店に入ってきた客は、
疲れているというより、重たそうだった。
肩も。
目の奥も。
席に座ると、
長いため息がひとつ落ちる。
クゥーが冷たい胡瓜を切る。
とん、とん、とん。
その音だけが、
妙に軽かった。
ロクは梅を叩く。
包丁の先で潰れた赤が、
まな板に静かに滲んでいく。
塩が落ちる。
白い粒が、
青い胡瓜に小さく弾けた。
皿が運ばれる。
先に来たのは、
梅の匂いだった。
鋭くて、
少しだけ頭の奥を起こす匂い。
客はひと口食べる。
しゃく。
胡瓜の音が、
店の静けさに細い線を入れた。
そのあと、
梅の酸味が来る。
遅れず、
まっすぐ来る酸味。
塩気が、
舌をきゅっと引き締めた。
もうひと口。
今度は少し早い。
しゃく、しゃく。
止まっていた呼吸が、
少しずつ流れ始める。
「……なんか、
頭が静かになりますね」
ロクは頷かない。
ただ、
梅肉を和えながら言った。
「酸っぱいもんは、
前向かせる時がある」
客は小さく笑った。
来た時より、
ほんの少しだけ目線が上がっている。
外では、
雨の匂いがもう薄くなっていた。
暖簾の端から入る風だけが、
少し涼しい。
【今日の注意書き】
・酸っぱさで少しだけ人生が前を向きます
・胡瓜の「しゃくっ」は本日の環境音です
・考えごとは、梅肉で多少ほぐれます(効き目には個人差があります)
まだ夕飯には少し早い時間だった。
珍しく、
店の中がにぎやかだった。
小さな子どもの声。
その横で笑う母親。
向かいでは、
白髪の父親が静かに茶をすすっている。
クゥーが目を丸くする。
「今日、いっぱい」
ロクは卵を割った。
と、と、と。
黄色が、
ボウルの中で重なっていく。
出汁が入る。
それから、
ほんの少しだけ砂糖も入った。
クゥーが首をかしげる。
「甘いの?」
「少しだけだ」
卵液が鉄板へ流れる。
じゅわ、と音がして、
湯気がふくらむ。
巻く。
また流す。
重ねる。
何度も重ねたあと、
四角い形が静かに出来上がった。
皿に置かれた瞬間、
出汁の香りがふわりと立つ。
子どもが最初に箸を伸ばす。
「あつっ」
そう言いながら、
ちゃんと笑っている。
祖父がひと口食べる。
何も言わず、
小さくうなずいた。
母親は、
その顔を見て少しだけ安心したように笑う。
箸を入れるたび、
じゅわ、と小さな音がした。
口に入れると、
先に来るのは出汁。
やさしい旨味。
そのあとから、
ほんの少しだけ甘さが残る。
遅れて残る。
角の取れた、
やわらかい甘さだった。
誰も感想を言わない時間が続く。
でも、
箸だけは止まらない。
クゥーが小声で聞く。
「なんで静かなの?」
ロクは火加減を見たまま答えた。
「うまい時は、そうなる」
帰る頃には、
子どもが眠そうに母親の袖を掴んでいた。
店の戸が閉まる。
湯気だけが、
まだ少し店に残っている。
【今日の注意書き】
・だし巻きは飲み物ではありません(気づくと減っています)
・湯気に安心して眠くなる場合があります
・「ひとくちちょうだい」は、だいたい二口なくなります
夜は静かだった。
時計の針の音だけが、
店の隅で、かすかに生き残っている。
カウンターの客は、
焼きリンゴを見て、少しだけ苦笑した。
「甘いもの、昔は苦手だったんですけどね」
ロクは返事をしない。
ただ、リンゴを返す。
じゅ、と。
溶けたバターが、小さく泡を鳴らした。
熱を吸った果肉の縁から、
ゆっくり色が深くなっていく。
クゥーが背伸びをする。
「焦げるー?」
「そこからだ」
鍋の奥で、
砂糖が静かに沈んでいく。
琥珀色。
あと少しで、
戻れなくなる色。
甘い匂いの奥に、
かすかな苦みが混ざりはじめる。
その香りは湯気にほどけ、
静かに席まで流れていった。
皿に落ちたキャラメルソースは、
夜の底みたいな色をしている。
客は、ひと口だけ食べる。
最初に来るのは甘さだった。
熱を含んだ、
やわらかい甘さ。
けれどそのあと、
舌の奥に小さな苦味が残る。
遅れて残る。
静かに残る。
不思議と、嫌ではなかった。
もうひと口。
今度は少し、
ゆっくり噛む。
「……こういう味って、
歳取らないと分からないですね」
ロクは小さく鼻を鳴らした。
火を見たまま言う。
「苦くないと、残らん味もある」
客は少し笑った。
来た時より、
昔を責める顔をしていなかった。
皿の底に残ったキャラメルを、
最後にパンでぬぐう。
それだけは、
妙に丁寧だった。
外はもう、
夜更けの色をしている。
暖簾が、かすかに揺れた。
【今日の注意書き】
・焦げは境界線です(越えてからがロク担当)
・昔を思い出した方は、帰り道で空を見上げすぎないでください
・苦いのに食べ進める現象は仕様です(たぶん夜のせい)
