大本教の建て替え建て直し | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

最後の審判

 

釈尊が亡くなってから、56億7千万年後に日本に弥勒菩薩が下生する(現れる)。

 

それは、大本教の教祖の出口王仁三郎が56歳7ヶ月の時であるとして、大正11年(1922年)が建て替え立て直しの年であるとしました。

 

「明治55年5月5日は結構な時ぞよ」

 

 

明治25年(1892年)2月3日、京都府綾部にて出口直(なお)が、自動的に手が動いて筆記(御筆先)するようになり、婿養子の出口王仁三郎とともに、新興宗教を立ち上げました。

 

その御筆先には次のようにかかれていました。

 

「3千世界一度に開く梅の花。

丑寅の金神の世になりたぞよ。

根に花咲くは虎耳草(ゆきのした)。

上も下も花咲かねばこの世は治らんぞよ。

金は世の滅びの因(もと)であるぞよ。

世をたてかえて心安き世に致すぞよ。

今までは悪の世で、強い者勝の世であったなれど、

これから先は悪では一寸も行けぬ世に致すから早く改心致されよ。

改心致さねば、

地震、雷、火の雨降らして悪の霊(みたま)を平らげるぞよ」

(大本教「初発の神癒」)

 

また、御筆先で次のように予言しました。

 

「明治55年5月5日は結構な時ぞよ」

 

明治55年とは、元号が変わって大正11年(1922年)5月5日となります。

 

その日には、地上には大地震が起きたり、雨のように隕石が落ちてきたり、と言うような天変地変が起きて、

神様の御心に合わない人は、皆殺される。人類の90%以上の人が殺される。

 

清い心の持ち主だけが救われる。

 

建て替え立て直しの時期にキリストが再臨するとして、出口王仁三郎こそが、キリストの再臨であると説いていました。

 

この大正11年(1922年)とはどのような時代だったのでしょうか?

 

大正7年(1918年)の後半からスペイン風邪というインフルエンザが世界中を席巻して、パンデミックを起こしていました。

大正10年(1921年)に収束しますが、それまでに世界中で1700万人から5000万人もの人が死亡したと言われています。

 

また、米国の平均寿命は12歳低下しました。

 

日本でも2280万人が感染して、40万人近い人が亡くなりました。当時の日本の人口は5500万人でしたので、全人口の約4割の人が感染したことになります。

 

大正7年(1918年)は、米価格の相場が急騰したことに伴い、日本全国で暴動事件が発生。(米騒動)

 

1917年2月から、ロシア帝国でレーニンを指導者とする社会主義革命が起きて、10月にロシア帝国が崩壊して、翌年の1918年に世界初の社会主義国家であるソビエト共和国が成立。

 

これに伴い、ロシアは内戦状態になっていましたが、極東のシベリアにおいて、チェコスロバキア軍がロシア革命軍に捕虜となっていました。

 

そのチェコ軍を救出するために、連合国がそれぞれシベリアに軍隊を派兵。日本も国連からの要請で帝国陸軍をシベリアに出兵。

(シベリアへ出兵)

 

このように激しく揺れ動いていた時代、最後の審判の時が近ずいていてキリストが再臨する、と大本教団では信じられていたのです。

 

ある時、富める青年がキリストに天国に行く方法について質問しました。

 

キリストは次のように答えました。

「汝の持てる全ての物を売って、それを貧しきものに施せ(与えよ)。しかして汝の十字架を置いて我に従え。

富めるものが天国に行く難しさは、背中にコブがあるラクダが針の目(穴)を通るよりも難しい。」

 

 

国之常立神(くにのとこたちのかみ)を、鬼門の方角(丑寅)に封印してしまいました。

そして、そこから出られないように、縄を張りました。この縄がしめ縄の由来となっています。

 

出口ナオは、この国之常立神(くにのとこたちのかみ)の分霊(わけみたま)で豊尊(とよくものみこと)(国常立尊様の妻神)の分霊(わけみたま)だと言われていました。

 

この鬼門の方角(丑寅)に封印されていた国之常立神(くにのとこたちのかみ)が、大本教が拠点としていた京都の綾部に現れて、最後の審判をすると信じられていました。