子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -9ページ目

土砂降りの雨の中、自転車で帰ってきた時の母の優しさ【私の内観#1】

 

 

こんにちは、斎藤宏幸です。

 

【私の内観】と題して過去の振り返りを配信していきます。

 

 

パパ、行かないで【私の内観#3】からの続き

 

 

 

小学生のときは団地に住んでいました。家計が苦しい時代で贅沢はできませんでしたが、食べるものに困ったことはなく、それなりに生活できていました。

 

小学校に入学した時、自転車を買ってもらいました。それもブリジストンの高いブランドものでした。

 

家計が苦しい時代だったのに、小学生になったお祝いとして親が奮発して買ってくれたのです。

 

ある日、もうすぐ雨が降りそうな天気だったのですが、自転車で乗りたくて、今から外に行くと言いました。母親からは、もうすぐ雨だからやめなさい、と注意されましたが、嬉しくて自転車に乗りたかったので、出かけて行ってしまいました。

 

しばらく自転車で走っていると、予報通りどしゃ降りの雨になりました。ずぶ濡れになりながら家に帰る途中、「またお母さんに怒られるな」と憂鬱になっていました。

 

そして玄関を開けると、母親からタオルを渡されて、お風呂に入って温まりなさい、と言われました。風邪をひくと大変と思って、お風呂を温めて準備してくれていたのです。しかも、ガミガミ怒ることもなく。

 

また、ガミガミ怒られるものと覚悟していたのに、あまりの拍子抜けだったので、今でもそのことを覚えています。

 

新しい自転車が嬉しくて、雨がふるのもわかっていても嬉しくて出かけて行ったんだから、と思って、何も怒らなかったのかもしれません。

 

 

次回、塾の送り迎え【私の内観#2】に続きます。

 

 

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明治2年(1869年)、9月10日、大隈重信と伊藤博文は、横浜のイギリス公使館を訪問した後、高島屋に一泊。

 

そこで、高島は、東京横浜間の蒸気機関車の鉄道計画を提案しました。

 

大隈重信と伊藤博文も、海外視察旅行で、実際の蒸気機関車を見てきたので、いつか日本にも走らせたいという願望はありました。

 

しかし、資金面など問題は山住みであり、なかなかその実現に向けた計画を実行するまでには至っていませんでした。

 

鉄道建設には、資金面の他に2つの問題がありました。

 

一つは、明治新政府の要人である西郷が反対であること。

 

西郷隆盛は、「鉄道を作るぐらいなら、その金で軍備を増強すべきだ。そのほうが先決問題だ」と主張して反対の態度を取っていました。

 

西郷さんへの説得は、ゆっくり時間をかけてすることに。

 

もう一つは、アメリカ公使館のボルメトン書記官が、江戸横浜間の鉄道敷設権を持っていたということです。

 

それは、徳川幕府の老中、小笠原壱岐守から交付されたものでした。

 

しかし、その免許状の交付日は、慶応3年11月7日。

徳川幕府の大政奉還は、慶応3年10月24日。

 

つまり、すでに日本政府代表の権限のない旧幕府の老中が、ボルメトンに免許を与えていた、ということになります。

 

「日本の鉄道は日本で経営するのが当然だ。これを外国人に経営させることは、まるで外国の植民地になるのも同様である。」と考えていた明治新政府首脳陣は、この免許状は無効であると、ボルメトン書記官に突っぱねることができました。

 

次に資金調達ですが、イギリスのオリエンタル銀行と契約を結ぶことができ、100万ポンドの公債を募集することで賄いました。

 

高島嘉右衛門に線路短縮のために、横浜港埋め立て(現在の西区野毛町~神奈川区青木町)工事の許可が出て、140日の工期を守り埋め立て完成。

 

埋め立て工事を請け負った高島嘉右衛門には、鉄道線路を除きその土地を永代拝領する権利が与えられていました。

 

しかし、高島嘉右衛門はその権利を明治政府に献上。それを称えてこの埋立地を高島町と名づけられました。

 

明治5年5月、品川、横浜間に蒸汽車は仮営業を開始

 

明治4年(1871年)、高島は、私財3万円を投じて、語学を中心にした藍謝塾を、横浜伊勢山下と入船町に開校(通称は高島学校)。

 

敷地は一万坪、学生1000人が収容できる大きな学校で、英語・フランス語・ドイツ語・漢学・算術を教える外国人と日本人の教師13人でスタート。

 

高島嘉右衛門が私財3万円を投じて開校した学校ですが、わずか2年後の明治6年11月11日、神奈川県に寄贈してしまいました。

 

明治2年、横浜のドイツ領事シキウオライスは、神奈川県にガス燈に関する事業許可の申請をしました。

 

上海の道路は、でこぼこで非常に悪かったのにも関わらず、清国は道路工事を一切しようとしませんでした。

 

そこで、上海のフランス公使が、清国から道路の改修工事を引き受けて道路工事を完成しました。

 

やがて、フランス人は、取締りなどの道路管理も行うようになりました。

 

道路は公共のものです。

 

しかし、中国人が、自国の道路上でフランス人の取締りを受けることになってしまいました。

 

まさに、軒を貸して母屋を取られた状態に。

 

清国は、フランスと交渉を続けて、莫大な金を支払ってその権利を買い戻しすことになりました。

 

この上海の事例は、横浜のガス燈事業も当てはまると、高島は、神奈川の権令(知事)の井関盛良に力説しました。

 

明治5年(1872年)、ガス会社建設の権利を得て、フランス人技師を招いて日本初のガス工場、横浜瓦斯会社を建設。

 

横浜の外国人居留地外については、横浜瓦斯会社が請負うことで問題ないのですが、外国人居留地内の請負ついては問題となるので、その選定を居留者の投票で決めることとなりました。

 

スイス領事プラーノルドからの申し出がありました。

 

それは、「ある条件を飲んでくれれば、高島の会社が請負業者として選定されるようにする」と。

 

プラーノルド領事からのある条件とは、ガス製造の為の機械や材料一切のものをプラーノルドから購入するというものでした。

 

プラーノルドは、ドイツ領事シキウオライスを毛嫌いしていたので、そのような提案をしてきました。

 

明治5年(1872年)10月31日、横浜の地にガス灯が点灯。(10月31日はガス記念日)

 

1874年(明治7年)3月19日、横浜の灯台寮に行幸した明治天皇は、嘉右衛門の家の一角にあったガス局も視察し、宮内卿を通じて「ガス灯の建築は未曾有の偉業である」との意を伝えた。民間人で天皇に拝謁を許されたのは彼が最初だった。

 

1888年には、高島は、日本に亡命していた朝鮮の独立活動家、朴泳孝を別邸に住まわせました。

 

朴泳孝とは、どのような人物なのでしょうか?

 

朴泳孝は、1870年代に金玉均らと共に、日本の力を借りて清の冊封体制から独立しようと開化党(独立党)を結党。

 

朝鮮国内で独立活動を活発化させましたが、保守派の事大党の反対に遭って挫折。

 

(1884年)12月、当時、李氏朝鮮を支配していた、閔妃派から政権を奪おうとクーデターを実行しましたが、失敗。

(甲申政変)

 

その後、日本郵船の「千歳丸」で日本へ亡命。甲申政変をバックアップしていた、慶應義塾の福沢諭吉の家に居候しました。

 

高島は易の集大成として「高島易断」を発表。

 

1893年、世界宗教大会

 

明治7年1月10日、政府内で征韓論の争いに敗れた江藤新平は、横浜の高島邸を尋ねました。

 

佐賀では、征韓党と愛国公党が激しく対立していて、江藤新平が帰ると、いつ暴動が発生するか分からない状況でした。

 

高島嘉右衛門は、江藤新平の今後を占った後、佐賀行きを強く引きとめました。

 

江藤新平は、次のように答えました。

 

江藤新平「確かにそのような危険はありましょう。だからこそ、私が行かなければならないのです。

 

今の政府を転覆させ、西郷閣下を押し立てて第二の新政府を作らなければ、わが国の将来はありません。まだその期が熟していない為、若い者達の暴発を抑える為に私が行くのです」と。

 

高島「お気持ちは分かります。しかし、それはあなたの力では無理なのです。世の中の動きには、自然の流れ、時の勢いというものがあります。

 

この卦(占い)は、それに逆らうことの愚かしさを、あらわしています。あなたの一人のお力ではその流れを止めることはできないのです」と。

 

さらに高島は、江藤新平が”打ち首獄門”になると占いました。

 

しかし、江藤新平が司法卿の時、士族には打ち首獄門は適用されない、と刑法で決めましたので、この高島の占いは間違えである、と江藤新平は指摘しました。

 

高島がいくら説得しても、江藤新平の意思は硬く、佐賀に行ってしまいました。

 

明治7年(1874年)2月、江藤新平・島義勇らをリーダーとして、佐賀の旧士族たちが蜂起。(佐賀の乱)

 

まもなく政府から派遣された軍隊により鎮圧。

 

江藤新平は、鹿児島に逃走して、征韓論に破れて下野していた西郷隆盛に決起するように頼みましたが、西郷は動きませんでした。

 

4月13日、江藤新平・島義勇らは斬首刑の後、死体を試し斬りにし、刎ねた首を台に載せて3日間(2晩)見せしめとして晒しものにされました。

 

明治政府は、江藤新平を士族から除籍しての処刑だったので、”打ち首獄門”が適用されたのでした。

 

高島の占いが的中してしまいました。

 

明治38年5月中旬、ロシアのバルチック艦隊がウラジオストクに向けて出航。

 

その航路はインド洋を周り、日本海に向けて北上するというものでした。

 

それを迎え撃つ日本海軍は、次の3つの航路を予測。

 

津軽海峡ルート、宗谷岬ルート、対馬海峡ルート。

 

宗谷岬ルートは、航路距離が長すぎるために予想から外れましたが、津軽海峡ルートと対馬海峡ルートのどちらから日本海に侵入するかは、最後の最後まで予想できませんでした。

 

もっとも航路距離が短い、対馬海峡ルートであろうという予測のもと、連合艦隊は鎮海湾にその主力を集結させて待機。

 

しかし、待てどもバルチック艦隊は現れません。

 

出航した日から計算しても、いい加減に現れても良さそうな時期になっていましたが、全く現れません。

 

秋山少将の緊張状態はピークを迎えていました。

 

「相当の時機まで敵艦を見ない時は、艦隊は随時に移動する」と、東郷平八郎司令長官の相談もせずに、勝手に大本営に打電してしまうほどでした。

 

慌てた大本営は、「なお鎮海湾に留まることを得策とする」と打電。

 

もし、バルチック艦隊がウラジオストクに逃げ込んでしまったならば、日本海軍もウラジオストクに釘付けとなり、戦争は長引く可能性がありました。

 

日本の財政状態はすでに破産寸前。

 

陸軍の予備兵も残っておらず、これ以上、戦争の継続はできない状況でした。

 

したがって、なんとしてでも、北上してくるバルティック艦隊を、日本海に入る手前で撃滅してしまう必要があったのです。

 

そのような時、伊東博文は横浜高島台の高島嘉右衛門の元を訪れました。

 

高島の占いでは、ロシア艦隊は足手まといを受けて、予定より到着が遅れていると出ました。

 

日本海軍は、バルティック艦隊の主力艦の速力で計算していたのですが、そのほかは石炭船なので、それらが足手まといとなっていると予想したのです。

 

高島「くれぐれも申し上げますが、あと二日、現在位置から動かれませぬように、閣下からもしかるべきご配慮をお願いしとう存じます」と。

 

連合艦隊はそのまま鎮海湾を動かず。

 

5月27日午前4時45分、哨戒船、信濃丸が敵艦隊を発見。

 

無線はまもなく旗艦「三笠」に伝わり、秋山参謀は、大興奮のまま、大本営へ次の電文を打電。

 

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハタダチニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日(ホンヒ)天気晴朗ナレドモ波高シ」と。

 

もし、この時、連合艦隊が鎮海湾から津軽海峡に動いてしまっていたら、どうなっていたでしょうか?

 

バルティック艦隊はウラジオストクに入ってしまい、戦争が長期化して、日本海軍は極めて不利な立場になっていたでしょう。

 

そして、戦争を継続するだけの資金がない日本は、国家が破滅していたかもしれません。

 

まさに、連合艦隊が鎮海湾を動くかどうかの判断は、日本にとって国家存亡できるかどうかの重大な判断だったのです。

 

そして、その重大な判断を高島易に委ねた伊東博文。

 

日本の国家存亡の危機は、高島易によって救われたとも言えます。

 

大正6年、秋山少将は、京都の綾部にある宗教団体、大本教本部を訪ね、その指導者の出口王仁三郎と会いました。

 

秋山少将は、出口王仁三郎が主張した大地震の予言を信じ込んでしまい、各方面にその予言の宣伝活動に回りました。

 

しかし、その地震予言は大外れ。

 

秋山少佐は、日本海軍が誇る天才参謀でした。しかし、天才と狂人は紙一重。晩年の秋山少佐は、周囲が首をひねるような言動が目につきました。

 

明治42年10月12日、伊藤博文は高島嘉右衛門を訪問し、伊藤博文の今後を占いました。

 

そこで出た易は、「艮為山(ごんいざん)の三爻」。

 

今は動かずに日本にいた方が良いと、高島嘉右衛門は伊藤博文に、再三に渡って諭しました。

 

高島嘉右衛門からの再三にわたる静止を振り切って、伊藤博文は、ロシアの蔵相ココフツェフと満州問題について話し合うために、ハルビンに向かいました。

 

伊藤博文一行は、18日に大連に到着し、20日に旅順の戦跡を訪れ、10月26日にハルピンに到着。

 

伊藤博文とロシアの蔵相ココフツェフは、特別列車の中で挨拶し、その後、歓迎式に移りました。

 

二人揃って駅のホームに降りて、ロシアの守備隊を閲兵し、各国領事団の列に近づいて握手をかわし、日本人歓迎者のほうへ向かって数歩進んだ、その時。

 

6発の銃声が鳴り響き、伊藤博文はその場に倒れました。

 

担架で列車の中に運ばれ、救急治療を受けながら、伊藤は警備兵に尋ねました。

 

伊藤「撃ったのは何という男だ…」

警備兵「名前はまだ分かりませんが、朝鮮人のようです。」

伊藤「馬鹿なやつじゃ…」

 

この言葉の数十分後、伊藤は息を引き取りました。

 

朝鮮の併合に反対していた伊藤博文。

 

伊藤が、反日朝鮮人のテロリストに暗殺されたことにより、その後まもなく、日韓併合が実現してしまいました。

 

もし、伊藤が高島嘉右衛門の説得を聞いて、ハルビンに行かずに日本に止まっていたら、どうなっていたでしょうか?

 

朝鮮は、日本に併合されることなく、日本の保護国のまま、日本からの投資により近代化して行ったことでしょう。

 

そして、朝鮮の真の独立は、日本のバックアップにより実現して行ったことでしょう。

 

また、日本にとっても、朝鮮を日本(内地)と同等(鮮内一体)として扱う必要がなくなり、莫大な予算を組んでまでして、朝鮮を日本(内地)と同等にまで引き上げるための投資をすることもなかったでしょう。

 

それは伊藤博文が、生前主張していたことです。

 

「朝鮮人と日本人は、別々の民族でありそれぞれ長い歴史がある。よって両民族が一体となり同化することは難しい。

 

それより、朝鮮が真の独立国家としてやっていけるようになるまで、しばらく日本の保護国とし、朝鮮の近代化を日本が主導していき、やがて、朝鮮が真の独立国として国家運営できるようになった時、手離すようにした方が良い」と。

 

例えていうと、親(日本)が子供(朝鮮)の成長を見守りサポートしていき、やがて、時期が来たら、子供(朝鮮)は親慣れして独立して行くのを、親(日本)が手助けする、ようにです。

 

しかし、伊藤が反日朝鮮人のテロリストにより暗殺されてしまったことにより、伊藤の朝鮮への思いとは関係なく、朝鮮は、日本の保護国から日韓併合へと流れが変わってしまいました。

 

伊藤博文の最後の言葉、「馬鹿なやつじゃ…」

 

伊藤博文は、朝鮮人テロリストによって、自分の命が奪われたことへの恨みはなかったのでしょう。

 

そんなことより、朝鮮人自らの手で、日韓併合への道を推し進めてしまったことへの嘆きの言葉だったのでしょう。

 

なぜなら、伊藤博文は、自分が朝鮮人テロリストによって暗殺されることで、日韓併合が実現してしまうことをわかっていたからです。

 

そんな伊藤博文の思いなど知る由もない韓国では、伊藤博文を葬ったテロリストを、国家的英雄として賞賛しています。

 

「当たるも八卦、当たらぬも八卦。」

 

あなたは、易経を信じますか?、それともバカにして信じませんか?

 

どちらの人でも、宇宙法則という目に見えない何かの力によって、人の運命や様々な事象が起きる、ということは、なんとなく感じている人が多いのではないでしょうか?

 

お正月に神社に初詣に行く人、家を建てる時に神主に来てもらい地鎮祭をする人、子供が7歳5歳3歳の時に、神社に行ってお祓いをしてもらう人。

 

あなたも神社に一度や2度は行ったことあるのではないでしょうか?

 

神社と易経は直接関連ないかもしれませんが、目に見えない何かを信じているという点では共通点があります。

 

日本の近代化にたくさんの功績を残した高島嘉右衛門。

 

中でも彼の残した「高島易経」は、今でも多くの人々に影響を与えています。

 

 

 

 

 

1863年1月31日、品川御殿山で建設中のイギリス公使館が、高杉新作、久坂玄瑞、井上馨、伊藤博文らに焼き討ちにされました。(英国公使館焼き討ち事件)

 

1865年、オールコックの後任に来日した、イギリス公使バークスは、横浜居留地の中の二十番館のホテルに住んでいました。

 

高島嘉兵衛は、イギリス公使バークスと面会しました。

 

人脈を使ってアメリカ公使ウェンチェストンから紹介状をもらっていたので、特別に会うことができました。

 

高島嘉兵衛は、バークスに提案しました。

「横浜に公使館を建てて、しばらくここ横浜で仕事をされては如何でしょうか?」と。

 

パークス「それは名案だと思うが、公使館新築の費用はどうするのか?」

 

高島嘉兵衛「幕府も、公使館焼き討ちの件では、深く心を痛めているので、幕府に建築費用の立替を申し出て、無利息長期の年賦払いで償還なさることにしては如何でしょうか?」

 

公使館建築計画はトントン拍子に進み、高島嘉兵衛が建築を請け負うことに。

 

「日本一の大工である。日本人がこのような洋館を建てられるとは思わなかった」と、完成後にパークスから賞賛された高島嘉兵衛は、横浜の異人館を全て請け負うことになりました。

 

1867年(慶応3年)、当時横浜には政府高官や外国人を受け入れる旅館がなかったことから、尾上町に豪華な和洋折衷の高島屋旅館を建築。(百貨店の高島屋とは無関係)

 

接待に出る男衆には、江戸幕府城中勤めの茶坊主に、髪を伸ばさせて給仕に。女衆には旧幕臣の息女や幕府大奥、また諸藩に女中奉公していた者だけを集めました。

 

容色、立居振舞、礼儀作法、それこそ超一流の本物ばかりでしたので、新政府の高官や外国公使などが常連客となりました。

 

また、常連客たちの多くは、政策の判断に迷った時は、嘉右衛門の易断を参考にしました。

 

しかし、一人だけ易を好まない人物がいました。

それは、西郷隆盛。

 

嘉右衛門は、こっそりと西郷隆盛のことを占ってみました。

もちろん本人には内緒で。

 

すると、「水地比」上六爻之を比す。首なし、と出ました。

この卦は、交わってはならない人間と交わり、命まで危うくなるというものでした。

 

それから10年後、西郷隆盛は、西南戦争にて自決。

 

1868年1月、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃。

 

これをきっかけとして、錦の御旗を掲げた、薩摩藩・長州藩・土佐藩らの官軍と幕府軍とが全面衝突。

(戊辰戦争)

 

1868年5月6日、陸奥国(青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)・出羽国(山形県、秋田県(北東部除く))・蝦夷地(北海道)および越後国(新潟)の諸藩が、輪王寺宮・公現入道親王を盟主とし、薩長中心の新政府軍に対抗して、「北日本」として独立するために団結。

(奥羽越列藩同盟)

 

同年7月27日、盛岡藩は、奥羽列藩同盟を離反した秋田・弘前両藩を攻撃。(秋田戦争)

 

1868年9月8日、元号が「明治」に改元。

 

仙台藩と一関田村藩は、官軍の圧倒的軍勢の前に、9月15日に降伏。

 

9月20日、盛岡藩降伏。

 

1868年12月2日、盛岡南部氏四十代の南部利剛(としひさ)は、南部氏の菩提寺である東京芝の金地院に移されて、「籠居」扱いに。

 

南部領二十万石は没収されて、不来方城は新政府軍の管轄になりました。

 

1869年(明治2年)6月付けで、南部利剛(としひさ)の子供の南部利恭は、盛岡藩士たちとともに、白石領(現、宮城県白石市)に所領代えを命じられ、白石知事に任命されました。

 

この所領代えにより、盛岡藩は13万石に格下げ。

 

旧盛岡藩士たちは、南部氏の盛岡復帰を嘆願しましたが、新政府は、その盛岡復帰の条件として、南部氏に70万両の賠償献金を要求。

 

家老だった東政図は、朝敵の汚名を返上して南部家の復権を果たすために、宮家との縁組を画策しました。

 

明治2年10月、南部利剛(としひさ)の長女、郁子は、まだ創設されたばかりの宮家、華頂宮(かちょうのみや)の博経親王と婚約。

 

しかし、この巨額な賠償金を一度に支払うことができずに、新政府に「廃藩」を申し出ました。

 

これは新政府が廃藩置県を全国的に実地する前のことであり、自己破産のようなものでした。

 

旧盛岡藩は、高島嘉右衛門に相談。飢饉の問題などもあったが、「至誠奉公の大精神」で成し遂げました。

 

これにより、旧盛岡藩士たちは、白石から盛岡に戻ることができました。

 

(明治2年)1869年7月24日付けで、南部利恭は盛岡知事に。

 

新たに盛岡藩13万石に封ぜられた領域は、岩手郡、紫波郡、和賀郡、稗貫郡の4郡でした。

 

 

高島嘉兵衛は、なんとかこの借金を返済しようと思い、ある貨幣取引に手を伸ばしました。

 

 

それは、小判を銀貨に交換するというものでした。

 

 

そのカラクリは、小判を小判としての貨幣価格で使用せずに、小判を鋳潰して金塊とし、金の時価で売れば、公定換算率の倍以上で売ることができる。

 

そして、裏取引で銀貨に交換し、銀貨を公定相場で売れば、その差額だけで膨大なものになる、というものでした。

 

しかし、これは違法取引。見つかったらお縄(逮捕)にかかってしまうという危険がつきまといました。

 

それでも高島嘉兵衛は、莫大な借金を早く返済したいので、この危険な闇取引にはまって行ってしまいました。

 

高島嘉兵衛は、闇取引の首謀者であるオランダ人のキネフラに、小判を銀貨に交換してほしい、と持ちかけました。

 

小判は鍋島藩から調達。鍋島藩にとっても、旨味のある話だったので、嘉兵衛の話に乗りました。

 

ただし、この闇取引が公となってしまうと、鍋島藩としても損害を被ってしまうので、「決してこちらに迷惑はかけてくれるなよ」と約束を取り付けました。

 

嘉兵衛は、この闇取引により2万両の借金を返済。

 

闇取引でかなりの利益を出した嘉兵衛でしたが、違法行為をいつまでも続けていくことはできませんでした。

 

1860年、貨幣密売の罪で伝馬町の獄舎に入獄。嘉兵衛29歳。

 

この時代、犯罪者として牢獄に入るということには、死を覚悟しなければならない過酷なものでした。

 

安政の大獄で捕らえられた政治犯は、一か月も経たないうちに獄死する者が後を絶ちませんでした。

 

なぜかというと、牢獄は約30坪の建物の中に定員百人が寝起きするという環境。

 

1畳に8人という掟が定められていました。1畳に8人なので、肩を寄せて体をすくめたり、棒のようになってジッとしていなければなりません。

 

このような生活では、いずれ病気になり死んでしまうのも無理ありません。

 

衣服も、仕送りがない限りは単衣一枚しか支給されず、食事も臭くてひどいものでした。

 

また、牢屋(ろうや)に入る時はまとまったお金を持ってきて、牢名主(ろうなぬし)に差し出さないと、半殺しにされても仕方がない、という掟がありました。

 

牢名主とは、囚人の中から選ばれて牢屋の取締りをした、囚人のかしらのことを言います。

 

牢名主に気に入られるかどうかで、まさに生死が分れるほどでしたので、まさに地獄の沙汰も金次第でした。

 

高島嘉兵衛は、胴巻きに百両の小判を隠し持って行き、牢名主に差し出しましたので、畳一枚の座る場所を割り当てられました。

 

牢名主に気に入られた高島嘉兵衛は、「易経」上下二巻をご褒美にもらいました。

 

「易経」とは、四書五経の中の一冊。

 

他に何もすることがない獄中生活なので、高島嘉兵衛は、この「易経」の本を暗誦できるまで読み入みました。

 

占いを実践するには道具が必要ですが、紙縒り(こより)を50個作って筮竹(ぜいちく)として、囚人たちを占って行きました。

 

この占いが怖いぐらいに当たりました。

 

獄中の環境が、占いの実習には最適だったのでしょう。占いの対象となる囚人たちは様々な波乱万丈の人生を送ってきた人ばかりでしたので、一般人とは波乱の度合いが違います。

 

高島嘉兵衛は、この伝馬町の獄舎で、集中力と予知能力により一層磨きをかけて行きました。

 

1865年10月10日、高島嘉兵衛、放免(釈放)。

 

 

幕末の江戸、大地震が起きることを予測して、大儲けをした矢先大借金をしてしまった男がいます。

 

彼の名は、高島嘉兵衛。

 

 

高島嘉兵衛は、千両の融通を鍋島藩に頼み込みにいきました。

 

 

 

なぜ、材木が儲けになるかというと、急に材木相場が暴騰するという読みがあったからです。

 

 

 

その読みは、巨大地震による家屋の倒壊。

 

 

 

高島嘉兵衛は、融資を受けた千両で、材木を買いあさりました。当時の江戸は不景気が続き、木材の価格は極度に安かった。

 

 

 

また当時の商法では、一割程度の手付金で取引が決まり、後日の価格の変動にかかわらず、確実に取引価格で受け渡しされることになっていました。

 

 

 

この慣習を破った者は、信用をなくして商売ができなくなる為、この約束は確実に守られました。

 

 

 

木材の現品の引き取りは5日以内。5日以内に地震が起きないと、大量に買い付けた木材を処分せきずに、高島嘉兵衛は破産となってします。

 

高島嘉兵衛、一世一代の大博打でした。

 

翌日の1855年11月11日(安政2年10月2日)、江戸の町に大地震発生。(安政の大地震)

 

 

 

当時の大学者、藤田東湖も、この時、水戸藩江戸屋敷で読書中、病床にあった母を救い出そうとして、梁の下敷きになり圧死。

 

 

 

高島嘉兵衛は、鍋島藩邸を尋ねて、倒壊した藩邸の建築工事を請け負い、前金を受け取りました。

 

 

 

次に、商談のまとまっていた材木問屋を順番に回って、残金を支払い、材木引取りの手筈を済ませていきました。

 

 

 

地震があってからわずか3日間で、材木の価格は4倍にも高騰していましたが、当初の契約通り、取引価格にて行われました。

 

 

 

さすが、信用第一の江戸商人。

 

 

 

高島嘉兵衛は、次に南部藩江戸屋敷を訪ねて、家老の楢山佐渡に会いました。

 

 

 

東北盛岡の南部藩は、鍋島藩から窮状を助けられたという経緯がありました。

 

 

 

高島嘉兵衛「白金の瑞祥寺、芝の金地院の墓石七十余基のほとんどが転倒しています。

 

 

 

このままにしていたら、南部様の御家名にもかかわりましょう。

 

 

 

地震発生からまだ40日も経っていません。この費用の全ては、手前がお引き受けいたします」と。

 

 

 

高島嘉兵衛は、南部藩家老の楢山佐渡から、南部家の暮石の修理と江戸屋敷の工事を請け負いました。

 

 

 

ただし、木材は南部領内で切り出したものを使い、そのぶんは工事費から差し引くという、南部藩にとってはお得な条件でした。

 

 

 

高島嘉兵衛は、わずか5日間で、全ての墓石をきちんと据え直して、欠けた部分はきれいに継ぎなし、苔を落として磨きをかけ、新品同様に完全に墓石を修復しました。

 

 

 

他の墓石はまだ倒れたままの状態だったのに、南部藩の墓石だけが真っ先に修復を済ませました。

 

 

 

まだ、屋敷の修復は手付かずだったのに、それよりも先に墓石の修復を行ったのです。

 

 

 

高島嘉兵衛のご先祖さまを敬う姿勢が、他の人の心を打ちました。

 

 

 

翌年の春から、盛岡で伐採された木材は、筏を組んで北上川を下り、石巻港から船積みされて、江戸の深川木場に運ばれていきました。

 

 

 

8月15日、強い台風が江戸の町を直撃。

 

 

 

この台風の影響で、深川木場の材木のほとんどすべてが海へ流れ出してしまい回収不能。

 

 

 

当時、建築工事の請負人は、天災などの不慮の事態が起きても、工事を完成しないと信用をなくしてしまい、二度と仕事は来ないという掟がありました。

 

 

 

この台風の影響で、江戸の木材相場と職人の手間賃は暴騰。高島嘉兵衛は、借金を重ねて、なんとか工事を完成することができました。

 

 

 

しかし、残った負債は2万両。

 

 

 

先見の明で、大地震が発生する前に大量に木材を購入して、大儲けをしたと思った矢先に、莫大な借金を背負うことに。

 

 

高島嘉兵衛は、千両の融通を鍋島藩に頼み込みにいきました。

 

なぜ、材木が儲けになるかというと、急に材木相場が暴騰するという読みがあったからです。

 

その読みは、巨大地震による家屋の倒壊。

 

高島嘉兵衛は、融資を受けた千両で、材木を買いあさりました。当時の江戸は不景気が続き、木材の価格は極度に安かった。

 

また当時の商法では、一割程度の手付金で取引が決まり、後日の価格の変動にかかわらず、確実に取引価格で受け渡しされることになっていました。

 

この慣習を破った者は、信用をなくして商売ができなくなる為、この約束は確実に守られました。

 

木材の現品の引き取りは5日以内。5日以内に地震が起きないと、大量に買い付けた木材を処分せきずに、高島嘉兵衛は破産となってします。

 

翌日の1855年11月11日(安政2年10月2日)、江戸の町に大地震発生。(安政の大地震)

 

当時の大学者、藤田東湖も、この時、水戸藩江戸屋敷で読書中、病床にあった母を救い出そうとして、梁の下敷きになり圧死。

 

高島嘉兵衛は、鍋島藩邸を尋ねて、倒壊した藩邸の建築工事を請け負い、前金を受け取りました。

 

次に、商談のまとまっていた材木問屋を順番に回って、残金を支払い、材木引取りの手筈を済ませていきました。

 

地震があってからわずか3日間で、材木の価格は4倍にも高騰していましたが、当初の契約通り、取引価格にて行われました。

 

さすが、信用第一の江戸商人。

 

高島嘉兵衛は、次に南部藩江戸屋敷を訪ねて、家老の楢山佐渡に会いました。

 

東北盛岡の南部藩は、鍋島藩から窮状を助けられたという経緯がありました。

 

高島嘉兵衛「白金の瑞祥寺、芝の金地院の墓石七十余基のほとんどが転倒しています。

 

このままにしていたら、南部様の御家名にもかかわりましょう。

 

地震発生からまだ40日も経っていません。この費用の全ては、手前がお引き受けいたします」と。

 

高島嘉兵衛は、南部藩家老の楢山佐渡から、南部家の暮石の修理と江戸屋敷の工事を請け負いました。

 

ただし、木材は南部領内で切り出したものを使い、そのぶんは工事費から差し引くという、南部藩にとってはお得な条件でした。

 

高島嘉兵衛は、わずか5日間で、全ての墓石をきちんと据え直して、欠けた部分はきれいに継ぎなし、苔を落として磨きをかけ、新品同様に完全に墓石を修復しました。

 

他の墓石はまだ倒れたままの状態だったのに、南部藩の墓石だけが真っ先に修復を済ませました。

 

まだ、屋敷の修復は手付かずだったのに、それよりも先に墓石の修復を行ったのです。

 

高島嘉兵衛のご先祖さまを敬う姿勢が、他の人の心を打ちました。

 

翌年の春から、盛岡で伐採された木材は、筏を組んで北上川を下り、石巻港から船積みされて、江戸の深川木場に運ばれていきました。

 

8月15日、強い台風が江戸の町を直撃。

 

この台風の影響で、深川木場の材木のほとんどすべてが海へ流れ出してしまい回収不能。

 

当時、建築工事の請負人は、天災などの不慮の事態が起きても、工事を完成しないと信用をなくしてしまい、二度と仕事は来ないという掟がありました。

 

この台風の影響で、江戸の木材相場と職人の手間賃は暴騰。高島嘉兵衛は、借金を重ねて、なんとか工事を完成することができました。

 

しかし、残った負債は2万両。

 

先見の明で、大地震が発生する前に大量に木材を購入して、大儲けをしたと思った矢先に、莫大な借金を背負うことに。

 

高島嘉兵衛は、なんとかこの借金を返済しようと思い、ある貨幣取引に手を伸ばしました。

 

それは、小判を銀貨に交換するというものでした。

 

そのカラクリは、小判を小判としての貨幣価格で使用せずに、小判を鋳潰して金塊とし、金の時価で売れば、公定換算率の倍以上で売ることができる。

 

そして、裏取引で銀貨に交換し、銀貨を公定相場で売れば、その差額だけで膨大なものになる、というものでした。

 

しかし、これは違法取引。見つかったらお縄(逮捕)にかかってしまうという危険がつきまといました。

 

それでも高島嘉兵衛は、莫大な借金を早く返済したいので、この危険な闇取引にはまって行ってしまいました。

 

高島嘉兵衛は、闇取引の首謀者であるオランダ人のキネフラに、小判を銀貨に交換してほしい、と持ちかけました。

 

小判は鍋島藩から調達。鍋島藩にとっても、旨味のある話だったので、嘉兵衛の話に乗りました。

 

ただし、この闇取引が公となってしまうと、鍋島藩としても損害を被ってしまうので、「決してこちらに迷惑はかけてくれるなよ」と約束を取り付けました。

 

嘉兵衛は、この闇取引により2万両の借金を返済。

 

闇取引でかなりの利益を出した嘉兵衛でしたが、違法行為をいつまでも続けていくことはできませんでした。

 

1860年、貨幣密売の罪で伝馬町の獄舎に入獄。嘉兵衛29歳。

 

この時代、犯罪者として牢獄に入るということには、死を覚悟しなければならない過酷なものでした。

 

安政の大獄で捕らえられた政治犯は、一か月も経たないうちに獄死する者が後を絶ちませんでした。

 

なぜかというと、牢獄は約30坪の建物の中に定員百人が寝起きするという環境。

 

1畳に8人という掟が定められていました。1畳に8人なので、肩を寄せて体をすくめたり、棒のようになってジッとしていなければなりません。

 

このような生活では、いずれ病気になり死んでしまうのも無理ありません。

 

衣服も、仕送りがない限りは単衣一枚しか支給されず、食事も臭くてひどいものでした。

 

また、牢屋(ろうや)に入る時はまとまったお金を持ってきて、牢名主(ろうなぬし)に差し出さないと、半殺しにされても仕方がない、という掟がありました。

 

牢名主とは、囚人の中から選ばれて牢屋の取締りをした、囚人のかしらのことを言います。

 

牢名主に気に入られるかどうかで、まさに生死が分れるほどでしたので、まさに地獄の沙汰も金次第でした。

 

高島嘉兵衛は、胴巻きに百両の小判を隠し持って行き、牢名主に差し出しましたので、畳一枚の座る場所を割り当てられました。

 

牢名主に気に入られた高島嘉兵衛は、「易経」上下二巻をご褒美にもらいました。

 

「易経」とは、四書五経の中の一冊。

 

他に何もすることがない獄中生活なので、高島嘉兵衛は、この「易経」の本を暗誦できるまで読み入みました。

 

占いを実践するには道具が必要ですが、紙縒り(こより)を50個作って筮竹(ぜいちく)として、囚人たちを占って行きました。

 

この占いが怖いぐらいに当たりました。

 

獄中の環境が、占いの実習には最適だったのでしょう。占いの対象となる囚人たちは様々な波乱万丈の人生を送ってきた人ばかりでしたので、一般人とは波乱の度合いが違います。

 

高島嘉兵衛は、この伝馬町の獄舎で、集中力と予知能力により一層磨きをかけて行きました。

 

1865年10月10日、高島嘉兵衛、放免(釈放)。

 

1863年1月31日、品川御殿山で建設中のイギリス公使館が、高杉新作、久坂玄瑞、井上馨、伊藤博文らに焼き討ちにされました。(英国公使館焼き討ち事件)

 

1865年、オールコックの後任に来日した、イギリス公使バークスは、横浜居留地の中の二十番館のホテルに住んでいました。

 

高島嘉兵衛は、イギリス公使バークスと面会しました。

 

人脈を使ってアメリカ公使ウェンチェストンから紹介状をもらっていたので、特別に会うことができました。

 

高島嘉兵衛は、バークスに提案しました。

「横浜に公使館を建てて、しばらくここ横浜で仕事をされては如何でしょうか?」と。

 

パークス「それは名案だと思うが、公使館新築の費用はどうするのか?」

 

高島嘉兵衛「幕府も、公使館焼き討ちの件では、深く心を痛めているので、幕府に建築費用の立替を申し出て、無利息長期の年賦払いで償還なさることにしては如何でしょうか?」

 

公使館建築計画はトントン拍子に進み、高島嘉兵衛が建築を請け負うことに。

 

「日本一の大工である。日本人がこのような洋館を建てられるとは思わなかった」と、完成後にパークスから賞賛された高島嘉兵衛は、横浜の異人館を全て請け負うことになりました。

 

1867年(慶応3年)、当時横浜には政府高官や外国人を受け入れる旅館がなかったことから、尾上町に豪華な和洋折衷の高島屋旅館を建築。(百貨店の高島屋とは無関係)

 

接待に出る男衆には、江戸幕府城中勤めの茶坊主に、髪を伸ばさせて給仕に。女衆には旧幕臣の息女や幕府大奥、また諸藩に女中奉公していた者だけを集めました。

 

容色、立居振舞、礼儀作法、それこそ超一流の本物ばかりでしたので、新政府の高官や外国公使などが常連客となりました。

 

また、常連客たちの多くは、政策の判断に迷った時は、嘉右衛門の易断を参考にしました。

 

しかし、一人だけ易を好まない人物がいました。

それは、西郷隆盛。

 

嘉右衛門は、こっそりと西郷隆盛のことを占ってみました。

もちろん本人には内緒で。

 

すると、「水地比」上六爻之を比す。首なし、と出ました。

この卦は、交わってはならない人間と交わり、命まで危うくなるというものでした。

 

それから10年後、西郷隆盛は、西南戦争にて自決。

 

1868年1月、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃。

 

これをきっかけとして、錦の御旗を掲げた、薩摩藩・長州藩・土佐藩らの官軍と幕府軍とが全面衝突。

(戊辰戦争)

 

1868年5月6日、陸奥国(青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)・出羽国(山形県、秋田県(北東部除く))・蝦夷地(北海道)および越後国(新潟)の諸藩が、輪王寺宮・公現入道親王を盟主とし、薩長中心の新政府軍に対抗して、「北日本」として独立するために団結。

(奥羽越列藩同盟)

 

同年7月27日、盛岡藩は、奥羽列藩同盟を離反した秋田・弘前両藩を攻撃。(秋田戦争)

 

1868年9月8日、元号が「明治」に改元。

 

仙台藩と一関田村藩は、官軍の圧倒的軍勢の前に、9月15日に降伏。

 

9月20日、盛岡藩降伏。

 

1868年12月2日、盛岡南部氏四十代の南部利剛(としひさ)は、南部氏の菩提寺である東京芝の金地院に移されて、「籠居」扱いに。

 

南部領二十万石は没収されて、不来方城は新政府軍の管轄になりました。

 

1869年(明治2年)6月付けで、南部利剛(としひさ)の子供の南部利恭は、盛岡藩士たちとともに、白石領(現、宮城県白石市)に所領代えを命じられ、白石知事に任命されました。

 

この所領代えにより、盛岡藩は13万石に格下げ。

 

旧盛岡藩士たちは、南部氏の盛岡復帰を嘆願しましたが、新政府は、その盛岡復帰の条件として、南部氏に70万両の賠償献金を要求。

 

家老だった東政図は、朝敵の汚名を返上して南部家の復権を果たすために、宮家との縁組を画策しました。

 

明治2年10月、南部利剛(としひさ)の長女、郁子は、まだ創設されたばかりの宮家、華頂宮(かちょうのみや)の博経親王と婚約。

 

しかし、この巨額な賠償金を一度に支払うことができずに、新政府に「廃藩」を申し出ました。

 

これは新政府が廃藩置県を全国的に実地する前のことであり、自己破産のようなものでした。

 

旧盛岡藩は、高島嘉右衛門に相談。飢饉の問題などもあったが、「至誠奉公の大精神」で成し遂げました。

 

これにより、旧盛岡藩士たちは、白石から盛岡に戻ることができました。

 

(明治2年)1869年7月24日付けで、南部利恭は盛岡知事に。

 

新たに盛岡藩13万石に封ぜられた領域は、岩手郡、紫波郡、和賀郡、稗貫郡の4郡でした。

 

明治2年(1869年)、9月10日、大隈重信と伊藤博文は、横浜のイギリス公使館を訪問した後、高島屋に一泊。

 

そこで、高島は、東京横浜間の蒸気機関車の鉄道計画を提案しました。

 

大隈重信と伊藤博文も、海外視察旅行で、実際の蒸気機関車を見てきたので、いつか日本にも走らせたいという願望はありました。

 

しかし、資金面など問題は山住みであり、なかなかその実現に向けた計画を実行するまでには至っていませんでした。

 

鉄道建設には、資金面の他に2つの問題がありました。

 

一つは、明治新政府の要人である西郷が反対であること。

 

西郷隆盛は、「鉄道を作るぐらいなら、その金で軍備を増強すべきだ。そのほうが先決問題だ」と主張して反対の態度を取っていました。

 

西郷さんへの説得は、ゆっくり時間をかけてすることに。

 

もう一つは、アメリカ公使館のボルメトン書記官が、江戸横浜間の鉄道敷設権を持っていたということです。

 

それは、徳川幕府の老中、小笠原壱岐守から交付されたものでした。

 

しかし、その免許状の交付日は、慶応3年11月7日。

徳川幕府の大政奉還は、慶応3年10月24日。

 

つまり、すでに日本政府代表の権限のない旧幕府の老中が、ボルメトンに免許を与えていた、ということになります。

 

「日本の鉄道は日本で経営するのが当然だ。これを外国人に経営させることは、まるで外国の植民地になるのも同様である。」と考えていた明治新政府首脳陣は、この免許状は無効であると、ボルメトン書記官に突っぱねることができました。

 

次に資金調達ですが、イギリスのオリエンタル銀行と契約を結ぶことができ、100万ポンドの公債を募集することで賄いました。

 

高島嘉右衛門に線路短縮のために、横浜港埋め立て(現在の西区野毛町~神奈川区青木町)工事の許可が出て、140日の工期を守り埋め立て完成。

 

埋め立て工事を請け負った高島嘉右衛門には、鉄道線路を除きその土地を永代拝領する権利が与えられていました。

 

しかし、高島嘉右衛門はその権利を明治政府に献上。それを称えてこの埋立地を高島町と名づけられました。

 

明治5年5月、品川、横浜間に蒸汽車は仮営業を開始

 

明治4年(1871年)、高島は、私財3万円を投じて、語学を中心にした藍謝塾を、横浜伊勢山下と入船町に開校(通称は高島学校)。

 

敷地は一万坪、学生1000人が収容できる大きな学校で、英語・フランス語・ドイツ語・漢学・算術を教える外国人と日本人の教師13人でスタート。

 

高島嘉右衛門が私財3万円を投じて開校した学校ですが、わずか2年後の明治6年11月11日、神奈川県に寄贈してしまいました。

 

明治2年、横浜のドイツ領事シキウオライスは、神奈川県にガス燈に関する事業許可の申請をしました。

 

上海の道路は、でこぼこで非常に悪かったのにも関わらず、清国は道路工事を一切しようとしませんでした。

 

そこで、上海のフランス公使が、清国から道路の改修工事を引き受けて道路工事を完成しました。

 

やがて、フランス人は、取締りなどの道路管理も行うようになりました。

 

道路は公共のものです。

 

しかし、中国人が、自国の道路上でフランス人の取締りを受けることになってしまいました。

 

まさに、軒を貸して母屋を取られた状態に。

 

清国は、フランスと交渉を続けて、莫大な金を支払ってその権利を買い戻しすことになりました。

 

この上海の事例は、横浜のガス燈事業も当てはまると、高島は、神奈川の権令(知事)の井関盛良に力説しました。

 

明治5年(1872年)、ガス会社建設の権利を得て、フランス人技師を招いて日本初のガス工場、横浜瓦斯会社を建設。

 

横浜の外国人居留地外については、横浜瓦斯会社が請負うことで問題ないのですが、外国人居留地内の請負ついては問題となるので、その選定を居留者の投票で決めることとなりました。

 

スイス領事プラーノルドからの申し出がありました。

 

それは、「ある条件を飲んでくれれば、高島の会社が請負業者として選定されるようにする」と。

 

プラーノルド領事からのある条件とは、ガス製造の為の機械や材料一切のものをプラーノルドから購入するというものでした。

 

プラーノルドは、ドイツ領事シキウオライスを毛嫌いしていたので、そのような提案をしてきました。

 

明治5年(1872年)10月31日、横浜の地にガス灯が点灯。(10月31日はガス記念日)

 

1874年(明治7年)3月19日、横浜の灯台寮に行幸した明治天皇は、嘉右衛門の家の一角にあったガス局も視察し、宮内卿を通じて「ガス灯の建築は未曾有の偉業である」との意を伝えた。民間人で天皇に拝謁を許されたのは彼が最初だった。

 

1888年には、高島は、日本に亡命していた朝鮮の独立活動家、朴泳孝を別邸に住まわせました。

 

朴泳孝とは、どのような人物なのでしょうか?

 

朴泳孝は、1870年代に金玉均らと共に、日本の力を借りて清の冊封体制から独立しようと開化党(独立党)を結党。

 

朝鮮国内で独立活動を活発化させましたが、保守派の事大党の反対に遭って挫折。

 

(1884年)12月、当時、李氏朝鮮を支配していた、閔妃派から政権を奪おうとクーデターを実行しましたが、失敗。

(甲申政変)

 

その後、日本郵船の「千歳丸」で日本へ亡命。甲申政変をバックアップしていた、慶應義塾の福沢諭吉の家に居候しました。

 

高島は易の集大成として「高島易断」を発表。

 

1893年、世界宗教大会

 

明治7年1月10日、政府内で征韓論の争いに敗れた江藤新平は、横浜の高島邸を尋ねました。

 

佐賀では、征韓党と愛国公党が激しく対立していて、江藤新平が帰ると、いつ暴動が発生するか分からない状況でした。

 

高島嘉右衛門は、江藤新平の今後を占った後、佐賀行きを強く引きとめました。

 

江藤新平は、次のように答えました。

 

江藤新平「確かにそのような危険はありましょう。だからこそ、私が行かなければならないのです。

 

今の政府を転覆させ、西郷閣下を押し立てて第二の新政府を作らなければ、わが国の将来はありません。まだその期が熟していない為、若い者達の暴発を抑える為に私が行くのです」と。

 

高島「お気持ちは分かります。しかし、それはあなたの力では無理なのです。世の中の動きには、自然の流れ、時の勢いというものがあります。

 

この卦(占い)は、それに逆らうことの愚かしさを、あらわしています。あなたの一人のお力ではその流れを止めることはできないのです」と。

 

さらに高島は、江藤新平が”打ち首獄門”になると占いました。

 

しかし、江藤新平が司法卿の時、士族には打ち首獄門は適用されない、と刑法で決めましたので、この高島の占いは間違えである、と江藤新平は指摘しました。

 

高島がいくら説得しても、江東の意思は硬く、佐賀に行ってしまいました。

 

明治7年(1874年)2月、江藤新平・島義勇らをリーダーとして、佐賀の旧士族たちが蜂起。(佐賀の乱)

 

まもなく政府から派遣された軍隊により鎮圧。

 

江藤新平は、鹿児島に逃走して、征韓論に破れて下野していた西郷隆盛に決起するように頼みましたが、西郷は動きませんでした。

 

4月13日、江藤新平・島義勇らは斬首刑の後、死体を試し斬りにし、刎ねた首を台に載せて3日間(2晩)見せしめとして晒しものにされました。

 

明治政府は、江藤新平を士族から除籍しての処刑だったので、”打ち首獄門”が適用されたのでした。

 

高島の占いが的中してしまいました。

 

明治38年5月中旬、ロシアのバルチック艦隊がウラジオストクに向けて出航。

 

その航路はインド洋を周り、日本海に向けて北上するというものでした。

 

それを迎え撃つ日本海軍は、次の3つの航路を予測。

 

津軽海峡ルート、宗谷岬ルート、対馬海峡ルート。

 

宗谷岬ルートは、航路距離が長すぎるために予想から外れましたが、津軽海峡ルートと対馬海峡ルートのどちらから日本海に侵入するかは、最後の最後まで予想できませんでした。

 

もっとも航路距離が短い、対馬海峡ルートであろうという予測のもと、連合艦隊は鎮海湾にその主力を集結させて待機。

 

しかし、待てどもバルチック艦隊は現れません。

 

出航した日から計算しても、いい加減に現れても良さそうな時期になっていましたが、全く現れません。

 

秋山少将の緊張状態はピークを迎えていました。

 

「相当の時機まで敵艦を見ない時は、艦隊は随時に移動する」と、東郷平八郎司令長官の相談もせずに、勝手に大本営に打電してしまうほどでした。

 

慌てた大本営は、「なお鎮海湾に留まることを得策とする」と打電。

 

もし、バルチック艦隊がウラジオストクに逃げ込んでしまったならば、日本海軍もウラジオストクに釘付けとなり、戦争は長引く可能性がありました。

 

日本の財政状態はすでに破産寸前。

 

陸軍の予備兵も残っておらず、これ以上、戦争の継続はできない状況でした。

 

したがって、なんとしてでも、北上してくるバルティック艦隊を、日本海に入る手前で撃滅してしまう必要があったのです。

 

そのような時、伊東博文は横浜高島台の高島嘉右衛門の元を訪れました。

 

高島の占いでは、ロシア艦隊は足手まといを受けて、予定より到着が遅れていると出ました。

 

日本海軍は、バルティック艦隊の主力艦の速力で計算していたのですが、そのほかは石炭船なので、それらが足手まといとなっていると予想したのです。

 

高島「くれぐれも申し上げますが、あと二日、現在位置から動かれませぬように、閣下からもしかるべきご配慮をお願いしとう存じます」と。

 

連合艦隊はそのまま鎮海湾を動かず。

 

5月27日午前4時45分、哨戒船、信濃丸が敵艦隊を発見。

 

無線はまもなく旗艦「三笠」に伝わり、秋山参謀は、大興奮のまま、大本営へ次の電文を打電。

 

「敵艦見ユトノ警報ニ接シ、連合艦隊ハタダチニ出動、コレヲ撃滅セントス。本日(ホンヒ)天気晴朗ナレドモ波高シ」と。

 

もし、この時、連合艦隊が鎮海湾から津軽海峡に動いてしまっていたら、どうなっていたでしょうか?

 

バルティック艦隊はウラジオストクに入ってしまい、戦争が長期化して、日本海軍は極めて不利な立場になっていたでしょう。

 

そして、戦争を継続するだけの資金がない日本は、国家が破滅していたかもしれません。

 

まさに、連合艦隊が鎮海湾を動くかどうかの判断は、日本にとって国家存亡できるかどうかの重大な判断だったのです。

 

そして、その重大な判断を高島易に委ねた伊東博文。

 

日本の国家存亡の危機は、高島易によって救われたとも言えます。

 

大正6年、秋山少将は、京都の綾部にある宗教団体、大本教本部を訪ね、その指導者の出口王仁三郎と会いました。

 

秋山少将は、出口王仁三郎が主張した大地震の予言を信じ込んでしまい、各方面にその予言の宣伝活動に回りました。

 

しかし、その地震予言は大外れ。

 

秋山少佐は、日本海軍が誇る天才参謀でした。しかし、天才と狂人は紙一重。晩年の秋山少佐は、周囲が首をひねるような言動が目につきました。

 

明治42年10月12日、伊藤博文は高島嘉右衛門を訪問し、伊藤博文の今後を占いました。

 

そこで出た易は、「艮為山(ごんいざん)の三爻」。

 

今は動かずに日本にいた方が良いと、高島嘉右衛門は伊藤博文に、再三に渡って諭しました。

 

高島嘉右衛門からの再三にわたる静止を振り切って、伊藤博文は、ロシアの蔵相ココフツェフと満州問題について話し合うために、ハルビンに向かいました。

 

伊藤博文一行は、18日に大連に到着し、20日に旅順の戦跡を訪れ、10月26日にハルピンに到着。

 

伊藤博文とロシアの蔵相ココフツェフは、特別列車の中で挨拶し、その後、歓迎式に移りました。

 

二人揃って駅のホームに降りて、ロシアの守備隊を閲兵し、各国領事団の列に近づいて握手をかわし、日本人歓迎者のほうへ向かって数歩進んだ、その時。

 

6発の銃声が鳴り響き、伊藤博文はその場に倒れました。

 

担架で列車の中に運ばれ、救急治療を受けながら、伊藤は警備兵に尋ねました。

 

伊藤「撃ったのは何という男だ…」

警備兵「名前はまだ分かりませんが、朝鮮人のようです。」

伊藤「馬鹿なやつじゃ…」

 

この言葉の数十分後、伊藤は息を引き取りました。

 

朝鮮の併合に反対していた伊藤博文。

 

伊藤が、反日朝鮮人のテロリストに暗殺されたことにより、その後まもなく、日韓併合が実現してしまいました。

 

もし、伊藤が高島嘉右衛門の説得を聞いて、ハルビンに行かずに日本に止まっていたら、どうなっていたでしょうか?

 

朝鮮は、日本に併合されることなく、日本の保護国のまま、日本からの投資により近代化して行ったことでしょう。

 

そして、朝鮮の真の独立は、日本のバックアップにより実現して行ったことでしょう。

 

また、日本にとっても、朝鮮を日本(内地)と同等(鮮内一体)として扱う必要がなくなり、莫大な予算を組んでまでして、朝鮮を日本(内地)と同等にまで引き上げるための投資をすることもなかったでしょう。

 

それは伊藤博文が、生前主張していたことです。

 

「朝鮮人と日本人は、別々の民族でありそれぞれ長い歴史がある。よって両民族が一体となり同化することは難しい。

 

それより、朝鮮が真の独立国家としてやっていけるようになるまで、しばらく日本の保護国とし、朝鮮の近代化を日本が主導していき、やがて、朝鮮が真の独立国として国家運営できるようになった時、手離すようにした方が良い」と。

 

例えていうと、親(日本)が子供(朝鮮)の成長を見守りサポートしていき、やがて、時期が来たら、子供(朝鮮)は親慣れして独立して行くのを、親(日本)が手助けする、ようにです。

 

しかし、伊藤が反日朝鮮人のテロリストにより暗殺されてしまったことにより、伊藤の朝鮮への思いとは関係なく、朝鮮は、日本の保護国から日韓併合へと流れが変わってしまいました。

 

伊藤博文の最後の言葉、「馬鹿なやつじゃ…」

 

伊藤博文は、朝鮮人テロリストによって、自分の命が奪われたことへの恨みはなかったのでしょう。

 

そんなことより、朝鮮人自らの手で、日韓併合への道を推し進めてしまったことへの嘆きの言葉だったのでしょう。

 

なぜなら、伊藤博文は、自分が朝鮮人テロリストによって暗殺されることで、日韓併合が実現してしまうことをわかっていたからです。

 

そんな伊藤博文の思いなど知る由もない韓国では、伊藤博文を葬ったテロリストを、国家的英雄として賞賛しています。

 

「当たるも八卦、当たらぬも八卦。」

 

あなたは、易経を信じますか?、それともバカにして信じませんか?

 

どちらの人でも、宇宙法則という目に見えない何かの力によって、人の運命や様々な事象が起きる、ということは、なんとなく感じている人が多いのではないでしょうか?

 

お正月に神社に初詣に行く人、家を建てる時に神主に来てもらい地鎮祭をする人、子供が7歳5歳3歳の時に、神社に行ってお祓いをしてもらう人。

 

あなたも神社に一度や2度は行ったことあるのではないでしょうか?

 

神社と易経は直接関連ないかもしれませんが、目に見えない何かを信じているという点では共通点があります。

 

日本の近代化にたくさんの功績を残した高島嘉右衛門。

 

中でも彼の残した「高島易経」は、今でも多くの人々に影響を与えています。

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「朝鮮、韓国は、日帝の被害者である。このことを理解してほしい。」と、韓国政府は、繰り返し日本政府に主張しています。

 

しかし、日韓併合時代、朝鮮半島の電力供給の増強と工業化を実現するために、人生を捧げた多くの日本人たちがいました。

 

その中心的な役割を演じた人物の一人が、野口遵(したがう)(通称名(じゅん))でした。

 

彼は、東大を卒業後、独シーメンス社に勤務しますが、10年後に退職。

 

その後、カーバイド(炭化カルシウム)と窒素の化合物である石灰窒素(せっかいちっそ)を使ってチッソ肥料を作る特許を、ドイツ人のフランク博士とカロー博士から買い取りました。

 

当時、この特許を狙って、古河財閥から原敬(後の総理大臣)、三井物産から益田孝が交渉担当者として、パリにきていました。

 

野口遵は、独シーメンス社に勤めていたころの人脈を生かして、フランク博士とカロー博士を紹介してもらい、特許を買い取ることに成功。

 

2つの大財閥を抑えての成果でした。

 

明治41年(1908年)、野口は、熊本県窒素に、日本窒素肥料株式会社(日窒)(現・チッソ)を創業。

 

しかし、当時はまだ、糞尿などの有機肥料が主体で、化学肥料を使う農家はありませんでしたので、経営は厳しいものでした。

 

大正3年(1914年)7月、第一次世界大戦勃発。

 

戦争が起きると、爆薬の原料となる硫化アンモニア(硫安)やチリ硝石などの需要が急増。

 

日窒には、これらを作る技術があったので、軍需特需に湧きました。

 

大正10年(1921年)、イタリア人のカザレー博士から、アンモニアの新しい製造方法の特許を買取り、 宮崎県の延岡でアンモニア製造を開始していきました。

 

大正15年(1926年)1月、朝鮮半島の開発のために日本海を渡り、朝鮮水電と朝鮮窒素肥料を設立。

 

鴨緑江(おうりょくこう)の上流の川である、赴戦江と長津江を堰き止めて人工湖にして、水道を引いて太白山脈を通って落差の大きい日本海側に落として発電をしました。

 

昭和2年、工事中のダムが大洪水に見舞われ、甚大な被害だ出ました。工事計画が頓挫する危機に見舞われましたが、野口自身が現場にで出て陣頭指揮をとり、危機を乗り越えていきました。

 

昭和4年(1929年)10月、赴戦江ダムが竣工。20万キロワットの発電が可能となりました。

 

翌年、第二、第三の発電機が完成して、40万キロワットの発電量を誇りました。

 

この開発によって得た豊富な電力を利用して、窒素肥料を中心とした多くの化学プラント工業を建設していきました。

 

咸興の南にある名もない漁村に、当時世界第二位の規模を誇った窒素肥料、火薬マグネシウム、レンガ工場などを建設。

 

さらに冬場でも温水で給水できる近代的な社宅を建設して、18万人の人々が暮らす、工業都市を建設したのでした。

 

発電した水は、ダムの下流に1万数千町歩にも登る広大な新田を開墾することができ、また、興南工業用水としても活用されました。

 

しかし、順調に見えた野口の事業ですが、大きな危機が襲います。

 

昭和5年(1930年)、昭和恐慌に伴い、硫安が大暴落。

 

また、完成したダムの貯水量が、干ばつの影響で下がってしまい、最大20万キロワットの電力量が、わずか8万キロワットしか出せませんでした。

 

日窒のメインバンクの三菱銀行も融資に慎重になり、資金難で倒産の危機に。

 

昭和6年(1931年)9月18日、奉天郊外の柳条湖で、関東軍が南満州鉄道の線路を爆破(満州事変)。

 

これをきっかけとして、関東軍がわずか5ヶ月で満州全土を制圧。

 

この満州事変に伴い、野口遵の日窒が生き返りました。

 

なぜなら、戦争が起きると、爆薬の原料となる硫安やチリ硝石が必要になるからです。

 

また倒産の危機にあった野口を協力する人が現れました。

 

当時の朝鮮総督、宇垣一重。

 

宇垣一重は、朝鮮銀行からの融資を後押しして、野口遵をバックアップしていきました。

 

なぜ、宇垣一重は、野口遵に協力しようとしたのでしょうか?

 

朝鮮の電力事業と工業化政策を進めていた宇垣一重は、満州国と共に鴨緑江開発計画を、積極的に推進していこうとしました。

 

そこで、その建設計画を実行していくために、野口遵を必要としていたのです。

 

昭和9年(1934年)、朝鮮送電を設立。

 

昭和11年(1936年)8月、宇垣一重の後任に、南次郎が朝鮮総統となりました。

 

昭和11年(1936年)10月、朝鮮で日本、満州国、朝鮮、関東軍、満鉄から50人の財界人が集まり、「朝鮮産業経 済調査会 」が開催されました。

 

この会議で、朝鮮半島の工業化についての議論がされました。

 

鴨緑江開発 は 「鮮満一如」の象徴として 計画されていきました。

 

「鮮満一如」とは、朝鮮と満州は一体であり同一であるというスローガン。

 

それに伴い、「日満一体」というスローガンも掲げられました。

 

「日満一体」とはその字の通り、日本と満州とは一体であるという意味。

 

昭和11年(1936年)12月、 「鴨緑江 ・図們江架橋に関する協定」が朝鮮総督府と満州国の間で調印。

 

この協定は、今後7年間で鴨緑江と図們江に14の橋を架設するという壮大な計画でした。

 

昭和12年(1937年)1月、朝鮮総督府と満州国との間で「鮮満鴨緑江 共同技術委員会 」設置に関する覚書が調印。

 

昭和12年(1937年)4月、南朝鮮総督は、 新たな朝鮮統治の方針と して 、「国体明徴」、「鮮満一如」、「教学作振 」、「農工併進 」、「庶政刷新 」の 「五大政綱」を発表しました。

 

鴨緑江、豆満江の流域 一帯は 、中国共産党が指導する抗日武装闘争の一大拠点でした 。

 

昭和11年(1936年)、中国共産党の指導の元、東北抗日聯軍が組織され、同年5月、金日成が、鴨緑江上流の長白県に根拠地として「在満韓人祖国光復会」を設立。

 

抗日パルチザン活動を活発に展開していきました。

 

昭和12年(1937年)6月、金日成率いるパルチザンの約90名は、鴨緑江上流の甲山郡普天堡の駐在所や官庁を襲撃。

 

水豊ダムの工事現場では、憲兵隊や警察が厳戒体制を敷いて、鴨緑江両岸にわたる大量の労働者を監督し、抗日独立運動家が作業現場に流入することを警戒しました。

 

水豊ダムの建設には、野口遵の後押しにより、間組 、西松組 、松本組が受注。

 

昭和12年(1937年)7月7日、盧溝橋にて日本軍と中国国民党軍が衝突。(支那事変)。

 

昭和12年(1937年)8月、鴨緑江水電を設立。

 

同年8月13日、上海にて日本海軍陸戦隊と国民党軍が軍事衝突(第二次上海事変)

 

そんな戦時色の強まっていった時期、同年10月から朝鮮総督府と満州国の援助の元、水豊ダムの建設が着手されました。

 

鴨緑江水電は、この水豊ダムの発電機を、芝浦製作所と電業社原動機製造所(現、東芝)に発注しました。

 

この発注した水車の規格は、落差82m、単機容量が105,000kWという、世界最大規模。

 

当時の世界最大容量機は、米国のボルダーダム発電所の85,000kWだったので、それをはるかに凌ぐものでした。

 

昭和16年(1941年)9月、一部の発電を開始。発電記念式が行われました。

 

昭和19年(1944年)3月、水豊ダムが水豊水力発電所(発電能力:60万 kW)と共に竣工。

 

この水豊ダムは、当時世界最大級の発電量を誇るダムでした。

 

昭和25年6月から始まった朝鮮戦争の時、この水豊ダムは、米軍機により何度もミサイル爆撃を受けましたが、ビクともせず、結局、米軍は水豊ダムの破壊を諦めました。

 

当時の日本の土木技術が、いかに優れていたかが伺えます。

 

日本統治が本格的に始まるまでの朝鮮半島の産業は、ほとんどが農業でした。

 

それが、日本統治時代、朝鮮北部を中心に大規模なダムを建設していき、その豊富な電力を背景にして、重化学工業コンビナートを建設していきました。

 

その一方、南朝鮮(現、韓国)は、従来からの農業が中心でした。

 

その結果、朝鮮半島の電力の80%は北朝鮮に、残りの20%は南朝鮮でまかなっていました。

 

当時の朝鮮総督府は、朝鮮半島が南北に分断統治されることを想定していなかったので、北と南で産業の住み分けをしていました。

 

これは、朝鮮北部が豊富な水資源に恵まれていたために、そこに、巨大なダム建設を集中していったためです。

 

このように精力的に朝鮮の工業開発のために、身を粉にして奉仕してきた野口遵ですが、無理がたたり、昭和15年(1940年)2月、京城(ソウル)にて脳溢血に倒れてしまいました。

 

一命は取り止め回復しました、半身不随となり無理はできない体となりました。

 

野口遵は、側近をベッドの枕元に呼び、次のように言いました。

 

「古い考えかもしれんが、報徳とか報恩ということが、おれの最終の目的だよ。そこでおれに一つの考えがある。

 

自分は結局、化学工業で今日を成したのだから、化学方面に財産を寄付したい。それと、朝鮮で成功したから、朝鮮の奨学資金のようなものに役立てたい」と。

 

昭和16年(1941年)当時、直系会社だけでも 30社,資本金総額 3億5000万円の大コンツェルン(財閥)を形成していた野口遵。

 

昭和16年(1941年)、野口遵は、その全財産を投じて、科学振興のため「財団法人野口化学研究所」を作り、そこに2500万円を寄付。

 

また、朝鮮半島学生の育英のため、それまであった「朝鮮教育会奨学部」を発展解消して「財団法人朝鮮奨学会」を作り、その基金として、500万円を朝鮮総督府に寄付しました。

 

昭和19年(1944年)1月15日、病死。享年72歳。

 

終戦後も、「財団法人朝鮮奨学会」は残り、いまも朝鮮総連(北朝鮮)と民団(韓国)の理事が3名ずつ、日本人理事3名と共に仕事をしています。

 

また、南北朝鮮、日本政府からの援助を一切受けず、自主財源で運営していて、これまでに、4万人近い奨学生を送り出しました。

 

水豊ダムは、現在の北朝鮮でも稼働しており、貴重な電力供給源となっています。

 

戦後の北朝鮮、韓国で、野口遵について学校で学ぶことはありませんので、野口遵が起こした業績を知る朝鮮人、韓国人もほとんどいないでしょう。

 

「朝鮮人、韓国人は、日帝の被害者である。このことを理解してほしい。」と、韓国政府は、繰り返し日本政府に主張しています。

 

「朝鮮人、韓国人は、日帝のおかげで発展できたのである。感謝しろとは言わないが、このことを理解してほしい。」と、日本政府は韓国政府に主張してほしいです。

 

 

終戦後の韓国で、「日本人は韓国から出て行け!」と怒鳴られながら、家を好き勝手に破壊されたのにもかかわらず、韓国人孤児百三十三人を育て上げた日本人がいます。

 

彼女の母、望月カズ。

 

なぜ、望月カズは、そこまでして韓国人孤児を育てようとしたのでしょうか?

 

昭和6年(1931年)の夏、カズが4歳の時に母親と2人で満州国に移住しました。いとこの辻大尉に勧められての満州への移住でした。

 

カズの父親は、満州国に仕事に行ったきり行方不明。幼いカズには父親の記憶はありませんでした。

 

東京の高円寺で生活していた家も家財道具も全て処分して、背水の陣で移住した満州。

 

辻大尉が用意してくれた家に住み始めました。その家には、中国人と朝鮮人の二人の使用人がいました。

 

2年後の昭和8年(1933年)の冬、辻大尉が人事異動で満州から離れることが決まり、しばらくして、母の近衛(ちかえ)が突然亡くなってしまいました。

 

二人の使用人は、それまで従順に家の仕事をしていたのですが、母の近衛(ちかえ)の遺体を郊外の土地に埋めると、毛皮の服や、宝石、貯金など、近衛(ちかえ)の財産全てを奪って逃げてしまいました。

 

しかも、幼い6歳のカズを中国人の農家に、農奴として売り飛ばして。

 

カズの母、近衛(ちかえ)の死因は、毒殺ともいわれていますが原因は不明のまま。しかし、近衛(ちかえ)の死んだあとの二人の使用人の行動を見れば、それは容易に予想つきます。

 

6歳のカズは、お母さんと共に、来年の春に小学校に入学するのを楽しみにしていましたが、突然、母を亡くし、財産も全て奪われてしまいました。

 

そして、奴隷(農奴)として、一年中、同じ下着一枚で生活することに。

 

他の農家に転売され、アヘン窟でも働かされました。

 

中国人農家では、日本語で話すことを一切禁止されてしまい、うっかり日本語で話すと激しく殴られました。

 

そんな生活の中、カズはお母さんから教わった自分の名前「カズ」と母の名前「近衛(かずえ)」、そして「日本」と「富士山」と「日の丸」と生まれ育った町「高円寺」という単語を、寝る前に忘れないように必ず暗唱してから寝ました。

 

そして、お母さんから教わった「ふるさと」など日本の童謡を、人に聞こえないように歌って、寂しさをまぎわらしました。

 

かずは、何度も家を飛び出して脱走を計ったのですが、その度に家の主人に連れ戻されてしまいました。

 

しかし、カズは、脱走を諦めませんでした。

 

ついに、昭和13年(1938年)の冬、脱走に成功。(カズ11歳)

 

真冬の雪深い中を歩き続けて、満州鉄道を守備している日本の憲兵隊に助けられました。

 

カズは、それまでの事情を説明すると、そのまま憲兵隊の兵舎で生活することを許されました。

 

カズは、そこに駐屯している兵隊さんから、読み書きや計算など基礎的なことを教わりました。

 

小学校に入学する直前に、突然の母の死により人生が急落していったカズですが、優しい日本の兵隊さんたちによって、何とか人間らしい生活ができるようになって行きました。

 

その憲兵隊の兵舎に15歳まで過ごしましたが、牡丹江に住む日本人の家庭にお手伝いとして働くことになりました。

 

そこで、永松晃(あきら)氏に出会います。

 

カズは、母が亡くなってからは身寄りがなく天涯孤独。満州の地で行きていくには日本人としての証明書が必要でした。

 

もともと日本で生まれ育ったカズでしたが、母の死後、満州人の農奴として奴隷生活を送っていたので、日本人として証明するものがなかったのです。

 

そこで、永松晃(あきら)氏がカズを養子として引き取りました。

 

これで、永松カズとして日本国籍が取得できました。

 

やがて、永松にも召集令状が届き戦地へ。

 

残されたカズは、永松家に残ることを選ばずに、一人、大連に働きに出かけました。

 

大連の生命保険会社に勤めていた時、勧誘のために時々立ち寄っていた理髪店で、お手伝いをするようになりました。

 

昭和20年8月15日、終戦。

 

その終戦の直前に日本に戻っていたカズでしたが、生まれ故郷の高円寺に行っても、焼け野原。

 

自分が4歳まで住んでいた場所の記憶も定かではなく、なんの手がかりも得られませんでした。

 

次に、養子になった永松の故郷である福岡に行きましたが、同じように焼け野原。無駄足でした。

 

どこにも身寄りのないカズ。

 

仕方がないので、かつて2年間、母と過ごした満州の地に行こうと決めました。

 

そして、その満州にある母の墓前で死ぬつもりで。

 

しかし、占領下の日本から海外に出ることは難しい時代。

 

在日韓国人に密航を頼み、なんとか朝鮮半島の釜山港に渡りました。

 

やっとのことで釜山港に渡りましたが、終戦後の朝鮮は、38度戦を隔ててソ連軍と米軍による軍政が敷かれていたので、38度戦を超えることはできませんでした。

 

仕方なくソウルにて、タバコを売ったり、屋台でうどんを売ったりして日銭暮らしを始めました。

 

そんなある日曜日のこと、昭和25年(1950年)6月25日、北朝鮮の機甲師団(戦車隊)が怒涛のごとく38度線を突破。

 

ソウル市内は、たちまち戦場と化しました。

 

カズは屋台を裏通りに隠して、身を隠していましたが、皆が逃げる漢江(はんがん)に向かいました。

 

途中、ある女性が撃たれて目の前で倒れました。その女性の胸には幼い赤ん坊が泣いていました。

 

母親は撃たれて息を引き取っても、胸に抱いた赤ん坊はまだ生きていました。

 

まるで、自分の体を犠牲にして赤ん坊を守るように。

 

カズは、思わず目の前で泣いている赤ん坊を手に取り、一緒に逃げました。

 

しばらくして、空き家が見つかりそこで手に抱いていた赤ん坊をそっと寝かしつけました。

 

翌朝、カズは、その赤ん坊を置いて出て行こうとしました。自分が生き延びるのに精一杯なので、とてもこの赤ん坊の面倒まで見れないと思ったからです。

 

しかし、立ち去ろうとしたその時、赤ん坊が目を覚まし、ニッコリ笑顔でかずの顔を見ました。

 

その笑顔を見た次の瞬間、カズはその赤ん坊を抱きかかえていました。

 

それは、カズがまだ6歳の時に、母と死に別れてしまい、孤児となってしまった時のことを思い出したからです。

 

この子も母親を亡くした孤児。私と一緒。そうだ、私がこの子の母親となり、面倒を見よう、と。

 

この時、カズ23歳。

 

翌年の昭和26年(1951年)1月、ソウルを抜け出して釜山に向かいました。

 

カズは、釜山に南下する途中の道端で、多くの戦争孤児たちを引き取っていきました。

 

釜山につくと、拾ってきたトタンなどで、バラック小屋を建てて暮らし始めました。食料は、近くの市場などから拾ってきた野菜クズなど。

 

しばらくして、釜山港で荷揚げなどの仕事を始めましたが、賃金が決まっているので、たくさんの孤児を養うにはお金が足りません。

 

そこで思いついたのが、青空床屋。

 

昔、大連で保険の外交員をしていた時代、あるお客さんの床屋で手伝いをしていたことがあったので、散髪技術はありました。

 

孤児たちも次第に増えてきました。カズは孤児たちの衣食住を賄うばかりでなく学校にも行かせました。

 

それは、カズが6歳の時に、もうすぐ小学校に行けると、母と共に胸をワクワクさせていた矢先、まさかの奴隷生活。

 

こんな辛く悲しい思いを、この子たちにはさせたくないと思ったからでしょう。

 

カズは、子供達にいつも次のようなことを言い聞かせていました。

 

いつも笑顔を忘れない。

絶対にひねくれたりしない。

 

何にも負けない強靭な精神を養う。

どんな境遇になっても、生き抜く力を身につける。

 

どんなに厳しい身の上であっても、人として大切なものを失ってはいけないよ。

 

転んでも転んでも、ダルマさんのように何度でも立ち上がりなさい、と。

 

またカズは、子供達に「ふるさと」など日本の童謡を歌って聞かせました。

 

童謡を歌うことで、親にない孤児たちの寂しさを、少しでもまぎらわしてあげようと思ったからです。

 

それは、カズ自身が6歳から11歳まで、中国人の農家の奴隷だった時、お母さんから教わった日本の童謡を歌って過ごしていたからです。

 

5月5日の端午の節句には、鯉のぼりも掲げました。

 

それは、子供たちが、たくましく立派に成長することを祈って。

 

昭和28年(1953年)7月27日、朝鮮戦争が休戦。

 

翌年の昭和29年(1954年)春、カズは釜山からソウルに引っ越すことにしました。

 

ソウルに引っ越すとバラック小屋を建てて、青空床屋を開きました。

 

そして、しばらくして、パゴタ公園の裏手にある土地を手に入れて理髪店を開くことにしました。

 

ある時、警察に連行されてしまいました。北朝鮮のスパイ容疑でです。

 

その時、カズを救ってくれたのは、子供達でした。夜、なかなか帰ってこないカズを心配して、子供達は警察の前まで行きました。

 

そこで、夜中ずっと「お母さん(オンマ)を返せ、お母さん(オンマ)を返せ」、と子供達は叫び続けました。

 

それは、冬の寒い時期でした。

 

警察はこの事態に驚いて、カズを釈放しました。

 

この事件は新聞記事にもなりました。

 

また、カズは理容師としての資格を持っていませんでした。日本人であるために、韓国で理髪師の試験を受験することができなかったからです。

 

しかし、孤児をたくさん育てているカズのことを知った、朴正煕ソウル市長の計らいで、特別にカズに受験資格が与えられました。

 

昭和38年(1963年)、無事、理髪師試験に合格することができました。

 

地元の新聞は、カズのことを「愛の理髪師」して紹介しました。

 

こうして、正式な床屋としての再出発後も、必要な生活費を稼ぐにはなかなか厳しく、カズ自身の血を売って生活の足しにしていました。

 

当時は、売血でお金がもらえたのです。

 

昭和39年(1964年)11月、ソウル市から名誉市民賞を受賞。

 

昭和40年(1965年)12月、日韓基本条約締結。

 

昭和42年(1967年)8月15日、韓国政府は日本人に「光復章」を授与。

 

昭和43年のある日、カズと子供達が生活していた家が破壊されてしまいました。

 

しかし、そこで韓国人の嫌がらせにあいました。

 

「日本人は韓国から出て行け!」と怒鳴りながら、小屋を破壊されてしまったのです。

 

カズは思いました。自分が日本人であるからいけないんだ。私のような日本人は生きていても仕方がない、と。

 

気がついたら、青酸カリを手にしていました。

 

病院に搬送されて緊急入院。

 

一命はとりとめて、無事退院。

 

昭和46年(1971年)、韓国の朴大統領は、名誉勲章・冬柏章をカズに授与しました。

 

この授賞式に出席したカズは、下駄ばきにモンペ姿という格好でした。

 

驚いた職員から、靴に履き替えるようにと指導されますが、「この他のものは持ってません。これでダメなら帰ります。」とカズは言い張り、下駄履き、モンペ姿のまま、大統領府にて受賞しました。

 

しかし、華やかな受賞とは裏腹にカズの体は無理がたたり、何度も倒れました。

 

カズは孤児たちが自立できるようにと、理容美容専門学校を作ろうと思いました。

 

日韓の支援者も集まり、昭和54年9月に上棟式が行われて、建築工事が始まろうとしていた矢先。

 

昭和54年10月、朴大統領暗殺。

 

これにより、理容美容専門学校の工事は延期されてしまいました。

 

昭和58(1983)年11月12日、カズは、ソウル市内の自宅で脳溢血のため亡くなりました。享年56歳。

 

孤児たちのための理容専門学校の開校を夢見て。

 

カズの遺体は、ソウル市郊外の一山公園墓地に葬られました。

 

カズは、生前「死ぬときは母国の土の上で死にたい。死んだら富士山の見える所に眠らせてください」と語っていたので、支援者は、カズの遺骨を分骨して日本に持ち帰りました。

 

昭和60年(1985年)4月、静岡県富士市松岡にある瑞林寺にて、日韓両国150人の関係者が立ち会いのもと、分骨式が執り行われました。

 

望月カズ氏の葬儀で、孤児の一人が次の手紙を読み上げました。

 

「お母さん(オンマ)への手紙」

 

「多くの子女を、

人に後ろ指をさされない人物に育てるために、

 

お母さん(オンマ)が血を売り、

人の捨てた葉っぱやじゃがいもの粥を食べながら

学問を継続せねばならなかった。

お母さん(オンマ)は、私たちを温室の花のようには育てず、いかなる暴風雨にも耐えうる、

根の深い木に成長させようとされた。」と。

 

参考図書

 

「この子らを見捨てられない」永松かず著1965年

映画「愛は国境を越えて」

「朝鮮を愛し朝鮮に愛された日本人」江宮隆之著

 

 

日韓併合当時、朝鮮人から足に銃弾を受けて重傷を負うも、朝鮮を豊かにするために人生を捧げた日本人がいました。

彼の名前は、重松髜修(まさなお)。

彼は一体、なぜそこまでして朝鮮人を豊かにするために尽力したのでしょうか?
 

明治45年4月、東洋協会専門学校(現、拓殖大学)に入り、朝鮮語科にて学びました。

 

重松は、「日韓併合によって同じ日本になった朝鮮を、立派な国にしたい。手を取り合って豊かな国土にしたい」という思いで、朝鮮語科に学びました。

 

大正4年(1915年)3月、東洋協会専門学校を卒業。朝鮮総督府の土地調査局に入り、済州島に赴任しました。

 

ここでは地籍などの作成が主な仕事で、直接朝鮮人と触れ合うことはあまりありませんでした。

 

そのような時期に、学校の先輩がたくさんいる地方金融組合の理事に誘われました。

 

大正7年(1918年)1月、陽徳金融組合に理事として赴任。

 

翌年の大正8年(1919年)3月1日、京城(ソウル)で学生や労働者たちが独立宣言を読み上げて、独立万歳、万歳と叫びながらデモ行進が発生。(万歳事件、3・1独立運動)

 

そのうねりが、重松が赴任した陽徳にも押し寄せてきました。

 

暴徒化した朝鮮人たちが、金融組合の事務所に乱入。憲兵と銃撃戦となり、重松の右太ももを貫通。

 

重傷を負いましたが、奇跡的に命は取り止めました。しかし、右足は元のようには行かず、松葉つえをついて歩くことに。

 

回復した後、平壌の金融組合に転勤となりますが、地方勤務の希望を出し、大正14年7月、江東金融組合に赴任。

 

そこでの朝鮮人の農村の貧しい実情をみて、なんとか生活を豊かにさせてあげたい、という思いを持ちました。

 

そこで、副業で養鶏をすることを提案して行きました。

 

しかし、養鶏はすでにどの農家でもやっていたので、周りの人は反対でした。ただ、養鶏といっても多くて鶏10羽、年間の卵も80個程度でしかなく、卵も鶏肉も売るのではなく、ほぼ自分たちで食べるという状況でした。

このような状況では、養鶏でお金が稼げる、という発想はなかったのです。

それでも、重松はこの養鶏を副業として普及させていくことに、希望を持ちました。

まず、豚、鶏の産卵や飼育の研究をする場所である、公立の種禽(しゅきん)場にいって、養鶏のいろはを学びました。

重松は、自分でとうもろこしを石臼で挽いて、粉状にしたものを鶏の餌にして与えました。

 

下里という50戸ほどの部落がありました。そこは両班の家柄、伝統を色濃く伝えている部落でした。両班だからと言って必ずしも皆、裕福という訳ではないのですが、生活スタイルは昔ながらでした。

 

両班の生活スタイルは、長キセルを吸いながら、一日をのんびりと過ごすというもので、労働というものを決してしません。

 

労働をする人を軽蔑しているのです。

 

貧乏になってもその生活スタイルを頑なに守っていました。

 

そのような部落に重松は目をつけました。両班の人たちに養鶏事業を理解してもらい、模範的な養鶏部落にしようと思ったのです。

 

大正14年11月、重松は、両班の部落に行くと、日本人が来たといって、嘲笑いして侮辱の眼差しで見られました。

 

そんな中、重松は、その部落の長老の家に行き、集まった近くの集落の人たちに次のような説明をしました。

 

「在来の鶏を処分して、卵を多く産む改良種に変えます。この改良種の卵は大きい。

 

産んだ卵は共同販売して、売り上げた代金はそのまま据置貯金にします。30円貯まれば牛が買える。卵から牛。豚も買えるし土地も買える。

 

まずは各家に白色のレグホンの有精卵を、無償で15個づつ配布します。」と。

 

重松の説明を聞いて、村人は反論しました。

 

「タダでやるといってもあとで金を取りに来るのだろう」

「卵を300も産む鶏がいるものか。ハッタリめ」

 

「白色の鶏は神様のものだ。そんなものを食えばバチが当たる」

「今までの鶏で何が悪い?」

 

「鶏の卵を売って、牛や土地が買えるなんて、そんなことがあり得るはずがない」

「うちは誇りある両班の家柄だ。卵で貯金などやれるもんかね」

 

両班(やんばん)という特権階級の無理解と気位の高い冷たい仕打ちに、重松も返す言葉もなく退散しました。

 

重松は、同行した書記の李に次のように語りました。

 

「これから度々部落の人と接触して、誠意を披露して部落の人たちの心臓に触れ、誠の愛の手で”更生”への道に魂を蘇らすより外に方法がありません。」と。

 

長い間、特権階級の中で安住して来た両班(やんばん)の人たちの”更生”の手段としても、この養鶏事業を成功させたかったのです。

 

その後も懲りずに、重松は何度もその嘲笑いされた両班(やんばん)の部落に通いつめました。

 

大正15年2月、鶏が抱卵し始めました。重松は妻と一緒に鶏の世話に忙しい日々を送ることとなりました。

 

重松は、朝鮮での養鶏事業について次のように語りました。

 

「所詮、事業は愛の具現化であり、愛の実行である。愛が事業を産み、事業が同士を求めるのだ。

 

我々は事業がないと悲しむよりも、仕事を生み出す愛の足りないことを嘆くべきだと思った。

 

また、我々は短い人生に尊い使命を課せられて生きているのであるから、”同胞相愛”の為に、敢然立たねばならぬと思った。」と。(「朝鮮農村物語」重松髜修著)

 

”同胞相愛”。

 

これは朝鮮人と日本人のことです。

 

サイドビジネスで養鶏を勧める為の「養鶏貯金のすすめ」というパンフレットをハングル文字で作りました。

 

そこには次のように解説してあります。

「今、改良種を10羽飼えば、1日平均5個の卵を産みます。これを毎日、江東金融組合に預ければ、10年目には3500円になります。

 

10羽飼うのに必要な土地は2坪で十分です。安い黍がらで作った棚飼いにしたら、1年で百貫(約400キロ)の糞が肥料となります。

 

みなさん、農家が豊かになるには、どうでも副業養鶏から始めなければなりません」と。

 

3500円は、今の貨幣価値に換算すると約1000万円。

10年で1000万円という金額は、貧しい農村では信じられない金額でした。

 

なんども両班の部落に通いつめた重松ですが、次第に、村人の中で理解者が現れて来て、重松に考えに同調する人が増えて来ました。

 

そして、大正15年4月1日、江東金融組合と両班の下里部落との間で、養鶏模範部落規約が結ばれました。

 

その規約の中で、「卵の売却代金の10分の1以上を組合に貯金する」とありましたが、重松は原則、売上の全額を貯金するように指導しました。

 

また、理由もなく途中で引き出しも認めませんでした。

 

安易に目先のお小遣いとして引き出してしまうと、いつまでたっても目標の貯金額を貯めることができなくなります。

 

そして、牛や土地を買うこともできなくなり、貧乏な農民暮らしから抜け出すことができなくなってしまうからです。

 

もともと、重松の提唱した副業養鶏事業は、朝鮮人を貧しい農民から脱却させてあげたい、という愛そのものでした。

 

愛だからこそ、売上の全額を貯金することや、安易に引出しを認めない、という態度を貫いたのです。

 

養鶏部落規約には、「農村経済の発達を図り、”共同一致勤倹貯蓄の美風”を要請し」とありました。

 

”共同一致勤倹貯蓄の美風”とは、金融組合の精神でもありました。

 

そして、学校に通う子供たちにもこの養鶏事業の手伝いをしてもらおうと考えました。(学童養鶏)

 

そうすれば、勤労思想、貯蓄思想を学んでもらい、学童貯金もできると考えたのです。

 

それまでの学童貯金というのは、名義が子供というだけの、事実上の親の貯金でした。

 

重松は、養鶏事業を立ち上げるのに、個人的なお金1000円以上を使っていました。

 

当時の1000円は、当時、フォード社の1トントラックが1400円前後でしたので、今の貨幣価値に換算すると、400万円程度でしょうか。

 

地元新聞に、「私財と投じて副業の奨励を計る。養鶏模範部落組合を設置して努力する重松金融組合理事」と題して、重松夫妻のことが記事となりました。

 

「大正14年10月から15年中は、もっぱら種鶏の作出に努力した。

 

金融組合の施設事業となっているが、実際は、重松理事個人がすでに私財1千円以上の犠牲を払って、養鶏数百羽の飼育をなし、

 

養鶏模範部落並びに学童らに配布する種卵のごときももちろん無償で配布したのである。

 

重松夫人のごときは、重松理事の勤務中、氏の百数十羽の種鶏の世話に朝から掛り切りであって、夏季中など陽に焼けて、若き女の身空で真黒くなって重松氏を助けながらよく今日に及んだものである。

 

同氏夫妻の燃ゆるような熱と不屈な奉仕の仕事に敬意を表す」と。

(平壌毎日新聞 昭和2年5月13日)

 

昭和3年、下里の全戸で産卵が始ま李、それを孵化させて鶏を増やしていきました。

 

余った卵は、組合に持ってきてもらい市で販売。そこでもさばききれない卵は、重松夫妻の知り合いの家、一軒一軒に売り歩いて行きました。

 

持ってきた卵の代金は、組合にある通帳に記入して行きました。

 

学校に通う朝鮮人の学童は、毎日、組合に寄って卵を届けにきました。

 

次第に卵の量が増えて行き、江東金融組合だけではさばけなくなったので、平壌にある金融組合の連合会本部に、卵の販売を頼むようになりました。

 

しかし、江東から平壌まで40キロの道のりをどのようにして卵を割らずに無事届けるかが、課題でした。

 

当時はまだ舗装された道路はなく、車もあまり走っていない時代。たまにくるバスに無理にお願いして、卵を乗せてもらっていました。

 

昭和3年10月、重松は、この課題の解決法を見つけるために、愛知県安城町に視察に行きました。

 

安城町は養鶏が盛んな町で、安城高等農林学校もあり、明治36年に最初の養鶏組合もできました。

 

重松は、この安城町で、卵を割らないように工夫された荷造りの仕方の他、進んだ養鶏事業をたくさん学びとり、朝鮮の江東に戻りました。

 

そして、重松は、この視察報告の末尾に次のように書いています。

 

「農村の副業養鶏は、経済的生活の外に農村の慰安であり、農村の娯楽であります。

 

しかもまた、養鶏は自由の生活であり、土の生活であります。自由なるが故に、雛という生命を創作して安んずることができるのであります。

 

この満足は無限であります。」と。

(「金融組合」昭和4年3月、5月号)

 

昭和3年12月、ある夫人が組合にやってきて、30円貯まったので牛を買いたいと言ってきました。

 

とうとう、重松の念願であった、「卵から牛を買う」という実体験者が現れたのです。

 

彼女は養鶏を初めて1年足らず。1年で牛一頭を変えるという現実は、他の朝鮮人農家の目を輝かせました。

 

なぜなら、当時はまだトラクターなど機械がない時代。牛が、田畑を耕作する上で、重要な役割を果たしていました。

 

また、牛が出す糞が大切な肥料となり、自前で肥料を生産することができ、経費削減にも役立ちました。

 

昭和4年2月のある日のこと、副業養鶏をしている人が亡くなりました。その人には保証貸付の80円があり、43円の払込があって、残高37円の借金がありました。

 

また、養鶏貯金には、4円55銭ありました。

 

通常でしたら、土地を売り払って37円の借金を返済するところですが、重松にはそんなことはできませんでした。

 

養鶏貯金の4円55銭を使って子豚を買い、養豚と養鶏で借金を返済して欲しいと提案。

 

約7ヶ月後の10月、その未亡人は、豚の売却代金と養鶏貯金で37円の借金と利息を全て完済しました。

 

「重松理事さんのおかげで、土地を売らずに夫の債務を返済することができました。

 

これからも豚や鶏を飼って貯金をして、子供を学校に活かせるつもりです。」と、なんども何度も、重松にお礼を言って帰って行きました。

 

こうした地道な活動のおかげで、養鶏事業をする朝鮮人たちが増えて行きました。

 

そうすると卵の販路も拡大していかなくてはなりません。

 

平壌にいる金融組合連合会の斎藤理事長は、重松の養鶏事業の良き理解者でしたので、理事長自ら販路の拡大に努力して行きました。

 

平壌のレストランや病院の賄いや病院食、大会社の食堂など。

 

そして、昭和5年春、斎藤理事長と重松は、憲兵隊の紹介で平壌第77連隊に売り込みに行きました。

 

重松は、白石連隊長に次のように説明しました。

 

「朝鮮お農村で生産された野菜や卵を、そうした産業団体から納めてもらえば、軍隊はいながらにして農村振興に役立つわけです」と。

 

その説明を聞いた白石連隊長は、その趣旨に賛同してくれて供給契約が正式に交わされました。

 

 

ある日、小作農をして、副業養鶏もしている人が、養鶏貯金を引き出したいという手紙を、その子供が届けにきました。

 

すでに27円75銭の貯金が貯まっていましたので、牛を買いたいのかと思ったら、その人は医者になるための学費に充てたいということでした。

 

その手紙には次のように書かれていました。

 

「私は理事様の公益を広く施そうという高義に副したいと思います。私は、さる4月10日に平壌医生講習所に入学することを決心しました。その学費捻出のために養鶏貯金を引き出したいと思います。」と。

 

彼は36歳であり、妻と3人の子供がいました。

 

この手紙を読んで重松は、彼の決心は硬いと判断。引き出しを許可しました。

 

しばらくして、彼から感謝の手紙が届きました。

 

「卵を売って牛を買うというのは理事様の徳によるものです。卵を売って学費にできることは、理事様の徳以外の何物でもありません。理事様に感謝します。理事様に感謝します」と。

 

 

半年の勉強の後、試験を受けましたが学科試験は通っても実地試験に落ちてしまいました。さらに半年、病院で働きながら勉強を続けて、2回目の試験で見事合格。

 

彼は、卵から医生となりました。

 

重松も大喜びで手紙を書きました。

 

「自分が貧乏であったので今後は貧乏な人に進んで治療をやってみなさんの厚意に報いたいと思います。

 

伊さんは必ず人のため世のため、大いに働いてくれることと信じております。

 

部落では卵が医生になったとか、鶏が医生を産んだなどと喜んでいます。私は全く嬉しく思います。」と。

 

 

昭和5年10月、江東地区で牛の品評会が開かれました。

それまで江東地区で養鶏貯金して買った牛は、なんと50頭。

 

合計1204円。

 

それまで、牛が必要な時は、お金を払って借りていましたので、自分で牛が買えた喜びは、かけがえのないものでした。

 

昭和6年11月、江東組合で再び牛の品評会が開かれました。この時、購入された牛は235頭になっていました。

 

1年で5倍以上です。

 

この品評会で一等賞を受賞したのは、まだ16歳の尹中燮でした。

 

彼は、普通学校を卵貯金を使って通い、16歳の卒業と同時に卵貯金32円を引き出して、牛を買いました。

 

彼は、受賞者総代の答辞として次のように述べました。

 

「今の農村は世界的不況の影響を受けて、農民は生活のどん底を喘いでいます。

 

また、農村の青年たちは一足の進路を失いたる感があります。

 

しかるに我が江東はこの養鶏施設があって、学びたき人には学費を与え、牛なき小作人には耕牛資金を得させ、病魔に喘いでいる人には薬を飲ませ、

 

また土地なき人には土地を買わせるなどの事実は、生きた教訓として着々我らの目の前に展開しているのであります。

 

また勤労貯蓄の気風は、日々普及して行き、我が農村の更生の道ここにありと強く感じさせるのであります。

 

しかし、我らはこれを持って満足しないで、一層研究練磨を加えて、本趣旨に報いんことを決心するのであります。」と。

 

重松の提唱した養鶏貯金は、江東地区で花開き、多くの朝鮮人の農民たちの生活が、豊かになって行きました。

 

重松に平壌の金融組合への転勤命令が降り、江東を離れることになりました。

 

多くの地元朝鮮人から、平壌に行かないでほしいと引き止められますが、重松夫妻は後ろ髪を引かれながら、引っ越して行きました。

 

昭和20年8月15日、終戦。

 

終戦後の10月中旬、金融組合で残務整理していた重松は、京畿道警察署に呼び出されてそのまま抑留。そして平壌にある西大門刑務所に移送されました。

重松の罪状は、8月15日以降に政府や公共団体の経費を使ったためという理由でした。

38度線から南は、9月9日から米軍による軍政が敷かれており、その軍政庁と朝鮮政府の利益を害したという理由で、それまでの日本人の官僚や有力者たちが、たくさん逮捕されて行きました。

また、日本統治時代に日帝に協力した朝鮮人狩りも、反日朝鮮人たちの手により、すでに始まりました。

西大門刑務所にて重松は、なんども取り調べを受けました。

ある日、たまたま担当した検事が、重松を取り調べをしました。

検事「あなたはどこにいましたか?」
重松「はい、最初は陽徳、次に江東」

検事「あなたは「朝鮮農村物語」をご存知ですか?」
重松「はい、私が書きました」

その検事が隣にいた書記官を部屋から出して、重松と二人になると言いました。

検事「私を覚えていますか?」

その検事は金東順といい、かつて江東地区で卵貯金で学費を稼ぎ、早稲田大学で法律を学んで、朝鮮で警察官になったという人でした。

重松は、この刑務所で47日間拘留された後、釈放。

金東順は、重松に対して相当の恩義を感じていたので、重松の釈放に便宜を計ってくれたのです。

しかし、重松は監視付きでの釈放でした。

妻と幼い子供は、寒い冬の前に日本に帰国した方がいいということになり、11月26日、貨車に乗り釜山港へ。11月30日に無事、博多港につきました。

重松自身は、朝鮮を脱出する機会を伺っていました。しかし監視の目が厳しくなかなか実行に移せないでいました。

そんな中、12月27日、ソ連と米国、英国、中国との外相会談で、今後5年間朝鮮半島を信託統治するという決議が採択されました。

この決議に朝鮮人が猛反発。かつての朝鮮総督府で軍政庁となった場所で、2万人の大集会が開催されたり、朝鮮全土で抗議集会が起こりました。

この時から、朝鮮人たちによる、信託統治に賛成派と反対派の激しい対立が始まったのです。

そして翌年1月3日に、朝鮮全土でゼネストが決行されることとなりました。

ゼネストが決行されるとなると、警察関係も一切動かない日となります。

それはつまり、重松の監視の目が緩む時でした。

金東順は、この日に重松を朝鮮から脱出させるために、手配をしました。

昭和21年1月3日、予定通りゼネストが決行。重松は、金東順の手配によって釜山から日本に向けて無事脱出することができ、1月5日、山口県仙崎港に到着。

 

「朝鮮を立派な国にしたい。朝鮮と日本が共に手を取り合って豊かな国にしたい。」という思いで、東洋協会専門学校にて朝鮮語を学んだ重松。

 

しかし、万歳事件の際、朝鮮人から右足を撃たれて重傷を負ってしまいました。

 

それでも、「朝鮮を立派な国にしたい。朝鮮と日本が共に手を取り合って豊かな国にしたい。」という情熱は薄れませんでした。

 

そして、その重松の思いは、江東地区の農村で実現したのでした。

 

参考図書

「朝鮮で聖者と呼ばれた日本人」田中秀雄著

「朝鮮を愛し、朝鮮に愛された日本人」江宮隆之著

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国際留学生協会より引用

 

 

 

 

 

朝鮮の独立宣言書を書いた独立活動家たちは、親日に変化していきました。彼らはなぜ、親日になっていったのでしょうか?

 

明治43年(1910年)、日韓併合。

大正7年(1918年)1月8日、米国のウィルソン大統領が、アメリカ連邦議会で「十四か条の平和原則」を演説。

その「十四か条の平和原則」の第5条には、植民地問題の公正な措置について書かれており、「民族自決」が提唱されました。

この「民族自決」とは、各民族集団が自らの意志に基づいて、その帰属や政治組織、政治的運命を決定し、他民族や他国家の干渉を認めないとする、集団的権利となります。

この「民族自決」の思想は、朝鮮族など独立国家を持たない民族にとって、大変勇気づけられる思想となりました。

大正7年(1918年)11月11日、第一次世界大戦が終了。

在日朝鮮人たちは、海外のネットワークと連絡を取り合い、独立運動を起こす時期を見計らっていましたが、今がその時と判断。

東京の早稲田大学に留学していた李光洙(りこうしゅ)が、「朝鮮青年独立団宣言書」を作成。

この独立宣言書を日英に翻訳して、日本の貴族院、衆議院の議員たち、政府要人、各国駐日大使、内外言論機関宛に郵送。

大正8年(1919年)2月8日、在日東京朝鮮YMCA(現、在日韓国YMCA)の講堂で「朝鮮留学生学友会総会」を開催。

その集会で、「朝鮮青年独立団」を結成し、独立団代表11名の署名入り独立宣言文が満場一致で採択。
(2・8独立宣言)

独立指導者たち11名は、その場で憲兵により逮捕。

この「朝鮮青年独立団宣言書」は朝鮮にも持ち込まれて、独立指導者たちの間で読まれました。

朝鮮では、崔南善(さいなんぜん)が「独立宣言書」作成。

大正8年(1919年)3月1日、天道教の指導者、孫秉煕(そんへいき)と、キリスト教の指導者、朴煕道(ぼくきどう)ら独立指導者33名が、京城(ソウル)市内のパゴタ公園近くの料理屋、奉和館に集まりました。

パゴタ公園には2万人の学生や労働者たちが集まり、独立宣言書を読み上げて、万歳万歳と叫び、太極旗を振りかざしながらデモ行進しました。(三・一運動、万歳事件)

料理屋にいた33人の指導者たちは、憲兵により逮捕。

事件後の指導者たちはどどうなったのでしょうか?

「朝鮮青年独立団宣言書」を作成した李光洙(りこうしゅ)は、上海に渡り、大韓民国臨時政府の樹立に参加。

独立運動家の安昌浩が、米サンフランシスコで創立した民族運動団体である、興士団(フンサダン)に参加。

『独立新聞』の社長兼編集局長を兼任し、1922年に「民族改造論」を発表。

1938年、安昌浩が逝去すると、朝鮮人たちに「民族のための親日」を訴えていきました。

李光洙(りこうしゅ)は、朝鮮人の「創氏改名」を朝鮮総督府に強く推奨して、昭和14年に実現。

昭和15年(1940年)2月から8月の手続き期間中に、李光洙(りこうしゅ)自身の名前を「香山光郎」と創氏改名。

また、徴用や徴兵については、次のように各地を演説して回りました。

「徴用では生産技術を学び、徴兵では軍事訓練を学ぶ。産業訓練と軍事訓練を受けた同胞が多ければ多いほど、韓民族の実力は大きくなる」と。
(中央日報 2009年8月21日)

1942年には、次のような学徒動員演説を行い、積極的に日本帝国軍に志願するよう呼びかけました。

「あなたが血を流した後も、日本が韓民族に良いものを渡さなければ、己が血を流し戦う」と。(中央日報 2009年8月21日)

終戦後、1948年に韓国で制定された反民族行為処罰法に基づき、日本統治時代に朝鮮発展に貢献した主要人物、有名人、知識人たちの多くが、親日反民族行為者に認定されました。

李光洙(りこうしゅ)は、親日反民族行為者に認定され、反民族行為特別調査委員会(植民支配時代の親日派を処罰するため制憲国会に設けられた特別機関)により、逮捕され投獄。

法廷で、李光洙(りこうしゅ)は次のように述べました。

「私は民族のために親日となった。私が歩んできた道が正経大路ではないものの、そうした道を歩き、民族のためのこともあるとの点をわかってほしい」と。
(中央日報 2009年8月21日)

一方、「独立宣言書」作成した崔南善(さいなんぜん)は、約2年半後の大正10年(1921年)10月8日仮釈放されました。

昭和3年(1928年)12月、朝鮮総督府の朝鮮史編修会の委員になりました。

昭和14年(1939年)、満州国の長春に日本が創設した建国大学の教授となりました。

その建国大学で崔南善(さいなんぜん)は、学生たちに次のように教えていました。

「ただ悠悠古今幾万年、茫茫東西幾千里にわたる一大領域において、特異な人文発展の足跡を訪ね、それによって道義国家の新しい文化建設にいささかでも貢献しようとするのは、学人として欣快なことであるといわざるをえない。

精神を醇化しこの理想を拡張していけば、日本の建国精神である、いわゆる光宅天下とか八紘一宇の大理想に到達することができ、

満州の建国精神も、本然の姿をたやすく体得できるであろう。

新しい理想に生きるために、古の伝統を捉えよと叫びたい」と。

満州国の建国理念を学生たちに熱心に説いていました。

また大東亜戦争について次のように教えていました。

「世界改造の重大な機会であると同時に人類の『世界』を現出させる機縁である。

英米の桎梏(しっこく)に無く、東亜十数億大衆の祈願であり、真に万邦共栄の世界秩序を確立する、アジアの解放戦争である」と。

終戦後の1949年、崔南善(さいなんぜん)は、親日反民族行為者に認定され、反民族行為特別調査委員会(植民支配時代の親日派を処罰するため制憲国会に設けられた特別機関)により、逮捕され投獄。

 

かつて朝鮮民族の独立宣言を書いた李光洙と崔南善。

 

かれらは、日帝支配に対する朝鮮の独立運動を扇動した活動家でした。

 

しかし、その後、親日に転校し、帝国軍へ志願して日帝と共に大東亜戦争を戦うべしと扇動するようになり、満州国建国を肯定して、東亜新秩序を実現するべく活動していきました。

 

朝鮮民族のための親日。

 

ただ闇雲に反日独立を訴えるのではなく、朝鮮民族が実力をつけるまでは、日帝支配の力を借りて、やがて真の独立国家を勝ち取ろうという思想に変わっていったのでしょう。

 

それは、幕末に尊王攘夷(日帝)を掲げた活動家たちが、いつのまにか倒幕(両班)に傾いていったように。

 

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反民特委に逮捕された李光洙

崔南善