店に入ってきた客は、
疲れているというより、重たそうだった。
肩も。
目の奥も。
席に座ると、
長いため息がひとつ落ちる。
クゥーが冷たい胡瓜を切る。
とん、とん、とん。
その音だけが、
妙に軽かった。
ロクは梅を叩く。
包丁の先で潰れた赤が、
まな板に静かに滲んでいく。
塩が落ちる。
白い粒が、
青い胡瓜に小さく弾けた。
皿が運ばれる。
先に来たのは、
梅の匂いだった。
鋭くて、
少しだけ頭の奥を起こす匂い。
客はひと口食べる。
しゃく。
胡瓜の音が、
店の静けさに細い線を入れた。
そのあと、
梅の酸味が来る。
遅れず、
まっすぐ来る酸味。
塩気が、
舌をきゅっと引き締めた。
もうひと口。
今度は少し早い。
しゃく、しゃく。
止まっていた呼吸が、
少しずつ流れ始める。
「……なんか、
頭が静かになりますね」
ロクは頷かない。
ただ、
梅肉を和えながら言った。
「酸っぱいもんは、
前向かせる時がある」
客は小さく笑った。
来た時より、
ほんの少しだけ目線が上がっている。
外では、
雨の匂いがもう薄くなっていた。
暖簾の端から入る風だけが、
少し涼しい。
【今日の注意書き】
・酸っぱさで少しだけ人生が前を向きます
・胡瓜の「しゃくっ」は本日の環境音です
・考えごとは、梅肉で多少ほぐれます(効き目には個人差があります)
