前回の記事

 

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・『実利』さえあれば どちら側にもつく

 

 

「降倭」の実情

 

 

いわゆる朝鮮役の実情は、明治以後に粉飾されたようなものではなかったし、また喧伝された“愛国心”が日本武士にあったわけでもない<所謂「近代以後の国民軍」>。

 

徳富猪一郎の著述によると、当時の武士は金銭授受で募っており、褒賞による傭兵であった。その戦意も英雄心も、金銭授受にあったという。秀吉の朝鮮出兵の命令は、九州征伐の延長だといわれるが、このとき九州の武士二〇〇〇人が反乱を起こしたほどである。

 

日本軍が釜山に上陸して疾風のように進撃したのは、朝鮮の“泰平ムード”に不意討ちをかけたせいであった。が、やがて義兵<ウィピョン>が立ち上がり、優勢な朝鮮水軍が制海権を握ったあとは、秀吉軍の補給が絶えて食料困窮と疫病が続出した。

 

それからの日本兵は敗退と籠城が続き、そのうちに日本陣営に厭戦気分がみなぎり、多数の者が朝鮮側に投降した。朝鮮の資料には「降倭」の記事が多く散見される。投降日本兵を「降倭」または「帰順倭」と呼んでいる。

 

日本兵の投降が多かったのは、開戦の翌年の春ごろで、ときには群れをなして投じた。

 

日本陣中でもおおっぴらだったらしく、『宣祖実録』には「倭兵<日本兵>、天兵(明軍)に投帰する者百に至る。賊首知るといえども禁ぜずという」とあり、なかば公然と投降したことがわかる。

 

ところで、投稿者が必ずしも臆病者であったわけではない。日本陣中の逼迫と、朝鮮側の誘引<引き込み説得>と<降伏時の>優遇策に引かれた者が多い。最初は日本兵を殺していたが、まもなく朝鮮政府では「倭<日本>を以て倭<同>を討ち、其の長所を以て長所を攻め、また其の短所を攻める」建議があり、投降日本兵(降倭)の利用法を講じた。

 

そこで、降倭に対して衣食を豊かにして厚遇し、さらに歓迎した。

 

それで投降者が続出した。はては投降後の待遇を条件に、数十名単位の“投降の申込み書状”を密かに手渡した。当時の降倭の心理を徳富猪一郎は「近世日本国民史」において「彼等の眼中には自国もなく他国もなく、その去就は、ただ眼前の利益得失に存した」と述べている。

 

かくて降倭が増大するにつれて、朝鮮側では、降倭の反乱を恐れて、一時は当惑して消極的になったこともあった。そこで投降する日本兵の中には、自分の真意を示すために書状に血点をつけて持参した者もあった。

 

ちなみに朝鮮陣営での「降倭」利用は、次のとおりになっている。

 

(1)対馬や北九州出身者にして朝鮮語に通じた者は、通訳または諜者<スパイ>として日本陣地の偵察と投降者の誘引に使う。

 

(2)武術に優れた者は、訓練都監に配属して朝鮮兵に剣術や鉄砲術を指導させる。

 

(3)造兵<兵器製造>技術をもった者は、鳥銃(鉄砲)や火薬製造に従事させる。

 

(4)一般兵士は、戦士として前線に活用する。

 

かくて朝鮮政府は、成績抜群の降倭には授職(官位)を贈って優遇した。

 

その効果もあってか、日本武士は戦闘に勇敢である、と朝鮮史料は認めている。『宣祖実録』には、朝鮮軍とともに行動した降倭らの戦士が、洛東江の畔<あぜ-田んぼの間の道>で、南下する日本軍一万と遭遇し、凄惨な血戦になった模様が詳細に記載されている。

 

※『豊臣日本軍VS李氏朝鮮軍』双方の戦いの流れ

 

『제9화 정암진전투 - 교과서에서 가르쳐주지 않는 임진왜란 - 곽재우 의병장<第9話 鼎巖津戰鬪-教科書では教えてくれない壬辰倭乱-郭再祐(クワァク・チェウ)義兵将>』

 

https://www.youtube.com/watch?v=QTiKPlKq5XU

 

これは授賞のための資料記事であろう。この記事の中に、「沙也加」(沙也可)の名も明記されている。

 

降倭の戦功について一例すると━加藤清正の築城「蔚山城<ウルサンじょう>」を明朝軍<中国と朝鮮の連合軍>が巧みに攻略し得たのは、降倭の呂余文(六右衛門?)が諜者<スパイ>となって近づき綿密な偵察をしたからである。

 

別の記事では、そのときの詳細が記されています。

 

1597年12月の蔚山倭城を明軍が攻撃するにあたって、呂余文という名前の降倭を偵察としてつかった。呂余文は剃髪し、日本兵に変装し、蔚山に潜入した。

 

福岡県弁護士会 『弁護士会の読書 秀吉の朝鮮侵略と民衆』記事より

 

https://www.fben.jp/bookcolumn/2013/02/post_3518.html

 

再び本書にもどると、

 

そして城内の日本兵二〇〇〇は修羅場に陥った。

 

降倭の酒叱只や鶴沙伊らは、清正暗殺の計画を立てて申し出たが、これは朝鮮側の思惑で取りやめになった。この種の降倭の活動は、いとまがない。

 

投降日本兵(降倭)の実情を、日本で初めて審らかにしたのは徳富猪一郎の「近世日本国民史」豊臣氏時代・庚編『桃山時代概観』(第十七章・第十八章)である。

 

徳富によれば、朝鮮側が「もし万一降倭を優遇し十二分に利用したならば、恐らく朝鮮役は日本人と日本人との交闘を見たであろう」と論評したほどである。事実、日本兵同士の戦闘が随所で行われたし、そのあげくに八百長戦もあったと伝えている。

 

また、投降日本兵だけの一部隊が編成されていた。これを「投順軍」と命名し、奥地の土賊討伐に活用した。そして朝鮮の少年部隊の教育を担当した武術者や、火薬製造に従事した者は、のちに国王から厚く授職された。

 

これら多数の降倭のうち、最も顕著な官位に昇ったのは賜姓金成仁(沙汝某)と、前記の友鹿洞部落の先祖の沙也可(賜姓金忠善)であろう。また、慶尚道禦使・金応瑞の配下には、常時百余名の降倭が属していたが、その隊長格は賜姓金向義である。彼は仲間の降倭をひきいて多くの戦功を立て、ついに官位が通政太夫、嘉善太夫に達したのだ。

 

この戦役には謎も多い。降倭の中には、対馬出身の要時羅(要次郎)のように両方を自由に往来した二重スパイもいた。これが原因して名将李舜臣が一時投獄されたともいう。

 

かとみると、日本軍陣営に属した朝鮮人のスパイも多い。対馬に近い金海郡の村人のごときは日本軍の先導役をつとめ、日本服<和服>をつけていた。

 

これを朝鮮側では「順倭」と称するが、その数を数千とも一万とも伝えている。

 

朝鮮史で言う「降倭」とは、当時の投降日本兵とその二世を指している。かれらは、その勇敢な戦闘ぶりを買われて<満州・女真族対策の>北方警備に就くことが多かった。ところが、一六二四年の正月、平安道兵事・李适(リカル)の反乱があった。李适の下には降倭兵一三〇名が属して、先頭の精鋭部隊をつとめた。

 

そして李适軍はソウル<漢城>を一時占領し、国王が逃げるほどの騒乱となった。このとき朝廷は、李适軍の精鋭降倭兵に対抗するために、釜山地区から“降倭一〇〇〇名募集”の案を検討したこともある。その後、李适反乱軍は鎮圧されたが、精鋭部隊は殺されたり四散したり、また一部は明(中国)へ逃げた。ちなみに李适の副将は、降倭の徐牙之であった。

 

このように「降倭」は、戦闘に勇敢であったがために精鋭隊として活用されたことを物語っている。

 

※<>は筆者註

 

『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社 167~171頁より

 

 

・「同族同士の争い」も含んだ まことに自由奔放な時代

 

 

現代の「国民国家以後」の世界では、『絶対にありえないこと』が、この時代では平気で起こりえた。

 

ゆえに、先の明治御用論壇「近代の色眼鏡」でみると、物事を正確に知ることができないのは自明の理でしょう。何をもって「純日本人」だとか、本当にくだらなく、時の倭寇首領が中国出身者だったり、この北東アジアを包む大きな文明圏と見たとき、各国出身の「違い」は、そう難しい問題ではないのが本質でしょう。

 

戦国時代を経験した日本の武士たちは、技術・実戦において文字通り「戦闘慣れ」していたので、とても強かったことから、各地で厚遇されたことや、次回の『沙也可』の詳細について、具体的に触れていく意味でも、このようなバックボーンがあったことは、とても興味深い内容として、私自身も大いに記憶にとどめておくことにします。

 

 

<参考資料>

 

・『日朝関係の視角 歴史の確認と発見』 金一勉著 ダイヤモンド社

 

・Youtube 『제9화 정암진전투 - 교과서에서 가르쳐주지 않는 임진왜란 - 곽재우 의병장<第9話 鼎巖津戰鬪-教科書では教えてくれない壬辰倭乱-郭再祐(クワァク・チェウ)義兵将>』

 

https://www.youtube.com/watch?v=QTiKPlKq5XU

 

・福岡県弁護士会 『弁護士会の読書 秀吉の朝鮮侵略と民衆』記事

 

https://www.fben.jp/bookcolumn/2013/02/post_3518.html

 

 

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