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・日本の戦時体制に「組み込まれていく」 在日朝鮮人

 

 

 

『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂 251~252頁より

 

 

1 太平洋戦争末期の在日朝鮮人

 

━一九四五年・・・・・・おののいた一朝鮮青年の記録

 

挫折した日本脱出

 

あの年(日本の敗戦)から、すでに二三年もすぎているが、この私には昨年のできごとのように思われる。それほど深刻な体験が身にしみついている。歴史のひと足は、二〇年をひとまたぎにする。この私の体験は、当時、二〇〇万を数えた在日朝鮮人の胸の底の、深層心理のいわば二〇〇万の胸底にピクピクと動いた、死と生の心理葛藤である。ここに私の心情と足掻きを明らかにしておく。

 

朝鮮という植民地を抱えた日本帝国の、太平洋戦争開始以来の最大の憂いは、朝鮮人の内部抗争であったらしい。そこで“戦争に協力しなければみんな銃殺するぞ”とおどかした。じっさい、戦争に狂った日本軍部が何をやりだすかわからない。

 

そこで朝鮮人は“熟柿の落ちる”のを待つ心境で、体制に順応することになった。

 

つまり強いられた徴兵、徴用、食料供出におとなしく従ったのである。

 

戦争発端の「北支事変<満州事変>」が泥沼にはまって東条英機の癇癪玉が真珠湾に破裂したとき、朝鮮の知識層は、日本帝国の命運を予見した。つまり、日本は八方に敵をつくり、墓穴を掘ったと見た。ということは「朝鮮独立」の曙を見取った。そして一九四三年ごろになると、日本列島の危機を察して、一部の朝鮮人はひそかに朝鮮へ引き揚げていった。が、大部分は黙々と大勢に動かされていた。

 

東京の片隅に、ひっそりと、つつましく住んでいた私も、その一人であった。若造の私には日本の戦争を予測する余裕もない。ただ順応してゆくのみ。例の“必勝の信念”に燃えた日本的雰囲気に呑まれたせいであろうか。そのあげく、わが故国<朝鮮>への感覚すら、つみとられていたにちがいない。

 

『必勝の信念』詳細 (『歩兵操典』より)

 

http://www.warbirds.jp/sudo/infantry/i1.htm

 

ところが、一九四四年七月「サイパン玉砕」が報道されて、日本人の顔が青ざめたとき、ハッと私も目の覚める思いになった。つまり、日本は確実に敗けるぞ、と判断した。

 

サイパン島とは、日本の死命を制する太平洋の内壁であり、この壁が崩れると一瀉千里<いっしゃせんり=物事が速くうごくこと>に日本本土が攻め込まれるそうである。とすると、戦争の結末はわかったようなものであった。

 

この判断ができたとき、初めて私も日本を抜け出そうと決心した。いまのうちに抜け出さないと、自分も日本軍民もろともに死ぬだろう、と予測したからだ。

 

サイパン島玉砕でも証明されたように、日本島の決戦となれば、降参を知らない日本軍民は最後まで戦って、結局は全員が戦死または自決するからだ。それは日本国民の気性から察しても、目に見えている。サイパン島玉砕は例外ではない。さきにアッツ島玉砕、マキン・タラワ両島の玉砕、クェゼリン島玉砕、ルオット島玉砕━どこでも最後には全員が戦死と自決をとげている(そう報じられていた)。

 

まして日本本土の防衛戦となったら、どんなに凄惨な戦いとなるか━それを考えるだけでも私はゾッとした。おそらく日本の地上のすべての者が死ぬだろう、と私は断定した。したがって、私も当然、死の道づれにされると思った。朝鮮人の私には戦意もなければ、むろん連合軍への敵愾心もない。それどころか日本軍国の敗退のあとに「朝鮮」は浮かびあがり、本当に朝鮮人の生きる世界が現れてくるだけに、いよいよ生命への執着が強くなってくるのだ。

 

※<>は筆者註

 

『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社 5~7頁より

 

 

・そろそろ各人が 過去と「徹底的に向かう時期」が迫っている

 

上述のシリーズは、まだまだ続きますが、引用文から当時の「日本社会の空気」が伝わってくる。ほぼ全員が降参をせず「戦死」ないし「自決」を選択する社会。それらを構築した日本人の精神性について、今一度考えてみなくてはならない。

 

「それだけ日本の近現代史において丸山の研究業績が優れていることを示している。丸山は日本の天皇制や軍国主義など第2次世界戦直後、知識人があえて触れなかった部分を優れた洞察力で分析した学者だ。彼は敗戦後、誰も責任を取らない日本の指導者と社会を痛烈に批判した。戦争のため大勢の人々が死亡し、社会・経済的にも大きな被害があったからだ。しかしどの知識人も天皇などの戦争責任者を非難しなかった。丸山は当時、日本のこうした状況を『無責任の体系』と規定した。『こういう文化を持つ国があり得るのか』と嘆いた。こうした社会の雰囲気を正すため、丸山は『日本は天皇を求心点として軍国主義を通じて望ましくない方向に進み、これによってアジア諸国を願わない状況に陥らせた』と主張した」

 

(中略)

 

「丸山は国家の方向が国民の自律意志に基づいて決定されるべきだという考えを持っていた。国民の判断と主体的思考を基礎に、時間がかかっても民主主義を実現させなければいけないということだ。これが丸山の『永久革命論』だ。彼は徹底的に合理主義的な知識を基盤とする近代主義者だ。彼の哲学には、他のアジアの国々の固有の民族主義を害する行為を日本がしてはいけないという内容もある。敗戦後の日本の混乱した状況で、彼の主張は当時の日本社会で大きな反響を起こした」

 

中央日報 『戦争責任を取らない日本の「無責任システム」を痛烈批判(1)』記事より

 

https://japanese.joins.com/JArticle/188238

 

いつのまにか、戦前の「絶対君主」から、戦後の「平和の象徴」すり替えられた天皇制含め、なし崩し的に物事が進み、私たちはその「反芻」を、未だできていない状況である。

 

なぜ、彼らに対して「無窮の尊敬」を向けなければならないのか。さらには、「心の拠り所」にしなければならないのか。この盲点こそが、現代社会においても渦巻く『無責任体制』の大前提と言えよう。ゆえに、ここが改善されぬ以上、根本的に日本国内に山積する大小さまざまな問題は「完璧には」解決されない。

 

‐大日本帝国2.0を生きている私たち‐

 

無論、大本にアメリカによる「作為」があったのは事実だが、何より日本人自身の「ふわっとした全体」に自己を任せる気質が、物事をうやむやにし、灰色の訳の分からぬ状況におとしこめ、先の大戦「主犯格」の一人であった裕仁(昭和天皇)や、その後の天皇家の「成り行き」についても、殊にアジア諸国との歴史問題において、重大なキーパーソンであるにも関わらず、我々は「意図的に」そこから遠ざけてきた。

 

ぶっちゃけた話、これはリベラルや保守・右翼のレッテルに関した話ではなく、もっと大きな範疇で語られるべき問題だと思う。つまるところ、「私たち自身の弱さ」の問題であり、これと向き合うことに「大いなる躊躇」をもたらす陥穽でもある。

 

かっこつけた言い方になってしまいましたが、要は「絶対に向き合わないといけない問題」だけど「絶対に向き合いたくない問題」という意味になる。

 

極東軍事裁判で「なぜ聖戦と呼ぶのか」と聞かれた時、かって朝鮮総督であった官僚は「聖戦と一般に言っていたから、ついそういう言葉を使った。侵略的というような戦争ではなく、状況上余儀なき戦争だったと思っていた」と答えた。

丸山真男はこうした日本軍人の姿を「主体性を喪失して盲目的に大きな力にひきまわされる精神」と分析した。そしてそれを「無責任の体系」と位置付けた。

 この「無責任の体系」という言葉は、大きな事件を起こした組織幹部のリーダーシップの欠如のため、より事態を悪化させたり、トップが部下に責任をなすりつけ居座り続けたりするときにしばしば使われた。

 

からから亭日乗『「無責任の体系」ということ。』記事より

 

http://karakara.office-segawa.net/2018/03/blog-post_30.html

 

天皇の問題にしろ、現政権や大企業中心の支配体系にしろ、さまざまな言論分野に「この論理」は応用できるし、さもなければ、近い将来、日本の「破滅」をもたらすリスクになるかもしれない。常に私たちは、そうした「爆弾」を抱えている。

 

 

<参考資料>

 

・『朝鮮の歴史 朝鮮史研究会編 編集代表 旗田巍』 三省堂

 

・『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社

 

・中央日報 『戦争責任を取らない日本の「無責任システム」を痛烈批判(1)』記事

 

https://japanese.joins.com/JArticle/188238

 

・からから亭日乗『「無責任の体系」ということ。』記事

 

http://karakara.office-segawa.net/2018/03/blog-post_30.html

 

 

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