官軍に破れた南部盛岡藩の復帰の手助けをした、高島嘉右衛門 | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

 

 

 

 

 

1863年1月31日、品川御殿山で建設中のイギリス公使館が、高杉新作、久坂玄瑞、井上馨、伊藤博文らに焼き討ちにされました。(英国公使館焼き討ち事件)

 

1865年、オールコックの後任に来日した、イギリス公使バークスは、横浜居留地の中の二十番館のホテルに住んでいました。

 

高島嘉兵衛は、イギリス公使バークスと面会しました。

 

人脈を使ってアメリカ公使ウェンチェストンから紹介状をもらっていたので、特別に会うことができました。

 

高島嘉兵衛は、バークスに提案しました。

「横浜に公使館を建てて、しばらくここ横浜で仕事をされては如何でしょうか?」と。

 

パークス「それは名案だと思うが、公使館新築の費用はどうするのか?」

 

高島嘉兵衛「幕府も、公使館焼き討ちの件では、深く心を痛めているので、幕府に建築費用の立替を申し出て、無利息長期の年賦払いで償還なさることにしては如何でしょうか?」

 

公使館建築計画はトントン拍子に進み、高島嘉兵衛が建築を請け負うことに。

 

「日本一の大工である。日本人がこのような洋館を建てられるとは思わなかった」と、完成後にパークスから賞賛された高島嘉兵衛は、横浜の異人館を全て請け負うことになりました。

 

1867年(慶応3年)、当時横浜には政府高官や外国人を受け入れる旅館がなかったことから、尾上町に豪華な和洋折衷の高島屋旅館を建築。(百貨店の高島屋とは無関係)

 

接待に出る男衆には、江戸幕府城中勤めの茶坊主に、髪を伸ばさせて給仕に。女衆には旧幕臣の息女や幕府大奥、また諸藩に女中奉公していた者だけを集めました。

 

容色、立居振舞、礼儀作法、それこそ超一流の本物ばかりでしたので、新政府の高官や外国公使などが常連客となりました。

 

また、常連客たちの多くは、政策の判断に迷った時は、嘉右衛門の易断を参考にしました。

 

しかし、一人だけ易を好まない人物がいました。

それは、西郷隆盛。

 

嘉右衛門は、こっそりと西郷隆盛のことを占ってみました。

もちろん本人には内緒で。

 

すると、「水地比」上六爻之を比す。首なし、と出ました。

この卦は、交わってはならない人間と交わり、命まで危うくなるというものでした。

 

それから10年後、西郷隆盛は、西南戦争にて自決。

 

1868年1月、幕府の軍艦2隻が、兵庫沖に停泊していた薩摩藩の軍艦を砲撃。

 

これをきっかけとして、錦の御旗を掲げた、薩摩藩・長州藩・土佐藩らの官軍と幕府軍とが全面衝突。

(戊辰戦争)

 

1868年5月6日、陸奥国(青森県、岩手県、宮城県、福島県、秋田県北東部)・出羽国(山形県、秋田県(北東部除く))・蝦夷地(北海道)および越後国(新潟)の諸藩が、輪王寺宮・公現入道親王を盟主とし、薩長中心の新政府軍に対抗して、「北日本」として独立するために団結。

(奥羽越列藩同盟)

 

同年7月27日、盛岡藩は、奥羽列藩同盟を離反した秋田・弘前両藩を攻撃。(秋田戦争)

 

1868年9月8日、元号が「明治」に改元。

 

仙台藩と一関田村藩は、官軍の圧倒的軍勢の前に、9月15日に降伏。

 

9月20日、盛岡藩降伏。

 

1868年12月2日、盛岡南部氏四十代の南部利剛(としひさ)は、南部氏の菩提寺である東京芝の金地院に移されて、「籠居」扱いに。

 

南部領二十万石は没収されて、不来方城は新政府軍の管轄になりました。

 

1869年(明治2年)6月付けで、南部利剛(としひさ)の子供の南部利恭は、盛岡藩士たちとともに、白石領(現、宮城県白石市)に所領代えを命じられ、白石知事に任命されました。

 

この所領代えにより、盛岡藩は13万石に格下げ。

 

旧盛岡藩士たちは、南部氏の盛岡復帰を嘆願しましたが、新政府は、その盛岡復帰の条件として、南部氏に70万両の賠償献金を要求。

 

家老だった東政図は、朝敵の汚名を返上して南部家の復権を果たすために、宮家との縁組を画策しました。

 

明治2年10月、南部利剛(としひさ)の長女、郁子は、まだ創設されたばかりの宮家、華頂宮(かちょうのみや)の博経親王と婚約。

 

しかし、この巨額な賠償金を一度に支払うことができずに、新政府に「廃藩」を申し出ました。

 

これは新政府が廃藩置県を全国的に実地する前のことであり、自己破産のようなものでした。

 

旧盛岡藩は、高島嘉右衛門に相談。飢饉の問題などもあったが、「至誠奉公の大精神」で成し遂げました。

 

これにより、旧盛岡藩士たちは、白石から盛岡に戻ることができました。

 

(明治2年)1869年7月24日付けで、南部利恭は盛岡知事に。

 

新たに盛岡藩13万石に封ぜられた領域は、岩手郡、紫波郡、和賀郡、稗貫郡の4郡でした。