木浦(もっぽ)が泣いた日 田内千寿子の偉業 | 子供と離れて暮らす親の心の悩みを軽くしたい

 

木浦(もっぽ)が泣いた日。

 

日韓併合時代から終戦後の韓国の地で、ある日本人女性が朝鮮人孤児のために生涯を捧げた物語。

 

彼女は、木浦市役所の官吏の一人娘として生まれ、木浦高等女学校を卒業した後、木浦市内の教会の日曜学校で、オルガンを弾いて賛美歌や日本の動揺などを歌ったりという奉仕活動をしていました。

 

そんなある日、友人から孤児院で仕事をしないかと誘われました。

 

その孤児院の名前は、木浦共生園(モッポキョウセイエン)。園長は尹致浩(ユンチホ)。

 

昭和11年(1936年)から、その共生園でオルガンを弾いて歌を教えたりという生活をはじめました。

 

昭和14年(1939年)、周囲の大反対にも関わらず、園長の尹致浩氏と結婚。

 

朝鮮総督府の同化政策により、多くの日本人と朝鮮人との結婚の事例がありましたが、反対する人も多くいました。

 

そんな中、田内千鶴子の母は次のように言って結婚することを応援しました。

 

「結婚は国と国がするものではなく、人と人とがするものですよ。神の国には日本人だの朝鮮人だの区別はありません。お前はお前の信じた道を真っ直ぐに進めばいいのよ」と。

 

千鶴子は、顔や手洗い、食事の時の挨拶など、子供たちの生活習慣を変えていきました。

 

また、いつ倒れるかわからない建物の建て替え費用の寄付を募ったり、総督府からの援助金を申請するなどして、資金繰りに奔走しました。

 

千鶴子は多くの孤児を育てていき、生活も徐々に安定していきました。

 

昭和20年8月15日、戦争が終わり、千鶴子は日本に戻るか朝鮮に残るか迷いました。

 

母は日本に戻ると決めていましたが、千鶴子には一緒に帰ろうとは言わずに「お前はどうするの?」とだけ聞きました。

 

朝鮮人と結婚した娘を無理に日本に連れて帰ることはできなかったのでしょう。

 

夫の尹致浩は次のように言いました。

 

「君が日本に帰るのであれば仕方ないと思う。しかし、君がここに残ってくれるというのなら、僕は命をかけて君を守るつもりだ。必ず君と子供たちとこれから生まれてくる子供を守ってみせる。」と。

 

この時、千鶴子には二人の子供とお腹に赤ちゃんがいました。

 

千鶴子は言いました。

「心配しないでください。母を日本の故郷に送ったならば、必ず戻ってきます。」と。

 

しかし、一旦日本に戻った後、国交がない韓国に再渡航するのは簡単ではありません。貨物船に身を隠すようにして乗り込み、釜山港へ渡りました。

 

千鶴子と子供たちが、木浦共生園へ向かう坂道を登っていると、共生園の子供たちが叫びました。

 

「お母さんが帰ってきたぞ」

 

千鶴子は、共生園の子供たちと抱きしめながら再開を喜びました。そして、二度とこの子たちと離れて暮らすことをしないと決めました。

 

終戦後、夫の尹致浩は日本に協力した親日派として、白い目で見られていました。

 

ある日、共生園の子供たちが叫びました。

「大変だ、村の人たちがお父さんとお母さんを殺すと集まっている」と。

 

しばらくして、多くの村の人たちが鍬や鋤を手にして共生園に乱入してきました。

 

尹致浩は、千鶴子の手を握ったまま、覚悟を決めていました。そんな時、子供たちが前に出て叫びました。

 

「僕らのお父さんとお母さんを殺すことは許さないぞ」と。

 

子供たちの気迫に圧倒されたのか、村人たちも冷静さを取り戻して、帰っていきました。

 

昭和25年(1950年)6月25日、朝鮮戦争が勃発。

 

北朝鮮軍がソウルを占拠して、木浦にも押し寄せました。

 

そして、地域の村人を集めて尹致浩に対する人民裁判を行いました。

 

尹致浩は日本統治時代は親日派で、独立後は李承晩政権に取り入って、孤児救済という名目で人民から金銭を搾取した、という罪状です。

 

尹致浩を罪人とするものは挙手するようにという北朝鮮軍兵士が叫びましたが、誰も手をあげませんでした。

 

そして、尹致浩は許されましたが、地域の「人民委員長」を引き受けるという条件がつけられました。

 

昭和25年9月、米軍が仁川に上陸して反撃を開始。木浦に駐屯していた北朝鮮軍も一斉に退却していきました。

 

しかし、今度は韓国軍によって、尹致浩が「人民委員長」をしていたため、北朝鮮のスパイ容疑で逮捕されてしまいました。

 

昭和26年1月24日、ようやく尹致浩は釈放されました。

 

やっと釈放されたにも関わらず、尹致浩は子供たちの食料を調達してくると光州にある全羅南道の道庁に出かけていきました。

 

「まだ北の共産軍の残党が潜んでいて危ないと、村の人たちが言っていた」と千鶴子の心配をよそに、尹致浩は出かけていってしまいました。

 

尹致浩はそれきり、二度と戻ってくることはありませんでした。

 

千鶴子はさまざまな辛い目に遭いながらも夫の帰りを信じて園を守りました。

 

千鶴子は、自分を園長代理として木浦市役所に申請すると、「日本人が代理というわけにはいかない」と言われたので、仕方なくある牧師に代理になってもらうように頼みました。

 

この牧師は快く引き受けてくれたが、共生園が国や道庁、市役所、米国など諸外国から義援金が出ていることを知ると、共生園を乗っ取ろうと画策し始めました。

 

結局、その牧師たちに230人の孤児たちが引き取られていき、千鶴子の元には、牧師から飛び出してきた20人の孤児たちが残りました。

 

この事件から、千鶴子は韓国人になろうと決意。

 

尹鶴子(ユン・ハクジャ)と名乗り、韓国語を習い、チマ・チョゴリを着ました。

 

リヤカーを引いて物乞いに歩いて生活費を稼ぎました。

 

また、年長の園児たちが自分たちで生活費を稼ごうと縫い物や畑仕事に励むようになりました。

 

北朝鮮からの難民が一気に韓国に入ってくると、孤児たちも増えてきました。

 

昭和38年8月15日、千鶴子は、韓国政府から文化勲章を贈られました。当時の韓国大統領は朴正煕。

 

朴正煕大統領は、まだ国交が回復していない日本人に対して、勲章の授与を決断しました。

 

授賞式の日、千鶴子は次のように言いました。

「これをもらうべきは、私の夫である尹致浩です。私は、夫お代わりを勤めただけです。」と。

 

朴正煕大統領は答えました。

「あなたは私たちと同じ民族の血がながれた人ではない。それなのに私たちの国の孤児を育ててくれた。これは国を超えた人類愛そのものです」と。

 

昭和40年日韓基本条約が正式に調印。

 

昭和42年12月21日、千鶴子は、今度は日本政府から藍綬褒章を受賞。

 

昭和43年10月14日、この日は、尹致浩が共生園を開いてから40周年の記念日でした。

 

千鶴子の長男の基は、ソウルにある病院に入院していた千鶴子を、木浦の共生園に戻したいと希望。

 

その希望が叶えられて、10月20日、夜行列車で看護師に付き添われながら、木浦の共生園に到着。

 

昭和43年10月31日、千鶴子は、すでに昏睡状態であったのですが、共生園の子供たちは、56歳の誕生日を祝いました。

 

そして同日、「梅干しが食べたい」との言葉を残して永眠。

 

11月2日、千鶴子の葬儀は、木浦市初の市民葬として送られました。

 

これは反日感情の渦巻く韓国では、異例の措置でした。かつては、鍬などを持って殴り殺そうとされた木浦の村人から、これほどまでに愛されていたのです。

 

この日、葬儀に集まった木浦市民は3万人。当時、木浦市の人口は10万人余りでしたので、3分の1の人々が葬儀に参列したことになります。

 

孤児たちは千鶴子の棺の周りで泣きました。「木浦が泣いた日」として地元新聞でも報道されました。

 

「お母さん!幼い私たちを置き去りにしてどこに行かれるのですか?孤児たちの泣き声に港町木浦が泣いた」

(朝鮮日報 1968年11月3日)

 

3000人の孤児たちを代表して、17歳の少女が、次のように哀悼の辞を述べました。

 

「日本に故郷を持っていながら、言葉も風俗も違うこの国に、あなたは何のためにいらっしゃいましたか。

 

40余年前、弾圧政治がつづいていた日本時代に、泣きながらひもじさを訴えていた孤児たちを集めて、あなたは学園をつくりました。

 

そして自分でご飯をたいて、子どもたちに食べさせました。着物のない者には、着物を縫ってやりました。

 

孤児と乞食のあいだで、骨身を惜しまず、世話をして下さったお母さん。

 

あらゆる苦難を乗り越えて、誰もまねの出来ないようなキリスト精神に生きられたのを、どうしてわたしたちが忘れましょう。

 

あなたの韓国語は、たどたどしいものでした。でも、その声、お母さんの匂い、愛で一杯だったあなたの目を、いま、どこで探せばいいのでしょう。お母さん!」

 

平成9年(1997年)10月、田内千鶴子氏の記念碑が、映画「愛の黙示録」の上映をきっかけにして、生まれ故郷の高知市若松町に建てられました。その記念碑には、木浦市内から運び込まれた石が使われました。

 

 

参考図書

「朝鮮を愛し朝鮮に愛された日本人」江宮隆之著

映画「愛の黙示録」