む人は絶滅して、幽霊だけが存在する世界になるという解釈です。

 

このような暗くて悪い解釈が実現するかどうかはわかりません。

 

なぜなら、「ダニエルよ、あなたは終りの時までこの言葉を秘し、この書を封じておきなさい」とあるからです。

 

かつて、世紀末予言をして見事に外れた宗教団体がありました。

 

今から100年ほど前、宗教団体である大本教です。

 

大本教とは、出口ナオという55歳の女性が、艮の金神(うしとらのこんじん)という神に明治25年正月に神がかりになり、自動筆記(当時は筆で筆記していたので、「御筆先」と読んでいました。)をするようになり、娘婿の出口王仁三郎とともに設立した教団になります。

 

その御筆先にはひらがなと数字で書いてありました。例えば、「59」は「ご苦労であるぞよ」という意味になります。

 

御筆先には「地震、雷、火の雨降らせて平らげるぞよ」という予言がありました。

 

火の雨とは隕石のことであり、地震、雷、隕石などの天変地変により、地上は神の天罰により平らげられてしまう、と解釈されていました。

 

そして、大本教の信徒は皆、この最後の審判の日がくるまでに、身も心も清めようと信仰を深めていきました。なぜそうしたかというと、目覚めた人や覚醒した人、汚れのない清い心を持った人が救われると信じられていたからです。

 

最後の審判の日として「明治55年5月5日は結構な日であるぞよ。」と(自動筆記)御筆先に書かれました。

 

この日に最後の審判で世界の大破壊が行われて、世の建替え立直しの日がくると、大本教の信徒は皆信じていたのです。

 

大地震など天変地変が起きたり、空から空襲が行われて、大惨事になるが、大本教のある京都府綾部市だけは守られる、と信じられていました。

 

明治55年とは、元号が変わって大正11年(1922年)のことになります。

 

また、「金本位制は世の滅びの元となり、それまでの貨幣は通用しなくなる」、と大本教の教祖の出口ナオの娘婿の出口王仁三郎は信者に語っていましたので、信徒の多くは全財産を大本教に献金していました。

 

しかし、最後の審判とされた大正11年5月5日には何も起きませんでした。

 

神様というのは、神罰を与えるというようなことは決してしないのです。

 

「神は愛なり。」

 

神様には『愛』しかありません。

 

「キリスト再び臨りて審判(さば)くとは今のことである。キリストとは肉体にあらず、「真理」である。キリストとは肉体にあらず、「光」である。肉体のわれの臨(きた)るを待ち望むな。

 

われは既にここに臨(きた)れるにあらずや。われは道である、真理である、光である。「真理」来たって虚妄(まよい)を審判(さば)き、「光」来たって暗黒(やみ)を審判(さば)き、すべての虚妄(まよい)と暗黒(くらき)とを地獄の火に投げ入れてこれを焼き滅ぼす。

 

今こそ最後の審判であると知れ。

 

されど怖るるなかれ。わが宗教(おしえ)は恐怖の宗教(おしえ)にあらず。

 

虚妄(まよい)を焼かるる者は却(かえ)って生き、暗黒(やみ)を焼かるる者は却(かえ)って光をあらわさん。

 

病(やま)いは癒(い)やされ、悩みは消えん。焼かれる者は「汝』にあらずして、「虚妄(ニセモノ)の汝』であるからである。

 

『虚妄(ニセモノ)の汝』は神より出(い)ずるにあらず、神より出(い)でざる汝は実在にあらず、実在に非ざる汝はその真相を暴露して消滅せん。

 

わが臨(きた)れるは『真』と『儀(ぎ)』と『実在』と『虚妄(こもう)』とを選り分けて、『儀(ぎ)』と『虚妄(こもう)』とを永久に非実在の中に葬りて封印を施さんがためである。」

(「最後の審判についての神示」「神示集」日本教文社)

 

キリストの再臨とは、キリストの「肉体」が天下って現れるのではなく、「真理」が天下って現れてくるという意味となります。

 

肉体に現れる病気などというのは本来ないのであって、それは虚妄(まよい)の現れであります。そのニセモノの虚妄(まよい)を葬り去ってしまうべきである、といっているのです。

 

1930年ごろから、米国のロサンゼルスのアガシャ教会というところで、定期的に降霊会が行われていました。降霊会とは、ある霊感に強い人が霊媒となって、霊を下ろしてその霊媒になった人が、その霊の代わりに語るというものになります。

 

ここで、リチャード・ツェナーという人が霊媒になって、アガシャと名乗る高級霊が降霊して次のような日本の敗戦についての予言を語りました。

 

「米国はある『いけないもの』を持っている。それは巨大な爆弾である。1945年3月3日までに、米国はほとんど一夜のうちに日本を壊滅することができるであろう。」と。

(アガシャの予言 1944年9月29日)

 

原子爆弾とは断定していませんが、「ある『いけないもの』を持っている。それは巨大な爆弾である。」と予言していました。

 

「我々はいかにすみやかに戦争が終わりに近ずくかを知って驚くだろう。7月21日にほとんど一夜にして戦争が終わる。」

(アガシャの予言 1945年5月25日)

 

また、ナチスドイツについて次のように予言しました。 

 

「ナチスドイツの空軍総司令官ヘルマン・ゲーリングについて、ある重大な発表があるであろう。ヘルマン・ゲーリングは戦争計画を遂行する重要な地位にありながら、戦争の全計画を完全にひっくり返すようなある重大なニュースが間もなく出るであろう。米国は喜ぶがドイツの人々を失望させるようなヒトラーに関する重大なニュースが間もなくでるであろう」と。

(1945年2月23日の予言)

 

この予言の後、1945年4月26日、ヘルマン・ゲーリングは辞職したという発表がニュースで流れました。彼はヒトラーと仲間割れして、ヒトラーがゲーリングを処刑するというニュースも流れました。そして5月1日にはヒトラーが自殺したと公表されました。

 

このように、アガシャは重要な事件についていくつも予言を的中していきました。

 

しかし、世紀末の日が起きるとは予言をしていませんでした。アガシャは終戦後の将来について次にように予言していました。

 

『新しき世界は、この地上には1965年以降に建設されるだろう。そしてそれは非常に平和な時代であり、人々はその変革の準備として地上を浄化するために、地獄の苦痛のごときものを経過するであろう。

 

黄金時代は確かに着つつあるが、それが訪れる前に人々の生活には大きなショックが与えられるはずである。

 

多くの不思議な出来事が現れ、人々はそれによって自分自身の中に神の力があることを悟り、目を覚ましてくるであろう。

 

1965年までの期間は、多くの人々が新しき神意(神の御心)、偉大なる世界同胞的理解のために働く時期である。

 

1965年から2020年の間に無限の進歩の時期が訪れる。新しきアトランティスが建設されるであろう。」と。

 

アトランティスとは、大昔に大西洋の真ん中にあった大陸であり、現代文明よりはるかに高度な文明が栄えていました。

 

ノストラダムスは、世紀末が1999年7月に訪れると予言していましたが、この予言と全く異なる予言をアガシャはしていたのです。

 

「1965年と2020年の間に無限の進歩の時期が訪れる。2020年以降は、地球上に地上天国が現れ、神が全ての神の子たちのために計画した生活が訪れるのである。

 

それは人間が自然の力によっておこされる大動乱を避けることができるという意味ではなく、人間はそれをよくよく理解しそのいくらかを支配し、支配できない変動を抑えるにはどうしたら良いかということを、哲学的あるいは科学的に知るであろう。

 

それに付随して、重大な気候変化が起きる兆しが米国やその他の国々にも見られるであろう。」

 

1965年の新時代の開始について、さらに詳細な報告については、アガシャやその他の指導霊達によって、次のように語られている。

 

「政治的にも経済的にも、世界はもっとも楽観的な理想家ですらも予想することができなかったほどに完全に組織されるであろう。

 

完全に全権を委任され、しかも個人と集団とも発展の権利を確保している一つの世界政府が米国を中心にでき、その国民とともに世界を指導して新しきアトランティスの役割を米国が演ずるであろう。

 

この資格において米国は、世界の他の国々の模範となるような、技術的社会的進歩を遂げるであろう。

 

個人や階級や住民の奴隷化や抑圧が取り除かれるだけでなく、貧乏や戦争も取り除かれるであろう。

 

教育者が人間は宇宙的生産者であり、単に彼の人生の上に直接関係をもつ現世や環境の生物ではないということを認めるようになったとき、教育は根本的な一大変革を起こすであろう。

 

ラテン語に語源をもつ新しい言語が、全世界に普及し多くのヨーロッパや他の国の国語に取って代わって、それらを過去の主要語に取って代わるであろう。

 

この世界語は簡単で容易に学ぶことができるものであり、表現力が豊かであって、数千年も続いて何代も受け継がれていく言語となるであろう。

 

経済的には世界は、一種の資本主義形態と銀行形態を持ち続けるであろうが、非常に変化し改良されて全ての人々の利益となるように理想化されるであろう。

 

個人の自由を失うことなく、全てのものは正しく保護され充分供給されるであろう。

 

各人は儲け続け儲けたものを蓄えるであろう。個人は自分が欲するならば、どのような活動をすることができるであろう。全てのものが一つの偉大な理想の元にあって、我々が現在経験しているような政治的争いはなくなるであろう。

 

人々はお互いに非常に親密になり、自分自身を世界および人々に適合させることを学び、お互いに助け合うことを学び、まさにキリストの心を実現することを学ぶようになるのである。

 

このようなことが成就されろことが、来るべき時代である。

全世界に理解と世界同胞主義がみなぎるであろう。

人々は、ついで彼らが学んだことを美しく表現するであろう。

 

戦いは消滅するであろう。欠乏は抹殺されるであろう。

 

刑務署や慈善設備は空になるであろう。人々は疑いや憎しみの要望は持たずに、愛深き微笑を持ってお互いに挨拶するであろう。

貪る必要は少しもないので、彼らはもはや貪らない。

 

彼らは全ての必要物を持っているために、お互いに奪い合うことはないであろう。人は命を愛するがゆえに、命を傷つけることはしないであろう。

 

原子力は、人類を滅ぼすためではなく人類を向上させるために用いられるであろう。夫人と青年とは、科学と社会の進歩のあらゆる部門に、大きく参画するようになるであろう。

 

夫人と青年は未経験であるにも関わらず、過去において持っていたような通俗的な実力以上のものは持たないであろうが、美しい調和したやり方で本当の意味での平等の状態を保つようになるであろう。

 

米国では、未来の10年間で一人どころかそれ以上の大統領が出ることになるであろう。

 

子供や青年もまた世界中で大きな力を持つようになり、多数のものが優れた心霊能力を示すであろう。

 

この変革と進歩の時代に生まれあわせた人々は、非常に幼少でありながら人生の深い意義を理解するであろう。


ロサンゼルスは哲学研究の世界最大の中心地の一つとなり、全世界から南カリフォルニアへ幾千人もの人々が集まってくるであろう。そして南カリフォルニアのある山の頂上に一つの大きな建築物「霊的記念館(地震に耐えうるほどの充分に強力な建築物)」が建てられ、そこではちょうど七千年の昔に、エジプトの大ピラミッドの中で行われたように、神秘的研究が行われ、その時代の記録が供託されるであろう。』

 

ノストラダムスの恐ろしい世紀末予言ではなく、アガシャは非常に明るい未来を予言されていました。

 

今、2020年の半ばを通過中の私たちは、果たしてどのような未来が待ち受けているのでしょうか?

 

ワクワクして楽しみであります。

 

参考図書

「天と地を結ぶ電話」J.クレンショー著、 谷口清超訳

「予言の的中とその限界」谷口雅春