子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -3ページ目





戦後一度も改正されたことのない憲法。このまま、憲法が改正されないなら、日本は崩壊してしまうと懸念する人達がいます。

なぜ、そのように考えるのでしょうか?

1960年代、日本全国で学生達は大学を占拠して、革命闘争を繰り広げていました。(安保闘争)

彼らは一体何の為にそのような行動をしたのでしょうか?

彼らは皆、マルクス・レーニン主義に被れ、言論の自由と平等がある、民主的な国、日本を転覆して、共産革命を起こすことを、その目的にしてました。


三島由紀夫はかつて、次のように語りました。


「例えば原爆患者の例を見てもよくわかる。原爆患者は確かに不幸な気の毒な人たちである。

この不幸で気の毒な人たちに襲いかかり、たちまち原爆反対と政治運動を展開して、

彼らの疎外された人間としての悲しみにも、その真の問題にも、一顧も考慮することなく、

たちまち自分たちの権力闘争の場面に連れて行ってしまう。

日本の社会問題はかつてこのようではなかった。


戦前、社会問題は挺身したひとたちは、全部がとは言わないが、

純粋なヒューマニズムの動機にかられ、疎外者に対する同情と、正義感とによって、

右にあれ、左にあれ、一種の社会改革という救済の方法を考えたのである。

しかし、戦後の革命はそのような道義性とヒューマニズムは、戦後一般の風潮に染まり、完全な欺瞞と偽善にすり替えてしまった。

われわれは、戦後の社会全体もそれについて責任があることを否めない。

革命勢力から、その道義性とヒューマニズムの高さを失わせたものも、また、この戦後の世界の無道徳性の産物なのである。」と。
(「文化防衛論」三島由紀夫著より)


革命勢力からの、“道義性とヒューマニズムの高さ”を失わせたものの根元は、一体何でしょうか?


戦後の革命家達は、“道義性とヒューマニズム”を、“愛の神的精神”から生まれたものではなく、

“憎悪の精神”から生まれ、また、政治権力を獲得するための道具として、革命運動をしていました。

その根元であり根拠となるよ拠り所は、全て「占領憲法」だったのです。

占領憲法の第25条には、次のように規定されてます。

「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」(権利)

「国は、すべての生活部面において、社会福祉、社会保障及び公衆衛生の増進、向上に努めなければならない。」(義務)

この規定は、国民が、健康的で文化的な生活を送るのは、社会的な恩恵ではなく、“権利”である。

また、国は、国民がそのような社会福祉を受けるように努めなければならない、という“義務”が、国家に課せられています。

これはどういうことを意味してるのでしょうか?

もし、国民が、文化的な快適な暮らしを送ることができないならば、どうなるでしょうか?

国家は、国民が文化的な生活を送れるようにしなければならない、と義務規定されているのにもかかわらず、それが出来ていない。

すると、国民からすれば、自分達に与えられている権利を行使しようと思います。

つまり、国家を敵にして闘うように仕向けられている、ということを意味してます。

占領憲法は、国家に対して、革命闘争を繰り広げるように仕向けられた、革命擁護憲法なのです。


かつて、創価学会の池田大作氏は、次のように言いました。

「国家は諸悪の根元である」と。

三島由紀夫氏は言いました。
「暴力否定が国家否定に繋がることは、実に見やすい論理である。」と。

人が自由を享受し、平和的な文化的な生活を送るためには、その自由に統制を加える国家という存在が必要不可欠であります。

そして、国家というものは軍事力や警察力を持っていなければなりません。

それを“暴力装置”と言って排除しようとする勢力があります。

もし、彼らが“暴力装置”と呼ぶ、軍事力や警察力が無くなってしまったら、どうなるでしょうか?

それは、国家が崩壊することを意味します。

国境の無い、“地球民族主義”を唱える創価学会。

かつての社会党が提唱していた、“非武装中立”。

共産党の平和運動。

彼らに共通するのは、暴力装置である国家の崩壊。

人間の身体は、外部からのばい菌やウイルスから身を守るために、皮膚が必要不可欠です。

この事に意義を唱える人はいないでしょう。

それと同様に国家も、外部からの侵入を防ぐために、自衛隊、国軍や警察機動隊が必要不可欠となります。

それは、ばい菌やウイルスと闘う白血球のように、外部からの侵入者と闘います。

ところが、外部からの侵入者と内通して、国の内部から崩壊することを望む人達がいます。

彼らが暴力装置と呼ぶ警察組織などに入り込んで、外部の侵入者達と内通するのです。

「暴力否定が最極的に革命をもたらすことをよく知ってるのは、革命勢力、特に共産党である。

共産党は最後の革命の手段として、暴力を容認するが、その暴力が民衆の支持を得るまでは、差し控える、ということを知っている。」
(「文化防衛論」三島由紀夫著)

また、三島氏は次のように述べてました。

「革命勢力、容共政権(共産党容認)が成立した場合、たとえたった一人の容共的な閣僚が入ったとしても、

もしこれが警察権力におよぼすことができるなら、ただちに警察署長以下、中堅下級幹部の首のすげ替えを始め、

あるいは若い警察官の中に細胞を潜ませ、警察を内部から崩壊させるであろう。

容共政権が、共産党の一党独裁の準備段階として徹底的に利用され、むしろ、このような緩慢な移行のほうが、急激な武力革命による移行よりも、彼らを歓迎するところである。

したがって、共産勢力と行政権のほんのちょっとだけ連結させれば、そこで何が起こるかは、チェコの二千語宣言が証明している。」(「文化防衛論」三島由紀夫著)

チェコの二千語宣言とは、1968年6月、チェコスロヴァキアにて、作家が書いて公表した宣言であり、

過去の共産党の権力独占を非難し,権力を悪用した者の退陣を要求したものでした。

これに対し、ブレジネフソ連書記長は、共産党統制下でありながら、市民から自発的に発表された共産党を批判する宣言を、反革命であると厳しく非難。

その後、1968年8月、ソ連軍主体のワルシャワ条約機構軍が、チェコに侵略し、全土を占領してしまいました。(チェコ事件)


ちなみに、地球民族主義を唱えた、創価学会を地盤として成り立っている政党が、公明党。

その公明党は、今、国政の連立与党として政権側にいます。

公明党は、連立を組む際に大臣のポストを一つ
だけ要求しました。

それは、国土交通大臣です。安倍内閣の全期間を通して、全て公明党が、この国土交通大臣を務めています。

なぜ、公明党はそれほどまでして、国土交通大臣のポストを要求したのでしょうか?

今、中共は、日本列島をお金で買い漁っています。

爆買です。

特に、水源地を中心に買い漁っています。

中国では、水が汚染されているので、きれいな水資源はのどから手が出るほど欲しい、地下資源なのです。

その土地の購入に関する役所の管轄は、国土交通省。

先進国では、自国の土地の購入に関して、外国資本が入ることを規制していますが、日本では全く自由。

公明党が、国土交通大臣を要求し続ける理由は、ここにあります。

また、公明党は、東京都議会議員の中でも、長年第二位の議席数を占めています。

日本警察機関の中で、重要な地位を占めている警視庁。

その警視庁の管轄は、東京都。

警視庁の予算は、都議会の承認を得なければならないので、警視庁はどうしても都議会議員、それも与党の都議会議員には配慮しなければならなりません。

 

つまり、警察が公明党の言うことを聞かねばならないのであり、創価学会の要求が警察に通ってしまうのです。

 

更に公明党は都議会の警視庁対策の窓口である「警察消防委員会」に幹部を送り込んできました。

 

警察予算の可否の権限をこの委員会が持っています。

 

しかも警視庁の定員は「警視庁の設置に関する条例」に基づく「定員に関する規則」によって定められており、増員するには都議会の決定を得なければならなりません。

 

つまり警視庁の「金」も「人」も都議会に握られているのです。

 

その都議会で公明党が、第2勢力として議席数を確保しているので、国家権力であり、共産革命勢力が暴力装置と呼ぶ警視庁の首根っこを、長い間握られてしまっているのです。


かつて、三島由紀夫は警告しました。

「革命勢力、容共政権(共産党容認)が成立した場合、たとえたった一人の容共的な閣僚が入ったとしても、

もしこれが警察権力におよぼすことができるなら、ただちに警察署長以下、中堅下級幹部の首のすげ替えを始め、

あるいは若い警察官の中に細胞を潜ませ、警察を内部から崩壊させるであろう。」と。


この三島由紀夫氏の警告どおりに、長い間、共産革命勢力により、日本内部が侵食され続けて、かつてのチェコのような状況になりつつあります。

革命を擁護する占領憲法。

そのような危険な占領憲法を、70年以上にわたり一字一句も改正出来ない日本。

共産党容認勢力が政権与党に入り込み、行政機構の内部から侵食され続けている日本。

当時、まだ20代前半だった、共産革命、毛沢東革命を日本全土で展開した全学連などの革命派達は、年齢的にも日本の各分野で責任ある地位にいます。

三島由紀夫氏が予言した日本崩壊の日が、刻一刻と迫っているようです。

では、日本の崩壊を阻止するにはどうすれば良いでしょうか?

それは、占領憲法の改正。いや、占領憲法の全面廃止。そして、新たな憲法の制定。

それに続く、日本の再軍備。

長年、言い続けられてきた事ですが、これしか救国の道はありません。

参考図書
「愛国は生と死を超えて」谷口雅春著
画像
三島由紀夫氏






2020年1月11日、日本の運命を決めるとても重要な選挙があります。

何でしょうか?

米国大統領選挙?

違います。

台湾での総統選挙です。

“外国”の台湾での選挙が、何故、日本の運命を決めてしまうほど重要なのでしょうか?

台湾での大きな政党は中国国民党と民進党。

その台湾の中国国民党の綱領には、中共との”平和協議に応じる”とあります。

この”平和協議”とは何なんでしょうか?

一見すると、”平和”と名前がついているので、響きはいいです。

しかし、本当に”平和”なのでしょうか?

今、元々独立国だったウイグルやチベットで、中共による侵略が進み、少数民族の浄化(大虐殺)が起きています。

そのきっかけは、ウイグルやチベットも、中共と”平和協議に応じた”ことから始まりました。
 
そして、中共は、独立国ウイグルもチベットも、中共の支配下とみなして、少数民族の浄化(大虐殺)を実行し始めたのです。

なぜ、少数民族の浄化政策を実施しているのでしょうか?

中共の党員は、漢民族です。

今の中国は、漢民族の中共に支配されており、中国人民の大多数も漢民族です。

その漢民族に対して、少数民族であるウイグル人やチベット人たちは、虐殺されて、民族を消し去ろうと弾圧を受けているのです。

そして、台湾の中国国民党が、中共との”平和協議に応じる”事を、党の綱領に掲げています。

もし、来年1月11日の総統選挙で、中国国民党の代表が勝ってしまったら、その後の台湾はどうなるのでしょうか?

前例に習って中共が実施するとすれば、台湾に中共軍(人民解放軍)が上陸して、中共に逆らう台湾人を虐殺していくでしょう。

そして、台湾の自治を完全に掌握して、中共の悲願である一つの中国が完成するでしょう。

では、日本にとってこの事はどんな意味を持つと思いますか?

“台湾”は地理的に日本と近いけど、チベットやウイグルで起きているのと同様、”外国”で起きた中共による侵略である。

よって、外国で起きた事にあまり関心をもたない日本にとって、台湾の事は直接何の関係も無い。

その程度の認識でしょうか?

現在の中共軍の潜水艦はそれ程脅威でないといいます。

何故なら、中国大陸と台湾島の西海岸の間の台湾海峡の海底は、50mほどで浅いため、潜水艦が潜行している場所の探知が容易にできるからです。

しかし、台湾島が中共軍に支配されたら、話は別。

台湾島の東海岸の海底は、水深が1000mもある非常に深い海底になっています。

その深い海底を、中共軍(人民解放軍)の潜水艦が潜行していくと、米軍でも探知する事が難しくなります。

そして、中共軍の潜水艦は、そのまま深い海底を潜行して、米国の西海岸まで行く事が可能になります。

もし、その潜水艦に核ミサイルを装備していたら、米国はどのように感じるでしょうか?

1962年8月、米国陣営とソ連陣営の冷戦時代。

ソ連と、カストロ大統領という独裁者がいた社会主義国キューバが軍事協定を結び、核ミサイル基地をキューバに建設し始めました。

10月14日、米国の偵察機がこのミサイル基地建設を発見。

10月16日、ワシントンで国家安全保障会議が招集。

10月24日、米国は、建設資材がソ連からキューバに運び込まれるのを阻止する為、キューバ周辺のカリブ海を海上封鎖。(キューバ危機)

これを受けて、ソ連は米国に抗議。

10月26日、米軍の警戒レベルが5段階のうちレベル2まで上がり、準戦時体制に。

この間、ケネディ米国大統領とフルシチョフソ連書記長との書簡でのやり取りをしてました。
(この事件後、米ソ間にホットラインが設置されました。)

10月28日、最終的にフルシチョフソ連首相が、米国がキューバを攻撃しないなら、キューバからミサイル基地を撤去する事に合意。

これで、核戦争の危険は回避されました。

国家安全保障会議に出席した者の多くが、キューバのミサイル基地を攻撃する事を強く主張しました。

しかし、ただ一人、ケネディ大統領だけが反対しました。

もし、この時、ケネディ大統領が、攻撃するのを待つ、という判断をしてなかったら、核戦争になっていたかもしれません。

このように、米国本土のフロリダからすぐ近くに核ミサイルが配備されそうになったら、過剰に反応して対抗措置をとるのが米国です。

そして今度は、中共軍の核ミサイルを装備した潜水艦が、米国本土の西海岸、カリフォルニア州近海に現れてきたら、米国はどう感じるでしょうか?

また、その潜水艦の位置を米軍が探知することができないとしたら、米国の安全保障にとって脅威となります。

もしかしたら、米中の核戦争が起きてしまうかもしれません。

同時に、日本の安全保障にとっても脅威となります。

何故、日本の安全保障にも脅威になるの?
と、もしかしたらあなたは思ったかもしれません。

米国の安全保障の脅威になるということはわかったけど、日本には、米軍基地があるし憲法9条もあるわけだから、まさか、中共軍が日本を攻撃することはないでしょう、と。


今現在、米国と日本、インド、オーストラリアの四か国で、中国包囲網を構築しようとしています。

しかし、台湾が中共軍の支配下になってしまったら、この中国包囲網は全く無意味になります。

何故なら、地理的に日本とオーストラリアの間が分断されてしまうからです。

さらに、日本に常駐している米軍基地も撤退するかもしれません。

何故なら、台湾島と日本列島が米国の同盟国であったから、日本に常駐している米軍が、東アジアを牽制することが出来たのですが、

その台湾島を失い、共産国に取られてしまったら、日本列島だけでは、とても戦略的に東アジアを牽制する事が出来ないからです。

かつて、日本を占領統治していた占領軍のマッカーサーは、台湾島の事を次のように表現しました。

台湾島は、空母20隻分の価値がある、と。

その台湾が中共の支配下に置かれたら、逆に空母20隻分の脅威となります。

これでは、さすがの米軍でも戦略的に不利な立場になるので、日本列島に約70カ所ある米軍基地に駐留している米軍は、ハワイ諸島まで撤退するかもしれません。

もし、それが現実に起きてしまったら、日本の安全保障はいったい誰が面倒みてくれるのでしょうか?

いや、憲法9条があるから大丈夫、平和憲法があるから大丈夫、と進歩的文化人の方々は主張されるでしょう。


しかし、本当に憲法9条が、中共軍の上陸を阻止出来るのでしょうか?

相手は、独立国ウイグルに侵略して虐殺し、独立国チベットに侵略して虐殺し、また、香港で無防備な学生達を虐殺している中共軍です。

法律やモラルや規律など関係ない軍隊です。

米軍が撤退して丸腰になった日本は、すかさず中共の餌食となるでしょう。

まずは尖閣諸島から上陸し、次は沖縄諸島、その次はいよいよ日本本土。

その前に、日本は中共に無条件降伏してるかもしれません。

この最悪のシナリオの始まりは、2020年1月11日に行われる台湾総統選挙。

この総統選挙で中国国民党の党首が勝つか、民進党の蔡英文が勝つかで、日本の運命が決まってしまうのです。

最悪のシナリオにならないように、私たち日本人は、台湾総統選挙の行方を注視しなくてはなりません。


昭和21年3月6日、占領中の日本に、米国から教育使節団がきました。


団長は、ジョージ・D・ストダード(George D. Stoddard)


日本側では、教育使節団に対応するために教育家委員会が組織され、東京大学総長の南原繁が、その委員長となりました。


教育使節団のメンバーの一人に、ジョージ・S・カウンツ(Geroge S. Counts)がいました。


彼は、報告書の国語改革の部分を担当したのですが、米国の国務省から依頼が来た時、断りました。


その理由は、日本語の事はよくわからないので、という事でした。


しかし、日本語について知らなくても良かったのです。


なぜなら、マッカーサーが推し進めている、日本の民主化に貢献できるような改革が出来れば、それで良かったからです。


昭和20年3月30日、ジョージ・S・カウンツの他、使節団のメンバー達は、日本に滞在した20日間で報告書をまとめ、マッカーサーに提出しました。


その報告書には、何が書かれていたのでしょうか?


日本語のローマ字化。


漢字を廃止して、日本語をローマ字を使って表現する事、とありました。


日本の小学生達は、漢字を覚えたり書いたりする、というつまらぬ仕事に割くことを要求されている。


そして、その習得のために膨大な時間を使っている。


そのため、自然界や人間社会についての本質的な知識の獲得に、捧げる事のできる時間が少なくなっている。


これからは、漢字を全面的に廃止して、すべてローマ字で表記する事が、日本の将来のために良い、と。


報告書には書かれてませんでしたが、さらにもっとも重要な事が、ローマ字採用に隠されていました。


それは、漢字を全面的に廃止すると、日本人は、歴史的文書を読めなくなるので、日本の歴史や文化の分断、断絶ができるようになる、という事でした。


この報告書に従って、昭和21年(1946年)4月1日、全編ローマ字で書かれた児童雑誌「Robin」創刊。


昭和21年(1946年)11月、米国国務省でローマ字化大賛成派の国務次官捕ジョン・ヘンリー・ヒルドリング(John Henry Hilldring)とベントンは、教育使節団の報告書を読み、政策文書「日本の国字改革と国語問題」を作成。


そして、国務・陸軍・海軍三省調整委員会(SWNCC)の審議に付託しました。


ジョン・ヒルドリングは、「民主主義体制は、適切な情報を与えられた選挙民があってこそ機能するのだが、そうした選挙民を育てるのに妨げとなっているのが日本語の表記方法である」

ジョージ・アチソン・ジュニア(George Atcheson Jr)に説明。


ジョージ・アチソンは、この件をマッカーサーに相談すると、次のような意見を述べました。

「これは、日本人自身にまかせるべき問題だ」と。


また、「この問題をこれ以上騒ぎ立てるのは賢明でない」と。


ジョージ・アチソンは、このマッカーサーの意見をヒルドリングに書き送りました。


ワシントンの国務省では、マッカーサーの意見に従い、日本語ローマ字化の政策を撤回。


マッカーサーの、「日本国民の意思に任せる」、という意見や、ワシントンが、日本語のローマ字化の政策提言を撤回したという事も知らずに、


昭和22年4月、学校の教育現場で、小学四年生からローマ字を教えるようになりました。


一方、ローマ字雑誌は、一時は27誌も創刊されたのですが、昭和25年10月には、わずか2誌が残るのみで、他の雑誌は売れずに廃刊となりました。


日本の国語審議会でも、日本語のローマ字化が議論され、昭和27年に日本の主権が回復した後も、


小学校では、ローマ字教育が実施されていきましたが、ローマ字が普及することはありませんでした。


同じ漢字廃止の中で、ローマ字教育の他に、仮名文字を推進する人達もいました。


教育家委員長であった南原繁は、漢字を廃止してローマ字にする国語改革について、全く反論しませんでした。



書道と、柔道、剣道、空手などの武道も全面的に廃止。


その理由は、軍国主義につながるというものでした。



各都道府県単位に教育委員会を設立。


戦前の日本では、文部省が権限を集中して持っており、一元的に教育方針を決めていました。


これは民主的ではない。


そこで、各都道府県単位に教育委員会を作り、それぞれの地域で、教育方針を決めていくべきである、と。


教育使節団のドナルド ニュージェントが、米国の教育制度をモデルにして提言しました。


修身の授業の廃止。


修身の学科は、日本人が、忠義心を通して従順な公民になる事を目的としていたので、これは軍国主義につながる、という理由で廃止にされました。


神話と歴史の分離。


日本の歴史と神話が意図的に混同されていたので、客観的な歴史から日本神話を分離して、他の民族と同じように、文学として保存する。



男子校、女子校から男女共学へ。


明治24年(1891年)、「学級編成等に関する規則」が発行。


尋常小学校の1、2年だけを共学として、3年生以降は男女別々の学ぶこととしていました。


また、男子と女子で、カリキュラムも教科書も全く別な物とすることが、公立、私立の各学校に義務付けられました。


それに対して、報告書では、男女平等が民主的であるため、男子校と女子校を廃止して、男女共学にすることを提言しました。


男子校、女子校が、終戦まで日本全国にあったのはなぜでしょうか?


例えば数学。


女子は数学が苦手という先入観が先生にも生徒にもあるので、男女共学にしてしまうと数学の成績上位は男子生徒が占めます。


しかし、女子校で同じテストをすると、男女共学の成績上位者と同じくらいの成績を女子校生徒がとります。


女子校では女子しかいなので、男子と比較して女子が劣っている、という先入観がないからかもしれません。


これは数学の一例ですが、共学にするより男子校、女子校と分けた方が、成績や能力が伸びるために、戦前の日本では、全国的に男女を別々にしたのでしょう。



義務教育


明治33年(1900年)、尋常小学校の授業料が無償化となり、1915年(大正4年)には通学率が90%以上でした。


義務教育期間は、尋常小学校修了するか14才になることの、どちらか早い方まで、とされていました。


報告書では、小学校6年、中学校3年の9年間を、義務教育として学び、6才から15才までを義務教育期間とする、と提言しました。


また、それまであった飛び級制度を廃止。


理由は、皆、年令に応じて平等に授業を受けなければならない。


学力に応じて飛び級などしたら、他の学力のない人と不公平になる。という理屈でした。


ちなみに、米国では、15才の子供が大学に入学して学んだりしており、飛び級は当たり前にあります。



安倍文部大臣

ロバートポール

ヒルガード

前田多門 文部省



教育勅語の廃止。


その替わりに、”京都勅語”というものを導入しようとしました。


シーフェリン司令官は、マッカーサー宛てに次のように手紙を送りました。

「マッカーサー元帥がこれを拒否するようなら、大変な損失です。


マッカーサー元帥が、いま学校に浸透している日本人の権力に対する服従と尊敬の念を、継続的に利用しようと思っているのなら、天皇に勧めて新しい勅語を出させるべきです。


マッカーサー元帥が、日本人の考え方を無理のない方法で変えようと望むのなら、これ(京都勅語)しかありません。」と。


このシーフェリン司令官からの手紙を受けとったダイク局長は、教育部に回しましたが、教育部では、マッカーサー元帥まで報告する事なく放置。


七カ月後の1946年7月まで何もしない


京都勅語


朕思うに、皇祖こうのうに教育に関する勅語をたまいてより、じに五十有5年、国運に興隆し国威四海に輝くを得たり。

しかるに我が国、今や空前の苦艱(くかん)に遭遇し、再建の前途なお遼遠なり。

 

顧みるに、維新以来の国運の隆昌はもすれば、人心の安逸(あんいつ)を招き、国事を後にして専ら一身の栄達一家の繁盛を希うの風を超し、且(か)つ、累次(るいじ)の戦勝は僑慢(きょうまん)の心を唆(そそのか)したり、徒に(いたずらに)自国の優越に酔(よ)いて、国際精神を希薄(きはく)ならしめたるは否むへきにあらす。剰(あますさ)へ、封建の遺風ありて君民の間を遮(さえぎ)り、言論の暢達(ちょうたつ)を妨げて、遂に国策を誤るに至りたる痛恨措(お)く能(あた)はざる處(ところ)なり。

 

会得し、君民一体の賓をけて国体の精華(せいか)を発揮すべきは云(い)うを俟(ま)たす。以って、民意の暢達を遺憾ながらしめ、我が国が自由、平等、公正の精神横溢(おういつ)せる道義的立憲国として信を列国の間に恢復(かいふく)し、人類の平和と福祉とに寄興(きよ)し得むことは朕の念願止まさる處(ところ)なり。

 

汝臣民、宜しく真理を愛し、良心を明らかにし、責任感を固くし、自他の人格を尊重し、寛容を持って一切の自由を確保し、大和以って協同の賓を学けて内は文化、政治、社会、経済における凡ゆる機会を均しくしてその楽を分ち、外列国との友誼(ゆうぎ)を篤(あつ)くし、之と協力して永く



参考図書

「国敗れてマッカーサー」西鋭夫著


 

 

 

 

日本統治時代の朝鮮半島から多くの朝鮮人が、日本に強制的に徴用されてきた、と主張する国や団体があります。

 

本当に当時の朝鮮人たちは、強制的に日本に連行されてきたのでしょうか?

 

当時の朝鮮人は、日本人として扱われていたので、朝鮮人としてパスポートを持って日本に入国する必要はありませんでした。

 

しかし、全く自由に内地(日本列島)に渡航できたわけではなく、旅行証明証の提示を義務付けられていました。

 

いつ頃から、この渡航証明制度ができたのでしょうか?

 

大正8年(1919年)3月1日、朝鮮の独立運動を行っていたキリスト教、天道教、仏教などの宗教指導者たち33名が、3月3日に朝鮮国王の高宗の葬儀が行われるのにあわせて、ソウル市内の公園に集まり、独立宣言を朗読。

 

そこに集まった学生など数千人の人々が、市内をデモ行進。

 

やがて、このデモ行進が朝鮮全土に広がり、暴徒化。警察署・村役場・小学校等が襲われ、放火・投石・破壊・暴行・惨殺も多数行われる事態に。(3・1事件)

 

この3月1日のクーデターをきっかけとして、翌月の大正8年4月から、朝鮮人が朝鮮半島から日本に渡航するときは、所轄警察署から旅行証明をもらい、出発地の警察官への提出を義務付けるようになりました。

 

そして、それまでの武断政治から文民政治へと転換するため、日本政府は、長谷川好道を更迭して、斎藤實(まこと)男爵を朝鮮総督に送りました。

 

大正8年(1919年)9月、朝鮮総督に就任した斎藤實(まこと)男爵は、政務総監となった水野錬太郎とともに、南大門駅(現ソウル駅)において、テロリスト姜宇奎(カン・ウギュ)によって爆弾を投げつけられました。

 

この事件で2人は無事でしたが、護衛の警察官など37名が死傷しました。

 

(1962年、韓国政府は、テロリスト姜宇奎(カン・ウギュ)に、建国勲章大韓民国章を叙勲し、ソウル駅前に銅像を建立。)

 

通常でしたら、このような事件が起きると強硬な態度を取ってもおかしくないのですが、斎藤實(まこと)男爵は、高圧的な態度を取る代わりに、寛大で友好的な姿勢を取り続けました。

 

東京の軍や官僚から非難を浴びようとも、時間をかけて朝鮮の人々の幸福と繁栄を成し遂げようとしました。

(”The Christian Advocate" メゾシスト教会 ハーバート・ウエルチ著)

 

具体的に朝鮮は、どのような物質的発展を遂げたのでしょうか?

 

朝鮮の人口の82%は農業従事者でした。耕作面積は1912年で1060万エーカー(約42、900平方キロ)。1923年では1500万エーカー(約6万平方キロ)と11年で1.4倍。

 

農作物の推定原価は4億3500万円から11億6900万円に上がりました。

 

これは農業金融の組織化と荒地の開拓、農法の改善などによります。

 

1912年時点の未償還の農業貸付金額は500万円未満でしたが、1923年には1億3400万円以上となり増加の大部分が農業の様々な改良のための投資にあてられていきました。

 

養蚕の生産高は、1910年で40万円にすぎませんでしたが、1923年では2600万円にまで増加しました。

 

林業では、併合前までは、森林保護はほとんど無視されてきました。

 

そのため、薪や建築資材の深刻な不足と、はげ山が、雨季の大量の降水量に耐えられなくなり、毎年深刻な土砂災害を誘発していました。

 

1911年、朝鮮総督府は新たに造林規定を設けました。

 

併合以来、10億以上もの苗が、朝鮮の森林を再生するために植えられていきました。

 

政府はさらに、森林組合の結成を促進して、1925年にはこれらのうち350の組合で総組合員数がほぼ100万人になりました。

 

漁業では、漁法の改良、水産物の保存や包装方法の改良がなされて、1912年の漁獲高は800万円に対し、1921年は4500万円に増加。

 

鮮魚の輸出高は1912年は13万8千円に対し、1921年は700万円以上に増加。

 

製造業では、併合前までは、商業や産業の進歩は深刻に阻害されていました。それは貨幣システムの劣悪な状況、生活と財産への不安、怠惰で腐敗した政治によるものであります。

 

また、産業の様々な分野の科学的研究から得られるであろう恩恵に対しても、韓国政府の関心が不足していたことが原因でした。

 

これらの問題の一つ一つに対して、朝鮮総督府は大幅な改革をして行きました。

 

その結果、1912年の貿易高、88,101千円に対し、1921年は450、658千円と、9年間で5倍以上に増加しました。

 

日本が朝鮮半島を併合したことで、朝鮮の産業は飛躍的に発展して行きました。

 

このように朝鮮半島内において、飛躍的に産業が発展していったことで雇用も創出されていったのですが、それにも増して朝鮮人の人口が急激に増えていったため失業率も増えていきました。

 

この旅行証明制度は、大正11年(1922年)12月、朝鮮総督府が廃止に。

 

翌年の大正12年(1923年)9月1日、関東大震災が発生。

 

関東大震災後の復興事業のための労働需要が増えたので、多くの朝鮮人労働者が仕事を求めて日本内地へやってきました。

 

その数は、大正13年(1924年)時点で12万人。

 

大量の朝鮮人たちが日本にやってきたために、今度は日本内地での労働力が過剰となり、失業者が増えてしまいました。

 

そのために、日本政府の内務省は、朝鮮総督府に対して、朝鮮人の日本内地への渡航を制限するように要求。

 

朝鮮総督府は、この要請を受けて、一定の条件を満たさないと日本内地に渡航できない、という制限を設けました。

 

しかし、この渡航制限にもかかわらず、その後も仕事を求めて、朝鮮半島から日本内地へ渡航する人は増え続けて、昭和3年(1928年)時点での日本内地に住む在日朝鮮人の数は、24万人に上りました。

 

このままの勢いでは、ますます日本内地での失業率が増える一方。

 

この日本内地の失業問題と在日朝鮮人の問題について、昭和4年(1929年)12月、日本政府の内務省と拓務省、そして朝鮮総督府が合同で協議しました。

 

「朝鮮側での地元阻止(渡航制限)を継続奨励するとともに、特に労働者の援産事業を起こし、なるべく朝鮮内で就職できる道を開く」ということを決定。

 

朝鮮人が日本内地に仕事を求めて出稼ぎに来るのではなく、朝鮮半島の中で雇用を創出するようにしようとしたのです。

 

この当時、朝鮮人が朝鮮半島の釜山から日本に出発する前に、その釜山港の桟橋にある水上署出張所調査室において、朝鮮人労働者は、戸籍謄本と再渡航証明書を提示することが義務付けられ、

 

また、朝鮮人学生は、所属する学校の在学証明書を提示することが義務づけられていました。

 

さらに目的地などについて口頭での調査をしてから、朝鮮人に渡航伝票を交付していました。

(「在日朝鮮人処遇の推移と現状」森田芳夫著 法務研究報告書)

 

この渡航伝票がもらえない朝鮮人たちは、密航船に乗ってまでして日本内地に渡航してきました。

 

昭和7年(1932年)1月8日、代々木練兵場で行われた陸軍始観兵式から皇居に戻る途中、昭和天皇を乗せた馬車が、桜田門の外で警視庁前付近を通った時、朝鮮人テロリスト李奉昌が、手榴弾を投げつけました。

(桜田門事件)

 

幸い、暗殺未遂に終わり死傷者はでませんでした。

 

この事件の黒幕は、上海で独立運動をしていた、大韓民国臨時政府の金九でした。

 

(のちに建国された韓国は、テロリスト李奉昌を、独立三義士として建国勲章と記念切手を発行し、独立記念館で顕彰しています。)

 

昭和7年(1932年)1月28日、上海で国民党軍と日本海軍陸戦隊との軍事衝突が発生。(第一次上海事変)

 

この戦闘がほぼ収束にむかった頃、4月29日の天長節に合わせて勝利を祝う記念式典を開催することとなりました。

 

昭和7年4月29日、式典の会場である上海の虹口公園(現在の魯迅公園)に日本軍の要人たちが集まり、わずかな隙を見計らって、その要人に向けて朝鮮人テロリスト尹奉吉が爆弾を投下。

(上海天長節爆弾事件)

 

このテロ事件により、上海派遣軍司令官の白川義則大将ら数名が死亡。また重光葵(終戦後、戦艦ミズーリ上で降伏文書に署名した外相)が片足を切断。そのほか数名が重症を負いました。

 

この事件の黒幕も、独立運動家の金九でした。この事件後、日本海軍と陸軍、特高警察などが、血眼になってこの金九を探しましたが、ついに見つけ出すことができませんでした。

 

(のちに建国した韓国は、テロリスト尹奉吉に対して、独立運動の義士として建国勲章と記念切っ手を発行し、独立記念館で顕彰しています。)

 

このような朝鮮人による凶悪なテロ事件が相次いだため、日本内地に住む在日朝鮮人に対する警戒を厳重に行うようになっていきました。

 

昭和7年10月からは、日本内地に渡航する朝鮮人全員に対して、朝鮮半島内の所轄警察署または駐在所で交付した、身分証明書を所持させる制度が実施されました。

 

若い朝鮮人では、学校が発行する在学証明書を偽造したり他人の証明書を使用したりして、日本内地に不正に渡航する人が多くいました。

 

なぜ、そこまでして、朝鮮人たちは日本内地に渡航しようとしたのでしょうか?

 

朝鮮併合時の1910年、朝鮮人の人口は1313万人でしたが、日本が朝鮮を統治してから32年後の昭和17年(1942年)には、2553万人に増加。(この他、日本内地に200万、樺太、ソ連、満州に200万人)

 

わずか32年で約2倍に人口が増加したのです。

 

この爆発的な人口増加のために、仕事が見つからない失業者が急増。そのため、朝鮮半島から密航してまで日本内地へ仕事を求めていったのです。

 

昭和13年(1938年)3月、朝鮮総督府は、日本政府の内務省と厚生省と協議をして、次のような取り決めをしました。

 

1、内地側は労働者以外の一般朝鮮人の渡航は自由であることについて、その趣旨の徹底に努め、朝鮮側が発給した証明書を尊重して、二重取り締まりの弊害を避ける。

 

5、内地在住の不良朝鮮人は、内地側当局が強化指導につとめ、朝鮮に送還することを控えること。ただし、内地側の協和事業を妨害するものは送還すること。

 

6、内地の雇用主で、朝鮮内から労働者を募集する者に対しては、内地在住の失業朝鮮人から雇用するように勧告し、朝鮮内から新規の労働者を不正の方法で誘因しないよう取り締まること。

 

など。

 

朝鮮総督府では、朝鮮半島にて大規模なダム建設やインフラ整備、農地開拓など殖産興業を盛んに行いました。しかし、この急激な人口増加に伴う失業問題を解決するには不十分でした。

 

その出稼ぎ労働者の数は、昭和に入り年間10万人を超え、昭和15年以降は年間20万人を数えました。

(「数字が語る在日韓国・朝鮮人の歴史」森田芳夫著)

 

日本統治時代、朝鮮人は、行きたくないのに日本に無理やり強制連行されてきたと主張します。

しかし、その実態は、仕事を求めて密航までして日本にやってきた出稼ぎ労働者でした。

 

参考図書

「在日・強制連行の神話」鄭 大均著

「The New Korea」 アレン・アイルランド著

 

 

香港で無防備の学生達が、中共軍(人民解放軍)により、テロを受けています。

 

なぜ、中共軍(人民解放軍)は、同じ自国民であるはずの無防備な学生達を、容赦無く殺していくのでしょうか?

 

昭和20年8月15日終戦。

 

この日から台湾に住んでいた約50万人の日本人たちが、一斉に内地(日本本土)に帰って行きました。

 

なぜ台湾に住んでいた日本人たちは、終戦後も台湾に住み続けることができずに、帰らなければならなかったのでしょうか?

 

連合国は、日本がポツダム宣言を受諾して無条件降伏した時点で、本州、四国、九州、北海道の4島だけに日本人が住むことを許しました。

 

したがって、それまで満州、朝鮮半島、台湾、中国大陸、樺太、千島列島に住んでいた民間の日本人たちは、一斉に日本本土に向けて引き上げていったのです。

 

もちろん武装解除した日本兵たちもです。

 

これらの地域では、日本人たちが引き上げていったあと、誰が統治したのでしょうか?

 

朝鮮半島は38度線を境にして、南を米国、北をソ連軍が統治し、満州は一旦、ソ連軍が統治したあと、毛沢東の中国共産党軍に移譲。樺太と千島列島はソ連軍が統治しました。

 

では台湾は、どこの国が統治したのでしょうか?

 

日本軍が武装解除した後、蒋介石の国民党軍に台湾が明け渡され、昭和20年(1945年)10月17日、約1万2,000人の兵士と官吏200人が台湾島に上陸。

 

10月25日、「光復」(日本からの解放)を祝う式典を行って、台湾を統治し始めました。

 

翌11月から、毛沢東の中国共産党軍と蒋介石の国民党軍が戦闘を再開。(国共内戦)

 

中国大陸は内戦状態になりましたが、満州を支配下においた共産党軍が連戦連勝。

 

また、米国のバックアップもなくなってしまった蒋介石の国民党軍は総崩れして、昭和24年(1949年)10月、台湾に避難。

 

そのまま、国民党軍(中華民国政府)が、台湾を統治することとなりました。

 

台湾に上陸した国民党軍の兵隊達は、台湾人が歓迎して沿道で見守る中、主要道路を行進しました。

 

その国民党軍の兵隊たちを、歓迎しようと沿道でみた台湾人の中に、後に台湾総統となる李登輝がいました。

 

彼は、このときの感想を一言で次のようにのべました。

 

「番犬が去って、豚が来た」と。

 

番犬とは日本軍のこと。日本軍の規律は世界でも一番の厳しさ、また、日本人は法律を守ることに非常に厳しかったので、「番犬」と例えたのです。

 

一方、国民党軍は、軍規も緩く、腐敗しきっていました。

 

それは、兵隊の行進する姿をみれば、一目瞭然。

 

そのような腐敗し切った国民党軍を「ぶた」と例えたのです。

 

国民党軍が台湾を統治するようになってから、どのようなことをしたのでしょうか?

 

まず、日本統治時代に作られた建物を、かたっぱしから破壊していきました。

 

神社仏閣を始め、ありとあらゆるものをです。

 

建物だけではあきたらず、日本統治時代、日本内地の東京や京都や大阪などの帝国大学で学んだインテリ層の人間も、消して行きました。

 

どうやって消していったかというと、虐殺です。

 

昭和22年(1947年)2月27日、台北市で闇たばこを販売していた女性(本省人)に対して、官憲(国民党)が、女性を銃剣の柄で殴打し、商品および所持金を没収しました。

 

翌日の2月28日、この事に対して、一般市民が市庁舎に向ってデモを行い、激しく抗議。

 

なぜ、本省人の人たちは、激しく抗議デモをおこなったのでしょうか?

 

国民党軍が台湾にきて以来、元々台湾に住んでいた人たち(本省人)と、戦後に中国大陸からきた国民党の人たち(外省人)との間で、対立感情がありました。

 

日本統治時代は、台湾帝国大学も創設されたり、小中の学校教育も充実して、インフラも整備されたので、台湾の経済は、日本内地の東京市と同じくらいの高い水準でした。

 

また、夜も家の窓を開けっ放しで寝ても安全なほど、治安がよかったのです。

 

しかし、国民党軍が台湾にきてからは、治安が悪化していき、役人の著しい汚職、軍人・兵士などによる狼藉、さらに著しいインフレーションになり、倒産企業が相次ぎ、台湾経済は大混乱になりました。

 

日本の統治を体験した台湾人たちは、汚職まみれの国民党政権にに対する不満が、爆発寸前だったのです。

 

そのような背景のもと、この228事件は、両者の対立感情が一気に噴き出した事件でした。

 

デモ隊に対して、市庁舎の屋上から国民党の憲兵が機銃掃射。

多くの丸腰の市民達が虐殺されていきました。(228事件)

 

これをきっかけにして抗議デモが、台湾全土に広がっていきました。

 

収集がつかなくなってしまった、台湾行政長官の陳儀は、この時まだ大陸にいた蒋介石に、次のように打電。

 

「政治的な野望を持っている台湾人が大台湾主義を唱え、台湾人による台湾自治を訴えている」

 

「台湾人が反乱を起こした」

 

「台湾の独立を企てた反逆行為を行なっている」と。

 

蒋介石は、この電報を受けて、翌3月、第21師団と憲兵隊を大陸から台湾に派遣。

 

国民党軍は、台湾の各都市に厳戒令を発令して、武力により徹底的に鎮圧していきました。

 

特に、裁判官や医師や弁護士、教師など、日本統治下で帝国大学などで高等教育を受けてきたインテリ層を中心に、逮捕、投獄、拷問の後、虐殺。

 

国民党軍は、北京語を上手く話せない本省人を全て逮捕し、針金を手に刺し込んで縛って束ねて「粽(チマキ)」と称してトラックに載せて、そのまま港に投げ込んだりしました。

 

約3万人の本省人の市民が虐殺されていきました。

 


この時期の本省人は、厳密に言うと日本人でした。


昭和26年(1951年)9月8日、サンフランシスコ講和条件に日本が署名した時点で、日本は正式に台湾の権利、権限、及び請求権を放棄しました。


したがって、それまでの台湾は日本に権利、権限があり、日本統治時代から台湾に住んでいた人達は、日本国籍だったのです。


つまり、228事件に端を発した、国民党軍による白色テロの犠牲者は、この時までは、日本人が虐殺されたわけです。


なぜ、中共軍(人民解放軍)や国民党軍は、同じ国民であるはずの一般市民を、平気で虐殺するのでしょうか?

 

中国の歴代皇帝は、大陸を武力で支配すると、土地や建物、地下資源はすべて皇帝の所有物として認識しました。

 

物的資源だけでなく人的資源もです。

 

つまり中国大陸の上で生活している人民もすべて、皇帝の所有物として認識してました。

 

国民が支配者の所有物ってどういうこと?

 

と、あなたは思うかもしれません。

 

日本人の感覚では理解できないかもしれませんが、歴代の中国皇帝は、土地建物など物的資源だけでなく、その土地の上で生きている人間も自分の所有物として認識していたのです。

 

このような統治を「うしはく」といいます。

 

「うしはく」の統治では、支配者に逆らったものは、容赦無く捕まり消されます。

 

特に中国では、反革命分子というレッテルを貼り、人間扱いをしません。

 

なので、同じ国民、同じ民族であるはずなのに、平気で虐殺していくのです。

 

まるで、家畜のように。

 

ご主人様にさからった家畜は、容赦無く虐殺。

 

ご主人様に従順でしっぽをふっていたら、それなりに生かしてくれる。

 

それが、「うしはく」統治。

 

一方、日本の歴代の統治者は、どのように統治していったのでしょうか?

 

武力で天下統一した武将が、日本の統治者と思うかもしれませんが、その武将に征夷大将軍の位を与えてた天皇が、日本国の最高権力者になります。

 

では、その歴代天皇は、どのように日本を治めていたかというと、国民のことを大御宝(おおみたから)として、治めていました。

 

このような統治を「しらす」といいます。

 

大御宝(おおみたから)とは、国民は宝である。その宝である国民の生活が平和で豊かになってほしい、と常に祈っていました。

 

いまでも祈っています。

 

日本国民だけでなく、世界の国々の人々の平和と繁栄を、天皇は祈ってくれているのです。

 

皇恩に感謝。

 

そして、この宝である国民から信任が得られないようになったら、いつでも、天皇という役目を終える。

 

そういう立場で、日本を統治してきました。

 

このような「しらす」統治をしてきた国家は世界の歴史上、日本を除き、存在しません。

 

ですので、天皇のことについて、中国人はもちろん欧米人も理解できません。

 

せいぜい、「英国の王室と同じじゃないの」、程度の認識です。

 

英国の王室も他のヨーロッパ諸国の王室貴族達もすべて、「うしはく」統治してきました。

 

日本の天皇のような、「しらす」統治ではありません。

 

昭和24年(1949年)5月19日、国民党は改めて台湾全土に厳戒令を敷き、その後も継続してインテリ層を中心に徹底的に弾圧していき、逮捕、投獄、そして処刑していきました。(白色テロ)

 

この戒厳令が解除されたのは、なんと38年間後の昭和62年(1987年)でした。

 

台湾での白色テロが終ってから32年後の令和元年(2019年)、舞台は香港。

 

大学生を中心としたインテリ層を中心に、香港警察や機動隊を装った中共軍(人民解放軍)が、狙い撃ちしています。

 

台湾から香港に舞台を移し、今度は中共軍(人民解放軍)により、白色テロが起きています。

 

香港大虐殺。

 

そんな歴史的事実が起きないように祈ります。

 

参考画像

228事件

 

 

 

 

香港で大虐殺が起きようとしてますが、実は、今から30年前に、北京市内の天安門広場で同じような大虐殺がありました。


この事を知っている中国人民はあまりいません。


なぜなら、中共が、中国人民に対して、インターネットなど情報統制を厳格に行っているからです。


天安門大虐殺とは、どのように起きたのでしょうか?


1985年、ゴルバチョフが、ソ連の共産党書記長に就任。


彼は、ペレストロイカをスローガンに、ソ連政府の改革を実行していきました。

 

それまでのソ連国内では、宗教の自由や言論の自由が許されていませんでしたので、政府内部は腐敗しきっていました。


崩壊寸前まで進行していた、汚職腐敗まみれのソ連を立て直すため、ゴルバチョフが実行していったのは、”民主化”(ペレストロイカ)政策だったのです。


翌年の1986年、中国共産党の総書記に胡耀邦が就任。


胡耀邦総書記は、ゴルバチョフが推進していた民主化(ペレストロイカ)を見習い、共産国でありながら”言論の自由と民主化”政策を提唱。


この胡耀邦総書記の民主化の提唱には、学生やインテリ層を中心に、中国人民から支持されました。


汚職腐敗まみれの中共を立て直してくれるのは、胡耀邦総書記しかいない、と。


しかし、この民主化の動きをよく思わない勢力がありました。


当時、中共のトップだった鄧小平と保守派の長老たちです。


しばらくして、胡耀邦総書記は失脚。


平成元年(1989年)4月15日,胡耀邦元党総書記が死亡。


学生達やインテリ層達は、失望してしまいました。


胡耀邦総書記の謎の死から間も無く、学生達が次第に自然発生的に、天安門広場に集まってきました。


 

その数は日に日に増えていき、広大な天安門広場を埋め尽くすほどになり、ついに10万人に。


なぜ多くの学生たちは、天安門広場に集まったのでしょうか?


学生達は、中共政府の民主化を求めてデモをしていたのです。


北京市内の交通網も麻痺。


そんな最中の5月15日、ゴルバチョフが訪中。


それまで対立していた、中国とソ連の関係改善と友好をアピールする目的でした。


その為の様々な歓迎式典が、北京で行われる予定でしたが、学生達による民主化デモの為に全て中止。


そして、ついに中共政府は信じられない行動をとりました。


中共は、この無防備な学生達の民主化要求に耳を傾けることなく、大虐殺を実行していったのです。

(天安門大虐殺)(六四事件)(Tiananmen Square massacre)


平成元年(1989年)6月4日、天安門広場(Tiananmen Square)に、人民解放軍が出動。


人民解放軍は戦車のキャタピラで、無防備の学生達を次々と轢き殺していきました。


一体、どれほどの人達が、天安門広場で虐殺されたのでしょうか?

 

以下は、当時、北京にいたアラン・ドナルド(Alan Donald)駐中国英国大使が、6月5日に英国に打電した極秘電文になります。


平成元年6月2日、楊尚昆(よう・しょうこん)共産党国家主席と鄧小平最高指導者は、内戦勃発の危機が迫っている(imminent)と考えて、


人民開放軍の39軍に2,3日以内に天安門広場に進軍するように指令。


6月3日の夜、既に、天安門広場に入っていた人民解放軍で瀋陽軍区の兵士の第1グループは、学生を一般の人から分離し、学生は1時間以内に天安門広場から退去するように指示。


 

その5分後、山西省の第27軍の装甲兵員輸送車(APC)が、学生と兵士に向けて無差別に発砲。


兵士は散弾銃を乱射。

 

生き残った約1000人の学生達は、逃げ道を案内されたが、そこで待ち伏せていた兵士により機関銃による機銃掃射を受けました。

 

装甲兵員輸送車(APC)は、瀋陽軍区(SMR)の兵士たちに追いついた。

 

学生たちは腕を組んで、装甲兵員輸送車(APC)の進軍に対抗しようとしたのですが、皆ひき殺されてしまいました。

 

そして、装甲兵員輸送車(APC)は、何度も何度もキャタピラで遺体を踏み潰して、”人間パイ”を作りました。


人間パイになった学生達の遺体を、ブルドーザーが集めていきました。

 

遺体は焼却されて、ホースで排水溝に流されました。

 

負傷した女子学生4人が命乞いをしたのですが、軍人に銃剣で刺されてしまいました。

 

中国当局は、山西省の第27軍を最も信用しているので、天安門広場に第27軍を送り込んだと思われる。


以上、アラン・ドナルド駐中国英国大使の極秘電文から引用。


6月末、中国共産党は、”北京市内で起きた「反革命暴動」を鎮圧し、市民200人と治安部隊数十人が死亡した”と発表。

 

その後、死者数は数百人~1000人以上と、様々に推計されていましたが、


中国共産党は、厳しい情報統制を敷いているので、事件の真相はいまだに明らかになっていません。

 

2017年10月に情報公開された、ロンドンの英国立公文書館に保管されている、アラン・ドナルド(駐中国英国大使)からの報告では、


中国人民解放軍が殺害した学生の人数は少なくとも1万人に上るとありました。

(Minimum estimate of civilian dead 10,000)

 

アラン・ドナルド大使は、「中国国務院委員を務める親しい友人から聞いた情報を伝えてきた」とし、「事実と憶測と噂を慎重に区別」した人物から入手した数字だと説明。

 

ちなみに中国国務院とは、内閣に相当 します。

 

事件当時、軍隊の出動を命じたのは、”改革開放”のスローガンで有名な、鄧小平最高指導者でした。

 

鄧小平最高指導者が進めた”改革開放”により、松下電器など多くの日本企業が中国に進出していきました。

 

また、欧米諸国からも積極的に外資を受け入れることにより、中国は経済発展をしてきました。


しかし、天安門大虐殺をきっかけにして、欧米諸国は経済制裁を実施。


そのため、成長率が急激に伸びはじめていた中国経済は、大打撃を受けました。



その時、ある国が、無防備な民主化運動をしていた学生達を大虐殺した中共に、救いの手を差し伸べました。


その奇特な国とは、なんと日本。


ODA(政府開発援助)という名目で、お金が干からびてしまった中共政府に、莫大な資金を提供したのです。


ちなみに、日本政府が中共に貢いだ、その莫大な資金の源は、全て日本国民の税金です。


さらに、この時の日本政府は、1992年、天皇陛下の訪中まで設定してしまったのです。

 

これには、世界が仰天。


この事により、中国は、再び、世界のひのき舞台に出ることができました。


なぜ、日本はこんな事をしてしまったのでしょうか?


1993年にNHKの”クローズアップ現代”、という番組で、天安門大虐殺について放送しました。


その番組の中で、天安門事件で犠牲者は一人も出なかった、と結論を述べてました。


“中共を世界から孤立させてはならない”,と、日本政府は、中共に莫大な資金を貢いだのです。


まるで、イソップ童話の”風と太陽”の物語で、太陽役を日本が演じたようです。


その一方で、中共政府は、この天安門大虐殺を隠蔽しようとしました。


隠蔽工作のために使った人物は、アイリス・チャン。


彼女は作家として名声を得たいと思っていたのですが、中共政府からある事について書くように依頼が来ました。


そのある事とは、南京大虐殺。


彼女は、中共政府からもらった資料を元に執筆。


“レイプ オブ 南京”というタイトルで、中共政府の強力なバックアップのおかげで、世界的ベストセラーとなりました。


なぜ、天安門大虐殺を隠蔽するために、南京大虐殺というプロバガンダが利用されたの?


と、あなたは疑問に思うかもしれません。


アイリス・チャンは、次のように述べていました。


“天安門事件がきっかけで、南京大虐殺の問題がでてきた。”と。



中共の狙いは、日本を貶める事で、天安門大虐殺の負の遺産を打ち消す事だったのです。


世界から避難を受けて孤立しているところを、助けてくれた日本。


資金難で困っているところを、救ってくれた日本。


天皇陛下と謁見することで、世界に良いイメージを与える機会を与えてくれた日本。


そんな救世主である日本を、中共は、南京大虐殺という、事実無根のプロバガンダ(戦時中、敵を貶めるための宣伝)を世界的に展開して、日本を貶めていったのです。


恩を仇で返す。


これは中共の得意技。


今年は、天安門大虐殺が起きた1989年(平成元年)から30年後の2019年(令和元年)。


舞台は、北京の天安門広場から香港。


いま、再び大虐殺が起きようとしています。


中共のターゲットは、今回も無防備な学生達。


すでに中共政府は、香港大虐殺の後、世界的な避難と経済制裁を受けることを覚悟しているのでしょう。


なぜなら、かつて資金難に陥っていたとき、貢いでくれた日本に、また頼ろうとしてるからです。


ちなみに、中共の幹部達は、今まで、香港に資金を蓄えてましたが、近年、香港からシンガポールに資金移動していきました。


その中共幹部達が資金移動した、シンガポールの外貨預金口座の金額は、6月から8月までの間で40億ドル、過去1年間で164億ドルもの巨額にのぼります。

(ゴールドマンサックス調べ)。


情報をいち早くキャッチする中共幹部達。


その中共幹部達が、人民元を香港に蓄えていたら危ないと、香港からシンガポールに巨額の資金移動をしていたのです。


また、中共政府は、国賓として天皇陛下と謁見することで、世界に良いイメージをアピールすることができる、と計算しているのでしょう。


さらに、香港大虐殺を隠蔽するために、また、南京大虐殺という事実無根のプロバガンダを、世界展開することも計画しているのかもしれません。


 

参考図書

「64機密文書」香港01

 

 

 


昭和49年11月13日、北京の日本大使館の書記官が義治さんに面会に来ました。

 

 

許された30分の面会を終えて帰っていきましたが、これから定期的に日本大使館の職員が面会に来るようになりました。

 

毎回の面会中、日本語がわかる陳隊長が監視しているので、義治さんは、刑務所内での処遇について質問されても批判的な発言は出来ず、中共を賛美するような回答しか出来ませんでした。

 

陳隊長からの命令で、過去の戦争に対する反省文を毎日のように繰り返し書かされました。

 

また、405ページある毛沢東語録の本を暗唱できるまで繰り返し読まされました。

 

昭和51年9月9日、毛沢東死亡。

 

中国全土で毛沢東の追悼会が行われました。義治さんの末娘の容子さんが通っている学校でも、追悼会が行われたのですが、全校生徒が黙祷している間、容子さんの近くにいた生徒数人が、クスクスと笑いました。

 

それを聞いた革命派が、黙祷が終わってから犯人探しを始め、容子さんが犯人にされてしまいました。

 

偉大なる指導者、毛沢東の死を追悼する会で、クスクス笑うなどという行為は、反革命的行為であり、絶対に許さない事だったのです。

 

反革命分子の家族として、常日頃からマークされていた容子さんは、民兵の持つ小銃を背中に突きつけられて、身柄を拘束され尋問を受けました。

 

容子さんは、容疑を否認し続けたのて、一晩監禁されて、自宅に戻されました。

 

もし、この事件が日中国交が回復する前に起きていたら、間違えなく刑務所に入れられていたでしょう。

 

義治さんの生まれ故郷である島根県知事や日本の外務省などに、島根県に住む義治さんの家族達は、何度も陳情に行ったり手紙を送ったりしました。

 

また、中国政府にも何度も手紙を送りました。

 

昭和53年1月25日、義治さんのお母さんが亡くなりました。

 

義治さんの母ヤノさんは、孫達が日本に帰国した時のことを考えて、布団やなべや釜を買え揃えていました。

 

また、息子の義治さんが日本に帰ってくるまでは絶対に死なないと周りに言っていました。

 

母ヤノさんの姿は、舞鶴港で息子の帰りをひたすら待ち続けた、”岸壁の母”、に例えられるほどだったそうです。

 

しかし、衰弱しきった体は、すでに今生を生き抜く限界を超えていたようで、ついに息子や孫達の帰りを見届けることなく死亡。

 

 

昭和53年8月12日、日中平和友好条約が締結。

 

平和条約に伴い、8月28日、上海第一看守所に監禁されていた義治さんの長男、重雄さんが釈放。

 

結核を患いながらも病院での治療も受けられず、重労働を課せられいた重雄さんは、9年間にわたり無実の罪で拷問に耐え忍んできました。

 

釈放の際、ある書類にサインさせられました。

 

その書類には、あらかじめ次の言葉が書いてありました。

 

”私は拷問を受けていなかった”と。

 

昭和53年10月13日、深谷義治さんが上海監獄から釈放。

 

実に20年4ヶ月ぶりに義治さんは、家族と一緒に暮らせる日がきました。

 

それから、一月後の11月12日、上海から日本へ出発しました。

 

上海空港から出発の際、上海総領事から次の注意を受けました。

 

“日航機が離陸するまで安心しないで下さい。”と。

 

“罪を認めない者に重罰を与える”、という共産党の政策により、義治さんに無期懲役の判決を下し、

 

また、平和条約が締結されたにもかかわらず、二ヶ月にわたり、拘束し続けてきた中共なので、日航機が離陸するまでは、予断を許せなかったのです。

 

義治さん家族は、張り詰めた心で、日航機が滑走路を離陸。

 

そして、中国国境を通過。

 

まもなく大阪空港に無事到着。

 

その間、約二時間でしたが、家族はみな会話もせずに、無事日本に到着することを祈ってました。

 

昭和12年、22才で広島の宇品港から中国大陸に渡り、日本憲兵として特務任務を遂行し、終戦。

 

そして、終戦後も引き続き、命令に従い任務を遂行し、その後20年におよぶ生死をさまよう監獄生活。

 

いつの日か、生まれ育ったふるさと日本に、家族で一緒に帰りたい。

 

そして、「父母と一緒に過ごした平和な日々が恋しい。島根県大田の実家で、美味しいご飯をたべてゆっくりとお風呂につかりたい」と上海監獄での面会時に、義治さんはよく語っていました。

 

それを唯一の希望として、つらく苦しい獄中生活をなんとか耐え忍んできた義治さん。

 

やっとの想いで実現した、家族一緒で島根県大田市への帰国でした。

 

しかし、日本に帰国後も義治さんには試練が待ち受けていたのです。

 

義治さんの戸籍が、二重婚の疑いがあるといわれて、家庭裁判所に出頭命令が出されました。

 

義治さんが中国大陸に出征する際、島根県大田市の親戚が相談して、見合い結婚をすることになりました。

 

結局、昭和19年に家族に最後の別れをするため、一時帰国した際、婚約相手の家族とも相談して、破談することにしました。

 

しかし、手続き上の問題で、除籍されていなかったため、義治さんは裁判所に出頭。

 

幸い、この問題は大ごとにならずに解決しましたが、義治さんは一歩間違えば、今度は日本の刑務所に入る可能性もありました。

 

また、日本国籍をもたない義治さんの奥さんは、強制的に日本から出国しなければならなくなるところでした。

 

次の問題として、何者かによって不正に申請されて受理されてしまった軍人恩給についてです。

 

義治さんや息子さん達は、何度も県庁や厚生省援護局など関係する役所に足を運んで再申請のお願いをしました。

 

軍人恩給の支給額は、従軍年数や任務の危険度に応じて裁定されました。

 

そのため、軍歴を正確に記載する必要があるのですが、不正に申請された書類に書かれた軍歴は、すべてデタラメでした。

 

従って支給額も、本来もらえるはずの金額よりはるかに少ない金額しか支給されていませんでした。

 

しかし、お役所の仕事としては、規定に従って、”すでに受理されており恩給が家族に支給されてしまっているので”、と断られてしまいました。

 

さらに義治さんは、お役所の役人から、”亡命者”と認定されてしまったのです。

 

これには、どれほど義治さんの心を傷つけたことでしょう。

 

祖国日本の名誉を守ろうと、必死になって頑なに、”戦後も上海に潜伏していた日本のスパイである”、ということを否認してきた義治さん。

 

そのため、反革命分子と見なされ、中国でひどい差別を受けることになってしまった義治さん家族。

 

日本への帰国も20年という長い年月がかかってしまいました。

 

そんな犠牲をはらってまで、祖国日本の名誉を守ろうとした義治さんは、上海で一体何をしてきたのだろうと自問自答していたかもしれません。

 

次男の敏雄さんは父、義治さんのことを次のように語りました。

 

「私は上海で生まれ育ちましたが、上海で味わったのは差別や困窮だけでしたので、上海を故郷と思ったことは一度もありません。

 

また、上海時代、島根県民からの声援が届いた時、父の故郷である島根県大田市が私の故郷のように心境になりました。

 

しかし、日本に帰国後、父が遭遇したことを目にして、私の第二の故郷のイメージは無残にも崩れ落ちてしまいました。

 

私は、父の無念を晴らすこと、名誉を回復することを使命として活動していきたい。」と。

 

また、義治さんの孫娘の富美子さんは次のように語りました。

 

「つらく悲しい敵ごともたくさん経験してきた。その辛さや悲しさにいよいよ耐えられなくなったと感じる時、私は必ず祖父を思う。

 

祖父を支え抜いた祖母や父達を思う。彼らの生き様を思い起こすたびに、身が引き締まり、生気が湧いてくるのである。

 

日本兵の精神を貫いてた祖父の生き方は、確かに一家に不幸を招いてしまったかもしれない。

 

しかし、祖父が自身の信念を最後の最後まで貫徹したからこそ、父が生まれ育ち、私が生まれ、そしてその私が今、こうして生きている。

 

私にとって、彼は祖父である以上に、誇り高き「さむらい」である。」と。

 

義治さんの貫いた志(こころざし)は、息子さん、そしてお孫さんにしっかりと受け継がれています。

 

そしてこれからは、その志(こころざし)を、わたしたち日本人みんなが、受け継いでいく必要があるのではないでしょうか?

 

大陸での戦争を謝罪をして、毛沢東語録を暗唱して、一体なにになるのですか?

 

中共がおこなっているのは、日本国民全員に対する『思想改造』ではないですか?

 

わたしたちは、終戦後70年以上にわたり、上海看守所または上海監獄に投獄され続けているのですか?

 

孫達から、自分の祖父祖母は、誇り高き「サムライ」だった、と誇りをもってもらえるような、そんな生き方を私はしたいです。

 

 

参考図書

「日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族」深谷敏雄著

 

画像

義治さんの獄中生活を支えた、生後4ヶ月の末娘の写真

 

 

 

 

あなたは、終戦から数十年後に日本に帰還した元日本兵と聞いて、誰を思い出しますか?

 

フィリピンから29年後に帰還した小野田寛郎さん?、それともグアムから27年後に帰還した横井庄一さん?

 

なんと、33年後に上海から家族とともに帰還された元日本兵がいたのです。

 

彼は、終戦後も中国大陸でスパイ活動を続けていました。

 

軍の上官の命令に従い、その任務を遂行していただけなのですが、中共政府に捕まり長い投獄生活を送ることを余儀なくされました。

 

そして、家族とともに日本に帰還できたのは、終戦から33年後になってしまったのです。


昭和12年7月28日、深谷義治さんは、戦時召集令状を受けとりました。

 

 

この時、義治さんは22歳。陸軍歩兵2等兵として数ヶ月間の訓令を受けて、広島の宇品港から中国大陸に出兵。

 

その後、最前線で戦い、陸軍憲兵志願試験に合格。青島から列車で北京の憲兵教習隊に合流。

 

数ヶ月の訓練を受けて、軍参謀直属の謀略憲兵として、共産党軍と国民党軍の内部に潜入して、諜報活動をする。

 

昭和16年、戦況が激しさを増す中、公務のため日本に一時帰国。その際、父親から見合い結婚を勧められて婚約。

 

昭和17年、上海の華僑の娘と結婚。

 

諜報活動をするには、現地の中国人と結婚していたほうがやりやすかった、という目的もありました。

 

偽札を偽造して、敵部隊の経済を麻痺させて大混乱にしたりしました。

 

この間、義治さんは、2度の勲章を授与されました。

 

昭和18年から19年にかかて、東京中野にある、陸軍憲兵学校にて訓練を受ける。

 

昭和19年4月、両親と兄弟との最後の別れをするため、特別に許可され、実家がある島根県大田市に一時帰国。

 

昭和20年8月15日、北京にある日本憲兵隊の特別警備隊司令部にて、玉音放送を聞く。

 

義治さんは、司令官代理から、引き続き情報収集するように命令を受けたので、中国人の良民証を所有して、中国人になりすまして情報収集をしていました。

 

8月19日、司令部に戻り、I司令官代理に報告。

 

情報収集を継続するように命令を受け再び司令部に戻ると、すでに連合軍に占領されていて、上官たちも捕虜として拘束されていました。

 

9月に入り、北京市内の捕虜キャンプに潜入。そこで拘束されていたI司令官代理と面会。

 

I司令官代理から、「上海で任務続行せよ」との命令を受けました。

 

すでに戦争が終わった後での上官からの命令。

 

それも「武装解除せよ」、とか「投降せよ」、というのではなく、引き続きスパイとして「任務続行せよ」。

 

たとえ上官の命令と言えども従う必要はないのではないかと思いますが、義治さんは命令に従い上海に向かいました。

 

なぜでしょうか?

 

特殊任務に従事してきた義治さんは、たとえ終戦後てあっても、上官の命令に従うと言うことは、軍人として拒否することの出来ない使命だったのです。

 

上海には中国人の妻と生まれたばかりの子供がいました。

 

9月3日、北京駅で上海行の切符を買い、列車に乗り込みました。済南に到着してから南下しようとしましたが、レールがすべて八路軍により持ち去られてしまっていたので、しかたなく徒歩で上海に向かうことにしました。

 

日本が連合国に降伏してから、中国国内では、蒋介石の国民党軍と毛沢東の共産党軍が戦闘を再開。

 

内戦が激化している中、32日間歩き続けてようやく上海に到着。

そこで束の間の家族と一緒の生活を送りました。

 

昭和24年10月1日、内戦が終わり、共産党軍が国民党軍に勝利して新国家を樹立。

 

国民党軍に関わっていた反革命分子(共産党政府に反対する勢力)への取り締まりが、次第に激しくなっていきました。

 

義治さんは、奥さんに自分は日本人であることを伝えていましたが、旧日本陸軍の憲兵としてスパイ活動をおこなっていることを秘密にしてました。

 

日本の軍人は、家族に、どのような活動をしていたかということを一切話しませんでした。

 

上海に住んでいた奥さんの親戚も、義治さんが中国人を装った日本人であることを知っていたので、いつそのことを共産党の公安に通報するかわかりませんでした。

 

そのような危険な状況にもかかわらず、義治さんは上海から出ようとせずに潜伏活動を続けていました。

 

いつでも、彼のことを知られていない他の土地に移動できたにもかかわらずです。

 

なぜ、そのような危険を冒してまで上海に潜伏し続けていたのでしょうか?

 

彼の上官であるI司令官代理から「上海で任務続行せよ」という命令をうけたので、その命令に忠実に従ったからでしょう。

 

案の定、奥さんの親戚が共産党の公安に密告してしまい、義治さんは常時、公安から尾行されるようになりました。

 

いつでも逮捕できたのですが、共産党の公安はそれをしませんでした。

 

なぜでしょうか?

 

義治さんの他にもスパイ活動している日本人ネットワークがあると思い、それを一網打尽に逮捕拘束する狙いがあったからでしょう。

 

昭和33年6月6日、上海から天津に出張して帰りの途中、ついに公安に逮捕されてしまいました。終戦後に「任務続行」を命令されて上海に潜伏してからすでに13年が経過していました。

 

連行された拘置所は、上海市第一看守所。ここは、国民党の高級幹部や重要な反体制政治犯、反革命分子などに対して取り調べを行う場所でした。

 

上海の自宅も家宅捜査が3日間に渡り徹底的に行われて、義治さんの奥さんも看守所に呼ばれて厳しい尋問にかけられました。

 

しかし、日本人スパイである証拠は見つからず、活動資金も出てきませんでした。義治さんの奥さんは「夫が何をしていたのか知らない」の一点張りでついに釈放されました。

死刑を覚悟していた義治さんは、その後20年4ヶ月もの長い年月を獄中で生活することになります。

上海看守所の取調官からは、「日本のスパイであるということを認めたら解放する」と言われていました。

しかし、義治さんは絶対にそのことを自白しませんでした。

厳しい拷問を受けてなんども意識を失いました。その都度、冷や水をかけられて、また拷問。

夜も昼も寝ることを許されずに、拷問に次ぐ拷問。

生死をさまよいながらも、決して白状しようとしませんでした。

真冬になると、室内の夜の気温は零下6度の寒さ。

まともな防寒着もなく、破れたおんぼろの薄着を継ぎはぎして寒さをしのいでいました。

さらに、判決を受けるまでの16年間、義治さんは外界との連絡を一切禁じられ、公安によって家族には生死さえも極秘にされていた。

なぜ、義治さんは、そこまでして、”私は日本のスパイである”と認めようとしなかったのでしょうか?

いくら取調官から「自白したら釈放してやる」といわれても、とても信じることはできないと思ったからでしょうか?

昭和29年10月、中国紅十字会の李徳全会長が訪日した際に、「日本人戦犯に対する寛大な処置をする」と明言して、その後、実際に大量の抑留されていた日本軍人が釈放されました。

そのことを知っていた義治さんは、取調官がいうことも嘘ではないだろうと思っていました。

しかし、それでも自白しようとしなかったのは、

「私は国に命をささげてきた軍人で、自分の生まれ育った国に、戦後にスパイを中国大陸に置いたという汚名を、死んでも着せてはならない」、という強い信念が義治さんにあったからです。

拘置所では、毎日、思想改造のために毛沢東語録の本を読んで学習しなければなりませんでした。また、自分自身の罪を自白して自己批判を繰り返し紙に書いていきました。

義治さんには、生まれたばかりの女の子の赤ん坊と、3人の男の子の4人の子供がいましたが、定期的に奥さんが差し入れを持参してきました。

月に一度だけ、日用品を差し入れすることが許されていたからです。

ある時、その差し入れの中に生後四ヶ月の赤ん坊の笑顔の写真がありました。「規則では写真を渡すことはできないのだが、奥さんの懇願があまりにも不憫で、特別にお前に渡す」、と看守はいいました。

義治さんは、「どんな苦しみがあっても、私は絶対にこの子を育てます。娘があなたを「お父さん」と呼べる日が必ず訪れます。過酷な受刑生活ですけど、人生を諦めないでください」というメッセージを、その笑顔の赤ん坊の写真から受け取りました。

昭和35年、骨と皮だけの栄養失調で衰弱がひどいために、上海市の監獄病院に入院。その後、肺結核と肋膜炎を患いますが、全く治療を受けることができませんでした。

義治さんは、そのような状態にもかかわらず強制労働をさせられていたのですが、ある日、脊髄骨折をしてしまいました。この時も、病院にも行けず痛み止めの薬ももらえず、痛みに悶え苦しむ日々を送りました。

「地獄のようなところで骨を埋めることにならないように、全身の力を振り絞って必死に這ってでも祖国に帰ろう。」

義治さんは、その強い意志だけで生かされている日々でした。

身長も、178cmから168cmに10cmも縮んでしまいました。

中国に渡った日本人が中国人と結婚してできた家族たちが、終戦後に中国大陸から日本に引き上げてくるケースは結構ありました。

その場合は、無条件で法務省から入国許可が出ていて、帰国する際の旅費も日本政府から出ていました。

 

しかし、義治さんの家族の場合、日本人である義治さん本人が上海で拘束されたままになっているので、その家族だけが日本に入国する事例がありませんでした。

そのような中、昭和36年11月、人道的見地から特別に法務局から入国許可が出されました。

しかし、まだ日中間に国交はない時代。政治的にも対立している状態でしたので、中国側が深谷さん家族を上海から出国させることを認めませんでした。

 息子の敏雄さんは、父が逮捕されるまで、自分は中国人だと思っていました。学校でもみなそう思い、特になんの問題もなく過ごしていました。

しかし、父が逮捕されてからは、生活が激変。学校でも日本人と言う事で、差別やいじめにあうようになりました。

「おまえは日本の鬼の子だ!」と。

中国では、昔も今も反日教育が徹底されていて、日本軍人の事を「鬼」と呼んで、すごい怖い形相で描かれています。

しかし、息子の敏雄さんにとって、日本軍人の父は、とても優しく、公園に連れていったり花火を見たりと、家族を大事にする人でした。

学校教育で教わる鬼の形相の日本軍人と、実際の優しい子煩悩な父との間のギャップが、あまりにもかけ離れていたのです。

一家の大黒柱を失った深谷家は、極貧生活を送ってました。

義治さんの奥さんは、ミシン以外の家財道具を質屋に売って、何とか生活費を捻出したり、残しておいたミシンを使って、刺繍を縫うなどの内職をして、子供四人を育てていきました。

やがて、長男の重雄さんも内職を手伝うようになりましたが、生活は厳しく、血液を売ろうとするなど、寝る間を惜しんで何でもやりました。

子供達にとって、父と会えない寂しさは耐えがたいものでした。

毎月、トイレットペーパーや石鹸などの日用品を差し入れに行く際、奥さんは、看守所に子供達も連れていきました。

看守所では、実際に父と会う事は許されていないのにもかかわらずです。

少しでも父の近くに連れて行ってあげる事で、子供達の寂しさが和らぐかもしれない、と思っての行動でした。

義治さんは、奥さんから寒い冬を凌ぐために服などを差し入れても、全て返していました。

貧しい生活を送っているだろう家族を思い、自分は、最初に差し入れてもらった薄着だけで我慢し、15年間も過ごしていました。

中国政府からは布団と衣類の供給は、一度もありませんでした。

着ていた衣類が破れると、ツギハギをして縫い合わせして、使い続けました。

薄着だけでは氷点下6度の寒さには耐えることが出来ず、どんなに抑えようとしても体は震え、歯はガタガタと鳴った。

横にいる古参の政治犯が、義治さんの惨めな姿を見て、アドバイスをくれました。

「歯を食いしばりなさい。そうしなければ、魂が肉体から次第に離れてしまうよ。」と。

義治さんは、魂が抜けないように、歯をくいしばって極寒を耐え忍んでいきました。

また、「安来節」や「関の五本松」、母校の校歌などを思い出して、極限状態の中でも、祖国で過ごした日々を思い、心を温めていました。

 昭和41年8月、毛沢東による粛正が中国全土で始まりました。(文化大革命)

 学校の授業は全て中止され、教育システムは完全に崩壊。

学生達は、二つのグループ(「紅五類」「黒五類」)に分けられました。

紅五類は、労働者、貧民、革命幹部、革命軍人など。

黒五類は、地主、富農、反革命分子、ブルジョア右分子など。

紅五類に分類された人達は、文化財、寺院などを次々に破壊しまくりました。

黒五類に分類された家に立ち入り、書籍を焼き払い、家財を持ち去るなど、やりたい放題をしました。

深谷家は、父が日本人スパイの容疑で捕まっているので、黒五類にグループ分けされました。

昭和43年、「知識青年は農村に行かなければならない」、という司令が、新たに毛沢東から出されました。

義治さんの三男の龍男さんは、上海から遠く離れた山奥の農村に強制的に連れて行かれました。

中国の農村は機械化がされてなく過酷な重労働が待ってました。

また、日当も一日中働いても二食分のみの支給。

義治さんの長男は、工場で働いていましたが、ある日、そこにいた革命派により、反革命の罪に問われて、拘束されてしまいました。

工場近くの防空壕に連れていかれて、昼でも薄暗い壕の中で、幽閉されることに。

 

さらに、自宅が家宅捜査を受けました。

父の義治さんの時より徹底的にです。

そして、”打倒反革命分子‼︎”とか”日本のスパイ親子、罪を自白せよ!”などのスローガンを自宅の壁一面にペンキ塗りしていきました。

工場では、一日3回、他の工員から批判を受けるために、糾弾大会に強制的に連れていかれました。

その糾弾大会では、壇上で、体を45度傾けたままの姿勢で立たされて、革命派からのヤジを受け続けました。

“おまえの親は軍国主義分子だ。おまえは子供の時から軍国主義の教育を受けた。

だから、おまえは軍国主義が支配する国、日本が好きだ。社会主義の中国に敵意を持つスパイだ!”と。

この批判時間は、2時間。これを一日3回受けさせられました。

文化大革命の時代、中国全土で、毎日朝と晩に、毛沢東の肖像に向かい、毛沢東語録を持ち、”毛沢東万歳”と斉唱しなければなりませんでした。

 

また、毛沢東語録には、必ず、毛沢東の写真を貼り付けておかなくてはなりませんでした。

 

もし、それを怠れば、反革命分子として重大な罪に問われることになりました。

 

昭和47年9月29日、田中角栄首相と周恩来首相の間で、日中の国交が樹立。

日中の国交が回復しても、特赦があるわけでもなく、義治さんの状況に変わりはありませんでした。

昭和49年3月、上海市の人民法廷に連れて行かれて、無期懲役の判決を受けました。

 

なぜ、16年もの間、刑務所で拘束していたにも関わらず、今ごろになって無期懲役の判決を下したのでしょうか?

判決理由は、”中国の安全に重大な危害を与えた罪”というものでした。

日中間で戦争状態でしたら、このような判決理由はわかりますが、すでに2年前に国交が回復していました。

昭和48年3月14日付けの朝日新聞に、「『釈放して』待ちわびる老婆ら 反革命罪で15年」という見出しで、次のような記事が掲載されました。

「義治さんが出征したのは昭和12年、21歳のとき。中の学校で訓練を受け、経済事情調査の特殊任務についていた。第二次大戦後、これからは日中友好につくす。と遺言のような手紙を寄せたまま、消息が途絶えてしまった」と。

義治さんは、東京中野にある日本陸軍憲兵学校で訓練を受けたことはありますが、これは陸軍中野学校とは別の学校であり、全くの誤報でした。

陸軍中野学校とは、スパイ養成機関として有名な学校です。

中共政府は、日本の新聞記事を常にチェックしているので、

この朝日新聞の誤報記事によって、義治さんは、上海看守所にてさらにきびしく追求されることにつながってしまいました。

ただでさえ肺結核や骨髄損傷、栄養失調など、疲労困憊の体なのに、そんな重病人に対して、中共は、さらに鞭打って拷問をかけたのです。

また、スパイ機密費を義治さんの家族が、日本政府から支給されているという疑惑を持たれました。

スパイ機密費とは、スパイ活動をするための裏金、活動資金のことです。

昭和46年から、恩給申請ができる家族以外の何者かが、不正に島根県庁に恩給申請をして、それが正式に受理されてしまい、島根県大田市に住む義治さんのお母さんに恩給が支給されるようになりました。

その軍人恩給が支給されたことを、中共政府が知り、それは日本政府から支給されたスパイ機密費である、と決めつけてしまったのです。

中共政府が16年間にわたり、義治さんを拘束し続け、拷問をしたにもかかわらず、何も判決を下すことができませんでした。

確たる証拠が得られず、義治さん自身も頑なにスパイであることを否認し続けていたからです。

しかし、日本の大新聞である朝日新聞の誤報記事と、何者かによる不正申請により支給されはじめた軍人恩給により、義治さんのスパイである証拠が確定し、無期懲役の判決が下されることとなったのです。

無期懲役の判決が確定してから、今まで16年間過ごした上海第一看守所から、上海監獄に移されました。

 

そして、家族への手紙を書いて良いと許可が出ましたので、義治さんは奥さんや子供達に感謝の思いを、16年ぶりに手紙で伝えることが出来ました。

しかし、手紙の内容は全て検閲を受けるので、始めに、偉大な指導者である毛沢東への感謝を述べ、自分が中国で行った罪に対する反省文を、長々と書かなくてはなりませんでした。

また、家族との面会も許されました。今までは、月に一度、家族からの差し入れが認められてましたが、面会は出来ませんでしたので、16年ぶりの家族の再会となりました。

 

奥さんと次男の敏雄さん、末娘の三人が上海監獄に行き、義治さんとの久々の面会。

面会室には日本語がわかる看守が、目を光らせて監視してました。

 

しばらくお互い、顔を見合わせてましたが、家族と分からず、人違いだろうと思ってました。

身長も10cm縮み、腰も曲がり、看守に対しておどおどした態度。

あまりにも変わり果てた姿だったので、お互い分からなかったのです。

 

しばらくして看守から、これが深谷義治だ、と告げられて、やっと理解できました。

そして、次男の敏雄さんは義治さんに向かって言いました。

 

“お父さん”

 

義治さんは反革命分子として、日本人スパイとして拘束された身でした。そして、無期懲役の実刑判決が確定したばかり。

 

その罪人に向かって、看守の目の前で、”お父さん”ということは、決して許されることではなかったのです。

たとえ家族でも。

でも、次男の敏雄さんは、長い間、父に対して ”お父さん”と呼びたくても呼べなかったのです。

その思いをどうしても止めることは出来ませんでした。

また、酷く衰弱した様子だったので、健康状態を聞くと、肺結核で肺の2/3がダメになり、重い心臓病を患い、左目も視力を失った、と答えました。

それを聞いていた看守から、警告が出ました。

 

「おまえは、いくら思想改造しても、肝心なところでまた軍国主義の思想が出る。「はい、はい、」と言いながら、一向に罪を認めない。おまえはもっと毛沢東の本を真面目に勉強しろ!」と。

 

この後も、面会は定期的に認められました。

 

4回目の面会で、初めて、末娘が口を開きました。

「お父さん」

 

末娘にとって父は、彼女が赤ん坊の時に投獄されてしまったので、父の記憶は全くありませんでした。

 

あるのは、家にあった父の写真だけ。

 

でも、目の前にいる人は、その写真とは全く別人。

また、父の義治さんにとって末娘は、投獄されてからの辛い日々の中、唯一の生きる希望が、生後4ヶ月の末娘の笑顔の写真だったのです。

 

その末娘が、やっと変わり果てた父を受け入れることが出来たのでしょう。

「お父さん」と呼ぶことが出来ました。

その瞬間、父、義治さんの目から涙が溢れて出ました。

続く

 

参考図書

「日本国最後の帰還兵 深谷義治とその家族」深谷敏雄著

画像

深谷義治さんとその中国人妻

 

 

 

 終戦後に、ソ連軍に特攻していった日本兵がいました。


 彼らが、そのような行動に突き動かしたものとは、いったいなんだったのでしょうか?



昭和20年8月9日未明、ソ連が日本に参戦。ソ連の戦車隊が、怒涛の如く満州国境からなだれ込んできました。

 

満州国興安省の省都、興安(現中国内モンゴル自治区)に居住していた3000人の日本人たちは、慌てて避難するために列車に乗り込みましたが、乗り遅れた人々約1300人の人たちは、浅野良三参事官をリーダーとして南東に35キロ離れたチベット仏教寺院、葛根廟を目指して歩いていました。

 

昭和20年8月14日、葛根廟の近くに避難した日本人たちと14輌のソ連軍の戦車隊と20台のトラックが遭遇。

 

浅野参事官は、即座に白旗を掲げて無抵抗の意思表示を示しましたが、ソ連軍は白旗を掲げた浅野良三参事官に機銃掃射を浴びせました。

 

恐怖におびえながら待機していた日本人難民たちは、その光景を目のあたりにして、一斉に逃げ出したが、戦車隊は、その難民たちを追い回しながら次々とひき殺していったのです。

 

避難民のほとんどが、女性や子供、お年寄りでした。少数の成人男子が小銃などを持っていただけの弱者達を、ソ連の戦車隊がまるで虫ケラを踏み潰すかのように、キャタピラで踏みつぶしていったのです。

 

草原を走り回る日本人難民たちの群れを、戦車隊は追い回して次々にキャタピラで、ひき殺していきました。

 

そして、戦車の後方からそのひき殺された死体が飛び出して、宙に舞って草原に放り出されました。

 

草原の中に自然に出来た塹壕を見つけて、避難する人々もいましたが、戦車から出て来たソ連兵がその塹壕の中に入ってきて、機銃掃射していきました。


約2時間に及ぶソ連軍による殺戮が合わり戦車隊が立ち去ると、今度はわきで見物していた中国人たちが暴徒化して、生存している日本人難民たちを襲い、下着に至るまで身ぐるみはがしてすべてを奪っていきました。

 

ある女性はソ連兵に子供を殺され、続いて襲ってきた暴民に衣服を全て剥ぎ取られた上に、鎌で乳房を切り落とされました。

 

中国人達が立ち去った後、絶望した避難民は、青酸カリを飲んだり、互いに短刀を胸に突き刺したり、わが子の首をヒモで絞めて自決する人たちが相次ぎました。

 

「ごめんね、母さんもすぐに逝(い)くからね」。

 

覚悟を決めた母親は、自分の妹の首に短刀を突き立て、血を噴き出しながら、妹は声も出さずに息をひきとりました。

 

このソ連軍の砲撃により、1000人以上の日本人が虐殺され、または自害し、生き残った人はわずか約130人。

 

この地獄絵の惨状から奇跡の生還を果たし、戦後、興安会遺族会代表を務めた白石正義氏は、次のように振り返りました。

 

“我を失い、ただ茫然としてなすところを知らず、その一瞬の不気味な静寂も長くは続かなかった。万一の場合の自殺用にかねて渡されていた手榴弾の爆裂音と悲鳴。

 

「殺して下さい。」、「助けて下さい」、「お母さん」と泣き叫ぶ子供の声が交錯する中で、断末魔のうめき声は。

 

これは生き地獄でなくてなんだろうか?

 

目を覆う地獄絵図さながらであった。

 

泣き叫ぶ我が子の頭を撫でながら、心を鬼にして次々と絞め殺し、まなじりも裂けんばかり、

 

髪を振り乱した、形相凄まじいこの世のものとも思えぬ気の狂わんばかりの母親の群れ、

 

青酸カリを飲んで、虚空をつかんで生き絶えて行く老人達。

 

遭難者の総数は、今なおさだかではない。

 

約二千名に近いとされている。」

(「殺戮の草原 満州・葛根廟事件の証言」大櫛戌辰著)

 

 

 

この様子を上空から目撃した大虎山分屯隊の偵察機のパイロットは、基地へ戻って報告。

 

この報告を聞いた他のパイロット達は怒りに震えてしまいました。

 

「かならず犠牲となった人たちの仇を打つ!」

 

翌日の8月15日、飛行兵全員がラジオの前に集合して、玉音放送を聞きました。

 

 

 大虎山分屯地の将校の有志が、旅館に集まりました。


「このまま、ソ連と戦わずに降伏など出来るか!」



若い飛行兵たちは、皆、決起する事をきめました。


8月17日、関東軍の山田総司令官は、戦闘行動を停止するように全部隊に命令。


さらに「8月20日12時以降、全戦線に渡ってソ連軍に対する一切の戦闘行動を停止し、武器を捨て投降するように」、


というソ連軍からの依頼を受けて、満州の全域を守備していた関東軍の各部隊は皆、大人しく武器を置いて、ソ連軍に投降していきました。


8月20日前に実行しなければ、攻撃のチャンスはありませんでした。

 

手元にあり稼働できる飛行機はわずか11機のみ。しかも「赤とんぼ」とよばれる練習機だけであり、いずれも爆撃装置をとりつけていないものでした。


また爆弾自体が無かったので、ソ連軍の最新鋭戦車であるT34の装甲を破壊することはできませんでした。

 

残された方法は、ただ一つ。

 

敵戦車隊に向かって特攻することでした。

 

それでも、爆弾を抱えていない練習機で体当たりしても、戦車隊の装甲に損害を与えることはわずかかもしれませんでしたが、ソ連兵に与える精神的ダメージは相当大きくなるだろう。


そして、敵の進軍が多少なりともおくれれば、それだけ日本人難民の逃げる時間が確保できる。

 

集まった隊員たちは、全員一致して「ソ連戦車隊に特攻する」と決意しました。

 

「神州不滅特別攻撃隊」と命名し、出撃日は8月19日と決定。

 

隊員の中の一人、谷藤徹夫少尉の許嫁である朝子は、夫の出撃を聞いて、いてもたってもいられませんでした。

 

「私も、一緒につれていってください」

 

なぜ、彼女は、夫と一緒に特攻機に乗りたかったのでしょうか?


この時、日本人難民の女性たちは、老女であっても皆、軒並みソ連兵にレイプされていきました。

 

夜だけでなく昼でも、日本人避難民たちが集まっているところにソ連兵が来て、適当に女性をさらっていくのです。


ソ連兵にさらわれていく女性の夫が、少しでも抵抗しようとすると、ソ連兵は、その男性を容赦なく銃で撃ち殺していきました。

 

以下は、当時16才で、慶安満州拓殖公社に避難していた、元居留民の来須富子さんの証言になります。


「ソ連兵が二人、ドカドカと入ってきた。それが何を意味するかわからず、誰もが固唾を飲んで目で追っていた。


はた、と立ち止まり、一番手近な所にいた人の肩に手を掛けた。「立て!」という仕草だ。


肩にかかった手を吹きはらうと、二人が銃口を突きつけた。


一人が銃の先を跳ね上げて「行け!」と合図した。


こうして、次々「女狩り」が行なわれた。私は同じ人間が何度も来るのかと思ったが、そうではなく、入れ替わり立ち代わり来たようであった。


明かりはランプが一つ。奥の方に居るものの顔など見えはしない。手当たり次第、運の悪い者が犠牲になった。


「わしら女のうちでない」


狭くて、横になる場所がなく、通路に座っておられた70歳近いおばあさんも、片目義眼で髪を振り乱した小母さんも連れて行かれた。


二日目の夜がきた。日が暮れるのが恐ろしかった。死ぬことも怖いが、ソ連兵の餌食になることはそれ以上に怖い。


「ガタッガタッ」と床を踏む足音。「ダワイ、ダワイ」という声。


何日も続けば気が狂いそうだった。


時間も場所もわきまえない。空き家に連れ込まれるのは良識がある方。通路と言わず、人前と言わず、至るところで行われた。


幸い、私は遭わなかったが、「今、そこの通路で、」と息せき切って報告に来た者もいた。


18、9才の髪の長い体格の良い娘さんが、二人の兵隊に挟まれ、後ろの兵隊に銃口を背中に突きつけられて、空き家に連れて行かれるところだった。


引き裂かれたブラウスが、わずかに肩にかかって、両手で胸を隠すようにして、うなじを垂れて歩いていた。


「どうしよう。連れて行かれる。」


歯ぎしりするほど悔しかった。


妻が連れて行かれるのを見て、夫が「辞めてくれ」と叫んで立ち上がったとたん、


「ズドーン」


と一発。大勢の前で、もんどりうって倒れた。


手出しは絶対に出来ない。ただ、見送っているより仕方がなかった。」

(「孫たちへの証言 激動の昭和をつづる」「野獣の館」より)


まるで奴隷です。

 

そのような状況で、日本女性たちはみな、頭を丸坊主にして男性の服を着て、胸をサラシなどできつく縛って女性と気づかれないようにしていました。

 

そんな辱めを受けてまで、逃げて生き延びようとするより、夫と一緒にソ連軍に特攻したいと思ったのでしょう。

 

しかし、女性が軍用機に搭乗することは軍規違反でした。

 

また別の隊員で大倉巌少尉にはつきあっていた女性がいました。


隊員たちが旅館「伊予屋」で集まって特攻の密談をしている時、そこで働いていた彼女は、その話を漏れ聞きしたのでしょう。

 

「私も一緒に特攻機に乗せていってください」と懇願しました。

 

 8月19日午後2時、大虎山飛行場から11機の練習機が飛び立ちました。


正規の目的は、ソ連軍に引き渡すためでしたが、飛行兵たちは、密かな目的を持って飛び立ちました。


滑走路周辺には、日の丸の小旗を持った日本人たちが集まり、最後の飛行を見送っていました。


その中には、白いワンピースを着て日傘を持った婦女子もいましたが、飛び立つ直前に練習機に乗り込んでいました。



彼女は谷藤徹夫少尉の許婚でした。


飛び立つ前、飛行兵たち11名は、署名と血判とともに、次の檄文を残して行きました。



 檄

「戦い得ずして戦わざる空の勇士十一名

生きて捕虜の侮辱を受けるを忍び難し

ここに神州不滅特別攻撃隊を編成し、

昭和維新の魁たらんとす」



また、谷藤徹夫は、自分の官舎に次の詩を残していきました。


 「国敗れて山河なし 生きてかひなき生命なら 死して護国の鬼たらむ」


 その後の彼らの消息は不明。ソ連側にも何も記録がありません。


軍の命令を無視してまでも、特攻して散っていった若い飛行兵たち。


彼らはソ連戦車隊に見事に突っ込み、その思いを果たしたのでしょうか?


その思いは、後世に語り継がれることによって、果たせるのかもしれません。

 

参考図書 「妻と飛んだ特攻兵」豊田正義著

画像 谷藤徹夫少尉

 

 

 

現在の日本国憲法(平和憲法)は、日本国民からの活発な意見を反映して、国会で審議を経て作られたと言う人々がいます。


平和憲法は、占領軍に押し付けられたのではなく、日本人の手によって作られたのだと。


本当でしょうか?


マッカーサーは、幣原総理大臣に憲法改正のための草案を作成するように指示しました。


この要請を受けて、幣原総理は、憲法学者である松本烝治国務大臣に憲法改正草案の作成を依頼。

 

昭和20年10月25日、松本烝治国務大臣を委員長とする憲法問題調査委員会(松本委員会)が設置されました。


顧問として清水澄、美濃部達吉、野村淳治、その他委員として数名が参加。

 

 

松本烝治国務大臣は帝国憲法(明治憲法)を土台として、改正草案を審議していきましたが、


マッカーサーにその草案を提出する前、憲法改正案(松本草案)が毎日新聞の西山記者にリークされ、昭和21年2月1日付けの朝刊に掲載されてしまいました。

 

民生局長のコートニー・ホイットニー陸軍准将は直ちに、この記事に掲載された松本草案を英文に翻訳してマッカーサーに提出。


そして、その記事を見たマッカーサーは大激怒。

 

なぜ、マッカーサーが激怒したのでしょうか?

 

マッカーサーにとて、明治憲法は悪の権化としか認識していなかったので、その悪の権化である明治憲法を土台とした改正草案など、とても受け入れられるものではなかったのです。

 

昭和21年2月3日、マッカーサーは、今度は日本政府ではなく、民政局長のコートニー・ホイットニー陸軍准将に憲法草案をまとめるように指示しました。

 

その際、次の3か条に基づいて憲法を作成するように厳命しました。(マッカーサーノート)

 

1、

「天皇は国家の元首の地位にある。」

「行為の継承は世襲による」

「天皇の義務と権能は、憲法に従って行使され、憲法に示された国民の意思に応じたものでなければならない」

 

2、

「国家の権利としての戦争行為は放棄する。日本は、(国際)紛争解決、および自衛のためでさえも、その手段としての戦争を放棄する。国の安全保障のためには現在世界に生まれつつある高い理念、理想に頼る」

「陸、海、空軍は決して認められない。またいかなる交戦権も与えられない」

 

3、

「日本の封建制度は廃止される」

「皇族以外の爵位は現在のものに限る」

「今日以後、貴族特権は政府もしくは民間機関においてなんらの権力ももたない」

「国家予算はイギリスの制度を見習う」

 

 

その期限までの日数は、なんとわずか6日間しかありませんでした。


しかも依頼された民生局の職員にの中には、憲法について知識がある人材は一人もいませんでした。

 

なぜ、マッカーサーは憲法改正案の作成を急いだのでしょうか?

 

すでに昭和20年12月、極東委員会が米国ワシントンの旧日本大使館に設立されていました。


この極東委員会とは、日本を連合国が占領管理するために設けられた最高政策決定機関であり、


日本で占領軍を指揮しているマッカーサーの政策を、監査監督する巨大な権限があったのです。

 

もし、この極東委員会が稼働してしまうと、日本の憲法改正に横やりが入ってしまう可能性があったのです。


この極東委員会の第一回会合は、2月26日に開かれる予定でした。


また、ハーグ陸戦条約43条からしても、占領国が被占領国の憲法を改正することを認めていませんでした。


 ハーグ陸戦条約43条

「国の権力が事実上占領者の手に移りたる上は、占領者は、絶対的の支障なき限り、占領地の現行法規を尊重して、成るべく公共の秩序及び生活を回復確保するため、施し得べき一切の手段を尽くすべし」


そうした状況下で、マッカーサーは、自分の独壇場で憲法改正できるタイミングを見計らっていたのです。

 

1週間後、民政局の職員により憲法草案が作成され、2月10日マッカーサーに提出されました。(GHQ草案)

 

このGHQ草案の原案は5人に手渡されましたが、そのうちの一人に吉田茂がいました。

 

彼は、占領軍による憲法草案を手にした日本人初の人物でした。

 

なぜ、吉田茂だけが、他の日本政府要人より先に、優先的に占領軍憲法の草案を手にしたのでしょうか?


この当時、まだ外務大臣だった吉田茂を、将来の首相にして育てて、日本を米国の傀儡(かいらい)国にする計画だったのでしょう。


昭和21年2月13日、占領軍から日本政府へ、マッカーサー憲法草案を手渡すために、会合が開かれました。


占領軍側として、民生局長のコートニー・ホイットニー陸軍准将とその部下である、チャールズ・ケーディス陸軍大佐、マイロ・ラウエル陸軍少佐、アルフレッド・ハッシー海軍少佐、日本側は、吉田茂外務大臣、松本烝治国務大臣、白州次郎、通訳の長谷川が、東京麻布にある外務大臣官邸に集まりました。

 

ホイットニー准将は、この憲法草案を受託するように日本側に言い渡しました。

 

 この時、敗戦国である日本側に、戦勝国である占領軍に対して、果敢に反論した人物がいました。


松本烝治国務大臣です。


 以下は、同席したホイットニーの三人の部下が書き残した会話の実録になります。

 

ホイットニー准将

「先日、あなた方が提出した憲法草案(松本草案の事)は、自由と民主主義の文書として最高司令官が受け入れることは絶対にできません。


しかし、マッカーサー元帥は、専制支配の悪政に苦しんできた日本国民を護るべく、自由で解放的な憲法が国民のために必要不可欠であると深く認識されておられます。


今日、あなた方に提示する草案は、マッカーサー元帥が日本の現状を憂い、日本を民主主義国家へ導くために必要な諸原理を具体化し、元帥自身が承認された文書です。


この草案の内容について、あなた方が正確に理解するように後ほど詳しく説明します。


あなた方が今からこの草案を検討できるよう、私と部下は一時退席させていただきます」


松本烝治

「あなたの仰っていることは解っていますが、あなた方の憲法案には説明書が用意されているのかお伺いしたい」


ホイットニー准将

「説明書はないが、私たちの憲法草案の文言はとても解りやすいので、誤解の余地のないものだ」


ホイットニー准将

「今や、あなた方は憲法草案の内容を熟知したのですから、私としては、これまで通り、お互いに手の内をすべて見せ合うことを望んでおります。


マッカーサー元帥がこの憲法に込めた精神と彼自身の希望を説明させてください。


元帥は、近頃各政党がそれぞれ公表している憲法草案は、国民の間でも改正が必要であるという意思の現れであると理解されておられます。


国民が憲法改正を勝ち取るのを確実にすることが、元帥の決意なのです。 


天皇を戦犯として軍事裁判にかけよ、と他国からの圧力は高まってきております。


あなた方がご存知かどうか知りませんが、マッカーサー元帥はこの圧力から天皇を守る決意をされておられます。


元帥はこれまで天皇を擁護してきました。なぜなら、元帥は天皇を守ることが正義だと考えておられ、今後も力の及ぶ限りそうされるでしょう。


しかし、みなさん、元帥といえども神のように万能ではありません。


しかし、元帥は日本がこの新憲法を受け入れるのなら、天皇に誰も手が出せないようにするため全力で尽力されるでしょう。


新憲法を容認すれば、日本が連合軍の占領から独立する日もずっと早くなります。


それは、連合軍が要求している基本的自由が日本国民に与えられたと見られるからです。 


元帥は、私がこの草案を日本政府と政党に提示するように命じられました。


その採用についてみなさんが審議をした後、望むなら、この憲法は元帥の完全な支持を受けた憲法として国民に提示してもよいとまで断言されているのです。


もちろん、元帥はこれをあなた方に押し付けてはおりません。


ですが、元帥は、この憲法に明記されている民主主義の原則を国民に提示すべきだと決意されておられます。


あなた方の自主的な行動によってこの新憲法を国民に示すことを願っておられます。


もし、自主的にできないのなら、元帥自らが公示することになるでしょう。


そうなると、みなさんのメンツは丸つぶれです。


元帥はこの新憲法によって敗戦国日本が世界の諸国に対して、恒久平和を目指す道徳的指導者になり得る機会を与えておられるのです。


 あなた方がこの憲法草案を受け入れて、政治的に進歩的・革新的となること、すなわち急速に左翼化することで、あなた方の地位と権威は元帥により保証されます。


今までのように極右のままだと、あなた方の政治生命は終わります。


この憲法草案を受け入れることが、反動的な国体護持派と見なされているあなた方が生き残る唯一の望みであるという現実を忘れないでください。


はっきりと断言しますが、草案を受け入れれば、あなた方の権力が延命します。


受け入れなければ、あなた方の政治生命は速やかに終焉を迎えます。


元帥は、日本国民がこの憲法草案、もしくは、私たちが望む諸原則が反映されていない他の憲法を選ぶ自由もあるべきだと考えておられます。」



松本烝治

「ホイットニー准将のご説明はすべて理解しておりますが、この内容ついて幣原首相と相談しなければならないので、それまでホイットニー准将に返答することはできない」


松本烝治

「GHQ草案の国会に関する条項で、一院制が採用されている。一院制は、日本の立法府の歴史とは全く無縁なので、なぜ一院制を採用したのか知りたい」


ホイットニー准将

「華族制度は廃止されることになるので、貴族院は不必要となる。


GHQ草案に明記されている抑制と均衡の原理によって、一院制の議会を設置するのがもっとも分かりやすい。


アメリカの上院は、面積や人口に関係なく各州が平等に代表を選出している。


人口の多い州が下院で多数を占めることを抑制するためである。しかし、日本の事情はアメリカとは異なっている」


松本烝治

「諸外国の多くが議会運営を安定させるために二院制を採用している。


もし一院制だと、ある党が多数を占めたら極端な方向に進み、また他の党が多数を占めたら正反対の方向に進んでしまう。


そのため、二院制を採った方が政府の政策に安定と継続性をもたらすことができる」


ホイットニー准将

「草案の原則を損なわない限り、マッカーサー元帥は二院制に反対されないであろう。


この憲法草案がこのままの状態で受諾される必要はないが、これからどのような草案が出てこようとも、このGHQ草案に盛り込まれた基本原則が書き込まれていなければ、マッカーサー元帥が承認されることは絶対にない。」


松本烝治

「議論は本日、話し得るところまでできたと思う。」


吉田外相

「この草案について幣原首相にすべて報告し、首相と閣僚の意見を聞いてから、次の会合を開きたい」


ホイットニー准将

「吉田外相、あなたがこの草案を他の閣僚たちに報告し、草案の条項を検討する時間を望むことは当然です。


元帥は、憲法改正を最優先的に検討してもらいたいと望んでおられます。


元帥は、憲法草案は総選挙が実施される前に日本国民に示すべきであり、国民が憲法改正について自由に意見を表明するために十分な時間が与えられるべきだと発言されております。


先ほど説明したように、元帥は日本政府がこの憲法案を国民に提示すれば、その時元帥自身もこの案を強く支持し、賛成の態度を公表すると言われております。


しかし、日本政府が提案に失敗したら、元帥が自らこの草案を日本国民に提示されます。


この草案は元帥ならびに連合軍の諸原則を象徴したものであり、日本政府が喜んで受け入れるべき内容です。


なぜなら、この憲法は、日本が自由で民主主義の国家となり得るもので、ポツダム宣言を履行する意思を表現することになるからです。」 


ホイットニー准将

「あなたの政治作業の助けになると思い、草案の複写を15部置いていきます。次の会談の日程は、後ほどお知らせ下さい。


私も部下たちも、あなた方の都合のよい日に会談できるように日時を準備しておくことを約束します」


吉田外相

「この案件を極秘にしておいてもらいたい」


ホイットニー准将

「吉田外相、これまでも秘密が守られてきたように、これからも守られるでしょう。


内密にしておくことは、元帥のためではなく、あなた方にとって好都合であり、あなた方を守るためでもあるのです。


では、みなさん、さようなら。あなた方と会合することができて感謝いたします。お返事をお待ちしております」



その後、昭和21年2月26日、閣議でマッカーサー憲法草案の受け入れを決定し、幣原首相が天皇陛下に上奏しました。


昭和21年3月7日、新聞紙上にて新憲法草案要綱が発表されました。

 

昭和21年4月10日、戦後初の衆議院議員の選挙が実施。


戦前の政友会が自由党と改名されて、鳩山一郎を党首にして出馬。

 

自由党は141議席を獲得して、第1党となったのですが、鳩山一郎は、選挙の後に公職追放されてしまいましたので、その後任として、吉田茂が党首(総理大臣)となりました。

 


昭和21年6月20日、帝国議会が開会されました。

今のところ、この帝国議会が、大日本帝国憲法下の最後の議会となっております。

 

この議会で、新憲法草案について審議されたのですが、最大の争点は、日本の国体についてであり、戦争放棄ではありませんでした。


天皇陛下を”国家元首”、あるいは”主権者”とせず、”象徴”とするのはポツダム宣言の条件に違反するのではないか? 


というのが最大の争点でした。

 

貴族院は昭和21年10月6日に、衆議院は10月7日に新憲法を採択しました。

(戦前の国会は、貴族院と衆議院の2院制でした)

 

昭和21年11月3日公布、昭和22年5月3日、新憲法が施行されました。


形式的に、平和憲法は、国会での審議を経て採択されたことになってます。


しかし、その憲法草案は、マッカーサーノートに基いて、憲法について全くの素人の占領軍の民生局スタッフ達が、わずか一週間足らずで書いたものでした。


しかもその原本は、もちろん英語で書かれたものになります。


占領中の日本では、マッカーサーに何も反論できませんでした。


その状況下で、やりたい放題のマッカーサーによって、平和憲法は作られていったのです。