子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい -10ページ目


日露戦争時、米国世論を親日にしたことで、日本の勝利に大きな功績を果たした日本女性がいます。

 

彼女の名前は捨松(幼名 さき)。

彼女は、どのような人生を送ったのでしょうか?


慶応4年(1868年)8月、板垣退助らが率いる薩長連合軍が、会津若松の鶴ヶ城に進軍してきました。(会津戦争)

 

まだ8歳のさきは、家族と共に鶴ヶ城に籠城。

 

官軍は、鶴ヶ城に向けて大量の大砲を撃ち込んできました。

 

善戦虚しく会津藩は官軍に降伏。

 

この時の官軍の砲兵隊長は、薩摩藩出身の大山弥助(のちの大山巌)でした。

 

23万石だった会津藩は、3万石の陸奥斗南藩に封じられました。しかし、斗南藩は下北半島最北端の不毛の地で、実質石高は7000石足らずでした。

 

家臣たちの生活は困窮してしまい、山川家では末娘のさきを函館の沢辺琢磨のもとに里子に出しました。

 

ウイリアム・クラーク博士を北海道の札幌農学校に招請するなど、多数の外国人顧問を日本に招請した、北海道開拓使の黒田清隆は、欧米列強を視察した時、女性たちの社会進出を目の当たりにして、大変衝撃を受けました。

 

彼女たちは、女性であるにも関わらず、男性と堂々と意見を戦わせていたり、男性と同じ仕事をしていました。

 

一体、彼女たちはどのような環境で育てられているのだろうか?

 

日本の女性にも男性と同じように教育を受ける機会を与えることが、日本の近代化の近道であると、黒田清隆は感じました。

 

岩倉使節団の団長の岩倉具視は、黒田清隆の意見に賛同。使節団に男子と共に女子留学生を募集することになりました。

 

しかし、この募集には誰も応募してきませんでした。

 

なぜ、誰も応募してこなかったのでしょうか?

 

10年間という長い期間海外に留学してしまうと、婚期を逃してしまうというのと、女子に高等教育を受けさせるということは考えられない時代だったからです。

 

当時は、20歳すぎても結婚できない女性は、売れ残りと言われた時代でした。

 

また、太平洋航路はまだ確立していなかったので、米国への船旅は命の危険もありました。

 

2時募集をして、やっと5名の応募がありました。いずれも戊辰戦争の時に賊軍側になった士族の家の娘たちでした。

 

これには、薩長を見返してやろうという思いも見え隠れしていました。

 

山川さきの母えんは、娘の名前をさきから「娘のことは一度捨てたと思って帰国を待つ(松)のみ」という思いで「捨松」と改名しました。

 

明治4年(1871年)11月12日、山川捨松がアメリカに向けて横浜港から船出した翌日、大山巌も横浜港を発ってジュネーヴへ留学。

 

使節団には山川捨松の他に、のちに津田塾大学を創設した津田うめもいました。

 

山川捨松は、全寮制の女子大学であるヴァッサー大学に学び、大学卒後後はコネチカット看護婦養成学校に通って、上級看護婦の免許を取りました。

 

明治15年(1882年)暮れに日本に帰国。

 

参議陸軍卿・伯爵となっていた大山巖は、三人娘を残して先妻が病死した後、後妻を捜していました。

 

大山巖は、友人の結婚披露宴で出会った山川捨松に一目惚れ。

 

大山からの縁談の申し入れを受けた山川捨松の兄は、敵将の薩摩人との縁談など以ての外といって断りました。

 

それでも諦めきれない大山巌は親戚の西郷従道に頼み、山川家に説得にいってもらいました。

 

「山川家は賊軍の家臣である。」という捨松の兄に対して、「大山も自分も逆賊(西郷隆盛)の身内である」と西郷従道は返しました。

 

西郷従道は、連日のように説得に尋ねていると、捨松の兄の浩は次第に軟化していき、最後には捨松本人の意見に任せることになりました。

 

捨松は「(大山)閣下のお人柄を知らないうちはお返事もできません」と言って大山巖と会うことになりました。

 

捨松は、昔ながらの薩摩弁を使う大山の言葉が、全く理解できませんでしたが、英語で話し始めるととたんに会話がはずみました。

 

明治16年(1883年)11月8日、結婚。

 

明治17年、鹿鳴館が作られ、そこで連日連夜、夜会が開催されました。

 

捨松の社交ダンスのステップは米国帰りで筋金入りでした。当時の日本人女性には珍しく長身で、ドレスの着こなしのセンスもバッチリでした。

 

やがて捨松は、「鹿鳴館の花」と呼ばれるようになりました。

 

捨松は、日本に看護婦養成学校が必要なことを説き、高木にその開設を提言しました。高木も看護婦の必要性は早くから認めていたのですが、財政難で実施が難しい状況でした。

 

そこで、捨松は、明治17年(1884年)6月12日から3日間にわたってチャリティーバザー「鹿鳴館慈善会」を開きました。

 

捨松は品揃えから告知、そして販売にいたるまで、率先して政府高官の妻たちの陣頭指揮をとり、 3日間で当時の金額で8,000円を集めて、その全額を共立病院へ寄付しました。

 

この資金をもとに、2年後に日本初の看護婦学校・有志共立病院看護婦教育所が設立されました。

 

明治33年(1900年)、津田梅子が女子英学塾(後の津田塾大学)を設立。

 

捨松は、留学中、帰国したら日本の女子教育の先駆けとなることを夢にしていたので、女子英学塾を全面的に支援しました。

 

留学中の友人であるアリスを日本に招き、自分たちの手で自分たちが理想とする学校を設立しました。

 

教育方針に第三者の意見を許さないという理由で、誰からの金銭的援助を受けずに学校運営をしていました。

 

捨松もアリスもボランティアとして奉仕して、英学塾の顧問となりました。

 

明治37年(1904年)2月8日、日露戦争が勃発。

 

大山巌は、参謀総長や満州軍総司令官となり、陸軍の最高責任者として国運をかけた戦争に臨みました。

 

捨松は、看護婦の資格を活かして日本赤十字社でボランティア活動を行いました。

 

また、積極的にアメリカの新聞に投稿を行い、日本の置かれた立場や苦しい財政事情などを訴えました。

 

捨松は留学中にキリスト教の洗礼を受けており、約10年

間の留学経験から英語力も達者であり、ヴァッサー大卒ということで、アメリカ人は、捨松の投稿を好意的に受け止めていきました。

 

この投稿がアメリカ世論を親日的に導くことに大いに役立ちました。

 

これは、のちの国民党を率いた蒋介石とその妻、宋美齢との状況とよく似ています。

 

宋美齢に一目惚れした蒋介石は、宗家の反対にも関わらず、諦めずにアプローチを続けてついに結婚。

 

そして、宋美齢も米国に10年近く留学経験があるため英語も達者であり、キリスト教の洗礼も受けています。

 

日中戦争当時、宋美齢がルーズベルト大統領をはじめ、議会などで国民党の置かれた立場や苦しい財政事情などを訴えていき、これが米国民の世論形成に大きな影響力を与えました。

 

米国が反日に一致団結していったのも、宋美齢一人の功績と言えます。

 

日露戦争当時の米国大統領は、セオドア・ルーズベルト。彼は新渡戸稲造の書いた「武士道」の愛読者であり、”親日”大統領でした。

 

一方、日中戦争当時の米国大統領は、フランクリン・ルーズベルト。彼は宋美齢と家族ぐるみの付き合いがあり、”反日”大統領でした。

 

捨松の尽力により、アメリカで集まった義援金は、アリス・ベーコンによって日本の捨松のもとに送金され、さまざまな慈善活動に活用されていきました。

 

捨松は新聞記者の質問に対して「主人が一番好きなのは児玉(源太郎)さん、次に私、三番目にはビーフ・ステーキ。ステーキには勝てますが児玉さんには勝てません」と答弁。

 

おしどり夫婦として有名でした。

 

日露戦争における大山元帥の武功は素晴らしいですが、捨松の米国世論の形成に貢献した功績はさらに素晴らしいものでした。

 

日露戦争が早期に終結したのは、この親日に傾いた米国世論の影響が大きいとも言えます。

 

大正5年(1916年)12月10日、大山巌が病死。満75歳。

 

捨松は、ノブレス・オブリージュ(高貴なる義務)を果たしたのち、大正8年(1919年)2月18日、スペイン風邪に倒れ病死。満58歳でした。

 

夫妻の遺骨は、2人が晩年に愛した栃木県西那須野ののどかな田園の墓地に埋葬されています。

 

 

明治28年(1895年)、日清戦争で日本の勝利ののち、清と調印された下関条約に基づき、明治30年(1897年)、正式に清の冊封体制から独立することができた朝鮮(大韓帝国)。

しかし、独立したとはいえ、経済は麻痺して、独立国家としての国家運営は、とてもできていませんでした。

そのような状況にも関わらず、朝鮮に渡り、金融改革を断行していった日本人たちがいます。

朝鮮に渡った日本人たちは、目賀田(めがた)種太郎など当時の日本帝国の超エリートたちでした。

彼らはどのようにして、朝鮮を真の独立国家として礎を築いていったのでしょうか?

まず、目賀田(めがた)種太郎の略歴を簡単の述べます。

明治3年(1870年)、米国ハーバード法律学校(現在のハーバード大学)に留学。目賀田(めがた)種太郎17歳。

明治12年、日本に帰国。

明治13年、専修学校(現在の専修大学)を創設し、また、東京代言人組合(現在の東京弁護士会)の会長に就任。

明治16年、大蔵省書記官、大蔵省主税局、横浜税関長を兼任。

明治37年8月、日本と韓国の間で協約が結ばれました。「第一次日韓協約」

その協約の中で、「韓国政府は、日本政府の推薦する日本人1名を財務顧問として韓国政府に傭兵し、財務に関する事項は全てその意見をとい施行すべし」と取り決められました。

この協約に基づき、明治37年10月、目賀田(めがた)種太郎が財務顧問として朝鮮に赴任。

当時の朝鮮での貨幣経済はどのようなものだったのでしょう
か?

山のような貨幣を詰めた袋を馬の背中にくくりつけて旅をしました。この貨幣は「葉銭」といい、穴が空いています。当時、50円の買い物をしようと思うと、この「葉銭」が30貫(約100キロ)必要でした。

これは現実的ではありませんでした。
(『朝鮮紀行』イザベラ・バード著)

また、「於音(おいん)」という約束手形も流通してました。これは償還義務がない不完全な手形でした。

農村では、土地は少数の両班が所有しており、農民の7割が土地を持たない小作農でした。

農民は、お金が必要となると、地主や商人から借りていましたが、その金利が驚くほどの高金利でした。

商人が貸し付けるもので、月利は、最高8分、最低5分2厘、普通6分6厘(年利では8割)。(この高利貸しのことを、「市邉(しへん)」と呼んでいました)

また、食料として農作物を現物で貸し借りが行われており、5割前後の利子をつけて、収穫期に現物で返済するというものもありました。(「長利(ちょうり)」)
(「朝鮮における金融組合の発達」静田均著)

農作物を現物で返済したあと、次の収穫期までに食料が不足すると、また地主からお金を借りなければなりません。(「春窮(しゅんきゅう)」)

この堂々巡りで、いつまでたっても農民が自立できる状況ではありませんでした。

田賀田種太郎は、このような貧しい農村で、なんとかして自立できる小作農を育てたいと思い、さまざまな改革を断行していきました。

明治40年5月30日、地方金融組合を設立。その最初の理事になった30名全員が、東洋協会専門学校(台湾協会学校)の卒業生でした。

明治42年5月に赴任した金融組合の理事の一人、小林省三は次のように当時を振り返りました。

「わずか三里に過ぎないが、当時この地方のみならず全朝鮮に暴徒が蜂起し、霊光地方は金海南の一派が跋扈跳梁しているので、

内地人(日本人)の往来は危険であると警告を受けたから、早速憲兵派遣所にて護衛を願い出たところ、同値まで完全に保護してくれたことは、今もって感謝している。

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加えて流言蜚語が盛んに行われ、日本政府がかかる機関(金融組合)を設けて土地家屋を担保として、朝鮮全土を挙げて日本の属領と化すのであると宣言したものだから、

無知の農民の大部分はこれが先入観に支配せられ、組合への加入などは思いもよらぬところであった。

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当時の米作は毛祖と称し、品質劣化なる毛もみ出会って収穫量も少ないから、これを内地の改良米種「早神力」と交換すべく各所に交換会を催し、

また短冊苗代、正条植、浮塵子の駆除などの奨励により、収穫期には稗抜より乾燥調整に到るまで、改良進歩に尽くして、朝鮮米が今日あるの礎を作り、

また綿花の栽培については、木浦(もっぽ)勧業模範場より「ミッドリング」の配布を受け、これを組合員に無料配布して普及発達を計るなど、

また全南栄山浦付近に縄叺(かます)副業の奨励を行い、今日同地方の特産物としての先駆けをなしたるが如き、あるいは、試作田、模範田を作り、刷新に尽くしたるなど、

これらの事例は一々枚挙するにいとまあらずであると共に、その功績は実に顕著なるものがある。

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金融組合は納税上の便宜と貨幣整理を助成する任務がある。当時、納税については金庫事務を取り扱う郵便局は葉銭(ようせん)の受け入れを拒否するので、

葉銭(ようせん)は一応組合に搬入して新貨と交換して後納入する順序となっていた。

当時政府は大体納税を十二月末日限り完納せしむる方針であったから、切羽詰まった大晦日には4、5里を隔つる四方八方より、

2、3十円位チゲ(背負子)につけて、組合目掛けて殺到するのであるが、

わずか2千円を新貨と交換せば、百万枚の葉銭(ようせん)を数えねばならぬから、もちろん執務時間中に終了せぬ。

夜間寒天に庭先で徹宵これを数え通して元旦の暁を告ぐる鶏の鳴き声を聴くというような情緒もあった。

こうして、この葉銭(ようせん)を引き上げ整理してこれが代金として新貨一銭銅貨10銭、20銭、50銭などの銀貨の散布普及を計らざるべからざるを、

何分、経済思想の幼稚なる時代であるから、この日本貨を歓迎してくれぬ。

貸付に銀貨を渡すと怪訝な顔つきで葉銭(ようせん)をくれという。

紙幣のごとき紙切れは一顧の価だにせぬ状態であったから、この葉銭(ようせん)の整理を行い、新貨の普及をはかりたることは、実に並々ならぬ幾多の苦心が存した訳で、真に想像以上だったのである。」と。
(「金融組合」昭和10年10月号)

葉銭(ようせん)を新貨幣と交換していた時代、相当な苦労があったのでしょう。

地元の朝鮮人たちにとってみれば、今まで使い慣れていた葉銭(ようせん)を新しい貨幣と交換されても、果たして本当にお金として使えるのかどうか、不信感があったと思います。

物々交換に毛の生えたような経済の時代、改革を推進してきた日本人の覚悟が伺えます。

しかし、日本内地から朝鮮に赴任してきた若い日本人が、朝鮮の現実を目の当たりにし、また、その改革の重責のため、自殺してしまうという事件も起きました。

創設当初の理事たちの苦労により、地方の金融組合は朝鮮全土に増えていき、大正2年には209箇所になりました。

模範的な朝鮮人の組合員の話が、金融組合の機関紙に次のように紹介されています。

「私が組合に加入したのは明治42年組合創設当時であります。その時代の経済状態は実に悲惨なものでありました。牛が買えなくて農耕に困難をしても、広い土地があっても開墾すべき荒地があっても、自分の手元にお金がないからいくら思っても空想で一つの夢をみるに過ぎない有様でした。

万一借り得たとしても金利が高くて月に5分、期限は3ヶ月か4ヶ月しかできないので、到底企業することは不可能でした。

ちょうどこの時農民にして資本がなく、仕事ができない者は皆ここに来いという金融組合が設立されたのです。

それで、私は諸手を挙げて賛成してすぐに加入しました。その当時は借入限度は50円でしたから50円を借りて牛を5頭買い求め、これを2年の期限つきで、2年後には元金5円を差し引き、その売値を半分にする約束の下に、その飼養方を人に託しました。

ところが、2年後には売却したら平均40円になりましたので、約束の通り履行したら私の取り前は110円になりました。

それで、借りた元金利息貯金とも70円を差引き、私は40円を儲けました。

以前は、組合に加入せよと勧誘されても、組合に入ると資産全部を奪い取られるような顔つきをして皆が逃げたものですが、昨今は頭を下げて加入を願うものが多いのを見ましても、私の米子時が一般に幾分かの手本を示したものでないかと思います。」(李柏英・伊川金融組合員)

「私の家は代々農家でありまして昔からこの土地に住んでおります。以前は相当の財産もあったそうですが、父の代になってから種々不幸が続いて先祖伝来の土地も失ってしまい、あまつさえ父は、私が11歳の時に、母と妹を残して黄泉(あの世)の客となりました。

到底一家を養うことができないのを祖父が同情して、私たちを引き取り養育してくれました。

そうして私が19歳の時、祖父の世話で妻を嫁取り、一軒の家を祖父より買ってもらい、別居しました。そうして、私は他の家の小作農となり、母は近所の仕事をしてわずかの賃金をもらってかろうじて生計を立てておりました。

ところが、今から14年前、私が41歳の時、鉄原村に金融組合ができたと聞きました。

知人から、君は貧乏しているが正直でよく働く、感心な男であるによって私が金融組合に紹介してあげるから、組合に加入して相当のお金を借り受け、その金で耕牛を買えと言われました。

私は喜んで早速紹介を頼み、明治42年六月に加入し、友人の保証で組合から50円を借り受け、牛を買い求めそれを飼育、翌年には高価で売り払い、相当の利益を得て、組合に返済しました。

こうして5、6年後には、組合のおかげで相当の蓄財もできましたので、大正2年、畑と水田を買い求め、所有地の収穫で十分一家の生活ができるようになりました。」(千聖弼・鉄原金融組合員)
(「金融と経済」朝鮮経済協会 大正12年(1923年)一月号)

このような模範的な朝鮮人の組合員の姿が、他の朝鮮人たちに影響を与えていきました。

それまでは、高利貸しの返済に苦しみ、土地もなく小作農での生活しかできず、先の希望が持てないような貧困生活をしていた、多くの朝鮮の農民たち。

そのような農民たちの生活を改善したい、という思いで、金融組合を作って農村の改革を断行していった、目賀田種太郎はじめ三十人の理事たち。

金融組合の創設時期である明治40年から42年ごろは、抗日闘争が激し時期であり、金融組合は日帝の植民地支配の尖兵とみなされて、攻撃の対象となりました。

この時期の組合関係の日本人は、護衛のためにピストルや日本刀を携帯しており、殉職した人も中にはいました。

まさに命がけで仕事をしていたのです。

命をかけてでも、朝鮮のために改革を断行する。そういった使命感を持った日本人たちが、たくさん朝鮮に渡っていったのです。

参考図書
「朝鮮で聖者と呼ばれた日本人」田中秀雄著

日本統治時代、朝鮮の女子教育の発展のために、人生を捧げた日本女性がいます。

 

彼女の名は、淵沢能恵(ふちざわのえ)氏。

 

なぜ、彼女は朝鮮の女子教育のために、人生を捧げようとしたのでしょうか?

 

たまたま,釜石製鉄所にきていたアメリカ人の鉄道技師ジ ー ・バ ーゼ ルー家 が 、米国に帰国する際にメイドを探してい ることを知りました。

 

淵沢は、米国で医学を勉学することを志していたので、このメイドの仕事に応募して、明治12年(1879年)渡米。この時,淵沢能恵29歳。

 

しかし,ロサンゼルスのバーゼル家で、 1年3か月ほど住み込みで働きましたが、勉強する時間がなかなか取れないばかりか、日本人に対する差別がひどく悩んでいました。

 

そんな時に、サンフランシスコ領事の柳谷謙太郎から、ミス ・プリンスを紹介されて、移り住むことになりました。

 

しかし、養母からの再三に渡って日本への帰国を催促されたので、明治15年(1882年)に日本に帰国。

 

日本では同志社女学校で学び、東洋英和女学校や下関洗心

女学校などにて教員として勤務。

 

明治37年(1904)養母のカルが病死。この時、淵沢能恵54歳。

 

養母の死からなかなか立ち直れずにいた淵沢能恵ですが、1905年の春 ,友人から誘われたのをきっかけに、朝鮮に渡りました。淵沢能恵56歳。

 

朝鮮に渡ってすぐ赤痢にかかってしまい、しばらく病気療養することとなりました。

 

その病気療養中に、朝鮮の女子の実情を見聞きすることとなりました。

 

朝鮮では儒教の教えが強く、女性は男性に盲目的に従うものとされていました。

 

そして、朝鮮の女は日常生活をはじめ、自分の意思で決めることも行動することも許されていませんでした。

 

「自立」という言葉さえ、朝鮮の女性は知らないということでした。

 

「保養の間に朝鮮婦人の生活を見まして、彼等が毎日室内に ばかり閉じ籠もっているのを気の毒に思い、このままでは 朝鮮の婦人は滅びてしまおう、

 

何とかしてこの気の毒な人達 を救ってやらねばならないと存じまして ,先ずそ れ には 教育しなければならない、と思って始めたのが … 最初の動機であります」と。

(淵沢能恵 『婦女新聞』、昭和3年7月1日号)

 

そこで、淵沢能恵は日本に帰国せずに朝鮮に残り、朝鮮人の女子ために女学校を設立することを決意。

まず 、その準備作業として明治39年(1906年)1月、「日韓婦人会」を創設。

 

日韓婦人会の総裁は、高宗皇帝の側室である厳妃、 会長 に 李貞淑、副会長に李玉郷、総務に淵沢能恵がなりました。

 

しかし、この婦人会を事実上取り仕切っていたのは 、淵沢能恵と副会長の李玉郷でした。

 

明治39年(1906年)5月、「皇城新聞 」と「大韓毎日 申報」に,3 回にわたって生徒募 集の広告を掲載 。

 

応募条件は、年齢は11歳から25 歳までで未婚既婚を問 わ ず「士族女子 」という条件でした。

 

当時の入学審査はどのようなものだったのでしょうか?

 

「その頃の入学手続きのやかましかったこと, 先ず父の経歴 ,祖 父の経歴 ,曾祖父の経歴を調べ ,母方も同じように三 代に亘って調べて正しいと見たものでなければ入れな かったものです」。

 

明治39年(1906年)5月22日、「明新女学校」 (生徒募集時は「普信女学館」)を創立。

 

校長に李王朝の李貞淑を迎え、淵沢能恵は学監となりました。

 

創設当初は、5人の生徒からのスタートでした。皆、貴族の娘たちでした。

 

その時代 、貴族の娘は一人で外に出て歩くという習慣がない ため、,5人の生徒は毎朝毎夕、駕籠(かご)を使って登下校しました 。

 

当時は車もバイクもありませんので、歩くか駕籠(かご)を使って移動してました。

 

つまり、駕籠をかつぐ人が二人、代わりの駕籠担ぎ一人の合わせて三人もの男を伴って、娘一人が通学していたことになります。

 

そのため ,一 日の駕籠代が40銭にもなり、学校にはやれないという貴族が出てきたため 、 生徒たちを淵沢能恵の家に宿泊させるようになりました。

 

その後、間もなくして寄宿舎制度をとるようになりました。

 

しかし,「宿舎に入れてまで娘を教育する必要はない」と反対が起こってしまい,なかなか生徒を獲得することは難しい時代でした。

 

明治40年(1907年)、制服が制定されて、徒歩通学が奨励されました。しかし、当時の朝鮮で貴族女子が、徒歩で通学するということはありえないことでした。

 

「生徒が、 同じ洋服を着て , 同じ帽子をかぶっていれば , どこの誰かが分からず, 一人で徒歩通学することができるから」という理由もあり制服が制定されました。

 

明治44年(1911年)11月、学校名を「淑明女子高等普通学校」に改称。

 

この頃から、募集条件を貴族や両班に限定せずに、能力ある女子に教育の機会を均等に与えるために、幅広く門戸を解放しました。

 

李貞淑校長は、細かいことには口を出さず、教務、行政など一切を淵沢能恵学監に任せていました。

 

厳妃理事長も李貞淑校長も,学校経営には携わったことがないため、10余年の教員経験 を有 す る 淵沢能恵が、事実上、学校運営の全てを取り仕切っていました。

 

日韓併合時代の朝鮮の高等女学校は、 朝鮮人向け公立高女 , 日本人向け公立高女、朝鮮人向け私立高女、日本人向け私

立高女、内鮮一体型高女に分類されますが、淑明高女は、朝鮮人向け私立高女に分類されます。

 

当時、朝鮮人向け私立高女のほんどがキリスト教系の学校であり、日本人と朝鮮人の協力で作られた学校は、淑明高等女学校以外にありませんでした。

 

教員採用にも苦労がありました。

「男女室を異にするの風は極端に応用せられまして 、厳呼動 かす事はできません。

 

従 っ て 男子の教員は絶対に採用できませず 、 さりとて女 子に適材の無い当時でしたか ら、困難を感ぜしこといっそう多大でありました」

(淵沢能恵「婦 女新聞」明治48年 11月18日号)

 

教員も次第に増えて、1910年には、日本人女教師5名、朝鮮人教師5名になりました。

 

淵沢能恵は、当時の教育の状況を次のようにいいました。

「私は、朝鮮語も知らず に学校を始めて 、通訳に朝鮮 人で 日本の家庭にいたことがある女を頼みました。

 

日本語が解るといっても,茶碗箸などの固有名詞が解るだけ で 、 教えることも随分難 しいものでした。

 

そ の上に困ったことは朝鮮の女には全の数の観念がありません。

 

一二 三 四五 六七八九十と数えて ,一と一 を加 える と二 ということを教えようとしても,どうしても二になること、 合点がゆかないのです。

 

それ で も二 年ぐらい経って日本語 も解るようになり,生 徒 の 内 か ら通訳 す るものもで きま した。 数の観念のことですが 、自分の家計のことなどを婦人に聞いても一人も知っているものはありませ ん 。

 

経済のことは全く男子に任せて気にもかけないのでした。」と。

(淵沢能恵 「思い出すことども一朝鮮の女子教育を開拓してー 」、『婦人之友』1928年8月号)

 

また、当時の朝鮮人の女子は、男子の前に顔を出すという習慣がありませんでした。

 

淵沢能恵は、このような習慣を変えていかなければ、朝鮮人の女子に未来はないと考えていたので、あえて次のようなことをしました。

 

「(開校 2 〜 3 年後)校長 李貞淑 の 息子 が学校 を見学 したいとのことで ,私はどうしようかと思いました 。

 

朝鮮では貴女は他 人の男に顔を見せてはならないのです。けれども私はどうしても彼女 たちの知識のためにもこの習慣 は破 っ た方 が よい と,前々から思っていたので ,生徒に向かって申しました。

 

校長の李貞淑の息子なら決して私たちにとって他人ではありません。ですから学校の授業を見せて挙げてよいでしょう。

 

やっとの事で承知させました 。いよいよ漢文の時間その人が 教室の中に入って来られました 。

 

それを一目見た生徒達は今まで読んでいた本を捨て ,下を向いて机にしがみついています。 がたがたふるえて ,私が指名 しても本も読まなければ返事もしないのです。

 

けれどもこれ 以来,喜んで他からのお客様に顔を合わせるようになりま した。 」(淵沢 能恵 「思い出すことども一 朝鮮の女子教育を 開拓してー (『婦人之友』 1928年8月号 )

 

開校当初は、自立も反論もできないような朝鮮人女子でしたが、次第に抗日感情を行動に出すようになっていきました。

 

明治44年(1911年)11月3日、明治天皇の誕生日である「天長節」を朝鮮人学生にも祝うように強制しました。

 

この式典に、3年生16人はあえて学校を休んで参加を拒否しました。

 

李氏朝鮮国王であり、大韓帝国初代皇帝となり、併合後は日帝の王族として徳寿宮李太王となった高宗が、大正8年(1919年)1月21日、死去。

 

淑明の生徒たちは、教師の目を盗んで、学年単位で学校から抜け出 して、葬儀の列に参加しました。

 

大正8年(1919年)2月8日、在日留学生たちが 、東京で朝鮮の独 立宣言文を発 表。(2・8宣言)

 

大正8年(1919年)3月1日、京城市内のパゴタ公園で、朝鮮独立指導者33名が、独立宣言文を読み上げたのをきっかけに、朝鮮の独立を訴えるデモ行進が発生。(3・1独立運動)(万歳(マンセー)運動)

 

やがて朝鮮全土に拡がったデモ行進は、数ヶ月間続きました。

 

3月5日、淑明高校の女学生たちもこのデモに参加しました。生徒全員が太極旗を持ってソウル駅に向かう途中、日本警官から妨害を受けてバラバラになりました。

 

7名が逮捕されましたが、淵沢 能恵が「この子は私の生徒です。自分が全貴任を負います。」などと主張して身柄を引き取りました。

 

大正14年(1925年)、京城教育会長表彰を受賞。

 

大正15年(1926年)4月26日、高宗の息子である純宗が 死去しました。

 

40日後の6月10 日 、国葬が行われましたが、 その行列が通り過ぎて行く時,朝鮮の学生たちが、万歳(マンセー)を叫びながら一般群衆に檄文を撒いたため 、 警察に逮捕されました。(6・10万歳運動)

 

昭和2年(1927年)5月25日、淑明の学生全員400余人は、学校側に内地人(日本人)教師の排斥 ,朝鮮人教員の増加などを要求して、26日から一斉に同盟休校に入りました 。

(淑明同盟休校事件 )

 

生徒父母が中心となって学校側と交渉して、生徒の要求を一部受け入れる形で事態が収束し、再び学校が再開しました。

 

「一番悲しいことは何か起こりました時 、今まで自分が永年苦労したことは、この人たちのどこにも残っていないだろうかと思う時でありましたが 、教育事 業というものはやっぱりこんなものかとあきらめつつ導いて参りました。

 

決してあなたも生徒も悪いのではない。共産主義やその他いろいろな悪思想が入ってきたためです。

 

あなたは決して挫折してはいけませ ん 。それからまた ,一働きして参りましたような わけであります。」

(『婦女新聞』,昭和3年7月1日号 )

 

昭和4年(1929年)10 月30日、汽車で通学途中の朝鮮人学生と日本人学生の間で激しい口論となり、光州駅に降 りた時、殴り合いの喧嘩となりました 。

 

日本の警察が、日本人学生の肩を持ってかばおうとしたので、朝鮮人学生と日本人学生との間の感情的対立が大 き くな っていきました。

 

11月3日(明治節)、光州市内の全ての朝鮮人学生が団結して日本人学生との抗争を繰り広げて、独立万歳(マンセー)を叫びました。 (光州学生運動)

 

12月、この光州市内での日韓抗争は、他の都市に広がっていき ,各学校で一斉に独立万歳(マンセー)を叫んで 、光 州の学生の釈放を求めながら檄文を撒いて歩きました 。

 

淑 明か ら は 全校生 406 名が 参加。

以下は、「朝鮮総督府警務局極秘文書」から引用です。

 

「1929年12月10日,朝会後3年生の一生徒 昂奮の状にて 過激なる宣伝をなしたる者あり。校内に於いて動揺 し,教 室 に入 りたるものも真面目に授業を受けず、殆ど怠業状態にありたり。

 

同年12月11日,学校は本日より当分休校する旨発表し夫々 生 徒父 兄 に 通告 せ り。1930年1月15日、生 徒十名は白紙答案を提出す。

 

同 年1月16日,午前 9 時 40 分 ,3年生の動揺と共に他 の生徒之に雷同,二回に亘り喧噪したるが(生徒300名),警戒員 ,教師の制止により沈静せり。主謀者4名を検束す。

 

同年2月25日 ,槿友会本部常務執行委員朴次貞は、同志許 貞子等と生徒の不穏計画を煽動し,其方法等を支持したる者 なるが、

 

病気の為起訴中止中,慶南東莱に帰省 ,・・取り調べの上 ,一応身柄を釈放し去20日 , 起訴意見を附し事件を送致す (25日,京畿報)」

(朝鮮総督府警務局極秘文書『光州抗日学生事件資料』風媒社,1979年)

 

この事件をきっかけにして、淑 明高女では、教育の三育(知 育 ・徳育 ・体育)の中で、徳育に注目した修養徳目を定 め て いきました。

 

それは、「誠 実 ,敬 虔 ,貞淑 ,健康,協 同 ,実質,勤勉 , 自律 ,報恩 ,奉 仕」の10項目です。

 

その実践項目を31個作って、1日から31日までの日めくりで「日ごとの糧」というのを作りました。

 

この「日ごとの糧」は ,毎朝の朝礼の時に 、その日一日の実践項目を生徒全員で読み上げて、その項目を実践するように心がけさせていきました。

 

昭和2年(1927年)ソウル(当時は京城)に本社のある東亜日報社から教育功労賞を受賞。

 

淵沢能恵が、朝鮮での女子教育に力を注いでいた当時、朝鮮の女子の就学率はどのような状況だったのでしょうか?

 

昭和5年(1930年)時点の朝鮮人女性の識字率は、8.0% ,普通学校 へ の女子就学率は5.7%、という状況でした。

 

また、朝鮮の民間の教育機関である「書堂」への女子就学者は、1920年代はわずか5000人前 後で したが,その後増え続けて,1933 年 に 1万 人、1938年に3万401人、昭和17年(1942年)に4万7751人、 と急増していきました。

 

 

昭和10年(1935年)5月、朝鮮総督府施政25周年功労賞を受賞。

 

同年5月4日、李貞淑校長が76歳で病死。学校創設以来、以心伝心で苦楽を共にしてきたので、淵沢能恵はとても落胆しました。

 

次の校長に淵沢能恵が推薦されましたが、高齢を理由に固辞。

 

代わりに、ソウルの京城大学にて教授をしていた小田省吾を推薦しました。

 

「朝鮮の子女の将来は教育にこそある」という強い信念の元に、朝鮮での教育事業に身を捧げてきました。

 

淵沢能恵はなぜここまでして、朝鮮の女子教育に身を捧げて行ったのでしょうか?

 

 

また、「内鮮親善の心を以て 」という言葉もしばしば使っていました。

 

内鮮親善とは、朝鮮人を差別せずに、日本人と朝鮮人がもっと仲良くなりましょうという意味です。

 

昭和10年(1935年)年、地元新聞の「京城日報」では、淵沢能恵さんのことを次のように紹介しました。

 

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わが大勝利に帰した日露大戦の余燼まだ収まらぬ明治38年に朝鮮へ渡って以来、雨の日も風の日も熱心に教育事業に携わり、今や86歳の高齢に達して病床に横たわる淵沢能恵さんは、一生を学校経営、女子の教育に投じた人と言える。

 

そして前年、病に倒れた時、勲六等を授かった。しかし、そこまで漕ぎつけるには血涙を絞るような苦境に立った事も度々有ったようだ。

 

決して愚痴を言わない淵沢さんは、自分から、あれこれと言わないが、第一に朝鮮へ来た早々頭を悩ませた。

 

 女子の教育の必要は言うまでもないが、さていよいよ学校を開く段取りにかかると、二進も三進も動けなくなった。

 

自分の力だけで事を為そうとするから出来ぬのだと思って、それぞれ有力筋に話をもちかけて見ると、趣旨には賛成するが、それだけの話で一向に動いてはくれなかった。

 

そのうち英親王殿下(李王垠殿下)から学校財産として一千町歩の田畑を下賜されたので、学校の経営は始めて本格的になり、現在では五百四十七名の生徒を擁するに至った。

 

卒業生の指導について卒業後、教育事業に携わるものに対しては自費を投じて奈良や東京の女子高等学校師範に入学させたが、その数20数名にのぼっている。

 

これらの教え子は、今いずれも公私立の女子高等普通学校に教鞭をとっている。

 

『私は女性から政治家が出てもいい思っています。しかしそれは100人に1人とか1000人に1人で、政治家 となるべき特質をもったものに限られるべきで、例外の部類です。

 

一般の女性は、家庭にあって夫を助け、妻として又母として自然性に、そむかぬ本分を磨き、 且つその範囲の生活を完全に生活してゆくべきだと思います。

 

女子は家庭という範疇の中で縁の下の力もちとなることを喜び、信仰の生活を忘れてはいけないと 思います』

 

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(昭和10年(1935年)年9月4日〜21日、「京城日報」)

 

昭和11年(1936年)2月8日,肺 炎 の た め 86 歳 で 亡 くな りました 。

 

淵沢は生前、淑明女学校の運営について次のように語っていました。

 

「私は、校長になるような学も徳もありません。それに学監でありながら、実際は、校長の仕事を委されているのですから、心配でなりません」

(『婦女新聞』,昭和11年2月16日号)

 

50歳を過ぎてから見知らぬ土地、朝鮮に渡り、そこで一念発起して、女子教育のために残りの人生を捧げた淵沢能恵。

 

死ぬ間際まで、自分が産み育ててきた淑明女学校のことが心配で仕方がなかったのでしょう。

 

でも、その学校は終戦後も残り、多くの朝鮮人女子の卒業生を育ててきました。

 

(ちなみに終戦後の韓国では、淵沢能恵のことを、淑明女学校の設立の時に参加した日本人教師のうちの一人、ということになっています。

 

そして、学校設立は高宗王室 厳妃が行ったものであるとなっています。)

 

参考図書

「植民地下朝鮮における淑明高等女学校」太田孝子著

「朝鮮人を愛し、朝鮮に愛された日本人」江宮隆之著

『淵澤能恵の生涯 -海を越えた明治の女性-』村上淑子著,

 

 

 

 

 

 

 

 

広島に原爆が投下された後、黙々と石を拾い集めていた一人の男がいました。

 

彼の名前は、長岡省吾。

 

長岡さんは、広島文理科大(現・広島大)の地質学者で、理学部地質学教室の嘱託を務めていました。

 

原爆投下翌日に出張先から広島入り。

 

一面は焼け野原で、まさに地獄絵。

 

長岡さんは、護国神社の入り口の灯篭に腰を下ろしました。この時、手のひらが鋭利なもので刺された痛みを感じました。

 

よく見てみると、それは灯篭に使われていた花崗岩が溶けたものでした。花崗岩は600度以上にならないと溶けない岩石。

 

長岡さんは石の専門家なので、そのことがすぐわかりました。

 

これが溶けたとなると、特殊な爆弾が炸裂したに違いない。

 

痩せこけた長岡さんは、焼け野原を歩き回っていました。彼が黙々と拾っていたのは1円にもならない石ばかり。

 

当時、拾い物をする人はいましたが、彼らが拾うものは金目になる金属のみ。

 

しかし、長岡さんは、石のみ拾いました。そして、拾ってきた石を自宅に集めていきました。

 

ある日、長岡さんは奥さんから言われました。

 

「ピカドン(原爆)の放射能の影響で、病気になる人が出ていると聞きました。こんなものを家に集めるのはやめてほしい。よそに捨ててください。家族と石ころとどちらが大事なのですか?」と。

 

当時の浜井信三広島市長は、原爆資料館を作りたいと考えていました。長岡省吾さんが集めた石や瓦などの貴重な資料をみて、これをメインの展示にしたいと考えました。

 

昭和29年(1954年)3月1日、米国によるビキニ環礁での水爆実験で、日本のマグロ漁船「第五福竜丸」の船員が被曝。

 

これをきっかけに日本で反核運動が起きました。

 

日本の反核運動に対して米国が過敏に反応。

 

米国は、正力松太郎を使って、原子力平和利用キャンペーンを、日本全国に大々的に展開していきました。

 

なぜ、これほどまでに米国は、過剰に反応したのでしょうか?

 

米国から2発の原爆を投下された被曝国日本で、反核運動が起きて、それがいずれ反米運動となることを米国は恐れていました。

 

なので、原子力平和利用の運動を大々的に展開して、日本での反核運動を押さえ込もうとしたのです。

 

そんな中、昭和30年(1955年)、広島原爆資料館(広島平和記念資料館)が開設。

 

翌年の昭和31年(1956年)5月から6月にかけて、広島原爆資料館が、原子力平和利用博覧会の会場に使われました。

 

21日間で11万人の来場者がくる大盛況でした。

 

この博覧会の期間中、原爆資料館の展示物は近くの公民館に移されました。

 

この原子力平和博覧会は全国的に開催され、原子力の平和利用の世論が一気に開花していきました。

 

原子力平和博覧会が終わった後も、広島原爆資料館にそのまま原子力の平和利用の展示を続けていこうという話が持ち上がりました。

 

そして、長岡さんは、渡辺忠雄広島市長から次のように要請されました。

 

「現在の原爆資料を他に移してほしい」と。

 

この要請に対して、長岡さんは一人立ち向かいました。

 

「一体どういうことですか?

 

原子力の平和利用の展示を続けるということは、国の命令ですか? それとも米国からの横やりですか?

 

原爆が頭上で爆発して、まだ10年しか経ってないのですよ。

 

あの時死んでいった14万の人々のことを忘れて、未だに原爆症で苦しんでいる人たちに向かって、原子力で豊かな生活をしましょうとは。

 

あなたは本当に言えるんですか?

 

私がここの館長をしているうちは、そんなことはさせません。

 

ここの展示は原爆の恐ろしさを伝えるための、亡くなった人たちの魂の叫びを伝えるためのものですから。」と。

 

長岡さんは、生き残った者としての責任を強く感じていました。

 

長岡さんの孤軍奮闘のおかげで、広島原爆資料館での、原爆の恐ろしさを伝える展示は残りました。

 

昭和35年、当時の皇太子殿下も広島原爆資料館を訪問。

 

昭和42年(1967年)まで、原子力平和利用の展示が、原爆資料館の一部で続けられましたが、同年5月に完全に撤去。

 

昭和20年8月6日の翌日から、長岡さんは、広島で黙々と石や瓦など拾い集めました。

 

このような地獄絵の悲惨さを後世の人たちに残したい。それがこの地獄絵の中、生き残った者の使命である。

 

その長岡さんの思いが、広島原爆資料館に受け継がれています。

 

参考動画

「ヒロシマを遺した男 〜原爆資料館誕生物語〜」TSSチャンネル

 

 

 

17歳の少女が、義理の父に両腕を斬られ殺されかけました。しかし彼女は、その義父を許しました。

 

なぜ、少女は、自分を殺そうとした義父を、恨まずに生きてこれたのでしょうか?

 

明治36年、大阪で開かれた博覧会で、わずか16歳のよねが、妻吉という芸名で日本舞踊を踊りました。

 

天才芸人としてもてはやされていたよねをみて、大阪の堀江遊郭の貸座敷「山梅楼」(やまうめろう)の主人、中川萬次郎が惚れこみました。

 

そして、よねは中川萬次郎の養女となりました。

 

明治38年(1905年)6月22日(よね17歳)、中川萬次郎が、妻の駆け落ちが原因で、酒に溺れて錯乱状態になり、同居していた家族5人を殺害。そして、よねの両腕を切断。(堀江六人斬り)

 

この時、よねは、両腕だけでなく口もとも斬られていましたので、叫びたくても叫ぶことができませんでした。

 

もし、この時、「助けて!」とか「キャッ」などと叫んでいたら、とどめを刺されていたことでしょう。

 

輸血技術のない時代、病院に運び込まれてきた、よねの状況をみて、医師たちは諦めました。

 

しかし、数日後、よねは意識を回復。驚異的な生命力でした。

 

しばらくして、警察がよねの病室に事情聴取にきました。その時、よねは起訴しないと伝えました。

 

それを聞いた警察官は驚きました。なぜなら、両腕を切断されて殺されかけ他のですから。

 

よねは、次のようなことを言いました。

 

「たとえ数ヶ月という短い期間であっても、私を実の娘として育ててくれた養父に対して、何もご恩返しができていません。

 

そんな義父を訴えるなど、私にはできません。義父の罪が軽くなるにはどうしたら良いですか?」と。

 

怪我が回復して退院した後、生活のために地方へ巡業に出かけました。

 

両腕を切断されてしまったので、踊り手としては満足な踊りはできませんでしたが、両腕のない見世物芸人ということで、舞台に上がりました。

 

仙台に巡業に行っていた時、鳥かごの中のカナリアの親子をみて、よねはハットしました。

 

そのカナリアの親は、口ばしに餌をくわえて、ひなに餌を与えていました。

 

何気ない光景ですが、両腕を失って意気消沈していたよねにとっては、この光景は衝撃でした。

 

そうだ、私には”口”がある、と。

 

それから、口に筆をくわえて、絵を描いたり、文字を描いたりする練習が始まりました。

 

明治41年、旅芸人から引退。そして大阪の道頓堀で両親と共に小料理屋「松川家」を開業。

 

当初は順調に行っていましたが、次第に経営は傾き多くの借金が残ってしまいました。

 

持明院の住職である藤村叡雲に、今後の人生相談にいきました。

 

尼になりたいとよねが打ち明けると、藤村叡雲は答えました。

 

「行き詰まったから尼さんにとは、とんだ心得違い。まず人の妻、人の母となれ。

 

今、頭を丸めても形だけのこと。他人の幸せを見れば煩悩の炎が燃える。心の障害がつきまとう。逃れてはならない。」と。

 

そう住職から言われても、よねは、この体で結婚できるとは想像できませんでした。

 

ところが、売れない画家でバツイチの山口草平氏から求婚されて、明治45年(1912年)結婚。

 

結婚してから数年の間に二人の子供が生まれました。大正2年(1913年)(よね25歳)、夫の山口草平氏の作品が、文展(文部省後援の芸術展)に入選して、生活も楽になっていきました。

 

何もかも順風に思えた幸せな生活でしたが、やがて夫が不倫をして、愛人を家に入れるようになりました。

 

よねは、当時の日記に次のように書きました。

「やはり私も女でした。人並みより深く妬みを持っていました。自分を斬った人でさえ憎まないようにしてきた私が、なぜ彼女が憎いのでしょうか?」と。

 

ある日、夫が、腸捻転のために生死の間でもがき苦しみました。その時、若い愛人は彼を献身的にサポートしましたが、よねは、何もしてあげることができませんでした。

 

両腕を持たない自分は、なんて無力なんだろう。

 

そんなこともあり、昭和2年(1927年)(よね39歳)、離婚。二人の子供をつれて家を出ました。

 

しばらくすると、激しい痙攣が襲いましたので、医師に診断してもらうと、職業病と診断されました。

 

よねの日記には次のように書かれています。

「自分は今まで無理に耐えて、平静を装ってきたのにすぎない。泣きたい、言いたい、怒りたい自分を抑えていた偽りの忍耐だったのだ」と。

 

しかし、この先二人の子供を養っていかなくてはなりません。両腕のない自分が、どうやって生活していけば良いのか途方にくれました。

 

順教は、どんな逆境にも耐えて、忍耐強く生き抜きました。

 

しかし、時々自殺を考えることもありました。もし、彼女が自殺をしていたら、他の多くの障害を持った人たちも同じように自殺をしていたかもしれません。

 

彼女は、43歳の時に、堀江事件の犠牲者の魂を鎮めるためにも、尼になろうと思いました。

 

昭和8年(1931年)10月、法名を「順教」とし、高野山金剛峯寺にて得度式を行いました。そして、大阪府高安村山畑(今の八尾市)にあった「無心庵」を見つけました。

 

全国各地から多くの障害を持った女性が、彼女の庵に連絡してきて、一緒に共同生活するようになりました。

 

そして、障害を持った人たちが、自分で独立して生活できるようにしていきました。

 

45歳の時に、彼女は、藤村叡雲導師の葬儀のために、般若心経と観音経のお経を口に筆を持って書きました。そして、その口筆を高野山に奉納しました。

 

46歳の時、彼女は陸軍省からの依頼により、戦地に慰問にいきました。

 

そこでは、彼女が訪れる場所はどこでも、彼女の口を使って絵を描くデモンストレーションを見て、負傷した兵士たちと病人たちに、独立の精神と将来への希望を与えました。

 

1936年(順教尼48歳)、京都山科の観修寺の境内に、収容された女性や子供達のために、福祉カウンセリング事務所「自在会実況園」を開設しました。

 

そして特に終戦後、戦争で破壊された家屋と人々の心を癒したいという彼女の強い願望から、地方巡業を精力的に行いました。

 

59歳の時(1947年)に、彼女は、京都市などの障害者組合の副会長として、障害者福祉協議会の京都府の重要な会議を継続的に開催しました。そして社会福祉にも大きな貢献をしました。

 

それに加えて、彼女は真言宗の京都山科会派の役員職を務め、同時に「自在会実況園」を前向きに解散し、仏教色と芸術性を強化するために「佛光院」を開設しました。

 

1950年(順教尼62歳)、厚生省の要請で、彼女は講師として派遣された 福祉法の施行を記念して、大会議が開催されました。そこで、参加者に対して大きな印象を与えました。

 

1953年(順教尼65歳)、彼女は、「腕塚」を作り、彼女自身の切り裂かれた両腕を安置しました。

 

その「腕塚」は、徳富蘇峰による大胆な筆跡が刻まれた自然石で作られています。

 

昭和30年(1955年)6月(順教尼67歳)、彼女は、「堀江事件」の犠牲者の50周年記念となる葬儀を、大阪の四天王寺にて開催しました。

 

罪を憎んで人を憎まずとことわざにはあります。養父である萬次郎から殺されかけたにも関わらず彼を許した、よね。

 

彼女の偉大な寛容さが、人々の心を打ちました。

 

同じ年の10月、彼女が口に筆を加えて描いた般若心経の作品が、日展の書道部門で入選されました。

 

昭和37年(1962年)(順教尼74歳)、彼女は世界身体障害者芸術家協会の会員に、日本人として初めてなりました。この協会は、両手を無くして、口や足を使って芸術を創作する、世界的な芸術家グループとして知られています。

 

1966年(78歳)、世界身体障害者芸術家協会の要請を受けて、西ドイツで個展を開きました。その展示物は、墨絵のような日本の純粋な形の絵画や、仏教画なお40点が展示されました。

 

これらの展示会は、大きなセンセーションを巻き起こし、西ドイツのテレビは全国ネットの番組で、この展覧会の模様を紹介しました。

 

順教尼78歳の時、最後の弟子として入門した南さん。

 

彼は、9歳の時に両腕を無くして、両親をはじめ周りの人を恨んでばかりいました。

 

そんな彼に順教尼は、次のように繰り返し言ってさとしました。

 

「ただでさえ体に障害を持っているのに、心まで障害を持ってしまってはいけない。そんなことでは、人は誰も相手にしてくれないよ。

 

体に持ってしまった障害は仕方がないけど、心の障害者となってはいけないよ」と。

 

順教尼は、自分は幸せな人生を生きたと思いました。なぜなら、3つの宝物を得たのだから。

 

3つの宝物とは、無手、無学、無財。

 

普通、否定的、悲観的に受け取れる要素ですが、彼女はそれを幸せの要素として受け止めたのでした。

 

彼女の言葉は、とても啓蒙的で深いです。

 

彼女は、いつも専用の「千手観音」をお守りとしても持っていました。そして、佛光院の境内に、慈悲の女神の助けを求めて困っている人たちを助けるために、「慈手観世音菩薩」の実寸大の像を作りました。

 

昭和43年(1968年)4月21日、観音像の祭祀の1週間後、彼女は亡くなりました。(享年80歳)

 

彼女の遺体は、生前の希望通り、京都大学に献体され、医学会に貢献しました。

 

葬儀の時に、大石順教尼が生前に録音したテープが流れました。

 

「ついに、行くところに行くことになりました。

 

皆様の暖かいご同情に、生かせていただきましたことを、永遠に忘れることではございません。

 

私は、自分が地獄に行こうと極楽にやっていただこうと、そんなことはちっとも考えてないけれども、ただ心にかかりますと申しますのは、決して少なくならないのは、体の障害の人たちのことでございます。

 

障害の人たちに、そうぞ、明るく、楽しく、強く、そして自分に与えられた職業だけを全うして行って欲しいと思います。

 

私は、両方の手を無くなったことが非常な幸せになりました。

 

この幸せは、やはり皆様のお力によって、できるだけのことを私もしてみたいと思って、ただ、なげかず、悔やまず、生きてきただけのことでございます。

 

皆様も、いつかはこちらの方にお出かけになると思いますが、そのご旅行は、ゆっくりと落ち着いてお越しくださればと思っております。

 

ではさようなら。」と。

 

大石順教尼の遺骨は、腕塚と慈手観世音菩薩とともに、高野山の奥の院で静かに眠っています。

 

参考図書

「大石順教尼」大石順教尼遺徳顕彰会

 

木浦(もっぽ)が泣いた日。

 

日韓併合時代から終戦後の韓国の地で、ある日本人女性が朝鮮人孤児のために生涯を捧げた物語。

 

彼女は、木浦市役所の官吏の一人娘として生まれ、木浦高等女学校を卒業した後、木浦市内の教会の日曜学校で、オルガンを弾いて賛美歌や日本の動揺などを歌ったりという奉仕活動をしていました。

 

そんなある日、友人から孤児院で仕事をしないかと誘われました。

 

その孤児院の名前は、木浦共生園(モッポキョウセイエン)。園長は尹致浩(ユンチホ)。

 

昭和11年(1936年)から、その共生園でオルガンを弾いて歌を教えたりという生活をはじめました。

 

昭和14年(1939年)、周囲の大反対にも関わらず、園長の尹致浩氏と結婚。

 

朝鮮総督府の同化政策により、多くの日本人と朝鮮人との結婚の事例がありましたが、反対する人も多くいました。

 

そんな中、田内千鶴子の母は次のように言って結婚することを応援しました。

 

「結婚は国と国がするものではなく、人と人とがするものですよ。神の国には日本人だの朝鮮人だの区別はありません。お前はお前の信じた道を真っ直ぐに進めばいいのよ」と。

 

千鶴子は、顔や手洗い、食事の時の挨拶など、子供たちの生活習慣を変えていきました。

 

また、いつ倒れるかわからない建物の建て替え費用の寄付を募ったり、総督府からの援助金を申請するなどして、資金繰りに奔走しました。

 

千鶴子は多くの孤児を育てていき、生活も徐々に安定していきました。

 

昭和20年8月15日、戦争が終わり、千鶴子は日本に戻るか朝鮮に残るか迷いました。

 

母は日本に戻ると決めていましたが、千鶴子には一緒に帰ろうとは言わずに「お前はどうするの?」とだけ聞きました。

 

朝鮮人と結婚した娘を無理に日本に連れて帰ることはできなかったのでしょう。

 

夫の尹致浩は次のように言いました。

 

「君が日本に帰るのであれば仕方ないと思う。しかし、君がここに残ってくれるというのなら、僕は命をかけて君を守るつもりだ。必ず君と子供たちとこれから生まれてくる子供を守ってみせる。」と。

 

この時、千鶴子には二人の子供とお腹に赤ちゃんがいました。

 

千鶴子は言いました。

「心配しないでください。母を日本の故郷に送ったならば、必ず戻ってきます。」と。

 

しかし、一旦日本に戻った後、国交がない韓国に再渡航するのは簡単ではありません。貨物船に身を隠すようにして乗り込み、釜山港へ渡りました。

 

千鶴子と子供たちが、木浦共生園へ向かう坂道を登っていると、共生園の子供たちが叫びました。

 

「お母さんが帰ってきたぞ」

 

千鶴子は、共生園の子供たちと抱きしめながら再開を喜びました。そして、二度とこの子たちと離れて暮らすことをしないと決めました。

 

終戦後、夫の尹致浩は日本に協力した親日派として、白い目で見られていました。

 

ある日、共生園の子供たちが叫びました。

「大変だ、村の人たちがお父さんとお母さんを殺すと集まっている」と。

 

しばらくして、多くの村の人たちが鍬や鋤を手にして共生園に乱入してきました。

 

尹致浩は、千鶴子の手を握ったまま、覚悟を決めていました。そんな時、子供たちが前に出て叫びました。

 

「僕らのお父さんとお母さんを殺すことは許さないぞ」と。

 

子供たちの気迫に圧倒されたのか、村人たちも冷静さを取り戻して、帰っていきました。

 

昭和25年(1950年)6月25日、朝鮮戦争が勃発。

 

北朝鮮軍がソウルを占拠して、木浦にも押し寄せました。

 

そして、地域の村人を集めて尹致浩に対する人民裁判を行いました。

 

尹致浩は日本統治時代は親日派で、独立後は李承晩政権に取り入って、孤児救済という名目で人民から金銭を搾取した、という罪状です。

 

尹致浩を罪人とするものは挙手するようにという北朝鮮軍兵士が叫びましたが、誰も手をあげませんでした。

 

そして、尹致浩は許されましたが、地域の「人民委員長」を引き受けるという条件がつけられました。

 

昭和25年9月、米軍が仁川に上陸して反撃を開始。木浦に駐屯していた北朝鮮軍も一斉に退却していきました。

 

しかし、今度は韓国軍によって、尹致浩が「人民委員長」をしていたため、北朝鮮のスパイ容疑で逮捕されてしまいました。

 

昭和26年1月24日、ようやく尹致浩は釈放されました。

 

やっと釈放されたにも関わらず、尹致浩は子供たちの食料を調達してくると光州にある全羅南道の道庁に出かけていきました。

 

「まだ北の共産軍の残党が潜んでいて危ないと、村の人たちが言っていた」と千鶴子の心配をよそに、尹致浩は出かけていってしまいました。

 

尹致浩はそれきり、二度と戻ってくることはありませんでした。

 

千鶴子はさまざまな辛い目に遭いながらも夫の帰りを信じて園を守りました。

 

千鶴子は、自分を園長代理として木浦市役所に申請すると、「日本人が代理というわけにはいかない」と言われたので、仕方なくある牧師に代理になってもらうように頼みました。

 

この牧師は快く引き受けてくれたが、共生園が国や道庁、市役所、米国など諸外国から義援金が出ていることを知ると、共生園を乗っ取ろうと画策し始めました。

 

結局、その牧師たちに230人の孤児たちが引き取られていき、千鶴子の元には、牧師から飛び出してきた20人の孤児たちが残りました。

 

この事件から、千鶴子は韓国人になろうと決意。

 

尹鶴子(ユン・ハクジャ)と名乗り、韓国語を習い、チマ・チョゴリを着ました。

 

リヤカーを引いて物乞いに歩いて生活費を稼ぎました。

 

また、年長の園児たちが自分たちで生活費を稼ごうと縫い物や畑仕事に励むようになりました。

 

北朝鮮からの難民が一気に韓国に入ってくると、孤児たちも増えてきました。

 

昭和38年8月15日、千鶴子は、韓国政府から文化勲章を贈られました。当時の韓国大統領は朴正煕。

 

朴正煕大統領は、まだ国交が回復していない日本人に対して、勲章の授与を決断しました。

 

授賞式の日、千鶴子は次のように言いました。

「これをもらうべきは、私の夫である尹致浩です。私は、夫お代わりを勤めただけです。」と。

 

朴正煕大統領は答えました。

「あなたは私たちと同じ民族の血がながれた人ではない。それなのに私たちの国の孤児を育ててくれた。これは国を超えた人類愛そのものです」と。

 

昭和40年日韓基本条約が正式に調印。

 

昭和42年12月21日、千鶴子は、今度は日本政府から藍綬褒章を受賞。

 

昭和43年10月14日、この日は、尹致浩が共生園を開いてから40周年の記念日でした。

 

千鶴子の長男の基は、ソウルにある病院に入院していた千鶴子を、木浦の共生園に戻したいと希望。

 

その希望が叶えられて、10月20日、夜行列車で看護師に付き添われながら、木浦の共生園に到着。

 

昭和43年10月31日、千鶴子は、すでに昏睡状態であったのですが、共生園の子供たちは、56歳の誕生日を祝いました。

 

そして同日、「梅干しが食べたい」との言葉を残して永眠。

 

11月2日、千鶴子の葬儀は、木浦市初の市民葬として送られました。

 

これは反日感情の渦巻く韓国では、異例の措置でした。かつては、鍬などを持って殴り殺そうとされた木浦の村人から、これほどまでに愛されていたのです。

 

この日、葬儀に集まった木浦市民は3万人。当時、木浦市の人口は10万人余りでしたので、3分の1の人々が葬儀に参列したことになります。

 

孤児たちは千鶴子の棺の周りで泣きました。「木浦が泣いた日」として地元新聞でも報道されました。

 

「お母さん!幼い私たちを置き去りにしてどこに行かれるのですか?孤児たちの泣き声に港町木浦が泣いた」

(朝鮮日報 1968年11月3日)

 

3000人の孤児たちを代表して、17歳の少女が、次のように哀悼の辞を述べました。

 

「日本に故郷を持っていながら、言葉も風俗も違うこの国に、あなたは何のためにいらっしゃいましたか。

 

40余年前、弾圧政治がつづいていた日本時代に、泣きながらひもじさを訴えていた孤児たちを集めて、あなたは学園をつくりました。

 

そして自分でご飯をたいて、子どもたちに食べさせました。着物のない者には、着物を縫ってやりました。

 

孤児と乞食のあいだで、骨身を惜しまず、世話をして下さったお母さん。

 

あらゆる苦難を乗り越えて、誰もまねの出来ないようなキリスト精神に生きられたのを、どうしてわたしたちが忘れましょう。

 

あなたの韓国語は、たどたどしいものでした。でも、その声、お母さんの匂い、愛で一杯だったあなたの目を、いま、どこで探せばいいのでしょう。お母さん!」

 

平成9年(1997年)10月、田内千鶴子氏の記念碑が、映画「愛の黙示録」の上映をきっかけにして、生まれ故郷の高知市若松町に建てられました。その記念碑には、木浦市内から運び込まれた石が使われました。

 

 

参考図書

「朝鮮を愛し朝鮮に愛された日本人」江宮隆之著

映画「愛の黙示録」

 

 

昭和20年8月15日は、戦争が終結した日となっていますが、もしかしたら、その日以降も戦争が続いていたかもしれません。

 

なぜなら、近衛師団の反乱軍が、昭和天皇が事前に録音した、終戦の詔勅の放送用の録音版を奪取しようとしたからです。

 

無事、8月15日午後に、天皇の終戦の詔勅を放送することができたのは、田中静壱大将のおかげでした。

 

田中静壱大将は、フィリピンへ出征中、昭和18年の3月12日に発病し、39度を越す高熱がつづきました。

 

マラリアに似ているが病因が不明のため、8月6日、東京の陸軍病院へ送還されました。

 

東京の陸軍病院へ送還されても病気は回復せずに、寝たきりで過ごしていました。

 

昭和18年10月29日、田中静壱氏の夫人が、東條英機大将の奥さんからの紹介で、生長の家の創設者の谷口雅治氏を尋ねました。

 

10月31日午後5時頃、谷口雅治氏は田中静壱氏が入院中の陸軍第一病院を訪ねますが、「面会禁止」の札が病室に掲げられていました。

 

特別に許可を受けて病室に入り、生長の家のお経『甘露の法雨』を読み上げました。

 

田中大将は谷口雅春氏に言いました。

「こうして病臥していることは天皇陛下に相すまない。同時に多くの兵を戦場の露と消えさせることも、その遺族に対しても申しわけない」と。」

 

谷口雅春氏は答えました。

「因縁というものにとらわれているのは“迷い”です。迷いは無い、真理のみが実在である。人間は神の子で無限力、健康であるのが実在であって、われ病めりという心の迷いが映し出されているにすぎないのです。

 

閣下は大忠臣です。けれども陛下にすまない、すまないと言いながら今病気で死んでは田中陸軍大将は病気に負けてしまったことになる。

 

“肉体は心の影”“われに使命あり”と敢然と心中に唱えれば「言葉は神なり」、すべてのものこれによりて成るのです。私の言葉は決して間違っていません。たとえ大いなる槌をもって大地を損することがありましても、私の言葉は壊れることは断じてありません」と。

 

その翌日から、奇跡的に田中静壱大将の病気が回復していきました。

 

谷口雅春氏は、その後もしばらく病院に面会に行き、甘露の法雨についての講義を続け、田中大将は真面目に謹聴していました。

 

田中静壱大将は、陸軍東部軍管区の司令官として、軍務に復帰することができました。

 

昭和20年8月15日の早朝、叛乱軍の青年将校七名によって、今上の御命を頂戴して、幼い皇太子(今の明仁(あきひと)上皇)を擁立し戦争を続行する、との密議が行われました。

 

畑中少佐は、近衛第一師団長の森赳(たけし)中将を殺害し、師団長命令を偽造(近作命甲第五八四)。

 

古賀秀正少佐は、畑中少佐が起案したとされる偽造命令書を、各部隊に口頭で伝えて、近衛歩兵第二連隊に部隊の展開を命じました。

 

宮内省では電話線が切断され、皇宮警察は武装解除させられました。

 

皇居(宮城)は反乱軍によって占拠されてしまいました。

 

午前5時頃、田中静壱大将は、わずか数名の部下を引き連れて、近衛第一師団司令部へと向かいました。

 

そして、近衛歩兵第一連隊の渡辺多粮(たろう)連隊長を説得。

 

さらに、田中静壱大将は、皇居の乾門(いぬいもん)付近で近衛第二連隊の芳賀豊次郎(はが・とよじろう)連隊長に会い、部隊の撤収を命じました。

 

この時、田中静壱大将はわずか数名の部下を連れて丸腰同然。これに対し、相手は完全武装の近衛部隊。

 

すでに近衛師団長を殺害しているほど、血気盛んな相手です。

 

近衛兵に拳銃を突きつけられた田中静壱大将は、全く動じずに「連隊長を呼んでこい!」と怒鳴りつけます。

 

やがてやってきた連隊長に向かって「お前たちは今何をしているのかわかっているのか!」と恫喝。

 

田中静壱大将の迫力のある気迫に怯んだ連隊長ですが、それだけで、「はい、わかりました」、と撤収することはありません。

 

では、なぜ、丸腰同然の田中静壱大将の説得に、近衛連隊長たちは素直に応じたのでしょうか?

 

その説得の際、田中静壱氏はある書物を読み上げました。その書物は紫色の布に包まれており、その布から恐る恐る取り出して、あたかもそれが天皇からの詔勅であるかのように装ってです。

 

(ある書物とは、かつて田中静壱大将の命が助かった、生長の家の聖経「甘露の法雨」です。)

 

その書物を読み上げている田中大将の言葉を聞いているうちに、近衛兵たちは頭をうなだれて、大人しくなっていきました。そして、連隊長も。

 

田中静壱大将が読み上げたお経を、近衛兵たちは天皇の詔勅と勘違いしたのかもしれません。

 

午前6時過ぎ、昭和天皇に、皇居にてクーデターが発生したことが伝えられ、その報告を聞いた昭和天皇は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べました。

 

阿南陸軍大臣が古式作法により割腹自殺。

 

午前11時すぎ、最後まで諦めきれなかった畑中少佐は、覚悟を決めて自害。古賀秀正少佐もそれに続いて自害。

 

田中静壱大将による青年将校への説得のおかげで、宮城クーデターは鎮圧。

 

無事、玉音放送が日本全国に、そして大陸や太平洋に展開していた帝国陸海軍の各部隊に放送されたのでした。

 

昭和20年8月15日午後5時15分、昭和天皇は、蓮沼侍従武官長侍立の上、田中大将に対して次のようなお言葉をかけられました。

 

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「今朝ノ軍司令官ノ処置ハ誠ニ適切デ深ク感謝スル。今日ノ時局ハ真ニ重大デ色々ノ事件ノ起ルコトハ固ヨリ覚悟シテイル。

 

非常ノ困難ノアルコトハ知ッテイル。シカシ斯クセネバナラヌノデアル。田中ヨ、コノ上トモシッカリヤッテクレ」と。

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8月24日夜、埼玉県川口市にある日本放送協会(現在のNHK)の川口放送局と鳩ヶ谷放送局に、陸軍の窪田兼三少佐らが、日本が降伏することに納得できず、徹底抗戦を続けるために放送局を占拠。(川口放送所占拠事件)

 

報告を受けた東部軍管区司令官の田中静壱大将は、ラジオ放送を止めるため、関東配電社(現在の東京電力)に、両放送局へ電気を送らないように依頼。

 

いつまでたっても電力が回復しないので、計画の失敗を悟った窪田兼三少佐は、説得にきた憲兵隊に投降し、事件は鎮圧されました。

 

この事件を鎮圧したあと、田中静壱陸軍大将は、次の遺書を残し、日本の国体護持と皇国の復興を祈って自決しました。

 

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遺書

 

御聖断後、軍は良く統制を保ち一路大御心に副ひ奉りあるを認め深く感謝仕候。

 

茲に私は方面軍の任務の大半を終わりたる機会に於いて、将兵一同に代リ闕下に御詫び申し上げ、皇恩の万分の一に報ずべく候。

 

閣下並に将兵各位は、厳に自重自愛、断じて軽挙を慎まれ以て皇国の復興に邁進せられん事を。

 

辞世

 

聖恩の 忝(かたじ)けなきに 吾は行くなり

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もし、8月15日、宮城クーデターが成功して、玉音放送が放送されていたかったら、日本の戦後は、全く異なったものとなっていたでしょう。

 

原爆が、広島長崎以外の各都市に投下され、焼夷弾による空襲も激化し、ソ連軍による北海道東北の占領も実現して、日本は二分割されていたかもしれません。

 

参考図書

「生長の家四十年史」昭和44年11月22日発行

ウズベキスタン人は、なぜ、親日なのでしょうか?

 

ソ連軍は、武装解除した日本軍兵士を捕虜としてシベリアなどに強制連行していきました。

(シベリア抑留)

 

1945年10月ごろから、ソ連軍は、捕虜として抑留した日本兵を貨車に乗せて、ウズベキスタンに強制連行していきました。

 

その数は、抑留した日本兵捕虜60万人のうち、約2万3千人余り。

 

戦争が終わって日本で帰れると思った矢先、奉天から列車で40日かけて強制連行されてしまったのです。

 

そのうち日本兵457名が、オペラハウスのアリシェル・ナヴォイ劇場などの建設に携わりました。

 

このアリシェル・ナヴォイ劇場とは、どのような建物なのでしょうか?

 

ソ連は、ソ連建国のきっかけとなった10月革命(1917年10月25日、グレゴリオ歴11月7日)から30周年にあたる1947年11月までに、アリシェル・ナヴォイ劇場を完成させる計画をしていました。

 

しかし、戦争が激化したために作業は中断していました。

 

ソ連は、そのオペラハウスを、捕虜日本兵を使って完成させようとしたのです。

 

永田行夫航空技術大尉は、アリシェル・ナヴォイ劇場の建設に割り当てられた数百人の日本兵の隊長として、任命されました。

 

当時の永田隊長は24歳、他の隊員もほとんど20代でした。

 

永田隊長は、過酷な労働条件の中、隊員たちをどのように鼓舞していったのでしょうか?

 

「再び日本に帰ってみんなで桜を見よう」と語っていきました。

 

生きる希望もなく、ただひたすら作業を繰り返す日々。そんな中、唯一の生きる希望は、いつか必ず日本に帰ることができる、家族と再開することができる、ということだったのです。

 

また、作業の合間に余興も行いました。

 

麻雀パイや囲碁、将棋、バイオリン、シンバル、マンドリン、太鼓、カツラなど小道具も自分たちで作って、演劇をしたりして楽しんでいました。

 

食事については、ノルマの達成度に応じて食事の量を加減するようにソ連兵から言われていましたが、永田隊長は、皆平等になるように交渉して認めてもらいました。

 

技術的な労働者は、ノルマの達成度が100%から300%程度になりますが、単純労働者ではどんなに頑張っても60%程度しかならず、職種によって割りが合わなくなるためでした。

 

いつ死ぬかわからない環境の中、一体自分たちはなんのために生きているのだろうかと、自問自答する日々もありました。

 

永田隊長は、全員が無事に日本に帰ることができるにはどうしたら良いかということを、隊長の使命として考えていたのです。

 

作業時間は、朝8時から夜5時まででお昼に1時間の休憩があり、週6日労働。

 

ウジとシラミと南京虫が、布団や衣服にたくさんいる中での生活で、シャワー(バーニヤ)に入ることができたのは、月1、2回ほどでした。

 

シャワー(バーニヤ)と言っても、小さな桶に入ったお湯と石鹸が配給されるだけ。

 

着ていた衣類を、50人単位でリングでつないで熱風炉の中に入れて、衣類に付着していたウジとシラミを退治することが、主な目的でした。

 

朝6時に起床して、夜9時に消灯という生活の繰り返し。

 

建設作業は、日本兵だけではなくウズベキスタン人と一緒にしてました。

 

地元のウズベキスタン人は、日本兵に対して差別や偏見の目で見ていました。しかし、次第に日本兵に対して尊敬の目で見るようになりました。

 

なぜなら、日本人は手先が器用であり、真面目で時間に正確であったためです。

 

当時、ウズベキスタンには日本以外の国の捕虜もいましたが、自動小銃を手にしたソ連の監視兵がいなくなると、彼らは皆サボっていました。

 

しかし、日本兵だけは、ソ連の監視兵がいなくても、サボることをせずに黙々と作業をしていたので、地元のウズベキスタン人から尊敬の目で見られるようになったのです。

 

その他の強制抑留の人たちはどのような作業をさせられたのでしょうか?

 

森林伐採、鉄道修理、炭鉱作業、農場作業などでした。

 

冬場の最低気温は零下50度にもなりましたが、十分な防寒着もなく、食料も十分ではなく、飢えと寒さとウジ、シラミ、ナンキン虫に耐える日々でした。

 

食事は全てノルマによってその量が加減されていましたので、飢えで栄養失調の人は働きが悪くなり、ノルマ達成率も悪くなるので、食事の量もまた減らされてしまうという悪循環でした。

 

春先になると、たんぽぽの芽が出てきますが、その芽と根っこを食べて飢えをしのいだりしました。

 

そんな飢餓の中、多くの日本兵が亡くなっていきました。

 

永田隊長は、日本にいる家族に連絡をしなくてはならないと思い、隊員の名前と住所を全て暗記していました。

 

作業中2人が亡くなってしまいましたが、残りの455人は日本に無事帰ることができました。

 

抑留生活を約3年過ごした昭和23年(1948年)5月、日本兵に日本への帰国が許されました。

 

作業を積極的に行なったもの、進歩的な思想(共産主義)の持ち主が、優先的に帰国を許されていきました。

 

ナホトカまで貨車で運ばれ、日本の輸送船にのり舞鶴港へ。ナホトカでは、反動分子の扱いを受けないために、赤旗インターナショナルの歌を覚えさせられ、ソ連礼讃のアジ演説を聴きながらの帰国でした。

 

ウズベキスタンには日本人墓地があります。

 

日ソ共同宣言が行われた1956年までに、ウズベキスタンでは884名の日本兵士が亡くなりましたが、このうちの一部の方たちが、日本人墓地に埋葬されています。

 

1958年、ソ連は国内各地にあった日本人墓地を閉鎖するように命令しました。ウズベキスタンには15箇所の日本人墓地がありましたが、2箇所を除き他の日本人墓地を更地にせよとの命令だったのです。

 

しかし、地元のウズベキスタン人はソ連政府からの命令を無視して、日本人墓地を更地にすることなく守り続けてきました。

 

なぜ、ウズベキスタン人たちは、ソ連政府の命令を無視してまでして、遠い遠い外国からきた日本人の墓地を守ろうとしたのでしょうか?

 

日本兵士たちは、ウズベキスタン人からとても愛されていたのです。

 

アリシェル・ナヴォイ劇場を建築作業中のある日、ウズベキスタン人で現場監督をしていたアミノフさんが、薬品を全身に浴びてしまい、命に関わる大怪我をしてしまいました。

 

日本兵の中で医療経験のある臼田さんが、献身的に看護をしたおかげで、奇跡的にアミノフさんは助かりました。

 

アミノフさんは亡くなる前に、孫娘のノディラさんに次の遺言を残しました。

 

「大きくなったら日本に行って、自分の命を救ってくれたが日本に帰ることもできずに、今もタシュケントのお墓で眠っている、臼田さんの家族を見つけてお礼を言ってほしい。

 

そして、日本とウズベキスタンの架け橋になってくれ」と。

 

1966年4月26日、ウズベキスタンの首都タシュケント市内に大きな地震が襲いました。

 

この地震で、タシュケント市内の建物がほとんど倒壊したにも関わらず、アリシェル・ナヴォイ劇場は、ビクともせずに残りました。

 

そして、このアリシェル・ナヴォイ劇場は、避難所として活躍しました。

 

シベリアで抑留され、ウズベキスタンに強制連行された日本兵たち。

 

彼らは、ソ連の監視兵のいない時でもサボったり腐ることなく、献身的に建物の建設などに従事していきました。

 

いつ日本に帰れるかわからないような、全く希望の持てないような環境でも、飢餓と極寒とウジ、シラミ、ナンキン虫に耐えながら生きた、日本兵士たちには頭が下がります。

 

 

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中共のウイグル自治区や他の中国国内で生活しているウイグル人たちへの民族浄化政策は、対岸の火事ではありません。

 

いずれ日本人に対しても行われるであろう、未来予想なのです。

 

1949年10月、中共の人民解放軍が、ウイグル人による「東トルキスタン共和国」と、蒋介石率いる国民党軍との連合政府により支配されていた新疆地区に侵攻。

 

国共内戦に破れた国民党軍の降伏により、中共は新疆地区の全域を完全に侵略し併合しました。

 

この時、多くのウイグル人がアフガニスタンやトルコなど海外に亡命しました。

 

1955年10月、中共により新疆ウイグル自治区が設置されました。

 

新疆ウイグル自治区では、ウイグル人が自ら代表を選ぶことができません。漢民族である中共の書記が、この自治区の全ての権力を掌握しています。

 

1991年、ソ連崩壊。この崩壊に伴い衛星国としてソ連の支配下にあった東側諸国が次々に独立。

 

中共はこの独立の動きに危機感を感じて、ウイグル自治区への統治を強化することを決意しました。

 

1996年3月19日、中共中央政治局が、新疆ウイグルへの工作を拡大する会議を開催し、「中共中央7号文件」を通達。

 

新疆ウイグル自治区の危険要因は、ソ連からくると認識していましたが、ソ連が崩壊した以降は、ウイグル人の存在自体が危険要因となると認識。

 

中共は、民族分離主義者とか非合法宗教活動家として、ウイグル人たちを次々に監獄に投獄していきました。

 

1997年2月5日、ウイグル自治区のグルジャ市において「アッラーは偉大なり」「新疆に独立を」と叫びながらウイグル人たちがデモ行進。

 

中共は、このデモ行進の鎮圧のために、人民解放軍と40,000名の武装警察を派遣して、デモ行進しているウイグル人に発砲。200人以上の死者が出ました。

(グルジャ事件)

 

その後、一軒一軒ウイグル人の家宅捜査をして、ウイグル人男性4000名を強制連行していきました。

 

中共が今までに投獄したウイグル人は、約300万人。

 

2009年6月25日から26日にかけて、広東省韶関市の香港系玩具工場で働いていたウイグル人たちが、帰宅途中に約6000名の中国人に襲撃され虐殺されました。

 

なぜ、6000名もの中国人がウイグル人を襲撃して虐殺したのでしょうか?

 

この玩具工場で働いていた中国人が、ウイグル人女性に対して性的暴力を行なったとして、解雇されました。

 

解雇された中国人はこのことを恨み、ウイグル人を虐殺しようと計画し実行したのです。

 

しかし、ウイグル人女性に性的暴力を働いたという解雇理由は、デマでした。

 

被害にあったウイグル人たちは皆、10代後半から20代前半という若い人たちでした。ウイグル自治区から強制的に広東省に連行されて、工場で3交代で働かされていました。

 

工場と同じ敷地内にある寮との往復しか行動範囲を許されず、奴隷同様の扱いでした。

 

2009年7月5日、新疆ウイグル自治区のウルムチ市において、

広東省の玩具工場で起きたウイグル人虐殺事件に対して、ウイグル人学生約3000人がデモ行進しました。

 

このデモ行進を鎮圧するために、中共は武装警察を派遣してデモ行進しているウイグル人たちに発砲。

 

数千人のウイグル人一般市民たちが、中共により虐殺されました。

(2009年ウイグル騒乱)

 

中共は、この暴動は世界ウイグル会議が煽ったために起きたと主張。

 

(世界ウイグル会議とは、中共から海外に亡命したウイグル人の世界的組織です。

 

世界ウイグル会議のリーダーであるラビア・カーディル氏は、中共によるウイグル人への民族浄化政策を非難して、5年間もの間投獄されましたが、米国のブッシュJR政権の圧力により、解放されました。

 

しかし、ラビア・カーディル氏の家族は、今もなお中共により投獄され続けています。)

 

しかし、ウイグル騒乱は、地元のウイグル人たちが独自に行なったデモでした。

 

なぜなら、中共にいるウイグル人たちは、インターネットなど海外との情報は全て遮断されていますので、海外で活動している世界ウイグル会議との情報交流はできないためです。

 

2016年、中共政治局から派遣された陳全国が、新疆ウイグル自治区の書記に就任。

 

彼は、チベット自治区の書記を勤めていた時期、チベット民族の浄化政策を強化していきました。

 

そして今度は、ウイグル自治区の書記に就任すると、ウイグル人たちを大量に強制収容所へ投獄しています。

 

そして、中共は、大規模な焼却炉を次々に監獄のそばに建設しています。

 

ムスリム(イスラム教徒)は、亡くなった遺体を土葬にして荼毘に付しますので、火葬する習慣はありません。

 

ウイグル人はイスラム教徒です。

 

火葬の習慣のないウイグル人たちの遺体を焼却するために、焼却炉をたくさん建設している中共。

 

これはまるで、かつてナチス党がユダヤ人たちを大量虐殺した強制収容所を再現しているようです。

 

なぜ、中共はここまでウイグル人の存在を危険視しているのでしょうか?

 

1996年に発布された「中共中央7号文件」には、次のようにあります。

 

「新疆ウイグル自治区は、警戒を強めて然るべき措置を講じなければ、比較的大規模な突発事件、大規模な暴動、動乱が起きる可能性があり、その場合は新疆ウイグル自治区だけではなく中国全土に影響を及ぼす」と。

 

中共は、中国全土から漢民族を新疆ウイグル自治区へ移住させて、ウイグル人たちを中国全土に移住させてきました。

 

そして、全く見ず知らずの他人である漢民族と親戚関係の契約を強制的にさせて、漢民族とウイグル人を混合することで、ウイグル人たちの民族浄化政策を行なっています。

 

また、中共は、ウイグル人たちを思想教育機関に強制的に入れて、再教育をしています。

 

その再教育の最終テストでは、アルコールと豚肉を食べることを行います。

 

イスラム教徒であるウイグル人たちにとって、アルコールと豚肉を食べることは戒律で禁じられていますので、このテストをクリアすることができないウイグル人たちが、多数出てきます。

 

このテストにクリアできないと、ウイグル人たちはどういうことになるでしょうか?

 

処刑されてしまいます。

 

かつて悪名高いナチス党が、ユダヤ人を大虐殺しましたが、そのナチス党でさえ、ユダヤ人に対して思想教育をして、ユダヤ教を改宗することを強制しませんでした。

 

中共が、ウイグル人たちに行なっている民族浄化政策は、人類史上例を見ない、もっとも凶悪な虐殺行為なのです。

 

あなたは、この中共によるウイグル人たちへの民族浄化政策を、まるで対岸の火事のように感じているかもしれません。

 

日本人には関係ないことであり、ただ、ウイグル人がかわいそう、という感情しか起きないかもしれません。

 

しかし、これは対岸の火事でも人ごとでもありません。

 

明日は我が身。

 

中共は、このウイグル人やチベット人に対して行なっている民族浄化政策を、日本人に対しても行う可能性が極めて高いのです。

 

なぜなら、中共は2050年までに、東日本を日本自治区、西日本を東海省として、日本侵略する国家戦略を持っているからです。

 

中共の6番目の自治区となった日本では、一体何が起きるのでしょうか?

 

それは今、ウイグル自治区やチベット、内モンゴル自治区で起きていることを、人ごととして無視するのではなく、直視することで予想することができます。

 

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昭和60年8月12日、日本航空のジャンボ機が、群馬県の高天原山の尾根(御巣鷹)に墜落し、520名が死亡しました。(日本航空123便墜落事故)

 

昭和62年6月に公表された事故調査委員会(事故調)の報告では、ボーイング社の修理ミスにより、機体の後部にある圧力隔壁が破壊したため、垂直尾翼が破損して操縦不能に陥り、山に墜落したとされています。

 

本当でしょうか?

 

この事故調の報告書にはいくつかの矛盾点があるため、これまで様々な陰謀説も広まっています。

 

矛盾点その1

 

離陸から12分後、衝撃音と共に垂直尾翼の上半分が破損したとあります。この時のジャンボ機は、高度約24000フィート(7314メートル)を航行中。

 

もし、この高度で航行中に圧力隔壁と尾翼が破損して機体の一部に穴が開くと、機内の気圧が急激に減圧して酸素濃度も半分以下に落ちてしまいます。

 

緊急時には酸素マスクを使用するように案内がされますので、乗客乗員は皆、酸素マスクを使っているはずですが、ボイスレコーダーに記録された機長や副操縦司の音声は、マスクを着用しながらの会話ではありませんでした。

 

日航機123便は、17分間もの間、高度20000フィート(6000メートル)以上の高度で航行していました。

 

その後、機体を安定させるために高度を6000フィートまで下げていきます。

 

17分間もの間、高度20000フィートで急減圧した機内で、酸素マスクもつけずに正常な意識を維持できるのでしょうか?

 

米国ノースダコタ大学航空学部での実験では、24000フィートの高度での急減圧の後、酸素マスクを使わないと約6分で意識がもうろうとしました。

 

矛盾点2

 

ボイスレコーダーに記録されている『オレンジエア』という言葉。

 

この言葉は、事故調の報告書では『オールエンジン』と記されており解読不確実とコメントされています。

 

この言葉は、カナダにある音声解読を専門に行うセレリス社(Celeris Aerospace Canada Inc.)が解読したところ、「オールエンジン」という言葉ではなく、「プルインギア」または「ボディギア」ではないか、と推定。

 

「ボディギア」とは、機体に格納される車輪のことでこの車輪の格納する角度により、機体の気圧を調整することができます。

 

「プルインギア」という言葉は、日航パイロットは使わない。ボイスレコーダーの会話の流れでは、「ボディギア」ならつじつまが合います。(事故調で音声分析を担当した宇津木成介 神戸大学教授)(元日航パイロット藤田氏)

 

しかし、素人ながらボイスレコーダーを何回も聞き直しても、「ボディギア」とも「オールエンジン」とも聞き取ることができません。

 

やはり「オレンジ エア」としか聞き取れません。

 

では、もし「オレンジ エア」だったら、それはどのような意味になるのでしょうか?

 

『エアー』を英語表記すると"Air"または"AR"。"AR"だとすると"Aircraft Rocket"の略語となり、これは実際に使用される言葉です。

 

"Aircraft Rocket"の意味は、なんと対空ミサイル。

 

「オレンジ エア」とは、オレンジ色の対空ミサイルということになります。

 

ボイスレコーダーでは、機長が「ギア(車輪)をみて」と問いかけ他のに対して、副操縦士か機関士が、スコーク77 (7700)(緊急救難信号)を発信して、「オレンジ エア」と答えています。

 

また、海上自衛隊の隠語で誘導ミサイルや無人標的機のことを「オレンジ エア」と言います。日航機123便の高濱機長は、海上自衛隊出身でした。

 

矛盾3

墜落後救出まで14時間もかかったのはなぜ?

 

当時、横田基地で航空士をしていた、元米空軍のマイケル アントヌーチ氏(「インサイド カリフォルニア」誌編集長)は次のように語りました。(サクラメント ビー紙 1995年8月20日付)

 

午後6時25分、日航機123便が東京管制塔に緊急信号「スコーク7700」を発信。

 

この通信を傍受した米軍輸送機C130の乗組員は、一大事であると判断。

 

午後6時56分、日航機123便がレーダーから消失。

 

午後7時、横田基地の司令部は、現場付近を航行中の米軍輸送機C130に、日航機123便の捜索を指示。

 

午後7時15分、米軍輸送機C130は、日航機の墜落現場を発見し、位置情報(横田TACAN 方位(305度)、距離(34マイル))を、航空自衛隊中央救難調整所に連絡。

 

輸送機C130は、墜落現場上空を1時間ほど旋回してましたが、午後8時すぎにキャンプ座間から米陸軍のUH-1ヘリが到着。(米空軍ジョン グリフィン大尉の証言)

 

現場に到着したUH-1ヘリは、上空をホバリングしながら兵隊が地上に降下する準備をし、横田基地に救出の許可をとりました。

 

しかし、横田基地の司令部は「直ちに基地に帰還せよ」と指示。

 

航空士のマイケル アントヌーチ氏は答えました。

「なんですって。もう一度言ってください。兵士を地上に降ろす準備はできています。準備は万端なのです。」と。

 

横田基地の司令部は言いました。

「日本側が来るから、直ちに退去せよ」と。

 

横田基地に戻ったマイケル アントヌーチ氏は、今回のことはマスコミには一切喋るな、と上官から口止めされました。

 

事故の生存者である、落合由美さんの証言です。

「(墜落した後)やがて真暗ななかに、ヘリコプターの音が聞こえました。あかりは見えないのですが、音ははっきり聞こえていました。それもすぐ近くです。これで、助かる、と私は夢中で右手を伸ばし、振りました。

 

ずっと手を振っていたんですけど、気がついてもらえなかったのか、ここまで来ることができないのか、ヘリコプターはだんだん遠くへ行ってしまうんです。」と。(吉岡忍著「墜落の夏」新潮社)

 

航空自衛隊はどのような行動をしていたのでしょうか?

 

19時21分、航空自衛隊の百里基地をF-4戦闘機の2機が緊急出動。墜落現場の火災を発見して、横田TACAN 方位(300度)・距離(32マイル)を通報。

 

「横田TACAN」とは、設置された極超短波電波標識(超短波全方向式無線標識)などを基準にした方位と距離から、現場を測定する方式。GPSが採用される前までは、もっとも精度の高い測定方法でした。

 

19時54分、KV-107ヘリコプターが、救難・救助のため百里基地から見切り発進。

 

20時33分、救難調整本部(東京空港事務所長)は、航空自衛隊へ航空救難の要請(災害派遣要請)。

 

20時42分、KV-107ヘリコプターが、墜落現場に到着。

 

しかし、到着したKV-107ヘリは、救難用サーチライトを装備していましたが、夜間の森林へ降下することで二次災害が起きることを考慮して、救助活動は行わずに帰還しました。

 

陸上からの救援活動は、現場の位置情報が2転3転してなかなか特定できずにいました。墜落現場付近に在住の第一通報者からの情報は、正確だったのですが、その情報は生かされることはありませんでした。

 

翌朝の8月13日午前4時30分、航空自衛隊救難隊が、墜落機体を発見。

5時10分、陸上自衛隊ヘリが機体確認。

5時37分、長野県警ヘリが墜落現場を確認。

 

午前8時49分、救出開始。この時すでに墜落から14時間が経過していました。

 

防衛庁(当時)は、米軍へりが墜落直後に現場に飛来していた事実を否定。

 

このような矛盾点により、様々な陰謀説が広まっています。

 

陰謀説1

 

パソコンのOSとして日本が開発中だった、トロンの開発技術者17名を抹殺するために、米軍が日航機を撃墜した。

 

陰謀説2

 

事故の1ヶ月後の9月に、米国の対日貿易赤字を解消するために、円高ドル安への為替操作をすることに合意(プラザ合意)させるために、日本を脅かす目的で、米軍が日航機を撃墜した。

 

陰謀説3

 

米軍のミサイル誤射により、民間航空機が犠牲になった。

 

いずれの陰謀説も米軍により撃墜された、となっています。

 

そして、この米軍による民間航空機撃墜の事実を隠すために、現場の位置特定に時間がかかったのである、という理論です。

 

また、墜落した当初は、生き残っていた人がたくさんいたという証言があります。(生存者である落合由美さん、川上恵子さん)

 

これらの生き残りの人たちは、証拠隠しのために殺害されたのではないか、という説もあります。

 

いずれの陰謀説も嘘か本当かわかりませんが、いくつかの矛盾点を考えると、事故調査委員会の報告が事実とも思えません。

 

ミサイル誤射なのか、プラザ合意のためなのかわかりませんが、米軍に撃墜されたために墜落したということでしょう。

 

なぜなら、「事故原因をギリギリまで究明しようとすると戦争になる」、と当時の前橋地検の山口悠介検事正が、遺族の方を集めた説明会にて、表明していたからです。

 

https://youtu.be/bzwQO2TtXzw

 

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