226事件とは | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

昭和11年2月26日、陸軍の青年将校たち1404名が決起。首相官邸などを襲撃したクーデターがおきました。この事件は首都東京で、皇軍(日本軍)同しで戦争をするという危機であり、また、日本が滅亡してしまうという国家存亡の危機でもあった事件だったのです。

226事件とは
事件の3日前の昭和11年2月23日、磯部浅一(元一等主計)は、西田税(みつぎ)(元少尉)の自宅を訪問しましたが、留守だったので、奥様のはつ氏に次のようなことを話ました。

「今度こそは決起します。もし西田さんが反対してもやります。西田さんの命を頂戴してもやります。」と。

この伝言を聞いた西田は次のように言いました。

「今までは反対してきたが、もう止められない、黙認する。軍人だけにやらせる」と。

それまで、西田税(みつぎ)は、決起するのに反対していましたが、この時にはもう止めることはできない状況になっていました。

西田税(みつぐ)(元少尉)は、病気のため予備役となっていましたが、皇道派に大きな影響を与えていました。

昭和11年2月26日の早朝、栗原安秀中尉率いる歩兵第1連隊は首相官邸を襲撃。

岡田啓介首相を殺害したつもりが、殺害したのは義弟の松尾伝蔵であり、岡田首相本人は部屋の片隅に隠れて無事でした。

高橋是清大蔵大臣、斎藤実内大臣、鈴木貫太郎侍従長、渡辺錠太郎教育総監、牧野伸顕が次々と殺害され、警視庁も占拠されてしまいました。(鈴木貫太郎侍従長は、奇跡的に命は助かり、その後、終戦へと大きく貢献した首相となります)

栗原安秀中尉は、西田税(みつぐ)に電話をしましたが、本人は留守であったので、奥様のはつ氏に伝言しました。

「首相官邸を目指して来てください。合言葉は尊王斬奸」と。

安藤輝三歩兵大尉率いる歩兵第3連隊は赤坂にある料亭、幸楽(後のホテルニュージャパン)に立てこもりました。

ドイツとの不可解な関係
当時のドイツ大使館(現在の国立国会図書館)は、陸軍省と参謀本部に隣接していました。
戦後、駐日大使になったヴィルヘルム・ハース氏(WILHELM HAAS)もこの時、ドイツ大使館で勤務していました。

参謀本部でドイツ班に所属していた馬奈木敬信陸軍中佐は、反乱軍を避けるようにして、ドイツ大使館の裏門から頻繁に進入。

昭和11年(1936年)2月8日、兵器ブローカーでドイツ人のフリードリヒ・ハックが、日独防共協定の交渉のために来日。

この協定は、昭和11年(1936年)11月に締結されますが、そのための工作は前年からドイツで後に外務大臣となるリッベントロップらと始まっていました。

ドイツ大使館にて馬奈木敬信陸軍中佐は、ドイツ駐在武官のユーゲン・オットーに事件の進捗情報を提供していました。

その面談の場にはいつも、ユーゲン・オットーの秘書も同席していました。

その秘書の名はリヒアルト・ゾルゲ。

ゾルゲとは、コミンテルンのスパイであり、大阪朝日新聞の尾崎秀実と共に、日本帝国を滅ぼすために暗躍していた人です。

なぜ、ゾルゲがドイツ大使館にて駐在武官の秘書をしていたかというと、ゾルゲは元々ドイツ人だからです。その後ドイツ人でありながら、ロシアのコミンテルンのスパイとなり、様々な工作活動に従事していました。

戒厳令
昭和11年2月27日、戒厳令が公布。

この日から、東京の交通網、通信網などは遮断されて、治安、警察、行政の大半は九段に設置された戒厳司令部が管轄することとなりました。

昭和11年2月28日、天皇から奉勅命令が発令。「決起部隊は原隊に帰れ」

東京湾には戦艦長門を始め40船の連合艦隊が集結して、永田町に砲門の標準を定めて艦砲射撃する配備についていました。

また、2万4000人の兵隊と戦車隊が反乱軍を包囲して、上空には戦闘機が飛び交っていました。

交通は完全に遮断されて、麹町区の住民には避難勧告が出されました。

山下泰文少将と鈴木貞一大佐は、栗原中尉など反乱軍の青年将校たちと必死の交渉が続けられていました。

反乱軍は天皇の大命に従わず、原隊復帰せず、武力行使を辞さないという態度を固めました。

これにより、ついに反乱軍に対して討伐命令が出されました。

青年将校たちが決起した理由
「日本改造法案大綱」(改造社)を書いた北一輝。

華族や貴族の廃止や私有財産の制限など、この北一輝の思想は、青年将校たちに大きな影響を与えました。

青年将校たちの目的は、真崎甚三郎陸軍大将を首相として担ぎ上げたかったのです。
陸軍には統制派と皇道派の2つの派閥があり、皇道派の大将が真崎甚三郎大将でした。

皇道派の青年将校ちは、自分たちの大将を首相とする内閣を作りたいという思いで、クーデターを起こしてしまったのです。

その一方、安藤大尉など青年将校たちに従った兵隊たちは、どのような心境だったのでしょうか?

すでに2月28日には、天皇からの命令が発令されており、国賊となっていたのですが、兵隊たちにはその事実を伝えられていませんでした。

下士官たちには、天皇の命令に従うのか、上官である青年将校の命令に従うのか、という2つの道がありました。

陸軍の統帥権の最高指揮官である天皇の命令系統から、外れてしまった青年将校たちは国賊でありますので、下士官たちの生きる道は、青年将校の命令から脱却して投降するしかありませんでした。

兵に告ぐ
2月29日午前9時、九段に設置された戒厳令司令部から投降勧告の放送が流れました。

ー兵に告ぐー

「勅令が発せられたのである。すでに天皇陛下の御命令が発せられたのである。
お前たちは上官の命令を正しいものと信じて、絶対服従をして誠心誠意活動したのである。

この上お前たちがあくまでも抵抗したならば、それは勅命に反抗することとなり、逆賊とならねばならぬ。

正しいことをしたと信じていたのに、それが間違っていたと知ったならば、いたずらに今までの行きがかりや義理上から、いつまでも反抗的態度をとって天皇陛下に背きたてまつり、逆賊としての汚名を永久に受けるようなことはあってはならぬ。

今からでも決して遅くはないから、直ちに抵抗をやめて軍旗の元に復帰するようにせよ。

そうしたら今までの罪も許されるのである。お前たちの刑はもちろんのこと、国民全体もそれを祈っているのである。速やかに現在の位置を捨てて帰ってこい。」

2月29日の午後2時ごろには、ほとんどの下士官たちが原隊に復帰。そして、青年将校たちは、渋谷にあった陸軍衛戍刑務所に収容されました。

青年将校に投降するよう説得した二人の運命
陸軍の皇道派として青年将校と親交のあった、山下泰文(ともゆき)少将と鈴木貞一大佐は、事件が収束するまで、将校たちに投降するように説得していました。

山下泰文(ともゆき)少将は、事件の第一報の連絡を受けて次のように語っていました。

「何、やったか! 陛下の軍隊を使ってそのようなことをするとは、けしからん!もってのほかだ!」と。

また次のようにも語りました。

「この事件が解決したら、自分は責任をとって辞める」と。

その後、昭和16年末、日本軍によるシンガポール陥落の際の司令官として、またマレーの虎としてフィリピンで活躍した山下奉文少将。

戦後はフィリピンのマニラにて戦犯として処刑。

山下奉文少将の運命は、226事件によって大きく変わっていくこととなりました。

内閣調査局の調査官であった鈴木貞一大佐は、それまで皇道派でしたが、事件後に統制派に転向して、やがて東條英機の側近となりました。

事件後も皇道派に所属していたので、出世からは遠ざかっていた山下奉文とは異なり、統制派に転向した鈴木貞一は首相の側近にまで出世していきました。

その鈴木も終戦後は、A級戦犯となり巣鴨プリズンの収監されましたが、昭和30年に釈放されました。

226事件の黒幕
『経済更生案』、『農村政策』などを書いた亀川哲也氏は、民間人として、226事件を資金面などから援助していました。

青年将校たちは自分たちの意思というよりは、北一輝の思想に強く影響を受けており、活動資金も北一輝から受け取っていたと思われます。

つまり、北一輝が陸軍の兵隊を動かして、自分の理想とする日本に改造するために仕掛けた、クーデターであったという見方もできると思います。

予備役となっていた斎藤瀏(さいとうりゅう)は、親しかった栗原安秀と共に陸軍衛戍刑務所に収監されました。

首相官邸を襲撃した池田俊彦少尉は、官邸を襲撃した青年将校八人の中で唯一処刑を逃れました。

昭和11年7月11日、事件の首謀者である青年将校ら15名の処刑が執行。
7月17日、戒厳令が解除。

昭和12年(1937年)8月19日、北一輝、西田税、村中孝次、磯部浅一の処刑が執行。

参考動画
NHK特集『戒厳指令「交信ヲ傍受セヨ」 二・二六事件秘録』