子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -4ページ目

 

日本軍はシナ大陸に侵略してきた悪玉である。そしてその悪玉を退治して中国を統治したのは共産党軍である、と中国共産党は自国民に徹底的に刷り込んでいます。

 

また、日本は悪玉なのだから、未来永劫、徹底的に反省するように、とあらゆる手段を使って日本人に対して洗脳し続けています。

 

この中国共産党の歴史とは本当なのでしょうか?

 

昭和12年( 1937年)7月7日、北京近郊の盧溝橋にて日本のシナ駐屯軍と中国軍が衝突しました。(盧溝橋事変)

 

それに続く8月、上海在住の日本人居留民に対する、中国国民党軍よる攻撃が激しくなってきました。

 

これに対して、上海に駐屯していた日本海軍陸戦隊は、軍事衝突を避けようと、耐え忍んでいました。

 

上海地区を担当していた、日本海軍の司令長官である長谷川清中将は、最も融和的であり、敵対行動を可能な限り回避するために、出来ることはすべて行いました。

 

しかし中国軍の態度が戦闘行動に傾いていたので、、平和を願う日本海軍の態度が、逆に喧嘩もできない弱腰であるかのように誤解されてしまいました。

 

長谷川中将は、このことを確認すると、今までの融和的態度を一転して、5個師団を直ちに上海に派遣するように東京の日本政府に打電。

 

今まで日本海軍が行ってきた妥協的で生ぬるい手段は、ただ、中国軍の凶暴さを手助けするだけの結果を招いてしまっていたので、長谷川中将はやむにやまれずに、中国軍との戦闘行為をおこなう決断をしたのです。

 

はたして、この長谷川中将の決断が、”日本軍が中国を侵略した”、といえるでしょうか?

 

上海からの長谷川中将からの要請を受けた東京では、すでに7月から北京近郊の盧溝橋での対応で手一杯でしたので、上海にはわずか1個師団しか派遣しませんでした。

 

結果的にはこの決断が、その後の上海と南京において、日本軍が大きな犠牲を払うこととなる原因となってしまいました。

 

この時、大部隊を派遣して一気に制圧していたら、その後の犠牲者は少なく抑えられていたかもしれません。(第二次上海事変の戦死傷者数は約4万人。これは日露戦争時の旅順攻囲戦でとほぼ同数の犠牲者でした。)

 

日本軍が、上海において中国軍の挑発に応じて無理やり引きずり込まれてしまった、という認識は、当時の欧米列強もよく理解していました。

 

以下は、ニューヨークタイムズ紙の上海特派員の記事です。

 

「地域的な敵対行動の勃発を回避する試みにより、ここで開催された様々の会議に参加した多くの外国政府の代表や外国の正式なオブザーバーたちは皆、次の時点に同意するであろう。

 

すなわち、日本軍は敵の挑発の下で、最大限に抑制した態度を示し、数日間の間だけでもすべての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も外出させなかった。

 

ただし、それによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが。

 

8月13日以前に上海で開催された会議に参加した一人の外国代表は次のようにみている。

 

7月初めに北京の近郊で始まった戦闘状態の責任は誰にあるのか、ということに関しては意見が分かれるかもしれないが、上海の戦闘状態に関する限り、記録の証明している事実は、唯一一つしかない。

 

日本軍はここ上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐためにできる限りのすべてのことをした。

 

だが、日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまったのである。

 

中国軍は外国人の居住している地域と外国の権益を、この衝突の中に巻き込もうとする意図があるかのように思えた。」と。(昭和12年(1937年)8月30日付)

 

ニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙の上海特派員ビクトル・キーン氏は次の記事を掲載しました。

 

「北支での戦闘に外国列強諸国がほとんど注意を払わないでいた間に、中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地はない。

 

上海で最後の抵抗をすることによって、たぶん何らかの形での仲裁なりあるいは少なくとも中国の側に立った警告がなされるであろう、

 

という期待があったのである。

 

その上、上海北部の地形は北支の地形よりも防衛行動を行うにははるかに適していたのである。

 

さらに中国軍最精鋭部隊もまた、この地域に駐留したいた。」と。

 

なぜ、中国国民党軍の蒋介石は、それほどまでして、上海での日本軍との軍事衝突を望んだのでしょうか?

 

蒋介石のアドバイザーとして、ドイツから派遣されていた、アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンがいました。

 

彼は、国民党軍の単独で日本軍に勝利することは難しいと認識していたので、欧米列強からの干渉(同情)を得ることが最も重要であると、蒋介石にアドバイスしていました。

 

その干渉(同情)を得るために、当時、欧米列強が租界地として持っていて、多くの欧米人が生活していた上海に注目したのです。

 

その上海で、日本軍との軍事衝突を起こせば、欧米列強も無視するわけにはいかない、と考えたのです。

 

よく、日本軍が中国大陸に駐屯していたのが悪い、という意見をする人がいます。

 

そのこと自体が、侵略していた事実に該当する、と。

 

しかし、租界地域が中国各地に設けられており、その租界地域には日本軍だけでなく欧米列強の軍隊も駐屯していたのです。

 

なぜ、租界地域が設けられて、そこに諸外国の軍隊が駐屯していたかのでしょか?

 

当時のシナ大陸では、清国が滅んだ後、それを後継する統一政府がありませんでした。

 

孫文の意思を継いだ蒋介石率いる国民党が、欧米列強から正式に認められた中国政府ということになってましたが、その統括する地域は、シナ大陸の南方の一部分に限られ、その他のほとんどの地域では、さまざまな軍閥が統治していた混沌とした戦国時代でした。

 

そして、以前より、シナ大陸で宗教活動やビジネスのために住み着いていた外国人たちは、治安が悪いシナ大陸で自分たちの生命と財産を守る手段がありませんでした。

 

なぜなら、シナ大陸は統一した国家政府がなく、混沌とした戦国時代だったからです。

 

そのため、欧米列強をはじめ日本も、自国民の生命と財産を守るために、自国の軍隊を派遣して駐留させていたのです。

 

これは、1900年6月21日から起きた義和団の乱の後、1901年9月7日に、清国政府の西太后と欧米列強と日本が正式に結んだ、北京議定書に元づいて行われていたことになります。

 

一方、中国人は外国人により支配されてしまった上海など租界地区を取り戻したいという願望を持っていました。

 

1927年に作られた蒋介石率いる国民党軍は、上海の外国人が支配している租界地区を奪取するために、猛烈な軍事行動を起こしました。

 

これに対して、租界地区を守るために、欧米列強は鉄条網と土嚢を築いてバリケードを作って、国民党軍からの攻撃を防いでいました。

 

中国人は、この租界地区についてどのように考えていたのでしょうか?

 

中国人の多くが、欧米列強から押し付けられたと主張していました。

 

さらに、租界地区を外国人に押し付けたのは、欧米列強や日本ではなく、実は中国政府だったのです。

 

もともと中国は、すべての外国を自分の臣下とみなしていました。

 

対等の立場で、大英帝国や米国やフランスと付き合う、という発想は中国にとって問題外でした。

 

そんなばかげたことを考えるはずないだろう、とあなたは思うかもしれません。

 

しかし、中国人は昔も今も、共に手を携えて仲良くしていきましょう、という共生の発想がありません。

 

中国人にとっては、支配するか支配されるかの二者択一しかないのです。

 

お人好しの日本人は、そのような中国人の発想が理解できないので、「日中友好」という言葉を金科玉条のようにして大切にしてきました。

 

中国人にとっての「平和」という言葉の意味は、「和をもって平らげる」という意味になります。

 

つまり、将来、日本や諸外国を平らげる(植民地支配する)ために、和をもって日本の進んだ技術や資金援助を受け入れる、ということになります。

 

「天の子」そのものである中国の統治者は、はるか天空のかなたの玉座から全世界の陸地を統治している。

 

もしも外国の船が中国の港に立ち寄れば、彼らはそこで貢物を収める義務がある、と。

 

中国が外国人に租界を設けた理由は、天上の支配者が認めたく狭い地域に「外国の悪魔」を閉じ込めておくためだったのです。

 

野蛮で汚らわしい外国人(日本人や欧米列強人)は、文明的な天上の人々とまじりあってはならないし、その存在によって、天の子の聖なる土地をけがしてはならなかったのです。

 

これが、租界が始まった理由でした。

 

やがて、せまい地域に押し込められた欧米列強人と日本人たちは、勤勉と努力によって、荒廃した中国の砂漠の中に、オアシスのような街を作り上げていきました。

 

それをわきで見ていた中国人たちは、「汚らわしい野蛮人」の住む租界に入れてくれと要求し始めました。

 

しかし、租界に住む外国人たちは、中国人の受け入れを拒否しました。

 

1851年にはじまった太平天国の乱の混乱に乗じて、上海や南京の周辺で家を失った多くの中国人たちが、租界地区に避難してきました。

 

同情した租界に住む外国人たちは、避難してきた中国人を受け入れましたが、混乱が収まった後に、かれらを租界から追い出すことはできませんでした。

 

その後、1900年6月に起きた義和団の乱が引き金となり、1901年9月に、清国と欧米列強と日本が正式に結んだ北京議定書に基づいて、租界の周辺に諸外国の軍隊が駐屯することとなりました。

 

義和団の乱とは、租界地区などシナ大陸に住んでいる外国人を排斥しようとして、略奪や強盗や殺戮などあらゆる悪を繰り広げたテロ組織を、全面的に支援した清国末期の支配者である西太后と、欧米列強軍と日本軍で組織された連合軍との戦いでした。

 

このテロ組織と戦った連合軍を総指揮したのは、英国人のクロード・マクドナルドでしたが、最も多くの軍隊を派遣したのは日本軍であり、

 

特に紫禁城攻略の際に、絶望感に満ちた中で避難していた英国の駐在員家族の間で、柴五郎の率いる部隊の勇敢さと規律正しさが話題となり、後に大英帝国が初めて軍事同盟を外国と結ぶこととなった導線となりました。

 

上海の租界の周辺から数マイルを非武装地帯として、中国軍の立ち入りが禁止されていました。

 

これは、1932年の起きた(第一次)上海事変の際に、日本軍が中国の19路軍に勝利した際に、国民党政府に認めさせたものになります。

 

この協定には、英国、フランス、米国、イタリアの各政府の代表が立ち会って承認しました。

 

なぜ、非武装地帯が設けられていたかというと、それまで何度も中国国民党軍による上海の租界地区が攻撃されたために、再び軍事衝突が起きないように、租界を守ろうと必死になっていた欧米列強と日本の要望によるものでした。

 

しかし、その後、この非武装地帯には、いざという時のために中国国民党軍は、武器を隠れて持ち運んでいたのです。

 

中国国民党軍が日本に対抗するために、欧米列強からの干渉(中国への同情、日本への非難)を得ることと、自国民への反日教育を二大柱にしてました。

 

ニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙の上海特派員が、9月16日付けの新聞に書いたとおり、中国は上海で軍事行動を起こすことによって、欧米列強から干渉を得ることや関心を持ってもらうことを期待していました。

 

また、ニューヨークタイムズの特派員が述べたとおり、日本

軍は中国軍によって軍事衝突へと無理やり追い込まれてしまった。

 

中国軍は外国人の居住している地域と外国の権益を、この衝突の中に巻き込もうとしているように思える、と。(昭和12年(1937年)8月30日付)

 

8月13日、上海にて中国軍の軍事行動が開始。

 

中国軍の国際租界への空爆により、約44万6千人(フランス特権区域)と49万5千人(国際租界)の死傷者がでました。

 

ニューヨークタイムズ紙の上海特派員は次のように述べました。

 

「中国軍が無責任な空爆を行って上海の国際租界とフランス特権区域の無力な民間人を殺すのを防ぐための、

 

武力手段あるいは他の抑制措置をとることに、外国の領事館員及び陸海軍の軍人が合意するならば、何らかの国際的措置をとることを決議しなければならない」と。

(1937年8月27日付)

 

なぜ、中国軍はここまで執拗に上海の国際租界に対して軍事行動をおこしたのでしょうか?

 

その理由はただひとつ、欧米列強による日本への干渉を煽るためでした。

 

日本を挑発すれば、必ず日本も軍事行動をおこすに違いない。

 

そして、それが国際租界である上海で行われれば、欧米列強の関心を引くことができるであろう、と目論んだわけです。

 

そして、その蒋介石の目論みは見事に当たりました。

 

蒋介石は、この上海とそれに続く南京における軍事行動と共に、最も力を注いだ事があります。

 

それは、プロパガンダ(宣伝活動)になります。

 

火薬を使った爆劇以上に、ペンを使った爆劇に最も力を注いできました。

 

宣伝活動のために外国人作家を雇い、欧米列強が中国国民党に同情を寄せるように、本を書かせました。

 

その代表が、オーストラリア人のハロルド・ティンパリー氏であり、「戦争とは何か(WHAT WAR MEANS)」という書籍を書かせました。

 

彼は、国民党中央宣伝部の工作員として、英国支部代表を止めました。

 

中国国民党の国際宣伝所長であった曽虚白は、『戦争とは何か』に関し、「金を使って、ティンパリーに依頼して書いてもらい、発行した」と、戦後に語っているとおり、第三者の外国人記者が、客観的な視点にたって書いたものではないことが明らかとなっています。

 

しかし、この「戦争とは何か(WHAT WAR MEANS)」が、戦争中に世界中の人に与えた影響は計り知れません。

 

特に英国と米国の世論を、「反日、新中国」へと大きく傾かせることに成功しました。

 

さらに、写真や動画を使って日本軍の残虐性を宣伝していきました。

 

1937年8月28日に撮影されたという、上海南駅構内で取り残された赤ん坊の写真が、LIFE誌という雑誌に掲載されました。

 

この写真の解説には、大日本帝国海軍が上海上空を空爆したことで、多くの上海市民が犠牲となったとありました。

 

王小亭というジャーナリストが撮影したこの写真は、捏造されたものとして今では有名ですが、当時の米国市民をはじめ世界中の世論に与えた影響は計り知れません。

 

なぜなら、この赤ん坊の写真が、2500万部新聞に印刷されることとなり、1937年10月4日号の雑誌ライフによって1.36億もの人が、この写真を見ることになったからです。

 

中国国民党が武器弾薬を使った戦闘では、日本軍に圧倒的に大敗してしまい、上海から南京に退却することとなり、さらに、蒋介石は首都の南京から重慶に避難することとなりました。

 

しかし、ペンや写真、映像を使った戦闘(宣伝工作)では、世界中の人々から、干渉(反日、中国への同情)を得ることに大成功しました。

 

「遠くの敵を近くの敵にけしかける」とは、中国の歴代王朝が行ってきた長年の伝統ですが、日本はこの中国の伝統的政策にまんまと引っ掛かってしまったのです。

 

この時の、遠くの敵とは欧米列強であり、近くの敵とは日本のことになります。

 

上海での軍事衝突をさけたかった日本。しかし、何とかして日本との軍事衝突をすることで欧米列強から干渉を得たかった蒋介石の目論見に、まんまと引きずり込まれてしまいました。

 

そして、軍事衝突では中国国民党軍に勝利した日本軍。しかし、国民党の宣伝工作に大敗してしまった日本は、その後の欧米列強との戦争に突入せざるをえませんでした。

 

中国大陸に侵略してきた日本軍を、見事に撃退して勝利したのは中国共産党軍である。

 

日本軍は悪玉であり、中国共産党軍は善玉である。

 

このような反日教育を自国民に徹底的に刷り込み、日本に対しては未来永劫、徹底的に反省するようにと日本人を洗脳し続ける中国共産党は、第二次上海事変の際に、宣伝工作で大成功した中国国民党の政策を、踏襲しているのでしょう。

 

https://youtu.be/F-8gMg2-lMA

 

写真

長谷川清中将

 

参考図書

「シナ大陸の真相」カール・カワカミ著



東京オリンピックが来年ありますが、この場で日本人としての誇りや民族意識が高まると、かつて戦争を引き起こした過ちを再び犯しかねない、と懸念している進歩的文化人の方々がいます。

本当に、日本人としての誇りや民族意識が高まることが、戦争を引き起こすことに繋がるのでしょうか?

かつて、アジアのほとんどは、白人国家の植民地だった時代がありました。

数百年の間、イギリスやフランス、ドイツ、オランダなどの白人国家の植民地として、天然資源を搾取されて、原住民はほぼ奴隷に近い扱いを受けていました。

今では、その全てが、独立国として白人国と肩を並べているので植民地時代の実感がわきませんが、独立してからまだ80年足らずしかたっていないのです。

では、なぜ、数百年もの長い間、白人国家の植民地として搾取され続けて、奴隷に近い扱いを受けていたにも関わらず、独立することが出来たのでしょうか?

原住民たちが自尊心を持ち、「自分たちは白人と同等の人間なんだ」、と民族意識を持ち、独立を目指して白人国家と戦ったからでしょうか?

もちろん、それが独立することが出来た原因になります。

しかし、アジアの人々は、それまで数百年もの長い間、搾取され、奴隷に近い扱いを受けていた人たちなのです。

あなたは、そのような人たちが、いきなり武器を手にして戦ったからと言って、簡単に白人国家に勝てると思われますか?

インド独立運動を手助けした、藤原岩市氏の話です。

1941年7月、英米は、日本に対して在外資産を凍結し、日英通商条約を破棄し、日本に対する石油の輸出を禁止して、さらに日蘭との石油交渉が決裂するなど、イギリス、米国、オランダ、フランス諸国との戦争が間近に迫っていました。

そのような時期の1941年9月、藤原氏は、参謀総長の杉山大将から、タイのバンコクに行き、タイ国駐在武官の田村大佐の元で、インド独立運動とマレイ人とシナ人の反イギリス勢力との連携工作をするように、との辞令を交付されました。

当時の日本は、大東亜新秩序という理想を掲げて、それを実現させるために、支那大陸での戦線を拡大し、ソ連と対峙していましたが、南方の特にインドに対する認識があまりありませんでした。

藤原氏は、バンコクにおいて、シーク族でIIL書記長のプリタムシン氏と密会しました。

そこで、藤原氏は、インド人が第一次世界大戦に置けるイギリスのインドに対する裏切り行為に憤慨しており、今回の第二次欧州戦争をきっかけにして、インド独立闘争を展開したい、という熱意を聞きました。

インド独立運動家たちは、武力もない無力なので外国勢力の力を借りないと独立することはできない。

しかし、外国勢力の傀儡国家として独立することも認められない。

外国勢力の力を借りつつも、どの国からも拘束されることのない完全なる独立を目指している、ということでした。

マレイ半島に駐在しているイギリス軍には、インド人だけで編成された部隊がありました。

まずは、そのインド人部隊に対して、ビラをまいたりして宣伝工作をすることになりました。

そのビラには、イギリス軍から離脱して投降するよう書かれてました。

藤原氏が、インド独立運動の任務を実践するにあたり、岡倉天心の説いた「大アジア主義」を理想として活動していました。

大アジア主義とは、アジアは一つであり、お互いの対立を超えて共に栄える共栄和楽の理想郷をアジアに建設するというような趣旨でした。

そして、以下のようなことを、他の工作員たちと徹底して共有していました。

「アジアの各民族は他の白人からの支配と圧政から解放されて、自由と平等の関係において、それぞれの各民族の政治的理念を成し遂げて、文化的伝統を高揚して、アジア全体の一体感の平和な社会を実現させなければならない。

そのためには、日本民族がその先立となる責務を負い、それを実践しなければならない。

各民族の信仰や風俗や習慣などをあくまで尊重して、日本人の主観を強要することは慎まなければならない。

我々の運動は、この理想を指標として、私たちの誠意と情熱を愛情を、実践を通して異民族に納得させて、共感と共鳴を受けなければならない。

我々の運動は、あくまで日本のこの理想に共鳴する異民族同志の自主的運動を支援する形において行われなければならない。

少しでも我々の強制や干渉が加わったり、あるいは利用の観念や傀儡の印象を与えることがあってはならない。

策術を無くして、誠実を持って任務にあたらなければならない。

この任務を達成するためにもっとも重要なことは、マレイやスマトラやインドの各民族の同士たちが、それぞれ自分たちの民族に対して抱いている愛情と情熱と独立に対する犠牲的決意に劣らないものを、

我々もその民族に対して持たなければならない」、と。

1941年12月1日、田村武官とプリタムシンとの間で、以下のようなメモランダムを日英両文で作成して、署名しました。

田村プリタムシンとのメモランダムは以下の通り。

1、我々はの協力は、日印両国がそれぞれ完全なる独立国家として自由かつ平等なる親善関係を成熟し、相協力して大東亜の平和と自由と繁栄とを完成することを終局の念願としてなされるべきものとする。

2、IILは、インドの急速かつ完全なる独立獲得のため、対英実力闘争を遂行するものとする。これがために日本の全幅的援助を歓迎するものとする。
ただし、日本はインドに対し領土、軍事、政治、経済、宗教等に渡り、一切野心を有せざること、いかなる要求をも持たざることを保証するものとする。

3、省略

4、日英戦争勃発に伴い、IILは次の作戦を展開する。
(1)IILは、日本軍と共にまず南タイ、マレイに前進して、IILを同地区に拡大し、同地区一般インド人および英インド軍内インド人将兵に対して、反英独立闘争気運を高揚して、かつ日本軍との親善協力気運を醸成する元とする。
(2)(3)省略
5(1)、(2)省略

5(3)、日本軍は、作戦地一般インド人ならびにインド人投稿者(捕虜を含む)を敵性人と認めざるのみならず、同胞の友愛を持って遇し、その生命、財産、自由、名誉を尊重するものとする。

また、その信仰を尊重するため寺院を保護し、日本軍の寺院使用を禁ずるものとする。これがため作戦軍将兵にその趣旨を普及理解せしめ、その実践の徹底を期するものとする。

この田村プリタムシン覚書(メモランダム)は、サイゴンの南方軍総司令部や東京の大本営陸軍部にも送付されました。

そして同日の12月1日、東京では御前会議が開かれて、日本は米国との開戦を決意しました。

海南島の沖合で待機していたマレイ攻略のための日本軍の大船団は、南タイ沖に向けて出航。

12月8日早朝、日本軍はタイ国に雪崩のように進軍。

この日本軍の快進撃に伴い、英インド軍内部のインド将兵たちが次々に離脱して、IIL本部に集まってきました。

祖国インドの国旗が翻る中、プリタムシン氏が民衆の前で独立運動の目的と計画を演説し、民衆は熱狂的拍手を送りました。

英インド軍の一大隊が、日本軍との戦闘に敗れて敗走し、ゴムの木の密林の中で退路を失って立ち往生していました。その大隊は大隊長だけが英国人で他の将兵たちは皆インド人でした。

藤原氏は、他の護衛をつけずに単身で、そのゴム園で立ち往生している一大隊の大隊長との面談に出かけることにしました。

まだ、周辺には英国軍の敗走兵があちこちに潜んでいて危険な状況なので、他の藤原機関の同士たちが引き止めるのも聞かずに。

12月14日未明、藤原氏一行は、インド国旗で覆われた車で現地のゴム園に向かいました。

途中、「まだ、大隊長の意向がわからないので、現場に行くのは危険である」、との忠告を受けましたが、藤原氏の決意は変わらず、単身で乗り込んで英国人大隊長との会見に臨みました。

「私は日本軍代表の藤原少佐である。あなたの大隊が直面している絶望的状況を察して、誠意を持って投降に応じる用意があるので直ちに会見したい」という内容の手紙を、英国軍の使者に渡しました。

そのあと間も無く、ゴム園の休憩所にて無武装で護衛もつけず単身で待っていた藤原氏の元に、英国人大隊長がやってきました。

藤原氏は、これ以上投降に躊躇し続けることは、無益に将兵を犠牲にすることになると伝え、また、日本軍は武士道精神にのっとって、投降将兵を処遇する用意があると伝えました。

英国人大隊長は、長い沈黙のあと、無条件に従うことに同意して降伏文書にサインしました。

藤原氏の、日本人としての誠意を示せば、相手は必ずわかってくれるはず、という信念によって、無益な殺傷をせずに、約200人のインド人将兵が無事に投降することができました。

祖国インドの国旗で覆われた車をみて呆然と立ちすくんでいた
インド人将兵たちに向かって、藤原氏は演説しました。

「諸君、私はインド人将兵との友好をとり結ぶためにきた日本軍の藤原少佐である。ただいま、君たち大隊長は私に降伏を申し出て署名を終えた。IILのプリタムシンと共に迎えにきた」と。

次に、大隊長に向かって直ちに部隊全員の点呼と武装の解除をするように要求しました。

その中にキビキビとした行動でひときわ目立った中隊長がいました。彼はのちにINAインド独立運動の中心的人物となるモハンシン氏でした。

それから間も無く、藤原氏はF機関のメンバーとIILのメンバーと投降したインド人将兵たちで会食の場を設けました。

その会食の中、モハンシン氏が立ち上がり、次のようなスピーチをしました。

「戦勝軍の要職にある日本軍参謀が、一昨日投降したばかりの敗戦軍のインド兵捕虜、それも下士官まで加えて、同じ食卓でインド料理の会食をするなどということは、イギリス軍の中では夢にも思えなかったことです。

イギリス軍の中では、同じ部隊の戦友でありあがら、イギリス人将校がインド兵と食事を一緒にしたことはなかった。」と。

さらに、F機関のメンバーは箸やフォークがないので、他のインド人たちを真似て、手を使ってインド料理を食べていると、他のインド人将兵たちから共感されました。

12月31日、モハンシン氏は藤原氏に対して次のような提案をしてきました。

「我々は、日本軍が次の内容を容認してくれることを前提として、インド祖国の解放と自由獲得のために決起する決意を固めました。

1、インド国民軍(INA)の編成に着手する。
2、日本軍はINAに対して全面的な支援をする
3、INAとIILは協力関係とする。
4、日本軍はインド兵捕虜の指導をモハンシン氏に一任する
5、日本軍は、インド兵捕虜を友情を持って接し、INAに参加を希望するものは解放する。
6、INAは日本軍との友軍関係とみなす。
など」

INAを日本軍の同盟国軍に準じた扱いとすることには、正式な手続きが必要なのでしばらく時間がかかりましたが、

何れにしてもインド人将兵からの自主的な提案により、インド独立のための軍隊が、日本軍の全面的協力のもとに組織されていくこととなりました。

また、F機関の活動範囲も、タイ国のバンコクから始まり、日本軍の快進撃と共に、マレイ、スマトラ全域に広がっていきました。

INAの宣伝班の主な活動は、英インド軍内部のインド人将兵たちに対して、潜伏して同士を獲得して独立運動の思想教育をすることでした。

1941年11月の英米との開戦前、タイ在住の一人の日本人諜報員の谷豊氏が、F機関の一員として工作活動をしていました。

谷氏は生後1年から異国で育ち、マレイでは非行を続けていたので両親から勘当を受けて、一人で生活していました。

その谷豊氏が母親に宛てた手紙を藤原氏が受け取り、東京の参謀本部経由で九州に住む母親に送りました。

谷氏の母親への手紙
「お母さん、豊の長い間の不幸を許してください。豊かは毎日遠い祖国のお母さんを忍んで、ご安否を心配しております。

お母さん!日本と英国は近いうちに戦争が始まるかもしれないほどに緊張しております。

豊は日本参謀本部の田村大佐や藤原少佐の命令を受けて、大事な使命を帯びて日本のために働くことになりました。

お母さん、喜んでください。豊は、真の日本男児として更生し、祖国のために一身を捧げる時が参りました。

豊かは近いうちに単身英軍の中に入ってマレイ人を味方にして思う存分働きます。

生きて再び御目に掛かる機会も、またお手紙を差し上げる機会もないと思います。

お母さん!豊が死ぬ前にたった一言!今までの親不孝を許す。お国のためにしっかりと働けとお励ましください。

お母さん!どうか豊のこの願いを聞き届けてください。そうしてお母さん!長く長くお達者に遅らしください。お姉さんにもよろしく。」

マレイのハリマオと言われた谷豊氏は、ゴム林の中に避難しているマレイ人に投降して独立運動に加わるように宣伝したりして、日本軍のために活動していました。

しばらくして、谷豊氏のお姉さんが代筆した手紙が届き、ハリマオこと谷豊氏のもとに届けられました。

「豊さん、お手紙を拝見して嬉し泣きに泣きました。何遍も何遍も拝見いたしました。

真人間、正しい日本人に生まれ変わって、お国のために捧げて働いてくださるとのご決心、母も姉も夢かと思うほど嬉しく思います。母もこれで肩身が広くなりました。

許すどころか、両手を合わせて拝みます。どうか立派なお手柄を立ててください。母をはじめ家内一同達者です。

毎日、神様に豊さんの武運長久をお祈りします。母のこと、家のことはちっとも心配せずに存分にご奉公してください。」

彼は、「藤原機関長の元で、立派な日本男子として死ねるならこれ以上の本望はありません」と最後に言葉を残して、ジョホールの陸軍病院でマラリヤで倒れました。

日本軍の快進撃が続き、首都クアラルンプールが陥落しました。

すでにINAの宣伝工作により、投降してきたインド人将兵はマレイ全土で2500名に達していました。

クアラルンプールに続きジョホールバルも陥落し、残るは大英帝国の要塞シンガポール。

英軍は続々、このシンガポールに後退していきました。

この時、INAのメンバーは3500名に登り、この将兵を養うのに、ほとんど全て英国軍が残していった倉庫から補給していったので、日本軍からの補給を受けることはありませんでした。

1942年2月14日から15日未明にかけて日英両軍の激戦が繰り広げられて、午後6時、フォード会社の事務室にて降伏交渉が開かれました。

この会談で、約1時間ほど事務的質疑が行われ、無条件降伏から停戦交渉にすり替えられようと思われた矢先、山下将軍がパーシバル将軍に「イエスかノーか」と厳しい詰問で、無条件降伏が成立。

武器弾薬が尽きていてこれ以上の戦争続行が困難な状況だった日本軍でしたが、間一髪のところで無条件降伏を勝ち取りました。
 
昭和18年(1943)7月4日、シンガポールで開催されたIIL代表者大会において、自由インド仮政府が樹立され、満場一致でチャンドラボーズ氏がその首席になりました。

1万5千人に膨れ上がったINA将兵を前にして、チャンドラ。ボーズ氏は次のような演説を行いました。

「この軍隊がかつての英国の牙城であるシンガポールで編成されたことは大変意義深い。

大英帝国すでになしとの感が深い。

同志諸君、我が兵士諸君、諸君のおたけびは「デリーへ、デリーへ」である。

我々の中、果たして何人がこの戦いに生き残れるかわからぬ。しかし、我々が最後の勝利を獲得することは間違えない。我々の任務は、あの古城デリーの赤城(レッドフォード)である。

長い間の抗英闘争中、インドはあらゆる闘争手段を持っていたが、唯一持ち得なかったもの、そのもっとも重要なもの、

”それは軍隊である。”

私は、この軍隊がないことを切歯してきた。それが現在、このような精強な軍隊が出現したのである。

この歴史的軍隊に真っ先に挺身参加できたのは、諸君の特権であり名誉である。

かつて日本軍は、シンガポールを陥落するために
怒涛のようにマレイに進軍して、口々に「シンガポールへ」と叫んだ。

我々はこの例に習って叫ぼう。
「チェロ、デリー。チェロ、デリー」と。

デリーが再び’我らのものとなるまで。

諸君が生死を私に託して従うならば、私は必ずや諸君を、勝利と自由に導きえると確信する。

我々の中、行く人が生きて自由インドを見るかは問題ではない。

我々の母なる国インドが、自由になること、インドを自由にするために、我々の全部を捧げること、それで十分なのである。」と。

その後、昭和19年3月(1944)から、日本軍と共にインパール作戦で友軍として戦ったINAは、ビルマからデリーへ進軍する途中、日本軍が撤退をしたために、仕方なく道半ばで撤退。

最後の一兵まで戦うと主張したチャンドラボーズですが、日本軍に従わざるを得ませんでした。

昭和20年(1945)8月15日、日本敗戦。

その後、昭和20年(1945)10月5日から英国インド軍元兵士からなるINA将校への軍事裁判が首都デリーのレッドフォードで開始されました。

日本敗戦時、INA将兵は1万9千500人に登りましたが、この将兵の処遇をどうするかというのが、終戦後のインドを統治する英国の大問題となりました。

INA軍事裁判は、大英帝国の権威を示す機会と捉えていましたが、インド民衆は、もはやかつての羊のような、おとなしい白人の奴隷で甘んじる民衆ではありませんでした。

インド民衆の、抗英独立闘争の波は、インド全土に広がって生きました。

INA軍事裁判は、形を変えたインパール作戦となりました。

大東亜戦争は日本の敗戦では終わっておらず、それは第一幕が終わったに過ぎず、すでに第二幕が始まっていたのです。

「INAの日本軍との共同作戦であるインパール作戦は、英国本土の支配と搾取に対抗して、独立戦争を起こしたアメリカ独立戦争と比較すべきである。」

「INAは独立国政府の軍隊として、日本軍と共同作戦をおこなったものであり、日本の傀儡ではない。今回の世界大戦において、英国軍が米国のアイゼンハワー元帥の指導下でドイツと戦ったが、英国軍が米軍の傀儡ではない事実と同様である。」

「INA将校は、シンガポール陥落後、ファラパークにて英国軍の手から解放されて自由意志にもとずいてINA独立軍に参加したのであり、英国女王陛下に対する反逆罪には当たらない」

というような反対弁論を弁護士団は展開しました。

その結果、被告人は釈放されましたが、2月に行われた2回目の軍事裁判において、反逆罪は不問にされたが、暴行罪が取り上げられて有罪の判決が出ました。

市民は暴徒と化し、反乱軍が英国軍の軍艦を占拠したため、英国軍の出動し、死者200名を超える非常事態tなりました。

昭和22年(1947)8月15日、インド独立令により、インドは英国からインド民衆の手に統治権の完全譲渡が行われました。

オリンピックにおいて、民族意識の高まりにより、再び日本は戦争を引き起こすかもしれないので注意が必要である、と主張する進歩的文化人の方々がいます。

しかし民族意識の高まりを押さえつけられて、いつまでも白人国の奴隷に甘んじていたら、インドをはじめほかのアジア諸国はいまでも、搾取されて奴隷同様の自由のない、人間としての尊厳もない、みじめな扱いを受けていたでしょう。

当然、独立国ではないので、オリンピックに参加する権利などもなかったでしょう。

参考図書
「F機関 」藤原岩市著

人は変えられないけど、自分は変えられる【私の内観#47】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

 

前回、過去は変えられるけど、未来は変えられない【私の内観#46】からの続きです。

 

以前までの自分は、周りの人を変えようと頑張っていました。

自分の好みに合うように、人を変えていこうとしていたのです。

 

 

よく職場では、部下に厳しく叱りつける上司がいます。よく見かける光景ですが、これは、上司の好みに合わせるように部下を変えていきたいという思いが、無意識に働いている場合があります。

 

 

もちろん、仕事上のミスは注意して、二度と間違わないように叱る場面は必要です。

 

 

でも、なんでもかんでも自分の好みに合わせようとして、部下や従業員を矯正しようとしている場合もあります。

 

 

人それぞれ、キャラクターは異なります。

個性なわけです。

 

 

自分の好みに合わないからといって、他人を否定して矯正しようとするのは、よくないです。

 

 

「こうしたらいいよ」、というアドバイスでもそうです。

 

 

客観的に見て、そのアドバイスに従って変わった方が、その人にとって良い場合もあるかもしれません。

 

 

でも、チューリップがバラの花のように咲くことはできません。

 

 

上司は社長の好みがバラの花だったとして、部下や従業員を皆バラの花にやるようにアドバイスして矯正したりすると、どうなるでしょうか?

 

 

その部下や従業員は、チューリップだったり、ひまわりだったり、蓮の花だったりするのです。

 

 

それでも、無理やり、自分の好みに合わせようとして、「バラの花になるように変わった方がいいよ」、とアドバイスすると、その人は、苦しむだけです。

 

 

それに、どう頑張ってもチューリップやひまわりや蓮の花は、バラの花にはなれません。

 

 

なぜなら、もともと個性が違うからです。

 

 

上司や社長の個人的偏見で、部下や従業員を変えようとするのは、お互いにとってよくありません。

不毛の努力であり、なんの効果も期待できません。

 

 

会社の上下関係がなくても同じです。

人は皆違う個性を持っています。

 

 

その違う個性のままでいいのです。

何も変える必要はありません。

 

 

その人自身の本来の姿に気づいて、その本来の姿のまま、生きていけばいいのです。

自分もこのことに気付くまでは、不毛の努力をしてきました。

 

 

相手のことを攻撃して、自分は100%正しい、相手が100%間違っている、と決めつけて、相手を攻撃してました。

 

 

その相手とは、元妻や親です。

 

 

人は、自分のことをコントロールしよとしていると感じると、相手の言うことをブロックします。

無意識に抵抗するのです。

 

 

それに気づかずに、「何度言ったらわかるんだ」という感じで、相手を変えよとしても、無駄な抵抗で終わります。

反発されるだけでなく、自分自身、疲弊してしいます。

 

 

これでは、人間関係もスムーズにいくはずもありません。

でも、これを長い間、一生懸命頑張ってやってました。

 

 

その結果は、別居そして離婚。

 

 

自分を変えた方が、はるかに楽チンです。

 

 

人は皆、異なる個性を持っています。

その本来の個性に合わせて、生きているのです。

 

 

バラの花は、よりバラの花らしく。

ひまわりは、よりひまわりらしく。

 

 

 

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過去は変えられるけど、未来は変えられない【私の内観#46】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

 

前回、人に対して怒りや恨み、憎しみなどのネガティブな感情を手放す方法【私の内観#45】からの続きです。

 

 

 

あなたは、この地上で生まれてきて人生を歩むのは、今回が初めてだと思いますか?

 

そんなの当たり前だろう、という人が多いかもしれません。

 

でも実は、ほとんど全ての人は、何度も繰り返し生まれてきて、その時代に生きてきた経験を持っているのです。

 

ですので、今回が初めての人生ではないのです。

 

死んでもまた生まれ変わることを輪廻転生と言いますが、ではなぜ、なんども生まれ変わるのでしょうか?

 

それは、課題があるからです。

 

この3次元空間で学ぶことができる色々な課題をクリアするために、なんども生まれてくるのです。

 

人によっては、人に親切にする、とか親に感謝する、とか。

 

自分は、今世では離婚を経験しました。そして、小さな子供たちと離れ離れに暮らさなくてはならないという、辛い経験をしました。

 

この経験を通して色々な学びをすることができました。

 

おそらく、自分の今世の課題は、これだったのではないかと思っています。

 

「過去は変えられるけど、未来は変えられない」、という考え方があります。

 

ん?

 

逆でしょ。

 

「過去は変えられないけど、未来は変えられる」が正解でしょ。

 

あなたも、そう思ったかもしれません。

 

確かに、過去に起きたエピソードは変えられません。

 

昔にタイムスリップして人生をやり直さない限りは。

 

でも、そのエピソードに付随する自分自身の感情であったり印象などは変えることができます。

 

自分の場合は、離婚に伴う子供達との別居。そして、子供達に嫌な思いをさせてしまった、という罪悪感。

 

離婚により子供達と離れ離れに暮らしていること、は変えられない事実です。

 

でも、それに付随する子供達に対する罪悪感といった感情や、子供達に嫌な思いをさせてしまったという印象は、変えることができるのです。

 

それを変えることで、未来も変わってきます。

 

つまり、過去は、いくらでも変えることができる。

 

でも、未来は、過去の出来事に対する今現在思っている印象や感情によって、決まってくる。

 

ということです。

 

なんだかわかりづらいと感じた方もいるかもしれません。

 

過去、現在、未来と時系列で考えた場合、今時点に立って過去を振り返り、どのような印象や感情を持っているかによって、未来は決まってくる、ということになります。

 

自分の例でいうと、過去の離婚による子供達との離れ離れの生活は、実は魂の成長のために良い経験だった、というポジティブな感情や印象を持てるようになると、未来もそのようなポジティブな現象が現れてきます。

 

例えば、家族との和解し、また家族一緒に暮らすことになる、とか。

 

別居してても、ちょくちょく家族一緒に顔を合わせる機会が増えて、家族みんなで和気あいあいと過ごしている、とか。

 

逆に、過去に出来事に対して、いつまでもネガティブな感情や印象を持ってしまうと、未来はどうなるでしょうか?

 

家族と一緒に顔を合わす機会も少なくなり、たまに顔を合わせても喧嘩ばかりでいがみ合い、ちっとも楽しくない、とか。

 

罪悪感を手放すことができず、自己処罰が重くなり、酒に溺れて体を壊し、仕事もできない状態となり、一人寂しく孤独死、とか。

 

もしあなたなら、どちらの未来が実現して欲しいですか?

 

ポジティブで明るい家族関係で過ごしたいと思うはずです。

 

そういう未来の現象を目の前に表すには、過去のエピソードに対する感情や印象を変える必要があるのです。

 

すなわち、「過去は変えられるけど、未来は変えられない」とは、言い換えると「過去を変えることができれば、未来がそれに伴って変わってくる」となります。

 

未来を変えたければ、過去のエピソード(事実)に対する感情や印象を変えればいい、となります。

 

自分の今世の課題は、離婚による子供達と離れ離れに暮らすことで生じた、罪悪感や自己処罰の感情を克服して、家族と明るく暮らすこと。そして、その過程を発信することで、同じような境遇で悩んでいる人を救うこと、ではないかと思います。

 

 

 

次回、人は変えられないけど、自分は変えられる【私の内観#47】に続きます。

 

 

 

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人に対して怒りや恨み、憎しみなどのネガティブな感情を手放す方法【私の内観#45】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

 

前回、おばあちゃんとの思い出2【私の内観#25】からの続きです。

 

 

 

自分は、以前まで人と口論したり、嫌なことを言われたりした時、その相手のことをなかなか許せませんでした。

 

時間が解決するとよく言うので、そのうち、忘れてしまうだろうと思っていました。

 

でも、ふとした時に過去の嫌な記憶が思い出されて、嫌な感情も含めて再体験してました。

 

なかなか手放すことができなかったのです。

 

でも、ある方法を知ってから、簡単に手放すことができるようになりました。

 

その方法とはどういうものかというと、許しの言葉(和解の祈り)をなんども唱えるのです。

 

この許しの言葉には、神という言葉が入ってます。

 

これって宗教なの?と思う人もいるかもしれませんが、これは祈りの言葉です。

 

元旦に神社に行って手を合わせた人は多いと思います。

 

神社で何をしにいくのでしょうか?

 

ほとんどの人は、祈りや願い事をするために行きます。

 

神に祈る、という行為は宗教っぽくて胡散臭い、という方がもしいたとしたら、元旦に神社に初詣もいけないでしょう。

 

 

 

許しの言葉(和解の祈り)

 

「私は、〇〇を許しました。

〇〇も私を許しました。

私は〇〇を許しました。

〇〇も私を許しました。

・(繰り返し)

私と〇〇は神において一体です。

 

私は〇〇に感謝してます。

〇〇も私に感謝してます。

私は〇〇に感謝してます。

〇〇も私に感謝してます。

・(繰り返し)

私と〇〇は神において一体です。

 

私は〇〇を愛してます。

〇〇も私を愛してます。

私は〇〇を愛してます。

〇〇も私を愛してます。

・(繰り返し)

私と〇〇は神において一体です。

 

もう私と〇〇との間に何のわだかまりもありません。

神において一体です。

ありがとうございます。」

 

と。

 

 

〇〇には、ネガティブな感情を引き起こす対象となる人の名前を入れます。

 

この言葉を、過去の嫌な記憶がリピート再生されるたびに唱えていきます。

 

なるべくなら声に出して。人混みの中でしたら、心の中でも大丈夫です。

 

最初のうちは、なかなか許します、とか、感謝します、とか愛してます、などと言えません。

 

自分のそうでした。

 

でも、そこは無理やり言ってみるのです。

 

我慢して。

 

言葉の力を信じて。

 

自分が言った言葉というのは、実現する力を持っています。

 

ですので、あえて無理にでも、言ってみるのです。

 

「〇〇を許しました。」

「〇〇に感謝してます。

「〇〇を愛してます」

と。

 

すると次第に、相手に対するネガティブな感情は薄れていき、過去の嫌な記憶がリピート再生されても、何の感情の変化も起きなくなります。

 

さらに、相手の態度も変化してきます。

 

それまで、相手と顔を合わせると、自分に対して攻撃的な態度を取っていたのに、和やかな態度に変化したりします。

 

過去のわだかまりも消えて、お互いフレンドリーに接することができます。

 

呆気にとられるほど、不思議なくらいに。

 

 

次回、過去は変えられるけど、未来は変えられない【私の内観#46】に続きます。

 

 

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心の中のゴミの掃除【私の内観#44】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

 

前回、心の底から親に感謝できるようになったきっかけ【私の内観#42】からの続きです。

 

 

 

 

以前の自分は、対人関係に悩むことが多かったです。

 

人から何か嫌なことを言われたり、言い争うになったことを忘れることができずに、悶々とした日々を過ごしていました。

 

車の運転中や電車に乗っている時、歩いている時など、ふとした瞬間に、昔の嫌な記憶がリピート再生されて、またイライラしたり、ムカムカしたりという感情と共に、嫌な記憶を再体験してしまうことが多かったです。

 

そんなある時、米国で宗教に入り通い始めました。

 

そこでは、浄心業と言って、心の中に溜め込んだ恨み、憎しみ、怒りなどネガティブな感情を浄化する方法を教わりました。

 

やり方は簡単。

 

紙に書いてそれを燃やすだけです。

 

何を書くのかというと、嫌なことをされた人に対しての恨み、憎しみ、怒りの思いを、そのまま文字にして紙にぶつける感じです。

 

「バカヤロウ!」とか「ふざけるな!」とか「ムカつくんだよ!」とか。

 

他にも、とても公開できないような憎しみや怒りの言葉を、思いっきり紙にぶつけて書きます。

 

そして、その紙を誰にも読まれないゆうに燃やしてしまいます。

 

その燃やす際、お経を読み上げます。

 

その読み上げるお経は、その宗教独自のお経(「甘露の法雨」)なのですが、「般若心経」などでも大丈夫だと思います。

 

これをやると、心の中がスッキリした感じになります。

 

潜在意識の中に溜め込んでいたゴミが、綺麗に掃除された感じになります。

 

いつまでも大事にゴミを心の中に溜め込んでおくと、やがてそのゴミは発酵して臭くなり、とてもじゃないけど息ができないくらいになっていきます。

 

でも、このやり方で心の中を綺麗にお掃除してしまうと、スッキリ。

 

自分は、これを知ってから、過去の嫌な出来事も手放すことができるようになりました。

 

 

 

次回、妻のサポート【私の内観#27】に続きます。

 

 

 

祈りの力【私の内観#43】

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

前回、瞑想と祈り【私の内観#23】からの続きです。

 

 

 

家族と別居してからは、「自分はダメな父親である」と、自分で自分を処罰することが習慣になっていきました。

 

子供に嫌な思いをさせてしまった、トラウマを与えてしまった、など。

 

後悔しては、自分を痛めつけることがクセになっていきました。

 

一度、このような自分を痛めつけることがクセになってしまうと、なかなかやめられませんでした。

 

辛い苦しい暗黒時代でした。

 

そんな日々を送っていたある時、米国である宗教に興味を持ち通うようになりました。

 

そこでは先祖供養や祈りを重視していて、自分の生活にも祈りと先祖供養が習慣になっていきました。

 

祈りにも色々な種類があります。

 

自己処罰ばかりしていたので、それを克服する祈りを実践してみました。

 

こんな感じです。

 

「神の無限の愛が流れ入り、全ての過去の罪と業は洗い清められました。今、私は完全に洗い清められて、本来罪なき所の完全円満、無垢な神の子に生まれ変わりました。私は、もういかなる罪の束縛からも縛られることなく、自由自在です。」

 

この祈りを、毎日、朝と寝る前に繰り返し唱えるようにしました。また、瞑想も一緒にするようにしました。

 

すると、徐々にではありますが、だんだん自己処罰の度合いが軽くなっていく感じがして、気がついたら、ほとんどなくなっていました。

 

あれほど苦しんで、いろんなカウンセリングなど受けても全く効果なかったのに、祈りを毎日続けただけで、自己処罰する考え方がなくなってしまったのです。

 

 

祈りのパワーはすごいなと感じました。

 

 

次回、元妻と次女と3人で富士登山【私の内観#9】に続きます。

 

 

 

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心の底から親に感謝できるようになったきっかけ【私の内観#42】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

前回、母親の一言【私の内観#38】からの続きです。

 

 

 

家族と別居してからは、「自分はダメな父親である」と、自分で自分を処罰することが習慣になっていきました。

 

子供に嫌な思いをさせてしまった、トラウマを与えてしまった、など。

 

後悔しては、自分を痛めつけることがクセになっていきました。

 

一度、このような自分を痛めつけることがクセになってしまうと、なかなかやめられませんでした。

 

辛い苦しい暗黒時代でした。

 

そんなある時、「内観療法」というものに出会いました。

 

この「内観療法」というのは何かと言うと、3つの質問を自分自身にしていき、幼少期から遡って、自分の過去の人生を辿っていくのです。

 

3つの質問というのは、

 

「〇〇からしてもらったこと」

「〇〇にして返したこと」

「〇〇に迷惑をかけたこと」

 

です。

 

この〇〇には、対象となる人を決めます。

 

まずは、お母さんから。

 

お母さんに対して「してもらったこと」と「して返したこと」と「迷惑をかけたこと」を過去の幼少期から遡って、振り返ります。

 

だいたい3年から5年くらいの間隔で行いますので、0歳から3歳までの母親に対しての自分を振り返り、それが終わると、4歳から6歳までの時期、次は7歳から9歳までの時期、といった具合です。

 

そして、それぞれの時期は1時間くらいかけて思い出していきます。

 

0歳から3歳までの期間限定で、しかも相手は母親だけ。これを1時間かけて思い出すのです。

 

そんなの覚えてないよ、という方もいるでしょう。

 

そういう場合は、0歳から6歳までにまとめても良いです。でも、そのあとは約3年きざみで思い出します。

 

自分はそれまで親に感謝などできませんでした。

 

頭では理解してました。

 

「親に感謝しなくてはいけないよ、お道徳」という感じです。

 

でも、過去に親からされたことが、強く記憶に残っているので、心の深い意識(潜在意識)からグツグツと突き上げてくるものがありました。

 

「なに、お前はいい子ぶっているんだ」と。

 

表面の意識(顕在意識)では、一生懸命、お道徳を意識して「親に感謝しなくてはいけない」と思います。

 

でも、深い意識(潜在意識)から、「なに、いい子ぶってるんだ、親を恨んで憎んで怒れ」と、過去に親からされた嫌なことが強調されて思い出されてくるのです。

 

潜在意識の力はものすごいので、表面上の意識でいくら頑張って「お道徳」を学んでも、勝ち目はありません。

 

そして、自分は、なんでも親のせいにしてしまうクセがあったのです。

 

「親からこういう風に育てられたから、自分はこんな人生を送る羽目になってしまったんだ」、といった具合。

 

これでは、苦しいばかりで、とても幸せな人生は送れません。

 

それに、こんなことを子供から言われたら、親も一緒に苦しんでしまいます。

 

内観療法では、「迷惑をかけたこと」を特に重点的に振り返るようにします。

 

 

最初は、なかなか思い出せません。

 

 

それもそのはず。

 

 

それまでは、自分が「迷惑をかけられたこと」ばかりを中心に考えていたのが、逆に自分が「迷惑をかけたこと」を思い出していくのですから。

 

 

でも、これを毎日、毎日、自分に質問して自問自答していくと、ある時、ガラガラガラ、と”観”の転換点が訪れます。

 

”観”の転換点とは、自分がいかに親から大切に育てられてきたのか、自分がいかに恵まれていたのか、ということが心の底(真我)から湧き出てくることを言います。

 

ここで”真我”という聞きなれない言葉が出てきました。

 

これは何かと言うと潜在意識のさらに奥深くに眠っている意識のことを指します。

 

宇宙とつながる意識といったりします。

 

私たちは、本来宇宙に浮遊している魂でした。その魂は神様の分け御魂でもあります。

 

その神様の分け御魂である魂が、3次元空間で生活するための肉体に宿り、今、こうして日常生活を送っているのです。

 

つまり、私たちは皆、”神の子”であるのです。

 

その神の子である私たちの深い意識には共通する意識が存在しています。それが”真我”ということです。

 

神様とか魂とか宗教じみていて信じられない話かもしれません。

 

でも、自分がこの”真我”に到達できたのが、「内観療法」だったのです。

 

そして、表面上の「お道徳」ではなく、心の底から親に感謝することができるようになったのです。

 

 

次回、心の中のクレンジング【私の内観#44】に続きます。

 

 

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薬害からの克服【私の内観#41】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

前回、人工中絶【私の内観#39】からの続きです。

 

 

 

薬害から克服するためにいろいろな事をしました。

 
漢方や気功、呼吸法、温熱療法など。
 
 
当時は夏の暑い日で、みんなクーラーを入れていても、自分はセーターを着込んでいました。
 
それでも寒いので、暖房を入れたりしてました。
 
体が冷え切っていたのです。
 
 
薬は止めることできたのですが、お腹の真ん中に硬く冷たい大きな鉛が入っている感じでした。
 
そして、ちょっとでも後悔したり自分を責めたり、ネガティブな事を思っただけで、お腹が痛くなり、不安感が増してきました。
 
そんな中、父からある本を勧められました。
 
それは、「道は開ける」というディールカーネギーが書いた本です。
 
本にもたくさんメモして、手帳にもその時の自分の心境をたくさん書きました。
 
そうしないと、心のバランスがとれなかったからです。
 
 
「道は開ける」を何回も繰り返して読んでいくうちにだんだんと心が安定してきました。
 
 
どういう思考をしたら、不安になるのか、また、心が落ち着いてくるのか、という事を、毎日、毎瞬観察していきました。
 
また、森田療法という精神療法も参考にしました。
 
自分の心の状況、それと連動した体の状態を、毎瞬毎瞬観察していったのです。
 
この時の経験は、今振り返ってみると、貴重な体験でした。
 
当時は、そんな事考える余裕など無かったのですが。
 
 
 
次の記事、母親の一言【私の内観#38】に続きます。
 
 
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子供と離れて暮らす親の悩みが軽くなる7日間メール講座



こんにちは、斎藤宏幸です。


さて、子供と離れて暮らす親の悩みが軽くなる・7日間メール講座をお届けします。

 

 

子供と離れて暮らす親の悩みが軽くなる・7日間メール講座

 

1日目 心の底から親に感謝できるようになるには?

 

2日目 瞑想と祈り

 

3日目 人に対して怒りや恨み、憎しみなどのネガティブな感情を手放す方法

 

4日目 過去は変えられるけど、未来は変えられない

 

5日目 自分は変えられるけど、人は変えられない

 

6日目 子供は親を選んで生まれてくる

 

7日目 今世の使命




 


 

 

 

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