子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -2ページ目

 

 

預言者 Malachi

 

 

ユダヤ人は収入の10%を献金する習慣がありますが、なぜでしょうか?

 

ユダヤ人たちは、モーゼの時代に、我々の生活は神様からおかげを得て生活できているので、その感謝のために収入の十分の一(什一(じゅういち)Tithing)を献金することを始めました。

 

神様はお金を欲しないのですが、その神様を祀っているような教会とか公共事業などに献金することを始めました。これを習慣にし始めてからユダヤ人は豊かになっていきました。

 

ところがしばらくすると、ユダヤ人のある人が、我々ユダヤ人がこのような豊かな生活をできるようになったのは、ユダヤ人が他の民族よりも知能が優れているからである。神様への十分の一献金をやめてそれを運用していったら、もっと富がもたらされるはずである、と訴えました。

 

神様のおかげであるという感謝の心を忘れて、それまでユダヤ人たちが習慣的に行ってきた十分の一を献金することをやめてしまったのです。

 

そうしてしばらくすると、数億というイナゴの大軍がユダヤ人が住んでいた地域を襲いました。そして、全ての農作物を食い荒らしてしまい、凶作が続いたので、ユダヤ人たちは食糧危機になり一気に貧乏になってしまいました。

 

このイナゴの大軍は現代でも時どき発生しますが、どこから発生してどこに向かうのかというのは、現代の生物学者達にもわからないそうです。

 

このような状況の時に、北イスラエルのマラキという預言者が、ユダヤ人の大衆たちに向かって諭しました。

 

8. Will man rob God? Yet you are robbing me. But you say, ‘How have we robbed you?’ In your tithes and contributions

「人は神の物を盗むことをするだろうか。しかしあなたがたはわたしの物を盗んでいる。あなたがたはまた『どうしてわれわれは、あなたの物を盗んでいるのか』と言う。十分の一と、ささげ物をもってである。

 

9. You are cursed with a curse, for you are robbing me, the whole nation of you. 

 あなたがたは、呪いをもって呪われる。あなたがたすべての国民は、わたしの物を盗んでいるからである。

 

10. Bring the full tithe into the storehouse, that there may be food in my house. And thereby put me to the test, says the Lord of hosts, if I will not open the windows of heaven for you and pour down for you a blessing until there is no more need. 

 わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みをあなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる。

 

11. I will rebuke the devourer for you, so that it will not destroy the fruits of your soil, and your vine in the field shall not fail to bear, says the Lord of hosts. 

わたしは食い滅ぼす者を、あなたがたのためにおさえて、あなたがたの地の産物を、滅ぼさないようにしよう。また、あなたがたのぶどうの木が、その熟する前に、その実を畑に落すことのないようにしようと、万軍の主は言われる。

 

12 . Then all nations will call you blessed, for you will be a land of delight, says the Lord of hosts.

こうして万国の人は、あなたがたを祝福された者ととなえるであろう。あなたがたは楽しい地となるからであると、万軍の主は言われる。」

(旧約聖書、マラキ書第3章(口語訳)Malachi 3:6-12)

 

つまり、自分たちの力で豊かになったと思うのは間違えである。全ての富は神様からのおかげで生まれたのであるから、収入の十分の一を献金する習慣を再び始めるべきである、と諭したのであります。

 

こうして、ユダヤ人の十分の一献金の習慣は現代まで続いてきたので、世界の90%の富を握っていると言われている訳であります。

 

 

 

 









中国によるウイグル人弾圧は、今現在でも続いています。

なぜウイグル人は、これほどまでに中国から弾圧されなければならないのでしょうか?

ウイグル人の国、東トルキスタンの建国の歴史を振り返ってみます。

1851年、洪秀全率いるキリスト教信徒達が、清国に対して反乱。。(太平天国の乱)

洪秀全率いる軍隊は、数の上では圧倒的に不利なのに、清国軍に連戦連勝。

また、洪秀全軍は、戦いの後には必ず起きる、民衆に対する虐殺、強姦などが全くありませんでした。

南京など各都市を制圧して独立。

南京を首都としてそこに滞在するゆうになると、それまで清廉潔白だった洪秀全は、一転して肉欲の塊になってしまいました。

洪秀全の肉欲の塊に転落してからは、太平天国軍の指導者達も腐敗していき、洪秀全への求心力も無くなっていきました。

1864年、清国軍が、腐敗仕切った太平天国軍を制圧。

この時期、漢民族と回民族は、太平天国と戦闘を続けている満洲族の清国軍から身を守る為に、それぞれ武装化していきました。

1864年清朝からの支配に不満を持っていたムスリム(イスラム教の信者)達が、内陸各地で反乱を起こしました。(回民蜂起)

1864年11月10日、グルジャにて、回民族とウイグル人、ムスリムのカザフ人、キルギス人が蜂起。

満洲族の清国軍に漢民族が加わり、一旦武力で鎮圧するも逆襲にあい、再び混乱。

そのような混乱の中、各地で起きた武装蜂起を、ヤクブ・ベク率いる軍隊が次々と制圧して、東トルキスタンを統一。

1868年、英国は、ヤクブ・ベク政権を承認して、軍事支援を開始し、1874年、英国とヤクブ政権は、通商条約を締結。また、ロシアとも通商条約を締結。

東トルキスタン全土から清国軍を駆逐し、独立。

ヤクブ・ベクは、ムスクを各地に建設して、イスラム教を保護しました。

一方、清国では意見が割れていました。

英国からの攻撃を防ぐ為に、海防に集中すべきと主張する人「海防派」と、内陸の西北部の守りを固めるべきと主張する人「塞防派」で対立してました。

1842年にアヘン戦争に破れた清国は、再び英国からの侵略を警戒していました。

1875年、「塞防派」の左宗棠は、次のような上申書を西太后に提出。

“東トルキスタンを失えば、イギリスかロシアの影響下に入り、中国は西北部の防御の要を失い、国威が衰え、民心を失い、諸外国はつけあがるゆえ、かえって海防に支障をきたすことになるだろう。”と。

最終的に西太后は、左宗棠の意見に同意し、内陸の要である、東トルキスタンを侵略する事に決まりました。

1876年、ドイツからの軍事支援を受けた左宗棠率いる清国軍が侵略して、翌年の1877年、東トルキスタンは、再び清国の支配下になりました。

1912年、辛亥革命により清国が滅び、新たに中華民国から軍隊を受け入れました。

そして、新疆省という行政区分が置かれました。

1931年、クルムにおいて、ホージャ・ニヤーズ・ハジをリーダーとする武装蜂起が起きました。

新疆省主席であった金樹仁による腐敗と圧政に、民衆の不満が溜まっていたためです。

1933年、ホータンにおいて、ムハンマド・アミーン・ブグラを指導者とする武装蜂起が起きて、他の各地でも決起した人達と合流。

1933年11月12日、東トルキスタン・イスラム共和国が建国されました。

この時、国旗が制定されました。

しかし、その後、ロシアに支援された盛世才と、回族の軍閥の馬仲英にやぶれてしまい、わずか半年で国が消滅してしまいました。

再び、中華民国の支配下に置かれました。

ムハンマド・アミーン・ブグラは、アフガニスタン首都カーブルへと亡命。

アミーンは、亡命先のカーブルに滞在中、日本に対して独立活動の支持を求め、日本から直接新疆へ出兵し満州国のような傀儡政権を作ることを提案しました。

1835年、アミーンは、日本の大使に「日本の支援のもと、資金と装備を提供してもらい、『東トルキスタン共和国』を建国するための詳細な計画」を提案した。

アミーンは、この中央アジア版 満州国の未来の指導者として、マフムード・シジャン (マフムート・ムヒティen:Mahmut Muhiti)を推薦しました。

しかし、1937年4月2日、マフムードが命の危機を感じてカシュガルからインドへ脱出してしまったため、アミーンの計画は挫折してしまいました。


それでも諦めずに、1944年11月12日、アブトキリム・アバソフを指導者とする民族解放組織が決起して独立を宣言。

び、東トルキスタン共和国を建国。

1945年8月、ロシアの全面協力により軍隊が組織されました。

東トルキスタン共和国は、ウイグル人の他、カザフ、キルギス、ウズベク、モンゴル、ロシア人など、漢民族以外の全ての民族が協力して国づくりしていきました。

東トルキスタン共和国の首席になったアリハーン・トラAli Khan Türe)氏は、次のような声明を出しました。

「いわゆる新疆が中国の一部であるというのは、真っ赤な嘘である。

歴史を偽造し、人間を騙そうとする人に思い出してほしい事実は、

中国の官吏及び帝王たちは、自分の命と土地を保全するために、3500キロメートルの万里の長城をつくり、鷹にあった兎のようにそのなかに引き籠っていたことである。

中国政府の歴史家はこの真実を隠したが、全世界の歴史家はそれを知っている。

襟を持って太陽の光を隠すことができるはずはないであろう。

これから中国政府は東トルキスタン領土に対する野望を放棄して、東トルキスタンの土地を侵略したり、東トルキスタンの民衆を圧迫したりすることをやめてほしい」と。



1945年10月から、国民党との内戦(国共内戦)をしていた中共は、ほぼ中国を統一。

中共は、1949年9月21日に北京で行われる、第1回中国人民政治協商会議に、東トルキスタンの指導者達17名を招待。

17名の指導者達は、モスクワ経由で同じ飛行機で、北京に向かいました。

しかし、途中で17名のウイグル人指導者達を乗せた飛行機が、謎の墜落。

遺体はもちろんのこと、墜落したとされる飛行機の残骸が、全く行方不明になっています。

1949年10月1日、中共が、中華人民共和国を建国。


1949年10月13日、17名の指導者が消えた東トルキスタンに人民解放軍が侵略。

指導者の居なくなったウイグル人達は、ただ呆然と立ちすくみ抵抗することもなく、漢民族の中共軍のなすがままに侵略を許してしまいました。


独立国家だった東トルキスタンは、いつのまにか気がついたら、中国の植民地となっていた、と当時を知るウイグル人は言いました。

1955年、中共により新疆ウイグル自治区が設置。

その後、学校でのウイグル語の使用を禁止され、抵抗したら、反革命分子として監獄に入れられて、厳しい拷問を受けた末に虐殺されていきました。

東トルキスタンでは、宗教の自由が許されていません。

中共は、イスラム教の教会であるモスクを片っ端から破壊していきました。

また、ウイグル民族の歴史を学ぶ事も許されていません。

言葉を失い、民族の歴史を失い、宗教も剥奪されてしまったウイグル人達。

これは差別などというレベルではなく、民族の殲滅を目的としているとしか思えない政策です。

1949年当時は、東トルキスタンに住んでいた漢民族は、わずか4%でしたが、植民地にした後、大量に漢民族が移住してきました。

今では、東トルキスタンに住む漢民族は、2億人に達しています。

少数民族の漢民族への同化政策として、ウイグル人同士の結婚を制限して、純血のウイグル民族の血を受け継ぐ子供たちを減らしていきました。

そして、ウイグル人と漢民族の混血児を増やし、漢民族の血を受け継ぐ子供たちを増やしていきました。

東トルキスタンでは、選挙が毎年行われていましたが、その度に、反革命分子とみなされたウイグル人達が、多数捕まり、投獄されて、厳しい拷問の末に虐殺されていきました。

独立の思想を持っていると見なされたウイグル人達を、中共は、テロリストとして世界中に宣伝(プロバガンダ)しています。

そして、治安維持のためにテロリスト達を逮捕しているのである、といって、中共は、ウイグル人への弾圧を正当化しています。

1990年4月5日、アクト県バレン郷にて、イスラム教徒達、約1万人が集まって、東トルキスタン共和国の独立を宣言。

この動きに対して、中共は、“反革命武装暴乱”とみなして、空軍に出動命令をだしました。


指導者達を始め多くのウイグル人達が、虐殺されました。

1995年、ホータンにおいて、イスラム共和国の独立運動が起きました。

この時も、中共は武力で鎮圧して多くのウイグル人達を虐殺しました。

1997年2月5日、グルジャ市で大規模なウイグル人虐殺事件が起きました。(グルジャ大虐殺 Ghulja Massacre)

ウイグル人達が集まり、武器を持たない非暴力、無抵抗なデモを行いました。

彼らは、平等な扱い、宗教の自由、言論の自由を求めました。 

また、彼らが今まで毎日のように経験してきた、ウイグル人に対する人種差別をやめるように要求しました。

しかし、無防備なデモ隊に対して、人民武装警察と機動隊は発砲。

 死亡者数はさまざまですが、目撃者によると、30人ものウイグル人がその場で殺され、100人以上が負傷しました。

次に、中共は、この無抵抗で丸腰なウイグル人デモ隊に対して、軍隊を出動させて次々と逮捕。

逮捕されたウイグル人達約4000名は、トラックに乗せられて刑務所に連行されました。

そこで、氷点下20度の大きな部屋の中に、ウイグル人男女150人を全裸にして押し込み、冷たい水をかけました。

何の防寒着も暖房もなく、全裸で氷点下20度の部屋に閉じ込められ、さらに冷たい水をかけられたウイグル人達は、しばらくして凍死。

凍った遺体をトラックで運び出して、破棄しました。

他のウイグル人達は行方不明とされてます。


200人以上のウイグル人が平和デモに参加したために処刑されました。(Amnesty report issued in April 1999)

 ウイグル人は、グルジャの平和デモに参加したという理由で、まだ刑務所にいます。 

非暴力な抗議に対して、あまりにも残忍な弾圧をした責任者は罪を問われていません。

また、ウイグル人への迫害は衰退することはありません。

これは、国際的な「対テロ戦争」である、と中共は宣伝(プロバガンダ)してます。

 平和的なデモ活動に参加したために拘留され、投獄されたウイグル人を釈放して、逮捕と拘留した報告書の公開をしてほしいです。


ロプノール





あなたは、世界で唯一の核兵器による被爆国は日本である、と思ってますか?

中共は、東トルキスタン(新疆ウイグル自治区)の楼蘭付近のロプノールで、1964年から1996年までの間に46回、総出力20メガトンの核実験を行いました。

そして、その周辺に住むウイグル人達が、中共が核実験を行っていた長い間にわたり、被曝してしまったのです。

核実験だけなら、米国、ソ連、フランス、北朝鮮などもやってます。

また、その規模も米国やソ連の方が、はるかに大きな核実験をしました。

しかし、問題なのは核実験を行った場所です。

米国は、陸地から離れた人が住んでいない太平洋上(ビキニ環礁、エニウェトック環礁)で行いました。

1954年、ビキニ環礁で行った水爆実験で「死の灰」が第五福竜丸に降り、その乗組員23名が被曝。

乗組員一人がその年に亡くなりました。

この事件以外は、一般住民の被曝は基本的にありませんでした。

旧ソ連では、北極海(ノバヤゼムリャ島)で核実験を行ってきました。

米ソ共に、核実験を実施する場合、その周辺地域を封鎖して、民間人が出入りするのを禁じました。

一方、中国はどのように核実験を行ったのでしょうか?

東トルキスタンのロプノールにある中国の核実験場は、現地住民のウイグル人に秘密で実行していました。

したがって、事前にウイグル人を安全な場所に避難させたり、立ち入り禁止にしたりという事は、一切しませんでした。

ウイグル協会会長は指摘しました。

「人の命の尊さを無視して、実験台のモルモットのように使っている」と。

1964 年10月16日、20キロトンの地表爆発型の核実験を、東トルキスタンのロプノールにて、中共は初めて行いました。

この頃、日本では、東京でオリンピックが開催されていて、国中がお祭り騒ぎ。

中共は、あえてこの時期に合わせて、核実験を行っていたのです。

1972年9月、日中国交回復に伴い、日本政府は、ODAや円借款と言う名目で、中共に莫大なお金を貢いでいきました。

1976 年11月17日、日本からの潤沢な資金により、中共は、4メガトンの過去最大の地表核爆発実験を行いました。

この核実験は、旧ソ連を上回る10倍の威力でした。

実験により大量に落下した「核の砂」と放射汚染は周辺住民計19万人の命を一瞬にして奪っていきました。

2008 年、札幌医科大学の高田教授が、カザフスタンのデータとNEDIPS、RAPSの計算システムにより分析しました。

その分析結果は、健康被害者は129万人にのぼり、そのうち、死産や奇形などの胎児への影響が3万5000人以上、白血病が3700人以上、甲状腺がんは1万3000人以上に達すると発表。

放射線汚染の影響を受けた面積は、実に東京都の136倍、中共の内部極秘資料によると、75万人の死者が出たとされています。

被曝した健康被害の数ではなく、死者の数が75万人です。

実験場から1000キロ離れたカザフスタン、キルギスタンでも、人体に影響のある放射線量であると言う。

内陸で、このようなメガトン級地表核実験を行ったのは、中国だけです。

1964 年から1996 年までの期間、延べ46回、総爆発出力22メガトン(広島原爆の約1370 発分)の核実験を、東トルキスタンにて、中共は行いました。


 同じ内陸のセミパラチンスク実験場と、東トルキスタンのロプノール実験場を比較します。

実験回数は、ロプノールの46回、セミパラチンスクが456回、と10倍。

しかし、爆発威力の総合計は、ロプノールが22Mt、セミパラチンスクが18Mt。

一回当たりでは、中国の方が10倍以上大きな核爆発を行なってました。

大気圏内(空中、地表)の核爆発威力の割合は、ロプノールが90%以上に対して、セミパラチンスクでは40%以下でした。

大気圏内(空中、地表)での核爆発威力の総合計は、セミパラチンスク(ソ連)が7Mtなのに対して、ロプノール(中国)は20Mtを超えています。

またセミパラチンスク(ソ連)では、メガトン級の地表核実験は実施されていません。


このような核実験についてのニュースを日本を代表するNHKは、どのように報道してきたのでしょうか?

ソ連邦のセミパラチンスクやフランス、米国などが行う核実験については、大きく報道してきましたが、中共や北朝鮮が行う核実験については、全く報道してきませんでした。

なぜでしょうか?

 それどころか、1988年からシルクロードのロマンを煽る観光番組を長期間にわたり放送。

東トルキスタンのロプノール周辺は、シルクロードの中継地点でした。

このNHKによる、大々的なシルクロード観光キャンペーンにより、たくさんの日本人観光客が、東トルキスタンのロプノール周辺の村に訪れました。

すぐ近くで、中共による核実験が、何度も行われている事も知らされずにです。

もしかしたら、シルクロード観光客の中で、被曝して健康被害にあわれた人もいるかもしれません。

この件について、高田純氏はNHKに質問状を送りました。

核実験による放射能被害の危険を知っていたのではないか?、と。

NHKの回答は次の通りでした。

”この番組の撮影を行なった場所が、核実験により放射能に汚染された地域であるという認識は、放送当時も現在も持っておりません”

しかし、この時の取材班は、楼蘭での撮影許可が中国からなかなかおりなかった。

近くに中国軍の軍事基地があり、そこで核実験が行われていると言われているので、外国人は入る事が許されていないからだ。

というように、NHK出版が発行したシルクロード関連本に、取材当時の経緯を記載してました。

NHK自ら核実験の危険性を知りながら、シルクロード観光番組の中では、一切触れていなかったのです。

これでは、中共の管理統制下にあるNHK、と見なされても言い訳出来ないでしょう。

また、各国の核実験場は安全地帯が設けられているので、熱線、爆風、初期放射線が直接被害をもたらすことはありません。

しかし、中国の核実験場には、そのような安全地帯は設けられていません。

なぜでしょうか?

中共は、”人の命の尊さを無視して、ウイグル人を実験台のモルモットのように使っている”、という理由もあるでしょうし、ウイグル民族殲滅を目的にしているのでしょう。


また、広島長崎の原爆ような空中爆発形は、放射性物質の量が少なく粒子が小さいため、その多くは成層圏まで上昇して希薄してしまうので、爆風の割には放射能による被害は少ないです。


一方、中共が行っていた地表爆発は、地表の土壌など粒子の大きなものを大量に巻上げ、風下地域に大量の放射性物質を降らせるために、放射能による被害が大きくなります。

1963年、部分的核実験禁止条約(大気圏内、宇宙空間及び水中における核兵器実験を禁止する条約)を、米ソ英が締結。

この条約により、米ソは、洋上など大気圏内での核実験をやめて、地下での核実験に移行していきました。

しかし、中国は、この条約に批准することなく、危険である事を知りながら、大気圏内の核実験を、その後も続けていきました。

なぜでしょうか?

中共は、”人の命の尊さを無視して、ウイグル人を実験台のモルモットのように使っている”、という理由もあるでしょうし、ウイグル民族殲滅を目的にしているのでしょう。

 

その後、中共は、1982年から地下核実験に移行したといわれています。

しかし、1993年、クムルに住む羊飼いの老人が、診察をしたウイグル人医師のアニワル・トフティ氏に、次のように話しました。

“自分は神を見たことがある。

それは太陽の100倍もの明るさだった。

そして地面が大きく揺れて、凄まじい嵐になった”と

その老人は、半身ケロイドになり、軍人に連れて行かれて検査をした。そして、中共は彼の百頭以上の羊を全て買い取りました。

老人は、それから2年後になくなりました。

老人が目撃した核実験は、地下核実験ではなく、あえて地下の浅いところで核爆発させて表土を吹き飛ばす、クレーター型爆発ではないかと考えられています。

なぜ、地下深くではなく、地表の浅い場所で地下核実験を行ったのでしょうか?

中共は、”人の命の尊さを無視して、ウイグル人を実験台のモルモットのように使っている”、という理由もあるでしょうし、ウイグル民族殲滅を目的にしているのでしょう

1998年、ウイグル人医師のアニワル・トフティ氏は、極秘に東トルキスタンの村々を訪問し、被曝によると思われる人々の健康調査を行いました。

地元の医師や一般の人々は、村のすぐ近くで行われていた核実験の影響で、奇形児などが生まれてしまったと、感づいています。

しかし、その事を公に口にする事はできません。

特に外国人に対しては厳禁です。

なぜなら、常に中共の公安が監視しているので、見つかったら監獄行きで、厳しい拷問が待っているからです。

そのような危険な状況の中、アニワル氏は、公安から尾行されながらも、観光客を装って、隠しカメラを持って、被曝の調査をしました。

村には、リンパ腫や白血病の子供たちがたくさんいました。

放射能による被曝が原因で発症するガンの中で多いのは、リンパ腫や白血病。

これは、核実験場であるロプノールから西に向けて核生成物質が大量に降ったためと考えられます。

また、口唇が割けてしまう奇形児や、大脳が未発達の赤ちゃんが多数生まれました。

治療にくる子供の9割が、口腔が割ける奇形児である、と言う小児科医もいました。

他にも、足が奇形して自力で歩く事が出来ずに、寝たきりだったり座ったままの子供たちも、いました。

常に痛みがあり、死にたい、と母親に訴える子供もいました。

皆、先天性の病気であり、妊娠中の母親の被曝による被害と思われます。

1970年代からウイグル人のガンの発生率は急増し、1990年代以降では、中国全国のガンの発病率に比べ、ウイグル人は30%以上高い数値を示している。

中国政府は核実験の被害を公表せず、現地調査も許可しないため、40年以上に渡って被曝者たちは放置されてきています。

ウイグル人達は、まともな治療も受けることができず、どこにも避難する事ができません。

また、ウイグル人達は、放射能に汚染された土地で農作物をつくり、その農作物を食べ、汚染された水を飲み、汚染された空気を吸って生きていかなくてはならないのです。



参考図書

“中国の核実験” 高田純著

参考動画

“Death on the Silk Road” BBC

 

1895年1月15日、アイヌの人達が選んだ代表者が上京して衆議院に出頭して、土人保護法案が成立するように請願しました。

埼玉県出身の加藤政之助衆議院議員が、北海道庁長官・北垣国道氏からアイヌ保護法案の作成を依頼されました。

加藤政之助議員は、ドーズ法を参考にして、北海道旧土人保護法を提出。









今、アイヌの人達は、日本からの独立自治を勝ち取ろうと様々な活動をしています。

なぜ、今頃になって独立しようと躍起になっているのでしょうか?

実は、アイヌの独立は、戦後間も無い頃に実現していたかもしれませんでした。

1947年、占領下の日本で、北海道と本州北部を担当していた、第11空挺師団の司令官であるジョセフ・スイング将軍 (Joseph May Swing)が、アイヌの長老たちを呼び出しました。

呼び出されたアイヌの代表は、椎久堅市氏、小川佐助氏、森久吉氏、文字常太氏の四名でした。

この時のヒアリングで、アイヌの長老達は、アイヌは、他の日本人とは異なる民族を構成しない、と説明しました。

アイヌの長老達は、日本人と異なる民族として独立することには、興味がありませんでした。

 戦後のアイヌ協会の活動は、アイヌ民族の主体性を確立することではなく、日本内地へのより深い同化を達成しようと心掛けていきました。

以下は、スウィング少将とアイヌの長老達との米軍聴聞会での会話です。

“あなた方は、日本人ですか? それとも特別なアイヌ人ですか?”

椎久堅市氏

“我々は日本人です。特殊な人種ではありません。”

文字常太氏

“今はアイヌだといってのたまわってますが、祖先は日本人であったのではないかと思います。わしも日本人です。”

小川佐助氏、森久吉氏も同じ意見でした。

またスウィング少将は、次のように言いました。

“あなた方が独立したいなら、今です。今こそアイヌ人が独立するときです。”と。

なんと、占領軍は、アイヌの人達に日本から独立するように勧めていたのです。

しかし、長老達は

“私達は日本から独立することなど考えてません。日本人として祖国の再建に尽くします”、と。

スウィング少将は、それを聞いて忠告しました。

“お前たち、今、日本から独立しないというのなら、今後、シャモと喧嘩するんじゃないぞ。

絶対に、シャモと喧嘩するなよ。

それだけを忠告しておく。”と。

(“シャモ”とは、アイヌの人達が、和人のことを指して言う呼び名。)

和人と結婚したり、日本の学校教育を受けて育っていたので、自分は日本人である、というアイデンティティの方が強かったのでしょう。

同じ日本人なら、内地(本州、四国、九州を指していう呼び名)から独立する必要などなかったのです。

このアイヌの長老達と、占領軍の北海道担当指揮官との会談から、約70年。

今、アイヌの人達は、日本内地からの独立自治を勝ち取ろうと、国会で様々な活動をしています。

かつて、アイヌの独立を勧められたにもかかわらず、その誘いを拒否したアイヌの長老達。

その独立を拒否した長老達は、占領軍から忠告されました。

“今後、絶対に、シャモと喧嘩するなよ”

その忠告を今のアイヌの人達は、忘れてしまったのでしょう。

いや、もしかしたら知らないのかもしれません。

参考図書

北海道ウタリ協会『アイヌ史 資料編3』

アイヌは日本民族と異なる、北海道に住み着いていた先住民族である。

その先住民族であるアイヌを、差別し虐殺して制圧していった日本人は、謝罪と賠償金を支払わなければならない、

と主張される方々がいます。


本当にアイヌは先住民族なのでしょうか?


2012年に東大が核DNA解析をしました。

その結果は、縄文人の遺伝子は、本土日本人、琉球民族、アイヌ民族に受け継がれているというものでした。

2017年には縄文人骨の核DNA解析も行われました。また、2019年には典型的な渡来系の形質を持つ渡来系弥生人骨の核DNA解析も行われました。

その結果は、渡来系弥生人も日本人と変わらない割合で、縄文人の遺伝子を持っているという結果となりました。

元々、朝鮮半島南部にまで縄文人は住み着いていたのですが、その縄文人の遺伝子を受け継ぐ集団が、渡来系弥生人となったのでしょう。

では、アイヌの核DNA解析はどうだったのでしょうか?

36体の現代アイヌのDNAのうち、日本人と全く同じ個体が3体、殆どオホーツク人の同じ個体が5体、それ以外は縄文人とオホーツク人の中間でした。

遺伝子解析では、日本人と全く変わらないアイヌも居るし、日本民族のベースとなる縄文人の遺伝子を持つアイヌもいました。

このことから、アイヌを日本民族と異なる先住民族である、と主張するのはかなり難しいです。

また、アイヌと和人の関係は、先住民族と侵略者という分離構造で説明できません。


なぜなら、縄文人が北海道を含む日本列島全域に分布していて、その遺伝子は絶えることなく現代まで残っていますので、

”どの時代からが先住民族であるのか?”、という定義ができないからです。

では、倭人とアイヌとの交流はいつの時代からあったのでしょうか?

蝦夷出征

斉明天皇4年(658年)、越国の守の阿倍比羅夫(あべのひらふ)が、飛鳥朝廷からの命令により、水軍180隻を率いて渡嶋(北海道)の蝦夷に向かいました。

なぜ、朝廷は、蝦夷に軍を率いて向かわせたのでしょうか?

当時の蝦夷は、粛慎(あしはせ)からの侵略に苦められていたので、その蝦夷を助ける為に援軍として向かったのです。

粛慎(あしはせ)とは、満州東部に住むツングース系民族とされてます。


その翌年と翌々年の2回、合計三回にわたり、渡嶋(北海道)に渡り、粛慎(あしはせ)と戦いました。

この時期に、朝鮮半島でも大きな戦いがありました。

新羅と唐の連合軍が、百済に侵略して占領。

飛鳥朝廷は、越国の守の阿倍比羅夫(あべのひらふ)と上毛野君稚子 (かみつけのきみわかこ) らとともに,百済を助ける為に朝鮮半島に向かうよう命令しました。

天智2年(663年)、朝鮮半島西海岸にある、白村江にて、倭軍2万 7000人,百済連合軍と唐,新羅連合軍が軍事衝突。

しかし、倭軍,百済連合軍が敗退。(白村江の戦い)

西は朝鮮半島の百済、北は渡嶋(北海道)の蝦夷に同時期に援軍を出して、粛慎(あしはせ)や新羅、唐からの国防をしていました。

シャクシャインの乱

かつて、倭人達は、蝦夷地の全域にわたり住み着いていました。

しかし、東は牟川より、西は与一に至るまで、アイヌは倭人を攻撃して、上ノ国まで追い詰めてしまいました。(松前家記)

東の牟川とは苫小牧の鵡川ことを指し、西の与一とは、小樽の余市のことを指していますので、倭人は、北海道のかなり広範囲で暮らしていたことがわかります。

また、上ノ国とは、北海道南西部にある上ノ国町の事です。

その後も、倭人とアイヌとの争いは何度もありました。

寛文9年(1668年)、シャクシャイン(シブチャリ(現新ひだか町,旧静内町)を拠点とするシブチャリ族の首長)が、オニビシ(ハエ(現日高町,旧門別町)を拠点とするハエクル族の首長)を攻撃。

なぜ、同じアイヌ同士で、戦いをしなければならなかったのでしょうか?

シブチャリ族とハエクル族の間では、長い間、日高沿岸部の漁猟圏をめぐる争いが続いていたからです。

オニビシは、友好関係にあった松前藩に援軍を要請。

しかし、オニビシからの使者ウタフは、松前藩に拒否されてしまいました。

さらに、帰りの途中に疱瘡にかかり病死してしまいました。

この事を、シャクシャインは、”松前藩による毒殺である、倭人に助けを求めると殺されるぞ!”、というような宣伝をしていきました。

この宣伝効果により、蝦夷に住むアイヌ達が部族を超えて、倭人と対決するために立ち上がっていきました。

寛文9年(1668年)4月、シャクシャインが、首長オニビシを虐殺。

寛文10年(1669年)6月,東は白糠(しらぬか),西は増毛(ましけ)(ただし石狩アイヌは不参加)に至る東西蝦夷地のアイヌが一斉に蜂起。

和人の鷹待(たかまち)(鷹匠)や商船の船頭など日本人390人余(『津軽一統志(つがるいっとうし)』)が殺された。

幕府は、松前氏の一族松前八左衛門泰広(旗本)に出陣を命じ,津軽藩にも出兵を命令。

急きょ軍隊を編成して鎮圧にのりだした松前藩ですが,当初は苦戦しつつも,アイヌの勢いを弱めていきました。

アイヌは、松前(まつまえ)藩へ攻撃をしたが、国縫(くんぬい)(長万部(おしゃまんべ)町)で反撃に会い失敗。

寛文9年(1669年)10月、シャクシャイン死亡。

その後も各地でアイヌの降伏が続いて,寛文11年(1671年)に最終的に鎮圧。

この戦いをきっかけとして、松前藩による蝦夷の支配が一層強くなり、一時は、南西部にある上ノ国町まで追い詰められていた、倭人たちの生活範囲も広がっていきました。

このシャクシャインの乱は、倭人から抑圧されていたアイヌが一斉に蜂起した乱、というように言われてます。

しかし、元々は、漁業権をめぐる部族間の争いから生じたものであります。

それを、”助けを求めたアイヌの使者を松前藩が毒殺した。倭人などに助けを求めると殺されるぞ!”、とシャクシャインが宣伝していった為に、アイヌ達が一斉に蜂起したのです。

江戸の末期、松前藩が管轄していた蝦夷に、一人の僧侶、松浦武四郎が訪れました。

当時、ロシアが南下政策で樺太や千島列島などを占領していったので、次に狙いを定めていた蝦夷の防衛について、彼は危機意識を持っていました。

蝦夷に滞在中、見聞きした様々な事を進言しようと思い、水戸藩の藩主、徳川斉昭に手紙を送りました。

なぜ、幕府ではなく、水戸藩の藩主に手紙を送ったのでしょうか?

徳川斉昭は、攘夷派でしたが、蝦夷にロシアが攻めてくる事に危機意識を持っていたからです。

松浦武四郎は、アイヌの実状や松前藩に都合の悪い不正や汚職なども暴露していったので


その情報量や内容に幕府も注目して、安政2(1855)年、松浦武四郎を蝦夷山川地理取調御用御雇として、調査を続けさせました。

また彼は、アイヌの人達からも愛されていました。

やがて、明治になると、新政府は松浦武四郎に引き続き、蝦夷地開拓御用掛として、蝦夷について調査する役職を与えました。

松浦武四郎は、新政府から頼まれて、蝦夷の地に代わる新しい名前を上申しました。

アイヌの人達は、蝦夷の地を”カイ”と呼び、その”カイ”に住む自分達の事をお互いに”カイノウ”と呼んでいました。

その音の響きから、”北の大地に住む人の国”という意味で、“北加伊道”という名前を上申しました。

政府は、この“北加伊道”の”加伊”を海に直して、”北海道”となりました。

北海道には、沢山の開拓者が入殖してきました。

それに伴い、アイヌの人達を日本内地と同様に扱う政策をしていきました。(同化政策)。

ほとんどのアイヌの人達は読み書きが出来なかったので、アイヌの人達のために、学校を作って教育していきました。

それまでのアイヌの人達は、商売のために必要以上に動物を狩りしたり、魚を捕獲したりしてましたので、ラッコなど鳥獣類が多数絶滅してしまいました。

そのような経験を踏まえて、明治政府や北海道開拓使は、アイヌの人達に、今までのように自由に動物や魚を乱獲できないように規制しました。

また、アイヌの人達の多くは農民でしたが、その農地はというと、荒れ放題であったり、毎年の自然災害に対してもとても弱い貧弱な農業をしてました。

そのような農業を改善しようと、明治政府や北海道開拓使は、近代的な農地開発を行っていき、次第に自然災害にも対応できるような、また、冬の寒さにも耐えるような、農地が作られていきました。

また、アイヌの女性は、”人”では無く”物”として認識されていたので、人身売買も行われていました。

そのような女性差別を撤廃しようと、明治政府や北海道開拓使は、様々な手段を使って、女性の人身売買の習慣を無くしていきました。

明治32年(1899)、北海道旧土人保護法が施行されました。

その第一条には、アイヌの人で農業をやりたい人は、一戸につき15,000坪まで無償で交付します、と規定されていました。

第一条に規定されているということは、それだけ重要事項として扱っていたということになります。

なぜでしょうか?

アイヌの人達は、その多くが経済的に貧しい人でしたので、生活の基盤を持たせてあげたいという思いが、明治政府にあったのでしょう。

北海道旧土人保護法

第一条、 土地の無償交付

北海道旧土人ニシテ農業ニ従事スル者又ハ従事セムト欲スル者ニハー戸ニ付土地一万五千坪以内ヲ限リ無償下付スルコトヲ得

このように、倭人とアイヌとの交流は、今から1200年前に書かれた日本書記に、すでに記載されてます。

日本書記は、現存する書物の中で古事記とならぶ最古のものとされてますので、恐らく、それより以前からアイヌとの交流はあったでしょう。

北米に住んでいた先住民族であるネイティブアメリカン(インディアン)の土地に、ヨーロッパから移住してきた白人達。

その白人達は、ネイティブアメリカン(インディアン)達を、片っ端から虐殺していきました。

この場合、先住民族と征服者との二極構造です。

白人とネイティブアメリカン(インディアン)では、見た目もはっきり異なりますし、遺伝子的にも共通点はありません。

その一方、アイヌと倭人は、1000年以上もの古くから交流をもち、遺伝子レベルでも共通点があります。

アイヌは日本民族と異なる、北海道に住み着いていた先住民族である。

その先住民族であるアイヌを、差別し虐殺して制圧していった日本人は、謝罪と賠償金を支払わなければならない、

というような主張は、全く根拠もないことなのです。


UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION

Psychological Warfare Team

Attached to U.S. Army Forces India-Burma Theater

 

 

This official US record made by direct interrogation of comfort women
captured on the battlefield is one of the most important source materials
related to documenting the real comfort women.
In 1944, the United States Army captured some Comfort Women in
Burma and were interrogated by the U.S. Army. The Army filed “Report
Number 49” and it stated that the ladies were well-paid prostitutes.
It clearly defined a "comfort girl" as nothing more than a prostitute or
"professional camp follower." (Preface) It also stated that their average month net
pay was 750 Yen, which was 75 times higher than that of a private first class
soldier’s pay of 10 Yen. (Pay and Living Condition)
These show that the comfort women were merely very highly paid prostitutes,
and having absolutely nothing to do with “sexual slavery.”

 

PREFACE;
This report is based on the information obtained from the interrogation of
twenty Korean "comfort girls" and two Japanese civilians captured around the tenth of August,
1944 in the mopping up operations after the fall of Myitkyina in Burma.
The report shows how the Japanese recruited these Korean "comfort girls", the
conditions under which they lived and worked, their relations with and reaction to the Japanese
soldier, and their understanding of the military situation.
A "comfort girl" is nothing more than a prostitute or "professional camp
follower" attached to the Japanese Army for the benefit of the soldiers. The word "comfort girl"
is peculiar to the Japanese. Other reports show the "comfort girls" have been found wherever
it was necessary for the Japanese Army to fight. This report however deals only with the Korean
"comfort girls" recruited by the Japanese and attached to their Army in Burma. The Japanese are
reported to have shipped some 703 of these girls to Burma in 1942.


RECRUITING;
Early in May of 1942 Japanese agents arrived in Korea for the purpose of
enlisting Korean girls for "comfort service" in newly conquered Japanese territories in Southeast
Asia. The nature of this "service" was not specified but it was assumed to be work connected
with visiting the wounded in hospitals, rolling bandages, and generally making the soldiers
happy. The inducement used by these agents was plenty of money, an opportunity to pay off
the family debts, easy work, and the prospect of a new life in a new land, Singapore. On the
basis of these false representations many girls enlisted for overseas duty and were rewarded
with an advance of a few hundred yen.
The majority of the girls were ignorant and uneducated, although a few had
been connected with "oldest profession on earth" before. The contract they signed bound them
to Army regulations and to work for the "house master" for a period of from six months to a
year depending on the family debt for which they were advanced.
Approximately 800 of these girls were recruited in this manner and they
landed with their Japanese "house master" at Rangoon around August 20th, 1942. They came
in groups of from eight to twenty-two. From here they were distributed to various parts of
Burma, usually to fair sized towns near Japanese Army camps.
Eventually four of these units reached the Myitkyina vicinity. They were, Kyoei, Kinsui,
Bakushinro, and Momoya. The Kyoei house was called the "Maruyama Club", but was
changed when the girls reached Myitkyina as Col. Maruyama, commander of the garrison at
Myitkyina, objected to the similarity to his name.


PERSONALITY;
The interrogations show the average Korean "comfort girl" to be about
twenty five years old, uneducated, childish, whimsical and selfish. She is not pretty either by
Japanese of Caucasian standards. She is inclined to be egotistical and likes to talk about herself.
Her attitude in front of strangers is quiet and demure, but she "knows the wiles of a woman."
She claims to dislike her "profession" and would rather not talk either about it or her family.
Because of the kind treatment she received as a prisoner from American soldiers at Myitkyina
and Ledo, she feels that they are more emotional than Japanese soldiers. She is afraid of
Chinese and Indian troops.


LIVING AND WORKING CONDITIONS;
In Myitkyina the girls were usually quartered in a large two story house
(usually a school building) with a separate room for each girl. There each girl lived, slept, and
transacted business. In Myitkyina their food was prepared by and purchased from the "house
master" as they received no regular ration from the Japanese Army. They lived in near-luxury
in Burma in comparison to other places. This was especially true of their second year in Burma.
They lived well because their food and material was not heavily rationed and they had plenty of
money with which to purchase desired articles. They were able to buy cloth, shoes, cigarettes,
and cosmetics to supplement the many gifts given to them by soldiers who had received
"comfort bags" from home.
While in Burma they amused themselves by participating in sports events
with both officers and men; and attended picnics, entertainments, and social dinners. They had
a phono-graph; and in the towns they were allowed to go shopping.


PRICE SYSTEM;
The conditions under which they transacted business were regulated by the
Army, and in congested areas regulations were strictly enforced. The Army found it necessary
in congested areas to install a system of prices, priorities, and schedules for the various units
operating in a particular areas. According to interrogations the average system was as follows;
1. Soldiers 10 AM to 5 PM 1.50 yen 20 to 30 minutes
2. NCOs 5 PM to 9 PM 3.00 yen 30 to 40 minutes
3. Officers 9 PM to 12 PM 5.00 yen 30 to 40 minutes
These were average prices in Central Burma. Officers were allowed to stay overnight for
twenty yen. In Myitkyina Col. Maruyama slashed the prices to almost one-half of the average
price.


SCHEDULES ;
The soldiers often complained about congestion in the houses. On many
occasions they were not served and had to leave as the army was very strict about overstaying.
In order to overcome this problem the Army set aside certain days for certain units. Usually two
men from the unit for the day were stationed at the house to identify soldiers. A roving MP was
also on hand to keep order. Following is the schedule used by the "Kyoei" house for the various

units of the 18th Division while at Maymyo;
Sunday -----------18th Div. Hdqs. Staff
Monday ----------Cavalry
Tuesday ----------Engineers
Wednesday ----- Day off and weekly physical exam.
Thursday --------Medics
Friday ------------Mountain artillery
Saturday ---------Transport
Officers were allowed to come seven nights a week. The girls complained
that even with the schedule congestion was so great that they could not care for all guests, thus
causing ill feeling among many of the soldiers.
Soldiers would come to the house, pay the price and get tickets of cardboard
about two inches square with the price on the left side and the name of the house on the other
side. Each soldier's identity or rank was then established after which he "took his turn in line".
The girls were allowed the prerogative of refusing a customer. This was often done if the
person were too drunk.


PAY AND LIVING CONDITIONS;
The "house master" received fifty to sixty per cent of the girls' gross earnings
depending on how much of a debt each girl had incurred when she signed her contract. This
meant that in an average month a girl would gross about fifteen hundred yen. She turned over
seven hundred and fifty to the "master". Many "masters" made life very difficult for the girls
by charging them high prices for food and other articles.
In the latter part of 1943 the Army issued orders that certain girls who had
paid their debt could return home. Some of the girls were thus allowed to return to Korea.
The interrogations further show that the health of these girls was good. They
were well supplied with all types of contraceptives, and often soldiers would bring their own
which had been supplied by the army. They were well trained in looking after both themselves
and customers in the matter of hygiene. A regular Japanese Army doctor visited the houses
once a week and any girl found diseased was given treatment, secluded, and eventually sent to a
hospital. This same procedure was carried on within the ranks of the Army itself, but it is
interesting to note that a soldier did not lose pay during the period he was confined.


REACTIONS TO JAPANESE SOLDIERS;
In their relations with the Japanese officers and men only two names of any
consequence came out of interrogations. They were those of Col. Maruyama, commander of the
garrison at Myitkyina and Maj. Gen. Mizukami, who brought in reinforcements. The two were
exact opposites. The former was hard, selfish and repulsive with no consideration for his men;
the latter a good, kind man and a fine soldier, with the utmost consideration for those who
worked under him. The Colonel was a constant habitue of the houses while the General was
never known to have visited them. With the fall of Myitkyina, Col. Maruyama supposedly
deserted while Gen. Mizukami committed suicide because he could not evacuate the men.


SOLDIERS’ REACTIONS;
The average Japanese soldier is embarrassed about being seen in a "comfort
house" according to one of the girls who said, "when the place is packed he is apt to be ashamed
if he has to wait in line for his turn". However there were numerous instances of proposals of
marriage and in certain cases marriages actually took place.
All the girls agreed that the worst officers and men who came to see them
were those who were drunk and leaving for the front the following day. But all likewise
agreed that even though very drunk the Japanese soldier never discussed military matters or
secrets with them. Though the girls might start the conversation about some military matter the
officer or enlisted man would not talk, but would in fact "scold us for discussing such un-lady
like subjects. Even Col. Maruyama when drunk would never discuss such matters."
The soldiers would often express how much they enjoyed receiving magazines,
letters and newspapers from home. They also mentioned the receipt of "comfort bags" filled
with canned goods, magazines, soap, handkerchiefs, toothbrush, miniature doll, lipstick, and
wooden clogs. The lipstick and clogs were definitely feminine and the girls couldn't
understand why the people at home were sending such articles. They speculated that the sender
could only have had themselves or the "native girls" in mind.

 

REACTION TO THE MILITARY SITUATION;

It appears that they knew very little about the military situation around
Myitkyina even up to and including the time of their retreat and capture. There is however
some information worth noting:
"In the initial attack on Myitkyina and the airstrip about two hundred Japanese
died in battle, leaving about two hundred to defend the town. Ammunition was very low.
"Col. Maruyama dispersed his men. During the following days the enemy
were shooting haphazardly everywhere. It was a waste since they didn't seem to aim at any
particular thing. The Japanese soldiers on the other hand had orders to fire one shot at a time
and only when they were sure of a hit."
Before the enemy attacked on the west airstrip, soldiers stationed around
Myitkyina were dispatched elsewhere, to stem the Allied attack in the North and West. About
four hundred men were left behind, largely from the 114th Regiment. Evidently Col. Maruyama
did not expect the town to be attacked. Later Maj. Gen. Mizukami of the 56th Division
brought in reinforcements of more than two regiments but these were unable to hold the town.
It was the consensus among the girls that Allied bombings were intense and
frightening and because of them they spent most of their last days in foxholes. One or two
even carried on work there. The comfort houses were bombed and several of the girls were
wounded and killed.


RETREAT AND CAPTURE;

The story of the retreat and final capture of the "comfort girls" is somewhat
vague and confused in their own minds. From various reports it appears that the following
occurred: on the night of July 31st a party of sixty three people including the "comfort girls" of
three houses (Bakushinro was merged with Kinsui), families, and helpers, started across the
Irrawaddy River in small boats. They eventually landed somewhere near Waingmaw, They
stayed there until August 4th, but never entered Waingmaw. From there they followed in the
path of a group of soldiers until August 7th when there was a skirmish with the enemy and the
party split up. The girls were ordered to follow the soldiers after three hour interval. They
did this only to find themselves on the bank of a river with no sign of the soldiers or any means
of crossing. They remained in a nearby house until August 10th when they were captured by
Kachin soldiers led by an English officer. They were taken to Myitkyina and then to the Ledo
stockade where the interrogations which form the basis of this report took place.


PROPAGANDA

The girls know practically nothing of any propaganda leaflets that had been
used against the Japanese. They had seen a few leaflets in the hands of the soldiers but most of
them were unable to understand them as they were in Japanese and the soldiers refused to
discuss them with the girls. One girl remembered the leaflet about Col. Maruyama
(apparently it was Myitkyina Troop Appeal), but she did not believe it. Others heard the
soldiers discussing leaflets from time to time but no tangible remarks resulted from their
eavesdropping. However it is interesting to note that one officer expressed the view that
“Japan can’t win this war”.


REQUESTS;
None of the girls appeared to have heard the loudspeaker used at Myitkyina
but they did overhear the soldiers mention a "radio broadcast"
They asked that leaflets telling of the capture of the "Comfort girls" should
not be used for it would endanger the lives of other girls if the Army knew of their capture.
They did think it would be a good idea to utilize the fact of their capture in any droppings
planned for Korea.

APPENDIX “A”

Following are the names of the twenty Korean “comfort girls” and the two Japanese civilians
interrogated to obtain the information used in the reports. The Korean

 

 Name,             Age,          Address

1, Shin Jyun Nimi, 21, Keishonando, Shinshu
2. Kak Yonja, 28, Keishunando, Sanzenpo, Yunai
3. Pen Yonja, 26, keishunando, Shinshu
4. Chinga Chunto, 21, Keishohokudo, Taikyu
5. Chun Yonja, 27, Keishonando. Shinsyu
6. Kim Nanju, 25, Keishohokudo, Taikyu
7. Kim Yonja, 19, Keishohokudo, Taikyu
8. Kim Kenja, 25, Keishonando, Keson
9. Kim Senni, 21, Keishonando, Kumboku 
10. Kim Kun Sun, 22, Keishohokudo, Taikyu
11. Kim Chongi, 26, Keishonando, Shinshu
12. Pe Kija, 27, Keishonando, Shinshu
13. Chun Punyi, 21, Keishonando, Keisan Gun, Kayomon Mura
14. Koke Sunyi, 21, Keishonando, Kenyo, Sokibaku, Mo, Kyu Ruri
15. Yon Muji, 31, Heiando, Heijo
16. Opu Ni, 20, Heiando, Heijo
17. Kim Tonhi, 20, Keikido, Keijo
18. He Tonyo, 21, Keikido, Keijo
19. Oki Song, 20, Keishohokudo, Taikyu
20. Kim Guptoge, 21, Zenranando, Kosyu
 

Japanese Civilians:
1. Kitamura, Tomiko, 38, Keikido, Keijo
2. Kitamura, Eibun, 41, Keikido, Keijo

 

従軍慰安婦は、本当に売春婦なの?

 
戦前までの日本では、売春が合法的に営業できる場所がありました。「遊郭」と言って吉原などが有名です。
 
しかし、戦争が激しくなっていくにつれて、日本国内にいる若い男達が皆、戦場に送られていきました。
 
それに伴い、日本国内にある遊郭で遊ぶ男性客も目減りしていき、営業が苦しくなっていきました。
 
どのような商売でも、需要と供給のバランスがあります。
 
需要のあるところに行って商売をする、というのは、ビジネスをする経営者としては当然の発想。
 
そこで、遊郭で営業していた業者達は、若い男達がいるところに行って、店を出店するようになりました。
 
若い男達がいるところ、それはどこかというと戦地でした。
 
遊郭を管轄する役所は、日本国内では内務省でした。
 
しかし、国外の戦地では、内務省の管轄外となる為、軍隊が管轄する事となりました。
 
従軍慰安婦に旧日本軍が関与していた、と主張される方々がいます。
 
確かに、日本軍が関与してました。
 
しかし、問題なのは軍が慰安婦に対してどのように関与していたか、です。
 
軍隊にとっても大切な存在であるのは何でしょうか?
 
武器? 弾薬? 食料? 戦車? 燃料?
 
それらも大切な物です。
 
しかし、もっとも大切な存在は、兵隊です。
 
兵隊無くして敵と戦うことはできません。
 
したがって、大切な兵隊たちがもし、梅毒など性病にかかってしまったら大変なのです。
 
それだけ大切な戦力が減ってしまうからです。
 
敵と戦う前に、大切な兵隊達が、性病で戦力外になってしまうのを防ぐ為に、軍が関与していたのです。
 
慰安婦達は、”軍が関与して”、定期的に健康診断を受け、軍医に診察してもらったり、必要なら薬を投与され、養生するように指導してもらったりしてました。
 
また出店する場所も、とても重要です。なぜなら、そこは日本国内でなく戦地だからです。
 
激しく戦闘が繰り広げられそうな場所には、”軍が関与して”、出店を制限し、比較的に安全な場所で出店するように規制してました。
 
主に、憲兵隊がその役目をしてました。
 
また、慰安婦達をだれが募集していたのでしょうか?
 
元々、日本国内の遊郭の業者達が戦地で出店していったので、当然、その店で働く売春婦達も遊郭の業者達が募集して連れてきました。
 
日本軍による強制連行があった、と主張される方々がいます。
 
無理やり、日本軍が銃を突き付けて、嫌がる女性達をトラックに乗せて連れ去った、と。
 
これではまるで誘拐ですが、全くこのような事実はありませんでした。
 
売春婦の国別の割合は、日本国内からは40-50%、朝鮮半島からは、多くて20%、その他は、中国大陸や東南アジアの現地の人達でした。
 
また、慰安所の業者は、日本国内の遊郭や朝鮮人
達が営業してました。
 
では、なぜ事実無根の従軍慰安婦という性奴隷があった、と断罪されるようになったのでしょうか?
 
1965年、朝鮮大学校で教えていた朴慶植氏が『朝鮮人強制連行の記録』を出版。
 
この年、日本と韓国の間で、国交が正常化して条約が締結されようとしてました。
 
この動きに抵抗していたのが、朝鮮総連でした。
 
「対日屈辱外交反対」「日本帝国主義の再侵反対」などのスローガンを掲げて、デモ行進をして、警官隊とたびたび衝突。
 
1965年、朝鮮総連など在日北朝鮮の妨害活動も虚しく、日韓基本条例が締結。
 
1983年、吉田清治が「私の戦争犯罪」を出版。
 
この本は、吉田が、韓国の済州島で軍の命令により慰安婦を強制連行した、という話が書いてあります。
 
1991年8月11日、朝日新聞の植村隆記者が、「思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」というタイトルの記事を掲載。
 
植村隆氏の義母は、韓国の「太平洋戦争犠牲者遺族会」(遺族会)の幹部でした。
 
この団体は、韓国で慰安婦裁判を支援する団体である挺対協「韓国挺身隊問題対策協議会」とは別組織ですが、活動を共にしていました。
 
1991年12月6日 元慰安婦であった金学順氏が、日本政府を相手に東京地裁で提訴。
 
金学順氏は、親から強制的に14歳(数え)からキーセン(妓生)学校に3年間通わされていた事を、法廷の場で自ら証言。
 
キーセン(妓生)学校とは、宴席で芸事になるための学校であり、そこから遊郭で娼婦になる人もいました。
 
1992年1月11日、朝日新聞が、「慰安所 軍関与示す資料」というタイトルで記事で掲載。
 
「開設当初から約8割が朝鮮人女性だった。太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊(ていしんたい)の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる」と、事実無根の記事を捏造。
 
実際は、朝鮮人慰安婦は多く見積もっても2割。慰安婦全体で3万人程度でしたので、朝鮮人慰安婦は、6千人程度(3万人*2割)でした。
 
また、女子挺身隊とは、工場などで働く人たちの事を言い、慰安婦として売春行為をしていたわけではありません。
 
2日後の1月13日、加藤紘一官房長官が、記者会見で、軍の関与を認めて正式に謝罪。
 
裏付け調査をせずに、朝日新聞の捏造記事だけを見て、政府が正式に謝罪してしまいました。
 
5日後の1992年1月16日、宮沢喜一首相が訪韓。
 
日韓首脳会談の場で、宮沢喜一は、盧泰愚大統領に、何度も何度も、これでもか、というくらいの頻度で、慰安婦問題の件で謝罪。
 
宮沢は、大新聞である朝日新聞の1月11日付け捏造記事だけを見て、それが事実であると勘違いしてしまったのでしょう。
 
1992年2月、戸塚悦郎弁護士が、 国連人権委員会
に何度も通って、慰安婦は性奴隷だ、という反日活動を展開。
 
1992年6月、秦郁彦氏が、当時、実際に済州島に住んでいた人からの聞き取り調査をすると、吉田清治が書いたような強制連行などなかったと証言
 
1993年7月26日から30日まで、韓国太平洋戦争ベアラー協会から紹介された、16人の元慰安婦と称する方々とのインタビューが行われました。
 
この時、元慰安婦の証言に対して、事実検証がされることもなく、また、反対尋問も全くされませんでした。
 
このようなお粗末なインタビューだけに基づいて、5日後の1993年8月4日、河野洋平官房長官が「慰安婦関係調査の提出に関する内閣官房長官」を発表。(河野談話)
 
この談話は、宮沢喜一内閣が倒れる直前に公表されましたが、その内容については閣議で決定されないまま、河野洋平の独断で行われました。
 
1995年、オーストラリアジャーナリストジョージ・ヒックス (George Hicks) が、“The comfort women : sex slaves of the Japanese imperial forces”を出版。
 
この本の内容は、事実検証が出来ないものが多く、ほとんどフィクションの世界です。
 
1996年4月、国連人権委員会で、クマワスワミ(
Coomaraswamy)が、「女性に対する暴力とその原因及び結果に関する報告書」を提出
(クマワスワミ報告)
 
この報告書は、ヒックスが書いた“The comfort women”に基づいて書かれてますが、事実検証が出来ない内容が多く、インタビューした内容も歪曲されています。
 
しかし、今でもこの報告書は訂正されることも撤回されることもなく、有効なレポートとして、日本政府に様々な要求をしています。
 
1997年1月から3月、参議院議員 片山、小山議員が国会で質問。
 
1998年9月、吉田清治氏が自ら嘘を告白。
 
2007年4月、ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)が、米国議会あての最終報告をまとめました。
 
ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)とは、 クリントン政権時代に成立した「1998年ナチス戦争犯罪開示法」と「2000年日本帝国政府開示法」に基づき、第2次大戦での日独両国の戦争犯罪の情報開示を、徹底させる目的で始まった調査。
 
国防総省、国務省、中央情報局(CIA)、連邦捜査局(FBI)などに未公開の公式文書を点検し、戦争犯罪に関する資料の公開を指示。
 
調査対象となった未公開や秘密の公式文書は、計850万ページ。
 
調査期間は、約8年。
 
これだけ大規模に予算を付けて調査したのですが、その調査結果は、慰安婦についての性奴隷や虐殺、強制連行の事実が見つかりませんでした。
 
米国政府に調査依頼を要望したのは、在米中国系組織「世界抗日戦争史実維護連合会」。
 
この組織は反日活動家達の集まりですが、「こうした結果になったことは残念だ」、とコメント。
 
 
2013年7月、南カリフォルニアのグレンデール市が市内の公園に、慰安婦像を設置。
 
2014年8月、朝日新聞が慰安婦問題についての誤報記事を認めて謝罪。
 
しかし、朝日新聞は、誤報を認めた後も海外向けの英語版では、相変わらず慰安婦問題を事実として記事の掲載を続けています。
 
2015年12月、米国の主導で、不可逆的に慰安婦問題を政治問題化しない、というような事を日韓で合意しました。この合意により日本政府が韓国に10億円拠出。(日韓慰安婦合意)
 
しかし、朴槿恵大統領が失脚した後、次の大統領はまた、この問題を政治問題化。
 
ちなみに、韓国では、国家間の条約や合意というものは、その時の政権だけに有効であるので、政権交代した後は、全て無効になります。
 
また、韓国では、親日的な発言は全くできませんので、言論の自由もありません。
 
これは、韓国は民主主義国家ではないという証明になります。
 
日本が降伏する前年の1944年、ビルマに上陸した、米軍の戦争情報局心理戦チームは、戦場に女性達(朝鮮人慰安婦20人)がいるのを見つけて、彼女達に尋問しました。
 
そして、慰安婦について次のように報告しました。
 
「朝鮮人慰安婦は、売春婦、もしくはプロのキャンプ・フォロワー(軍隊に随行する娼婦)にすぎない」と。
 
 以下は、米陸軍インド・ビルマにおける、日本人(当時は朝鮮人も日本人でした)捕虜尋問レポートの内容になります。
この尋問では、通訳として米軍の日系人兵士が活動してました。
 
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戦場で捕らえられた、慰安婦の直接尋問によって作られたこの米国の公式記録は、本当の慰安婦の記録に関連する最も重要な資料の一つです。
 
 1944年、アメリカ陸軍は、ビルマで慰安婦を何人か捕かまえて、尋問をしました。 
 
陸軍は「報告番号49」を提出し、女性は高給の売春婦であると述べました。
 
 それは明らかに「慰安婦」を売春婦、または「軍隊に随行する娼婦」にすぎないと定義しました。  
 
また、彼女たちの月間給与は手取りで平均750円もらってました、将校たちの給料が10円でしたので、彼女たちはその75倍もの給料をもらっていました。  (支払いと生活条件)
 
これらは、慰安婦は単に非常に高給の売春婦であり、また、「性奴隷」とはまったく関係がないことを示しています。
 
序文;
 
1944年 8月10日頃、韓国人の「慰安婦」20人と日本人民間人2人が逮捕されました。
 
この報告書は、ビルマのミチーナ(Myitkyina in Burma)崩壊後の掃討作戦での、1944年の尋問から得られた情報に基づいています。
 
 この報告書では、日本人がこれらの韓国人の「慰安婦」をどのように募集したか、彼らが住んで働いた条件、日本兵との関係と反応、軍事状況の理解を示しています。
 
「慰安婦」(comfort girl)とは、兵士の利益のために日本軍に配置された売春婦、または「軍隊に随行する娼婦」にすぎません。  
 
「慰安婦」という言葉は日本人特有のものです。 
 
他のレポートは、日本軍が戦う必要があるところならどこでも「慰安婦」が見つかったことを示しています。
 
 しかし、この報告書は、日本人によって徴用され、ビルマの軍隊に配置された韓国の「慰安婦」のみを扱っています。 
 
日本人は、1942年に彼女たちのうち約703人をビルマに派遣したと報告されています。
 
募集;
 
1942年5月初旬、東南アジアの新たに日本の領土となった地域で、「慰安」のために韓国人の女性を募集する目的で、日本の業者が韓国に到着しました。
 
 この募集内容は特定されていませんが、病院で負傷者を訪問し、包帯を巻いて、一般的に兵士を幸せにすることに関連する仕事であると予定されていました。 
 
これらの業者が使った勧誘方法は、たくさんのお金、家族の借金を返済する機会、簡単な仕事、シンガポールの新しい土地での新しい生活、といった言葉でした。
 
 これらの虚偽の募集により、多くの女性たちは海外勤務に参加して、前払いで数百円の支払がされました。
 
女性たちの大部分は、無知で教育を受けていませんでしたが、以前は「地球上で最も古い職業」に関係していた女性もいました。
 
 署名した契約では、陸軍の規制に従って、家族の借金に応じて6ヶ月から1年間、働くことでした。
 
これらの女性たちのうち約800人がこの方法で募集され、1942年8月20日頃に、日本人経営者と一緒にラングーンに上陸しました。
 
8人から22人のグループでやって来ました。 
 
ここから、彼女達はビルマの様々な場所、通常は日本軍の駐屯地の近くのかなり大きな町に派遣されました。
 
最終的にこれらのうち、4つのグループがミチーナ(Myitkyina)付近に到着しました。 慰安所の名前は、共栄、金水、爆心楼、桃屋でした。 
 
共栄の慰安所は「丸山倶楽部」と呼ばれていましたが、ミキーナ(Myitkyina)の守備隊の指揮官である丸山大佐が、彼の名前と似ているので、ミキーナに到着したときに、共栄と変更されました。
 
 人;
 
 尋問は、平均的な韓国人の「慰安婦」が約25歳で、教育を受けておらず、幼稚で、気まぐれで、利己的であることを示しています。  
 
彼女達は、白人の基準で日本人と比べてもかわいくない。 彼女たちは利己的な傾向があり、自分自身について話すのが好きです。 
 
見知らぬ人の前での彼女の態度は、静かでおとなしいが、彼女たちは「女性の巧みな誘惑を知っている」。 
 
彼女は自分の「職業」が嫌いだと主張し、むしろそれについても彼女の家族についても話したくない。  
 
ミキーナ(Myitkyina)とLedoの米兵から囚人として受けた親切な扱いのため、彼女たちは、米兵は日本兵よりも感情的であると感じています。 
また、彼女は、中国とインドの軍隊を恐れています。
 
生活および労働条件;
 
 ミキーナ(Myitkyina)では、彼女たちは通常、それぞれ個室がある大きな2階建ての家(通常は学校の建物)に分けられていました。
 
 そこで、彼女達はそれぞれ仕事をして、眠ったりしてすごしました。ミキーナ(Myitkyina)では、日本軍から通常の配給を受けていませんでしたが、彼女たちの食べ物は慰安所の責任者によって調達されたものを購入してます。
 
 彼女達は、他の場所と比較してビルマの高級住宅地に近い場所に住んでいました。 これは、ビルマでの生活が2年目になってからです。
 
 彼女達は、食べ物と材料があまり配給されてませんでしたが、希望する物品を購入するのに十分なお金を持っていたので、上手に生活してました。 
 
彼女達は、慰安所から「慰安袋」を受け取った兵隊さんからの贈り物を補うため、布、靴、タバコ、化粧品を購入することができました。
 
 ビルマにいる間、彼女たちはスポーツイベントに参加するなどして、楽しんでいました。
 
 ピクニック、エンターテイメント、社交的なディナーにも参加しました。 
 
彼女達はフォノグラフを持っていました。 そして、町に買い物に行くことを許されていました。
 
料金システム;
 
 彼らがビジネスを行う条件は陸軍によって規制され、混雑した地域では規制が厳格に施行されました。
 
 陸軍は、混雑した地域では、特定の地域でさまざまな単価、優先順位、およびスケジュールのシステムを導入する必要があると判断しました。
 
 平均的なシステムは次のとおりでした。
 
 1.兵士
 午前10時〜午後5時まで
 料金 1.50円
 滞在時間 20〜30分
 
 2. NCO
 午後9時〜午後5時まで
料金 3.00円
滞在時間 30〜40分
 
 3.役員
 午後9時〜12時まで
 5.00円
滞在時間  30〜40分
 
これらは中央ビルマの平均価格でした。 役員は20円で一晩滞在することが許されました。  
 
ミキーナ(Myitkyina)の守備隊の指揮官である丸山大佐は、この価格を平均のほぼ半分に引き下げました。
 
 スケジュール;
 
 兵隊たちはしばしば慰安所の混雑について不平を言った。 多くの場合、軍隊は長期滞在について非常に厳格だったため、彼女達のサービスを受けずに去らなければなりませんでした。
 
 この問題を克服するために、陸軍は特定の部隊のために特定の日を取っておきました。
 
 通常、その日の部隊の2人の男性が兵士を特定するために慰安所に滞在していました。
 
 秩序を保つために移動憲兵も待機しました。 以下は、慰安所の”共栄”がさまざまな目的で使用したスケジュールです。
 
メイミョー(Maymyo)にいる間の第18師団の部隊。
 日曜日----------- 18th Div。  Hdqs。 スタッフ
 月曜日----------騎兵
 火曜日----------エンジニア
 水曜日-----休日と毎週の身体検査。 
木曜日--------医療
 金曜日------------山火砲
土曜日---------輸送
 
役員は週に7泊来ることを許可されました。
 
混雑していて、すべてのお客の面倒を見ることができずに、多くの兵隊さんに不快感を与えていた、と彼女たちは文句を言いました。
 
 兵士たちが慰安所に来てお金を支払い、約2インチ四方の厚紙のチケットをもらいました。、そのチケットには、価格は左側に、慰安所の名前は反対側に書いてありました。
 
 その後、各兵隊さんたちは順番に並んで待ちました。 
 
少女たちはお客である兵隊さんを拒否する特権を与えられていました。 兵隊があまりにも酔っていた場合、彼女たちは、しばしばこの特権を使って、拒否しました。
 
支払条件および生活条件;
 
 慰安所の責任者は、彼女達がそれぞれ契約に署名したときに、どれだけの借金を持っていたかに応じて、彼女達の総収入の50から60パーセントを受け取りました。 
 
彼女達は、月平均で約1500円を稼いでました。 そのうち、慰安所の責任者に750円以上を返済していました。 
 
多くの慰安所の責任者は、食料やその他の物品に対して高い金額を彼女達に請求したので、彼女達の生活を非常に困難にしました。
 
 1943年の後半に、陸軍は、借金を返済した特定の女性が、家に帰ることができる命令を出しました。 
 
そのため、一部の女性は、韓国に帰ることが許可されました。
 
 尋問ではさらに、これらの女性達の健康状態が良かったことを示しています。 彼女達はあらゆる種類の避妊薬を十分に供給されており、またしばしば、兵隊さんは自分の所属する軍隊から供給されたものを持ってきました。 
 
彼女達は、自分自身とお客である兵隊さんの両方に衛生面で注意を払うように、よく教育されていました。 
 
正規の日本陸軍医師が週に一度の割合で慰安所を訪問していました。
病気にかかった女性は治療を受け、隔離され、最終的に病院に送られました。
 
この同じ手順は、軍隊の階級内でも行われましたが、兵隊が病院で監禁されている期間中でも、彼らの給料を失うことはなかったということはとても興味深いです。
 
日本の兵士への反応;
 
 日本の将校や男性との関係では、尋問から出た結果の名前は2つだけでした。 彼らは、ミィッキーナの守備隊の指揮官である丸山大佐と、増援をもたらした水上少将でした。
 
 2人は正反対でした。 
 
前者は硬く、利己的で、彼の部下を考慮せずに反発しました。 
 
後者は善良で親切な男であり、立派な兵士であり、彼の下で働いた人々に最大限の配慮を払っています。
 
 丸山大佐は慰安所の常習者でしたが、水上少将は慰安所を訪れたことはありませんでした。 
 
ミキーナの陥落により、水上少将は部下を避難させることができなかったため自害を決意している間、丸山大佐は避難したと思われた。
 
 兵士の反応;
 
 日本人の兵士は、「慰安所がいっぱいになると恥ずかしくなりがちだ」と彼女は​​言った。彼女によると、「快適な慰安所」で他の人に見られることを恥ずかしく思います。
 
兵隊さんたちは、混雑時に順番を待つ必要がありました。
 
また、朝鮮人慰安婦と日本の兵隊との結婚の提案の例が多数あり、実際に結婚が行われました。
 
すべての彼女たちにとって、最悪の兵隊は、酔っ払ってきた人だと言った。 
 
しかし同様に、日本兵は非常に酔っていたとしても、軍隊の事について話すことはなかったと全員が言った。
 
 彼女たちは軍事問題についての会話を始めるかもしれないが、将校や下士官は話さないだろう。
 
実際には「被験者のようなそのような不婦人を議論するために私たちを追い払った。
 
兵士たちはしばしば、慰安所から雑誌、手紙、新聞を受け取るのが、どれだけ楽しかった事か、と話していました。 
 
彼女達は、缶詰商品、雑誌、石鹸、ハンカチ、歯ブラシ、小さな人形、口紅、および下駄が入った「コンフォートバッグ」を受け取った事について話しました。 
 
口紅と下駄は間違いなく女性用であり、なぜ家の人がそのようなものを送っていたのか彼女たちは理解できませんでした。
 
 送り主が自分自身だけが持っていた、または地元の女性を念頭に置いていたはずだと、彼女たちは推測しました。
 
軍事状況に対する反応;
 
 彼女たちは、日本軍の撤退と米軍による占領の時まで、ミィッキーナ周辺の軍事状況についてほとんど知らなかったようです。 ただし、注目に値する情報がいくつかあります。
 
「ミキティナと滑走路への最初の攻撃で、約200人の日本人が戦闘で死亡し、約200人が町を守るために残った。弾薬は非常に少なかった。
 
「丸山大佐は部下を解散させた。翌日、敵はあらゆる場所で無計画に射撃していた。彼らは特定のことを狙っていなかったので無駄だった。一方、日本兵は 狙いを定めて射撃できると確信したときだけ、一度に一回だけ射撃を命じました。」
 
 敵が西の滑走路を攻撃する前に、北と西の連合軍の攻撃を食い止めるために、ミチーナ周辺に駐留する兵士が他の場所に派遣されました。 主に第114連隊からの約400人の兵士が残された。
 
 明らかに、丸山大佐は町が攻撃されることを期待していなかった。 後に第56師団の水上少将は2つ以上の連隊の増援をもたらしましたが、これらは町を保持することができませんでした。
 
連合軍の爆撃は強烈で恐ろしいことであり、彼女達は、ほとんどの日をフォックスホールで過ごしたということは、彼女たちの間の共通点でした。
 
 1人か2人がそこで仕事を続けた。 慰安所は爆撃され、数人の少女が負傷し、殺されました。
 
リトリートとキャプチャ;
 
「慰安婦」の退却と最終的な捕獲の物語は、幾分曖昧であり、彼ら自身の頭の中では混乱しています。さまざまな報告から、次のことが起こったようです。
 
彼女たちは最終的にウェインマウの近くのどこかに小さなボートで上陸して、8月4日までそこに留まったが、ウェインマウには入らなかった。そこで敵との小競り合いがあり、部隊が分裂する8月7日まで、兵隊たちの進む後に付いていきました。彼女たちは3時間の間隔を空けて兵隊たちに従うように命じられました。
 
彼女たちは、兵隊の指示もなく、川を渡る手段もなく、川の土手にたどり着くためだけにこれを行いました。彼らは8月10日までイギリスの将校が率いるカチン兵に捕らえられるまで、近くの家に留まりました。
 
彼女たちは、ミッチキーナ(Myitkyina)に連れて行かれ、その後このレポートの基礎となる尋問が行われた場所である、レド(Ledo)に連れて行かれた。
 
 
 宣伝
 
彼女たちは、日本人に対して使用された宣伝リーフレットについて事実上何も知らない。 
 
彼女たちは兵隊さんが手に持っているいくつかのリーフレットを見ましたが、日本語で書いてあるためほとんどを理解できず、兵隊さんたちは彼女たちとこのリーフレットの内容について話しませんでした。
 
 一人の少女は丸山大佐についてのリーフレットを覚えていた(明らかにそれはMyitkyina Troop Appealだった)が、彼女はそれを信じなかった。 
 
他の人たちは、兵士たちが時々リーフレットについて話し合っているのを聞いたが、盗み聞きしただけで具体的な発言はなかった。 
 
しかしながら、ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」と言ったことは興味深い。
 
リクエスト;
 
 Myitkyinaで使用されている放送を聞いたことのある女性はいませんでしたが、兵隊たちが「ラジオ放送」について話していることを聞きました。
 
 彼らは、軍が彼女たちを捕虜にすることを知ったなら、それが他の女性たちの命を危険にさらすので、「慰安婦」の捕獲を告げるリーフレットを使用すべきでない、と尋ねました。 
 
彼女たちは、韓国で計画された多くの糞を使って、捕虜の事実を伝えることは良い考えだと思っていました。
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以上、米陸軍インド・ビルマにおける、日本人(当時は朝鮮人も日本人でした)捕虜尋問レポートの内容になります。
 
このレポートは、日米戦が終わりに近づいている時期に書かれた報告書であり、敵軍である米軍が書いたものになります。
 
ですので、いくらでも反日的な偏見を持って書くことができました。
 
しかし、それでも、慰安婦たちが性的奴隷としての扱いをまったく受けてなく、衛生面でも配慮され、高い給料を受けとっていた売春婦であると、結論づけていたのです。
 
さらに、日本兵と恋に落ちて、正式に結婚した事例もたくさんあったと書かれています。
 
ベトナム戦争の際、米軍に頼み込んで従軍した韓国軍が、地元のベトナム人女性をレイプして、混血児をたくさん産んだにもかかわらず、それらベトナム人女性と正式に結婚することはもちろん、生まれてきた子供たち(ライダイハン)(Lai Đại Hàn)約3万人を認知することもなく、韓国に帰って知らぬ存ぜぬ、を貫いている韓国軍兵士。
 
それに対して、大東亜戦争中、中国大陸や東南アジア諸国に展開していた数百万の日本軍兵士たち。
 
彼らの中で、地元の女性をレイプして混血児を生んで、その子供を認知することもなく知らぬ存ぜぬを貫いていた、というような兵隊さんは一人もいませんでした。
 
参考図書
UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION Psychological Warfare Team Attached to U.S. Army Forces India-Burma Theater Japanese Prisoner of War Interrogation Report No. 49