前回の記事

 

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・『洗脳』の桎梏を 乗り越え


※アメブロシステム障害で『クローム』『エクスプローラー』で「いいね」できず、申し訳ありません

 

‐【初公開】写真の中の近現代史 最終回(在日コリアンの友人提供)‐

 

以前、在日コリアン友人提供の写真紹介の記事で、コメントして下さった『ざいにち80』さんの記事より、貴重な戦前史を紐解くシリーズは、私の心に様々な感情を呼び起こした。

 

当事者との関係、朝鮮や満州のこと、とくに気になった個所はこちら。

 

「引用144頁」

 李恩秀さんの話

「わたしが創氏改名に従わなかったことで学校からずいぶん注意されました。

なぜ従わなかったのか、それは私の生い立ちから話さなくてはね。

わたしの一家は平安南道安州七星里というところに住んでいました。

しかし1910年に朝鮮が日本の植民地になってからは住みにくくなった。

とくに1919年に日本から独立しようという「三・一独立運動」があって以来、

日本の警察がわたしの家を監視するようになりました。

わたしのいちばん初めの記憶というのが三歳のとき、母親に抱かれて

お乳をのんでいたら何人かの巡査が来て わたしから母親をもぎ取り

逮捕していった事です。

略)

母が刑務所に入ってから兄がわたしをおんぶして毎日、安州の刑務所にいる母に

面会にゆくの。

わたしの父も母も逮捕されたのは3.1独立運動に資金を提供したということからで、

それで朝鮮には住みにくくなり満州の奉天(瀋陽)に移住したのです。

 

「両親が奉天に居るので相談してから名前を決めます」とがんばって、とうとう

卒業まで朝鮮人姓をとおしてしまったの。」

 

下級生の朝鮮人で、女学校に入る前にすでに日本人姓に変えた子がいたの。

すると、勝手に日本人姓を名乗るとは生意気だととっちめられたのね。

創氏改名(1940年 在日80挿入入学のとき校長がつけてくれるんでしょ。そういう時代だから

軍国主義的なS先生からは「不逞の鮮人」とみなされ、いじめられました。

 

https://ameblo.jp/jiisan74zainiti/entry-12613917933.html

 

今の感覚から云えば、本当に『狂気の時代』であったことや、『三・一独立運動』のくだりなどは、以前の記事で取り上げさせて頂きました。

 

‐朝鮮最後の『クラウンプリンス』李垠<イウン> その6(高宗国葬と三・一運動『幻の独立』)‐

 

相手が女子であろうと、まったく容赦しない軍国教師の話だとか、在日コリアン友人の母方の祖母さま(昭和8年生まれ)のエピソードなど、当時は帝都東京にお住まいで、『創始改名』のリアルは生々しく、「カネクラアサコ」というのが生まれた時のお名前で、朝鮮独立後に、ご両親が“民族名”を作られた話だとか、元々朝鮮人女性の固有名に「〇〇子(ジャ)」というのは無く、「〇〇淑(スッ)」や「〇〇菜(ナ)」や「〇〇里(リ)」というのが一般的で、そういう「植民地支配」の名残は、さまざまなところからうかがえます。

 

大日本帝国施政下において、いち朝鮮人が民族名を通すことが、果ては“一つの空気”が社会の隅々にまでいきわたる中、それに抗うことが、如何に孤独で苦難に満ちた行動であるか。

 

『天は人の下に人を造る』ごとし、福沢諭吉が“貧知者の出現”と大衆的団結をおそれ、同じ日本人にさえ、まともな教育を与えなかったことや、朝鮮人ならなおさら皇民化教育の末に『帝国礼讃ロボット』に作り替え、交換の利く部品として、各人がムシケラのような扱いが横行する世界は、本質的に考えて、憎しみに燃える人々の姿を通じ、実は今も地続きであるというわけです。

 

それは『ひとつの歴史的命題』として、次世代の私たち自身も「思考停止」をしないための素材、古今東西、物事のあらゆる主体に応用すべく、常に“考え続けること”人間を人間たらしめる本源的な行為であると思います。

 

それでは、本題の記事へと行きましょう。

 

 

・ソ連の「北鮮」進出

 

 

『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑

 

ソ軍茂山地区へ進駐

 

羅津、雄基、清津、阿吾地、慶源、会寧、南陽のほか、満州地区からの避難民たちは、終戦も知らずに茂山へ茂山へ集まってきた。茂山では、あらゆる施設が解放され、十八日頃、集まった人数は三万とみつもりされた。

 

食糧は急をつげて、道当局は府郡面<朝鮮の市町村単位>を督励して、その集積に奔走していた。避難民はつぎからつぎへ集まってきたが、一方ソ軍の近づいてくるのをおそれて、南下するものもつづいた。

 

十九日、従来軍に専用されていた白茂線は道庁側の手にうつされ、(三分の一は軍人輸送)北村羅津府尹<ふいん-日本統治時代の朝鮮で、各府に置かれて府の行政事務を管掌した地方官>の指揮のもとに一般避難民の列車輸送がはじめられた。当時の実情について北村府尹の手記にみよう。

 

「輸送順序を戦禍の最も大であったと何人も肯定する羅津、雄基、清津、その他の順位にし、各府郡邑面指導者に乗車票(簡単なもの)を交付し、輸送区間はとりあえず、茂山━延長社間の折返し運転により、茂山邑滞留者を一時も早く、かつ一歩でも南下せしむることに決定、その旨一般に周知せしめたところ、数日来、軍部側の乗車拒否に解禁を待っていた市民は、なだれをうって集まり、駅構内外を埋めつくし、乗車せんとすると、構内にいた軍人が、大声叱咤、全員を構外に押出さんとする。甚だしいのは、会寧陸軍軍馬補充部の輓馬<ひきうま>、乗馬取りまぜ数百頭終結していたものを貨車に積み込んでいる。白茂線は、狭軌の鉄道であり、貨車一輛に、人間ならすし詰めにして五、六十名、軍馬は六頭が精いっぱいである。機関車の牽引力も最高十二━三輛である

 

ある警察署長が、

 

“輸送責任者である北村が、羅津府尹なるが故に、羅津府民を第一位においたのは不都合だきってしまえ”

 

といって抜剣して駅長室に飛び込んできた。かくて十九日の避難民輸送計画は、丸潰れになった。

 

二十日、全車輛の三分の一を軍部の輸送に割愛、その他は避難民に充てることにつき軍の諒解成立した。

 

かくて一列車、十六━七輛に編成し、人員も無理詰めして七、八十名位のせた。駅構内外の混雑は言語に絶する。狂気の如く先を争い乗車する避難民、午後四時頃、突如列車から飛び降り、構外に出る者もあるので、理由をきくと、

 

“今陸軍中尉の軍服をつけた軍人が畏<かしこ>きあたりより停戦命令も出た。戦争は、すでに終結を告げたから、お前達はもう避難する必要がなくなった。一時も早く原住地に帰るが良策なり”と警告したという。

 

我等には、寝耳に水のニュースだ真偽を確かむべく、営林署に人を走らせると、道本部でもさような情報に接していないとの回答、正しく後方攪乱の戦術だ・・・・・・早速四方に警察官を派し、人相その他によりそれらしい軍人を捜索せしむると、間もなく一人の中尉を連行した。みると羅津に進駐した暁部隊の佐藤中尉だ。

 

“本日富寧地区に羅津要塞司令官以下所属部隊が集結している処へ、種村大佐が見え、司令官に停戦命令を伝達された”という。

 

何か証拠があるかと尋ねると、関東軍司令官が各隷下部隊に発した命令を半紙四つ切型に謄写<とうしゃ-書き写し/印刷>した(表日本文、裏露文)もの数枚を、所持している。

 

尚脳裏半信半疑の域を脱しない。

 

一方全神経が複雑な感情に支配され只呆然と立ちすくんだまま暫し時の経過を忘れていた。

 

早速、知事の指示をうけたが、避難計画には変更なしということに決まった。即刻このことを一般に周知し再び輸送に専従する。

 

二十一日、終夜運転で邑内滞留避難民は、相当緩和されたと思ったが後から後から流れ込むので、減少どころか最初にくらべて尚増加の傾向にある。特に昨日頃より阿吾地人石の工員が続々終結してくる。

 

二十二日、前夜に引きつづき輸送事務に専心、特に延社からの貨車逆走に意を払う」(北村留吉府尹はその後ソ軍に抑留、<昭和>二十四年ソ連から最後の引揚船で帰国したが、二十五年十月急逝。本稿は、その逝去一ヵ月前に執筆された遺稿の一節である)

 

二十一日に、ソ軍は古茂山に侵入し二十二日に茂山に進出してくる予定であった。

 

知事は、ソ軍の進駐を一日間待ってもらって、避難民を安全に移動させるようとし、加納警察部長、井上一人高等課長、入江国政警部、小手川巡査部長(通訳)の四名が白旗をかかげて山を下って行った。この四名は廃茂山でソ軍の前衛にあい、古茂山のソ軍部隊につれて行かれそのまま抑留となった。

 

二十二日から交通関係者自身が南下したために、白茂線は動かなくなり、あとにのこる人達は、徒歩で南下するよう告知文が出された。

 

この附近は千メートル以上の高原地帯である。秋草さみだれ、うつくしい秋色の山々であったが、土地のやせた山岳地帯の食糧難は深刻であった。

 

その上、高冷地であり、朝夕はうす着の身に寒さが一入<ひとしお>沁みた。

 

遠く国境方面からつかれきって歩きつづけた人々のなかで、老人子供は精根つきはてて仆れ<たおれ>はじめていた。

 

二十三日に知事等は延社に移動し、警察署に道庁本部をおいた。当時延社には六千名位の避難日本人がいた。

 

※<>は筆者註

 

『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑 23~25頁より

 

 

<参考資料>

 

・ざいにち80 『生身の○○人を知ってますか?  ”アジアを抱く”を読んで』記事

 

https://ameblo.jp/jiisan74zainiti/entry-12613917933.html

 

・『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑

 

 

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