日本軍はシナ大陸に侵略してきた悪玉である。そしてその悪玉を退治して中国を統治したのは共産党軍である、と中国共産党は自国民に徹底的に刷り込んでいます。
また、日本は悪玉なのだから、未来永劫、徹底的に反省するように、とあらゆる手段を使って日本人に対して洗脳し続けています。
この中国共産党の歴史とは本当なのでしょうか?
昭和12年( 1937年)7月7日、北京近郊の盧溝橋にて日本のシナ駐屯軍と中国軍が衝突しました。(盧溝橋事変)
それに続く8月、上海在住の日本人居留民に対する、中国国民党軍よる攻撃が激しくなってきました。
これに対して、上海に駐屯していた日本海軍陸戦隊は、軍事衝突を避けようと、耐え忍んでいました。
上海地区を担当していた、日本海軍の司令長官である長谷川清中将は、最も融和的であり、敵対行動を可能な限り回避するために、出来ることはすべて行いました。
しかし中国軍の態度が戦闘行動に傾いていたので、、平和を願う日本海軍の態度が、逆に喧嘩もできない弱腰であるかのように誤解されてしまいました。
長谷川中将は、このことを確認すると、今までの融和的態度を一転して、5個師団を直ちに上海に派遣するように東京の日本政府に打電。
今まで日本海軍が行ってきた妥協的で生ぬるい手段は、ただ、中国軍の凶暴さを手助けするだけの結果を招いてしまっていたので、長谷川中将はやむにやまれずに、中国軍との戦闘行為をおこなう決断をしたのです。
はたして、この長谷川中将の決断が、”日本軍が中国を侵略した”、といえるでしょうか?
上海からの長谷川中将からの要請を受けた東京では、すでに7月から北京近郊の盧溝橋での対応で手一杯でしたので、上海にはわずか1個師団しか派遣しませんでした。
結果的にはこの決断が、その後の上海と南京において、日本軍が大きな犠牲を払うこととなる原因となってしまいました。
この時、大部隊を派遣して一気に制圧していたら、その後の犠牲者は少なく抑えられていたかもしれません。(第二次上海事変の戦死傷者数は約4万人。これは日露戦争時の旅順攻囲戦でとほぼ同数の犠牲者でした。)
日本軍が、上海において中国軍の挑発に応じて無理やり引きずり込まれてしまった、という認識は、当時の欧米列強もよく理解していました。
以下は、ニューヨークタイムズ紙の上海特派員の記事です。
「地域的な敵対行動の勃発を回避する試みにより、ここで開催された様々の会議に参加した多くの外国政府の代表や外国の正式なオブザーバーたちは皆、次の時点に同意するであろう。
すなわち、日本軍は敵の挑発の下で、最大限に抑制した態度を示し、数日間の間だけでもすべての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も外出させなかった。
ただし、それによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが。
8月13日以前に上海で開催された会議に参加した一人の外国代表は次のようにみている。
7月初めに北京の近郊で始まった戦闘状態の責任は誰にあるのか、ということに関しては意見が分かれるかもしれないが、上海の戦闘状態に関する限り、記録の証明している事実は、唯一一つしかない。
日本軍はここ上海では戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐためにできる限りのすべてのことをした。
だが、日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまったのである。
中国軍は外国人の居住している地域と外国の権益を、この衝突の中に巻き込もうとする意図があるかのように思えた。」と。(昭和12年(1937年)8月30日付)
ニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙の上海特派員ビクトル・キーン氏は次の記事を掲載しました。
「北支での戦闘に外国列強諸国がほとんど注意を払わないでいた間に、中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地はない。
上海で最後の抵抗をすることによって、たぶん何らかの形での仲裁なりあるいは少なくとも中国の側に立った警告がなされるであろう、
という期待があったのである。
その上、上海北部の地形は北支の地形よりも防衛行動を行うにははるかに適していたのである。
さらに中国軍最精鋭部隊もまた、この地域に駐留したいた。」と。
なぜ、中国国民党軍の蒋介石は、それほどまでして、上海での日本軍との軍事衝突を望んだのでしょうか?
蒋介石のアドバイザーとして、ドイツから派遣されていた、アレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼンがいました。
彼は、国民党軍の単独で日本軍に勝利することは難しいと認識していたので、欧米列強からの干渉(同情)を得ることが最も重要であると、蒋介石にアドバイスしていました。
その干渉(同情)を得るために、当時、欧米列強が租界地として持っていて、多くの欧米人が生活していた上海に注目したのです。
その上海で、日本軍との軍事衝突を起こせば、欧米列強も無視するわけにはいかない、と考えたのです。
よく、日本軍が中国大陸に駐屯していたのが悪い、という意見をする人がいます。
そのこと自体が、侵略していた事実に該当する、と。
しかし、租界地域が中国各地に設けられており、その租界地域には日本軍だけでなく欧米列強の軍隊も駐屯していたのです。
なぜ、租界地域が設けられて、そこに諸外国の軍隊が駐屯していたかのでしょか?
当時のシナ大陸では、清国が滅んだ後、それを後継する統一政府がありませんでした。
孫文の意思を継いだ蒋介石率いる国民党が、欧米列強から正式に認められた中国政府ということになってましたが、その統括する地域は、シナ大陸の南方の一部分に限られ、その他のほとんどの地域では、さまざまな軍閥が統治していた混沌とした戦国時代でした。
そして、以前より、シナ大陸で宗教活動やビジネスのために住み着いていた外国人たちは、治安が悪いシナ大陸で自分たちの生命と財産を守る手段がありませんでした。
なぜなら、シナ大陸は統一した国家政府がなく、混沌とした戦国時代だったからです。
そのため、欧米列強をはじめ日本も、自国民の生命と財産を守るために、自国の軍隊を派遣して駐留させていたのです。
これは、1900年6月21日から起きた義和団の乱の後、1901年9月7日に、清国政府の西太后と欧米列強と日本が正式に結んだ、北京議定書に元づいて行われていたことになります。
一方、中国人は外国人により支配されてしまった上海など租界地区を取り戻したいという願望を持っていました。
1927年に作られた蒋介石率いる国民党軍は、上海の外国人が支配している租界地区を奪取するために、猛烈な軍事行動を起こしました。
これに対して、租界地区を守るために、欧米列強は鉄条網と土嚢を築いてバリケードを作って、国民党軍からの攻撃を防いでいました。
中国人は、この租界地区についてどのように考えていたのでしょうか?
中国人の多くが、欧米列強から押し付けられたと主張していました。
さらに、租界地区を外国人に押し付けたのは、欧米列強や日本ではなく、実は中国政府だったのです。
もともと中国は、すべての外国を自分の臣下とみなしていました。
対等の立場で、大英帝国や米国やフランスと付き合う、という発想は中国にとって問題外でした。
そんなばかげたことを考えるはずないだろう、とあなたは思うかもしれません。
しかし、中国人は昔も今も、共に手を携えて仲良くしていきましょう、という共生の発想がありません。
中国人にとっては、支配するか支配されるかの二者択一しかないのです。
お人好しの日本人は、そのような中国人の発想が理解できないので、「日中友好」という言葉を金科玉条のようにして大切にしてきました。
中国人にとっての「平和」という言葉の意味は、「和をもって平らげる」という意味になります。
つまり、将来、日本や諸外国を平らげる(植民地支配する)ために、和をもって日本の進んだ技術や資金援助を受け入れる、ということになります。
「天の子」そのものである中国の統治者は、はるか天空のかなたの玉座から全世界の陸地を統治している。
もしも外国の船が中国の港に立ち寄れば、彼らはそこで貢物を収める義務がある、と。
中国が外国人に租界を設けた理由は、天上の支配者が認めたく狭い地域に「外国の悪魔」を閉じ込めておくためだったのです。
野蛮で汚らわしい外国人(日本人や欧米列強人)は、文明的な天上の人々とまじりあってはならないし、その存在によって、天の子の聖なる土地をけがしてはならなかったのです。
これが、租界が始まった理由でした。
やがて、せまい地域に押し込められた欧米列強人と日本人たちは、勤勉と努力によって、荒廃した中国の砂漠の中に、オアシスのような街を作り上げていきました。
それをわきで見ていた中国人たちは、「汚らわしい野蛮人」の住む租界に入れてくれと要求し始めました。
しかし、租界に住む外国人たちは、中国人の受け入れを拒否しました。
1851年にはじまった太平天国の乱の混乱に乗じて、上海や南京の周辺で家を失った多くの中国人たちが、租界地区に避難してきました。
同情した租界に住む外国人たちは、避難してきた中国人を受け入れましたが、混乱が収まった後に、かれらを租界から追い出すことはできませんでした。
その後、1900年6月に起きた義和団の乱が引き金となり、1901年9月に、清国と欧米列強と日本が正式に結んだ北京議定書に基づいて、租界の周辺に諸外国の軍隊が駐屯することとなりました。
義和団の乱とは、租界地区などシナ大陸に住んでいる外国人を排斥しようとして、略奪や強盗や殺戮などあらゆる悪を繰り広げたテロ組織を、全面的に支援した清国末期の支配者である西太后と、欧米列強軍と日本軍で組織された連合軍との戦いでした。
このテロ組織と戦った連合軍を総指揮したのは、英国人のクロード・マクドナルドでしたが、最も多くの軍隊を派遣したのは日本軍であり、
特に紫禁城攻略の際に、絶望感に満ちた中で避難していた英国の駐在員家族の間で、柴五郎の率いる部隊の勇敢さと規律正しさが話題となり、後に大英帝国が初めて軍事同盟を外国と結ぶこととなった導線となりました。
上海の租界の周辺から数マイルを非武装地帯として、中国軍の立ち入りが禁止されていました。
これは、1932年の起きた(第一次)上海事変の際に、日本軍が中国の19路軍に勝利した際に、国民党政府に認めさせたものになります。
この協定には、英国、フランス、米国、イタリアの各政府の代表が立ち会って承認しました。
なぜ、非武装地帯が設けられていたかというと、それまで何度も中国国民党軍による上海の租界地区が攻撃されたために、再び軍事衝突が起きないように、租界を守ろうと必死になっていた欧米列強と日本の要望によるものでした。
しかし、その後、この非武装地帯には、いざという時のために中国国民党軍は、武器を隠れて持ち運んでいたのです。
中国国民党軍が日本に対抗するために、欧米列強からの干渉(中国への同情、日本への非難)を得ることと、自国民への反日教育を二大柱にしてました。
ニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙の上海特派員が、9月16日付けの新聞に書いたとおり、中国は上海で軍事行動を起こすことによって、欧米列強から干渉を得ることや関心を持ってもらうことを期待していました。
また、ニューヨークタイムズの特派員が述べたとおり、日本
軍は中国軍によって軍事衝突へと無理やり追い込まれてしまった。
中国軍は外国人の居住している地域と外国の権益を、この衝突の中に巻き込もうとしているように思える、と。(昭和12年(1937年)8月30日付)
8月13日、上海にて中国軍の軍事行動が開始。
中国軍の国際租界への空爆により、約44万6千人(フランス特権区域)と49万5千人(国際租界)の死傷者がでました。
ニューヨークタイムズ紙の上海特派員は次のように述べました。
「中国軍が無責任な空爆を行って上海の国際租界とフランス特権区域の無力な民間人を殺すのを防ぐための、
武力手段あるいは他の抑制措置をとることに、外国の領事館員及び陸海軍の軍人が合意するならば、何らかの国際的措置をとることを決議しなければならない」と。
(1937年8月27日付)
なぜ、中国軍はここまで執拗に上海の国際租界に対して軍事行動をおこしたのでしょうか?
その理由はただひとつ、欧米列強による日本への干渉を煽るためでした。
日本を挑発すれば、必ず日本も軍事行動をおこすに違いない。
そして、それが国際租界である上海で行われれば、欧米列強の関心を引くことができるであろう、と目論んだわけです。
そして、その蒋介石の目論みは見事に当たりました。
蒋介石は、この上海とそれに続く南京における軍事行動と共に、最も力を注いだ事があります。
それは、プロパガンダ(宣伝活動)になります。
火薬を使った爆劇以上に、ペンを使った爆劇に最も力を注いできました。
宣伝活動のために外国人作家を雇い、欧米列強が中国国民党に同情を寄せるように、本を書かせました。
その代表が、オーストラリア人のハロルド・ティンパリー氏であり、「戦争とは何か(WHAT WAR MEANS)」という書籍を書かせました。
彼は、国民党中央宣伝部の工作員として、英国支部代表を止めました。
中国国民党の国際宣伝所長であった曽虚白は、『戦争とは何か』に関し、「金を使って、ティンパリーに依頼して書いてもらい、発行した」と、戦後に語っているとおり、第三者の外国人記者が、客観的な視点にたって書いたものではないことが明らかとなっています。
しかし、この「戦争とは何か(WHAT WAR MEANS)」が、戦争中に世界中の人に与えた影響は計り知れません。
特に英国と米国の世論を、「反日、新中国」へと大きく傾かせることに成功しました。
さらに、写真や動画を使って日本軍の残虐性を宣伝していきました。
1937年8月28日に撮影されたという、上海南駅構内で取り残された赤ん坊の写真が、LIFE誌という雑誌に掲載されました。
この写真の解説には、大日本帝国海軍が上海上空を空爆したことで、多くの上海市民が犠牲となったとありました。
王小亭というジャーナリストが撮影したこの写真は、捏造されたものとして今では有名ですが、当時の米国市民をはじめ世界中の世論に与えた影響は計り知れません。
なぜなら、この赤ん坊の写真が、2500万部新聞に印刷されることとなり、1937年10月4日号の雑誌ライフによって1.36億もの人が、この写真を見ることになったからです。
中国国民党が武器弾薬を使った戦闘では、日本軍に圧倒的に大敗してしまい、上海から南京に退却することとなり、さらに、蒋介石は首都の南京から重慶に避難することとなりました。
しかし、ペンや写真、映像を使った戦闘(宣伝工作)では、世界中の人々から、干渉(反日、中国への同情)を得ることに大成功しました。
「遠くの敵を近くの敵にけしかける」とは、中国の歴代王朝が行ってきた長年の伝統ですが、日本はこの中国の伝統的政策にまんまと引っ掛かってしまったのです。
この時の、遠くの敵とは欧米列強であり、近くの敵とは日本のことになります。
上海での軍事衝突をさけたかった日本。しかし、何とかして日本との軍事衝突をすることで欧米列強から干渉を得たかった蒋介石の目論見に、まんまと引きずり込まれてしまいました。
そして、軍事衝突では中国国民党軍に勝利した日本軍。しかし、国民党の宣伝工作に大敗してしまった日本は、その後の欧米列強との戦争に突入せざるをえませんでした。
中国大陸に侵略してきた日本軍を、見事に撃退して勝利したのは中国共産党軍である。
日本軍は悪玉であり、中国共産党軍は善玉である。
このような反日教育を自国民に徹底的に刷り込み、日本に対しては未来永劫、徹底的に反省するようにと日本人を洗脳し続ける中国共産党は、第二次上海事変の際に、宣伝工作で大成功した中国国民党の政策を、踏襲しているのでしょう。
https://youtu.be/F-8gMg2-lMA
写真
長谷川清中将
参考図書
「シナ大陸の真相」カール・カワカミ著


