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September 03, 2018

将来日本で起きるかもしれない中共による民族浄化政策は、ウイグル人弾圧を直視することで予想できます

テーマ:歴史

 

 

中共のウイグル自治区や他の中国国内で生活しているウイグル人たちへの民族浄化政策は、対岸の火事ではありません。

 

いずれ日本人に対しても行われるであろう、未来予想なのです。

 

1949年10月、中共の人民解放軍が、ウイグル人による「東トルキスタン共和国」と、蒋介石率いる国民党軍との連合政府により支配されていた新疆地区に侵攻。

 

国共内戦に破れた国民党軍の降伏により、中共は新疆地区の全域を完全に侵略し併合しました。

 

この時、多くのウイグル人がアフガニスタンやトルコなど海外に亡命しました。

 

1955年10月、中共により新疆ウイグル自治区が設置されました。

 

新疆ウイグル自治区では、ウイグル人が自ら代表を選ぶことができません。漢民族である中共の書記が、この自治区の全ての権力を掌握しています。

 

1991年、ソ連崩壊。この崩壊に伴い衛星国としてソ連の支配下にあった東側諸国が次々に独立。

 

中共はこの独立の動きに危機感を感じて、ウイグル自治区への統治を強化することを決意しました。

 

1996年3月19日、中共中央政治局が、新疆ウイグルへの工作を拡大する会議を開催し、「中共中央7号文件」を通達。

 

新疆ウイグル自治区の危険要因は、ソ連からくると認識していましたが、ソ連が崩壊した以降は、ウイグル人の存在自体が危険要因となると認識。

 

中共は、民族分離主義者とか非合法宗教活動家として、ウイグル人たちを次々に監獄に投獄していきました。

 

1997年2月5日、ウイグル自治区のグルジャ市において「アッラーは偉大なり」「新疆に独立を」と叫びながらウイグル人たちがデモ行進。

 

中共は、このデモ行進の鎮圧のために、人民解放軍と40,000名の武装警察を派遣して、デモ行進しているウイグル人に発砲。200人以上の死者が出ました。

(グルジャ事件)

 

その後、一軒一軒ウイグル人の家宅捜査をして、ウイグル人男性4000名を強制連行していきました。

 

中共が今までに投獄したウイグル人は、約300万人。

 

2009年6月25日から26日にかけて、広東省韶関市の香港系玩具工場で働いていたウイグル人たちが、帰宅途中に約6000名の中国人に襲撃され虐殺されました。

 

なぜ、6000名もの中国人がウイグル人を襲撃して虐殺したのでしょうか?

 

この玩具工場で働いていた中国人が、ウイグル人女性に対して性的暴力を行なったとして、解雇されました。

 

解雇された中国人はこのことを恨み、ウイグル人を虐殺しようと計画し実行したのです。

 

しかし、ウイグル人女性に性的暴力を働いたという解雇理由は、デマでした。

 

被害にあったウイグル人たちは皆、10代後半から20代前半という若い人たちでした。ウイグル自治区から強制的に広東省に連行されて、工場で3交代で働かされていました。

 

工場と同じ敷地内にある寮との往復しか行動範囲を許されず、奴隷同様の扱いでした。

 

2009年7月5日、新疆ウイグル自治区のウルムチ市において、

広東省の玩具工場で起きたウイグル人虐殺事件に対して、ウイグル人学生約3000人がデモ行進しました。

 

このデモ行進を鎮圧するために、中共は武装警察を派遣してデモ行進しているウイグル人たちに発砲。

 

数千人のウイグル人一般市民たちが、中共により虐殺されました。

(2009年ウイグル騒乱)

 

中共は、この暴動は世界ウイグル会議が煽ったために起きたと主張。

 

(世界ウイグル会議とは、中共から海外に亡命したウイグル人の世界的組織です。

 

世界ウイグル会議のリーダーであるラビア・カーディル氏は、中共によるウイグル人への民族浄化政策を非難して、5年間もの間投獄されましたが、米国のブッシュJR政権の圧力により、解放されました。

 

しかし、ラビア・カーディル氏の家族は、今もなお中共により投獄され続けています。)

 

しかし、ウイグル騒乱は、地元のウイグル人たちが独自に行なったデモでした。

 

なぜなら、中共にいるウイグル人たちは、インターネットなど海外との情報は全て遮断されていますので、海外で活動している世界ウイグル会議との情報交流はできないためです。

 

2016年、中共政治局から派遣された陳全国が、新疆ウイグル自治区の書記に就任。

 

彼は、チベット自治区の書記を勤めていた時期、チベット民族の浄化政策を強化していきました。

 

そして今度は、ウイグル自治区の書記に就任すると、ウイグル人たちを大量に強制収容所へ投獄しています。

 

そして、中共は、大規模な焼却炉を次々に監獄のそばに建設しています。

 

ムスリム(イスラム教徒)は、亡くなった遺体を土葬にして荼毘に付しますので、火葬する習慣はありません。

 

ウイグル人はイスラム教徒です。

 

火葬の習慣のないウイグル人たちの遺体を焼却するために、焼却炉をたくさん建設している中共。

 

これはまるで、かつてナチス党がユダヤ人たちを大量虐殺した強制収容所を再現しているようです。

 

なぜ、中共はここまでウイグル人の存在を危険視しているのでしょうか?

 

1996年に発布された「中共中央7号文件」には、次のようにあります。

 

「新疆ウイグル自治区は、警戒を強めて然るべき措置を講じなければ、比較的大規模な突発事件、大規模な暴動、動乱が起きる可能性があり、その場合は新疆ウイグル自治区だけではなく中国全土に影響を及ぼす」と。

 

中共は、中国全土から漢民族を新疆ウイグル自治区へ移住させて、ウイグル人たちを中国全土に移住させてきました。

 

そして、全く見ず知らずの他人である漢民族と親戚関係の契約を強制的にさせて、漢民族とウイグル人を混合することで、ウイグル人たちの民族浄化政策を行なっています。

 

また、中共は、ウイグル人たちを思想教育機関に強制的に入れて、再教育をしています。

 

その再教育の最終テストでは、アルコールと豚肉を食べることを行います。

 

イスラム教徒であるウイグル人たちにとって、アルコールと豚肉を食べることは戒律で禁じられていますので、このテストをクリアすることができないウイグル人たちが、多数出てきます。

 

このテストにクリアできないと、ウイグル人たちはどういうことになるでしょうか?

 

処刑されてしまいます。

 

かつて悪名高いナチス党が、ユダヤ人を大虐殺しましたが、そのナチス党でさえ、ユダヤ人に対して思想教育をして、ユダヤ教を改宗することを強制しませんでした。

 

中共が、ウイグル人たちに行なっている民族浄化政策は、人類史上例を見ない、もっとも凶悪な虐殺行為なのです。

 

あなたは、この中共によるウイグル人たちへの民族浄化政策を、まるで対岸の火事のように感じているかもしれません。

 

日本人には関係ないことであり、ただ、ウイグル人がかわいそう、という感情しか起きないかもしれません。

 

しかし、これは対岸の火事でも人ごとでもありません。

 

明日は我が身。

 

中共は、このウイグル人やチベット人に対して行なっている民族浄化政策を、日本人に対しても行う可能性が極めて高いのです。

 

なぜなら、中共は2050年までに、東日本を日本自治区、西日本を東海省として、日本侵略する国家戦略を持っているからです。

 

中共の6番目の自治区となった日本では、一体何が起きるのでしょうか?

 

それは今、ウイグル自治区やチベット、内モンゴル自治区で起きていることを、人ごととして無視するのではなく、直視することで予想することができます。

 

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July 29, 2018

日航機123便墜落事故は、誰かに撃墜されたの?

テーマ:歴史

昭和60年8月12日、日本航空のジャンボ機が、群馬県の高天原山の尾根(御巣鷹)に墜落し、520名が死亡しました。(日本航空123便墜落事故)

 

昭和62年6月に公表された事故調査委員会(事故調)の報告では、ボーイング社の修理ミスにより、機体の後部にある圧力隔壁が破壊したため、垂直尾翼が破損して操縦不能に陥り、山に墜落したとされています。

 

本当でしょうか?

 

この事故調の報告書にはいくつかの矛盾点があるため、これまで様々な陰謀説も広まっています。

 

矛盾点その1

 

離陸から12分後、衝撃音と共に垂直尾翼の上半分が破損したとあります。この時のジャンボ機は、高度約24000フィート(7314メートル)を航行中。

 

もし、この高度で航行中に圧力隔壁と尾翼が破損して機体の一部に穴が開くと、機内の気圧が急激に減圧して酸素濃度も半分以下に落ちてしまいます。

 

緊急時には酸素マスクを使用するように案内がされますので、乗客乗員は皆、酸素マスクを使っているはずですが、ボイスレコーダーに記録された機長や副操縦司の音声は、マスクを着用しながらの会話ではありませんでした。

 

日航機123便は、17分間もの間、高度20000フィート(6000メートル)以上の高度で航行していました。

 

その後、機体を安定させるために高度を6000フィートまで下げていきます。

 

17分間もの間、高度20000フィートで急減圧した機内で、酸素マスクもつけずに正常な意識を維持できるのでしょうか?

 

米国ノースダコタ大学航空学部での実験では、24000フィートの高度での急減圧の後、酸素マスクを使わないと約6分で意識がもうろうとしました。

 

矛盾点2

 

ボイスレコーダーに記録されている『オレンジエア』という言葉。

 

この言葉は、事故調の報告書では『オールエンジン』と記されており解読不確実とコメントされています。

 

この言葉は、カナダにある音声解読を専門に行うセレリス社(Celeris Aerospace Canada Inc.)が解読したところ、「オールエンジン」という言葉ではなく、「プルインギア」または「ボディギア」ではないか、と推定。

 

「ボディギア」とは、機体に格納される車輪のことでこの車輪の格納する角度により、機体の気圧を調整することができます。

 

「プルインギア」という言葉は、日航パイロットは使わない。ボイスレコーダーの会話の流れでは、「ボディギア」ならつじつまが合います。(事故調で音声分析を担当した宇津木成介 神戸大学教授)(元日航パイロット藤田氏)

 

しかし、素人ながらボイスレコーダーを何回も聞き直しても、「ボディギア」とも「オールエンジン」とも聞き取ることができません。

 

やはり「オレンジ エア」としか聞き取れません。

 

では、もし「オレンジ エア」だったら、それはどのような意味になるのでしょうか?

 

『エアー』を英語表記すると"Air"または"AR"。"AR"だとすると"Aircraft Rocket"の略語となり、これは実際に使用される言葉です。

 

"Aircraft Rocket"の意味は、なんと対空ミサイル。

 

「オレンジ エア」とは、オレンジ色の対空ミサイルということになります。

 

ボイスレコーダーでは、機長が「ギア(車輪)をみて」と問いかけ他のに対して、副操縦士か機関士が、スコーク77 (7700)(緊急救難信号)を発信して、「オレンジ エア」と答えています。

 

また、海上自衛隊の隠語で誘導ミサイルや無人標的機のことを「オレンジ エア」と言います。日航機123便の高濱機長は、海上自衛隊出身でした。

 

矛盾3

墜落後救出まで14時間もかかったのはなぜ?

 

当時、横田基地で航空士をしていた、元米空軍のマイケル アントヌーチ氏(「インサイド カリフォルニア」誌編集長)は次のように語りました。(サクラメント ビー紙 1995年8月20日付)

 

午後6時25分、日航機123便が東京管制塔に緊急信号「スコーク7700」を発信。

 

この通信を傍受した米軍輸送機C130の乗組員は、一大事であると判断。

 

午後6時56分、日航機123便がレーダーから消失。

 

午後7時、横田基地の司令部は、現場付近を航行中の米軍輸送機C130に、日航機123便の捜索を指示。

 

午後7時15分、米軍輸送機C130は、日航機の墜落現場を発見し、位置情報(横田TACAN 方位(305度)、距離(34マイル))を、航空自衛隊中央救難調整所に連絡。

 

輸送機C130は、墜落現場上空を1時間ほど旋回してましたが、午後8時すぎにキャンプ座間から米陸軍のUH-1ヘリが到着。(米空軍ジョン グリフィン大尉の証言)

 

現場に到着したUH-1ヘリは、上空をホバリングしながら兵隊が地上に降下する準備をし、横田基地に救出の許可をとりました。

 

しかし、横田基地の司令部は「直ちに基地に帰還せよ」と指示。

 

航空士のマイケル アントヌーチ氏は答えました。

「なんですって。もう一度言ってください。兵士を地上に降ろす準備はできています。準備は万端なのです。」と。

 

横田基地の司令部は言いました。

「日本側が来るから、直ちに退去せよ」と。

 

横田基地に戻ったマイケル アントヌーチ氏は、今回のことはマスコミには一切喋るな、と上官から口止めされました。

 

事故の生存者である、落合由美さんの証言です。

「(墜落した後)やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。

 

ずっと手を振っていたんですけど、気がついてもらえなかったのか、ここまで来ることができないのか、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。」と。(吉岡忍著「墜落の夏」新潮社)

 

航空自衛隊はどのような行動をしていたのでしょうか?

 

19時21分、航空自衛隊の百里基地をF-4戦闘機の2機が緊急出動。墜落現場の火災を発見して、横田TACAN 方位(300度)・距離(32マイル)を通報。

 

「横田TACAN」とは、設置された極超短波電波標識(超短波全方向式無線標識)などを基準にした方位と距離から、現場を測定する方式。GPSが採用される前までは、もっとも精度の高い測定方法でした。

 

19時54分、KV-107ヘリコプターが、救難・救助のため百里基地から見切り発進。

 

20時33分、救難調整本部(東京空港事務所長)は、航空自衛隊へ航空救難の要請(災害派遣要請)。

 

20時42分、KV-107ヘリコプターが、墜落現場に到着。

 

しかし、到着したKV-107ヘリは、救難用サーチライトを装備していましたが、夜間の森林へ降下することで二次災害が起きることを考慮して、救助活動は行わずに帰還しました。

 

陸上からの救援活動は、現場の位置情報が2転3転してなかなか特定できずにいました。墜落現場付近に在住の第一通報者からの情報は、正確だったのですが、その情報は生かされることはありませんでした。

 

翌朝の8月13日午前4時30分、航空自衛隊救難隊が、墜落機体を発見。

5時10分、陸上自衛隊ヘリが機体確認。

5時37分、長野県警ヘリが墜落現場を確認。

 

午前8時49分、救出開始。この時すでに墜落から14時間が経過していました。

 

防衛庁(当時)は、米軍へりが墜落直後に現場に飛来していた事実を否定。

 

このような矛盾点により、様々な陰謀説が広まっています。

 

陰謀説1

 

パソコンのOSとして日本が開発中だった、トロンの開発技術者17名を抹殺するために、米軍が日航機を撃墜した。

 

陰謀説2

 

事故の1ヶ月後の9月に、米国の対日貿易赤字を解消するために、円高ドル安への為替操作をすることに合意(プラザ合意)させるために、日本を脅かす目的で、米軍が日航機を撃墜した。

 

陰謀説3

 

米軍のミサイル誤射により、民間航空機が犠牲になった。

 

いずれの陰謀説も米軍により撃墜された、となっています。

 

そして、この米軍による民間航空機撃墜の事実を隠すために、現場の位置特定に時間がかかったのである、という理論です。

 

また、墜落した当初は、生き残っていた人がたくさんいたという証言があります。(生存者である落合由美さん、川上恵子さん)

 

これらの生き残りの人たちは、証拠隠しのために殺害されたのではないか、という説もあります。

 

いずれの陰謀説も嘘か本当かわかりませんが、いくつかの矛盾点を考えると、事故調査委員会の報告が事実とも思えません。

 

ミサイル誤射なのか、プラザ合意のためなのかわかりませんが、米軍に撃墜されたために墜落したということでしょう。

 

なぜなら、「事故原因をギリギリまで究明しようとすると戦争になる」、と当時の前橋地検の山口悠介検事正が、遺族の方を集めた説明会にて、表明していたからです。

 

https://youtu.be/bzwQO2TtXzw

 

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June 15, 2018

通州で虐殺されてしまった日本人

テーマ:歴史

 

 

昭和12年(1937年)7月29日、中国の北京郊外にある通州という町で、日本人を標的にした残虐な虐殺事件が起きました。

(通州事件)

 

なぜ、何の罪のない民間の日本人が、残虐な方法で強姦され虐殺されなければならなかったのでしょうか?

 

当時の通州には、塘沽(タンクー)協定により、昭和10年(1935年)から蒋介石国民党から独立した自治政府が設立されていました。(冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ))

 

塘沽(タンクー)協定とは、満州国との国境付近で、国民党軍と日本軍との間で小競り合いが頻発したので、国境付近に非武装地帯を設けることで、昭和8年(1933年)5月に合意した停戦協定になります。

 

その自治政府の長官として、殷汝耕(いんじゅこう)が就任しました。自治政府には中国人5800名の保安隊が設けられて、日本の支那駐屯軍から厳しい軍事教練を受けていました。また、天津に駐屯している日本陸軍から武器貸与を受け、さらに、将校には日本の士官学校並の教育も行われました。

 

このような状況から、冀東防共自治政府は日本の傀儡政権であると言われていました。

 

北京郊外にある通州という町は、この自治政府の管理下にあり、日本人居留民も約385人生活していました。そして、日本軍により訓練を受けた保安隊により治安が維持されていて、日本人居留民たちも保安隊を信頼していました。

 

それまで親日だった通州の人たちですが、次第に空気が変わってきました。中でも朝鮮人が、中国人に対して日本人の悪口を言いふらすようになりました。

 

そして、支那人の日本人に対する風当たりが強くなり、「日本人出て行け!、日本人殺せ!、日本人は人間ではない!」などと奇声をあげながら、町中を練り歩く北京大学などの学生たちが頻発に現れるようになりました。

 

昭和12年7月7日、北京郊外の盧溝橋にて、日本陸軍と国民党軍の間で戦闘が起きました。(盧溝橋事件、七七事変)

すぐに現場の部隊が停戦協定を結んだので、事件は収束していくかと思われましたが、その後も、小競り合いが続いていったので、日本陸軍は増援部隊を北京に派遣しました。

 

通州地区に駐屯していた日本陸軍も天津地区に移動しました。通州にいる居留民の防備が手薄になるという懸念がありましたが、保安隊がいるので大丈夫だろうということで、通州から離れました。

 

日本陸軍が天津に移動した後、昭和12年7月29日夜中、通州城の門が閉められました。城の中にいた日本人居留民の多くはまだ寝ていましたが、突然、支那兵たちが日本人地区に襲撃。婦女子や老人たちが次々に虐殺されていきました。

 

逃れようとした日本人たちは、城の出入り口まで行きましたが、門がしまっていて外に逃れることができずに、皆殺しになってしまいました。

 

この日本人襲撃事件は一体誰が起こしたのでしょうか?

 

事件が起きた当初、日本陸軍は、その首謀者を通州を統治していた、冀東(きとう)防共自治政府の殷汝耕(いん・じょこう)長官であると思いこみ逮捕しました。

 

しかし、殷汝耕(いん・じょこう)長官は事件に無関係だとわかり、その後、玄洋社の頭山満の計らいもあり助命されました。

 

実は、この事件の実行犯は、冀東自治政府の保安隊でした。

 

そして、その保安隊を買収したのは国民党軍であり、また、同じく実行犯である北京大学などの学生達を扇動したのは中共だったのです。

 

保安隊の総隊長である張慶余(ちょう・けいよ)は、通州事件の3週間前の盧溝橋事件で、日本陸軍と交戦した国民党軍の29軍の軍長の宗晢元(そう・てつげん)と共に、秘密結社哥老会のメンバーでした。

 

張慶余(ちょう・けいよ)は、張硯田と宗晢元(そう・てつげん)と共に、以前から日本打倒の密約を交わしていたのです。

 

関東軍(日本陸軍)が友軍として認識していた冀東保安隊でしたが、その総隊長である張慶余(ちょう・けいよ)は初めから、国民党軍の宗晢元(そう・てつげん)と共に、日本打倒の機会を伺っていたのです。

 

関東軍(日本陸軍)は、自治政府の保安隊長が敵の国民党軍と繋がっているなどとは、全く予想していませんでした。それほどまでに、張慶余(ちょう・けいよ)の、日本陸軍に対して忠誠心があるように見せる演技が、素晴らしかったのでしょう。

 

この事件の後、コミンテルンのスパイである尾崎秀実(ほつみ)は、同じくゾルゲ機関のスパイとして活動していたの川合貞吉に、次のように述べています。

 

「あれは君、支那民族の怒りの姿だよ、眠れる獅子が目を覚ました姿だ。冀東地域へ入り込んでいる日本人にろくな奴はいない。

 

淫売、ゴロツキ、事件屋、そんな連中が兵隊の威力を借りて威張り散らし、悪辣極まることをして、土着民を縛り虐待しているんだ。そういう政策を推し進めている日本の民度の低さに問題があるんだ。」と。

 

尾崎秀実は、同じくソ連スパイのゾルゲの元で、当時の大日本帝国を破壊滅亡するため、近衛政権の中枢に入り込み、裏で誘導していきました。

 

その尾崎秀実は、通州事件で残虐極まりないテロの被害にあった日本人に対して、殺されて当然であり、そもそもろくなやつらではない、日本の民度に問題がある、などと語っているのです。

 

とても日本人では行えないような、残酷な大虐殺を行った支那人に対して、尾崎は非難するのではなく弁護していました。

 

この通州事件により、日本国民は「支那人を懲らしめろ!」と世論が沸騰し、日本陸軍は、世論に押される形で蒋介石率いる国民党軍との泥沼の戦争へと突き進んでいきました。

 

もしかしたら、蒋介石の国民党軍が日本軍と戦争をするために裏で仕組んだこの罠に、尾崎も絡んでいたのかもしれません。

 

この虐殺事件を裏で仕組んだのは蒋介石と中共でした。

 

「天津文史資料選集」第21集(天津人民政治協商会議天津市委員会文史資料研究委員会編)に収録されている、「冀東保安隊通県反正始末記」(張慶余 執筆)から引用させていただきます。

 

これは通州事件の主犯格の張慶余(ちょう・けいよ)自ら書いた始末記になります。

 

ーーーーー

蒋介石政権と日冦(日本政府)とで結んだ、塘沽(タンクー)協定の後、冀東は非武装地帯とされた。

 

次に蒋介石政権は河北省の首席・于学忠(う・がくちゅう)に密命を下し、特殊警察総隊を作り冀東非武装地帯に入れ、警備させた。

 

于学忠(う・がくちゅう)は、私、張慶余(ちょう・けいよ)と張硯田を選出し、第一総隊長と第二総隊長に任命した。

 

その営長と連長も第51軍から選び、訓練を開始した。

1935年に冀東地区に移動し駐屯した。そして、冀東防共自治政府を殷汝耕(いん・じょこう)が樹立させ、名称を冀東保安隊に改称しして、偽政権の統括となったのである。

 

私の長男、張玉珩(ちょう・ぎょくこう)は、私が偽冀東政権で有力な責任者の席に付いているという話を聞き、

 

私が国家に反したと判断し、恥ずべき父親だ、私と親子関係を切るとまで言いだし、その言葉を新聞にのせた。

 

妻の于徳三も速やかに反正の方法を講じるべきで、さもなければ親友郷党から問題視されるから逃げよう、と言いだした。

 

そこで、私は極秘裏に妻に告げたのである。「私の意思を今すぐにはっきりさせるのは適当でない。けれども、近い将来には必ず明らかになる。息子に伝えて欲しい。耐えてまち、お前の父親のこれからの行動を見ていろ」と。

 

1935年、宗晢元(そう・てつげん)が冀東政務委員会に就任して間も幕のことだった。

 

私と張硯田は極秘のうちに張樹声(ちょう・じゅせい)(国民党軍の将軍で哥老会の会員)に頼んで、「宗晢元を直接紹介してもらいたい。できれば宗に従って、抗日戦線に加わりたい」と伝えた。

 

張樹声は快諾し、すぐに手配してくれた。宗は非常に喜び、私たちと会いたがってくれたが、日冦(日本軍)や漢奸(漢民族の裏切者のこと)どもの目につくのを極度に警戒し、天津の旧イギリス疎開の17号路にある宗の自宅で私と張硯田と会談した。

 

その席で宗は「元々お二方は祖国を熱愛し、また最近は俊傑(張樹声のあざ名)兄が、お二方が力を合わせて抗日したいと言われていると伝えてくれました。

 

私は、ここに国民党政府を代表して心から歓迎の意を表します。

 

現在は、にせ(傀儡)冀東政権問題があるので、お二方に置かれては注意を怠らないようにしていただきたい。

 

すなわち、宗哲元は決して国を売りません。お二方には今日以降私に外で合わないように注意を払い、合わせて立場を固く守り、決して動揺することのないようにお願いしたい。」

 

と語った。宗は続けて「軍隊を訓練させて強化し、準備を整えて日冦の侵略を防ごうではないか」と付け加えた。

 

言い終えた宗は、準備させた一万元を、私たちそれぞれに手渡した。

私たちは宗に向かって感謝の言葉を述べ、次のように言った。

 

「私たち二人は今後、心を一つにして宗委員長に従い、国家の為に尽くします。」

 

私たちは宗と硬い握手を交わして別れたのでだった。のちに保安隊が通県(通州のこと)で義挙(起義)したのは、この日の会談の約束を果たした結果である。

 

盧溝橋事件発生後、宗哲元が北平(北京)にいなかったため、私は腹心の劉春台(りゅう・しゅんだい)(ニセ(傀儡)冀東教導訓練所副署長)を密かに北平(北京)に向かわせ、河北省首席・馮治安(ひょう・ちあん)に行動指針をどうするか伺った。

 

馮治安は劉に次のように告げました。

 

「今の所、我が軍は日軍同様まだ戦略が決まっていない。張隊長に伝えて欲しいのは、しばらく軽挙を控えることです。我が軍と日軍が開戦する時を待って、その時は、張隊長に不意をついて通州で義挙する一方、兵を分けて豊台を側面から攻撃し、挟撃の効果を収めようではないか」

 

さらに劉春台にこう付け加えた。

「腹心の人物を登用派遣し、第29軍参謀長の張越亭と普段からいい関係を維持するといい」

 

劉春台は、馮治安に別れを告げるとすぐに張越亭に面会を求め、良い関係を作った。張越亭もすぐに私と張硯田の保安隊を戦闘序列に加えたのであった。

 

この時、日冦の通県に駐在する特務機関長、細木繁中佐は、第29軍が通県に侵攻するのを防ぐため、特に私と張硯田を招集して、軍事会議を開いた。

会議は通州の防衛についてで、彼は、5千分の1の地図を前に私たちに地図を基にした、防衛計画を作るように命じた。

 

私は立ち上がってこう述べた。

「私たち二人は、軍人出身です。学問もなく、難しい軍用地図はよく分からない。でも、我々には自信があります。通州をしっかり守り抜くことができますし、皇軍とともに戦えば、第29軍をつき崩すことは可能です。

 

ただ、目の前にある兵力は少なくこのままではダメです。私の考えを申し上げれば、あちこちに駐留させている各所の保安隊を通州に集中させてから命令を待って、それから作戦会議をさらに開いた方が良いと思うが、いかがですか」

 

細木繁はもっともだと頷き、その案はすぐに許可された。加えて、彼は我々を忠実で頼りになると信じたらしく、各地にバラバラで生活している日僑を、保護の目的で通州に集中させることに決定した。

 

私は、すぐに張硯田と手分けして、所轄のあちこちに分駐している部隊を通県(通州)に集めるよう指示した。

 

私は、日冦(日本軍)が大挙して南苑を侵略し、併せて飛行機を飛ばして北平(北京)周辺を爆撃するのを見て、戦機はいよいよ近いと知った。

このまま座視しているわけにはいかなくなり、遂に、7月28日夜、通県で義挙すると決定した。

 

直ちに私は兵を出し、通州城の城門を封鎖し、市内の交通を断ち、電信局や無線台を占拠させた。合わせてニセ(傀儡)冀東政府を包囲し、漢奸、殷汝耕を拘束させた。

私は、同時に西倉に兵を向かわせ、特務機関長、細木を捕らえた。細木は銃声が四方から響くのを聞いて異変を察知、特務の十数人を率いて抵抗した。

 

細木は片手に銃を持ち、片手で我が軍の将兵を指差して大声でわめいた。

 

「お前たちは速やかに保安総隊へ帰れ。お前たちは生き残れないぞ」細木は話が終わらないうちに、我が軍の乱れ打ちにより射殺された。

 

残りの特務の連中は形成不利と考え、速やかに特務機関内に身を返し、門を閉じて死守しようとした。

 

我が軍は大砲と機銃で猛烈に掃射し、集中掃討したのだった。激戦は7月29日午前9時ごろに至り、日冦(日本軍)は、一部の逃亡者を除き、頑固に抵抗したものはことごとく殲滅した。

 

日冦(日本軍)は、爆撃機24機を派遣して、我が通県起義軍に対して爆撃を繰り返し、7時間の長きに達した。

 

私の命を奉じて戦ってきた蘇連章の団は、対空装備がないので全く支えきれず、ここに置いて軍服を脱ぎ城を捨てて逃げた。(中国兵は逃亡する際、必ず軍服を脱いで民間人のふりをして逃げます。)

 

張硯田と蘇連章らの相次ぐ逃亡は、この通県反正に対する影響上、極めて不都合だった。程なく私は、蒋介石から電話で招かれ、南京へ向かった。

 

蒋介石は私にこう語りかけた。

 

「あなたはこの度、通州で蜂起し、破れて未だに栄誉を得ていないが落胆することはない。損失は私が整理して軍政部から補充するから、しばらく休んで静養し、その後再び戦線に復帰してもらいたい」

 

さらに、蒋介石は、

「あなたは殷汝耕を捉えたのに、なぜ殺さなかったのか」

と問うので、私は、

 

「当時はまさに逆賊の殷汝耕をさらし首にして見せしめにし、民の怒りを鎮め、はっきりさせようと銃殺を考えました。

 

けれど、もっと良いのは北平(北京)の宗哲元委員長のところまで護送し、中央の法律で処罰してもらうのが妥当だ、とニセ冀東教導訓練所副所長の劉春台が阻んだのです。

と答えた。

 

蒋介石は良いとも悪いとも言わずに、私を旅館に帰って休ませ、明日、何応欽部長のところへ行き、再度協議しようと言われた。

 

1938年、改めて私は第91軍副軍長に派遣されたが、私は病気を理由に断り、遂に職につかなかった。

ーーーーーーーーーー

以上、引用終わり。

 

通州事件の首謀者である、張慶余(ちょう・けいよ)は冀東保安隊第一隊長とて、国民党軍29軍の攻撃から日本人居留民を保護することを任務としていました。

 

しかし、張慶余は、その国民党軍第29軍の宗哲元と裏で繋がっており、日本人虐殺のための活動資金までもらっていたのです。

 

冀東政府を樹立した殷汝耕は元々、国民党軍にいた人であり、日本傀儡(かいらい)政権と言われた冀東(きとう)自治政府を樹立した時、蒋介石は裏切り者として逮捕状を出していました。

 

蒋介石は張慶余に対し、

「あなたは殷汝耕を捉えたのに、なぜ殺さなかったのか」

と問いただしたのは、そういった背景があったからです。

 

いつも私たちを守ってくれている保安隊の人たちを信じて生活していた、日本人たち。その保安隊が突然日本人を皆殺しにしろと、いって夜中に襲ってきたのです。

 

どれほど驚いたことでしょう。そして、見るも残酷な方法で無抵抗な女子供たちを、強姦、略奪、殺人を犯し、それをシナ人たちは楽しんでいたのです。

 

その首謀者である張慶余は、通州事件の2年前から敵の国民党軍と内通して、日本人殺戮のために準備していたのです。

 

細木特務機関長をはじめ日本人居留民たちは、まさか、張慶余が敵のスパイであったとは全く知らずにいました。

 

しかも事件後、張慶余は蒋介石から呼び出され、

「通州で蜂起し、破れて未だに栄誉を得ていないが落胆することはない。…その後再び戦線に復帰してもらいたい」

と言われました。

 

つまり、通州事件を裏で画策していたのは、蒋介石だったのです。

 

また、「盧溝橋事件風雲編」(中国人民大学出版社刊)が盧溝橋事件から50年たった1987年に出版されました。

 

これは、抗日戦争50年記念事業として、中国の歴史書として中国共産党が編纂したものになります。

 

この中で、通州事件についても次のように触れられています。

1935年、宗哲元と張慶余、張硯田との秘密会談について書かれた後、

 

ーーーーーーーー

第29軍の宗哲元は、冀東保安隊を差別することなく、努力して味方として団結させた。そして、のちに保安隊が通州で”反正”したのは、まさにこの時の約束と直接的な関係があったのだ。

 

冀東保安隊と29軍は、ずっと極秘のうちに行き来し続けたのである。

 

冀東保安隊は日(本)軍、敵警察、憲兵と日鮮(当時、朝鮮人は日本人でした)浪人500人を殺害し、河北郡民の抗日闘志を示した。

ーーーーーーーー

 

500人というのは中国が得意とする水増しです。

実際の殺害された人数は250余人となります。

 

保安隊の蜂起を主導した張慶余(ちょう・けいよ)は、この事件の後、国民党軍で出世しました。

 

戦後、蒋介石も中共も、通州事件について謝罪していません。また、日本政府も戦後、一切この事件について外交問題にしていません。

 

どんなに南京大虐殺について中共から、歴史認識を改めるように謝罪要求されてもです。

 

この中で「反正」という言葉が出てきますが、これは「反省」ではありません。間違いを改め正しい状態に戻すという意味です。

 

この場合は、日本軍が大陸に侵略しているという間違った状態を改め、日本の傀儡政権である冀東(きとう)政府を倒し、日本人を抹殺すること(正しい状態に戻す)、という意味で使われています。

 

無抵抗な女性(妊婦)や子供達(赤ん坊)、多数の日本人居留民を、残虐な方法で強姦、略奪、殺人を犯した通州事件。

 

蒋介石や中共にとって、これは「反正」であり、輝かしい抗日戦であります。彼らにとって、この事件は日本に謝罪することでは全くないのです。

 

この事件当時、通州に住んでいた佐々木てん氏は、事件の様子を目撃し、後日、次のように語りました。

(「天皇様が泣いてござった」佐賀県因通寺の住職 調寛雅師著 1997年発行)

 

(これより先、精神衛生管理は自己責任でお願いします。)

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私は沈さんに従ってその年の3月に支那に渡りました。長い船旅でしたが、しばらく天津で仕事をしておりました。

 

そのうち片言混じりではあったけれど支那語もわかるようになってまいりました時に、沈さんが通州へいくというのです。

 

通州は何がいいのですかと尋ねると、あそこには日本人も沢山いて、支那人もとてもいい人が多いから行くというので、私は沈さんに従って通州に行くことにしたのです。

 

それは昭和9年の初めごろだったのです。

沈さんがやっていた商売は雑貨を主としたものでしたが、必要とあらばどんな物でも商売をします。

 

だから、買う人にとってはとても便利なんです。

沈に頼んでおけばなんでも手に入るということから、商売はだんだん繁盛するようになってまいりました。

 

沈さんも北門のあたりまで行って、日本人相手に大分商売がよく行くようになったのです。

 

この頃は日本人が多く住んでいたのは東の町の方でした。私たちは、沈さんと一緒に西の方に住んでいましたので、東の日本人とそうしょっちゅう会うということはありませんでした。

 

この通州の町にはその当時、冀東防共自治政府(きとうぼうきょうじちせいふ)がありました。

これは殷汝耕(いん じょこう)さんという人が作った政府で、軍隊も一万人以上いたそうです。

 

そして日本に対しては非常に親日的だったので、私も、日本人であるということに誇りを持っていたのです。

 

ところが、昭和11年の春も終わろうとしていた時、沈さんが私に、これから日本人ということを他の人にわからないようにせよと申しますので、私が何故かと尋ねますと、支那と日本は戦争をする、その時私が日本人であるということがわかると大変なことになるので、日本人であるということは言わないように、そして日本人とあまり付き合ってはいけないと申すのです。

 

私は心の中に不満が一杯だったけど、沈さんに逆らうことはできません。

 

それが昭和11年の終わり頃になると、こうした支那人たちの日本に日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。

 

それは、支那のあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるようにに思われました。

 

そしてこの頃(昭和12年)になると、一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、支那の国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら、行進をするのです。

 

それが7月になると「日本皆殺し」「日本人は人間じゃない」「人間でない日本人は殺してしまえ」というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。

 

鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。

 

昭和12年7月29日の朝、まだ辺りが薄暗い時でした。突然、私は沈さんに激しく起こされました。大変なことが起こったようだ。

 

早く外に出ようというので、私は風呂敷包み二つを持って外に飛び出しました。日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。8時をすぎて9時近くになって、銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心している時です。

 

誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。

そのうち、誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。

 

何かぞーっとする気分になりましたが、恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。

 

私は沈さんの手を引いて日本人居留区の方へ走りました。

日本人居留区に近づくと何か一種異様な匂いがして来ました。

何か生臭い匂いがするのです。

血の匂いです。

 

沢山の支那人が道路の傍に立っております。

そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も混じっています。

 

いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。

そのうち、日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。15歳から16歳と思われる色の白い娘さんでした。

その娘さんを引きだして来たのは、学生でした。

 

その娘さんは恐怖のため顔が引きつっております。

体はブルブルと震えておりました。

その娘さんを引き出して来た学生は何か猫がネズミをとった時のような嬉しそうな顔をしておりました。

 

そして、その着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。

薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。

 

すると、雪のように白い肌があらわになってまいりました。

娘さんが、何か一生懸命この学生に言っております。

 

しかし、学生はニヤニヤと笑うだけで娘さんの言うことに耳を傾けようとはしません。

娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。

 

学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。

そして下着を取ってしまいました。

娘さんは「助けて!」と叫びました。

 

とその時です。

 

一人の日本人の男性がパアッと飛び出してきました。

そしてこの娘さんの上に覆いかぶさるように身を投げたのです。

恐らくこの娘さんのお父さんだったのでしょう。

 

すると、保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。

 

何かグシャっと言うような音が聞こえたように思えます。

頭が破られたのです。

 

でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。

保安隊の兵隊が何か言いながらこの男の人を引き離しました。

娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が一杯流れておりました。

 

保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。

パーっと辺り一面に何かが飛び散りました。

 

恐らくこの男の脳漿(のうしょう)だったろうと思われます。

そして2、3人の兵隊と2、3人の学生がこの男の人の体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。

 

服が破れます。肌が出ます。血が流れます。そんなこと御構い無しに踏んだり蹴ったりし続けています。

そのうち保安隊の一人が、銃につけた剣で腹のあたりを突き刺しました。

 

血がパーっと飛び散ります。

その血は横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。

 

腹を突き刺しただけではまだ、足らないと思ったのでしょうか?

今度は、胸のあたりを突き刺します。

また腹をつきます。

 

胸をつきます。

たくさんの支那人が見るけど「うーん」とも「わー」とも言いません。

 

ただ、見ているだけです。この屍体を3メートル程離れたところま

で、丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生たちは、この気を失っていると思われる娘さんのところにやってまいりました。

 

この娘さんはすでに全裸になされております。

そして、恐怖のために動くことができないのです。

その娘さんのところまで来ると、下肢を大きく広げました。

 

そして凌辱を始めようとするのです。

これはもう人間のすることとは言えません。

ところが娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。

 

どうしても凌辱がうまくいかないのです。

すると三人ほどの学生が広げられるだけこの下肢を広げるのです。

そして保安隊が持っている銃を持って来て、その銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突っ込むのです。

 

何人もの支那人がいるのに止めようともしなければ、声をだす人もおりません。

すると、ぎゃーと言う悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。

 

保安隊の兵隊がニタニタ笑いながら、この娘さんの陰部を抉り取っているのです。

 

私の身体はガタガタと音を立てるほど震えました。

この兵隊は今度は腹を縦に割くのです。

それから、剣で首を切り落としたのです。

 

その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。

 

日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。

ほとんどの日本人はすでに殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。

あちらの方で「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶものがいるとそちらの方に学生や兵隊達がわーっと押し寄せていきます。

 

私も沈さんに抱き抱えられながらそちらに行って見ると、日本人の男の人たちが5、6名兵隊達の前に立たされています。

 

そして、一人また一人と日本人の男の人が連れられてきます。

十名程になったかと思うと兵隊達が針金を持ってきて、右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。

 

そうして、今度は銃につける剣を取り出すと、その男の人の掌をグサッと突き刺して、穴を開けようとするのです。

悪魔でもこんな無残なことはしないのではないかと思いますが、支那の学生や兵隊達はそれ平気でやるのです。

 

集められた十人ほどの日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。

そして60歳を超えたと思われる老人もいるのです。

 

この10名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で抉り取った学生や兵隊たちは、今度は大きな針金を持ってきてその掌の中を通すのです。

10人の男の人が数珠つなぎにされたのです。

 

学生と兵隊達この日本人の男の人たちの下着を全部取ってしまったのです。

そしてもちろん裸足にしております。

その中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、20歳前後と思われる男のところに行くと足を広げさせました。

 

そして、男の人の男根を切り取ってしまったのです。

この男の人は「助けて!」と叫んでいましたが、そんなことはお構いなしにぐさりと男根を切り取った時、この男の人は「ぎゃっ」と叫んでいましたが、そのまま気を失ったのでしょう。

 

でも倒れることはできません。

学生や兵隊達はそんな姿を見て「ふっふっ」と笑っているのです。

私は思わず沈さんにしがみつきました。

 

旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行った時です。

日本の女の子が二人、保安隊の兵隊に連れられて出てきました。

 

一人の女の子は前がはだけていました。

この女の人が何をされたのか、私もそうした商売をしておったので、よくわかるのです。

 

しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。

二人のうち一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。

 

ほっぺたがひどく腫れ上がっているのです。

その女の人を引っ張ってきた保安隊の兵隊は、ほっぺたの腫れ上がっている女の人をそこに立たせたかと思うと、着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。

 

女の人は本能的に手で前を抑えようとすると、いきなりその手を銃剣で切りつけました。

左の手が肘のところからバッサリ切り落とされたのです。

かすかにウーンと唸ったように聞こえました。

 

そしてそこにばったり倒れました。

すると倒れた女の人の腹を銃剣で突き刺すのです。

 

私は思わず「やめて!」と叫びそうになりました。

その私を沈さんがしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。

私は怒りと怖さで身体中が張り裂けんばかりでした。

 

旭軒と近水楼の間にある松山楼の近くまできた時です。

一人のおばあさんがよろけるように逃げてきております。

するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うと、いきなりこのお婆さんに斬りかかったのです。

 

お婆さんは懸命に逃げようとしていたので、頭に切りつけることができず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。

 

学生はこのお婆さんの腹と胸を一刺しづつついてそこを立ち去りました。

誰も見ていません。私と沈さんとこのお婆さんだけだったので、私がお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんが目を開きました。

 

そして、「悔しい」と申すのです。

「仇をとって」ともいうのです。

 

私は何もしてやれないのでただ黙って額に手を当ててやっているばかりでした。

すると、このお婆さんが「ナンマンダブ」と一言お念仏を唱えたのです。

そして息が止まったのです。

 

私が西本願寺の別府別院にお詣りするようになったのは、やはりあのお婆さんの最後の一言である「ナンマンダブ」の言葉が私の耳にこびりついて離れなかったからでしょう。

 

お婆さんの額に手を当てていると、すぐ近くで何かワイワイ騒いでいる声が聞こえてきます。

すると支那人も沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。

 

そこに保安隊出ない国民党政府の兵隊も何名かいました。

みんなで集まっているのは女の子を一人連れ出してきているのです。

何とその女の子はお腹が大きいのです。7ヶ月か8ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。

 

恐怖のために恐れおののいている女の子を見ると、女の私ですら綺麗だなと思いました。ところが、一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、女の人が頑強に抵抗するのです。

 

歯をしっかり食いしばってイヤイヤを続けているのです。

学生が2つか3つかこの女お人の頰を殴りつけたのです。

 

そして時々「ヒーっ」と鳴き声を出すのです。

と、その時です。

 

一人の日本人の男の人が木刀を持ってこの場に飛び込んできました。

そして、「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。

これで自体は一変しました。

学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で切りつけました。

するとこの男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。

 

そして持っていた木刀でこの学生の肩を激しく打ちました。

学生は「うーん」と言ってその場に倒れました。

すると今度はそこにいた支那国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊が、鉄砲の先に剣をつけてこの日本の男の人に突きかかってきました。

 

私は、見ながら日本人頑張れ、日本人頑張れと心の中に叫んでいました。

7名も8名もの支那の兵隊達がこの男の人にジリジリと詰め寄ってきましたが、この男の人は少しも怯みません。

 

ぴしりと木刀を正眼に構えて一歩も動こうとはしないのです。

私は立派だな、さすがに日本人だなと思わずにはおられなかったのです。

 

ところが、後ろに回っていた国民政府軍の兵隊が、この日本の男の人の背に向かって銃剣でさっと突いてかかりました。

 

するとどうでしょう。男の人はこれもひらりとかわしてこの兵隊の肩口を木刀で激しく打ったのです。

 

この兵隊も銃を落としてうずくまりました。

でも、この日本の男の人の動きもここまででした。

 

横におった保安隊の兵隊が男の人の腰のところに銃剣でグサりと突き刺したのです。

男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、この男の人を殴る蹴るの大乱闘を始めたのです。

 

男の人はうーんと一度唸ったきり声が上がりません。

そして、あのみるも痛ましい残虐行為が始まったのです。

 

それは、この男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。

これ以上はもう人間の行為ではありません。

 

今度は、目玉を抉り取るのです。

この時まではまだ男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき僅かに手と足が動いたように見えました。

 

目玉を抉り取ると、今度は服を全部剥ぎ取り、お腹が上になるように倒しました。

そして、学生が又青竜刀で男の人のお腹を切り裂いたのです。

 

縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。

ズルズルと腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。

 

地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあと仕切りに頭のどこかで考えていました。

ハッと目を上げてみると、青竜刀を持った学生がその男の人の腸を切ったのです。

一尺ずつぐらいに切り刻んだ学生は細切れの腸を、妊婦のところに投げたのです。

 

お腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬に当たると「ヒーっ」と言って気を失ったのです。

 

その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。

その時、この妊婦の人が気がついたのでしょう。

フラフラと立ち上がりました。

 

そして一生懸命逃げようとしたのです。

その妊婦を見た学生の一人がこの妊婦を突き飛ばしました。

 

妊婦はばったり倒れたのです。

すると兵隊が駆け寄ってきて、この妊婦の人を仰向けにしました。

 

剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。

赤い血がパーっと飛び散りました。妊婦の人がひゃーという最後のひと声もこれ以上ない悲惨な叫び声でした。

 

お腹を切った兵隊は手をお腹の中につきこんでおりましたが、赤ん坊を探し当てることができなかったからでしょうか、今度は陰部の方から切り上げています。

 

そして、とうとう赤ん坊を掴みだしました。

その兵隊はニヤリと笑っているのです。

 

片手で赤ん坊を掴みだした兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです。

 

ところが、保安隊も学生もその赤ん坊を受け取るものがおりません。

赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。

 

私は、もう街の中には痛くないと思って、沈さんの手を引いて街の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。城内の道を通った方が近いので北門から入り近水楼の近くまで来た時です。

 

その近水楼の近くに池がありました。その池のところに日本人が40人から50人立たされておりました。

ほとんどが男の人ですが、中には50を越したと思われる女の人も何人かおりました。

ついさっき見た手を針金で括られ、掌に穴を開けられて大きな針金を通された10人ほどの日本人の人たちが連れられて来ました。

 

国民党政府軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。

そして、一番最初に連れ出された50歳くらいの日本人を学生が青竜刀で首のあたりを狙って切りつけたのです。

 

ところが首に当たらず、肩のあたりに青竜刀が当たりますと、その青竜刀ひったくるようにした国民党政府軍の将校と見られる男が、肩を切られて倒れている日本の男の人を兵隊2人で抱き起こしました。

 

そして、首を前の方に突き出させたのです。

そこに国民党政府軍の将校と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。

 

この男の人の首はコロリと前に落ちました。

これを見て国民党政府軍の将校はニヤリと笑ったのです。

 

落ちた首を保安隊の兵隊がまるでボールを蹴るように蹴飛ばしますと、すぐそばの池の中に落ち込んだのです。

 

この国民党政府軍の将校の人は次の日本の男の人を引き出させると、今度は青竜刀で真正面から力一杯この日本の男の人の額に切りつけたのです。

 

するとこの男の人の額がパックリ割られて脳梁が飛び散りました。

国民党政府軍の将校は手を挙げて合図をして、自分はさっさと引き上げたのです。

 

合図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がわーっと日本人に襲いかかりました。40人か50人かの日本人が次々に殺されていきます。

 

そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。

池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。

 

全部の日本人が投げ込まれたときは、池の水は真っ赤になっていたのです、真っ赤な池です。その池に蓮の花が一輪咲いていました。

 

昼過ぎでした。日本の飛行機が一機飛んで来ました。日本軍が来たと誰かが叫びました。ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。

 

日本軍が来たというので、国民党政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。

 

悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残酷無比なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出していくのです。

 

私は今回の事件を通して支那人がいよいよ嫌いになりました。私は、支那人の嫁になっているけど、支那人が嫌いになりました。

 

こんなことから沈さんとも別れることになり、昭和15年に日本に帰って来ました。

 

ーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以上、引用終わり。

 

この事件に関わっっていた国民党政府軍の兵隊達。当時の佐々木テンさんのご主人が支那人だったこともあり、軍服を見て、そのように解説していました。

 

このような残虐行為を平気でする支那人の風習は、古来より実地されて来ました。明の皇帝は特にこの残虐な殺人が好みで、清朝末期の西太后の時代まで、残虐な刑罰が行われていました。

 

この事件のあと、現場に駆けつけた日本の兵隊たちは、どう感じたでしょう?

日本人を守れなかったことを悔しがったことでしょう。

 

この事件を昭和12年7月30日付けの号外として、東京日日新聞(毎日新聞)が報道したのをはじめ、読売新聞、東京朝日新聞など各社が報道しました。そして、その記事を見た日本人は皆、沸騰しました。

 

この事件に対して、冀東防共自治政府の保安隊を買収した国民党は、日本政府に謝罪をしたことがありません。また、「日本人を殺せ!」と街頭演説を北京大学の学生達にやらせた中共もです。

 

中共や国民党にとって、この事件は輝かしい抗日戦であるので、自慢することはあっても、決して謝罪などする必要ない事件なのです。

 

そして、日本が終戦した後に建国した中共は、このテロ事件の被害者である日本人を加害者にすり替え、加害者である支那人を被害者にすり替え、事件の場所を通州から南京にすり替え、被害者の数を250余人から40万人にすり替えて、全世界に向けて宣伝(プロパガンダ)し続けています。

 

さらに、ユネスコ世界記憶遺産として登録されてしまいました。名称も”通州大虐殺”ではなく”南京大虐殺”として。

 

通州事件のあった現場は高層ビルが立ち並び、事件の面影を残す建造物は何一つ残されていません。その一方、南京は、まるで大虐殺があったかのように、立派な記念碑や記念館が作られています。

 

通州の地で無念の思いで血祭りにあげられた日本人たち。

 

もし近未来に、日本が中共に侵略占領されてしまったならば、かつて通州の地で日本人が支那人から受けた残虐な虐殺、強姦が、日本国中で繰り広げられてしまうかもしれません。

 

通州で犠牲となった英霊たちのためにも、また、二度とこのような支那人による残虐な行為が行われないようにするためにも、通州事件が無かったこととして蓋をして目を背けるのではなく、真実の歴史として後世まで語り継いていきたいです。

 

参考図書

「慟哭の通州」加藤康男著

 

歴史を学び日本人の誇りを育む 斎藤ひろゆきのメルマガ

 

June 13, 2018

日本軍が武装解除したあとに起きた通化大虐殺とは

テーマ:歴史

 

 

昭和20年8月15日、終戦。日本軍が、無条件降伏して武装解除したので、アジア諸国では平和が実現したと教えられています。

 

しかし、実際は、この終戦記念日以降もアジア各地で日本人が大虐殺されていきました。

 

昭和20年8月20日、北朝鮮の国境近くの満州の通化という町にある、通化高等女学校にソ連兵が乱入。女子生徒を連行しようとしたので、女性教師が身代わりとなって連行されていきました。

 

翌日、その女性教師は戻されましたが、複数のソ連兵に強姦(レイプ)され輪姦されてしまったので、辱めを受けた精神的苦痛のために自殺してしまいました。

 

8月24日、ソ連将校20名と兵隊200名が通化市に進駐。

中国共産党軍(八路軍)も同市に駐留するようになりました。

 

ソ連兵と中共軍兵士のほとんどは、武装解除した関東軍(日本陸軍)の銃や軍靴を身につけており、武器弾薬なども大量に関東軍から接収していました。

 

通化市はソ連軍と、中国共産党軍(八路軍)の管理下に置かれました。

 

ある日、真昼間からソ連兵が日本人女性を強姦(レイプ)していました。しかも人通りのある路上でです。

 

通報を受けた原准尉は、慌てて現場に駆けつけて、ソ連兵にやめるように注意したのですが、ソ連兵はその忠告を無視して強姦を続けていました。

 

原准尉は、止むを得ず手に持っていた日本刀で、ソ連兵を殺害。その後、駆けつけてきたソ連兵によって原准尉は射殺されてしまいました。

 

当初、ソ連軍は、日本兵が所有していた日本刀を、飾り程度にしか思っていなかったのですが、この事件以降、殺傷能力のある武器として認識したので、全ての日本刀を没収していきました。

 

すでに、日本軍は武装解除を行なっていたので、武器弾薬を所持していなかったのですが、日本刀まで没収されてしまったので、日本兵は丸裸となってしまいました。

 

ソ連兵は、日本女性に対する強姦(レイプ)を、昼夜問わず人目を気にせず、頻繁に行っていました。

 

そのため、日本女性は、頭を丸坊主にしたりして女性と気づかれないように身を守り、外出は避けていました。

 

ソ連兵は、日本人居留民に対し、若い素人女性を提供するように要求してきました。

 

ソ連軍の要求を断ると他の日本人が殺されてしまうため、従うしかありません。

 

居留民会で話し合い、仕方なく料亭で働いている女性を差し出すことにしました。

 

生贄とされてしまったのですが、ソ連軍に逆らうこともできず、まさに苦渋の選択でした。

 

昭和20年10月23日、ソ連軍が通化市から撤収した後、入れ替わりに中共軍が通化市に進駐してきました。

 

当時、満州国をソ連軍が侵略した後、中共軍にその主権を明け渡すという密約が、スターリンと毛沢東の間であったため、満州国の各都市でこのような軍隊の入れ替えが行われていきました。

 

そして、劉西元(りゅう せいげん)(劉東元)も着任。

 

中共軍は、日本軍の脱走兵狩りを行い600人を検挙した後吉林へ連行しました。

 

中共軍は、遼東日本人民解放連盟の通化支部(日解連)を設立して、共産党への思想教育を実地していきました。

 

その時に使われた教材は、共産党員の野坂参三が書いた本でした。

 

17、000名いた通化市内の日本人居留民たちは、全ての財産を没収されてしまい、さらに、中国共産党へ忠誠を誓うことを誓約させられました。

 

昭和20年11月17日、中共軍は、元満鉄総裁という理由で大村卓一を逮捕。

 

昭和20年12月23日、日本人民解放連盟(日解連)主催の日本人居留民大会が開催されました。

 

その大会では、藤田実彦大佐を含む日本居留民3000人が参加。

 

「中国共産党万歳。日本天皇制打倒。民族解放戦線統一」を目標に掲げました。

 

日解連の通化支部の幹部たちは、日本がこれまで大陸で行なってきたことを謝罪して、「我々が生きていられるのは中国共産党軍のお陰である」と発言。

 

完全に洗脳(マインドコントロール)されてしまいました。

 

これは「思想改造」と言われる洗脳(マインドコントロール)を受けたためです。

 

「思想改造」とはどのようなものでしょうか?

 

昭和15年(1940年)、日本兵士反戦同盟(のちの日本人民解放連盟)が延安に設置されました。

 

延安は、毛沢東率いる中共が滞在していた拠点でした。

 

「日本労農学校」や「第二学校」などの捕虜収容所において野坂参三が校長を務めました。

 

日本労農学校では、集団でお互いに相手の自己批判を徹底的に繰り返させ、それまで積み上げてきた自尊心や価値観などを、木っ端微塵に打ち砕くことにしました。

 

この方法は、それまで深く染み付いた古い思考を破壊し、新しい生活様式を受け入れるのに役立つと考えられました。

 

疲労と自己批判で意識がモウロウとしてきたところに、何度も何度も自分自身の言葉で、政治的教義(マルクス・レーニン主義)を反復させるという思想改造をしていきました。

 

捕虜となった日本兵たちにとって、共産主義者になることだけが、過去を絶ち切って、罪深い過去の記憶から自らを解脱させる唯一つの方法だったのです。

 

解脱とは、しがらみから解放するということです。人間誰でも色々なしがらみを持っていきています。そのしがらみから解放することができれば、幸せで生き生きと生きることができると、仏教では説明します。

 

そこでは、みんなで共産主義者になって、毛沢東を同志と呼び、中共軍を解放軍と賞讃して、そのもとに働く彼ら自身を、解放の戦士と呼称することによって、自分自身を肯定する居場所をつくりました。

 

日本労農学校での日本兵捕虜の思想改造は、見事に成功していきました。

 

捕虜の中で次のように話す人が出てきました。

「周恩来総理は、私の人生になくてはならない指導者である」とか、

 

「中国共産党と八路軍は私に第二の命を与えてくれた。それは私に、正しい人として生きる目的と意義を教えてくれた」

と。

 

このような「覚醒した」日本兵たちは、新たな日本兵を捕虜とすることに利用されていきました。

 

昭和19年(1944年)3月4日、日向勝・砲兵中尉をはじめとする48人が八路軍の捕虜になりました。そのうち30人が日本人民解放連盟(日解連)に参加しました。

 

日向勝は、砲兵教官として新四軍(八路軍)に止まり、砲兵部隊を育成し、第三野戦軍砲兵連隊の作戦参謀や大隊長などの要職を歴任。

 

中国の国共内戦で、淮海戦役、渡江戦役などの国民党軍との戦いに参加して、大活躍して連戦連勝。中共軍の勝利に大きく貢献しました。

 

昭和20年12月23日、通化市で行われた日本人居留民大会に話を戻します。

 

日本人居留民たちは、日解連への非難や明治天皇の御製を読み上げ「日本は元来民主主義である」と訴え、山口嘉一郎老人は、日本共産党の野坂参三が行なった天皇批判を、万死に値すると激しく非難しました。

 

山口嘉一郎老人は、「宮城(皇居)に遥拝し、天皇陛下万歳三唱をさせていただきたい」と提案すると、会場から大きな拍手が沸き起こり、全員起立して宮城(皇居)に向かって遙拝と、天皇陛下万歳三唱が行われました。

 

そして山口嘉一郎老人は、「我々は天皇陛下を中心とした国体で教育され来たので、いきなり180度変えた生き方にはなれませんので、徐々に教育をお願いしたい」と述べました。

 

翌日、中共軍は、山口嘉一郎老人や大会で発言した者を連行し処刑しました。

 

昭和21年1月10日、中共軍の工作員である内海薫を殺害した容疑で、中共軍は、日解連の幹部や旧満洲国の高級官吏・日本人居留民会の指導者ら140名を強制連行。

(1月10日事件)

 

菅原達郎通化省次長、河内亮通化県副県長、川瀬警務庁長、林通化市副市長の4名は、中共軍によって市中引き回しの上で、渾江の河原で公開処刑されてしまいました。

 

処刑された遺体は何度も撃たれ銃剣で突き刺されて、ハチの巣にされてしまいました。

 

昭和21年2月3日、このような中共軍による蛮行に耐えられなくなった在留日本人たちは、ついに決起。

 

重慶を拠点とする中華民国軍(蒋介石軍)と、林航空隊と戦車隊の支援を期待して、元日本軍(関東軍)将校などの指揮下で蜂起しました。総勢1000名でした。

 

しかし、日本人が手にした武器は、こん棒やスコップなどしかありませんでした。

 

それまで、シナ兵やソ連兵に、全ての財産を没収されていたので、武器と呼べるものをほとんど持っていなかったのです。

 

頼みの蒋介石軍の援軍もなく、また、この情報を事前に入手していたシナ兵により、林航空隊は拘束されてしまい、わずか数時間で制圧されてしまいました。

 

嵯峨家(華族)の長女であり、満州国皇帝溥儀(ふぎ)の弟、溥傑(ふけつ)に嫁いだ嵯峨浩(さが ひろ)と、次女の嫮生(こしょう)、溥儀(ふぎ)の皇后である婉容(えんよう)は、通化市内の八路軍の公安局に拘束されていました。

 

2月3日の夜、日本兵が八路軍の公安局にやってきて「今夜憲兵が救出に参るはずです。皇后様(婉容)とご一緒にお待ちください」と嵯峨浩(さが ひろ)に言いました。

 

そして、八路軍(中共軍)と銃撃戦を始めたのですが、計画を事前に察知していた八路軍は、日本兵を一旦公安局の中に入れて外から包囲する作戦でした。

 

溥傑(ふけつ)の妻、嵯峨浩(さが ひろ)と溥儀(ふぎ)の皇后、婉容(えんよう)を救出に行ったはずの日本兵でしたが、中共軍の餌食となってしまいました。

 

嵯峨浩(さが ひろ)たちはじっとして身を伏せていましたが、老乳母の王焦に砲弾の破片が命中し、右の手首が吹き飛ばされました。

 

老乳母の王焦は「痛い痛い」と泣きながら血だらけの手で顔を触り、顔が血だらけになりました。

 

この老乳母の王焦の吹き飛ばされた手首は、嵯峨浩(さが ひろ)の次女の嫮生(こしょう)のところに飛んできていました。

 

嫮生(こしょう)は、「忘れようとしても、血まみれの手首だけは記憶に残っています」とのちに回想しています。

 

事件後、嵯峨浩(さが ひろ)たちは、長春(新京)、吉林、延吉、佳木斯、北京、上海と次々に身柄を移され、昭和22年(1947年)1月に日本に帰国しました。(「流転の王妃」)

 

「日本人の男は全員外に出ろ!」。

 

16歳以上60歳までの日本人男性は、事件との関係を問わず全員、中共軍(八路軍)の兵舎の前に集合せよ、と命令が出されました。

 

そして、中共軍(八路軍)の将校が絶叫するように叫びました。

 

「今朝、日本人を主とした反乱軍のために、わが軍は多大の犠牲を受けた。諸君は同胞として、その罪を免れることはできない。わが軍は報復として、ただちに諸君を銃殺に処する」と。

 

次の瞬間、兵舎の窓越しに待機していた機関銃を持った兵士たちから機銃掃射を受けて、集められた日本人全員が虐殺されてしまいました。

 

重傷を負って死にきれない者に対しては、容赦なくピストルが撃ち込まれました。

 

虐殺された遺体は、待機していたトラックに次々と積み込まれ、一部は渾江の橋の上から凍結した川面に投げ捨てられ、一部は近くの谷間に投げ込まれました。

 

昭和21年2月3日の朝、設楽三郎さんは、土足で踏み込んできた中共軍の兵隊に強制連行されました。

 

抵抗する様子を見せた日本人はその場で銃殺されていきました。

(日本経済新聞2016年2月3日)

 

逮捕拘引された日本人は、およそ三千人に及び連行されました。事件に関与したとみなされた女性も連行されました。

 

中共軍の八路軍と、金雄を隊長とする朝鮮義勇軍(中共軍の朝鮮人部隊)の第一支隊は、連行する際、日本人を一人一人首を針金でつなぎ合わせて連行しました。

 

寝間着、素足に下駄履の者や病人までもが、マイナス20度になる外を数珠繋ぎで行進させられました。

 

3000人以上に上る拘束者は小銃で殴りつけられるなどして、建物の各部屋に押し込まれました。

 

8畳ほどの部屋に120人が強引に押し込められ、あまりの狭さに身動きが一切とれず、大小便垂れ流しのまま5日間立ったままの状態にされました。

 

抑留中は酸欠で「口をパクパクしている人達」や、精神に異常をきたし声を出すものなどが続出したが、そのたびに窓の外から朝鮮義勇軍の兵士たちにより銃撃され、窓際の人間が殺害されました。

 

設楽三郎さんは、当時を次のように振り返ります。

 

長屋の10畳程度の部屋に、100人以上が押し込まれた。「外は酷寒なのに、中はサウナのように蒸し暑くて不快だった」と。(日本経済新聞2016年2月3日)

 

夜、殺気だった室内で小さな言い争いが起きると、見張りの兵が窓から発砲した。

 

静まりかえった室内に撃たれた男性のうめき声が響き、「生きた心地がしなかった」。(日本経済新聞2016年2月3日)

 

殺害された者は立ったままの姿勢で放置されるか、他の抑留者の足元で踏み板とされました。足元が血の海になったが死体を外に出すこともできませんでした。

 

拘束から5日後に部屋から引き出されると、朝鮮義勇軍の兵士たちから、(日韓併合から)36年の恨みと言って棍棒で殴りつけられ、多くが撲殺されました。

 

撲殺を免れた者の多くは手足を折られるなどし、八路軍と朝鮮義勇軍の兵士による拷問と尋問が行われました。

 

そのとき態度が悪かったり、言葉に詰まったりすると、こん棒や革のムチで容赦なく、力いっぱい打ちのめされた。

 

その場で悲鳴をあげて倒れる者、全身を殴りつけられて意識を失い、ついに動けなくなった者も少なくなかった。

 

そうすると、そのまま戸外に放り出されてしまう。

 

外は酷寒の2月。放り出された人は、たちまち寒気のために不動のまま凍死してしまいました。そして、まるで材木のようにトラックに積みこまれて、谷間に投げ捨てられていきました。

 

すると、どこからか貧民が集まってきて、硬直した死体から着衣をはぎとってゆきました。

 

全裸の死体は、荷物のように運ばれて、渾江の橋の上から投げ捨てられていきました。これが毎日のように行われました。

 

生き残った者は、凍結した渾江(鴨緑江の支流)の川岸に一人ずつ並べられ、次々に銃殺されていきました。

 

約3000人に上る日本人たちが、八路軍と朝鮮義勇軍によって残酷なやり方で虐殺されていったのです。

 

昭和21年3月10日、通化市内の百貨店で、2・3事件の展示会が行われました。

 

その展示会では、日本人からの戦利品と共に、孫耕暁(通化国民党部書記長)と藤田実彦大佐が、見せしめとして3日間立ったままの状態でさらし者にされました。

 

孫耕暁(そん・こうぎょう)は、中華民国政府(蒋介石)の通化市での指導者だったので、中共軍からさらし者にされ他のちに銃殺。

 

また、藤田実彦(ふじたさねひこ)大佐は、この事件の首謀者とされたため、さらし者にされました。

 

藤田実彦大佐は、痩せてやつれた体に中国服をまとい、始終鼻水を垂らしながら「許してください。自分の不始末によって申し訳ないことをしてしまいました」と謝り続けました。

 

昭和21年3月15日、藤田少佐が死亡(享年45歳)すると、遺体は市内の広場で3週間さらされました。

 

この2・3事件は、日本が武装解除した後に起きた中共軍による大虐殺であります。

 

通化大虐殺の総指揮をした劉西元(りゅう せいげん)は、中国共産党の建国の英雄として教えられています。

 

共産国に対して武装解除したらどういう事になるか、歴史が教えてくれます。

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June 12, 2018

尼港事件とは?

テーマ:歴史

 

樺太の対岸、黒竜江がオホーツク海に注ぐ河口に位置する小さな町、尼港(ニコライエフスク)。

 

尼港(ニコライエフスク)で、日本人を含む民間人の大虐殺事件が起きました。

 

一体なぜ、民間人が大虐殺されなければならなかったのでしょうか?

 

大正6年(1917年)10月25日(11月7日)、社会主義左派のボリシェヴィキにより、ロシアにクーデターが起きました。(ロシア革命)

 

大正7年(1918年)5月、シベリアにいたチェコ軍が、ボリシェヴィキ政権に対して蜂起。

 

白軍(反革命軍)側についたチェコ軍は、約4000人が犠牲となり、チェコ軍を救援するために、日本、英国、フランス、米国、イタリアの連合国が、 シベリアに派兵。

(シベリア出兵)

 

11月、英国の支援の元、クーデターを起こして、ボリシェヴィキ(過激派な共産主義)政権を倒して、コルチャーク政権(反共産主義)が樹立。

 

ボリシェヴィキ(過激な共産主義者)が組織したパルチザン(赤軍)が各地で、連合軍との小競り合いを起こしていました。

 

ウラジオストクにいた李東輝は、レーニンから資金援助を受け、抗日独立を目標にして活動していました。

 

シベリアの抗日朝鮮人たちは、のちにパルチザン(赤軍)に合流して、尼港(ニコライエフスク)事件を起こしました。

 

大正8年(1919年)2月8日、在日東京朝鮮YMCA(現在の在日韓国YMCA)の講堂で、「朝鮮留学生学友会総会」が開催され、李光洙など独立団代表11名の署名入り独立宣言文が採択。(2・8独立宣言)

 

この独立宣言文は、日本の貴族院、衆議院の議員たち、政府要人、各国駐日大使、内外言論機関宛に送られました。

 

大正8年(1919年)3月1日、朝鮮半島で独立運動が起きました。在日の留学生たちの多くが朝鮮に戻り、独立運動に参加。(3・1独立運動)

 

在日東京朝鮮YMCA(現在の在日韓国YMCA)は、朝鮮独立運動家たちの策源地でした。

 

朝鮮独立運動家たちの多くは逮捕されましたが、彼らの支援活動をした日本人弁護士もいました。

 

この朝鮮人の独立運動家の中に、日本陸軍の中尉であり、陸軍士官学校出身のエリート、金擎天がいました。

 

金擎天は、表で日本陸軍の士官でありながら、地下では、朝鮮人の独立運動家として活動をしていました。

 

金擎天は、ウラジオストクに入り、抗日朝鮮人のパルチザン部隊(赤軍)を率いて、白軍との戦いで活躍していきました。

 

金擎天が指揮したパルチザン部隊は、際だって規律が高く、赤軍の指導者からも賞賛されました。

 

金擎天は、白馬にまたがった金将軍として、1920年代、朝鮮半島の新聞紙上でもっとも多く報じられた、独立運動家でした。

 

のちの金日成将軍伝説のモデルとなった人ですが、北朝鮮の初代国家主席の金日成とは別人であります。

 

シベリアには高麗人が多く住み、朝鮮の独立を目指した抗日朝鮮人のゲリラ部隊が活動してました。そのリーダー的存在が、李東輝でした。

 

李東輝は、大正8年(1919年)4月上海にて独立宣言をした、大韓民国臨時政府の国務総理に就きました。

 

この臨時政府の初代大統領は、のちの韓国初代大統領である李承晩です。

 

大韓民国臨時政府は、当時の中国国民党を始め米国、ソ連など世界中のどの国からも独立国家として承認されませんでした。

 

しかし、現在の韓国の憲法の前文には、次のように書かれています。

 

「我々、大韓国民は3・1運動で成立した大韓民国臨時政府の法統と、不義に抗拒した4・19民主理念を継承し」と。

 

韓国の建国は、対外向けには1948年8月15日となっていますが、国内向けには、1919年4月であり来年の2019年4月が建国100周年である、と韓国内の学校では教えられています。

 

朴イリアが率いるサハリン部隊も、尼港で起きた日本人虐殺事件に加わりました。

 

大正8年(1919年)11月、コルチャーク政権(反共産主義)が崩壊。

 

チェコ軍は戦闘を停止し、白軍(反革命軍)は劣勢となったので、大正9年(1920年)以降、連合国は相次いで撤兵していきましたが、日本軍だけがそのまま駐留しました。

 

連合国軍が相次いで撤退したのち、尼港(ニコラエフスク)

をパルチザン(赤軍)が包囲しました。

 

パルチザン(赤軍)4,300人のうち、中国人の過激派(パルチザン)は300人、朝鮮人の過激派(パルチザン)は1000名。

 

大正9年(1920年)2月4日、白水淡中将は、尼港(ニコラエフスク)守備隊へ次のように打電しました。

 

「パルチザン側から日本軍を攻撃してこないかぎり、自ら進んで攻撃をすることはやめよ」と。

 

この指令に従い日本守備隊は、パルチザン(赤軍)に尼港の町を一望できるチヌイラフ要塞を明け渡しました。

 

チヌイラフ要塞を占領したパルチザン(赤軍)は、海軍無線電信所を砲撃して電信室を破壊。

 

これにより、日本守備隊は外部との通信ができなくなってしまいました。

 

日本陸軍は、直ちに増援しようとしたのですが、砕氷船を持たない日本軍が、堅氷に閉ざされた尼港(ニコラエフスク)に船舶を近接させて上陸することは不可能だったため、増援は延期されてしまいました。

 

2月21日、ウラジオストクのトリャピーツィンは、ハバロフスクの日本軍に、次のように打電しました。

 

「尼港(ニコラエフスク)の日本軍は、通信手段を失っているので、われわれの無線電信仲介によって、戦闘を停止するよう指示してもらいたい」と。

 

これに対し日本陸軍は、次のように回答。

 

「ニコラエフスクにおける衝突は、パルチザンの攻撃に始まっているのだから、わが日本の守備隊は正当防衛をしているにすぎず、以降、日本軍と居留民に損害が出たならば、その責任はパルチザン側にある。

 

パルチザンは攻撃を中止し、日本の守備隊が無線電信を使えるようにして、守備隊長石川少佐と、ハバロフスクの山田旅団長が直接連絡できるようにしてくれ」と。

 

2月23日、白水師団長は、守備隊長の石川少佐宛に次のように指令。

 

「パルチザン部隊(赤軍)が、日本の居留民に害を加えたり、日本軍に対して攻撃的態度をとらないかぎり、これまでのいきさつにこだわらず、平和的解決に努めよ」と。

 

この指令に基づき、日本軍は、パルチザン(赤軍)との間に協定を結び、白軍を虐殺しないことで合意。

 

2月28日、パルチザン(赤軍)が、ニコラエフスクに入城。

 

すべての職場で労働組合を組織することが命令され、拒否した場合、殺害されました。また、すべての新聞の発行が禁止隣、資産家の財産が没収されました。

 

また、パルチザン部隊(赤軍)は、日本軍と結んだ尼港(ニコラエフスク)城の開城合意条項を全く無視して、白軍兵士だけでなく、教養のある層の一般市民を中心に、多くの人々を虐殺していきました。

 

またパルチザン部隊(赤軍)は、尼港(ニコラエフスク)市内で朝鮮人、中国人を集めて部隊を編成し、ロシア革命記念日に日本軍を抹殺する計画を立てていました。

 

ロシア人は日本領事を頼り、日本人居留民も、次は自分たちが殺されるのではないかと、不安な日々を送っていました。

 

日本軍は、略奪、殺人、強姦(レイプ)をやめるように、毎日パルチザン部隊(赤軍)本部に訴えて抗議したのですが、全く無視されました。

 

そこで、『日本軍とパルチザン部隊(赤軍)との合意条件の下では、市民の殺人、逮捕、資産の略奪は許されない』というビラを刷って配りましたが、パルチザン部隊(赤軍)によって破棄されてしまいました。

 

3月10日、日本守備隊長の石川少佐と石田虎松領事は、パルチザン部隊(赤軍)のトリャピーツィンに、暴虐行為をやめるように勧告。

 

3月11日、日本の勧告に対してトリャピーツィンは次のように回答。

 

『内政問題なのであなた方には関係がない』と。

 

さらに、日本軍に武装解除と武器弾薬の全ての貸与を要求。

 

トリャピーツィンにとって、日本軍は邪魔な存在でしたので、日本軍を挑発して抹殺してしまうことを目論み、武装解除と武器引渡しを求める最後通牒をつきつけたのでした。

 

このパルチザン部隊(赤軍)の最後通牒の期限は、翌日の3月12日正午となっていました。

 

日本側はこのような最後通牒を受けて、どう対応したのでしょうか?

 

日本守備隊長の石川少佐は、「武装解除をするとなると軍事会議を開かなければならない」、と回答。

 

しかし、3月11日の夜、赤軍の参謀長ナウモフは、石川少佐を赤軍本部に呼んで、『交渉は、もう時間切れだ。もし、明日の11時までに武器を引渡さない時は、こちらも必要な処置を取る』と鋭い語気で伝えました。

 

3月12日の午前2時、日本軍は、パルチザン部隊(赤軍)を攻撃。

 

この日本軍決起により、日本人居留民は全員虐殺されてしまいました。

 

ソ連側の文献は、「日本人居留民が殺された責任は、すべて日本軍が武装解除しなかったことにあるのであり、パルチザン(赤軍)には全く責任はない」と。

 

ソ連の歴史では、「尼港(ニコラエフスク)の占領は、英雄パルチザン部隊による誉れ高い偉業」と教えられています。

 

3月14日早朝、パルチザン部隊(赤軍)は、中国軍から貸与された艦載砲とガトリング砲で、日本領事館を火の海にして包囲。

 

石田領事は、領事館前の階段に現れて、『領事館とここにいる人は、国際法によって保護されている。そして、領事館は、不可侵である』と説得しましたが、パルチザン部隊(赤軍)は、問答無用と一斉射撃。

 

石田領事とその家族、石川少佐をはじめとする海軍電信隊、領事館に避難していた居留民たちが虐殺されました。

 

後藤大尉が率いる隊は、領事館から逃れた残りの日本人居留民たちを、近くのアムール河に停泊していた中国軍艦に助けてもらおうとしたのですが、

 

陳世栄艦長率いる中国艦隊は、逃げ延びた日本人居留民を保護するのではなく、艦砲射撃をしてきました。

 

この中国軍からの艦砲射撃により、日本人居留民は全員虐殺されてしまいました。

 

日本軍は、無用な血を流すことを避けていました。日本軍が行ったのは、ただ単にパルチザンの武装解除だけでした。

 

事実、日本軍が追い詰めたパルチザン部隊(赤軍)の兵士達は、ほとんど殺害されておらず、傷も負っていませんでした。

 

ただ、「武器を持っているか」と日本兵が尋ねて、「持っていない」とパルチザン(赤軍)兵士が答えると、日本兵は、そのまま立ち去っていきました。

(『ニコラエフスクの破壊』グートマン著)

 

中国砲艦からの艦砲射撃により、日本軍の本部兵舎は壊滅してしまいましたが、中隊兵営に約100名の兵士や民間人が河本中尉の指揮の元、立てこもっていました。

 

3月17日、パルチザン側からハバロフスクにいる山田旅団長あてに、戦闘中止の提案の打電を受け、3月18日、河本中尉は次のように言って武器を置いて投降。

 

「戦友が倒れただけでなく、同胞がみな虐殺されている中で、降伏はできない。

 

しかし、われわれの戦闘が国策のさわりになるというので、旅団長がこう言ってきたのならば、逆らうこともできない」と。

 

投降した日本人約140名は皆、監獄に収容され、衣服も奪われて、過酷な労役を課された末に、全員死亡しました。

 

日本人犠牲者は、陸軍と海軍関係者が380名、外務省関係者4名、判明している民間人347名の計731名。

 

民間人犠牲者は、領事館が消滅してしまって確認が取れないので、実際はもっと多いと思われます。

 

1922年の10月、ウラジオストクが陥落し、日本は北サハリンをのぞいたシベリア全域から撤退しました。

 

なぜ、尼港を守備していた日本軍や一般市民が、大虐殺されなければならなかったのでしょうか?

 

専守防衛に徹するように指令が出されていたので、現場の守備隊は、凶悪なパルチザンに対して積極的に攻撃することができずにいました。

 

そのために、守備隊は殲滅されてしまいました。また、兵舎に立てこもっていた民間人を含む約140名の部隊が、武装解除して凶悪なパルチザン(赤軍)に投降。

 

その後、強制労働と暴行を受けて皆殺しされてしまいました。

 

連合国軍も撤兵し、日本軍守備隊も殲滅してしまった後、無法地帯と化した尼港は、凶悪なパルチザン(赤軍)によって虐殺、強姦(レイプ)、略奪などやりたい放題となってしまい、多くの犠牲者が出てしまったのです。

 

昭和20年8月15日以降、満州や南樺太、北朝鮮などにおいて、日本軍が武装解除した後に起きた数々の悲劇を、連想してしまいます。

 

米軍が撤退した後の専守防衛と武装解除。

 

そのあとに何が起きるのか、歴史が教えてくれます。

 

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監獄の壁に書かれた尼港事件犠牲者の遺書

「大正九年五月24日午后12時忘ルナ」

歴史を学び日本人の誇りを育む 斎藤ひろゆきのメルマガ

June 06, 2018

樺太の大平炭鉱病院の看護婦たち 集団自決の物語

テーマ:歴史

 

昭和20年8月15日、天皇の玉音放送があったのに、その後も樺太や千島列島では、ソ連軍による攻撃が続きました。そして多くの一般住民が犠牲となりました。

 

これは、日本軍が武装解除をしなかったのが原因である、とロシア人と一部の日本人は主張しています。

 

でも実は、日本軍は白旗を掲げて武装解除をしようとしたのに、ソ連軍は停戦協定に全く応じようとしませんでした。

 

マッカーサーからの停戦要求も無視して、ソ連軍は、軍事行動を続けて行ったのです。

 

8月9日早朝、札幌の第5方面軍司令部は、ソ連軍が日本国境を越えて侵略してきた報告を受けましたが、樺太や千島列島を守備している各部隊に対して、積極的戦闘行動は慎むよう指示。

 

大津敏男樺太庁長官と南樺太を守備する第88師団は、樺太在住の民間人約40万人を、北海道に緊急疎開することを決めました。

 

南樺太の第88師団は、防衛召集をかけて地区特設警備隊を動員。

 

翌日の10日、積極的戦闘行動を慎む命令が解除されましたが、最前線には届かず、前線部隊は、積極的戦闘行動を慎みながらも、ソ連軍からの攻撃に応戦していきました。

 

8月13日、国民義勇戦闘隊の召集を行いました。国民義勇戦闘隊とは、6月22日に公布された「義勇兵役法」にもとづく民兵(民間防衛)組織でした。

 

義勇兵役の対象は、原則、男性は15歳から60歳、女性は17歳から40歳。

 

持たされた武器は、竹槍、弓矢、刀剣、銃剣付き訓練用木銃、鎌など農具でした。

 

実戦に参加した義勇戦闘隊は、南樺太が唯一であり、警戒や陣地構築、住民の避難誘導などを行いましたが、8月18日午後4時の停戦命令により解散しましたので、6日間のみの参戦でした。

 

昭和20年8月15日、大本営から次の指令が各部隊に発令されました。

 

「ポツダム宣言受諾。

各軍は、別に命令する迄、各々現任務を続行すべし。

但し、積極進攻作戦を中止すべし。」

(大陸命 第1381号)

 

翌日の16日、大本営から次の指令が各部隊に発令されました。

 

「即時、戦闘行動を停止すべし。

但し、停戦交渉成立に至る間、敵の来攻に方りては、止むを得ない自衛の為の戦闘行動は、これを妨けず。」

(大陸命 第1382号)

 

この指令を受けた各部隊は、防衛召集の解除や、一部兵員の現地除隊・軍旗処分など、停戦準備に取り掛かりました。

 

しかし、8月16日、ソ連軍は、南樺太の塔路へ上陸。

塔路は、南樺太第2の都市である恵須取町に近い町でした。

 

艦砲射撃を受けた塔路町は火の海となり、住民は恵須取町へ避難していきました。艦砲射撃の後、上陸したソ連軍は、逃げ惑う住民に向けて容赦なく機銃掃射を行いました。

 

札幌の第5方面軍司令官である樋口季一郎中将は、ソ連軍が樺太経由で北海道に侵攻する可能性があると判断。

 

南樺太の守備隊である第88師団に対して、自衛戦闘を継続して南樺太を死守するよう命令。

 

これは、8月16日、大本営から出された命令、

”止むを得ない自衛の為の戦闘行動は、これを妨けず。”

(大陸命 第1382号)に基づくものでありました。

 

実際、ソ連軍は、南樺太を北海道の侵略拠点として使う計画を立てていました。

 

8月16日以降も、ソ連軍は戦闘を続けたので、樋口季一郎中将は、米軍のマッカーサー元帥に対して攻撃中止を求める打電をしました。

 

マッカーサーは、樋口季一郎からの打電を受けて、スターリンに対して攻撃を停止するように要求。

 

しかし、攻撃を停止するかどうかは、現場の司令官の判断によるとして、スターリンは、マッカーサーからの要求を無視しました。

 

8月18日、ソ連軍の総司令官アレクサンドル・ヴァシレフスキー元帥は、8月25日までの樺太と千島の占領し、9月1日までに北海道北部を占領することを各部隊に命令。

 

日本軍は、各地で停戦交渉を試みましたが、ソ連軍が、攻撃の停止を受け入れることはありませんでした。

 

また、白旗を掲げてソ連側陣地に交渉に向かった軍使が、ソ連軍によって処刑されてしまうこともしばしば起きました。

 

白旗を掲げて停戦交渉に訪れた軍使を処刑するということは、明らかな国際法違反であります。

 

「日本軍は無条件降伏したのである。したがって、日本軍に適用される国際法というものはない」、というのがソ連軍の主張でした。

 

昭和20年9月2日に、降伏文書の調印式が行われることが決まっており、また8月16日に、日本軍の各部隊への停戦命令が、大本営から出されていました。

 

そんな中の8月20日、引揚者約1,500名を乗せた小笠原丸が、樺太の大泊港から北海道の稚内にわたりました。

 

そこで約半数の乗員を降ろした後、稚内から小樽にむかいましたが、8月22日、増毛沖にてソ連軍の潜水艦からの魚雷により撃沈。638名の方が犠牲となりました。

 

同じく8月22日、大泊港から小樽へ向っていた泰東丸は、戦時国際法に則り白旗を掲げながら航行していましたが、留萌沖合にて、白旗を無視して攻撃を行ったソ連軍により撃沈。667名の方が犠牲となりました。

 

また同じ日、大泊港から約3,400名を乗せて小樽へ向っていた第二号新興丸は、留萌沖にてソ連軍潜水艦から攻撃を受けました。ソ連軍の攻撃により、大きな損傷を受けたため留萌港に寄港。約400名の方が犠牲となりました。

 

ソ連軍の潜水艦(L-19とL-12)の2隻は、魚雷で沈没した船から海に投げ出された人々に対して、機銃掃射を行い最後のトドメを刺しました。

 

8月22日のソ連軍からの攻撃により、沈没損傷を受けた3隻の引揚船を合わせて、1,708名以上の方が犠牲となってしまいました。(三船殉難事件)

 

ソ連軍は、南樺太の占領に続いて、北海道の北部を占領するため、狙撃部隊2個師団による留萌への上陸作戦計画を立てていたのです。

(サハリン州公文書館)

 

そのため、南樺太から北海道へ人や物資の移動を阻止するために、民間の船舶だろうが容赦なく撃沈して行きました。

 

低空飛行のソ連戦闘機からの機銃掃射、上陸したソ連兵からは機銃掃射、ソ連海軍からは艦砲射撃。陸海空からの攻撃の中を、南樺太の住民たちは、必死で逃げ回りました。

 

歩けなくなった幼い子供を谷から突き落としてしまい、半狂乱になった母親たちもいました。まさに地獄絵です。

 

8月17日、艦砲射撃で火の海となった恵須取町において、ほとんどの住民が避難する中、大平炭鉱病院の看護婦たち23人は、8名の重傷者とともに病院にとどまりました。

 

なぜ、看護婦たちは避難せずに病院にとどまったのでしょうか?

 

彼女たちは、最後までけが人を看護するという使命感を持っていたからです。

 

しかし、重傷者たちは、自分たちのことはかまわずに、早く避難してくれと、看護婦たちに必死に訴えました。

 

仕方なく、看護婦たちは、患者たちを病院に残して、後ろ髪をひかれる思いで病院を後にしました。

 

上恵須取を目指し避難しましたが、途中の武道沢で、ソ連兵が間近に迫っているという情報が入り、もうどこにも逃れることができない状態となりました。

 

高橋婦長は覚悟を決めました。

 

「年ごろの娘たちを預かったが、ソ連兵に捕まったら、強姦(レイプ)など何をされるかわからない。きれいな体で帰せないなら死を選ぶしかない」と。

 

そして、死に場所を、近くの丘の上の大きなハルニレの木の下に決めて、「君が代」「山桜の歌」などを唱和して、病院から持ち出した劇薬を飲みました。

 

逃げる途中で瓶が割れてしまい、致死量に達しないものは、手術用のメスで自分の手首を切りました。

 

高橋婦長を含めて、6人の看護婦がなくなってしまいました

。高橋婦長は32歳、ほかの5名の看護婦たちは、まだ17歳から24歳という若き乙女たちでした。

 

残りの17人の看護婦たちは、近くの住民に助けられました。

 

ソ連軍は、24日、樺太庁のあった豊原市を占領し、25日、大泊港を占領。これにより、南樺太全域のソ連軍による戦闘は終わリました。

 

大平炭鉱病院看護婦殉職者

 高橋フミ 三十二才

 石川ひさ 二十四才

 真田和代 二十才

 久住キヨ 十九才

 佐藤春江 十八才

 瀬川百合子 十七才

 

2007年、生き残った大平炭鉱病院の看護婦、桜庭さんは長い沈黙を破り、次のように語りました。

 

「死ぬことは全員の暗黙の了解でした。あの世にいったら、みんなに会える」と。

 

そして、「死んでいった仲間たちに申し訳ない」と。

 

日本軍や連合国司令官からの停戦交渉に全く応じようとしなかったソ連軍。

 

そのため、天皇の玉音放送の後も、多くの日本人が犠牲となってしまいました。

 

また、生き残った人々も、犠牲となった仲間の死を背負って生きてこられました。

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June 04, 2018

南樺太の真岡郵便局での悲劇

テーマ:歴史

 

終戦後、南樺太で自害した9人の日本人女性たちがいました。彼女たちは、日本軍の命令で服毒自殺をしたと言い伝えられてきました。

 

実は、日本軍が命令した事実はなく、彼女たちが自主的に自害したのでした。

 

ではなぜ、彼女たちは終戦後に死ななければならなかったのでしょうか?

 

昭和20年8月8日、160万のソ連軍が、満州や蒙古、南樺太の国境を突破して侵略を開始。

 

昭和20年8月15日、日本は、ポツダム宣言を受託。

 

同日、トルーマン大統領は、マッカーサーに対して、日本軍の武装解除についての指令書を出しました。

 

その指令書には、満州国と38度線より北の北朝鮮と、南樺太に駐屯している日本軍は、ソ連軍に対して武装解除することが規定されていました。

 

この指令書を見たスターリンは、日本軍が武装解除する地域は、千島列島全てと、北海道の北半分(釧路と留萌を結ぶ線より北側)も含める事をトルーマンに要求。

 

そして、スターリンは、ワシレフスキー司令官に北海道の北半分と南千島を、降伏文書調印式(9月2日)までに占領するように指示。

 

その一方、南樺太と千島列島に駐屯している日本軍は、札幌の第5方面軍から次の指令を受けていました。

 

「8月18日16時の時点で停戦し、こちらから軍使を派遣。その場合も、なお敵が戦闘をしかけて来たら、”自衛のための戦闘は妨げず”」と。

 

”自衛のための戦闘は妨げず”とは、一体どういう意味でしょうか?

 

現場ではこの解釈で混乱が起きました。

 

日本軍は、8月15日以降、戦車の備砲を撤去したり、化学兵器を廃棄したりして武装解除の準備をしていました。

 

しかし、ソ連軍は8月15日以降も戦闘行為を停止しようとしなかったので、最前線の守備隊は混乱していました。

 

白旗を持って停戦交渉をしようとしても、白旗を持った日本兵は狙撃されてしまうという状況でした。

 

かといって、積極的に戦闘行為をしてしまうと、命令に背くことになってしまいます。

 

軍隊の命令は、絶対忠実に従わなくてはなりませんので、最前線の現場では、降伏したくてもできないし、積極的に応戦したくてもできないし、と混乱していました。

 

そのような中、8月18日早朝、ソ連軍が千島列島の占守島(シュムシュ)に上陸。

 

この報告を受けた札幌の樋口季一郎中将は、千島の守備隊に「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と指令を出しました。

 

現地の守備隊は、ソ連軍に対して積極的に反撃。

 

日本軍は、上陸したソ連軍を殲滅できる有利な態勢になったのですが、すでに18日16時から停戦するように指令が出ていたので、日本軍は積極的戦闘を停止しました。

 

この予想もしていなかった日本軍の反撃のために、ソ連軍は北海道の北半分の占領計画に、大きな打撃を受けました。

 

降伏文書調印式(9月2日)までに占領するという期限が限られていたので、この占守島(シュムシュ)の戦いは、スターリンにとって大きな打撃となったのです。

 

もし、樋口季一郎中将が、千島の守備隊に「断乎、反撃に転じ、ソ連軍を撃滅すべし」と指令を出していなかったら、

 

もし、占守島(シュムシュ)で日本軍が反撃していなかったら、北海道の北半分はソ連領となっていたかもしれません。

 

南樺太では、地上戦と空爆によって2、000人の一般人が殺害されました。

 

樺太庁では、ソ連軍の戦闘行動が激しさを増していったので、8月13日から緊急に北海道への集団疎開を進めていました。

 

8月16日、真岡郵便局の局長は、電話交換手たちに「女子吏員は全員引揚せしむべし、そのため、業務は一時停止しても止を得ず」との通知を出しました。

 

真岡郵便局内の朝礼にて、主事補の鈴木かずえさんが、次のように、緊急疎開に伴う業務の引き継ぎについて説明して、真岡に残る人を募りました。

 

「政府から、女性達を優先して疎開させるように、と通達がありました。

 

しかし、疎開を成功させるためには通信業務の継続は必要です。

 

ソ連軍が上陸しても、電話交換業務移管が行われるまでは

業務を遂行しなければなりません。

 

残留を希望する職員は、家族と相談したうえで返事をしてほしい」と。

 

すると、その場にいた女性職員の全員が、手を上げて残ることを希望しました。

 

そして、真岡郵便局にとどまる血書嘆願を用意しました。

 

その報告を受けた真岡郵便局の上田局長は、ソ連軍が進駐してきたら女性は強姦(レイプ)されてしまうかもしれない、と言って疎開するように説得しました。

 

しかし、全員が真岡郵便局に最後まで残ることを希望しました。

 

真岡に残ることを親に反対されて、仕方なく北海道へ疎開することとなった交換手も何人かいました。

 

公衆電話から真岡郵便局に別れの電話をすると、「頑張ってね」「そのうち私達も行きますからね」「内地へ行ったらその近くの郵便局へ連絡してすぐ局へつとめるのよ」と、真岡に残った電話交換手たちから、かわるがわる励ましの言葉をかけられました。

 

しかし、先に疎開をした避難船の中には、北海道へ向けて航行中に、魚雷で撃沈されてしまった船もありました。

 

真岡に残っても地獄、北海道へ疎開する道中も地獄という状況だったのです。

 

8月20日、南樺太の真岡沖合から真岡市内に向けて、ソ連軍が艦砲射撃を開始。

 

真岡市には王子製紙の工場があり、多くの日本人が住んでいました。

 

この艦砲射撃を受けて、真岡市内の人々は大混乱に陥りました。

 

そんな中、真岡郵便局で最後まで電話交換手として、交換台に残った女性たちは、決意をしました。

 

もうすぐソ連兵がやってくる。そして、私たち日本女性は強姦(レイプ)されてしまう。敵国の兵士に強姦されるくらいなら死を選ぶ、と。

 

彼女たちは皆、もしもの時に備えて青酸カリを隠し持っていました。

 

そして、泊居郵便局の局長あてに次のような最後の電報を打ちました。

 

『交換台にも弾丸が飛んできた。もうどうにもなりません。局長さん、みなさん…、さようなら。長くお世話になりました。おたっしゃで…。さようなら』

 

12人の日本女性は、最後まで持ち場を離れずに、電話交換手として仕事を続けました。

 

艦砲射撃で周りが火の海になってもです。

 

そして、9人の乙女が青酸カリを飲んで自害しました。まだ19歳から24歳の若さでした。

 

ソ連侵略後の8月13日から22日にかけて、7万6千人の日本人が、家や財産をすべて捨てて、手に持てる必要最低限の荷物を持って、大泊港や真岡港まで歩いて集団疎開していきました。

 

その徒歩での避難途中も、ソ連軍戦闘機が低空飛行して、容赦なく射撃してくるので、多くの日本人が死亡しました。

 

また、大泊港や真岡港から北海道に向けて出航した輸送船(小笠原丸、第二新興丸、泰東丸)も、次々と撃沈されていき、1、700人もの民間の日本人が殺害されてしまいました。

 

苦労してやっと乗船できたと思ったのに、その避難船が撃沈されてしまったのです。

 

8月23日以後は、北海道への渡航が原則禁止。

 

樺太に残された住民、約28万人(民間人26万7千人、軍人1万2千人)は、米ソ協定に基づき、昭和21年12月から24年7月までに真岡から函館港へ引き上げて来ました。

(「樺太終戦史」全国樺太連盟 著)

 

8月24日、ソ連軍は南樺太の豊原と大泊を占領し、8月28日、北方領土の択捉島、9月1日に国後島、色丹島、9月5日、歯舞諸島に上陸。

 

択捉島、国後島に上陸したソ連軍は、「この島にはアメリカ兵はいるか?」と現地の人に聞いていました。

 

ソ連軍は、アメリカ軍がいないことを確認しながら、南千島上陸作戦を強行していったのです。

(「我らの北方領土・ソ連占領編」千島歯舞諸島居住者連盟)

 

9月2日、戦艦ミズーリにて降伏文書調印式が行われました。

 

その時、スターリンは、「同志、スターリンの国民への呼びかけ」という声明を発表。

 

その内容は、

「1904年、日露戦争におけるロシア軍の敗北は国民に苦しい記憶を残した。その敗北は我が国家の不名誉となった。

 

我が国家は日本を撃破しその恥を拭う日が来ることを信じ、その日の来るのを待っていた。

 

我々前世代の人間は、40年間その日の来るのを待っていたが、今、その日は来たのである。」と。

 

真岡郵便局の九人の乙女たちは、日本軍に命令されて服毒自殺をした、と言い伝えられてきました。

 

終戦後も戦闘行為を止めようとしなかったソ連軍。北海道の北半分を占領するように指示を出したスターリン。

 

そのような蛮行を行なったソ連軍への非難をしない代わりに、日本軍が、自国の一般人に服毒自殺をするように命令した、と広報していったのです。

 

昭和43年9月5日、昭和天皇と皇后陛下は稚内を訪問し、九人の乙女像の前で深く頭を垂れました。

 

そして、次の歌を詠まれました。

 

「樺太に 命をすてし たをやめの 心を思へば むねせまりくる」

 

「樺太に つゆと消えたる 乙女らの みたまやすかれと たゞいのりぬる」

 

真岡郵便局で電話交換手の生き残りの工藤てるさんは、平成27年7月に次のように当時を振り返りました。

 

「私は非番でしたが、もしその時、真岡郵便局にいたら、みんなと一緒に青酸カリを飲んで死んでいたと思います。

 

死ぬことはなんとも思いませんでした。私たち女性も、軍人と同じ精神でいました。」と。

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June 03, 2018

終戦後、日本軍は、朝鮮人による朝鮮半島の統一独立国家の建国の手助けをしました。

テーマ:歴史

 

ある国の学校教育では、朝鮮戦争について次のように教えています。

 

昭和20年8月15日以降、満州国を統治していた日本陸軍(関東軍)が、南下して朝鮮半島に留まり、朝鮮人に対する虐殺、強姦、性奴隷、略奪の横暴を繰り広げていた。

 

そして、その極悪非道な日本軍に対して南北朝鮮軍が立ち上がり、ソ連軍、中国軍、米軍とともに戦い、独立を勝ち取った、と。

 

でも実際は、日本が引き揚げた後、朝鮮人による朝鮮半島の統治が滞りなく移行できるように、日本軍は色々な手配をしていたのです。

 

日本は8月15日の終戦の日を界にして、それまで朝鮮総督府を初め、主要な公共施設に掲げられていた日の丸をおろして、太極旗(韓国の国旗)を掲げるようにしました。

 

これは、朝鮮総督府にいた阿部信行陸軍大将と朝鮮軍司令官の上月良夫陸軍中将の指示によるものでした。

 

そして、朝鮮総督府の政務総監だった遠藤柳作が、朝鮮人たちから人望のあった呂運亭(ろ うんきょう)に、朝鮮建国準備委員会(建準)を設置するように要請しました。

 

朝鮮独立準備委員会(建準)が、日本軍が引き揚げた後の朝鮮総督府の行政を引き受けて、朝鮮半島の治安の維持をすることとなりました。

 

しかし、昭和20年8月24日、ソ連軍が朝鮮半島北部を侵略。

 

38度線が封鎖されてしまい、朝鮮半島を南北に自由に行き来することができなくなってしまいました。

 

このままの状態が長く続くと、朝鮮半島が南北に分断されたまま、統一国家として独立ができなくなってしまいます。

 

そこで、建国準備委員会(建準)は、急遽、昭和20年9月6日、京畿女子高講堂で約1千名余が参加して、「朝鮮人民共和国」の樹立を宣言しました。

 

この朝鮮人民共和国には、のちに北朝鮮の初代国家主席となる金日成も参加していました。

 

米国を主体とする連合国は、この朝鮮人民共和国の建国を承認しませんでした。

 

なぜなら、日本軍がこの建国に関わっているので、日本の傀儡政権ではないかと疑ったためです。

 

そして、9月7日、米軍は朝鮮半島の仁川港に上陸して、軍政を敷きました。

 

米軍が朝鮮半島に上陸する際、朝鮮総督府などに掲げられていた太極旗を一旦降ろさせて、日の丸を掲揚させました。

 

なぜでしょうか?

 

米軍を中心とする進駐軍は、日本が統治していた領土に対して駐留することができました。

 

しかし、すでに日本軍が引き揚げて、新たに太極旗が掲げられている朝鮮人民共和国が建国されているとなると、米軍が進駐する正当性がなくなってしまいます。

 

そこで、日の丸を再び掲げさせて、まだ朝鮮半島は日本統治領であるとした上で、米軍が進駐してきたのです。

 

昭和20年9月11日、軍政庁を発足させて「軍政庁が南朝鮮(38度線以南)における唯一の政府である」という布 告を発表。

 

軍政を敷いて米軍を中心とする進駐軍が南朝鮮を統治していきました。

 

朝鮮人民共和国は、「来年(昭和21年)3月に総選挙を実施して、独立しよ う!」と民衆に呼びかけていきました。

 

しかし、10月10日、米軍政庁長官が、「総選挙は軍政庁に対する最も重大な干渉であり、公然たる敵対行為である」と、朝鮮人民共和国の正統性を否定する声明を発表。

 

朝鮮人民共和国は、米軍から解散するように要求されてしまい、あっけなく消滅してしまいました。

 

これにより、朝鮮人による朝鮮半島の統一独立国家の建設は、できなくなってしまったのです。

 

なぜ、米軍は朝鮮人民共和国を認めようとしなかったのでしょうか?

 

ポツダム宣言では、日本に対して朝鮮半島の放棄を要求していました。

 

そこで、日本軍は引き揚げの際、朝鮮人の手により独立国家を建国して統治していけるように、建国準備委員会(建準)の立ち上げを呂運亭(ろ うんきょう)に依頼して、朝鮮総督府の行政権を引き渡したのでした。

 

しかし、昭和20年2月に行われたヤルタ会談において、朝鮮半島については、米英ソが委託統治をしてから、独立させる、という密約がすでにあったのです。

 

そのため、日本軍の指導のもと立ち上がった建国準備委員会(建準)や、呂運亭(ろ うんきょう)は、日本の手先として認めることができませんでした。

 

呂運亭(ろ うんきょう)が主導して建国した朝鮮人民共和国も同様に、米軍にとっては邪魔な存在だったのです。

 

上海にある大韓民国臨時政府の金九大統領など首脳陣や、米国に滞在していた李承晩が相次いで朝鮮入りしました。

 

朝鮮人民共和国の初代大統領は李承晩、内相に金九の名前が連なっていました。また、人民委員には金日成の名前もありました。

 

呂運亭(ろ うんきょう)は、彼らとともに朝鮮半島の統一独立国家を作っていきたかったのです。

 

しかし、李承晩や金九たちは、朝鮮人民共和国に合流することはありませんでした。

 

むしろ、朝鮮人民共和国を非難し続けました。

 

彼らにとって、日本の朝鮮総督府と手を組んで作った独立国家を認めることは、プライドが許さなかったのでしょう。

 

その後も、呂運亭(ろ うんきょう)は、朝鮮人民党を結成するなど、朝鮮独立に向けて諦めることなく、活発に活動していきました。

 

呂運亭(ろ うんきょう)は、11回にもわたる暗殺未遂を受けてながらも生き延びましたが、ついに、昭和22年(1947年)7月19日、韓智根によって暗殺されてしまいました。

 

この呂運亭(ろ うんきょう)の暗殺は、共産主義者の朴憲永が指示したと言われてますが、のちの初代韓国大統領となる、李承晩が指示したという説もあります。

 

当初、昭和18年(1943年)11月、テヘランで行われた連合国首脳会議(テヘラン会議)では、朝鮮半島は「新設する国際連合によって40年間は信託統治すべき」として連合国首脳は同意していました。

 

しかし、昭和23年(1948年)8月15日、李承晩が韓国の建国を宣言して、続く9月9日、金日成が北朝鮮の建国を宣言。

 

これにより、38度線が占領統治の境界線から国境となりました。

 

その後、スターリンと毛沢東の協力を取り付けた金日成は、昭和25年(1950年)6月25日、北朝鮮軍の戦車部隊を進軍させて、38度線を突破。

 

米軍を中心とする国連軍と、北朝鮮、中共連合軍との戦争が始まりました。(朝鮮戦争)

 

呂運亭(ろ うんきょう)は、昭和20年8月の終戦間際に、日本の神道思想家である葦津珍彦に次のように語りました。

 

「朝鮮は形は独立するが、建国の人材に乏しく極東の弱小国にすぎない。この極東の状況は明白だし、この時こそ日韓両相扶け相和すべきの天機。私はその為に全力を尽くす」と主張」と。

 

終戦により日本軍が引き揚げた後も、日韓双方で協力しあって統一朝鮮の建国を進めていきたいと考えていました。

 

呂運亭(ろ うんきょう)は、李承晩のような極端な反日思想はなく、むしろ、親日派として疑われてしまうような思想を持っていました。

 

もし、呂運亭(ろ うんきょう)が韓国の初代大統領であったなら、戦後の日韓関係は全く異なるものとなっていたことでしょう。

 

極悪非道な日本軍と南北朝鮮軍が戦って勝利し、独立を勝ち取った、という李承晩が行なった徹底した反日教育もなく、韓国人の日本に対する意識も友好的となっていたかもしれません。

 

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呂運亭(ろ うんきょう)

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June 02, 2018

ソ連兵に性奴隷された従軍看護婦の話

テーマ:歴史

 

 

従軍慰安婦として日本軍に強制連行されて性奴隷にされたと言って、賠償金と謝罪を要求し続ける国や団体があります。

 

その一方、終戦後、ソ連兵の慰安婦になるのを拒み、集団自決した日本人看護婦たちがいました。

 

彼女たちは、なぜ、死ななければならなかったのでしょうか?

 

昭和20年8月8日、日ソ中立条約を破り、160万のソ連軍が、満州や蒙古、樺太、朝鮮などに侵略。

 

満洲国東部国境に近い、虎林の野戦病院で働いていた、日本人の従軍看護婦たち34人は、新京(長春)に避難しました。

 

昭和20年8月15日、終戦。すでにソ連軍に占領された新京(長春)で、従軍看護婦たち30名余りは、中国共産党の八路軍が管理する、通化路第八紅軍病院 への移動を命じられました。

 

年が明けた昭和21年春、長春第八病院で働いていた看護婦たちに一通の通知が届きました。

 

その通知には、新京(長春)から数キロ離れた城子溝にある、ソ連陸軍病院第二赤軍救護所へ「看護婦三人、派遣勤務を命ず」とありました。

 

期間は一カ月。

 

満州や北朝鮮を占領していたソ連の命令には、拒むことはできません。

 

婦長の松岡喜身子さんは、軍医と相談の上、大島はなえさんら三人の看護婦を派遣しました。皆、二十代前半でした。

 

一週間後、さらに三人の派遣命令の通知が届きました。さらに一カ月後、新たに三人の派遣命令が届きました。

 

すでに、1ヶ月の派遣期限は過ぎていましたが、最初に派遣した看護婦3名は帰ってきませんでした。

 

昭和21年6月19日の夜、腕や足、体中に十一カ所もの銃創を受けた大島看護婦が一人で逃げ帰ってきました。

 

大島看護婦は、十一発もの銃創を受けて身体中が傷だらけとなり、背中は鉄条網をくぐり抜けたらしい擦過傷もありました。そして、うわ言のように言いました。

 

「婦長さん、看護婦を救護所にもう送らないで。私たちは最初からソ連兵の慰みものにされた。いやといえば、殺されてしまう。もうこれ以上送ってはいけません」と。

 

救護所の実情を報告しようと思い、命がけで抜け出して逃げ帰ってきた大島看護婦。遺言のように最後の報告をすませると、そのまま息を引き取ってしまいました。

 

翌日の6月20日、大島はなえさんのご遺体は、満洲の習慣に従い土葬にて手厚く葬られました。髪の毛と爪を残して。

 

その翌日の6月21日の朝、病院に出勤した松岡喜身子さんは、人事課長の張宇孝さんから言われました。

 

「今朝は、日本人看護婦は一人も出勤していない」と。

 

胸騒ぎがした松岡婦長は、看護婦たちが住む大部屋に駆け上がりドアをノックしたが返事はなく、中へ飛び込むと靴がきちんとそろえてありました。

 

22人の看護婦たちは、二列にきちんと並んで横になり、満州赤十字の制服姿で胸に手を当てて、両太ももを包帯や腰ひもで縛っていました。

 

まるで眠っているようでしたが、よく見ると息をしていませんでした。

 

死んでいたのです。

 

看護婦たちは、終戦時に軍医から致死量の青酸カリをもらい、いざという時のために制帽のリボン裏に隠し持っていました。

 

二列になった床の中央に置かれた机の上に、前日に弔いをした大島はなえさんの遺髪の箱が飾られ、線香と水が供えられていました。

 

そして22人連名の遺書が残されていました。

 

ーーーーー

遺書

                           22名の私たちが、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ婦長にもさぞかしご迷惑と深くお詫び申し上げます。

 

私たちは敗れたりとはいえ、かつての敵国人に犯されるより死を選びます。

 

たとへ生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満洲の地に止まり、日本が再びこの地に還ってくる時、ご案内いたします。

 

その意味からも私どものなきがらは土葬としてこの満洲の土にしてください。

 

昭和21年6月21日 散華

新京 通化路第八紅軍病院

ーーーーーー

 

「彼女たちの自殺は薬物(青酸カリ)によるものでした。それにまた彼女たちの汚れ物の一枚も残していないのも、日本女性の身嗜みと、一段と涙を誘うものがあります。

 

ボイラー係の満人からの話では、死の当日、ボイラー室に大きな包みを二つ、持ち込んできて、これを目の前で燃やしてくれと言うので燃やしてあげたということです」

(元大本営参謀、戦後は明治薬科大学の理事長を務めた高橋正二氏の証言)

 

昭和27年ごろ、浪曲師の寛さんは、この話を題材にした『ああ 従軍看護婦集団自殺』という題目にして、全国を巡業しました。

 

この浪曲を聞いた吉田亀治さんは、供養に役立ててほしいといって、公園墓地の提供を申し出ました。

 

吉田亀治さんは、戦時中、山下奉文陸軍大尉の副官をしていました。

 

昭和31年6月21日、自害した従軍看護婦たちを祭る、青葉慈蔵尊の開眼法要が、公園墓地「青葉園」にて営まれました。

 

五十年目の節目にあたる平成19年(2007年)6月21日の命日に、かつて婦長を務めた松岡喜身子さんは語りました。

 

「ソ連の非道は、体験したものでないと分かりません。あのころは、無理でも向こうの言うことを聞き入れるしかなかった。敗戦の切なさですね。

 

私は老いた今でも現役で看護婦をしていますが、きっと彼女たちが見守ってくれているのだと思います。

 

私はこれからもあなたたちの分まで、看護の道を頑張りたいと思います」と。

 

今でも毎年6月21日の命日に、埼玉県さいたま市にある公園墓地「青葉園」の青葉慈蔵尊を前にして、墓前供養が行われています。

 

従軍慰安婦という戦時中にはなかった言葉を使い、強制連行されて性奴隷にされたと大きな声をあげて、謝罪と賠償金を要求し続ける国や団体があります。

 

その一方、日本人の従軍看護婦たちが、複数のソ連兵によって輪姦されて、婦女暴行(レイプ)を受けたために、梅毒にかかり、精神的にも苦痛を受けてしまったので、青酸カリで自害をした人たちがいました。

 

日本政府は、日本人従軍看護婦たちが、ソ連軍によって強制連行と性奴隷にされた事実に対して、ソ連(ロシア)に対して、謝罪や賠償金を要求したことは一度もありません。

 

また、生き残った日本人の従軍看護婦たちが、大きな声で非難声明を出したこともありません。

 

ただひたすらに、墓前に手を合わせて亡くなった方々を供養する日々を、ひっそりと送ってきました。

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June 01, 2018

稲作は縄文時代から作られていた

テーマ:歴史

お米が日本で作られるようになったのは、弥生時代からと言われています。

 

それまでの縄文時代には、稲作がなかったので海産物などを主に食べていたと言われています。

 

でも実は、日本では縄文時代から稲作をしており、縄文人は米を食べていたのです。さらにお米を発酵させてお酒も作っていました。

 

神話には次のようなお話があります。

 

昔々、保食神(うけもちのかみ)という神がいました。保食神(うけもちのかみ)は、人々が豊かに繁栄するように、と神に祈ったところ、天からヒヨウル種(太陽と月の精気を含んだ種)が落ちてきました。

 

この種を水辺に蒔いたところ、ウル田(水田)のゾ苗(水稲・うるち)となって、八月一日(旧暦)に稲穂が実って大豊作となりました。

 

保食神(うけもちのかみ)は、兄の豊国主(とよくんぬ)に八房(やふさ)に実った稲を献上しました。

 

豊国主(とよくんぬ)は、とても喜びました。そして、この稲穂を宇宙の創造主であるアメミヲヤ神と、天之御中主神(あめのみなかぬし)に捧げて、感謝のお祭をしました。

 

つぎに、各々県主(あがたぬし)に稲を分け与えて広めていきました。そして、稔りの秋祭を楽しむようになりました。

 

この時から、人々の食料も増えて暮しも豊かになり、国の平和が永く続くようになりました。

 

人々は、保食神(うけもちのかみ)をイナリ神(稲荷)と呼んで、感謝の気持ちを伝えていきました。

 

八月一日に、親しい人を招いてご馳走をふるまい、お互いに贈り物をして楽しむ風習が、このときから始まりました。(八朔(はっさく・八月一日)の祝)

 

ホツマツタエには、結婚の制度が始まったお話があります。

 

豊国主(とよくんぬ)の後と継いだ、国常立尊(くにとこたち)の第一世代から数えて、第四世代の男神の宇比地邇(ウビチニ)と女神の須比智邇(スビチニ)が、トツギ(結婚)して夫婦になりました。

 

豊国主(とよくんぬ)までは、男女の区別がない一人神でしたので、男女がトツギ(結婚)することはありませんでした。

 

男神の宇比地邇(ウビチニ)と女神の須比智邇(スビチニ)の時代からはじめて、男女がトツギ(結婚)する夫婦神ができました。

 

少名毘古那(スクナビコナ)の神は、庭の竹株に雀がたくさん集まって籾(もみ)を入れるのを見ていると、ふと閃めきました。

 

この籾(もみ)を醸したらお酒ができるのではないか、と。

 

そして、お酒(にごり酒)ができたので、桃雛木(モモヒナギ)の神(宇比地邇(ウビチニ)の幼少名)と桃雛果(モモヒナミ)の神(須比智邇(スビチニ)の幼少名)に、竹筒に入れて献上しました。

 

桃雛木(モモヒナギ)の神はとても気に入り、少名毘古那(スクナビコナ)の神に、ササナミ神という名前を与えて、後に、ささけ山に祭られました。

(酒(さけ)の由来)

 

桃雛木(モモヒナギ)と桃雛果(モモヒナミ)神に捧げたお酒は、桃の木(キ)と実(ミ)にちなんでお神酒(ミキ)と呼ぶようにしました。

 

3月(弥生)3日、トツギの儀式(結婚式)を行い、桃の花の下で盃(さかずき)に酒を酌みほし、月が逆さに写るのを楽しみました。(逆月、さかずき)

 

先ず男神が女神にすすめて女神が先に、逆さに写った月影をそおっと飲み、後に男神が飲んでお二人は床に入られ交わりました。

(トコミキ(床神酒))

 

これが、3月3日にお祝いする、桃の節句、ひなまつりの由来です。(「ホツマ伝え」)

 

初代の神武天皇から数えて第10代の崇神天皇(すじんてんのう)の時代、疫病が流行して、国が混乱を極めていました。

 

そんなある日、夢で大物主大神(おおものぬしのおおかみ)から、次のお告げを受けました。

 

「私の子孫である大田田根子(おおた たねこ)を祭主にし、酒を奉納しなさい」と。

 

崇神天皇(すじんてんのう)は、高橋活日(たかはし いくひ)命を呼んで、酒を造り奉納することを命じました。

 

高橋活日(たかはし いくひ)命は、一晩で作ったお酒を奉納しました。

 

すると疫病は去り、国が富みはじめました。

お酒が国を救ったのです。

 

高橋活日(たかはし いくひ)命は、奈良県桜井市の三輪山にある、日本最古の神社である大神神社(おおみや)の摂社(本社に付属するヤシロ)「活日神社」(いくひ)に、杜氏の神様としてまつられています。

 

この大神神社(おおみや)のご神体である三輪山は、昔から「三諸山(みむろやま)」と呼ばれています。「みむろ」とは「酒のもと」の意味です。

 

その時に高橋活日(たかはし いくひ)命は、次の詩を詠みました。

 

うま酒の歌

「此(こ)の神酒(みき)は 

我(わ)が神酒(みき)ならず 

倭(やまと)なす 

大物主(おおものぬし)の 

醸(か)みし神酒(みき) 

幾久幾久(いくひさいくひさ)」

(日本書紀)

 

「このみきは わがみきならず

やまとなす おおものぬしの

かみしみき いくひさいくひさ」

 

意味としては、この神酒は私が醸したものではなく、大和の国をおつくりになった大物主神が醸された神酒です。幾世までも久しく栄えませ、となります。

 

この詩を古事記ではどう書かれているのでしょうか?

 

うま酒の歌

「このみきは わがみきならず」

 

この一行のみで終わっています。

 

では、ホツマ伝えではどう記されているでしょうか?

 

うま酒の歌

「此(こ)の神酒(みき)は 

我(わ)が神酒(みき)ならず 

倭(やまと)なる

大物主(おおものぬし)の 

醸(か)みの神酒(みき)

幾久(いくひさ)つくる

杉(すぎ)ば幾久(いくひさ)」

 

「このみきは わがみきならず

やまとなる おおものぬしの

かみのみき いくひさつくる

すぎばいくひさ」

(ホツマ伝え)

 

ここでいう’すぎ’とは、杉の木のことです。

すぎの根を使ってお米を発行させると、お米の発酵途中に発する嫌な匂いを消す効果があります。

 

また、杉の持っている酵母が、お酒が発酵するのにとても良い働きをします。

 

そのお酒を作るために欠かせない杉の効用を、意図的に隠すために、古事記や日本書紀の中にある「うま酒の歌」から”すぎばいくひさ”の部分を削除してしまいました。

 

では、なぜお酒を発酵させる際に使う”杉”を隠そうとしたのでしょうか?

 

そのなぞには、秦氏の一族が関わっているという説があります。

 

全国の酒蔵では、新酒が出来た頃に緑色の”杉玉”が吊るされます。そして、一年かけてその杉玉は徐々に茶色になっていきます。それが酒の熟成具合の目安となります。

 

昔は、御神酒(おみき)を「みわ」と読んでいて、神様(かみさま)のことも「みわ」と読んでいました。

 

そして、酒に酔っている状態が神様とシンクロしている状態であると考えられていて、 お酒は神様と繋がる大切なものとされてきました。

 

”飲み会”のことを”直会(なおらい)”という人もいますが、これは、素直な心(神様と通じた心)になって人々と交わるという意味になります。

 

毎年11月14日に、大神神社(おおみわじんじゃ)で「うま酒みわの舞」が巫女によって披露されます。

 

稲作の話から、お酒の由来になりましたが、お酒の原料となる稲は、縄文時代からつくられていたということが、神話にでてきます。

 

あなたは、神話だから作り話だと思いますか?

 

イエスキリストは、聖母マリアから生まれましたが、お父さんはいません。処女マリアのおなかから生まれたと、聖書には書かれています。

 

世界の大多数の人が信じているキリスト教の信徒は、この話を信じています。

 

男性との交わりがなく、赤ん坊が生まれるわけがないので、聖書は嘘だ、と非難するキリスト教信徒はいません。

 

神話の話だからといって、すべて嘘であり作り話しであると非難するのは、処女マリアからキリストが生まれるわけがない、と非難するのと同じことになります。

 

古事記にかかれている話は、考古学の研究により、事実であることが次第に証明されつつあります。

 

信じるか信じないかは、あなたの自由です。

 

ただ、文献に残されているということを、これはどういう意味なのだろう、と読み解いていくと面白いと思います。

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