昭和恐慌での台湾銀行の功罪 | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

昭和2年(1927年)に日本全国の銀行で取り付け騒ぎが起きて金融危機が襲いました。その時にもっとも重要な役割を演じたのは、日本内地の銀行ではなく、日本統治下の台湾銀行でした。

昭和恐慌での台湾銀行の功罪

大正3年に第1次世界大戦が勃発。日本経済は未曾有の好景気になりました。
しかし、大正7年に戦争が終結すると、その2年後の大正9年(1920年)春から一転して不況となりました。
また、近い将来に金解禁になることが想定されていたので、経済を立て直すことが急がれていました。

金解禁とは何かというと、金本位制度に移行するという意味になります。

政府や日銀は、紙幣をその時の経済政策に応じて好きなだけ発行できるのが管理通貨制度となりますが、金本位制度では紙幣をいつでも金と交換できるというものになりますので、紙幣の発行に制限が生じてしまいます。

なぜなら、政府日銀が保有している金は有限だからです。

それまで日本では管理通貨制度を採用していましたが、世界の主要国が金本位制度に移行して行ったので、日本でも金本位制度へ移行するのも時間の問題でした。

そのような中、大正12年9月1日、関東大震災が発生。

明治政府は、この震災の影響で東京や横浜などの被災地で、9月中に支払いができなくなってしまった手形を、日銀が再割引して補償するという緊急勅令を発行。(震災手形)

震災手形

震災手形の返済期限は、当初2年後の大正14年(1925年)9月末とされていましたが、毎年延長されて昭和2年(1927年)9月末となっていました。

昭和元年末における震災手形未決済残高は2億680万円、(うち日銀割引残高は1億5903万円)。
もし、この金額を全て返済期限をもって回収するとなったら、どういう事態になるでしょうか?
倒産者が続出し、経済界は大混乱に陥ることは容易に予想できました。

昭和2年9月末の返済期限を控えて、日銀が肩代わりした手形の不良債権化した損失を、明治政府がどこまで補填するのかが政治的な争点となりました。

 

昭和2年1月、今治商業銀行(今治市所在)、 深谷商業銀行(埼玉県所在)が休業。
2月、広部銀行(東京市所在)、 徳島銀行(徳島市所在)、徳島貯蓄銀行(同) が休業。

3月14日、衆議院予算委員会において昭和2年度追加予算案の審議が開始。
この予算委員会の中で、片岡直温大蔵大臣は、次のような答弁をしました。

「現に今日の正午頃において渡辺銀行がとうとう破綻しました。これも誠に遺憾千万に存じますが、これらに対しまして預金は約三千七百万円ばかりございますから、
これらに対して何とか救済をしなければならぬと存じます」と。
(片岡失言)

この片岡大臣の発言をきっかけとして、日本全国の金融機関(1420行、昭和元年時点)で取り付け騒動が発生していきました。
3月15日、東京渡辺銀行(東京市)とあかぢ貯蓄銀行が臨時休業。

3月19日、中居銀行(東京市)が臨時休業。

3月21日、左右田銀行(横浜市)が2週間の臨時休業。
3月22日、八十四銀行(東京市)、中沢銀行(東京市)、村井銀行(東京市)が2週間の臨時休業。

この日は東京市内のほとんどの銀行で、取り付け騒ぎが起きました。

3月23日、日銀の損失を、明治政府が10年で償還する国債を発行して損失を処理するという震災手形関係法案が成立。

この法案の審議に時間がかかってしまったことが、金融恐慌の原因の一つとなってしまいました。

台湾銀行と鈴木商店

震災手形をもっとも多く保有していたのは台湾銀行であり、その大部分が鈴木商店関係のものでした。

台湾銀行にとって最大の足かせとなっていた鈴木商店は、当時最も規模の大きい商社の一つであり、その傘下に65の系列企業(直系35、傍系30)を保有していました。

台湾銀行は鈴木商店に対してどのくらいの貸付をしていたのでしょうか?

台湾銀行の固定貸は4億5640万円で、総貸出の6割を超える膨大な額であり、このうち3億387万円が鈴木商店系への貸出(利息手形を含まない)でした(昭和元年時)。

また震災手形についても、その総額(4億3082万円)のうち、最大の比重を占めていたのは鈴木商店関係のもの(7189万円)で、しかもその大部分が台湾銀行の割引依頼によるものでした。

日銀による台湾銀行に対する貸出は、3月12日に1億516万円、3月23日には2億3225万円へと急増。

3月24日、台湾銀行の役員総会において 「鈴木商店に対する援助は打切る」ことを決議。

これに対して政府側は、議会開会中の融資打切りという事態を避ける意味から、その実行を3月28日(月曜)まで延期してほしいと要望し、台湾銀行もこれに同意。

4月13日、政府は台湾銀行調査会を招集して、台湾銀行の資金難を救済する方法について、片岡蔵相、井上台湾銀行調査会会長、市来日銀総裁、土方日銀副総裁で協議。

日銀は、台湾銀行を援助するのはやむをえないとしても、台湾銀行の担保にも限度があるので政府による損失補償が必要であると要請して、日銀が損失を被った場合には、2億円を限度として政府が損失補償するということで合意。

4月13日、明治政府は、台湾銀行を救済する緊急勅令案 「日本銀行の特別融通及之に因る損失の補償に関する財政上必要処分の件」を閣議決定。

4月15日、東京手形交換所および東京銀行集会所は、急遽明治政府に次のような陳情をしました。

「ここ最近、各地銀行の臨時休業が続いており、財界の動揺はいまだに安定しておりません。 この時期、日本内外に対して極めて重要な地位を占め、また日本内地の多数の銀行よりも巨額の資金を投下している台湾銀行が、万一うまく進まずにつまずいてしまった場合、全国の財界におよぼす影響は真に重大なるものであり深憂に堪へません。 よって、政府は極力難局に善処し速かに財界安定のために適当の措置をとっていただくことを切望します。」と。

4月15日、明治政府は臨時閣議を開き、台湾銀行を救済する内容の緊急勅令を枢密院において審議してもらうよう要請。

4月17日(日曜)、枢密院にて審議した結果、緊急勅令を否決。

4月17日、緊急勅令が枢密院で否決されたことにより、金融危機の収束の見込みが立たなくなってしまった責任をとり、岩槻内閣総辞職。

この枢密院とはどういった機関なのでしょうか?

大日本帝国憲法では次のように規程されています。
第56条 「枢密顧問は枢密院官制の定むるところにより、天皇の諮詢に応え重要の国務を審議す」と。

枢密院への諮詢としていくつか規程されてますが、その中で、”帝国憲法の条項に関する草案と疑義について”審議するような場合には、枢密院にて審議が行われました。

枢密院での審議で、岩槻内閣にて閣議決定された緊急勅令法は、違憲であるという結論になり、否決されてしまったのです。

政権交代

当時の議会は憲政会と政友会の2大政党が激しくしのぎを削っていました。

4月17日、憲政会の岩槻内閣は総辞職

4月18日、台湾銀行は台湾島内の本支店・出張所を除き臨時休業。近江銀行(大阪市)が休業。
4月19日、蓋品銀行(広島県)、泉陽銀行(大阪府)、蒲生銀行(滋賀県)等が休業。
4月20日、憲政会の若槻内閣のあとをうけて、政友会の田中義ー内閣が発足し、大蔵大臣として高橋是清が入閣。
4月21日、以前から業況悪化が伝えられ、預金取付けにあった十五銀行(東京市)が休業。

十五銀行は当時の大銀行の一つであり、 また宮内省本金庫を受け持つ名門銀行であったので、 全国各地に影響が及び、人々が各銀行の窓口に押しかけるという状況になりました。

この時期が金融不安の頂点でした。

4月21日だけで日銀の貸出は6億182万円増加し、兌換銀行券発行高は6億3902万円増加。
兌換銀行券が不足し、支払いに支障を生じることが懸念されました。

兌換銀行券とは、金と交換できる紙幣のことをいいます。
この時の日本では、管理通貨制度を採用しており、金本位制度ではなかったのですが、1885年に銀兌換銀行券を発行し、1887年、日清戦争後、金本位制度に移行に際して、金兌換銀行券を発行していました。
1914年、第一次世界大戦勃発時に、金との交換を停止して、再び金本位制度から管理通貨制度に移行、という経緯を経ていました。

片面印刷のみの銀行券

緊急処置として日銀は、紙幣を印刷発行することになりましたが、紙幣の両面印刷をしていては間に合わないので、片面のみを印刷した二百円紙幣を発行しました。

4月21日、高橋蔵相は、東京手形交換所・東京銀行集会所からの陳情を受けて、
1、21日間の支払延期令(モラトリアム)を全国にしく。
2、台湾銀行の救済および財界安定に関する法案に対し協賛を求める、という緊急勅令を提案。

直ちに審議が始まりましたが、この法案の可決は早くとも4月23日になってしまうので、高橋蔵相は民間銀行に対して、4月22日、23日の両日、自発的に休業するよう要望。

その要請を受けた全国の民間銀行の本店支店は一斉に休業しました。

4月22日、枢密院にて緊急勅令案が審議され、満場一致で可決。

以前、岩槻内閣の時には枢密院で否決されてしまった緊急勅令案ですが、田中義一内閣の時には可決されて即日公布施行されました。

緊急勅令
「私法上の金銭債務の支払延期及手形等の権利保存行為の期間延長に関する件」
(昭和2年4月22日勅令第96号)

この緊急勅令の主な内容は、給料・労賃の支払い、1日500円以下の銀行預金の支払い等を除き、私法上の金銭債務の支払いを21日間延期(モラトリアム)するというものでした。

この勅令は、同日併せて公布された地区指定勅令により、当初内地(日本本土)のみに適用されることになっていたのですが、4月25日の改正により、内地(日本本土)のほか、朝鮮•関東州・樺太にも適用されることになりました。

4月22日(金曜)、23日(土曜)の全国的な銀行の臨時休業のあと、4月24日は、日曜にもかかわらず、日銀は民間銀行に対する貸出を実行。また「取引先以外の銀行にも極力資金融通の便宜を図るので、預金者はいたずらに不安に陥らないように」と呼びかけました。

そして、いよいよ週明けの4月25日(月曜)が訪れました。

どのような混乱が起きるのか、かなりの緊張と不安を持っての営業再開でしたが、予想以上に平穏で何事もなく、銀行側としても「手持ち無沙汰な位」でした。

5月9日、台湾銀行は台湾以外の店舗の営業を再開。
5月13日、支払延期(モラトリアム)を解除。

こうして、昭和2年に起きた金融恐慌は収束していったのでした。

政治的な駆け引きのために翻弄されてしまった、震災手形法案。この法案の可決が長引いてしまったのと、審議中の片山大臣の失言。さらに枢密院での緊急勅令案が否決されてしまったことが重なり、金融危機を起こしてしまう引き金になってしまいました。

そしてこの危機を引き起こしてしまったもっとも重要な銀行は、日本内地の銀行ではなく、日本統治下の台湾銀行だったのです。

参考図書