日露戦争の際、講和会議に全権大使としてした小村寿太郎。その時に締結したポーツマス条約の内容を巡って、国中から激しい非難が起きました。
誰も味方をする人がいなくなり、四面楚歌となった小村寿太郎に対して、決して信用を失なわずに擁護を続けた人がいました
小村寿太郎とポーツマス条約 その時の友との強い絆
明治37年(1904年)2月8日、日本とロシアとの間で戦闘が開始されました。(日露戦争)
明治38年(1905年)1月1日、乃木希典率いる第三軍が旅順要塞を陥落。
それに続き、乃木軍は奉天に向けて出陣。奉天(現在の瀋陽)では大山巌大将率いる日本軍がロシア軍と対峙しており、お互いに牽制していました。
明治38年(1905年)2月21日、ついに戦いの火蓋が切られました。(奉天会戦)
この戦いでは、すでに「乃木」の名はロシア軍の間では有名になっており、乃木軍が来たとわかるとロシア軍の士気が下がり、日本軍に優位の戦いとなりました。
この奉天での戦いに勝利した後、大山総司令官の本部を奉天に置き、西は旧蒙古の辺境より東は朝鮮国境の連山まで約290キロにおよぶ戦線を拡大しました。
乃木希典率いる第三軍の司令部は法庫門という小さな町に陣地を構えて、駐屯するようになりました。
明治38年5月28日、日本海海戦で日本海軍の連合艦隊が、ロシアのバルチック艦隊を殲滅して大勝利。
講和会議
それに続く8月10日から米国のポーツマスという場所で、米国のルーズベルト大統領の仲裁の元、日露の間で講和会議が行われました。
日本全権大使として小村寿太郎外相が出席。
この講和会議の間、満洲の前線に駐屯している日本軍はどうしていたのでしょうか?
日本本土から兵隊が毎日のように送られて来ており、来るべきロシア軍との戦闘再開に準備を怠りなく進めていました。
満洲を走る鉄道では、武器弾薬や大砲、馬、食糧などを満載した貨物列車が頻繁に南方から北に向けて輸送されていきました。
この時期はまだ、講和会議が始まったというだけであり、それが首尾よく終わり「平和」が訪れるという確証がありませんでした。
ですので、講和会議が決裂したあとのことを想定して、戦闘態勢を着々と整えていたのです。
また、東京の参謀本部においても、当初の計画では奉天(現在の瀋陽)での会戦で戦争集結というシナリオを描いていたので、その奉天会戦後のロシアとの戦いについてはまだ、白紙の状態でした。
参謀本部でも急遽、奉天会戦後の作戦計画を詰めている状態だったのです。
一般的には、日本軍の戦争継続力は、資金的に旅順陥落時点ですでに枯渇しており、ロシア軍司令官のステッセルが、明治38年1月1日に降伏してくれたおかげで、日本はかろうじて勝利することができたといわれていますが、必ずしもそうではなかったのです。
歩兵、騎馬、砲兵、その他の軍需品の数々が、陸路を長蛇の列をなして前線に運ばれていきました。
乃木大将率いる第三軍の将兵の士気はすこぶる高く、日本内地から続々と送られてくる兵士の補給もあって、ロシア軍の極東での侵略の野望と殲滅してやるという、戦闘意欲が日に日に高まっていきました。
ポーツマス条約
3月の奉天会戦から約6ヶ月間を経て、いよいよ戦闘再開かと思われた矢先、明治38年(1905年)9月4日、ポーツマス条約が締結。
しかも、その条約の内容はロシアからの賠償金が無いという、日本にとっては敗北的なものでした。
この知らせを聞いた、満洲に展開している日本軍の将兵はどのような心境だったでしょうか?
ある騎兵軍曹は、乃木軍に従軍していたロンドンタイムスの記者のスタンレー・ウォシュバンに次のように憤慨していました。
「この知らせが本当であるならば、我々は裏切られたのだ。我が勇敢な軍人は皆売られてしまったのだ。しかし、我々戦地にいるものは、そんなことは断じて許さない。そんな条約は認めない。戦を続けるのだ。講和しようがしまいが、ロシア軍を打ち破ってしまうのだ。」と。
またある兵士は言いました。
「小村大使は日本に帰国したら暗殺されてしまうだろう」と。
乃木大将はどのような心境だったのでしょうか?
乃木大将は講和条約締結の報告を受けて、失望してしまいました。あまりにもその落胆が大きかったのでしょう。
寝込んでしまい、しばらく眼病のため面会謝絶という状態になってしまいました。
無理もありません。
あれだけの多大な損害を払ってまでして勝ち取った旅順要塞。そして奉天。
その代償が、賠償金無しとは。
無賠償とはいえ、南樺太や南満州鉄道の租借権などを勝ち取りました。
しかし、賠償金無しという事実は、前線で戦ってきた将兵、そして日本国民にとっては決して受け入れることができないものだったのです。
ましてや、旅順など満洲の地で犠牲となった英霊たちにとっては、納得できるものではなかったでしょう。
杉浦重剛とは?
講和条約が締結された後、日本各地で暴動がおきました。東京日比谷公園でも暴動が起きて交番などが破壊されたり焼かれたりて、東京は戒厳令が敷かれるほど治安が悪化しました。
(日比谷焼討ち事件)
小村寿太郎外相が日本に帰国すると、案の定、非難の嵐でした。
日本国中から非難を受けた小村寿太郎。
しかし、ただ一人彼を擁護する味方がいました。
それは、友人である杉浦重剛(すぎうら じゅうごう)です。
明治初年、杉浦重剛は東京の開成学校に学んでいた頃、同級生の小村寿太郎と親しくなりました。
後に、小村寿太郎が外交官となった頃、父の残した負債のために経済的に困窮していました。
杉浦重剛は、小村寿太郎のこの苦しみを見るに忍びず、友人と相談し、連帯保証人になってまでして借金返済の協力をして、小村を救ってあげようとしました。
連帯保証人になるということは、もしかすると、自分が借金返済しなければならなくなるという危険があリます。
このことについて、杉浦重剛に方法を誤らないようにと、忠告した友人もいました。
しかし杉浦重剛は、今、小村寿太郎の目前の急を救うため、少しもためらってはいられないと思いました。
そこで、連帯保証人となるのは止むを得ないと、その友人に言って納得してもらいました。
このような杉浦重剛の友を思う友情に感銘して、その友人自身も、連帯保証人になると言い出しました。
このようにして、杉浦重剛を中心とする数名の友人は、小村寿太郎の差し迫った経済的な困窮を救ってあげたのでした。
小村寿太郎が、貧乏のどん底に落ちて、なおその志を伸ばすことができたのは、杉浦重剛の友情に負うところが、少なくなかったのです。
明治38年7月、外務大臣であった小村寿太郎は、米国における日露講和会議に、全権大使として東京を出発。
この時は国中あげての歓声の中での出発でした。
この時の小村寿太郎の心境はどのようなものだったのでしょうか?
小村寿太郎の苦悩
戦局の実情を深く洞察すると、講和会議の内容が日本国民が期待するものとはならず、きっと非難を受ける結果になると覚悟してました。
杉浦重剛は病気で寝込んでいたので、小村寿太郎が米国に出発するのを見送ることができず、人に頼んで次のような送別の言葉を伝えました。
「たとえ、どんなことがあろうとも、あくまで自己の所信を貫け。事の成否は、あえて恐るるに足らない」と。
ポーツマスで行われた講和会談では、案の定、日本国民が期待するものとはならなかったので、激しい非難が小村寿太郎に対しておきました。
杉浦重剛の塾にいる人たちでさえ、その非難を始めました。けれども、小村寿太郎を信じていた杉浦重剛は、次のように言って小村を励ましました。
「小村君は、君国のあることを知って、少しも私心のない男だ。しかも今、日本第一の外交官である。日本一の外交官がやったことだ。あれで良いのだ。」
しかし、国民からの非難の声は高まるばかり。
小村寿太郎を弁護する人は、杉浦重剛の他は、誰もいなくなってしまいました。
小村寿太郎の同窓生の人たちまでも、外務大臣に辞職勧告しようと息巻いて、杉浦重剛のところに押しかけてきました。
杉浦重剛は言いました。
「小村君なればこそ、あれだけやれたのだ。辞職勧告どころか、総理大臣にもなれる者だと思っている。」と。
朋友
朋友はよく選ばなければなりません。良い友と交われば、知らず知らずの間に、良い風に感化せられ、悪い友と交われば、いつのまにか、その悪い風の染まってしまいます。
古語に、「朱に交われば赤くなる」
「ヨモギ、麻の中に生ずれば、助けずして自ずから直し」
という言葉があります。
参考図書
修身教授録 (致知選書)
[復刻版]初等科修身 [中・高学年版]
国民の修身
注釈『初等科国史』『初等科修身』(復刻合冊)
乃木大将と日本人 (講談社学術文庫)