昭和20年8月15日は、戦争が終結した日となっていますが、もしかしたら、その日以降も戦争が続いていたかもしれません。
なぜなら、近衛師団の反乱軍が、昭和天皇が事前に録音した、終戦の詔勅の放送用の録音版を奪取しようとしたからです。
無事、8月15日午後に、天皇の終戦の詔勅を放送することができたのは、田中静壱大将のおかげでした。
田中静壱大将は、フィリピンへ出征中、昭和18年の3月12日に発病し、39度を越す高熱がつづきました。
マラリアに似ているが病因が不明のため、8月6日、東京の陸軍病院へ送還されました。
東京の陸軍病院へ送還されても病気は回復せずに、寝たきりで過ごしていました。
昭和18年10月29日、田中静壱氏の夫人が、東條英機大将の奥さんからの紹介で、生長の家の創設者の谷口雅治氏を尋ねました。
10月31日午後5時頃、谷口雅治氏は田中静壱氏が入院中の陸軍第一病院を訪ねますが、「面会禁止」の札が病室に掲げられていました。
特別に許可を受けて病室に入り、生長の家のお経『甘露の法雨』を読み上げました。
田中大将は谷口雅春氏に言いました。
「こうして病臥していることは天皇陛下に相すまない。同時に多くの兵を戦場の露と消えさせることも、その遺族に対しても申しわけない」と。」
谷口雅春氏は答えました。
「因縁というものにとらわれているのは“迷い”です。迷いは無い、真理のみが実在である。人間は神の子で無限力、健康であるのが実在であって、われ病めりという心の迷いが映し出されているにすぎないのです。
閣下は大忠臣です。けれども陛下にすまない、すまないと言いながら今病気で死んでは田中陸軍大将は病気に負けてしまったことになる。
“肉体は心の影”“われに使命あり”と敢然と心中に唱えれば「言葉は神なり」、すべてのものこれによりて成るのです。私の言葉は決して間違っていません。たとえ大いなる槌をもって大地を損することがありましても、私の言葉は壊れることは断じてありません」と。
その翌日から、奇跡的に田中静壱大将の病気が回復していきました。
谷口雅春氏は、その後もしばらく病院に面会に行き、甘露の法雨についての講義を続け、田中大将は真面目に謹聴していました。
田中静壱大将は、陸軍東部軍管区の司令官として、軍務に復帰することができました。
昭和20年8月15日の早朝、叛乱軍の青年将校七名によって、今上の御命を頂戴して、幼い皇太子(今の明仁(あきひと)上皇)を擁立し戦争を続行する、との密議が行われました。
畑中少佐は、近衛第一師団長の森赳(たけし)中将を殺害し、師団長命令を偽造(近作命甲第五八四)。
古賀秀正少佐は、畑中少佐が起案したとされる偽造命令書を、各部隊に口頭で伝えて、近衛歩兵第二連隊に部隊の展開を命じました。
宮内省では電話線が切断され、皇宮警察は武装解除させられました。
皇居(宮城)は反乱軍によって占拠されてしまいました。
午前5時頃、田中静壱大将は、わずか数名の部下を引き連れて、近衛第一師団司令部へと向かいました。
そして、近衛歩兵第一連隊の渡辺多粮(たろう)連隊長を説得。
さらに、田中静壱大将は、皇居の乾門(いぬいもん)付近で近衛第二連隊の芳賀豊次郎(はが・とよじろう)連隊長に会い、部隊の撤収を命じました。
この時、田中静壱大将はわずか数名の部下を連れて丸腰同然。これに対し、相手は完全武装の近衛部隊。
すでに近衛師団長を殺害しているほど、血気盛んな相手です。
近衛兵に拳銃を突きつけられた田中静壱大将は、全く動じずに「連隊長を呼んでこい!」と怒鳴りつけます。
やがてやってきた連隊長に向かって「お前たちは今何をしているのかわかっているのか!」と恫喝。
田中静壱大将の迫力のある気迫に怯んだ連隊長ですが、それだけで、「はい、わかりました」、と撤収することはありません。
では、なぜ、丸腰同然の田中静壱大将の説得に、近衛連隊長たちは素直に応じたのでしょうか?
その説得の際、田中静壱氏はある書物を読み上げました。その書物は紫色の布に包まれており、その布から恐る恐る取り出して、あたかもそれが天皇からの詔勅であるかのように装ってです。
(ある書物とは、かつて田中静壱大将の命が助かった、生長の家の聖経「甘露の法雨」です。)
その書物を読み上げている田中大将の言葉を聞いているうちに、近衛兵たちは頭をうなだれて、大人しくなっていきました。そして、連隊長も。
田中静壱大将が読み上げたお経を、近衛兵たちは天皇の詔勅と勘違いしたのかもしれません。
午前6時過ぎ、昭和天皇に、皇居にてクーデターが発生したことが伝えられ、その報告を聞いた昭和天皇は「自らが兵の前に出向いて諭そう」と述べました。
阿南陸軍大臣が古式作法により割腹自殺。
午前11時すぎ、最後まで諦めきれなかった畑中少佐は、覚悟を決めて自害。古賀秀正少佐もそれに続いて自害。
田中静壱大将による青年将校への説得のおかげで、宮城クーデターは鎮圧。
無事、玉音放送が日本全国に、そして大陸や太平洋に展開していた帝国陸海軍の各部隊に放送されたのでした。
昭和20年8月15日午後5時15分、昭和天皇は、蓮沼侍従武官長侍立の上、田中大将に対して次のようなお言葉をかけられました。
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「今朝ノ軍司令官ノ処置ハ誠ニ適切デ深ク感謝スル。今日ノ時局ハ真ニ重大デ色々ノ事件ノ起ルコトハ固ヨリ覚悟シテイル。
非常ノ困難ノアルコトハ知ッテイル。シカシ斯クセネバナラヌノデアル。田中ヨ、コノ上トモシッカリヤッテクレ」と。
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8月24日夜、埼玉県川口市にある日本放送協会(現在のNHK)の川口放送局と鳩ヶ谷放送局に、陸軍の窪田兼三少佐らが、日本が降伏することに納得できず、徹底抗戦を続けるために放送局を占拠。(川口放送所占拠事件)
報告を受けた東部軍管区司令官の田中静壱大将は、ラジオ放送を止めるため、関東配電社(現在の東京電力)に、両放送局へ電気を送らないように依頼。
いつまでたっても電力が回復しないので、計画の失敗を悟った窪田兼三少佐は、説得にきた憲兵隊に投降し、事件は鎮圧されました。
この事件を鎮圧したあと、田中静壱陸軍大将は、次の遺書を残し、日本の国体護持と皇国の復興を祈って自決しました。
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遺書
御聖断後、軍は良く統制を保ち一路大御心に副ひ奉りあるを認め深く感謝仕候。
茲に私は方面軍の任務の大半を終わりたる機会に於いて、将兵一同に代リ闕下に御詫び申し上げ、皇恩の万分の一に報ずべく候。
閣下並に将兵各位は、厳に自重自愛、断じて軽挙を慎まれ以て皇国の復興に邁進せられん事を。
辞世
聖恩の 忝(かたじ)けなきに 吾は行くなり
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もし、8月15日、宮城クーデターが成功して、玉音放送が放送されていたかったら、日本の戦後は、全く異なったものとなっていたでしょう。
原爆が、広島長崎以外の各都市に投下され、焼夷弾による空襲も激化し、ソ連軍による北海道東北の占領も実現して、日本は二分割されていたかもしれません。
参考図書
「生長の家四十年史」昭和44年11月22日発行