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・歴史に翻弄されながらも その「一族の軌跡」をたどる

 

 

史実の認定

 

 

前述のようにソウル<京城・旧漢城>に総督府が登場するや“自分らは加藤清正の右先鋒、沙也可の子孫”と名乗ったのは慶尚北道の友鹿洞、金氏一門であった。

 

その心情は“日本人の子孫”を名乗って総督府の同情と好遇を期待したものであろう。

 

しかし金氏一門の期待は見事に裏切られ、手痛い罵倒を浴びせられたのだ。

 

その一方で、ときたまに日本人が部落を訪ねて“資料検分”と称して金氏の先祖の遺品提供を求めた。そこで一門は期待をかけ、丹念に遺品を差し出した。すると来訪者は“考証する”といって持ち帰った。

 

この種の来訪者が現れるたびに、その先祖の貴重な遺品は一品ずつ持ち去られたのだ。

 

ある者は半強制的に迫って持ち帰ったという。持ち帰ったものは二度と戻らず、しかもなんの反応もない。結局、なし崩しに金氏一門の家宝を奪い取ることになった。

 

この奥の手に気づいた友鹿洞の人々は、来訪者に警戒心で応じた。

 

そのあげく先祖の遺品一切を頑丈な盒(ハプ)に納めて、長老宅の壁蔵(ペクチャン)に隠し、二重の錠を仕掛けた。それ以来、部落民<沙也可一族>は日本人に恨みをひそめ、沈黙に帰った(今でも金氏一門の家宝は長老宅の壁蔵に納めて錠をかけてあるが、これは当時の警戒心の名残りである。)

 

一九三〇年は日本軍の大陸侵攻開始の時節である。カイライ「満州国」が立ち、とみに「日鮮同祖論」が唱道された。そんな風がなびいた一九三三年一月、総督府朝鮮史編修官・中村英孝が、沙也可後裔部落へ派遣された。

 

※『日鮮同祖論』(当時の国学・日本史系統学者の論説/皇国史観の一類型)

 

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中村編修官の任務は、金氏一門の先祖「投降日本武将沙也可=金忠善」の史実を認めるためであった。すでに当編修官は『李朝実録』と『承政院日記』に記載された「沙也可」関係記事を確認していた。そして金氏らが提出した新資料━先祖沙也可の遺した唯一の親筆“長子金敬元の婚書”を添えて、「沙也可は正に投降日本武将である」と公認するに至った。

 

長年、総督府と日本人側が、罵倒の鞭を下してきたものを、今になって忽然と「史実」に認めたのは、日本の大陸政策上の、日鮮同祖論の手近な好材料に見立てたからなのは言うまでもない。

 

その数年後、日中戦争が勃発した。総督府は戦争遂行上「皇民化運動」を掲げ、「創氏改名」を押しつけ、日本式の苗字を強いた。

 

このとき金氏一門は“先祖の日本人に戻る”とあって「沙」姓を戸籍に申告した。

 

また一部は、先祖の賜姓「金」にちなんで「金本」と改姓し、一門の姓が二つに分かれたという。

 

 

血族一門は生きつづく

 

 

一九四五年八月、独立国の旗が立ち、やがて李承晩政権が登場した。三六年間の総督政治の歪みを是正すべく“反日政策”を国是とした。

 

そこで友鹿洞の一族は、先祖(日本人)の話などオクビにも出せなくなった。厳しい反日感情の下に、同部落の古老は「わが先祖が捨てた日本を、われら後孫たちが宜しく思うはずがありませんよ。われわれこそ抗日感情を培ってきたのです」と、巧みに弁明した。

 

一九六一年、朴政権が出現して「韓日会談」が開かれ、一九年ぶりに初めて日本人の記者特派員がやってきた。その記者が、物珍しげに金氏一門の部落を訪れると、白髪の長老が「やァ、よくきてくれました。わたしたちは今でも日本人の先祖を誇りにしている」と屈託なく迎えて、家宝の古文書を丹念に見せた。同部落の長老は今でも、昔かたぎの綱巾(マンクン)で額を包み、長いキセルをくわえていた。それは典型的な李朝人の風貌である。

 

友鹿洞の人々は、その先祖を偲んで春秋二回、郷祀を行なう。この日、各地に散在する血族四百余戸の代表(二、三百人)が集合すると、寒村がにわかに賑わい、お祭り気分になるのだ。

 

このときこの沙也可の後裔たちの祭典であった。

 

部落の前方の山腹に沙也可の墓、その麓に鹿洞斎がある。そこで一族は盛装して郷祀を行い、先祖の親筆や遺品が披露され「家訓」も説かれる。家訓にいわく「汝らは後生である故、聖恩をかみしめ、刻骨銘心<(感激したり印象が強くて,または恨みが深くてそれを)心にしっかり刻みつける,肝に命じる,永久に忘れないこと>を忘る勿<なか>れ。栄達<出世>を欲せず、身の修業<スキルアップ>に尽くせよ」とある。

 

金氏一門の先祖、日本武将沙也可(賜姓金忠善)は晋州人の女を娶って五男一女を残し、七十二歳で死んだ。その子孫は今日約二〇〇〇人に達する。一門中の知名人は、ソウル地検の検事長を経て中央情報部<KCIA>次長となり、最近検察総長に就任した金致烈氏(五十五歳)である。

 

参考文献

 

青柳綱太郎編訳述『慕夏堂文集』(旧京城=ソウル、一九一五年)。

幣原担「沙也可」『歴史地理』第一〇巻第一号(東京、一九〇七年七月)。

中村栄孝「投降部将金忠善」『日鮮関係史の研究』下巻(東京、一九〇七年七月)。

大迫記者ルポ『東京新聞』(一九六四年十月四日号)。

李敦栄記者ルポ『週刊韓国』(一九七一年五月二日号)。

徳富猪一郎「朝鮮役における降倭」「近世日本国民史」庚編『桃山時代概観』(東京、一九二二年)。

李烱錫著『壬辰戦乱史(上・下)』(ソウル、一九六七年)。

柳成龍著『懲毖録』(ソウル)。

朝鮮史料『李朝実録(宣祖実録)』。

朝鮮史料『承政院日記』。

原田種純著『朝鮮役』(東京、一九七一年)。

李相佰著『韓国史』近世前期編(ソウル、一九六二年)。

震壇学会編『韓国史年表』(ソウル、一九五九年)。

岡田貢著『京城史話』続編(旧京城=ソウル、一九三七年)。

 

※<>は筆者註

 

『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社 176~179頁より

 

 

・「自由な時代」から「固定の時代」まで

 

 

民族や国籍のない時代から、近代ナショナリズムを経て、現代中国(ロシア)と欧米における『文明の対決』の時節でありながら、その少しまえの「国家の時代」において、金氏一族が韓国と日本の「板挟み」という苦しい状況を経験しながらも、脈々とその歴史を紡いできたことは、特筆すべきものであると考えております。

 

そういう難しい時代において、私たちが想像力を駆使し、他者の気持ちをおもんばかるためには、やはり「思考の素材」が必要なわけで、それが『歴史を学ぶこと』に直結するのだと思います。

 

2010年代も終わり、来る未来を予想しながら、自分たちの「立ち位置」を見定め、責任ある立ち回りをするためにも、過去の膨大なアーカイブスを、その中でも抑えておかなくてはいけない箇所については、しかと把握し、この複雑な現実世界を推し量るための『資料』として、何度も確認して、記憶しながら、新たな認識へとつなげることが大切であると感じます。

 

 

<参考資料>

 

・『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社

 

 

<ツイッター>

 

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