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・『日本軍の降伏』および「武装解除」の手引き

 

 

『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑より

 

知事はソ軍の手に

 

<1945年8月>二十五日、ソ軍のイワノフ少佐以下八十名が延社に三台のトラックでやって来て、宿所(署長官舎)で朝食中の道幹部を包囲した。朱乙<北朝鮮・咸鏡道に位置する温泉街>の奥にいた白系ロシア人のヤンコフスキーが通訳であつた。

 

日本軍は武装解除をうけ、知事以下二十五名はソ軍の逮捕状をつきつけられ、抑留され山を下った。そのときソ軍のイワノフ少佐は、

 

「ロザノフ大将の命により清津の郵便局の裏庭に収容する」

 

といゝ<踊り字-い>、一行の中には、清津で新しく行政庁が開かれ、そのアドバイザーになると思ったものもいた。

 

この附近は食糧の不充分な山地だけに、地元民からこれ以上の協力はできないという要望もあり、二十七日には十二日分の食糧が配給され吉州、城津を目ざして南下するように手配された。

 

二十六日ソ軍が白岩に進駐した。日本人代表三十名が出むかえた時、イワノフ少佐は、「非戦闘員たる日本人は、なんらの危害をもくわえない。日本人は各自従前の居住地で生業にいそしめ、避難日本人の衣食にこまつている状況もよく知っている。交通機関が恢復すれば希望港から送還してやる」

 

とかたった。

 

この言葉を信じて一部雄基、羅津、阿吾地に引返したものもいた。

 

咸北から京城に向う列車は十二日まで順調に運行されていたが、それからは不規則となり、城津からでるようになった。咸北の戦場地帯から南にのがれた人達は、城津から汽車で南下した。吉州、城津の人達も、南に避難をはじめた。

 

ただ吉州の北鮮製紙工場の日本人七百語十名と、城津の南約四キロの双浦にある高周波関係の人達五千名は動かなかった。

 

 

山下、パーシバルの額のもとで

 

終戦の日、朝鮮軍司令部から飛行機で、参謀植弘少佐が羅南におもむいたが、すでに羅南がソ軍の手中にあるために、着陸できなかった。

 

しかたなく「大命により、八月十五日に停戦命令が発せられた」という軍司令官命のビラを四千枚咸興で印刷し、羅南附近の部隊に空中からばらまいた。

 

日本兵はそれを拾っていたが、前線の軍幹部は謀略命令としてうけつけずこれを拾うことを禁じた。しかたなく植弘参謀は、第三十四軍日向<ひゅうが>参謀と同行して、咸興から飛行機で会文飛行場にむかい、その飛行機から徒歩で、朱乙温堡の北の陣地におもむき、佗美<たくみ>少将に停戦をつたえた。

 

植弘参謀はさらに、東方山地を北上した。魚游洞<ぎょゆうどう>の師管区司令官のもとについたのは、<1945年8月>十九日午後六時ごろ、おりしも白川参謀長は、二コ大隊をひきいて、夜襲を決行せんとするところであった。すぐ浅野少佐参謀、田中金一中尉が、停戦申込の軍使として、ソ軍側におもむいた。

 

ソ軍からの要求で、二十日午前九時に羅南道知事官舎に、西脇師管区司令官、白川参謀長、植弘参謀、浅野参謀、田中金一中尉は通訳とともにおもむいた。

 

皮肉にも、その応接室には、シンガポール陥落の際の山下、パーシバル将軍会見の額がかかげられていた。ソ軍の師団長は、労働者風の赤みがかった肉づきのよいすごみのある男でいうことをきかねばやるぞという威嚇的態度をとり、参謀長はおとなしい作戦型の男であった。

 

二十日、十六時までに日本軍は、練兵場に集結するよう命ぜられ、武装解除の指示がつたえられた。会談は十一時におわった。

 

植弘参謀は、自分は停戦命令をつたえにきた結果を、朝鮮軍司令官に報告する義務があることを主張して、ソ軍師団長から証明書をもらい、今きた山路を引かえし、城津、咸興をひて、京城<旧漢城・現ソウル>に帰り復命した。

 

またべつに、参謀種村大佐が飛行機で延吉の村上軍司令官のもとに派遣された。種村参謀は、その連絡をおえた後、トラックで会寧、古茂山をへて、羅南に入り、西脇司令官に連絡をとったのが、二十日十三時、すでにソ軍との交渉のおわった後であり、種村参謀は、そのままソ軍に抑留の身となった。

 

この連絡により、羅津要塞司令官は十九日に廃茂山にて、隷下部隊にソ軍への降伏を伝達し、武装解除をうけた。さらに二十一日、参謀副長久保満雄少将は、副官および岡田通訳官とともに、M・C輸送機で新京<旧満州国の首都>におもむいたが、雨のために奉天飛行場に不時着し、そこに張家口から進駐したボブロフ中尉から一晩鄭重<丁重>な待遇をうけ、翌日新義州<北朝鮮の中国国境の都市>、平壌にとび、竹下司令官と連絡の上、咸興に行き、京城<同>にかえった。

 

※<>は筆者註

 

『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑 25~27頁より

 

このようにして、朝鮮半島に駐屯し、ソ連軍との戦いに従事した日本軍も、順次「武装解除の手続き」を受け、その軍門へ降ることになりました。


しかし、大事なこととして、実際に日本の降伏したのは、1945年9月2日東京湾上に浮かぶ米戦艦ミズーリ号における『調印式』であり、その状況はラジオの実況中継で全世界に流されました。

 

 

<参考資料>

 

・『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑

 

・Cluttered talk blab blab blab 『現代語訳 Japanese Instrument of Surrender』記事

 

https://ameblo.jp/cluttered-talk/entry-11765035490.html

 

 

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