インド独立に多大な影響を与えた日本人 | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい



東京オリンピックが来年ありますが、この場で日本人としての誇りや民族意識が高まると、かつて戦争を引き起こした過ちを再び犯しかねない、と懸念している進歩的文化人の方々がいます。

本当に、日本人としての誇りや民族意識が高まることが、戦争を引き起こすことに繋がるのでしょうか?

かつて、アジアのほとんどは、白人国家の植民地だった時代がありました。

数百年の間、イギリスやフランス、ドイツ、オランダなどの白人国家の植民地として、天然資源を搾取されて、原住民はほぼ奴隷に近い扱いを受けていました。

今では、その全てが、独立国として白人国と肩を並べているので植民地時代の実感がわきませんが、独立してからまだ80年足らずしかたっていないのです。

では、なぜ、数百年もの長い間、白人国家の植民地として搾取され続けて、奴隷に近い扱いを受けていたにも関わらず、独立することが出来たのでしょうか?

原住民たちが自尊心を持ち、「自分たちは白人と同等の人間なんだ」、と民族意識を持ち、独立を目指して白人国家と戦ったからでしょうか?

もちろん、それが独立することが出来た原因になります。

しかし、アジアの人々は、それまで数百年もの長い間、搾取され、奴隷に近い扱いを受けていた人たちなのです。

あなたは、そのような人たちが、いきなり武器を手にして戦ったからと言って、簡単に白人国家に勝てると思われますか?

インド独立運動を手助けした、藤原岩市氏の話です。

1941年7月、英米は、日本に対して在外資産を凍結し、日英通商条約を破棄し、日本に対する石油の輸出を禁止して、さらに日蘭との石油交渉が決裂するなど、イギリス、米国、オランダ、フランス諸国との戦争が間近に迫っていました。

そのような時期の1941年9月、藤原氏は、参謀総長の杉山大将から、タイのバンコクに行き、タイ国駐在武官の田村大佐の元で、インド独立運動とマレイ人とシナ人の反イギリス勢力との連携工作をするように、との辞令を交付されました。

当時の日本は、大東亜新秩序という理想を掲げて、それを実現させるために、支那大陸での戦線を拡大し、ソ連と対峙していましたが、南方の特にインドに対する認識があまりありませんでした。

藤原氏は、バンコクにおいて、シーク族でIIL書記長のプリタムシン氏と密会しました。

そこで、藤原氏は、インド人が第一次世界大戦に置けるイギリスのインドに対する裏切り行為に憤慨しており、今回の第二次欧州戦争をきっかけにして、インド独立闘争を展開したい、という熱意を聞きました。

インド独立運動家たちは、武力もない無力なので外国勢力の力を借りないと独立することはできない。

しかし、外国勢力の傀儡国家として独立することも認められない。

外国勢力の力を借りつつも、どの国からも拘束されることのない完全なる独立を目指している、ということでした。

マレイ半島に駐在しているイギリス軍には、インド人だけで編成された部隊がありました。

まずは、そのインド人部隊に対して、ビラをまいたりして宣伝工作をすることになりました。

そのビラには、イギリス軍から離脱して投降するよう書かれてました。

藤原氏が、インド独立運動の任務を実践するにあたり、岡倉天心の説いた「大アジア主義」を理想として活動していました。

大アジア主義とは、アジアは一つであり、お互いの対立を超えて共に栄える共栄和楽の理想郷をアジアに建設するというような趣旨でした。

そして、以下のようなことを、他の工作員たちと徹底して共有していました。

「アジアの各民族は他の白人からの支配と圧政から解放されて、自由と平等の関係において、それぞれの各民族の政治的理念を成し遂げて、文化的伝統を高揚して、アジア全体の一体感の平和な社会を実現させなければならない。

そのためには、日本民族がその先立となる責務を負い、それを実践しなければならない。

各民族の信仰や風俗や習慣などをあくまで尊重して、日本人の主観を強要することは慎まなければならない。

我々の運動は、この理想を指標として、私たちの誠意と情熱を愛情を、実践を通して異民族に納得させて、共感と共鳴を受けなければならない。

我々の運動は、あくまで日本のこの理想に共鳴する異民族同志の自主的運動を支援する形において行われなければならない。

少しでも我々の強制や干渉が加わったり、あるいは利用の観念や傀儡の印象を与えることがあってはならない。

策術を無くして、誠実を持って任務にあたらなければならない。

この任務を達成するためにもっとも重要なことは、マレイやスマトラやインドの各民族の同士たちが、それぞれ自分たちの民族に対して抱いている愛情と情熱と独立に対する犠牲的決意に劣らないものを、

我々もその民族に対して持たなければならない」、と。

1941年12月1日、田村武官とプリタムシンとの間で、以下のようなメモランダムを日英両文で作成して、署名しました。

田村プリタムシンとのメモランダムは以下の通り。

1、我々はの協力は、日印両国がそれぞれ完全なる独立国家として自由かつ平等なる親善関係を成熟し、相協力して大東亜の平和と自由と繁栄とを完成することを終局の念願としてなされるべきものとする。

2、IILは、インドの急速かつ完全なる独立獲得のため、対英実力闘争を遂行するものとする。これがために日本の全幅的援助を歓迎するものとする。
ただし、日本はインドに対し領土、軍事、政治、経済、宗教等に渡り、一切野心を有せざること、いかなる要求をも持たざることを保証するものとする。

3、省略

4、日英戦争勃発に伴い、IILは次の作戦を展開する。
(1)IILは、日本軍と共にまず南タイ、マレイに前進して、IILを同地区に拡大し、同地区一般インド人および英インド軍内インド人将兵に対して、反英独立闘争気運を高揚して、かつ日本軍との親善協力気運を醸成する元とする。
(2)(3)省略
5(1)、(2)省略

5(3)、日本軍は、作戦地一般インド人ならびにインド人投稿者(捕虜を含む)を敵性人と認めざるのみならず、同胞の友愛を持って遇し、その生命、財産、自由、名誉を尊重するものとする。

また、その信仰を尊重するため寺院を保護し、日本軍の寺院使用を禁ずるものとする。これがため作戦軍将兵にその趣旨を普及理解せしめ、その実践の徹底を期するものとする。

この田村プリタムシン覚書(メモランダム)は、サイゴンの南方軍総司令部や東京の大本営陸軍部にも送付されました。

そして同日の12月1日、東京では御前会議が開かれて、日本は米国との開戦を決意しました。

海南島の沖合で待機していたマレイ攻略のための日本軍の大船団は、南タイ沖に向けて出航。

12月8日早朝、日本軍はタイ国に雪崩のように進軍。

この日本軍の快進撃に伴い、英インド軍内部のインド将兵たちが次々に離脱して、IIL本部に集まってきました。

祖国インドの国旗が翻る中、プリタムシン氏が民衆の前で独立運動の目的と計画を演説し、民衆は熱狂的拍手を送りました。

英インド軍の一大隊が、日本軍との戦闘に敗れて敗走し、ゴムの木の密林の中で退路を失って立ち往生していました。その大隊は大隊長だけが英国人で他の将兵たちは皆インド人でした。

藤原氏は、他の護衛をつけずに単身で、そのゴム園で立ち往生している一大隊の大隊長との面談に出かけることにしました。

まだ、周辺には英国軍の敗走兵があちこちに潜んでいて危険な状況なので、他の藤原機関の同士たちが引き止めるのも聞かずに。

12月14日未明、藤原氏一行は、インド国旗で覆われた車で現地のゴム園に向かいました。

途中、「まだ、大隊長の意向がわからないので、現場に行くのは危険である」、との忠告を受けましたが、藤原氏の決意は変わらず、単身で乗り込んで英国人大隊長との会見に臨みました。

「私は日本軍代表の藤原少佐である。あなたの大隊が直面している絶望的状況を察して、誠意を持って投降に応じる用意があるので直ちに会見したい」という内容の手紙を、英国軍の使者に渡しました。

そのあと間も無く、ゴム園の休憩所にて無武装で護衛もつけず単身で待っていた藤原氏の元に、英国人大隊長がやってきました。

藤原氏は、これ以上投降に躊躇し続けることは、無益に将兵を犠牲にすることになると伝え、また、日本軍は武士道精神にのっとって、投降将兵を処遇する用意があると伝えました。

英国人大隊長は、長い沈黙のあと、無条件に従うことに同意して降伏文書にサインしました。

藤原氏の、日本人としての誠意を示せば、相手は必ずわかってくれるはず、という信念によって、無益な殺傷をせずに、約200人のインド人将兵が無事に投降することができました。

祖国インドの国旗で覆われた車をみて呆然と立ちすくんでいた
インド人将兵たちに向かって、藤原氏は演説しました。

「諸君、私はインド人将兵との友好をとり結ぶためにきた日本軍の藤原少佐である。ただいま、君たち大隊長は私に降伏を申し出て署名を終えた。IILのプリタムシンと共に迎えにきた」と。

次に、大隊長に向かって直ちに部隊全員の点呼と武装の解除をするように要求しました。

その中にキビキビとした行動でひときわ目立った中隊長がいました。彼はのちにINAインド独立運動の中心的人物となるモハンシン氏でした。

それから間も無く、藤原氏はF機関のメンバーとIILのメンバーと投降したインド人将兵たちで会食の場を設けました。

その会食の中、モハンシン氏が立ち上がり、次のようなスピーチをしました。

「戦勝軍の要職にある日本軍参謀が、一昨日投降したばかりの敗戦軍のインド兵捕虜、それも下士官まで加えて、同じ食卓でインド料理の会食をするなどということは、イギリス軍の中では夢にも思えなかったことです。

イギリス軍の中では、同じ部隊の戦友でありあがら、イギリス人将校がインド兵と食事を一緒にしたことはなかった。」と。

さらに、F機関のメンバーは箸やフォークがないので、他のインド人たちを真似て、手を使ってインド料理を食べていると、他のインド人将兵たちから共感されました。

12月31日、モハンシン氏は藤原氏に対して次のような提案をしてきました。

「我々は、日本軍が次の内容を容認してくれることを前提として、インド祖国の解放と自由獲得のために決起する決意を固めました。

1、インド国民軍(INA)の編成に着手する。
2、日本軍はINAに対して全面的な支援をする
3、INAとIILは協力関係とする。
4、日本軍はインド兵捕虜の指導をモハンシン氏に一任する
5、日本軍は、インド兵捕虜を友情を持って接し、INAに参加を希望するものは解放する。
6、INAは日本軍との友軍関係とみなす。
など」

INAを日本軍の同盟国軍に準じた扱いとすることには、正式な手続きが必要なのでしばらく時間がかかりましたが、

何れにしてもインド人将兵からの自主的な提案により、インド独立のための軍隊が、日本軍の全面的協力のもとに組織されていくこととなりました。

また、F機関の活動範囲も、タイ国のバンコクから始まり、日本軍の快進撃と共に、マレイ、スマトラ全域に広がっていきました。

INAの宣伝班の主な活動は、英インド軍内部のインド人将兵たちに対して、潜伏して同士を獲得して独立運動の思想教育をすることでした。

1941年11月の英米との開戦前、タイ在住の一人の日本人諜報員の谷豊氏が、F機関の一員として工作活動をしていました。

谷氏は生後1年から異国で育ち、マレイでは非行を続けていたので両親から勘当を受けて、一人で生活していました。

その谷豊氏が母親に宛てた手紙を藤原氏が受け取り、東京の参謀本部経由で九州に住む母親に送りました。

谷氏の母親への手紙
「お母さん、豊の長い間の不幸を許してください。豊かは毎日遠い祖国のお母さんを忍んで、ご安否を心配しております。

お母さん!日本と英国は近いうちに戦争が始まるかもしれないほどに緊張しております。

豊は日本参謀本部の田村大佐や藤原少佐の命令を受けて、大事な使命を帯びて日本のために働くことになりました。

お母さん、喜んでください。豊は、真の日本男児として更生し、祖国のために一身を捧げる時が参りました。

豊かは近いうちに単身英軍の中に入ってマレイ人を味方にして思う存分働きます。

生きて再び御目に掛かる機会も、またお手紙を差し上げる機会もないと思います。

お母さん!豊が死ぬ前にたった一言!今までの親不孝を許す。お国のためにしっかりと働けとお励ましください。

お母さん!どうか豊のこの願いを聞き届けてください。そうしてお母さん!長く長くお達者に遅らしください。お姉さんにもよろしく。」

マレイのハリマオと言われた谷豊氏は、ゴム林の中に避難しているマレイ人に投降して独立運動に加わるように宣伝したりして、日本軍のために活動していました。

しばらくして、谷豊氏のお姉さんが代筆した手紙が届き、ハリマオこと谷豊氏のもとに届けられました。

「豊さん、お手紙を拝見して嬉し泣きに泣きました。何遍も何遍も拝見いたしました。

真人間、正しい日本人に生まれ変わって、お国のために捧げて働いてくださるとのご決心、母も姉も夢かと思うほど嬉しく思います。母もこれで肩身が広くなりました。

許すどころか、両手を合わせて拝みます。どうか立派なお手柄を立ててください。母をはじめ家内一同達者です。

毎日、神様に豊さんの武運長久をお祈りします。母のこと、家のことはちっとも心配せずに存分にご奉公してください。」

彼は、「藤原機関長の元で、立派な日本男子として死ねるならこれ以上の本望はありません」と最後に言葉を残して、ジョホールの陸軍病院でマラリヤで倒れました。

日本軍の快進撃が続き、首都クアラルンプールが陥落しました。

すでにINAの宣伝工作により、投降してきたインド人将兵はマレイ全土で2500名に達していました。

クアラルンプールに続きジョホールバルも陥落し、残るは大英帝国の要塞シンガポール。

英軍は続々、このシンガポールに後退していきました。

この時、INAのメンバーは3500名に登り、この将兵を養うのに、ほとんど全て英国軍が残していった倉庫から補給していったので、日本軍からの補給を受けることはありませんでした。

1942年2月14日から15日未明にかけて日英両軍の激戦が繰り広げられて、午後6時、フォード会社の事務室にて降伏交渉が開かれました。

この会談で、約1時間ほど事務的質疑が行われ、無条件降伏から停戦交渉にすり替えられようと思われた矢先、山下将軍がパーシバル将軍に「イエスかノーか」と厳しい詰問で、無条件降伏が成立。

武器弾薬が尽きていてこれ以上の戦争続行が困難な状況だった日本軍でしたが、間一髪のところで無条件降伏を勝ち取りました。
 
昭和18年(1943)7月4日、シンガポールで開催されたIIL代表者大会において、自由インド仮政府が樹立され、満場一致でチャンドラボーズ氏がその首席になりました。

1万5千人に膨れ上がったINA将兵を前にして、チャンドラ。ボーズ氏は次のような演説を行いました。

「この軍隊がかつての英国の牙城であるシンガポールで編成されたことは大変意義深い。

大英帝国すでになしとの感が深い。

同志諸君、我が兵士諸君、諸君のおたけびは「デリーへ、デリーへ」である。

我々の中、果たして何人がこの戦いに生き残れるかわからぬ。しかし、我々が最後の勝利を獲得することは間違えない。我々の任務は、あの古城デリーの赤城(レッドフォード)である。

長い間の抗英闘争中、インドはあらゆる闘争手段を持っていたが、唯一持ち得なかったもの、そのもっとも重要なもの、

”それは軍隊である。”

私は、この軍隊がないことを切歯してきた。それが現在、このような精強な軍隊が出現したのである。

この歴史的軍隊に真っ先に挺身参加できたのは、諸君の特権であり名誉である。

かつて日本軍は、シンガポールを陥落するために
怒涛のようにマレイに進軍して、口々に「シンガポールへ」と叫んだ。

我々はこの例に習って叫ぼう。
「チェロ、デリー。チェロ、デリー」と。

デリーが再び’我らのものとなるまで。

諸君が生死を私に託して従うならば、私は必ずや諸君を、勝利と自由に導きえると確信する。

我々の中、行く人が生きて自由インドを見るかは問題ではない。

我々の母なる国インドが、自由になること、インドを自由にするために、我々の全部を捧げること、それで十分なのである。」と。

その後、昭和19年3月(1944)から、日本軍と共にインパール作戦で友軍として戦ったINAは、ビルマからデリーへ進軍する途中、日本軍が撤退をしたために、仕方なく道半ばで撤退。

最後の一兵まで戦うと主張したチャンドラボーズですが、日本軍に従わざるを得ませんでした。

昭和20年(1945)8月15日、日本敗戦。

その後、昭和20年(1945)10月5日から英国インド軍元兵士からなるINA将校への軍事裁判が首都デリーのレッドフォードで開始されました。

日本敗戦時、INA将兵は1万9千500人に登りましたが、この将兵の処遇をどうするかというのが、終戦後のインドを統治する英国の大問題となりました。

INA軍事裁判は、大英帝国の権威を示す機会と捉えていましたが、インド民衆は、もはやかつての羊のような、おとなしい白人の奴隷で甘んじる民衆ではありませんでした。

インド民衆の、抗英独立闘争の波は、インド全土に広がって生きました。

INA軍事裁判は、形を変えたインパール作戦となりました。

大東亜戦争は日本の敗戦では終わっておらず、それは第一幕が終わったに過ぎず、すでに第二幕が始まっていたのです。

「INAの日本軍との共同作戦であるインパール作戦は、英国本土の支配と搾取に対抗して、独立戦争を起こしたアメリカ独立戦争と比較すべきである。」

「INAは独立国政府の軍隊として、日本軍と共同作戦をおこなったものであり、日本の傀儡ではない。今回の世界大戦において、英国軍が米国のアイゼンハワー元帥の指導下でドイツと戦ったが、英国軍が米軍の傀儡ではない事実と同様である。」

「INA将校は、シンガポール陥落後、ファラパークにて英国軍の手から解放されて自由意志にもとずいてINA独立軍に参加したのであり、英国女王陛下に対する反逆罪には当たらない」

というような反対弁論を弁護士団は展開しました。

その結果、被告人は釈放されましたが、2月に行われた2回目の軍事裁判において、反逆罪は不問にされたが、暴行罪が取り上げられて有罪の判決が出ました。

市民は暴徒と化し、反乱軍が英国軍の軍艦を占拠したため、英国軍の出動し、死者200名を超える非常事態tなりました。

昭和22年(1947)8月15日、インド独立令により、インドは英国からインド民衆の手に統治権の完全譲渡が行われました。

オリンピックにおいて、民族意識の高まりにより、再び日本は戦争を引き起こすかもしれないので注意が必要である、と主張する進歩的文化人の方々がいます。

しかし民族意識の高まりを押さえつけられて、いつまでも白人国の奴隷に甘んじていたら、インドをはじめほかのアジア諸国はいまでも、搾取されて奴隷同様の自由のない、人間としての尊厳もない、みじめな扱いを受けていたでしょう。

当然、独立国ではないので、オリンピックに参加する権利などもなかったでしょう。

参考図書
「F機関 」藤原岩市著