●79 日蓮の見逃し,一なるものへの合一,神経神学の成果,瞑想のレベル,神話の形成,儀式の意味 | ラケットちゃんのつぶやき

ラケットちゃんのつぶやき

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●79 日蓮の見逃し,一なるものへの合一,神経神学の成果,瞑想のレベル,神話の形成,儀式の意味

 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P79, 日蓮の見逃し,一なるものへの合一,神経神学の成果,瞑想のレベル,神話の形成,儀式の意味
です。
 ページ末に目次(一部リンク付き)を掲載しております。


■神経神学

 神経学者アンドリュー・ニューバーグは、fMRIなどの技術を使って、瞑想や祈りなどのスピリチュアルな行為が脳に与える影響を調べ、宗教体験や神秘体験の脳科学的な解明に取り組んでいる。
 彼の見解によると、宗教的体験は、方向定位連合野を中心とする脳の特定の部位の活動の変化によって引き起こされる現象であり、幻覚ではなく、測定可能な真実である。
 彼は、fMRIやSPECTなどの脳イメージング技術を用い、「Why God Won't Go Away」や「How God Changes Your Brain」など様々な著作で、以下のような見解を述べている。
 ①宗教や霊的な経験は、脳の構造や機能に変化をもたらす。例えば、祈りや瞑想は、方向定位連合野、前頭前野や側頭葉の活動に影響し、脳のストレスや不安を減らすホルモンや神経伝達物質の分泌を促進し、幸福感や共感力を増やす。
 ②宗教や霊的な経験では、方向定位連合野という自分と外界との境界を認識する役割を果たしている部分の活動が低下し、自分と宇宙との一体感や無我の境地を感じることができる。人間の脳は、自己や他者、宇宙や神といった抽象的な概念を理解し、意味や目的を見出す能力を持っていて、脳の進化にも関係している。
 ③宗教や霊的な経験は、自分の意志や目標を決める役割を果たしている前帯状回という部位の活動を高め、自分の信念や価値観に対する確信や情熱が強まる。人々の価値観や行動規範を形成し、コミュニティや文化を構築する役割を果たし、個人や社会に影響を与える。しかし、対立や暴力の原因にもなり得る。そのため、宗教や霊的な経験を科学的に理解し、寛容や平和に貢献する方法を探る必要がある。
(コメント1)


 最近日本語訳が出版された彼の著「神経神学」で、ニューバーグは、
「行き着くところ、科学と宗教の二つの力は、人間の脳の産物である。」
「たとえ脳の外部に神が存在し、宇宙の存在を可能にしていたとしても、それを信条という形で捉え、意味づけをするのも脳なのだ。私たちが服従し、生活の中に取り入れている聖書や儀式をつくり出したのも脳である。」(同書P4)
「つまり、私たちは永遠に自分たちの脳の働きの中に閉じ込められているということだ。」
「私たちの世界に関する信条や考え方が正確かどうかはわからない。なぜなら、まさに私たちが検定しようとしている脳によって処理されているので、決して確かであるとは評価できないのである。ともかく、脳から抜け出して外界を純枠に客観的に観察し、その観察結果と自分の主観的な世界体験を比較して、一対ーの対応関係があるかどうかを判断しなけれぱならない」

「脳を抜きにすることは事実上不可能と思われるので、私たちにとって最善な方法で世界を解釈することが残るのみである。宗教的・霊的な視点に立ち戻る人もいれば、より科学的な視点に立ち戻る人もいるであろう。究極の問題は、どちらが正しいか見分けられるかどうかである。」(同書P7)
 と分析・問題定義している。


 また、神経神学について、以下のように様々に述べる。
「宗教が本当に妄想なのか、もしそうであるなら、それが何を意味するのか」(同書P9)

「私たちは自分の脳というプリズンに閉じ込められているということだ。神秘体験は度々、自分が実際に脳から抜け出してしまった感覚をもたらす。脳の観点からはあり得ないのだが、神経科学的および室的な観点からいくつかの興味深い疑問が提起される。
①脳から抜け出す、ということは何を意味するのか、
② この体験は実際の体験なのか、脳自体の何らかの表現なのか、
③このような体験は現実の真の姿を明らかにするものなのか。私たちは、神経神学の視点から神秘体験の重要性と意味についての見解を探る。」(同書P12)

 その他、画期的なことをコメント2に挙げた。


 今世紀に入って機能的磁気共鳴画像(fMRI) 、ポジトロン断層法(PET)、脳血流シンチグラフィー検査(SPECT)脳画像技術などの発展で、認知神経科学は急速に進歩した。人間の脳の動きについて、単純な動作や感覚だけでなく、愛や道徳、注意や宗教などの複雑なことも研究が進んだ。
 以下には、ニューバーグの研究を参考として、日蓮仏法や私見をまじえながら述べていく。

 これで確かに分かっていることは、我々が完全に死んでいないかぎり、脳は常に活動していることである。
 目が覚めているときも、眠っているときも、夢を見ているときも、死の直前や昏睡状態にあるときも、脳は必ず何かをしている。リアルな臨死体験も、これを物語るものである。
 そして我々が行なうことや考えることや感じることは、すべて脳に影響する。
 これは仏法で言う因果応報・因果倶時である。

 脳は、外の世界からの情報を受け取って、解釈して、意味をつける。
 しかし、脳の解釈が頭蓋骨の外の世界と一致しているかどうかは、厳密な確定ができない。
 特に、宇宙や神といった宗教的・霊的なものについては、脳が作り出した信仰と現実との関係は、大いなる議論の余地がある。


「認知神経科学からわかっていることは、私たちは脳機能から自由になることはできない。私たちは永遠に自分の脳に閉じ込められて、外界を眺め、その意味を理解しようとしているのである。この認識を科学的にどんなに理解しようとしても、私たちの脳と私たちの意識は決して逃れることのできないプリズンのように思われる。」
 と、ニューバーグは述べている。

 我々は脳の中で世界を見て、意味を探し、判断している。
 彼のいう通り、つまりは、脳は我々の牢獄である。
 が、我々はその中で比較的満足(いわゆる幸せ)に暮らしている。
 脳は常々、我々が怖がらないように、ストレスを抑えてくれているからだ。
 脳は、我々が無知であっても、時には背徳的であっても、満足できるように、誤りや間違いや、時には倫理を隠蔽してくれている。
 脳は、我々が手品や錯覚に騙されても楽しめるように、現実を歪めてくれているのである。
 こうして、見かけ上は、脳は、我々にとって幸せな牢獄であるといえる。
 が、はたしてそれは、すなわち我々の脳の中で描写される世界は、本当の世界と同じなのだろうか。
 それは、誰もが脳の中で閉じ込められている限り、誰にも正確には分かることはあり得ない。



■科学と宗教との折り合い

 ところで、同じ真実を追究する科学と宗教はどうやってつながればいいのか。つながるとしたら、人類にとってどんな意味があるのか。
 脳は、我々が自分や世界を理解するための道具だが、同時に、物理的な現実の一部でもある。
 脳がどうやって意識や霊性を生み出すかを知れば、我々自身の実存的な発見につながる。
 祈りや瞑想などの霊的な実践が脳にどんな影響を与えるかを調べたら、宗教と健康の関係や、宗教と霊性の違いや共通点も明らかになってきた。


 我々は脳の中で世界を理解している。
 だから、我々は世界についての物語(神話)をいつも作っている。
 そして、我々のコントロール不可能な大自然や無限の宇宙を考えると、結局のところ何らかの「信仰」を持たずにはいられないことになる。
 宇宙の本当の姿は、我々の思い描いた信仰と同じかそれに近いかもしれないし、全く違うかもしれない。
 我々は、現時点ではそれを科学的に確かめることができないくせに、信仰を真実・現実だと思いこんでいる。
 神がいると信じる人もいれば、いないと信じる(これも信仰のひとつである)人もいる。
 神がいるかどうかは、我々の信じ方には関係がない。
 例えば見えない重力のように、実際にあるものはあるのだ。

 だが重力のように見えないものでも、我々は信じることで、それを知ることができる。
 これこそ、日蓮仏法で言えば「以信代慧」(信じることをもって智慧に代える)である。
 神に関しては、信者の方が神の存在を感じることが多い。
 神は彼らの信じる物語に合っていて、神のおかげだと思えることがあるからである。
 先述したSPECT画像についても、信者は、神の存在の証拠として解釈するのに対し、無神論者は神の非存在の証拠であると解釈するのだ。

 以下に、神経神学の成果を、ニューバーグの研究成果に基づいて、少し述べてみよう。


■ 方向定位連合野における「求心路遮断」

 様々な宗教やコンサートなどの儀式で参加者が一体感・全体感を得るまでの神経学的過程は、少々の違いはあるが基本的には同じである。
 ひとつは、そのときなされたリズミカルな発声などの感覚刺激や動きが視床下部や自律神経系に働き、脳の全体に及ぶからである。
 祈り、勤行、瞑想、心地よい音楽、激しい身体活動などの動作が、血圧を下げ、心拍敬や呼吸回数を減らし、「闘争か逃走」「ストレス」時に分泌されるコルチゾールを低下させ、それによって抑制されていた免疫系の機能を高めるのである。
 これらはすべて視床下部や自律神経系に制御されているので、安全が保障されているかぎり、これらの儀式が我々の肉体と精神に良い影響を及ぼすことは明らかである。
 
 たとえば、スフィーやブードゥー教徒は、儀式でとても興奮する。すると、彼らの脳の活動が強くなりすぎて、脳のバランスを保つ部分の海馬が、情報のやりとりを止めて落ち着かせようとする。
 すると、脳の他の部分が情報を受け取れなくなり、うまく働けなくなる。特に、自分と他人を区別したり、自分がどこにいるかを知ったりする部分、すなわち方向定位連合野が影響を受け、情報が少なくなったり、全く来なくなったりすると、神経学では「求心路遮断」と言う状態になって、自分の境界を決めるのがとても難しくなる。
 そうなると彼らは、自分と世界が一つになったような感覚になる。

 このような激しい儀式が興奮系が活性化され参加者を興奮させるのに対して、詠唱や観想、祈りのような穏やかな儀式では、抑制系が活性化されて穏やかになる。
 静まりすぎて抑制系の活動レベルが高くなりすぎると、海馬によって脳全体の情報にブレーキがかけられ落ち着かせようとする。
 これによって同様に方向定位連合野が求心路遮断状態になり、脳が感じる自己の境界があいまいになって、自分と世界が一つになったような感覚になる。


■ 標識動作や嗅覚の剌激

 もう少しかみ砕いて説明しよう。
 儀式で使われるダンスや歌や詠唱などは、何度も同じリズムが繰り返される。
 これらは、感情や気分を作り出す役割を持つ脳の大脳辺緣系や自律神経系と呼ばれる部分に影響を与え、喜び、興奮、恍惚状態を引き起こす。
 また、リズムのある動作は、視覚や聴覚や触覚など、さまざまな感覚が同時におこされるから、参加者は自分と世界が一つになったような感覚を味わうことがある。

 儀式といっても、一般的に行われる様々な集会や会合においても当てはまるので、ここではそれらも含めて、儀式という名称を使っておく。
 儀式で行なわれる普段の日常と違う動作も、脳に影響を与える。
 例えば、お辞儀をしたり、地面に寝そべったり、変な形に手を動かしたりすることなど、これらは、脳の扁桃体という部分に注目される。
 扁桃体は、感覚からの情報を常に監視していて、チャンスや危険を教えてくれる部分で、これらの普通でない動作は、扁桃体に危険信号として、普通の動作よりもより注意される。
 これが長びくと、人間は恐怖や興奮を感じる。
 この感情が、落ち着いた状態と混ざると、人間は宗教的畏怖という特別な感覚を感じる。

 さらに、儀式で使われる香りも、脳に影響を与える。
 香りは、扁桃体に直接届く感覚で、強い香りは、扁桃体を興奮させて、恐怖や興奮を感じさせたり、様々な感情を引き出す。 
 例えば、ラベンダーの香りは、リラックスさせたり、酢の匂いは、怒らせたり嫌な気持ちにさせたりする。
 宗教儀式では、いろんな香りが使われるが、これは、感情に効果的に働きかけることを経験で知っているからだ。

 儀式には、その意味や目的である思想や約束という要素もある。
 人間は、儀式で感じる感覚と、儀式に込められた意味とを結びつけて、自分の信仰を確かめたり、強めたりする。

 例えば、人間は、ドグマなどの神話・物語が教える人間と神との元来の一体を取り戻すことを、儀式で感じることによって、確信したり、安心したりする。
 表現は様々だが多くの神話は概ね、人間が神から離れてしまったことがすべての悩みの原因であり、人間は、神に戻ることで、それらの悩みから解放されると約束する。
 人間は、この約束を信じたいと思うが、それは単なる神話・物語への「思い」にすぎない。
 だから、現実の悩みの中で生きる人間が、客観的な保証がなく、心で信じるしかないこの約束を信じ続けて安心感・安定感を得るのはなかなか難しい。
 だから、人間は、儀式でそれを感じることによって、この約束を実現させようとする。
 そこで、儀式で自分と神が一つになったような感覚を味わうと、人間は神に近づいたと確信できる。これは、宗教儀式が、人間と神との距離を神経生物学的に縮める方法だと言える。


■神話を演じるのは、脳の仕組み

 こうして、人間が、神話・物語を演じるのは、脳の仕組みによるものである。
 脳は、思いを実行したいという仕組みを持っている。
 これは、どの文化にも儀式があって、目的が似ていることや、今でも儀式に惹かれる人が多いことを説明できる。

 神話・物語は、運命や死や人間の心など、誰もが気になることから実存的なことまでテーマにする。
 人間は、頼りたい神話を想像して、それを実行したいと思う。
 すると、儀式で感じる感覚が、神話のテーマや物語に加わって、効果的な宗教儀式が発生する。
 これによって、信者たち人間は、宗教のドグマである神話が約束する最高のことを感じることができる。
 だから宗教儀式の力の有無は、ドグマになった神話や経典が本当だと『証明』できるかどうかにかかっている。
 こうしてあらゆる宗教儀式は、神話のテーマを脳の神経学的な反応と結びつけて、神話を生き生きと再現させるのである。
 神話の世界に入った信者は、神話が示す深い謎を解くように感じる。
 その感覚は強烈で、人生に影響を与えることもある。
 その効果は、儀式のリズムと内容の両方に依存する。
(コメント5)


 儀式による一体感の強さは、儀式の種類によっても違ってくる。
 体力だけでいえば、穏やかな儀式、たとえばロザリオの祈りでは、穏やかな一体感を感じるが、長くて激しいダンスやヴィジョン・クエストでは、強い一体感を感じる。
 身体運動を使った儀式では、運動が激しくて長いほど、一体感が強くなるが、参加者や信者の体力には限界がある。

 ところが高レベルの神秘家は体力をあまり使わない『精神活動』によって最高レベルの一体感を得ている。 
 瞑想や観想の祈りでは、身体運動を使った儀式と同じ脳の仕組みが動く。
 しかし、精神は肉体よりも疲れにくく、訓練によって、一つの思いや一念をずっと持ち続けられる。
 だから、理論的には、一体感のレベルを最高まで上げられる。
 このとき、前ページで述べた、神経学者が『神秘的合一』と呼ぶ、深い一体感を感じることができるのである。



■日興門流~創価学会も同様

 先述してきたように、日蓮の直弟子たちは、時代が下るにつれて日蓮の血脈から離れ、マンダラ信仰・アニミズムや権威主義に陥った。
 日興門流は、先述の如く、江戸時代には南無妙法蓮華経を神格化し、僧侶も民衆も勤行・唱題という儀式を通じて日蓮仏法の広宣流布を夢見た。そして神社・仏閣を中心とした形式的宗教形態が確立し、それが昭和時代まで続いた。
 戦後は西洋の民主主義が導入され、従来の価値観が崩壊する中で新興宗教が台頭した。
 創価学会もその一つで、池田大作を中心に罰論や現世利益追求を掲げて折伏や政治活動を展開し、勢力を拡大した。
 しかし、その理念や信仰は、日蓮の生涯や血脈とは相容れないものであった。
 創価学会は権力側につき、日蓮が拒否した宗教施設を建立し、御書を切り文にして利用し、アニミズム的な一体感を信者に与えた。
 その核となるドグマが「師弟不二」「血脈」である。
 そして、それを描いた池田大作の小説「人間革命」「新・人間革命」が事実上の聖典とされた。

 創価学会の信仰活動は、日蓮の直弟子たちが受け継いできた「化儀」と呼ばれる儀式を変化させたものである。
 会合(儀式)や勤行・唱題によって生じる一体感は、生物学的に備わったものを利用している。
 その目的は、信者に対し池田大作の小説「人間革命」「新・人間革命」や「師弟不二」「血脈」というドグマを「真実」として信じ込ませ、鼓舞しながら組織拡大をすることにあった。
 信者たちは、座談会や幹部会で池田大作との一体感を感じ、創価学会が全世界に広まり理想社会を実現するという約束を信じるようになる。
 この理想社会のイメージは、御書の切り文を利用して作られている。
 例えば、組織への帰属意識を高めるために使われる立正安国論の一文「蒼蠅驥尾に附して万里を渡り碧蘿松頭に懸りて千尋を延ぶ」(日蓮、立正安国論)は、創価学会組織についていきさえすれば成仏できるという誤解を与える。しかし、この遺文の本来の意味は、万物一切根源の法である南無妙法蓮華経を修行すれば、どんな存在でも即身成仏できるということが、その文脈から明らかであり、創価学会とは無関係である。

 また、如説修行抄には、広宣流布後の理想世界が記されている。
「万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨壤を砕かず、代は羲農の世となりて今生には不祥の災難を払ひ長生の術を得、人法共に不老不死の理顕れん時を各各御覧ぜよ現世安穏の証文疑い有る可からざる者なり」(如説修行抄 御書P501)
 すなわち、すべての人々が南無妙法蓮華経と唱えれば、風も雨も穏やかで、不幸や災難がなく、人・法ともに不老不死の世となるというのである。(コメント7)
 この遺文は、私がよく聞く幹部会などで、時として利用されてきた。
 会員を選挙に動員する幹部指導などで、日蓮の遺文の切り文は、様々な選挙の票取りを「法戦」と呼び、その根拠とされるのだ。
 選挙で公明党を勝たせ、創価学会が広宣流布の理想社会を実現するというのが、地涌の菩薩の使命だというのである。


 創価学会は事実上、日蓮よりも創価三代会長を重視するという立場をとっており、その教義の中核である「師弟不二」を頻繁に強調している。
 昨年も創価学会創立記念日とされる11月18日(11・18と称する)に向けて、池田大作の入信や創価学会の歴史などを神話化した様々な活動を展開していたが、その最中に池田大作が老衰で亡くなった。
 しかし、会員にはすぐには知らされず、予定通りの行事が行われた。
 池田大作の死は、公から姿を消してから約13年後の11月18日の夕方に一般マスコミによって発表された。
 多くの会員は、学会組織や機関紙ではなく、この発表で初めて池田大作の死を知った。
 その後も、学会葬や聖教新聞で「師弟不二」や創価神話が盛んに語られた。
 また、戸田城聖の獄中の悟り「在在諸仏土常与師俱生」を引用して、池田大作との永遠の絆を確信する会合も多く開かれた。
 これらの会合は、会員に池田大作を永遠の師匠として仰ぎ、自身の成仏と社会の広宣流布の実現に向けて「師弟不二」を実践することを約束させる儀式的な効果を持っている。
 ただ、全盛期と比べると、今世紀に入っても、これらの効果は薄れてきているのが、創価学会の衰退傾向をみても想像できる。(コメント8)




■神経学が証明する事実

 科学と宗教はどちらも同じ究極のリアリティーを強力に追求するが、それぞれに欠点がある。
 歴史を振り返れば、この溝を作ったのは、科学の時代の無数の偉大な発見だった。
 最初の亀裂は、ガリレオ・ガリレイが、観測によってコペルニクスの太陽系の理論の正しさを立証したときに生じたと言ってよいだろう。彼の発見は、『地球は、創造主たる神の愛ゆえに、宇宙の中心に配置された』という、当時のカトリック教会の教義に真っ向から反していたのだ。この発見に対する教会側の態度が、亀裂を広げた。

 日蓮もまた、ガリレオ・ガリレイに約400年先立つ鎌倉時代に、立正安国論などを主張して、当時の学問や宗教に対して科学的な公場対決を求めた。
 この姿勢・態度が、日興門流(創価学会も含めて)などの後世に排他的・独善的なドグマを継承させ、長年にわたって他宗との分断状態を引き起こしてきた。
 しかし、日蓮の血脈は、決してそれを推し進めていたわけではないだろう。
 ただ、後述するように、万人の救済・広宣流布の理想の実現のためには自らの教義・法則をも更新しなければならないことだけが、欠落していただけである。



 さて、神秘家たちが言うことは、現実と違っていても、嘘ではなくて、脳が本当にそう感じていることである。これは、脳の仕組みを知っていると予想できるし、瞑想や祈りをする人の脳を調べても分かる。
 しかし神秘体験が脳で起こると分かったからといって、それが本当にあるということでも、また、ないということでもない。
 少なくとも、自我や自己がなくても、心や気づきがあるということが、科学で証明できる。
 この事実、すなわち神秘体験が脳で起こるということを根拠にして、スピリチュアリティーの深い意味を探るべきである。
 スピリチュアリティーの本質は何か?。
 心と脳は、何が本当かをどうやって決めるのか?

 ニーチェは「神は死んだ」と言ったが、それは元々から神がいなかったという意味だった。ニーチェは神を科学に反するものと考え、科学や民衆の教育が発展すれば、神は消えるだろうと期待していた。
 しかし、AI時代になっても神は生き続け、様々な宗教やスピリチュアリティーは人気がある。
 ニーチェがこれを見たら、理性が感情に負けたと怒るかもしれないし、時の権力者に公の論争対決を迫った日蓮なら、もっと顔をしかめるだろう。

「信仰は、迷信と恐怖でできた欺瞞だ」という唯物論者もいて、人々が神を信じているのは、神なしの世界に耐えられないからだと嘲笑っている。有名なマルクスも「宗教は阿片である」と断じた。
 ただ唯物論者やマルクスの言うことは、全面的に正しいとは思えない。
 宗教がしぶとく生き続けるのは、後述するように、それが、心の弱さだけではなくて、深くて、単純で、健全なものに基づき、結果として個人や人類の生存確率を高めているからだと考えられる。



■多くの宗教は健康に寄与する

 宗教の基本は、神秘体験だ。
 宗教が昔から残っているのは、脳が信者に神や教祖と一体になる感覚をさせて、神の存在を信じさせるからである。この信仰や信仰に基づく行動が、人間に生きる上での利益をもたらし、進化がこの脳を作ってきたのであろう。
 多くの研究がこれを示唆している。
 例えば、肉体的には、宗教を信じる人は、信じない人よりも、病気になりにくく、免疫力が高くて、血圧が低いことが分かっている。
 また、一生の間で信仰を持たないことは、タバコを40年間にわたり1日に1箱吸うのと同じくらい死亡率を高めることも分かっている。
 また、精神的にも、例えば、信仰を持つ人は、ドラッグやアルコールにはまったり、離婚したり、自殺したりすることが少なく、憂鬱や不安にも強いことが分かっている。
 このように、ほとんどの宗教は、危険を避け、健康的で安定した生活を勧めるから、その教えに従う人は、自然に健康になる。
 社会的にも、宗教のコミュニティーが、メンバーの健康に良い影響を与える。
 友達や家族からのサポートが、心に良いことは当然だが、メンバーの体の機能を保つことにも役立っている。
 特に高齢者は、コミュニティーのおかげで、孤独にならずに、食事や病気の世話を受けやすく、外出しやすく、健康に暮らせることが多い。
 また、瞑想や祈りや礼拝などの宗教行為自体にも、不安や憂鬱を減らし、ことが分かっている。
 宗教が教える行動や態度が概ね大事なことは確かであろう。
 宗教行為自体にも、信者の健康に直接的に良い効果があるだろう。
 信者が静かに祈ったり、感動的な歌を歌ったり、瞑想をしたりするときには、抑制系が活性化する。その結果、免疫力が上がって、心拍数や血圧が下がり、ストレスホルモンが減って心が落ち着き、自信がつく。
 そして、人と仲良くして、人生に前向きになることを助け、心に良い効果をもたらし、幸せを感じる。
 このような反応をする宗教行為を毎日する人は、心も体も健康でいられることが多いだろう。



■宗教が洗脳で保証する様々な価値――意味や目的や安心感を与える(妄想か真実かは関係ない)

 恐怖や不確実性の多い世界で、人間は多大なストレスを感じる。
 宗教は、神や聖霊などの強い存在が世界をコントロールしてくれると信じさせて、ストレスを減らしてくれる。
 神は、信じる人間には理解できる存在で、人間のために世界に働きかけ、人間に力を貸し、安らぎを与え、苦しみから解放する(洗脳する)。
 神を信じる人は、自分の人生に意味や目的があると思える。 彼らは、生きるために一人でがんばっているのではなく、強くて優しい神に守られていると感じ、この世界への恐れが軽減する。
 神と一つになる感覚、神とつながっているという確信は、宗教がもたらす最大の利益である。
 神の存在の確信は、個人にも集団にも、希望と慰めと自信と目的を与える。

 人類の歴史や生存は、この確信のおかげで成り立ってきたと言っても過言ではない。

 なんといっても、この洗脳が、生存における様々なストレスを減らすのだ。
 これは医療においてのプラセボ効果とよく似ている。
 この神秘体験をする能力は、遺伝する。
 そして、人間に意味や目的や安心感を与えて、進化に役立ってきた。
 そして宗教は、歴史や地理や民族や政治によって、様々に変化したが、どの宗教も、神秘体験が根本にあって、神のリアリティーを示している。
 神秘体験をする能力やこれに基づいた信仰は、知性や理性よりも強くて、宗教を十分しぶとくさせている。
 合理的に説得しても、人の信仰を変えることは困難である。なぜならその人にとって神なる存在はいつまでもどこまでもリアルなのだから。

 熱心な創価学会員についてもこのことはあてはまる。
 先述してきたように、創価三代会長は俗世のみの師弟関係でしかないことを、理性でいくら説得したとしても、彼らの誤った信仰を修正することは極めて困難である。
 機関紙である聖教新聞などでは、亡くなった後も永遠化された池田大作に対して、戸田城聖の獄中の悟りともされている「在在諸仏土常与師俱生」を曲解した信念や決意のオンパレードが続いている。

 神秘体験や信仰が正しく解釈されるとは限らない。
 カルト教団の悲劇や、宗教がもたらす罪や罰論、その他の恐怖の教えのダメージなど、その例は多い。



■ 神仏は本当に客観的存在なのか?

 先述してきたように、神秘体験とは、神と一つになる感覚だ。宗教は、この感覚から発生した。この感覚は、脳科学で測定できるし、画像で見ることもでき、証明されている。
 だが、この発見は、次の深い疑問を投げかける。
 神秘体験は、脳の一部が強く働くだけなのか? 
 脳は本当に存在するものを感じているのか? 
 脳は、物質を超えて、もっと高いものを体験できるように進化したのか?

 神秘家たちは、本当にあるものに出会ったと言う。それは、物質よりもリアルなもので、そこでは、空間や時間や自己の境界がないと言う。
 もしかしたら、神がそこにいるのかもしれない。
 (そことは、世界なのか?、それとも脳の中だけなのか?)
 昔からの科学や常識では、そんなことはあり得ない。
 科学的な研究者達は「リアルなものは物質だけだ」と考えて研究してきた。
 しかし新しい科学である神経学では、驚くべき答えになった。
 それは、神秘家たちは本当にあるものに出会っていたのかもしれないし、神秘体験は、神のリアルさを見せてくれる窓なのかもしれないということだ。
 これは信仰ではなく、論理的な推理である。
 そしてこれは非科学的に見えるが、科学的な検証に十分耐えるのである。
 ただ、一般的な人格神や魂のように、それに人格や物理的性格を持たせると、そのリアリティーを損ねることになる。アニミズムになってしまうからである。



■科学的なリアリティー(測定可能)と、神秘的なリアリティー(測定不能)

 リアリティーとは何か? 
 客観的な物質の世界と主観的な心の世界のどちらが本当の現実なのか? 
 この問いに対する哲学的な答えは未だに見つかっていない。 科学者は物質の世界だけがリアルであると主張するが、神秘家は神との一体感が最高のリアリティーであると信じる。
 科学は神秘体験を否定するが、神経学は神秘体験も脳の活動として測定できることを示した。
(コメント9)

 例えばオペラの音楽を聴くときや思い出すときに、脳は同じように反応する。音楽は心の中にあるが、リアルに感じられる。
 同様に、物質の世界も脳が作り出すイメージである。
 これらはどちらも同様にSPECT画像などの脳画像で測定される。
 神秘体験は脳の錯覚なのか、それとも真の存在に触れることなのか? この問いに答えるためには、神経学や、万物の統一理論についての今後の発展が期待される。



■脳が作る自己と世界

 我々は脳によって自己や世界を知覚し、記憶し、意識する。

しかし、脳はどのようにして世界を構築し、自己を生成するのか。
 この問いには、進化論や神経科学や心理学などの観点から、様々な答えが提案されている。
 脳は進化の過程で、環境に適応するために、感覚や運動や認知などの機能を発達させた。
 脳は体を制御するだけでなく、自分と外界との区別や関係をつくる。
 脳は自分の行動の結果と、自分のコントロールできない刺激とを区別することで、自己と外界との境界を引く。
 この境界は、感覚の分類から始まり、自己の連続性や一貫性を保つ。

 意識は脳のすべての過程にあるわけではない。
 意識は、変化や新しさや重要さなどに応じて、感覚や記憶や思考や行動などを選択的に取り込む。
 意識は、学習や練習や習慣化などによって、自己の能力や知識や技術を形成する。
 そして意識は、自分の経験や信念や感情などに、意味や実在性を与える。ゼーモンは、これらの仕組みをムネメと呼んだ。
 意識は、心の作用であり、自己の生成である。
(コメント10)


■具象化と自己の発達

 具象化とは、心の内容に現実性を与えることである。
 脳は、感覚や思考や信念などに意味や実体を割り当てて、世界を構築する。
 具象化の能力は、物の本質を理解することや、物の存在を確信することを可能にする。この能力は、左脳の上部にある「実在オペレータ」という機能によって働く。
 具象化の過程は、自己の発達において重要である。

 例えば赤ん坊は、生まれてから物心つくまでは「自分自身に気づいてない」!
 そこで赤ん坊は、自分の感覚や行動を超えた外界を探索する。

 赤ん坊は、泣くなどして自分の作った音と、それに反応して帰ってくる母親の声などの自分の作らない音とを区別することで、自己と他者との境界を引く。
 この境界は、こうして感覚の分類から始まり、一生涯、自己の連続性や一貫性を保つ。

 こうして、自己は、心によって生成される。
 心は、記憶や情動などを脳に伝えて、自己を作る。
 自己は、心とは別のものであり、心の作品である。
 これが、自己の重要性であり、一貫性でもある。
(コメント11)

 その後における脳と自己の関係、脳と社会の関係についても参考としてコメント12~14に挙げた。



■真の自己の発見と神秘体験

 瞑想などにおいて、脳の中で自己を作る要素が失われると、自己も消滅する。
 これは、新しい感覚が入らないときや、求心路が遮断されるときに起こる。
 自己が消滅すると、純粋な状態になり、時間や空間や体の感覚もなくなり、すべてが一つになる。
 このとき、我々の最も深く、最も真実な自己が現れる。
 これを、神秘家は「普遍的な自己」と呼ぶ。
 神秘家は、自分を捨てることで、自分の本質を知り、単純で真実の世界に気づくと言う。
 神経学の脳のモデルでは、この純粋な状態や「絶対的一者」を体験する仕組みを説明できるが、その本質や根源を証明できない。
 神秘家の言う世界が、脳の状態なのか、それとも脳を超えるものなのかは、現在のところ不明である。
 しかし、神秘家の体験がリアルであることは間違いなく真実なのである。


■絶対的一者と真の自己

「絶対的一者」とは、すべてが一つになると感じる超越状態である。文化によって名称は違うが、本質は同じである。
 それは、純粋な気づきで、無の意識で、突然に、鮮やかに起こる。
 神秘家たちは、この最高の存在を、理屈ではわからないし、言葉では言えないと言うが、それでも表現しようとした。
 彼らの言葉は、難解で、矛盾しているように見えるが、それは、彼らの言葉が嘘だとか、彼らの体験が間違っているということではない。
 例えば、黄檗という人が「唯心」という超越状態について言った言葉は、以下のようなものである。

 「すべての悟りをひらいた仏陀、すべての感じるものは、唯心だけで、他には何もない。この心は始まりもなく、生まれもしなく、消えもしない。それは色もなく、形もなく、見た目もない。それは、あるものでもなく、ないものでもなく、新しい言葉でも古い言葉でも考えられない。それは長くもなく短くもなく、大きくもなく小さくもない。なぜならそれは、すべての限りや名前や跡や比べることを超えているからだ。ただ唯心に目覚めよ。」

 普通の人は、このような不思議な言葉を真実として受け入れることはできない。
 しかし、神秘家たちは、自分を信じることで、この状態を理解することも体験することもできると言う。
 この超越状態は、時間も空間も体の感覚もない状態で、物質の世界に気づかない状態である。
 また、この瞬間には、自分のことに気づかなくなると言う。

 つまり、我々は、心を使って、心を超え、自分の心をコントロールしなければ、超越できないことになる。

 仏法では、「心の師とはなるとも、心を師としてはならない」と説く。
 迷いの中にいる自分のことに「気づかない心」を理解することは難しい。
 既に自分のことに気づいている状態に慣れている我々は、「自分のことに気づいていない心」なんてあるのかと疑ってしまう。
 しかし、「自分のことに気づかない」心は間違いなくある。

 なぜなら我々は皆、この心の状態で生まれてきたのだから。
 人間の赤ん坊は、物心つくまでは「自分のことに気づかない」。

 自分のことに気づく――自己の形成――には、脳で特別な神経のつながりができることが必要なのである。
 しかし、一旦それが発達し、日常的に自己に気づきの状態であるとき、それが迷い(仏法では無明という)の状態であることに気づくことは困難である。前述の「唯心」が理解困難なのもこのためである。
 この迷いは、我々が自身の脳の中でしか世界を見れないことから生じているからだ。
 前述の超越状態は、我々が迷い(形成された自己)から解放された、我々の最も深く、最も真実な自己を示すと言われる。
 しかし、この自己は、我々が普段知っている自己とは当然ながら異なる。
 我々が普段知っている自己とは、この世界で生きて、いろいろなことをすることで、脳で特別な神経のつながりができ初めて実現する、いわば脳の中で心によって形成された「迷い」の自己なのである。


■神の歴史と不寛容

 カレン・アームストロングは、自著『神の歴史』で、一神教の信徒たちが神というシンボルを歴史的にどのように変化させてきたかを分析している。彼女は、魔女狩りや異端尋問や宗教戦争や原理主義など、神の名における様々な迫害や暴力について、以下のように述べている。

- 魔女狩りの神:一神教の神が人間の理性や自然に対抗する超自然的な存在として捉えられ、神の概念が人間の理性や自然との調和を失った。
- 異端尋問の神:一神教の神が唯一の真理として絶対化され、神の概念が人間の多様性や自由との対立を招いた。
- 宗教戦争の神:一神教の神が政治的な権力として利用され、神の概念が人間の平和や正義との矛盾を生み出した。
- 不寛容な原理主義の神:一神教の神が近代化や世俗化に対抗する反動として生まれ、神の概念が人間の多様性や自由との対話を拒否した。
- その他、ありとあらゆる迫害に名を貸した神:一神教の神が人間の権力や利益に利用されたり、人間の恐怖や偏見に付け込まれたりして、神の概念が人間の尊厳や幸福との関係を見失った。

 これらの残虐行為は、神がそれを望んでいるという理由で行われた。
 その根底には、自分たちの神こそが唯一の神であり、自分たちの宗教こそが真実に至る唯一の道であるという独善的な思い込みがあった。
 先述してきた日興門流~創価学会も、その形態は同様である。
 『神に選ばれた民』である自分たちには、『神の敵』と戦う権利もしくは義務があると考えた。
 歴史的には、宗教的な不寛容は、主として文化的な現象であり、その基礎には、無知、恐怖、外国人への偏見、自民族中心主義、熱狂的な愛国主義などがあったとされてきた。

 しかし、これらの不寛容の基礎には、単なる偏狭さを超える現実があると考えられる。
 それは、絶対的な支配力を持つ人格神への信仰を生み出した共通の、『一なるもの』へすべてを解消する超越的な体験、すなわち「絶対的一者」である。


■超越的な合一と宗教的不寛容

 ニューバーグは、超越の過程が極点に達すると、心は絶対的・徹底的な合一状態に直面し、真実をめぐるあらゆる解釈、対立、矛盾は『一なるもの』の中に解消すると述べている。(ニューバーグ著「脳はいかにして<神>を見るか」)
 そして、すべての宗教や神は、究極的には一つの超越的な合一体験に基づいており、どれか一つだけがリアルであるということはないと言い、以下についても概ね述べていて、私も同じ見解である。

 すなわち、超越状態には、日常的なものから、神秘家のような強烈なものまで、さまざまなレベルがある。
 しかし、究極の絶対的な合一状態では、真実は一つであり、信仰の対立は生じないはずである。
 ところが実際には、古今東西、様々な宗教戦争や宗教的対立が続いている。
 これは、神秘家たちの神秘的合一レベルが完全ではなく、それぞれの利己的・主観的な考えが残ってしまったことによると考えられる。
 すなわち、瞑想時における方向定位連合野の求心路遮断が不完全で、自己の経験や主観が神として映像化されたのである。

 その結果、原始的な文化では自然界の精霊、キリスト教徒ではイエス、イスラム教徒ではアッラーといった、揺るぎない強者・創造主としてのスピリチュアルな真実が生まれた。

 これらのスピリチュアルな真実により、神秘家や信者たちは、コントロール不可能な運命をコントロール可能にし、自分たちの生きる意味や死の克服を確信した。
 この確信は、神の存在が直接の神秘的出会いによって絶対的な真実となっているからだ。
 それを信じないということは、神の概念や神経学的過程に裏づけられた「確信」に対する攻撃となり、生存に対する重大な脅威となる。つまり、絶対的な真実は一つしかあり得ず、それ以外のものはすべて、暴き殲滅しなければならないという強迫観念が生まれる。

 言い換えれば、宗教的不寛容の基礎になる『排他的』な真実への思い込みは、不完全な超越状態から生じてくるといえる。

 つまり、この神秘的合一が不完全で、六道に侵された自我が残るから、それはファシズムにもつながるアニミズムとなってきたといえる。(コメント16~19)


■ 日蓮の悟りと見逃したもの、弘教の問題点

 先述したが、日蓮は、南無妙法蓮華経と定義した『法』への帰命を絶対的な悟りとした。
 これは、一なるものへの解消という超越状態である。
 しかし、その弘教の方法は、他宗を徹底的に破折・折伏するというものであり、当時の学問レベルに基づいてはいたが、将来の学問・科学の発展に対応できるかは疑問である。
 日蓮は、更新が可能な科学的な「法」を本尊とし、それを「血脈」として残したといえる。
 しかし、残念ながら、その「法」をアップデートすることまでを明確に示さなかった。
「法」なら、アップデートされ続けるものである。
 もっとも、日蓮の遺文や生涯を検討すれば、彼自身は自らの法をアップデートしながらの激動の生涯であったことは明白ではある。
 だが、後世にはそのことを明確に指示した遺文は見当たらない。
 そのため、すべての法が南無妙法蓮華経への「一なるものへの解消」につながり、他宗の中にも深遠な物理化学的真理を含むものを排除するドグマとなってしまった。
 結果、日蓮自身は、自らの信念と行動を貫き通したが、その後世は、先述してきたとおり、日蓮仏法をアニミズムや処施術、果ては誤った概念(師弟不二など)を信念とする創価学会など、日蓮の意向に反した様々な宗教組織を生み、総じて堕落させてしまったといえるのではないか。

 しかし、現在でも、日蓮仏法のすばらしさは、遺文の解釈の更新や個人の信行学の実践によって、所属組織はともあれ、多くの人の信念の中に伝えられている。

 あらゆる法則は、常に更新されてきたし、今後も新たな真実の発見によって、更新されていく。
 日常の常識から先端科学まで、常にアップデートしている。
 日蓮仏法が、人格神と違って、「法」を本尊としていることは、その余地が残されている点で、大いに優れているといえる。


 AI時代が進むことによって、宗教の役割が再評価され、すべての宗教が親戚であり、その多様性が、人格の尊厳性を増し、総じて人類の進歩につながっていくことが、近年にわたるスピリチュアルブームと、これを説明する科学の結論が、統一の方向へ向かっていることとして現れているように思われるのである。

 また、宗教よりも霊性に興味がある人が増えている。
 我々は、自分よりも大きなものが宇宙にあると感じていて、その大きなものの一部になりたいと思っている。
 それが、霊的な感覚である。

 宇宙意識、真我など、様々な表現が表れている。
 その感覚は、脳の一部が自分を超えたものにつながっていると感じることで生まれる。
 それは、宗教とは関係なく、霊性と呼ばれる。


 はたして日蓮は、科学と宗教がほぼ共通であった中世鎌倉時代で生涯を送ったが、未だ末法と言われる今日のAI時代で判明したこの事までも、十分に予想・認識していたのであろうか?

 

  P80へ、続きます。

 

☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次(一部リンク付き)

P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像1、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開、日蓮遺文の曲解例
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰
P18, 戸田城聖の師弟不二、隠蔽された不都合な内容、大倉商事の実態、通牒や戸田城聖著の小説「人間革命」、日蓮遺文の曲解利用
P19, 戸田城聖の「生命論」と「科学と宗教」の検討
P20, 池田大作「宇宙のリズム」アニミズム
P21, 暴力否定の日蓮、暴力隠蔽の創価
P22, 狸祭り事件、戸田城聖「師弟不二」仇討ちズムの原点

P23, 戸田城聖、東大・小口偉一氏の人間味のある分析
P24, 戸田城聖の政界進出、創価学会の発展の背景と要因、大阪事件、日蓮の国家諫暁の姿勢
P25, 池田大作エレベーター相承の真相 池田大作ウソ偽りズムの源流

P26, 創価の「師弟不二」の原点、御塔川僧侶リンチ事件、『追撃の手をゆるめるな』の検討
P27, 創価の自己増殖手段「折伏」と、日蓮の説く真の「折伏」、会長争奪戦と創価学会

P28, 師敵対の財務、本来の御供養の精神、仏法悪用の師弟不二

P29, 言論出版妨害事件、池田大作の神格化と野心、「創価学会を斬る」の指摘

P30, 北条浩の恫喝「象は一匹の蟻でも全力をもって踏みつぶす」、創価学会の言論出版妨害事件

P31, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(1)、被害者ぶった描写、田中角栄氏を使った策謀

P32, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(2)、池田大作と竹入義勝が‶盗聴〟 日蓮仏法の悪用

P33, 言論出版妨害事件、「新・人間革命」の検証(3)、公明党・渡部一郎国対委員長演説、逃げた池田大作

P34, 言論出版妨害事件 「新・人間革命」の検証(4) 山崎正友の進言で謝罪へ転換

P35, 言論出版妨害事件 「新・人間革命」の検証(5)  戦略的で周到な捏造

P36, 言論出版妨害事件 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(1)、日本共産党への憎悪

P37,  国立戒壇の否定 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(2)、言論出版妨害事件

P38,  野望「天下取り」の躓き 池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説の検討(3)、言論出版妨害事件

P39,  更新すべき「立正安国」原理、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(4)、言論出版妨害事件

P40,  創価学会の体質、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(5)、言論出版妨害事件

P41,  人間たらしめる究極条件、池田大作の祝典だきあわせ謝罪演説(6)、言論出版妨害事件

P42, 「師弟不二」という、池田大作への絶対的奉仕感情、王仏冥合から反戦平和へ転換

P43, 御供養精神から乖離した醜い争い、戒壇論が崩壊した正本堂意義、板マンダラ事件

P44, 池田本仏、仇討ちズムの総体革命、教義逸脱

P45, 増上慢な本仏、誤った「仏教史観を語る」、寺院不要論
P46, 昭和51年前後のマッチポンプ山崎正友や、御本仏池田大作の回りの微妙な関係

P47, 浜田論文や富士宮問題での様々な謀略

P48, 池田本仏の背景と構成要素、第66世細井日達の教義歪曲(1)

P49, 第66世細井日達の教義歪曲(2)、暗躍する山崎正友、内通する阿部信雄(後の阿部日顕)

P50, 池田大作創価学会VS細井日達と宗門若手僧侶、山崎正友原作「ある信者からの手紙」

P51, 創価学会の建前と本音の乖離、創価学会は『お客様』(阿部信雄)、揺らぐ細井日達(1)

P52, 時事懇談会資料の検討、謝罪演出と約束破棄、揺らぐ細井日達(2)

P53, 池田本仏論のおさらい、醸成されていた〝人〟の無謬化・絶対化

P54, 創価学会52年路線(池田vs日達)その後, 山崎正友と阿部信雄、ジャーナリズムの見解
P55, 昭和54年池田会長勇退の舞台裏(1)、御本尊模刻の全貌、弟子としての山崎正友

P56, 偽装和解だった11・7お詫び登山、教育者としての池田大作、会長辞任も偽装ポーズ、昭和54年池田会長勇退の舞台裏(2)

P57, 創価の「師弟不二」の精神、サドマゾ的人間関係、昭和54年池田会長勇退の舞台裏(3)

P58, 池田大作の独裁化進行、造反者続出、暴力団の利用後切り捨て

P59, 自分一人が「本物の弟子」、暴力団の利用後切り捨て(2)

P60, 人間革命の終わり、消えた非科学的奇跡的信仰体験、病気をする人間は信心が足りない…

P61, 虚妄のベール、原理主義的な学会員と隠れ会員、査問・除名ー切り捨てズム

P62, 池田大作入信神話と師弟不二、入信当時への生発言から小説人間革命までの比較検討

P63, 捏造・脚色の「創価学会正史」、自分の履歴も一部都合よく捏造し著作した池田大作

P64, 御本仏「池田大作」誕生、捏造神話を安易に採用した御用学者やジャーナリスト達

P65, 多くの池田大作著が代作、池田大作著「科学と宗教」とは乖離した欺瞞、造反者の告発と正眼の指摘

P66 池田大作・創価学会組織と熱烈な会員との、サド・マゾヒズム的共棲関係「師弟不二」

P67, サド・マゾヒズム的共棲――創価学会員や現代人の「自由からの逃走」

P68, 池田大作と創価学会組織内でのサディズム・マゾヒズムの検討

P69, 永遠化される俗世の師弟と仏法本来の「師弟不二」、真に信じるに価する宗教とは

P70, 師弟不二アップデートの試み(1)、私の創価学会体験

P71, 血脈アップデートの試み、創価学会組織の社会的性格(1)

P72, 創価学会組織の社会的性格(2),心理的分析,『独創性』の欠如,ミヒャエル・エンデの描写

P73, 創価学会組織の社会的性格(3),教祖と信者、利用者たちの心理学的分析

P74, 創価学会組織の社会的性格(4), 自由,独自性,創造性,真の理想と犠牲,真の自我の確立(仏界)を目指す指針

P75, 日蓮の成仏観と瞑想(1),血脈と師弟,アニミズムの凡夫本仏論

P76, 仏性や境智冥合の説明も,結局,宇宙意識と一体化を説くアニミズム,臨死体験,神秘体験

P77, 神秘体験に関与する神経学的システム、科学の知見も感情の積み重ねの産物

P78, 日蓮の成仏観と瞑想(2),アニミズムとの違いは「法」への帰命

P79, 日蓮の見逃し,一なるものへの合一,神経神学の成果,瞑想のレベル,神話の形成,儀式の意味