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・これから待ち受ける『地獄』を前に・・・

 

 

『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑より

 

馬乳山の攻防戦

 

張鼓峰附近のソ軍も慶興より侵入を開始した。<1945年8月>九日午前三時半に、雄基郵便局は青鶴<せいかく>出張所からの電話で慶興対岸にて交戦中の情報をうけ、ひきつづき慶興からも同様の連絡あり、午前八時には、ソ軍が青鶴部隊を包囲したと通知し、同時に列車の運行は停止となり、国境方面との連絡をたたれたと報告している。

 

第百二十七師団(主力は八道河子にあり)隷下の慶興にあった一コ中隊は九日の戦闘で約五十%の損害をこうむったと報告されている。

 

関東軍は、このソ軍の進攻して来る日を期してはいた。しかし戦法としては、まず山間に入り、迎撃態勢をとるにあった。羅津、雄基にいる日本軍がいち早く退却したのは、この予定の作戦であった。

 

しかしのこされた人達もいた。

 

雄基附近のある分隊は、敵の海上からの猛砲撃をうけ、気がついた時は、その分隊だけになっていたので、がむしゃらに南下したという。

 

羅津から転進した一人の兵隊は、国境附近の塹壕に憲兵隊員が前線にむかって死守する構えをとり、子供を背にした妻が、その壕で炊事をしつつ「救援をたのみますよ」といった姿は、わすれられないと語っている。

 

第一線部隊の後退する中に、ただ一つ積極的な抗戦のみられたのは、慶源の馬乳山である。

 

第七十九師団司令部は、南陽に、第二九一連隊本部(連隊長杉山香也<すぎやまこうや>大佐)が慶源の南方におかれていた。開戦直後、琿春<満州地域>を攻略したソ軍は、十三日朝逐次南下して訓戎<くんじゅ>の鉄橋を突破し、慶源の南方馬乳山に戦車をつらねて攻め来たった。

 

第四中隊(中隊長小野長生<おのながお>中尉)はこれを迎撃し、月明山にいた第五中隊(中隊長西本昇一<にしもとしょういち>見習士官)が救援におもむいた。

 

この附近は広い平面の密林地帯で、日本軍は、戦車にたいして壮烈な肉薄攻撃をおこなったが、西本中隊の大部分は戦死し、小野中尉も戦死した。

 

十七日にようやく停戦が徹底し、日本軍は南陽附近に集結し、武装解除をうけた。

 

この抗戦は、ただ二コ中隊による分散的戦闘であるが日本軍の撤退を追求するソ軍を一時的に阻止する役割をはたしたといえよう。

 

 

根こそぎ動員と南鮮軍北上

 

八月九日午前九時、咸北警察部長から、ソ軍進攻の情報が発表された。羅南師管区兵事部は、この非常事態に、在郷軍人に最後の、根こそぎ動員の召集令状を発し、<1945年8月>十日に部隊編成をし、会寧の召集部隊には慶興を、羅津の召集部隊には羅津海岸を、清津の召集部隊には、清津湾の警備を命じた。

 

しかし慶興も羅津も応召と同時に、部隊は退却をはじめていた。

 

日本軍のあとを追って避難しようとする人達の中にも、召集令状がばらまかれた。民間の工場、その他枢要な地位にある人達もこの危急に、妻子の受難を目前に知りつつ召集に応じた。まじめな日本人は、この召集者に万歳をさけんで見送った。

 

清津にあった咸北道庁職員のごときは、課長以下、高等官十数名が召集をうけ、これでは行政機能を停止せざるえないとして、参謀長に抗議してようやく取消されたほどであった。

 

南鮮で米軍の防備に専念していた第十七方面軍も、にわかに北鮮へのあたらしいかまえをとった。九日大邱附近にいて、済州島へ転進を準備中であった第百二十師団の主力は京城<現ソウル/旧漢城>に集結が命ぜられた。

 

十日、大本営命令により、第十七方面軍は、関東軍の戦闘序列に入り、ついで関東軍の命令にもとづき、咸興を本拠としていた第三十四軍は、第十七方面軍の指揮下に入り、同時に第百二十師団は関東軍司令官の直轄となり、平壌附近に集結を命ぜられた。

 

当時全州にいた第三百二十師団にはその主力を元山に集中して、三十四軍の指揮下に入るよう下命された。また仁川造兵廠から新しい銃弾を咸興に急送した。

 

一方、第十七方面軍としては、参謀副長菅井少将は<1945年>七月二十日から大本営で開かれた会議に出席し、八月八日夜、京城に帰着したばかりであった。

 

(その大本営における会議は、日本、朝鮮、満州、中国の参謀長級のものを集めて、最後の本土決戦作戦打合わせを行なったのであり七月六日の最終決戦を主張した御前会議の状況がつたえられ、断乎たたかいぬく決意がみなぎっていた。しかもソ軍がこんなに早くでてくるとは、その会議に参席した誰も考えてなかったという)

 

菅井少将は、九日夜、京城発の急行列車で北行、<1945年>八月十一日朝五時、羅南についた。ただちに師管区司令官西脇中将と連絡し、その日午後、道庁で渡部道知事、加納警察部長にあい、道としての対策をきき、さらに清津北方広周嶺<せいしんほっぽうこうしゅうれい>附近を視察したのち、清津防衛の部隊長を集めて、ソ軍迎撃について作戦をねった。

 

空軍の部隊は、北鮮各地にも駐屯していたが、今はソ軍の防備よりも、米空軍にそなえねばならない。また機数も少なく、集中攻撃はできないので、待避作戦をとっていた。

 

最後の召集令で集まった兵隊は、六割が朝鮮人、それに未教育のニ十歳以下のものもいる。これでは戦争ができない。清津防衛のために、もっとも近い咸興の第三十四軍から兵力をかりるよりほかなかった。

 

菅井少将は、十三日咸興にむかった。同少将が咸興についたのは、<1945年>十四日の朝であり、十五日正午にラジオ放送<玉音放送>を第三十四軍司令官とともにきいた。

 

もういくさは終わったのである。<実際に戦争が終結したのは9月2日の降伏文書の調印日>

 

※<>は筆者註

 

『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑 14頁~16頁より

 

 

・朝鮮半島に駐屯した 日本軍「総出」の戦争

 

 

『朝鮮半島38度線と軍事境界線の違い』(※画像本体資料)

 

https://hakata.win/38dosen

 

1910年に朝鮮半島全域を「植民地」とした大日本帝国は、大戦末期の1945年2月1日日本大本営による「本土作戦に関する統帥組織」の再編で、従来の在朝鮮日本軍の総称であった「朝鮮軍」を解体し、38度線以北の日本軍を関東軍の指揮下におき、以南の軍隊を大本営直轄野戦軍である第一七方面軍の指揮下に置きました。

 

ソ連軍の参戦で、もともと壊滅的だった戦局はさらに悪化し、「北鮮」の関東軍「南鮮」の第十七方面軍(大本営直属)吸収される形となり、北の進撃に備える目的で、その他様々な部隊編成の変更がおこなわれた。

 

来たる“本土決戦”の悲壮感漂うなか、多くの朝鮮人「植民地防衛」のために動員され、『祖国解放』を目前に、理不尽な戦いに参加させられたことも忘れてはいけません。

 

 

<参考資料>

 

・『秘録 大東亞戰史 朝鮮篇』 富士書苑

 

 

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https://twitter.com/XMfD0NhYN3uf6As

 

 

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