バレンタインの熱が冷めた夜。
オンボロ食堂には、ひときれの冷たいケーキが残っていた。
閉店後のオンボロ食堂。
カウンターには、一切れだけ残った豆腐レアチーズケーキ。
3月12日にロクさんが出したそのケーキは、驚くほど白くて、驚くほど冷たかった。
「……ロクさん。これ、やっぱり『お返し』だったんスね」
クゥーが、余った生地をボウルから舐め取りながらポツリと言った。
私の脳裏には、一ヶ月前のあの夜が浮かんでいた。
厨房の温度は今よりずっと高く、ロクさんはまるで作戦を練る将軍のように、温度計を睨みつけていた。
『温度は味方だ。冷ますな』
あの日。
応援弁当を求める客たちの熱気に当てられ、
厨房は確かに戦場だった。
チョコを溶かす熱い湯気。
誰かを想う重たい空気。
なのに、今日出されたのは、火も使わず、ただ冷蔵庫でじっと時を待った豆腐のケーキ。
一ヶ月前の「熱」を知っているからこそ、この「冷たさ」の理由が気にかかる。
「ロクさん。バレンタインの時はあんなに熱量(カロリー)高かったのに、なんでホワイトデーはこんなに……スカしてるんスか?」
クゥーの遠慮のない言葉に、ロクさんが手を止める。
「……数ではない。だが、もらう側には、もらう側の責任がある。何十人もの『熱い想い』を一度に受け取ってみろ。まともに食おうとすれば、こっちの体温まで狂っちまう。だから、数字で割り切って管理するしかなかったんだ」
「え、何その『モテすぎて困る男』のライフハック。怖っ! 想いに中てられないための温度管理……次元が違うわ……」
「……それが、俺なりの礼儀だったんだよ」
少し遠くを見る目をして、ロクさんはそう呟いた。
クゥーがニヤリと笑う。
「……あ、わかった! ロクさん、さてはもらいすぎて『チョコ風呂』とか入ってたんじゃないスか!? 28度とか31度とか、絶妙にぬるま湯みたいな数字。あれ、チョコの湯船に浸かって『今の俺、テンパリングバッチリだわ……』とか浸ってたに違いないッス!」
「……入るわけがないだろう。味を安定させるための数字だと言っている」
「えー、つまんない。俺なんて、今年の自分チョコ、懐に入れて『体温』で温めて、いい感じのドロドロ加減で食ったんスよ? これぞ、モテない男が編み出した**『人肌テンパリング』**!」
「……不衛生だ。あと、ただ溶けてるだけだ、それは」
ロクさんは心底嫌そうな顔をしたが、クゥーは止まらない。
「ひどい! だから今回の豆腐ケーキ、あんなに冷たく作ったんスか。俺のドロドロした体温を、一気に冷やして固めるために!」
ロクさんが少しだけ目を細めて、皿をキュッ、と乾いた音を立てて拭き上げた。
「……そうだ。のぼせた頭には、それくらいが丁度いい」
「甘いものは、急がないほうがうまい。
熱すぎる想いも、一度冷ませば、長く愛せる味になる」
ロクさんの言葉に、クゥーが「……深いんだか、ただの冷え性なんだか」と毒づく。
そのやり取りを聞きながら、私はスプーンを入れた。
スプーンを入れると、静かに崩れて、春みたいに柔らかかった。
冷たいケーキを、最後の一口まで味わった。
「……ま、とにかく。ロクさんの冷たい豆腐ケーキのおかげで、俺ののぼせた頭も、一ヶ月前のバレンタインの熱狂も、ようやくいい感じに落ち着いた気がするっス」
「……そうか。それなら、ようやく『次』へ行けるな」
ロクさんが指差した先には、一冊の古いノートがあった。
そこには、あの日の後に記された
『昭和ロールケーキ』
の文字が、懐かしい筆致で残っている。
かつて一度は通り過ぎたはずのその場所から、私たちの時間は、また新しく刻まれ始めるのだ。
「よし! 熱すぎず、冷たすぎず。……これからはオンボロ食堂らしい『適温』で突っ走るっスよ、ロクさん!」
「……お前はまず、その人肌で溶けたチョコを拭いてこい」
夜の風が、開いた扉からそっと入り込み、店内の熱をさらっていく。
34皿目、「お返しの温度」。
それは、一ヶ月をかけてようやく届いた答え合わせ。
表の暖簾が仕舞われ、オンボロ食堂の夜が、静かにほどけていく。