高島嘉兵衛は、なんとかこの借金を返済しようと思い、ある貨幣取引に手を伸ばしました。
それは、小判を銀貨に交換するというものでした。
そのカラクリは、小判を小判としての貨幣価格で使用せずに、小判を鋳潰して金塊とし、金の時価で売れば、公定換算率の倍以上で売ることができる。
そして、裏取引で銀貨に交換し、銀貨を公定相場で売れば、その差額だけで膨大なものになる、というものでした。
しかし、これは違法取引。見つかったらお縄(逮捕)にかかってしまうという危険がつきまといました。
それでも高島嘉兵衛は、莫大な借金を早く返済したいので、この危険な闇取引にはまって行ってしまいました。
高島嘉兵衛は、闇取引の首謀者であるオランダ人のキネフラに、小判を銀貨に交換してほしい、と持ちかけました。
小判は鍋島藩から調達。鍋島藩にとっても、旨味のある話だったので、嘉兵衛の話に乗りました。
ただし、この闇取引が公となってしまうと、鍋島藩としても損害を被ってしまうので、「決してこちらに迷惑はかけてくれるなよ」と約束を取り付けました。
嘉兵衛は、この闇取引により2万両の借金を返済。
闇取引でかなりの利益を出した嘉兵衛でしたが、違法行為をいつまでも続けていくことはできませんでした。
1860年、貨幣密売の罪で伝馬町の獄舎に入獄。嘉兵衛29歳。
この時代、犯罪者として牢獄に入るということには、死を覚悟しなければならない過酷なものでした。
安政の大獄で捕らえられた政治犯は、一か月も経たないうちに獄死する者が後を絶ちませんでした。
なぜかというと、牢獄は約30坪の建物の中に定員百人が寝起きするという環境。
1畳に8人という掟が定められていました。1畳に8人なので、肩を寄せて体をすくめたり、棒のようになってジッとしていなければなりません。
このような生活では、いずれ病気になり死んでしまうのも無理ありません。
衣服も、仕送りがない限りは単衣一枚しか支給されず、食事も臭くてひどいものでした。
また、牢屋(ろうや)に入る時はまとまったお金を持ってきて、牢名主(ろうなぬし)に差し出さないと、半殺しにされても仕方がない、という掟がありました。
牢名主とは、囚人の中から選ばれて牢屋の取締りをした、囚人のかしらのことを言います。
牢名主に気に入られるかどうかで、まさに生死が分れるほどでしたので、まさに地獄の沙汰も金次第でした。
高島嘉兵衛は、胴巻きに百両の小判を隠し持って行き、牢名主に差し出しましたので、畳一枚の座る場所を割り当てられました。
牢名主に気に入られた高島嘉兵衛は、「易経」上下二巻をご褒美にもらいました。
「易経」とは、四書五経の中の一冊。
他に何もすることがない獄中生活なので、高島嘉兵衛は、この「易経」の本を暗誦できるまで読み入みました。
占いを実践するには道具が必要ですが、紙縒り(こより)を50個作って筮竹(ぜいちく)として、囚人たちを占って行きました。
この占いが怖いぐらいに当たりました。
獄中の環境が、占いの実習には最適だったのでしょう。占いの対象となる囚人たちは様々な波乱万丈の人生を送ってきた人ばかりでしたので、一般人とは波乱の度合いが違います。
高島嘉兵衛は、この伝馬町の獄舎で、集中力と予知能力により一層磨きをかけて行きました。
1865年10月10日、高島嘉兵衛、放免(釈放)。