第34皿目「お返しの温度」 ――極上の人肌テンパリング。 | 頑張れオンボロ食堂奮闘記 ― ロクとクゥーのまかない哲学 ―

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町はずれの少し古びたレトロカフェ食堂。木の温もりと柔らかい光に包まれ、落ち着いた大人向けの空間です。読書やひとり時間も楽しめ、厨房ではゆるい日常が流れています。

バレンタインの熱が冷めた夜。

オンボロ食堂には、ひときれの冷たいケーキが残っていた。

閉店後のオンボロ食堂。

カウンターには、一切れだけ残った豆腐レアチーズケーキ。

3月12日にロクさんが出したそのケーキは、驚くほど白くて、驚くほど冷たかった。

「……ロクさん。これ、やっぱり『お返し』だったんスね」


クゥーが、余った生地をボウルから舐め取りながらポツリと言った。


私の脳裏には、一ヶ月前のあの夜が浮かんでいた。


厨房の温度は今よりずっと高く、ロクさんはまるで作戦を練る将軍のように、温度計を睨みつけていた。


『温度は味方だ。冷ますな』


あの日。


応援弁当を求める客たちの熱気に当てられ、

厨房は確かに戦場だった。


チョコを溶かす熱い湯気。

誰かを想う重たい空気。


なのに、今日出されたのは、火も使わず、ただ冷蔵庫でじっと時を待った豆腐のケーキ。


一ヶ月前の「熱」を知っているからこそ、この「冷たさ」の理由が気にかかる。


「ロクさん。バレンタインの時はあんなに熱量(カロリー)高かったのに、なんでホワイトデーはこんなに……スカしてるんスか?」


クゥーの遠慮のない言葉に、ロクさんが手を止める。


「……数ではない。だが、もらう側には、もらう側の責任がある。何十人もの『熱い想い』を一度に受け取ってみろ。まともに食おうとすれば、こっちの体温まで狂っちまう。だから、数字で割り切って管理するしかなかったんだ」


「え、何その『モテすぎて困る男』のライフハック。怖っ! 想いに中てられないための温度管理……次元が違うわ……」


「……それが、俺なりの礼儀だったんだよ」


少し遠くを見る目をして、ロクさんはそう呟いた。


クゥーがニヤリと笑う。


「……あ、わかった! ロクさん、さてはもらいすぎて『チョコ風呂』とか入ってたんじゃないスか!? 28度とか31度とか、絶妙にぬるま湯みたいな数字。あれ、チョコの湯船に浸かって『今の俺、テンパリングバッチリだわ……』とか浸ってたに違いないッス!」


「……入るわけがないだろう。味を安定させるための数字だと言っている」


「えー、つまんない。俺なんて、今年の自分チョコ、懐に入れて『体温』で温めて、いい感じのドロドロ加減で食ったんスよ? これぞ、モテない男が編み出した**『人肌テンパリング』**!」


「……不衛生だ。あと、ただ溶けてるだけだ、それは」


ロクさんは心底嫌そうな顔をしたが、クゥーは止まらない。


「ひどい! だから今回の豆腐ケーキ、あんなに冷たく作ったんスか。俺のドロドロした体温を、一気に冷やして固めるために!」


ロクさんが少しだけ目を細めて、皿をキュッ、と乾いた音を立てて拭き上げた。


「……そうだ。のぼせた頭には、それくらいが丁度いい」


「甘いものは、急がないほうがうまい。

熱すぎる想いも、一度冷ませば、長く愛せる味になる」


ロクさんの言葉に、クゥーが「……深いんだか、ただの冷え性なんだか」と毒づく。


そのやり取りを聞きながら、私はスプーンを入れた。

スプーンを入れると、静かに崩れて、春みたいに柔らかかった。

冷たいケーキを、最後の一口まで味わった。


「……ま、とにかく。ロクさんの冷たい豆腐ケーキのおかげで、俺ののぼせた頭も、一ヶ月前のバレンタインの熱狂も、ようやくいい感じに落ち着いた気がするっス」


「……そうか。それなら、ようやく『次』へ行けるな」


ロクさんが指差した先には、一冊の古いノートがあった。


そこには、あの日の後に記された

『昭和ロールケーキ』

の文字が、懐かしい筆致で残っている。


かつて一度は通り過ぎたはずのその場所から、私たちの時間は、また新しく刻まれ始めるのだ。


「よし! 熱すぎず、冷たすぎず。……これからはオンボロ食堂らしい『適温』で突っ走るっスよ、ロクさん!」


「……お前はまず、その人肌で溶けたチョコを拭いてこい」


夜の風が、開いた扉からそっと入り込み、店内の熱をさらっていく。


34皿目、「お返しの温度」。


それは、一ヶ月をかけてようやく届いた答え合わせ。


表の暖簾が仕舞われ、オンボロ食堂の夜が、静かにほどけていく。