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・「降倭」の その後

 

 

三〇〇年来の居住地

 

一五九二年(文禄元年)から足かけ七年の壬辰倭乱<豊臣氏の朝鮮出兵>は、秀吉の死去とともに終止符が打たれ、日本軍はなすことなく撤退した。

 

そして多数の降倭は、朝鮮同化の道を選んだ。

 

降倭は三種に分けられる。

 

(1)帰順して軍功を立てた者。

 

(2)捕虜その他の敗残者。

 

(3)置き去りにされた戦病傷者。

 

むろん戦功を立てた者は授職によって定着地を得た。そのなかでも金誠仁、金忠善<沙也可>、金向義、金継忠、金帰順といった名が知られている。

 

このような賜姓者は、文字どおりに好字を選んで“忠誠”の意を宿している。また賜姓はたいてい「金氏」となっており、それも金海を本貫<古代東アジアにおいて戸籍の編成(貫籍)が行われた土地をいう。転じて、氏族集団の発祥の地を指すようになった>とし、その子孫たちは「賜姓金海金氏世譜」の族譜<チョッポ>を作成して保有した。

 

金海(郡)の地は最も日本に近く、日本軍が長期駐屯した土地でもあり村民とは馴染み深い。

 

古来日本とはゆかりのある土地でもあった。そして賜姓者たちの定住地は、慶尚南北道の穏やかな土地が選ばれ、かたまって代々に農業を営んだ。その集落は「降倭鎮」と名づけられた。

 

これに比べて戦功もなく名もない降倭の多くは、江原道や西北地方(平安道)の僻地に分居させられた。その子孫たちは先祖を語り継ぐこともなく、埋もれてゆく。

 

また、置去りに戦病傷者らの居住所は、日本軍駐屯の時分から、漢城(ソウル)郊外の李奉院に定まっていた。そして日本軍がソウル撤退のとき、小西行長が朝鮮側に「よろしく頼む」と委ねた者である。ちなみに、ソウル撤退時の日本兵員は「五万三〇〇〇人」といわれる。

 

これは朝鮮上陸時の半数弱である。

 

戦死者や戦病傷者や降倭も含めての数が半分以上を占めたことから推して、李報院に残置された者を数千ないし一万人と推定することもできる。

 

このうち廃人に終わった者もあろうが、元気を回復して朝鮮婦女子を娶って住みついた者もいる。これが李報院部落の始まりであり、その後裔の居住地となった。そこで李奉院をもじって「異他院」とか「異胎院」と呼んだという。

 

総督府時代は京城府水道町と称して日本人居住地だったが、今はソウル市竜山区李奉院洞となっている。壬辰倭乱から三〇〇年が経過し、総督府が登場した当時、帰順日本人の後裔地として自ら明らかにしたのは次の人々であった。

 

達成郡嘉昌面友鹿洞 金賜禧ら八〇戸

 

清道郡豊角面 金姓八戸

 

密陽郡府北面 金大汝ら一族

 

金海郡進礼面詩礼洞 金享淑ら一族

 

これらの村落の子孫たちは、先祖が戦功によって授職と賜姓を授かったという自負があったと思われる。このうち清道郡の金氏らは、帰順日本兵の頭目であった金誠仁(沙汝某)の子孫といわれる。また、前記の金氏たちは三〇〇年来、姻戚関係を続けていた。

 

この他にも各地に、帰順日本兵の後裔居住地があったとしても、そのほとんどは自己のの先祖を名乗ることはない。白眼視されたからである。

 

たとえば、ソウル郊外の李奉院部落の住民の場合も、その先祖が「日本人」であることをオクビも出さず、隠しきったという。

 

※<>は筆者註

 

『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社 173~176頁より

 

 

・『歴史を知る』こと その重要性

 

 

時事通信社 『朝鮮要覧1973』現代朝鮮研究会より

 

この戦争中、日本に連れてこられた朝鮮陶磁器職人たちも、故国に帰った者を除いて、姓を維持しつつ、日本に同化した人びともいた。

 

‐朝鮮に帰化したサムライ・沙也可の実像 その2(明治日本の「目の上のタンコブ」)‐

 

それは、朝鮮に残った日本武士たちも同様で、西洋から「民族」という概念が出来あがった近代期において、双方の『壁』の中で揉まれながらも、それらを止揚し、この先を生きるにおいて、悲しき歴史は記憶しつつも、理不尽な「分断」はなくさねばならない。

 

過去を正確に知り、未来に活かすことは、この社会を「生きやすい」環境へ繋げることになる。

 

ゆえに、歴史というものは、今まで以上に珍重される学問・認識として、多くの方々の「共通財」として、広くシェアされ、地域や国益に役立つ存在だと、私は強く思うのです。

 

 

<参考資料>

 

・『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社

 

 

<ツイッター>

 

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