頑張れオンボロ食堂奮闘記 ― ロクとクゥーのまかない哲学 ― -3ページ目

頑張れオンボロ食堂奮闘記 ― ロクとクゥーのまかない哲学 ―

町はずれの少し古びたレトロカフェ食堂。木の温もりと柔らかい光に包まれ、落ち着いた大人向けの空間です。読書やひとり時間も楽しめ、厨房ではゆるい日常が流れています。


炊きたての飯から、白い湯気が立ちのぼる。

箸先で、中心を小さく窪ませる。

そこへ落とされた黄身は、  
静かに揺れていた。

箸を伝わせて、  
醤油を一筋だけ落とす。

「混ぜきらなくていい。白と黄、それぞれの領分を残しておきなさい」

箸が触れるたび、  
白と黄の境目が、少しずつ動く。

「地味なのは卒業です!」

クゥーが差し出したのは、  
揚げ玉と桜海老をのせた一杯。

表面が、にぎやかに揺れる。

油が光を拾い、  
音まで変わる。

ロクが奥で、わずかに息をついた。

カウンターの端で、  
スーツの男が器を前に止まっていた。

箸を持ったまま、  
黄身を見ている。

「……一度割ったら、戻りませんよね」

ロクは答えず、  
厚めに切った沢庵を置いた。

男は小さく頷き、  
黄身を崩す。

白の中へ、  
ゆっくりと色がほどけていく。


閉店後。

拭き上げた台に、  
わずかな湯気だけが残っている。

クゥーが鍋を片付けながら言った。

「さっきのお客さん、最後は笑ってましたね」

ロクは手を止めずに答える。

「……どうだかな」

しばらくして、  
ぽつりとこぼす。

「混ざりきらないままでも、いい。」




【今日の注意書き】

・黄身を割るタイミングに、正解はありません。  
・醤油は入れすぎると、戻れません。  
・クゥーの“お祭り”は、静かな日には向きません。
夕方の厨房。  
フライパンが温まり始める頃、常連がカウンターに肘をついた。

「ロクさん、今日はナポリタンある?」

「ある」

短く答えると、ロクは冷蔵庫を開ける。

すると客が、思い出したように言った。

「赤いウインナー、入れてくれよ」

ロクの手が止まる。

「……子供か」

そう言いながらも、赤いウインナーを取り出す。

斜めに包丁を入れると、  
やけに鮮やかな断面が現れた。

フライパンに油を引き、  
玉ねぎとピーマンを落とす。

ジュッと音がして、  
甘い匂いが立つ。

麺を入れて炒める。

クゥーが横から覗き込んだ。

「ロクさん、これ焼きナポリタンじゃないの?」

ロクはフライパンを振りながら言う。

「……あれは鉄板だ。」

「今日は、ナポリタンだ。」

そう言って、ケチャップを入れる。

フライパンの底で、  
ケチャップが少しだけ焦げた。

どこか懐かしい匂いが、厨房に広がる。

昔の食堂は、だいたいこの匂いだ。

その香りが立ち上った瞬間——




クゥーが赤ウインナーを一本つまんだ。

「あっ、これ絶対うまいやつ!」

ロクが振り向く。

「……おい。それ客のだ」

クゥーは慌てて口を押さえ、  
何事もなかった顔で皿を並べる。

ロクは何も言わず、  
もう一本ウインナーを切った。

皿に盛ったナポリタンの上で、  
赤いウインナーが少しだけ照っている。

「ほらよ」

常連がフォークを取る。

ケチャップの甘い匂いが、  
静かな厨房にまだ残る。


本日のおすすめは、  
懐かしい匂い。


今日の注意書き

・赤ウインナーは大人でも注文できます。  
・クゥーのつまみ食いは仕様です。  
・ケチャップは焼くと、少しだけ香ばしくなります。



カウンターの端、いつもの席に座る。
夕方の光が、少しだけ傾いている。

油の音が聞こえる。
……いつもより、少しだけ軽い気がした。

湯気の上がり方も、悪くない。
それでも、何かが引っかかる。

「ハイさーい!みんな元気!?」

顔を上げる。

ロクが、やけに明るい。

「今日はね、最高にハッピーな告知があるよ!おんぼろ食堂、ついに革命です!」

……いや、誰だそれは。

視線を横にやると、クゥーが腕を組んでいる。
いつもの笑顔はない。

「……フン。浮かれるな。料理は哲学だ。」

低い。
やけに重い。

……逆だろ。

ロクはそんな空気も気にせず、胸を張った。

「エイプリルフール限定!度肝を抜く新メニュー、いきます!」

・宇宙重力コロッケ定食
・飲むアジフライ(ストロー付き)
・概念だけの味噌汁
・やたら手間だけかかる普通のコロッケ定食
・二度と同じ味にならない日替わり定食




「どう!?ワクワクしてきたでしょ!?」

「……理屈は通っている」

クゥーが静かに言う。

「気に入らんがな」

通ってるのか、それ。

それでも厨房は動き出す。
油が静かに鳴き、湯気が立ちのぼる。

ふと、クゥーの手が止まる。

「……火加減は嘘をつかない」

その一言だけは、いつもと同じだった。

ロクも、いつの間にか無駄のない動きでフライヤーに向き合っている。
騒がしさの奥に、ちゃんと“いつもの店”がある。

しばらくして——

店の奥の時計が、正午を回った。

その瞬間。

「……ふぅ」

二人同時に、ため息をついた。

ロクが肩を落とす。

「……疲れた。クゥ、あんなに喋るのは体に毒だぞ」

クゥーも腕をぶらぶらさせながら笑う。

「僕だって、あんなに難しい顔して黙ってるの、肩が凝っちゃいましたよ!」

一瞬の静けさ。

それから、いつもの空気が戻る。

「……まあ」

ロクが、少しだけはにかみながら言う。

「エイプリルフール、ですから」

クゥーがくすっと笑う。

「新メニューは……残念ながら、幻ですけどね」




湯気の向こうで、いつもの一皿が出来上がる。

「今日も、ちゃんと作ってますよ」

カウンター越しに差し出されたそれは、
結局、見慣れた味がしそうで。

ふと、端に目をやると——
小さな瓶が、ふたつ並んでいた。

ラベルは少し歪んでいて、
読めるような、読めないような文字。

光を拾って、ほんの少しだけ、きらつく。

——ああ、なるほど。

——少しだけ。
塩加減が、迷っていた気がした。

おんぼろ食堂は、今日も静かに営業中です。

・本日は気まぐれで性格が入れ替わる場合があります
・理屈が合っていても美味しいとは限りません
・違和感は仕様です(気づいた人から、いつもの席へ)

湯気が、少しだけ遅れて立ちのぼる。

カウンターの端。
いつもの席に、いつものカップが置かれる。

「熱いから、気をつけて」

ロクが言う。

紅茶は、少しだけ色が深い。
淹れてから、ほんの少し時間が経っているらしい。

クゥは何も言わない。
ただ、カップの縁を指でなぞっている。

一口。

熱すぎない。
ぬるくもない。
ちょうどいい——よりも、ほんの少しだけ後ろ。

「……少し、過ぎたな」

ロクが、ぽつりとこぼす。

その言葉に、クゥーが小さく笑う。

「でも、それくらいが落ち着きますよね」

差し出された小さな豆皿には、二つの琥珀糖。
薄い水色と、淡い琥珀色。

光を透かすと、微かな気泡が閉じ込められているのが見える。

指先でつまむと、ひんやりと乾いた感触。
奥歯で噛めば、シャリ、と小さな、けれど明瞭な音がした。

「……静かだな」

クゥが呟く。

「ああ。……砂糖の砕ける音しかしない」

紅茶の深い渋みの後に、
角のない甘さがゆっくりと溶けていく。

湯気はもう、ほとんど見えない。
カップの中で、色だけが静かに残っている。

ロクは何も言わない。
クゥも、何も足さない。

ただ、時間だけが、少しだけ長く伸びた。

——ここは、急がなくていい場所だ。

何も起こらない時間が、しばらく続いた。