従軍慰安婦は売春婦 | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

 

従軍慰安婦は、本当に売春婦なの?

 
戦前までの日本では、売春が合法的に営業できる場所がありました。「遊郭」と言って吉原などが有名です。
 
しかし、戦争が激しくなっていくにつれて、日本国内にいる若い男達が皆、戦場に送られていきました。
 
それに伴い、日本国内にある遊郭で遊ぶ男性客も目減りしていき、営業が苦しくなっていきました。
 
どのような商売でも、需要と供給のバランスがあります。
 
需要のあるところに行って商売をする、というのは、ビジネスをする経営者としては当然の発想。
 
そこで、遊郭で営業していた業者達は、若い男達がいるところに行って、店を出店するようになりました。
 
若い男達がいるところ、それはどこかというと戦地でした。
 
遊郭を管轄する役所は、日本国内では内務省でした。
 
しかし、国外の戦地では、内務省の管轄外となる為、軍隊が管轄する事となりました。
 
従軍慰安婦に旧日本軍が関与していた、と主張される方々がいます。
 
確かに、日本軍が関与してました。
 
しかし、問題なのは軍が慰安婦に対してどのように関与していたか、です。
 
軍隊にとっても大切な存在であるのは何でしょうか?
 
武器? 弾薬? 食料? 戦車? 燃料?
 
それらも大切な物です。
 
しかし、もっとも大切な存在は、兵隊です。
 
兵隊無くして敵と戦うことはできません。
 
したがって、大切な兵隊たちがもし、梅毒など性病にかかってしまったら大変なのです。
 
それだけ大切な戦力が減ってしまうからです。
 
敵と戦う前に、大切な兵隊達が、性病で戦力外になってしまうのを防ぐ為に、軍が関与していたのです。
 
慰安婦達は、”軍が関与して”、定期的に健康診断を受け、軍医に診察してもらったり、必要なら薬を投与され、養生するように指導してもらったりしてました。
 
また出店する場所も、とても重要です。なぜなら、そこは日本国内でなく戦地だからです。
 
激しく戦闘が繰り広げられそうな場所には、”軍が関与して”、出店を制限し、比較的に安全な場所で出店するように規制してました。
 
主に、憲兵隊がその役目をしてました。
 
また、慰安婦達をだれが募集していたのでしょうか?
 
元々、日本国内の遊郭の業者達が戦地で出店していったので、当然、その店で働く売春婦達も遊郭の業者達が募集して連れてきました。
 
日本軍による強制連行があった、と主張される方々がいます。
 
無理やり、日本軍が銃を突き付けて、嫌がる女性達をトラックに乗せて連れ去った、と。
 
これではまるで誘拐ですが、全くこのような事実はありませんでした。
 
売春婦の国別の割合は、日本国内からは40-50%、朝鮮半島からは、多くて20%、その他は、中国大陸や東南アジアの現地の人達でした。
 
また、慰安所の業者は、日本国内の遊郭や朝鮮人
達が営業してました。
 
では、なぜ事実無根の従軍慰安婦という性奴隷があった、と断罪されるようになったのでしょうか?
 
1965年、朝鮮大学校で教えていた朴慶植氏が『朝鮮人強制連行の記録』を出版。
 
この年、日本と韓国の間で、国交が正常化して条約が締結されようとしてました。
 
この動きに抵抗していたのが、朝鮮総連でした。
 
「対日屈辱外交反対」「日本帝国主義の再侵反対」などのスローガンを掲げて、デモ行進をして、警官隊とたびたび衝突。
 
1965年、朝鮮総連など在日北朝鮮の妨害活動も虚しく、日韓基本条例が締結。
 
1983年、吉田清治が「私の戦争犯罪」を出版。
 
この本は、吉田が、韓国の済州島で軍の命令により慰安婦を強制連行した、という話が書いてあります。
 
1991年8月11日、朝日新聞の植村隆記者が、「思い出すと今も涙 元朝鮮人従軍慰安婦 戦後半世紀重い口開く」というタイトルの記事を掲載。
 
植村隆氏の義母は、韓国の「太平洋戦争犠牲者遺族会」(遺族会)の幹部でした。
 
この団体は、韓国で慰安婦裁判を支援する団体である挺対協「韓国挺身隊問題対策協議会」とは別組織ですが、活動を共にしていました。
 
1991年12月6日 元慰安婦であった金学順氏が、日本政府を相手に東京地裁で提訴。
 
金学順氏は、親から強制的に14歳(数え)からキーセン(妓生)学校に3年間通わされていた事を、法廷の場で自ら証言。
 
キーセン(妓生)学校とは、宴席で芸事になるための学校であり、そこから遊郭で娼婦になる人もいました。
 
1992年1月11日、朝日新聞が、「慰安所 軍関与示す資料」というタイトルで記事で掲載。
 
「開設当初から約8割が朝鮮人女性だった。太平洋戦争に入ると、主として朝鮮人女性を挺身隊(ていしんたい)の名で強制連行した。その人数は8万とも20万ともいわれる」と、事実無根の記事を捏造。
 
実際は、朝鮮人慰安婦は多く見積もっても2割。慰安婦全体で3万人程度でしたので、朝鮮人慰安婦は、6千人程度(3万人*2割)でした。
 
また、女子挺身隊とは、工場などで働く人たちの事を言い、慰安婦として売春行為をしていたわけではありません。
 
2日後の1月13日、加藤紘一官房長官が、記者会見で、軍の関与を認めて正式に謝罪。
 
裏付け調査をせずに、朝日新聞の捏造記事だけを見て、政府が正式に謝罪してしまいました。
 
5日後の1992年1月16日、宮沢喜一首相が訪韓。
 
日韓首脳会談の場で、宮沢喜一は、盧泰愚大統領に、何度も何度も、これでもか、というくらいの頻度で、慰安婦問題の件で謝罪。
 
宮沢は、大新聞である朝日新聞の1月11日付け捏造記事だけを見て、それが事実であると勘違いしてしまったのでしょう。
 
1992年2月、戸塚悦郎弁護士が、 国連人権委員会
に何度も通って、慰安婦は性奴隷だ、という反日活動を展開。
 
1992年6月、秦郁彦氏が、当時、実際に済州島に住んでいた人からの聞き取り調査をすると、吉田清治が書いたような強制連行などなかったと証言
 
1993年7月26日から30日まで、韓国太平洋戦争ベアラー協会から紹介された、16人の元慰安婦と称する方々とのインタビューが行われました。
 
この時、元慰安婦の証言に対して、事実検証がされることもなく、また、反対尋問も全くされませんでした。
 
このようなお粗末なインタビューだけに基づいて、5日後の1993年8月4日、河野洋平官房長官が「慰安婦関係調査の提出に関する内閣官房長官」を発表。(河野談話)
 
この談話は、宮沢喜一内閣が倒れる直前に公表されましたが、その内容については閣議で決定されないまま、河野洋平の独断で行われました。
 
1995年、オーストラリアジャーナリストジョージ・ヒックス (George Hicks) が、“The comfort women : sex slaves of the Japanese imperial forces”を出版。
 
この本の内容は、事実検証が出来ないものが多く、ほとんどフィクションの世界です。
 
1996年4月、国連人権委員会で、クマワスワミ(
Coomaraswamy)が、「女性に対する暴力とその原因及び結果に関する報告書」を提出
(クマワスワミ報告)
 
この報告書は、ヒックスが書いた“The comfort women”に基づいて書かれてますが、事実検証が出来ない内容が多く、インタビューした内容も歪曲されています。
 
しかし、今でもこの報告書は訂正されることも撤回されることもなく、有効なレポートとして、日本政府に様々な要求をしています。
 
1997年1月から3月、参議院議員 片山、小山議員が国会で質問。
 
1998年9月、吉田清治氏が自ら嘘を告白。
 
2007年4月、ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)が、米国議会あての最終報告をまとめました。
 
ナチス戦争犯罪と日本帝国政府の記録の各省庁作業班(IWG)とは、 クリントン政権時代に成立した「1998年ナチス戦争犯罪開示法」と「2000年日本帝国政府開示法」に基づき、第2次大戦での日独両国の戦争犯罪の情報開示を、徹底させる目的で始まった調査。
 
国防総省、国務省、中央情報局(CIA)、連邦捜査局(FBI)などに未公開の公式文書を点検し、戦争犯罪に関する資料の公開を指示。
 
調査対象となった未公開や秘密の公式文書は、計850万ページ。
 
調査期間は、約8年。
 
これだけ大規模に予算を付けて調査したのですが、その調査結果は、慰安婦についての性奴隷や虐殺、強制連行の事実が見つかりませんでした。
 
米国政府に調査依頼を要望したのは、在米中国系組織「世界抗日戦争史実維護連合会」。
 
この組織は反日活動家達の集まりですが、「こうした結果になったことは残念だ」、とコメント。
 
 
2013年7月、南カリフォルニアのグレンデール市が市内の公園に、慰安婦像を設置。
 
2014年8月、朝日新聞が慰安婦問題についての誤報記事を認めて謝罪。
 
しかし、朝日新聞は、誤報を認めた後も海外向けの英語版では、相変わらず慰安婦問題を事実として記事の掲載を続けています。
 
2015年12月、米国の主導で、不可逆的に慰安婦問題を政治問題化しない、というような事を日韓で合意しました。この合意により日本政府が韓国に10億円拠出。(日韓慰安婦合意)
 
しかし、朴槿恵大統領が失脚した後、次の大統領はまた、この問題を政治問題化。
 
ちなみに、韓国では、国家間の条約や合意というものは、その時の政権だけに有効であるので、政権交代した後は、全て無効になります。
 
また、韓国では、親日的な発言は全くできませんので、言論の自由もありません。
 
これは、韓国は民主主義国家ではないという証明になります。
 
日本が降伏する前年の1944年、ビルマに上陸した、米軍の戦争情報局心理戦チームは、戦場に女性達(朝鮮人慰安婦20人)がいるのを見つけて、彼女達に尋問しました。
 
そして、慰安婦について次のように報告しました。
 
「朝鮮人慰安婦は、売春婦、もしくはプロのキャンプ・フォロワー(軍隊に随行する娼婦)にすぎない」と。
 
 以下は、米陸軍インド・ビルマにおける、日本人(当時は朝鮮人も日本人でした)捕虜尋問レポートの内容になります。
この尋問では、通訳として米軍の日系人兵士が活動してました。
 
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戦場で捕らえられた、慰安婦の直接尋問によって作られたこの米国の公式記録は、本当の慰安婦の記録に関連する最も重要な資料の一つです。
 
 1944年、アメリカ陸軍は、ビルマで慰安婦を何人か捕かまえて、尋問をしました。 
 
陸軍は「報告番号49」を提出し、女性は高給の売春婦であると述べました。
 
 それは明らかに「慰安婦」を売春婦、または「軍隊に随行する娼婦」にすぎないと定義しました。  
 
また、彼女たちの月間給与は手取りで平均750円もらってました、将校たちの給料が10円でしたので、彼女たちはその75倍もの給料をもらっていました。  (支払いと生活条件)
 
これらは、慰安婦は単に非常に高給の売春婦であり、また、「性奴隷」とはまったく関係がないことを示しています。
 
序文;
 
1944年 8月10日頃、韓国人の「慰安婦」20人と日本人民間人2人が逮捕されました。
 
この報告書は、ビルマのミチーナ(Myitkyina in Burma)崩壊後の掃討作戦での、1944年の尋問から得られた情報に基づいています。
 
 この報告書では、日本人がこれらの韓国人の「慰安婦」をどのように募集したか、彼らが住んで働いた条件、日本兵との関係と反応、軍事状況の理解を示しています。
 
「慰安婦」(comfort girl)とは、兵士の利益のために日本軍に配置された売春婦、または「軍隊に随行する娼婦」にすぎません。  
 
「慰安婦」という言葉は日本人特有のものです。 
 
他のレポートは、日本軍が戦う必要があるところならどこでも「慰安婦」が見つかったことを示しています。
 
 しかし、この報告書は、日本人によって徴用され、ビルマの軍隊に配置された韓国の「慰安婦」のみを扱っています。 
 
日本人は、1942年に彼女たちのうち約703人をビルマに派遣したと報告されています。
 
募集;
 
1942年5月初旬、東南アジアの新たに日本の領土となった地域で、「慰安」のために韓国人の女性を募集する目的で、日本の業者が韓国に到着しました。
 
 この募集内容は特定されていませんが、病院で負傷者を訪問し、包帯を巻いて、一般的に兵士を幸せにすることに関連する仕事であると予定されていました。 
 
これらの業者が使った勧誘方法は、たくさんのお金、家族の借金を返済する機会、簡単な仕事、シンガポールの新しい土地での新しい生活、といった言葉でした。
 
 これらの虚偽の募集により、多くの女性たちは海外勤務に参加して、前払いで数百円の支払がされました。
 
女性たちの大部分は、無知で教育を受けていませんでしたが、以前は「地球上で最も古い職業」に関係していた女性もいました。
 
 署名した契約では、陸軍の規制に従って、家族の借金に応じて6ヶ月から1年間、働くことでした。
 
これらの女性たちのうち約800人がこの方法で募集され、1942年8月20日頃に、日本人経営者と一緒にラングーンに上陸しました。
 
8人から22人のグループでやって来ました。 
 
ここから、彼女達はビルマの様々な場所、通常は日本軍の駐屯地の近くのかなり大きな町に派遣されました。
 
最終的にこれらのうち、4つのグループがミチーナ(Myitkyina)付近に到着しました。 慰安所の名前は、共栄、金水、爆心楼、桃屋でした。 
 
共栄の慰安所は「丸山倶楽部」と呼ばれていましたが、ミキーナ(Myitkyina)の守備隊の指揮官である丸山大佐が、彼の名前と似ているので、ミキーナに到着したときに、共栄と変更されました。
 
 人;
 
 尋問は、平均的な韓国人の「慰安婦」が約25歳で、教育を受けておらず、幼稚で、気まぐれで、利己的であることを示しています。  
 
彼女達は、白人の基準で日本人と比べてもかわいくない。 彼女たちは利己的な傾向があり、自分自身について話すのが好きです。 
 
見知らぬ人の前での彼女の態度は、静かでおとなしいが、彼女たちは「女性の巧みな誘惑を知っている」。 
 
彼女は自分の「職業」が嫌いだと主張し、むしろそれについても彼女の家族についても話したくない。  
 
ミキーナ(Myitkyina)とLedoの米兵から囚人として受けた親切な扱いのため、彼女たちは、米兵は日本兵よりも感情的であると感じています。 
また、彼女は、中国とインドの軍隊を恐れています。
 
生活および労働条件;
 
 ミキーナ(Myitkyina)では、彼女たちは通常、それぞれ個室がある大きな2階建ての家(通常は学校の建物)に分けられていました。
 
 そこで、彼女達はそれぞれ仕事をして、眠ったりしてすごしました。ミキーナ(Myitkyina)では、日本軍から通常の配給を受けていませんでしたが、彼女たちの食べ物は慰安所の責任者によって調達されたものを購入してます。
 
 彼女達は、他の場所と比較してビルマの高級住宅地に近い場所に住んでいました。 これは、ビルマでの生活が2年目になってからです。
 
 彼女達は、食べ物と材料があまり配給されてませんでしたが、希望する物品を購入するのに十分なお金を持っていたので、上手に生活してました。 
 
彼女達は、慰安所から「慰安袋」を受け取った兵隊さんからの贈り物を補うため、布、靴、タバコ、化粧品を購入することができました。
 
 ビルマにいる間、彼女たちはスポーツイベントに参加するなどして、楽しんでいました。
 
 ピクニック、エンターテイメント、社交的なディナーにも参加しました。 
 
彼女達はフォノグラフを持っていました。 そして、町に買い物に行くことを許されていました。
 
料金システム;
 
 彼らがビジネスを行う条件は陸軍によって規制され、混雑した地域では規制が厳格に施行されました。
 
 陸軍は、混雑した地域では、特定の地域でさまざまな単価、優先順位、およびスケジュールのシステムを導入する必要があると判断しました。
 
 平均的なシステムは次のとおりでした。
 
 1.兵士
 午前10時〜午後5時まで
 料金 1.50円
 滞在時間 20〜30分
 
 2. NCO
 午後9時〜午後5時まで
料金 3.00円
滞在時間 30〜40分
 
 3.役員
 午後9時〜12時まで
 5.00円
滞在時間  30〜40分
 
これらは中央ビルマの平均価格でした。 役員は20円で一晩滞在することが許されました。  
 
ミキーナ(Myitkyina)の守備隊の指揮官である丸山大佐は、この価格を平均のほぼ半分に引き下げました。
 
 スケジュール;
 
 兵隊たちはしばしば慰安所の混雑について不平を言った。 多くの場合、軍隊は長期滞在について非常に厳格だったため、彼女達のサービスを受けずに去らなければなりませんでした。
 
 この問題を克服するために、陸軍は特定の部隊のために特定の日を取っておきました。
 
 通常、その日の部隊の2人の男性が兵士を特定するために慰安所に滞在していました。
 
 秩序を保つために移動憲兵も待機しました。 以下は、慰安所の”共栄”がさまざまな目的で使用したスケジュールです。
 
メイミョー(Maymyo)にいる間の第18師団の部隊。
 日曜日----------- 18th Div。  Hdqs。 スタッフ
 月曜日----------騎兵
 火曜日----------エンジニア
 水曜日-----休日と毎週の身体検査。 
木曜日--------医療
 金曜日------------山火砲
土曜日---------輸送
 
役員は週に7泊来ることを許可されました。
 
混雑していて、すべてのお客の面倒を見ることができずに、多くの兵隊さんに不快感を与えていた、と彼女たちは文句を言いました。
 
 兵士たちが慰安所に来てお金を支払い、約2インチ四方の厚紙のチケットをもらいました。、そのチケットには、価格は左側に、慰安所の名前は反対側に書いてありました。
 
 その後、各兵隊さんたちは順番に並んで待ちました。 
 
少女たちはお客である兵隊さんを拒否する特権を与えられていました。 兵隊があまりにも酔っていた場合、彼女たちは、しばしばこの特権を使って、拒否しました。
 
支払条件および生活条件;
 
 慰安所の責任者は、彼女達がそれぞれ契約に署名したときに、どれだけの借金を持っていたかに応じて、彼女達の総収入の50から60パーセントを受け取りました。 
 
彼女達は、月平均で約1500円を稼いでました。 そのうち、慰安所の責任者に750円以上を返済していました。 
 
多くの慰安所の責任者は、食料やその他の物品に対して高い金額を彼女達に請求したので、彼女達の生活を非常に困難にしました。
 
 1943年の後半に、陸軍は、借金を返済した特定の女性が、家に帰ることができる命令を出しました。 
 
そのため、一部の女性は、韓国に帰ることが許可されました。
 
 尋問ではさらに、これらの女性達の健康状態が良かったことを示しています。 彼女達はあらゆる種類の避妊薬を十分に供給されており、またしばしば、兵隊さんは自分の所属する軍隊から供給されたものを持ってきました。 
 
彼女達は、自分自身とお客である兵隊さんの両方に衛生面で注意を払うように、よく教育されていました。 
 
正規の日本陸軍医師が週に一度の割合で慰安所を訪問していました。
病気にかかった女性は治療を受け、隔離され、最終的に病院に送られました。
 
この同じ手順は、軍隊の階級内でも行われましたが、兵隊が病院で監禁されている期間中でも、彼らの給料を失うことはなかったということはとても興味深いです。
 
日本の兵士への反応;
 
 日本の将校や男性との関係では、尋問から出た結果の名前は2つだけでした。 彼らは、ミィッキーナの守備隊の指揮官である丸山大佐と、増援をもたらした水上少将でした。
 
 2人は正反対でした。 
 
前者は硬く、利己的で、彼の部下を考慮せずに反発しました。 
 
後者は善良で親切な男であり、立派な兵士であり、彼の下で働いた人々に最大限の配慮を払っています。
 
 丸山大佐は慰安所の常習者でしたが、水上少将は慰安所を訪れたことはありませんでした。 
 
ミキーナの陥落により、水上少将は部下を避難させることができなかったため自害を決意している間、丸山大佐は避難したと思われた。
 
 兵士の反応;
 
 日本人の兵士は、「慰安所がいっぱいになると恥ずかしくなりがちだ」と彼女は​​言った。彼女によると、「快適な慰安所」で他の人に見られることを恥ずかしく思います。
 
兵隊さんたちは、混雑時に順番を待つ必要がありました。
 
また、朝鮮人慰安婦と日本の兵隊との結婚の提案の例が多数あり、実際に結婚が行われました。
 
すべての彼女たちにとって、最悪の兵隊は、酔っ払ってきた人だと言った。 
 
しかし同様に、日本兵は非常に酔っていたとしても、軍隊の事について話すことはなかったと全員が言った。
 
 彼女たちは軍事問題についての会話を始めるかもしれないが、将校や下士官は話さないだろう。
 
実際には「被験者のようなそのような不婦人を議論するために私たちを追い払った。
 
兵士たちはしばしば、慰安所から雑誌、手紙、新聞を受け取るのが、どれだけ楽しかった事か、と話していました。 
 
彼女達は、缶詰商品、雑誌、石鹸、ハンカチ、歯ブラシ、小さな人形、口紅、および下駄が入った「コンフォートバッグ」を受け取った事について話しました。 
 
口紅と下駄は間違いなく女性用であり、なぜ家の人がそのようなものを送っていたのか彼女たちは理解できませんでした。
 
 送り主が自分自身だけが持っていた、または地元の女性を念頭に置いていたはずだと、彼女たちは推測しました。
 
軍事状況に対する反応;
 
 彼女たちは、日本軍の撤退と米軍による占領の時まで、ミィッキーナ周辺の軍事状況についてほとんど知らなかったようです。 ただし、注目に値する情報がいくつかあります。
 
「ミキティナと滑走路への最初の攻撃で、約200人の日本人が戦闘で死亡し、約200人が町を守るために残った。弾薬は非常に少なかった。
 
「丸山大佐は部下を解散させた。翌日、敵はあらゆる場所で無計画に射撃していた。彼らは特定のことを狙っていなかったので無駄だった。一方、日本兵は 狙いを定めて射撃できると確信したときだけ、一度に一回だけ射撃を命じました。」
 
 敵が西の滑走路を攻撃する前に、北と西の連合軍の攻撃を食い止めるために、ミチーナ周辺に駐留する兵士が他の場所に派遣されました。 主に第114連隊からの約400人の兵士が残された。
 
 明らかに、丸山大佐は町が攻撃されることを期待していなかった。 後に第56師団の水上少将は2つ以上の連隊の増援をもたらしましたが、これらは町を保持することができませんでした。
 
連合軍の爆撃は強烈で恐ろしいことであり、彼女達は、ほとんどの日をフォックスホールで過ごしたということは、彼女たちの間の共通点でした。
 
 1人か2人がそこで仕事を続けた。 慰安所は爆撃され、数人の少女が負傷し、殺されました。
 
リトリートとキャプチャ;
 
「慰安婦」の退却と最終的な捕獲の物語は、幾分曖昧であり、彼ら自身の頭の中では混乱しています。さまざまな報告から、次のことが起こったようです。
 
彼女たちは最終的にウェインマウの近くのどこかに小さなボートで上陸して、8月4日までそこに留まったが、ウェインマウには入らなかった。そこで敵との小競り合いがあり、部隊が分裂する8月7日まで、兵隊たちの進む後に付いていきました。彼女たちは3時間の間隔を空けて兵隊たちに従うように命じられました。
 
彼女たちは、兵隊の指示もなく、川を渡る手段もなく、川の土手にたどり着くためだけにこれを行いました。彼らは8月10日までイギリスの将校が率いるカチン兵に捕らえられるまで、近くの家に留まりました。
 
彼女たちは、ミッチキーナ(Myitkyina)に連れて行かれ、その後このレポートの基礎となる尋問が行われた場所である、レド(Ledo)に連れて行かれた。
 
 
 宣伝
 
彼女たちは、日本人に対して使用された宣伝リーフレットについて事実上何も知らない。 
 
彼女たちは兵隊さんが手に持っているいくつかのリーフレットを見ましたが、日本語で書いてあるためほとんどを理解できず、兵隊さんたちは彼女たちとこのリーフレットの内容について話しませんでした。
 
 一人の少女は丸山大佐についてのリーフレットを覚えていた(明らかにそれはMyitkyina Troop Appealだった)が、彼女はそれを信じなかった。 
 
他の人たちは、兵士たちが時々リーフレットについて話し合っているのを聞いたが、盗み聞きしただけで具体的な発言はなかった。 
 
しかしながら、ある将校が「日本はこの戦争に勝てない」と言ったことは興味深い。
 
リクエスト;
 
 Myitkyinaで使用されている放送を聞いたことのある女性はいませんでしたが、兵隊たちが「ラジオ放送」について話していることを聞きました。
 
 彼らは、軍が彼女たちを捕虜にすることを知ったなら、それが他の女性たちの命を危険にさらすので、「慰安婦」の捕獲を告げるリーフレットを使用すべきでない、と尋ねました。 
 
彼女たちは、韓国で計画された多くの糞を使って、捕虜の事実を伝えることは良い考えだと思っていました。
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以上、米陸軍インド・ビルマにおける、日本人(当時は朝鮮人も日本人でした)捕虜尋問レポートの内容になります。
 
このレポートは、日米戦が終わりに近づいている時期に書かれた報告書であり、敵軍である米軍が書いたものになります。
 
ですので、いくらでも反日的な偏見を持って書くことができました。
 
しかし、それでも、慰安婦たちが性的奴隷としての扱いをまったく受けてなく、衛生面でも配慮され、高い給料を受けとっていた売春婦であると、結論づけていたのです。
 
さらに、日本兵と恋に落ちて、正式に結婚した事例もたくさんあったと書かれています。
 
ベトナム戦争の際、米軍に頼み込んで従軍した韓国軍が、地元のベトナム人女性をレイプして、混血児をたくさん産んだにもかかわらず、それらベトナム人女性と正式に結婚することはもちろん、生まれてきた子供たち(ライダイハン)(Lai Đại Hàn)約3万人を認知することもなく、韓国に帰って知らぬ存ぜぬ、を貫いている韓国軍兵士。
 
それに対して、大東亜戦争中、中国大陸や東南アジア諸国に展開していた数百万の日本軍兵士たち。
 
彼らの中で、地元の女性をレイプして混血児を生んで、その子供を認知することもなく知らぬ存ぜぬを貫いていた、というような兵隊さんは一人もいませんでした。
 
参考図書
UNITED STATES OFFICE OF WAR INFORMATION Psychological Warfare Team Attached to U.S. Army Forces India-Burma Theater Japanese Prisoner of War Interrogation Report No. 49