日露戦争において、旅順を攻略する責任者に任命された乃木大将。しかし、その旅順攻略の作戦指揮を問題視して、乃木大将を愚将として評価している歴史家がいます。
その一方で、世論の批判や明治政府首脳陣からの乃木大将の更迭要求を跳ね除けて、乃木大将を信じて起用し続けた人がいました。
その方は明治天皇です。
乃木大将と明治天皇の深い絆
まず、日露戦争に到る歴史的経緯を簡単に振り返ります。
日本とロシアが軍事衝突する遠因となったのは、日清戦争に日本が勝利した際、戦勝国の戦利品として認められた、遼東半島の領有権があります。
その遼東半島の領有権について、納得ができない清国は、ドイツとフランスとロシアの3か国に根回しをして日本から取り返そうと画策しました。(三国干渉)
明治維新から27年。日本は、眠れる獅子と言われアジアの宗主国であった、清国に勝利することができるほどの軍事力を持つまでに到ましたが、ドイツやフランス、そして当時世界最強と言われたバルチック艦隊を率いる大国ロシアと戦えるほどの国力は、まだありませんでした。
明治政府はこの時、止むを得ず、戦争に勝利して勝ち取った正当な権利である遼東半島の領有権を、返上することにしました。(臥薪嘗胆)
その2年後、その遼東半島にある旅順にロシア軍が進駐して、難攻不落の巨大な要塞を構築してしまいました。
当時の明治政府は、このようなロシアの行動を見て見ぬふりをしていたのでしょうか?
事なかれ主義の今の日本政府は、旅順におけるロシアのこのような行動について、何も反応しないでしょう。
しかし、明治政府は違いました。
着々と軍事力を増強していき、来るべきロシアとの戦いに備えていたのです。
すでに開戦の数年前から、参謀本部において旅順攻略のための作戦計画が練られており、その総指揮官として、乃木希典大将が選任されていました。
ーーー日清戦争における旅順口の戦いーーーー
明治27年(1894年)、日本陸軍は清国からわずか1日で旅順口を攻め落としました。
そんときの攻略方法は、銃剣を持った歩兵達による総突撃によるものでした。
この肉弾突撃は、日本陸軍が得意とする戦法になります。
高い士気を持った日本兵は、機関銃の一斉掃射による敵の弾が雨あられのように降る戦場でも、勇敢に突撃して行くので、敵の堡塁を次々と奪って攻め落とすことができました。
ーーーー南山の戦いーーーーー
ロシアは、日本から奪い取った旅順口に、鉄筋コンクリート造りの要塞を構築していました。日本軍は、日清戦争時の経験から、この時も銃剣を持った歩兵による突撃作戦を行いました。
まず、旅順の中の南山という地域を攻撃しました。数千人の犠牲者が出ましたが、南山を攻め落とすことができましたので、日本陸軍の銃剣突撃は最強であるという認識が定着していきました。
しかし、この南山攻略は、日本陸軍の単独行動で攻め落としたわけではありませんでした。実は、日本海軍の連合艦隊が、密かに着弾距離内に侵入して、陸軍歩兵の正面突撃に伴い、ロシア軍の側面と後方の陣地に向けて絶え間なく艦砲射撃を繰り返していたのです。
この日本海軍の援護射撃があったおかげで、陸軍による銃剣突撃が成功したということになります。
でも、日本陸軍はこの事実を認めようとせず、海軍の援護射撃は局部的なことであり、あくまでも、日本陸軍による銃剣突撃によって、南山を攻め落とすことができたのである、という認識でした。
この陸軍の誤った認識が、その後の旅順攻略において多大な犠牲者を出してしまうことにつながります。
ーーーーー旅順口の戦いーーーーー
乃木大将の指揮のもと、旅順口への銃剣突撃による攻撃が繰り返されていきました。しかし、なかなか陥落しません。
そんな中、明治37年(1904年)8月19日から総攻撃が行われるということで、事前に、まだ陥落していないにもかかわらず、日本国内の東京や大阪では、旅順口陥落大祝賀会が計画されて、その入場券が発売されていました。
全国民がこの大祝賀会に参加するようにと広告され、日時まで決まっていたのですが、総攻撃でも陥落しなかったので、販売された入場券が回収されるということが起きていました。
日清戦争では、わずか1日で陥落できたのに、なぜ、こんなにも長い時間がかかるのか、そして多大な犠牲者を出し続けていたので、日本国内の新聞各社は、「乃木大将は間抜けな愚将である、直ちに更迭せよ」、というような世論を先導していきました。
旅順口に陣地を置いていた乃木大将のもとにも、日本からたくさんの手紙が送られてきました。その手紙のほとんどが乃木大将を非難するものでした。
東京の乃木大将の自宅にも石を投げつけられたり、ヤジを言われたりしていて、ひっそりと暮らしていた乃木大将の奥さんや書生の人たちも、忍耐を強いられていました。
ーーーーー乃木大将への思いーーーー
乃木大将が率いる陸軍第3軍の将兵たちは、乃木大将に対してどのような思いを抱いていたのでしょうか?
乃木大将は二人の息子がいました。2人とも陸軍に所属していて、この日露戦争にて戦死してしまいました。
乃木大将は日頃から、息子達に次のようなことを言い聞かせていました。
「政治に口を出すのではない。一旦大命が降りたら、軍人として国のために命を捧げる覚悟を持ちなさい。」と。
また、旅順に出発する前に、東京の自宅で奥様にこう言われました。
「戦争が首尾よく終わるまでは、自分のことは死んだものと思いなさい。その時までは便りをするな。自分も手紙を送らない。自分は、生命も時間も考えも、全て、陛下と国家に捧げているのだから、少しも私情もこの間に入ってはならない。」と。
戦争中、乃木大将の元に、毎朝戦死者名簿が届けられました。乃木大将は、その戦死者名簿を毎朝見ながら、どのような感情を抱いていたのでしょうか?
乃木大将は、一兵卒の戦死も身内の死と同じように感じていました。旅順口攻撃に伴い、戦死者が増えていくと、乃木大将の精神的苦痛はどれほどであったのでしょうか?
東京の参謀本部から、将棋の一つの駒のように与えられた任務である旅順口攻略。
ロシア軍による難攻不落の要塞と化した旅順を、攻略しなければならない任務を背負って、乃木大将は、戦場に立っていました。
常日頃から軍人として、命を国に捧げるように言い聞かせていた二人の息子を、戦場で失ってしまった乃木大将。
その報告にも動揺せずに、そのストイックなまでの精神を持った乃木大将の指揮の元、喜んで命を捧げようと突撃していった兵隊達。
乃木大将に対する愛情と尊敬と崇拝の感情が、多くの将兵たちの間にあったのでしょう。そのために、あれほどまでの絶体絶命の難攻不落の旅順攻略に、突撃して行けたのだと思います。
ーーーーー203高地ーーーー
8月以降も毎月のように総攻撃を繰り返していきましたが、日本兵の士気は全く衰えることはありませんでした。
地下に坑道を掘っていき、ロシア軍の銃弾を避けながら徐々に敵の陣地を奪取していきました。
それに伴い大砲を持った砲兵隊も進軍していき、ついに旅順湾内に停泊していたロシア艦隊に向けて着弾できる距離まで縮まりました。
バルチック艦隊が日本に向けてロシアを出発していましたが、その到着予定が翌年の明治38年(1905年)4月頃と推定されていました。
乃木大将には、そのバルチック艦隊が日本に到着する前に旅順を陥落することが義務付けられていたのです。
徐々に陣地を奪取して旅順湾に停泊しているロシアの旅順艦隊に攻撃できるまでになりましたが、まだ、旅順要塞を陥落するには至っていませんでした。
11月、乃木大将率いる第3軍の司令部では、さらに総突撃を行うべきである、という意見が大勢をしめていましたが、その議論を聞いていた乃木大将が最後に決断しました。
「諸君、ロシア艦隊を攻撃できる地点はだた一箇所しかない。それは203高地の頂上である。あれさえ手に入れば、2日で旅順艦隊を全滅できる。なかなか奪取できない陣地ではある。
多大の犠牲を払わねばなるまい。しかし、観測地としての価値からいったら203高地は一個師団にも換えられない。第7師団が到着したから203高地へこれを差し向けよう」と。
旅順要塞の攻略ももちろんですが、その背後の旅順湾に停泊しているロシアの旅順艦隊を全滅させることが大事であると、乃木大将は考えていたのです。
なぜかというと、バルチック艦隊が日本に到着した際、この旅順艦隊も、対馬沖に待ち構えていた日本海軍の連合艦隊に向けて出港して、挟み撃ちにされてしまうことが懸念されたからです。
それを避けるためにも、バルチック艦隊が日本に到着予定の4月までに、これを全滅させておく必要があったのです。
乃木大将の鶴の一言により、それまで旅順要塞に正面突撃すべしといっていた参謀たちは、自分たちの意見を抑えて、203高地を奪取するために任務についていきました。
また、8月の総突撃以来、多大な犠牲者を出していたので、日本本国から旅順に向けて、追加の援軍が送り込まれてきました。
ーーーーー旅順陥落ーーーーーー
12月5日、203高地が陥落。
翌年の1月1日、旅順要塞を守備していたロシア軍のステッセル司令官が降伏。
日本からの祝電が嵐のように旅順の司令部に届き、乃木大将は一夜にして英雄となりました。
また、この難攻不落の旅順要塞を日本軍が陥落したというニュースは世界中に流れて、乃木大将の名が、世界中の人々に知らされることとなりました。
そして、シーザーやナポレオンなど、歴史的に名将といわれている将軍と肩を並べて、乃木大将の名前が呼ばれるようになりました。
ある日のこと、司令部で祝賀会が行われましたが、その時のことをある副官が次のように伝えました。
「私たち幕僚が皆祝賀にふけっていると、いつの間にか閣下(乃木将軍)の姿が見えなくなってしまった。もう退席してしまわれたのだ。
行ってみると、小舎の中の薄暗いランプの前に、両手で額を覆って、一人腰掛けて居られた。閣下の頬には涙が見えた。
そして私を見るとこういわれた。
今は喜んでいる時ではない。お互いにあんな大きな犠牲を払ったではないか」と。
ーーーーーー明治大帝との深い絆ーーーーー
かつては乃木大将を更迭すべし、と明治天皇に進言していた桂太郎首相をはじめとする明治政府の首脳陣達。
その時に、ただ一人、乃木大将に絶対の信頼を寄せて、乃木大将の更迭に反対した明治天皇。
明治天皇からの絶対の信頼を受けて旅順での戦闘を指揮した乃木大将。
明治天皇と乃木希典大将との間には深い信頼関係があったのです。
乃木大将はそれまで切腹を覚悟したことがありました。
それは、西郷隆盛をリーダーとする反乱軍との戦い(西南戦争)において、政府軍の軍旗を奪われてしまった事件がありました。
その責任をとって、乃木希典は切腹を覚悟して、明治天皇へ進退伺いをしました。
しかし、明治天皇は、乃木希典に対しては、この件で一切の責任を追求することをせず、また、軽はずみな行動をしないようにと注意も受けました。
軽はずみな行動とは、切腹のことを差します。
武士としての責任感が強い乃木希典の性格をよく見抜いて、明治天皇はこのような言葉を発したのです。
このように、乃木大将を信用している明治天皇は、桂太郎首相をはじめとする明治政府首脳陣から、更迭を進言された際にこういわれました。
「それはならぬ。もし途中で代えたら、乃木は生きていないだろう」
「乃木の代わりをするものが他にいるか?」と。
ーーーー切腹ーーーーーー
日露戦争が終わり、明治天皇の御前にて報告した乃木大将は、明治天皇から次のような言葉をかけられました。
「日露戦争の勝利は、乃木の功績によるところが大である。」と。
また次のような言葉もかけました。
「乃木よ。くれぐれも軽はずみな行動をとるなよ」と。
軽はずみな行動とは、責任をとって切腹するということです。
この時、乃木は、旅順包囲戦に際して多大な被害を出してしまったことへの責任をとり、武士として切腹をする覚悟だったのです。
しかし、明治天皇にそのことを見透かされてしまったので、切腹することもできずに、学習院にて教育者としてのお勤めをして過ごしていました。
ーーーーー崩御ーーーーーーー
明治45年(1912年)7月30日、明治天皇が崩御。同年9月13日、多くの日本人が悲しむ中、大喪の礼が行われました。
そして、その大喪の礼が行われた日の9月13日、乃木大将とその奥様が自宅で切腹。
西南戦争で軍旗を敵に奪われてから、常に死に場所を探していた乃木希典。
明治天皇の崩御により、ついにその目的が達成することができました。
ーーー信用するということの意味ーーーーー
上司や社長から信頼された人間は、自分の持っている能力の120%を発揮して仕事をすることができると思います。
その反対に、上司や社長から不信感をもたれて、「あいつ大丈夫か?」と心配されているような人間は、自分の持っている能力の50%、いや30%程度の力しか発揮することはできないと思います。
部下を信頼するということはとても大事なことなのです。
ましてや国家存亡の重大局面で、このような天皇と指揮官とが深い信頼関係で結ばれていたということは、日本にとってとても幸福なことだったと思います。
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参考図書
「乃木大将と日本人」 Sウオシュバン著、目黒真澄訳
「機密日露戦史」谷寿夫著
「新史料による日露戦争陸戦史 覆される通説」長南政義著
「日露戦争第三軍関係史料集 大庭二郎日記・井上幾太郎日記で見る旅順・奉天戦」長南政義著