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・継続戦闘を望むもの 武装解除を受けるもの 四散するもの

 

 

『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑より

 

光栄ある捕虜となれ

 

しかしこの附近<北朝鮮/咸鏡北道>の戦いは、まったく混乱状態であり、終戦の真偽が解されずまた、武装解除の徹底はむずかしかった。

 

羅南地区司令部員陸軍中尉高崎謙三氏の談によると、終戦の情報は、佗美<たくみ>少将につたえられまた西脇中将、白川参謀長にもつたえられたが、二人とも信ぜず、佗美少将は、この報を師管区司令部にただしたが、否定したので、そのまま戦いをつづけていた。

 

植弘参謀によりはじめて確報となった。

 

当時魚游洞<ぎょゆうどう>に移っていた師管区本部にいた者の話をきくと、<1945年8月>十八日午後四時、今まで故障で中絶していた無電の連絡ができた時、はじめて終戦の報が入った。

 

それをききだそうとしたが故障で返答がなかったという。

 

部隊はデマとしたい気持ちからその翌日白川参謀長が夜襲を決行しようとしたのである。

 

十八日、朱乙の南方で、ソ軍のタンクに日本軍の将校がのり、またソ軍将校がトラックにのり、日本人の通訳つきで、停戦だから武器をすてろと叫んでいた。ある部隊は、十八日に日本軍の飛行機からのビラで終戦を知ったが、デマだとしていた。

 

たまたま植松参謀にあい、

 

「終戦を信じない」

 

といったところ、

 

「大元帥陛下<昭和天皇>の命にそむくか」

 

といって大喝された。しかし、

 

「日本の今後をみとどける前に、玉砕するのはつまらぬ。シベリアに行くくらいなら満州ににげよう」

 

といって逃げ出したという。

 

いままで、絶対に捕虜になるなと訓練していたために、幹部も苦心して、あるいは、

 

「大元帥陛下の命により光栄ある捕虜になれ」

 

「今回にかぎり陛下は捕虜とはおもわれぬ」

 

などいっている。

 

また、ノモンハン事件のような一時的停戦だという考えは、地区司令部の首脳部ももっており、十八日夜植弘参謀により終戦の伝えられた時、停戦条件を有利にするため、にわかに部隊に北上を命じ、ソ軍に近接した羅南南方二キロの羅赤嶺<らせきれい>まで復帰せしめている。

 

また武装解除をうけ、収容所におくられても、捕虜になることを信ぜず、帰国して部下の論功<功績の評定>するために、そのくわしい記録をとった将校もいた。

 

終戦をきいて四散した部隊も多かった。

 

戦場を離脱して、吉州までにげた兵隊は、二十三日午前十一時、一般人の避難列車にのって南下しようとしたが、汽車は発車直後、ソ軍の戦車隊に阻止され、軍人だけ捕らえられた。

 

※<>は筆者註

 

『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑 27~28頁より

 

朝鮮に駐屯していた日本軍の「その後」は、非常に混乱を極めており、原則通りソ連の武装解除を受ける部隊や、抑留を恐れて大陸に落ち延びる将校らもいる中、下記のリブログ記事にもあるように、日本の敗戦受け入れは名実ともに『ソビエト参戦』によるものが大きいと指摘されている。

 

取りも直さず、それは「天皇制」を維持する以外、何ものでもありませんでした。

 

 

・「国体を護持した」日本 「分断された」朝鮮


1945年6月にドイツの分割統治が始まり、次は日本の番であった。7月のポツダム会談で米英中ソの連合国は日本の分割占領に合意した。米国が関東と関西、ソ連が北海道と東北、英国が九州と中国地方、中国が四国をそれぞれ占領し、東京はベルリンのように4カ国が分割統治する占領計画が話し合われた。米国務省は8月13日、「日本占領のための国別武力構成案」を作成した。  日本の分割計画はなぜそのまま実行されず、筋違いにも朝鮮が代わりに分断されたのか。その数日の間に一体何が起こったのだろうか。最後の一人まで戦うと言っていた日本はなぜ急に8月15日に降伏したのか。これまでは主に原爆投下のためだと言われてきた。しかし、在米の日本の学者、長谷川毅教授は、原爆投下よりもソ連参戦の方が決定的だったという。ソ連が参加する日本の分割を避け、天皇制を守るためだったというのだ。原爆のせいで降伏したという主張によって、米国の日本列島単独占領は支えられてきた(『終戦の設計者たち』 メディチメディア、日本語版は『暗闘 スターリン、トルーマンと日本降伏』中央公論新社)。  一方で小代有希子教授は、日本の軍部が、米国とソ連の衝突地点を日本列島ではなく中国大陸や満州、朝鮮になるように誘導しようとしたという。敗戦後、日本の再起に有利な状況を作るためだった。朝鮮の38度線付近も日本軍が選んだ有力な米ソ対立地点の一つだった。ソ連は8月9日、開戦早々満州と南サハリンに進撃し、たった1日で咸鏡北道雄基(ウンギ)を占領した。翌日の10日、日本は降伏の意思を伝えた。米軍少佐のディーン・ラスクは、一夜にして朝鮮の38度線を分割占領線として提案した。ソ連軍の北海道上陸は時間の問題だった。日本の天皇は8月15日、「終戦(敗戦でも降伏でもない)宣言」を行った。日本が最も恐れたソ連の参加する日本列島の分割占領を避けることができるほど早い降伏だった。  しかし、逆説的にソ連を東アジアに引き入れ、原爆のような人類的災厄を招いた遅きに失した降伏だった。

 

https://ameblo.jp/sanpurena/entry-12619107878.html

 

 

『植民地朝鮮における日本軍の構成』 (※画像本体資料)

 

https://hakata.win/38dosen

 

これに先立ち、「外地」である朝鮮に駐屯した日本軍は、それまで『朝鮮軍』という名称で半島全域の区画で構成されていたが、1945年2月1日日本大本営による「本土作戦に関する統帥組織」の再編で、従来の在朝鮮日本軍の総称であった『朝鮮軍』を解体し、38度線以北の日本軍「関東軍の指揮下」におき、以南の軍隊「大本営直轄野戦軍である第一七方面軍の指揮下」においた。

 

戦争中における38度線の役割は、単なる日本軍の指揮組織の境界ラインに過ぎませんでしたが、後の米ソ進駐における「さまざまな変遷」を経て、南朝鮮(現在の韓国)が『アメリカの植民地』としてスタートしたあたりから、次第に雲行きが怪しくなっていきました。

 

‐近くて遠い国 朝鮮 本編10(独立と強いられた分断)‐

 

‐近くて遠い国 朝鮮 本編11(南北分断の「戦犯」アメリカ)‐

 

今も昔も、アメリカの『最大目標』は、中国市場の独占でありますから、北東アジア地域で日本を含めた「幾多の属国」を従えて、最終的には軍産複合体の利益獲得のために、絶えずこの地に『火種』を撒き続けることが、どれだけの人々が引き裂かれ、戦争によって命を落としたり、住まいを失おうとも、終局は彼らの“利益”となるので、民主主義の拡大という建前の絵空事をエサに、人々を幻の自由で釣って、自分たちに有利になる働きかけを、この先も行い続けるでしょう。

 

 

<参考資料>

 

・『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑

 

・かっちんブログ「堅忍不抜」 『[寄稿]日本の代わりに朝鮮半島が分断された理由』記事

 

https://ameblo.jp/sanpurena/entry-12619107878.html

 

 

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