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・『帝国時代』の意識を振り返る


60年ほど前は一般的だった北鮮

 

あまり北朝鮮の呼称の歴史についての資料がないのではあるが、参考になりそうなサイト(いまだに「北朝鮮」と呼ぶ日本のメディア、呼称変更史と時代背景)によると、おおよそ戦後から1959年(昭和34)ごろまでは、北朝鮮は一般的に「北鮮(ほくせん)」と呼ばれていた。

その後、どのような呼称が一般的に使用されていたか70代以上で当時から朝鮮半島に関わりがあった人たちに聞くと、北鮮、北朝鮮などが混在して使われていたようだ。そもそも日常的に目にするテレビや新聞で北朝鮮が話題となった記憶がないという話も聞かれた。

確かにそうだろう。当時、北朝鮮も中国も国交がなければ、米ソ冷戦で西側との接触は少なく、政策も鎖国的で民間交流も限られていたから話題になることは非常に少なかったと思われる。

 

日韓国交樹立後に北朝鮮の呼称が固定

 

日本は1965年(昭和40)に韓国と国交が樹立し、在日朝鮮籍の人たちが正式な国籍として承認された韓国籍を選ぶ人増え始めた。

韓国との国交樹立で日本国内の在日朝鮮人、韓国人の中でも北朝鮮支持派と韓国支持派で対峙していくことになる。

その影響か、1968年(昭和43年)ごろから北朝鮮との呼称が主に使用されることになったようだ。
 
1972年(昭和47)の札幌冬季オリンピックの前年に北朝鮮側から正式名称を使うように申し入れをした結果、1971 年(昭和46)から主要テレビ局や新聞は併用式が始まることになることは以前にご紹介した通りである。

以前の記事をさらに補足すると、上記の併用式を最初に止めたのは、『産経新聞』(1996年)、『読売新聞』(1999年)、『朝日新聞』、『毎日新聞』、『日本経済新聞』(2002年)、そして最後が2003年元日の「NHK」との時系列となる。

公共性が高いとは言え民間企業がどんな呼称を使うは各社の決めることになるだろう。公共放送であるNHKはどうなのだろうか。

 

北朝鮮紹介に正式国名なしの外務省公式サイト

 

さらに言えば、外務省の世界各国の紹介では、

北朝鮮
North Korea

 
のみで国の概要紹介である一般事情にも正式国名が書かれていない(北朝鮮|外務省)。外務省のサイトは学習目的で子どももアクセスするだろう。いくら国交がないとはいえ、国の公式サイトとしていかがのものか、さすがに疑問に感じてしまう。

北朝鮮は日本に対して敵視政策を止めよ主張する。多くの日本人はそんなの言いがかりだと思っているだろう。しかし、これで無条件で対話を呼びかけても…と思ってしまう。

 

https://ameblo.jp/sanpurena/entry-12620799581.html

 

現在、まさに進行中の『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』富士書苑(昭和28年/1953年)シリーズにて、上述の「北鮮」という言葉は、日常的に使われていて、それこそ日本が朝鮮侵略を画策した19世紀末から植民地統治~敗戦後の幾分時代における呼称だった。

 

※画面左下の『内務省公表記事』写真(当時)は、先の『義烈団』金祉変の行動に対するもの

 

‐【初公開】写真の中の近現代史 その1(在日コリアンの友人提供)‐

 

帝国主義国家の意識社会全体に普及し、元々朝鮮に対する「敵愾・侮蔑意識」から、こうした表記が持ち出された。それは当時の左派リベラルであろうと例外ではなく日本と朝鮮半島の関わりを表す際も「日鮮関係」、あまつさえ朝鮮人を呼ぶときは「鮮人」という表記が、新聞でも当たり前だったし、北朝鮮に続き、現在韓国が施政権を握る朝鮮南部の呼称「南鮮」とされていた。

 

それと合わせて、中国に対して「支那」と呼ぶことも同じだ。

 

こうした帝国時代の「優越意識」から、アメリカの植民地と成り下がった「冷戦思考」を経て、多くの日本人『過去の罪』から向き合うことなく自らの記憶から“朝鮮を消し去った”ことは言うまでもないが、事あるごとに歴史を忘却してしまう「白痴」に、白なのに黒だと言い張る現象は、在日コリアンの差別構造(制度/言説)が未だ温存され、日頃から北東アジア諸国に対する露悪報道にドップリ浸かったモノリンガル(単一言語話者)が、それ以外の情報を能動的に摂取できず、一つの『教条主義』に凝り固まった成れの果てだということは、彼らを冷やかに眺める立場として、すっかり馴染み深いものとなってしまった。

 

‐近くて遠い国 朝鮮 本編2(国名の由来とその民)‐

 

そのような記述をベースに、本シリーズを読み進めて行くと、より理解の深いものとなると思います。

 

 

・「大陸避難民」でごったがえした 朝鮮半島

 

 

 

『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑 8・28頁より

 

満州避難民の南下

 

ソ軍は<1945年>八月九日早朝、北鮮<北朝鮮>進攻と時を同じくして、ハイラル、琿春、東寧正面に進攻し、つゞいて<踊り字-つづいて>ハルピン、新京、奉天、公主嶺等の主要都市を爆撃した。

 

関東軍司令部は、開戦第一日、早くも予定の計画にしたがって、通化に移動を開始したが、それとともに、新京十万の日本人に、強制疎開命令を出した。当時の事情を関東軍司令部附鉄道官矢能巌<やのういわお>氏は左のごとく語っていた。

 

「九日朝、軍司令部で鉄道参謀と打合せて、新京にいる非戦闘員はただちに、非戦闘区域にだすことが決せられた。その後、満州国総務長官によばれて、満州国と軍との会談をおこない、それが終わったのがお昼すぎであった。その時、第一の疎開列車を午後四時にだすことをきめた。しかし満州国官吏側としては、その家族達をすぐだすことはできないというのだ、統制のとれた軍の家族の方からだすことになった。午後四時はのびて午後六時になってようやく最初の列車が進発した。その後は統制のとれた団体から出発することになった」

 

ソ連開戦とともに関東軍は第十七方面軍に至急電報を左の如くつたえた。

 

「最大輸送量をもって、新京、奉天地区の一般住民、満州国役人、軍人軍属の家族の輸送を実施するにつき援助を依頼す」

 

第十七方面軍<大本営直轄>としては、京城<旧漢城・現ソウル>以南が将来戦禍の中心地帯になるこを予想し、平安、南北道知事にその受入を依頼した。

 

両道では、それぞれ鉄道沿線の収容建物と受入人数を調査し、食糧その他の準備で多忙をきわめた。

 

新京の軍関係家族、満州国関係家族は、まず平壌<へいじょう-ピョンヤン>に入ったが、その後は、列車が安東から新義州につくまでの一時間におちつく予定地を指示された。

 

奉天、公主嶺からも疎開列車がでて、<1945年8月>十五日までつづいて北鮮<同>に入った。

 

 

西北鮮に止まった六万人

 

関東軍家族の指揮官は、佐藤少将で後に山県少佐参謀がかわり、平壌<同>停車場に疎開本部がおかれた。満州国側は桑原英治<くわばらえいじ>、安井尋志<やすいひろしの>両氏が代表となり、桑原英治氏が全避難民総本部長となった。

 

その時北鮮<北朝鮮>に入った人の総数について、後に新京の東北地方救済総会でまとめた「北韓疎開者状況」には、平北二万名、平南三万八千七百名とかぞえその内訳を軍人軍属家族一万六千満鉄家族一万六千七百、その他一般二万六千としている。

 

平壌<へいじょう-ピョンヤン>は、二万一千余、軍関係、関東局、大使館、在満教務部、海軍武官府特別建設団、新京酒保、新京、奉天の一般市民が集まった。

 

鎮南浦へはほとんど新京からで、その総数は七千五百名であった。

 

最初鎮南浦近郊竜岡郡内<ちんなんぽりゅうこうぐんない>に(竜岡<りゅうこう>、花島<かとう>、徳洞<とくどう>等)千五百名ばらまかれ、竜岡温泉に竜岡地区疎開団事務所がおかれたが、<1945年>八月二十一日に治安が悪化したために、臨時列車で鎮南浦に移住合流した。

 

平南北には新京の人が多かったが、平北には奉天から古邑<こゆう>、車輦館<しゃれんかん>、嶺美<れいみ>に入ったほか公主嶺から南市<なんし>、外下<がいげ>、内中<ないちゅう>に約二千名、熱河赤峰<ねっかせきほう>から古邑、南市、宣川<せんせん>、亀城<きじょう>、大安<だいあん>に約九百名入った。

 

新義州<しんぎしゅう-シニジュ>には特定の職域団体は入らなかったが、朝鮮への関門だっただけに約千名を前後して、たえず出入りがあった。

 

満州避難民中には、着のみ着のままでとび出した人達もいたが、贅沢に貨車をおさえた軍人達は、豚、鶏、味噌醤油はもち論、兵器廠関係のものなどは、木綿、金巾<綿織物のひとつ>、自動車まで持ってきた上、多額の金を持ち来ったために地元民の反感をかうこともあった。

 

各地ともにその収容所は、学校、教会寺院、その他公共施設などがおもで、官民、日鮮<日本と朝鮮>とも誠意をつくして接待した。

 

しかし到着して三、四日で敗戦を知った、朝鮮人側の感情は急変し、収容所はおおく公共的なところだけに追放され苦難の生活に転落して行った。

 

この満州からの避難民で北鮮<北朝鮮>で留まらず、京城<旧漢城・現ソウル>や釜山<ふざん-プサン>まで南下し、順調に日本に帰還した人達がいた。その中は航空士官学校満州派遣部隊の五千五百名、興安中省<こうあんちゅうしょう>の約六千名等がいた。

 

※<>は筆者註

 

『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑 28~29ページより

 

 

・決して「被害者意識」は持てない 歴史の真実

 

 

『植民地朝鮮における日本軍の構成』 (※画像本体資料)

 

https://hakata.win/38dosen

 

‐シリーズ・明かされる『満鮮史』 その11(日本兵よ、ソ軍の光栄ある捕虜となれ!)‐

 

「真実」という大そうな物言いは別として、それまで散々侮蔑的な奴隷扱いを受け、命すら軽んじられた朝鮮人や、そうした待遇を良しとする「選択」を取り続けてきた日本人『歴史的帰結』において、結果発生した「不条理」やら「不幸」は、甘んじて受け入れねばならぬであろう。

 

それを否定すれば、自分たちの撒いた種すら、まともに刈り取れない『無責任集団』として、方々から顰蹙を買うとは当然だし、今それを感情レベルでやらかしているのが日本であり、極めて幼稚な政治を、その政治家たちの水準を見れば、民衆の程度もおのずと見えてくる。

 

 

<参考資料>

 

・『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑

 

・かっちんブログ「堅忍不抜」 『9割の日本人が知らない北朝鮮のかつての呼称』記事

 

https://ameblo.jp/sanpurena/entry-12620799581.html

 

 

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