●19  戸田城聖の「生命論」と「科学と宗教」の検討 | ラケットちゃんのつぶやき

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●19 戸田城聖の「生命論」と「科学と宗教」の検討

 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P19, 戸田城聖の「生命論」と「科学と宗教」の検討
 です。

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■戸田城聖の「生命論」の検討

 戸田城聖全集1、1965/9/2,和光社,P225-238には、昭和24年7月10日付けの、戸田城聖の生命論が掲載されている。

 戸田は、生命とはなにかについて、自己の獄中でのシラミの観察や、法華経や日蓮の文証を根拠に、問題提起をしている。

 「かかる類文は、あまりにも繁多であり、三世の生命なしに仏法はとうてい考えられないのである。これこそ、生命の実相であり、聖者の悟りの第一歩である。しかしながら、多くの知識人はこれを迷信であるといい、笑って否定するであろう。しかるに、吾人の立場からみれば、否定する者こそ自己の生命を科学的に考えない、うかつさを笑いたいのである。
 およそ、科学は因果を無視して成り立つであろうか。宇宙のあらゆる現象は、かならず原因と結果が存在する。生命の発生を卵子と精子の結合によって生ずるというのは、たんなる事実の説明であって、より本源的に考えたものではない。あらゆる現象に因果があって、生命のみは偶発的にこの世に発生し、死ねば泡沫の如く消えてなくなると考えて、平然としていることは、あまりにも自己の生命にたいして無頓着といわねばならない。
 いかに自然科学が発達し、また平等をさけび、階級打破をさけんでも、現実の生命現象は、とうてい、これによって説明され、理解されうるものではない。われわれの眼前には人間あり、ネコあり、イヌあり、トラあり、すぎの大木があるが、これらの生命は同じか。ちがうか、また、その間の関連いかん。
 同じ人間にも、生まれつきのバカと、りこう、美人と不美人、病身と健康体などの差があり、いくら努力しても、貧乏人である者もおれば、また貪欲や嫉妬になやむ者、なやまされる者などを、科学や社会制度では、どうすることもできないであろう。かかる現実の差別には、かならずその原因があるはずであり、その原因の根本的な探求なしに解決されるわけがないのである。
 ここにおいて、三世の生命を説くからといって、われわれは霊魂の存在を説いているのではない。人間は肉体と精神のほかに、霊とか魂とかというものがあって、現在を支配し、さらに不滅につづくということを承認しているのではないことを明確にしておく」

 この問題提起は概ね是認できるものである。

 そして、科学の発達や社会制度での工夫の限界もきちんと見抜いている。
 むしろ、その限界や不可能性そのものも「かかる現実の差別には、かならずその原因があるはずであり、その原因の根本的な探求なしに解決されるわけがないのである」というのは正解であろう。

 さらに、「人間の生命は三世にわたるというが、その長さはいかん。」といい、法華経や日蓮の依文を挙げながら、永遠の生命を以下のように論じている。

 まず、法華経如来寿量品から
 『然るに善男子、我実に成仏してより已来、無量無辺百千万億那由佗劫なり…中略…是れより来、我常に此の娑婆世界に在って説法教化す』
 を挙げ、これを
 「『お前たちは、みな、私がこの世で仏になったと思っているが、じつは自分が仏になったのは、いまから五百塵点劫という、かぞえることもできないほど昔に成仏して、常にこの娑婆世界にいて活動をしているのである』という意味であり、自分の生命は、現世だけのものではなく、また悟りも現世だけのものでなくて、永久の昔からの存在であると喝破しているのである」


 次に、『諸の善男子、如来諸の衆生の、小法を楽える徳薄垢重の者を見ては、是の人の為に、我少くして出家し、阿耨多羅三藐三菩提を得たりと説く。然るに我、実に成仏してより已来、久遠なること斯くの若し』について、
 「福徳の薄い、心ののごった者は、生命は現世だけであると考えているが、真実の生命の実相は、無始無終であると説かれている」と展開する。


 更に、釈尊は久遠の生命を、仏の境涯から説いたのに対して、日蓮は凡夫の境涯からこれを「本有の生命、常住の仏」として説いているとしている。
 「すなわち凡夫のわれわれのすがた自体が無始本有のすがたである。瞬間は永遠をはらみ、永遠は瞬間の連続である。久遠とは、はたらかず、つくろわず、もとのままと説かれているのである」
 として、日蓮の依文を4つ挙げている。
 三世諸仏総勘文抄(御書P568)
 「釈迦如来・五百塵点劫の当初・凡夫にて御坐せし時 我が身は地水火風空なりと知しめして即座に悟を開き給いき、後に化他の為に世世・番番に出世・成道し在在・処処に八相作仏し 王宮に誕生し樹下に成道して始めて仏に成る様を衆生に見知らしめ 四十余年に方便教を儲け衆生を誘引す」
 当体義抄(御書P513)
 「至理は名無し聖人理を観じて万物に名を付くる時・因果倶時・不思議の一法之れ有り之を名けて妙法蓮華と為す 此の妙法蓮華の一法に十界三千の諸法を具足して 闕減無し之を修行する者は仏因・仏果・同時に之を得るなり、聖人此の法を師と為して修行覚道し給えば妙因・妙果・倶時に感得し給うが故に妙覚果満の如来と成り給いしなり」
 十法界事(御書P421)
 「迹門には但是れ始覚の十界互具を説きて 未だ必ず本覚本有の十界互具を明さず故に所化の大衆能化の円仏皆是れ悉く始覚なり、若し爾らば本無今有の失何ぞ免るることを得んや、 当に知るべし四教の四仏 則ち円仏と成るは且く迹門の所談なり是の故に無始の本仏を知らず、故に無始無終の義欠けて具足せず又無始・色心常住の義無し 但し是の法は法位に住すと説くことは未来常住にして 是れ過去常に非ざるなり、本有の十界互具を顕さざれば 本有の大乗菩薩界無きなり、故に知んぬ迹門の二乗は 未だ見思を断ぜず迹門の菩薩は未だ無明を断ぜず六道の凡夫は本有の六界に住せざれば有名無実なり」
 御義口伝(御書P752)
 「此の品の題目は日蓮が身に当る大事なり神力品の付属是なり、如来とは釈尊・惣じては十方三世の諸仏なり別しては本地無作の三身なり、今日蓮等の類いの意は惣じては如来とは一切衆生なり別しては日蓮の弟子檀那なり、されば無作の三身とは末法の法華経の行者なり無作の三身の宝号を南無妙法蓮華経と云うなり、寿量品の事の三大事とは是なり、六即の配立の時は此の品の如来は理即の凡夫なり頭に南無妙法蓮華経を頂戴し奉る時名字即なり、其の故は始めて聞く所の題目なるが故なり聞き奉りて修行するは観行即なり此の観行即とは事の一念三千の本尊を観ずるなり、さて惑障を伏するを相似即と云うなり化他に出づるを分真即と云うなり無作の三身の仏なりと究竟したるを究竟即の仏とは云うなり、惣じて伏惑を以て寿量品の極とせず唯凡夫の当体本有の侭を此の品の極理と心得可きなり、無作の三身の所作は何物ぞと云う時南無妙法蓮華経なり云云。」


 そして、これを根拠として、
 「生命とは、宇宙とともに存在し、宇宙より先でもなければ、あとから偶発的に、あるいは何人かによって作られて生じたものではない」として、偶然説だけでなく、創造主を立てるキリスト教など、あらゆる神を立てる宗教を否定する。

 しかし、続いて戸田は「宇宙自体がすでに生命体そのものであり、地球だけの専有物とみることもあやまりである」という。

 これは、古代インドのバラモン教、ウパニシャッド哲学にみられるブラフマンに相当し、続いて、大いに飛躍して、
 「われわれは、広大無辺の大聖人のご慈悲に浴し、直達正観事行の一念三千の大御本尊に帰依したてまつって、『妙』なる生命の実体把握をはげんでいるのにほかならない」という。

 これは、われわれの生命がアートマン(自我)とする、「大御本尊に帰依し」て梵我一如を悟ることと何ら変わらない主張であり、さらに、戸田の言う「大御本尊」とは、この生命論の結語で後述されている通り、大石寺の「板マンダラ」であるから、論理構成は、宇宙全体の生命体=板マンダラに帰依するアニミズムとなっているのである。

 これについて日蓮は以下のように述べて、明確にアニミズムを否定している。
 「妙法蓮華経と唱へ持つと云うとも若し己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず麤法なり」(一生成仏抄 御書P1337)
《ただし、妙法蓮華経と唱え、受持するとはいっても、もし己心の他に法があると思うならば、それは全く妙法ではなく麤法である》
 「かくの如きの人をば仏法を学して 外道となると恥しめられたり、爰を以て止観には雖学仏教・還同外見と釈せり」(御書P1337)
《こんな人を「せっかく仏法を学びながらも、かえって外道の見解と同じになっている」と、天台大師が摩訶止観において説明されている》


 ただ、この続きの戸田の科学的な主張は、彼の時代の科学水準では十分是認できるものである。
 「あるいは、アメーバーから細胞分裂し、進化したのが生物であり、人間であると主張し、私の説く永遠の生命を否定するものがあるであろう。しからば、赤熱(ママ)の地球が冷えたときに、なぜアメーバーが発生したか、どこから飛んできたかと反問したい。
 地球にせよ、星にせよ、アメーバーの発生する条件がそなわれば、アメーバーが発生し、隠花植物の繁茂する地味、気候のときには、それが繁茂する。しこうして、進化論的に発展することを否定するものではないが、宇宙自体が生命であればこそ、いたるところに条件がそなわれば、生命の原体が発生するのである。
 ゆえに、幾十億万年の昔に、どこかの星に人類が生息し、いまは地球に生き、さかえているとするも、なんの不思議はないのである。また、いずれかの星に。まさに人間ならんとする動物がいることも…中略…さもありなんと信ずるものである。あるいは、蛋白質、そのほかの物質が、ある時期に生命となって発生したと説く生命観にも同ずるわけにはいかないのである。生命とは宇宙とともに本有常住の存在であるからである」
 と述べている。


 私たちのビッグバン宇宙の発生した確率、地球上に生命体が発生した確率も、現在ではほとんど推定され、それらは小さいながらも無限大∞に比せば十分ありうることである。
 だから、「条件がそなわれば、生命の原体が発生する」通りである。
 生命体とは、自らの体を利用して自己複製するものと定義されている。
 自らの子孫を残す行動が最大の利益となるようになっている。
 ちなみに、ウィルスは単体では単なる蛋白質にすぎないが、遺伝子情報を持つために、他の生命体の自己複製機構を利用して自己複製するため、生物と無生物の中間体ともされているものである。
 今世界中に変異しながら流行している新型コロナウィルスも、「条件がそなわれば、生命の原体が発生する」のであり、ダーウィンの進化論、自然選択の論理に従っている。
 生物学的観点からは、他の生態系に比べて相対的に増えすぎた人類に対する自然選択圧力であり、地球上の食物連鎖の一場面なのである。

 日蓮が採用した、仏法における一念三千の法は、素粒子から宇宙におけるあらゆる物体にも生命体として一念が具わるというものである。
 ただし、これ等の森羅万象を縁起による表面のみに捉われるとアニミズムに陥る。

 一個の独自の生命は、他の全ての生命体をリソースとして共有してながら、無始無終の独自の法(=南無妙法蓮華経)に則って、業という因果情報を刻みながら因果応報、生滅を繰り返し、輪廻転生し続けていることになる。

 依法不依人の原則に立てば、変化しないのは法のみであって、その因果の現象は常に変化(諸行無常)するのであるから、変化・消滅する実体に宗教的に帰命してはならないのであり、仏法では当初の原始仏教から「諸法無我」として、また日蓮は法華経の「諸法実相」を採用して、これを否定しているのである。



 そして、次に続く、戸田による生命の連続の様子に関する論考はおもしろい。
 「しからば、どんなふうにしてあらゆるものの生命が連続するのであろうか」

 戸田は、初めに観念論や霊魂不滅説を、仏法では否定されていることをあげている。
 仏法ではアニミズムを否定するので、当然と言えば当然である。
 「寿量品の自我偈には『方便現涅槃』とあり、死は一つの方便であると説かれている。たとえてみれば、眠るということは、起きて活動するという人間本来の目的から見れば、たんなる方便である。人間が活動するという面からみるならば、眠る必要はないのであるが、眠らないと疲労は取れないし、また、はつらつたる働きもできないのである。そのように、人も老人になったり、病気になって、局部が破壊したりした場合において、どうしても死という方便において、若さを取り返す以外にない」

 そして、一念三千の論拠を開目抄や観心本尊抄に求めながら、次のように譬えながら論を展開している。
 「眠っている間は、心はどこにもない。しかるに、目をさますやいなや心は活動する。眠った場合には心がなくて、起きている場合は心がある。あるのがほんとうか、ないのがほんとうか、あるといえばないし、ないとすれば、あらわれてくる。
 このように、有無を論ずることができないとする考え方が、これを空観とも妙ともいうのである。この小宇宙であるわれわれの肉体から、心とか、心の働きとかいうものを思索してこれを仏法の哲学の教えを受けて、真実の生命の連続の有無を結論するのである。
 前にものべたように、宇宙は即生命であるゆえに、われわれが死んだとする。死んだ生命は、ちょうど悲しみと悲しみとの間に何もなかったように、死後の生命は宇宙の大生命にとけこんで、どこをさがしてもないのである。霊魂というものがあって、フワフワ飛んでいるものではない。大自然の中にとけこんだとしてもけっして安息しているとは限らないのである。あたかも眠りが安息であると言いきれないと同じである。眠っている間、安息している人もあれば、苦しい夢にうなされている人もあれば、浅い眠りになやんでいる人もあると同じである。
 この死後の大生命にとけこんだすがたは、経文に目をさらし、仏法の極意を胸に蔵するならば、自然に会得するであろう。この死後の生命が、なにかの縁にふれて、われわれの目に写る生活活動となってあらわれてくる。
ちょうど、目をさましたときに、きのうの心の活動の状態を、いまもまた、そのあとを追って活動するように、新しい生命は、過去の生命の業因をそのまま受けて、この世の果報として生きつづけなければならない。
 かくのごとく、寝ては起き、起きては寝るがごとく、生きては死に、死んでは生き、永久の生命を保持している。その生と生の間の時間は、人おのおの、ことなっているのであるから、この世で夫婦・親子というのも、永久の親子・夫婦ではありえない。
ただ、清浄なる真実の南無妙法蓮華経を信奉する、すなわち、日蓮大聖人の弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊を信ずるもののみが、永久の親子であり、同志である大功徳を、享受しているのである。」


 ここにおいて、戸田が、仏法の空観や一念三千を、睡眠に譬えて展開したのはわかりやすくて面白い。

 死を、老化し傷み朽ち果てた肉体をリセットして、新たな肉体を得るための方便として説いたところの、この仏法の視点は、卓越した見解であり、これを取り入れた彼の生命論の優れた点の一つでもある。
 死とはまさに、永遠に各自独自の生命法則が、自らの衰え朽ちた肉体というリソースを更新して新たな肉体を得て自動再生を継続する絶好のチャンスとしてとらえられるべき現象なのである。

 これに関しては、日蓮の法の検討の際に前述したが、この空観や一念三千の体験は、現代医療で普通に行われている全身麻酔の導入・覚醒の前後において、まさにどんな人でも経験可能な現象である。
 私は日常、少なからずこういった麻酔も手術も担当してきたが、手術中、どんなに体が無慚に切り刻まれようとも、それがどんなに長い時間に及ぼうとも、患者の麻酔中の感覚は一切無く、悪夢を見ることもなく、入眠から覚醒までの体感時間はゼロ、即ち「一瞬」なのである。
 つまり、感覚器官の働かない期間は、麻酔がなければ感じるであろう地獄の苦しみや期間の長さは「一切ない」のである。
 そして、臨終から次なる生誕までの期間は、感覚器官そのものが存在しない期間だから、感覚自体がない、つまりこれと同様に体感時間はゼロ「一瞬」となるのである。

 この事実は、現代までも様々な宗教で依然としてもてはやされる、死後の生命に関する罰論、またその反対の功徳や救済論が、いかに欺瞞に満ちているかを証明する。


 現実には時空が無限大であっても体感時間ゼロという一瞬で転生となることは、感覚器官がある麻酔中でも科学的に体感時間ゼロという一瞬が証明されているので、感覚器官がない死後の生命においてはなおさら同様である。


 要するに、仏法で説かれた死後に次なる生を受けるまでの生命に関する内容、つまり死後に無間地獄や餓鬼道などに堕ちて苦しむ、またはこれとは反対の、念仏を唱えれば極楽浄土に生まれる、故人を追善供養すれば救済されるなどの内容については、古今東西、他の宗教にも夥しい著作があるが、すべて非科学的欺瞞・架空の作り話であり、よく言えば現実の中で一切衆生を正しい修行へ導くための方便であったのだ。


 転生という事態は体感時間ゼロ(一瞬)で経過するのである。


 そして、現実に具体的に悪業の果報が現れるのは次なる生を受けてから、確実にやってくる。善業の場合も同様である。
 たとえば全身麻酔の覚醒後は、現実には手術の成功という「果報」とともに手術後の疼痛という「地獄」が確実にやってくるのと同様である。
 中有を説く四有論も、現代科学の前には戯論となり、死者の魂や死後の生命についての様々な体験、たとえばチベットの死者の書の内容も、もはや欺瞞に満ちたものとなる。



 話は戸田の生命論に戻る。
「宇宙は即生命であるゆえに、われわれが死んだとする。死んだ生命は、ちょうど悲しみと悲しみとの間に何もなかったように、死後の生命は宇宙の大生命にとけこんで、どこをさがしてもないのである。霊魂というものがあって、フワフワ飛んでいるものではない。」
 これは、心の状態はまさしく全身麻酔中と同様である。

 しかし、「大自然の中にとけこんだとしてもけっして安息しているとは限らないのである。あたかも眠りが安息であると言いきれないと同じである。眠っている間、安息している人もあれば、苦しい夢にうなされている人もあれば、浅い眠りになやんでいる人もあると同じである。」というのは、睡眠の譬え自体が適切でない。

 睡眠中の夢は、脳、すなわち心の働きによるものである。
 全身麻酔中であれ、死後の生命であれ、体感時間はゼロであるから、このゼロの間に苦しみようはないのである。

 「この死後の大生命にとけこんだすがた」とは、現象面では「生きとし生けるものはすべて、やがて土にかえる」ことをいうのだろうか。一箇の生命が死んでも、死骸は死ぬ前とは物質的には同じであって、宇宙全体としての物質とエネルギーの総量は変化しない。
 つまり、死という状態は、宇宙全体のリソースは共有しているものの各個体の法則の再生が停止している状態にすぎない。
 「なにかの縁にふれて」というのも、因果応報の一現象であり、各個体の法則(=アプリ、プログラム)の再生がこれによって始まれば、「きのうの心の活動の状態を、いまもまた、そのあとを追って活動するように、新しい生命は、過去の生命の業因をそのまま受けて、この世の果報として生きつづけなければならない。かくのごとく、寝ては起き、起きては寝るがごとく、生きては死に、死んでは生き、永久の生命を保持している」ことになるのである。
 「その生と生の間の時間は」体感時間は一瞬であるが、「人おのおの」、時空を超え、異次元・異なった宇宙を含めて「ことなっているのであるから」当然に、「この世で夫婦・親子というのも、永久の親子・夫婦ではありえない」のもうなずける。

 しかしながら、最後の結論部分で、「ただ、清浄なる真実の南無妙法蓮華経を信奉する、すなわち、日蓮大聖人の弘安二年十月十二日の本門戒壇の大御本尊を信ずるもののみが、永久の親子であり、同志である大功徳を、享受しているのである」と結んでいるのは、自らこれまでの優れた科学的思考を放棄し、アニミズムのドグマにかえっていることになっていて、日寬教学の影響とはいえ、きわめて残念な論理である。



■戸田の「科学と宗教」について


 戸田城聖は、大白蓮華32号、昭和28年5月20日の巻頭言にて、科学と宗教について、
「真の宗教は、その研究態度が科学的であり、その研究の結果は、論理的に体系づけられ、かつ科学的な実験証明がなされねばならぬ。しかして、その定理、方程式とも称せられるものは、普遍妥当性を持たねばならぬ。その体系づけられた定理は、何に役立ち、何を研究対象としているかは、はっきりと明示されていなければならぬ。しかも、その定理は、時間と空間に支配されてはならない」
 と、はっきり明示している。
 見事に的を得た指摘である。
 しかしながら、今日までの創価学会の歴史においては残念ながら、この指摘にかなった研究がなされてきたとは言い難い。

 以下、戸田城聖の、科学と宗教についての論述について検討する。

 「科学と宗教
(一)
 「あらゆる学問は、宇宙の森羅万象を対象として研究せられる。しかして、その現象は分類されている。各系統によって分類せられるゆえに、科学を文科せられていることは、当然のことである。法律、経済、社会学等は社会現象を研究し、物理、化学、数学等は物質方面の科学であり、心理学、倫理学、哲学等は人間の心の働きを対象とする。医学、生理学は人体を対象として研究せられている。その他、あらゆる文科ありといえども、その文科間に、なんらの闘争も、軽蔑もありようなく、互いに尊敬し、互いに連絡し合うのが常である。
 しかるに、宗教と科学との関係においては、互いに対立し、絶対に相容れないように思われているのが、現代の常識である。神の世界、仏の世界、それらは科学者の望み得ない世界とし、わからないものだとしている。
また科学の世界は、宗教と没交渉の世界で、科学の研究せられた結果や、その研究態度は、宗教界には用いられないものとなっている。これはほんとうの事実であろうか。
 以上のような、宗教と科学の関係を正しいとしている宗教は、真の宗教ではないのである。たとえば、処女が子どもを生んだり、死んでから、うろうろと歩いたりしている、キリスト教のごときは、基本が誤りであるから、科学的に説明のできないのも、当然のことである。されば、その宗教を正しいとするためには、科学を軽蔑し、科学と対立することになる。また、死んでから十万億土の西方浄土へ生まれるなんていうことは、釈迦の一時的仮説であって、証明も説明もなし得ないことであるから、科学とは妥協できないのは、いうまでもない。
 真の宗教は、その研究態度が科学的であり、その研究の結果は、論理的に体系づけられ、かつ科学的な実験証明がなされねばならぬ。しかして、その定理、方程式とも称せられるものは、普遍妥当性を持たねばならぬ。その体系づけられた定理は、何に役立ち、何を研究対象としているかは、はっきりと明示されていなければならぬ。しかも、その定理は、時間と空間に支配されてはならない。
 日本で役立っているが、インドではだめだとか、百年前にはよかったが、百年後では役に立たなくなるというものではならない。(ママ)
 しからば、かかる条件に適合する宗教が、世界に存在するのか。
(昭和二十八年五月二十日)」(大白蓮華32号、巻頭言)

 「科学と宗教
(二)
 科学と相反せず、しかも科学的にして、実験証明のともなう、論理的な宗教が世界にただ一つある。最高にして純粋なものだ。
 その宗教の哲学の対象は何かというに、生命である。人間の生命・あらゆる物の生命・社会及び国土の生命・否進んでは大宇宙生命を研究対象としているのである。しこうして、その宗教は、大部分、人間の生命に、研究の度を置いているがゆえに、いかにせば、われわれは、幸福な生活を送りうるであろうかという点に重きをおくことは、科学と同様である。
 科学が、純粋の真理を求めつつ、しかも、討究してとらえた定理が、人間の幸福生活へ実践行動化すると同様に、この宗教も、純粋なる生命哲理を、最高へと組み立てつつ、その最高無上の定理は、人間の幸福生活への実践として行動化されているのである。たとえば、原子核の分裂ということは、今の科学においては最高のものであるが、この原子分裂の定理は、単なる学問としてとどまるものにあらずして、平和を守るための原子爆弾として行動化されている。
 同様に、この宗教の最高無上の定理は、定理としてとどまることなく、各人の幸福、社会の幸福を築かんがために、御本尊として行動化されている。すなわち、この御本尊を信じ、この本尊に向かって南無するときに、各人の希望はかなえられ、旺盛なる生命力は培かわれて、ここに平和な社会が建設されるのである。
 かくいうならば、宗教に知識を持たぬ人は、非常に不思議がることであろう。しかし、なんの不思議のないことは、科学における原子論について論じてみたら、すぐ了解することと思う。それは、ただそのことについて、知識を持っているか、いないかの差によって、これを疑い、これを信ずるということが、はっきりするであろう。
窒素の原子核に、二個の中性子と、二個の陽子を入れるときには、重酸素に変化するというようなことは、科学を知らぬ者には、窒素が酸素に化けたと思う以外になく、これはウソだというに違いない。本尊についても、知識のない者は、同様のことを主張するであろう。この宗教と、この本尊については、次号において詳述する。(昭和二十八年七月十日)」(大白蓮華33号、巻頭言)

 「科学と宗教
(三)
 宗教哲学の研究は、釈迦の時代に始まる。釈迦の研究の最高峰は、法華経である。法華経においては、ごく簡単にこれをいうならば、宇宙に仏という境涯の実在があり、われわれにおいても仏になりうると断定し、仏の境涯をさとりえたる人格の出現は、いっさいを仏にせしめんとするにある。しこうして、この仏の生命は永遠であり、したがって、これを信ずる者の生命も永遠であるとし、その永遠の生命を感得した者が仏である。しこうして、仏という生命を感得すれば、人生最高の幸福生活をなしうるのである。その仏の生命を感得する方法は、ただ法華経を信ずることによってのみえられると、断定しているのである。すなわち、法華経哲学の実践行動は、ただ法華経を信ずるのにあった。
 つぎに、天台大師は、さらに法華経哲学の
研究の歩を進めて、摩訶止観において、理の一念三千の法門を完成したのである。この理の一念三千の法門は、仏の境涯であって、この仏の境涯を感得するためには、観念観法によったのである。すなわち、理の一念三千の実践行動は、観念観法であった。この理の一念三千の法門は、宇宙生命の実体であり、仏の実相である。
 さて、釈迦にしろ、天台にしろ、理論体系の完成であって、ごく智慧のある者のみが、仏智をうることができたのであって、過去数十億年において、善根をつんだ者のみが、完成されたのであった。しかるに、釈迦が大集経において予言したごとく、釈迦滅後二千年後においては、釈迦の法華経も、天台の理の一念三千も、その功能を及ぼさない。いかんとなれば、釈迦滅後二千年後の末法の衆生は、本未有善の衆生といって、釈迦の仏法にも、他の仏にも縁を結ばない、荒凡夫の衆生である。
 ここにおいて、末法の本仏たる日蓮大聖人、凡夫のお姿として末法に出現して、一切経の哲理をジッと見つめられたのである。しこうして、久遠元初の自受用身であり、上行菩薩の再誕であることを自得し遊ばすや、ここに一切衆生を幸福に導いていく本尊を、出現せしめたのである。されば、日蓮大聖人の法華経ともいい、事の一念三千とも申しあげるのである。
 この御本尊は、仏法の最高理論を機械化したものと理解してよろしい。たとえば、電気の理論によって、電灯ができたと同じと考えてよろしい。仏教の最高哲学を機械化した御本尊は、何に役立つかといえば、人類を幸福にする手段なのである。されば日蓮大聖人の最高哲学の実践行動は、この御本尊を信じて、南無妙法蓮華経を唱えるにあって、この実践行動によって、人類は幸福になりうるのである。
(昭和二十八年九月十日)」(大白蓮華34号、巻頭言)
 上記いずれも、戸田城聖全集第一巻、1965/9/2,和光社、P72-76に収録されている。

 
 以上は、機関誌「大白蓮華」での掲載である。
 最初に、科学の定義の説明を前述の如く行い、これにしたがって宗教も科学的でなければならないとしたのは、卓見であるが、道理である。
 しかし、その道理の科学的再現性を、彼の弟子たち創価学会は、客観的に証明してこなかったことも前述した。
 ちなみに、個人的な体験談や感想を集めるだけでは客観的証明とはなりえない。

 他の実験者によっても同様の結果になること、そして対象になる集団だけでなくコントロール集団との比較検討が必須であって、さらに、その二集団には、集団を構成する要素の基礎背景の偏りがないこと、そしてその選出にはランダム性や利益相反性が担保されなければならないのであり、これらを前向きに実験して同様の結果を複数の実験者によって再現できなければ、客観的証明にはならないことは言うまでもない。
 この実験証明はきわめて困難な障壁が幾重にも重なっているのであるが、たとえば行動経済学の分野においては、地道な実験証明がなされつつもある。

 例えば、ダン・アリエリー著・櫻井裕子訳「ずる 嘘とごまかしの行動経済学」2012/12/15,早川書房
は、とても良い研究内容が掲載されている。
 この書は、シンプルな合理的犯罪モデル、つじつま合わせ仮説、なぜにせものを身につけるとごまかしをしたくなるのか、感染症としての不正行為、協働して行なう不正行為、等々が、地道であるが様々な科学的実験によって証明されていて、これらは、宗教というものを考えるうえでも、また、日蓮~日興門流~創価学会の組織内で歴史的に繰り返されてきた様々な行動を説明するのに、大いなる示唆を与えている。


 しかるに「科学と相反せず、しかも科学的にして、実験証明のともなう、論理的な宗教が世界にただ一つある」と断定し、それが「日蓮大聖人の法華経ともいい、事の一念三千」と、なんのデータの根拠もなく結びつけていることは、自身が最初にした「科学的」という定義にまったく従わないだけでなく、単なる信仰心によるドグマを説明するために、「科学」という文言を利用しただけになっている。
 さらに、電灯の譬えをもって、日蓮正宗の板マンダラを「この御本尊は、仏法の最高理論を機械化したもの」としている。このことは後に大石寺の板マンダラを「幸福製造機」と称することになっているが、この論理も、まさしく日寬教学のアニミズムのドグマである。


 これより以前に戸田は、昭和24年8月10日付けの論文「科学と宗教」について、冒頭に、「科学と宗教が一致するというものは、一人もいない」、「宗教家や科学者のなかで、信仰をもっているものは、『科学の領域で宗教を論ずべきでない』と主張して、科学と宗教は一致しなくてもおかしくないと強弁している」と問題提起をし、その理由を、現在の知識人や青年による宗教に対する無知、現代の宗教が民衆救済という本質から離れて職業化し、葬式や修行の定式宗教になっていることと述べている。

 職業宗教の氾濫は、人間の弱点であり、本質的に宗教が必要であるとした上で、
「科学が生活を指導しようとし、指導すべきものであると信じられつつあるとともに、大衆のなかに溶けこんでいるにかかわらず、宗教は一般大衆を指導もしなければ、指導する権威も、うしなっている。」

 また邪教の狂信者の例は、文化生活の破壊であり、「現在の宗教が、科学と一致していない」故に「今日、世上にある多くの宗教を、形式宗教か、さもなければ邪宗教であると論断する」と断じる。
 そして、
 「宗教は科学の世界で論ずべきでないと主張する人々は、科学の力をおそれているのであり、科学の合理性にたいして、宗教の非科学性をどうすることもできない無気力の宗教を信じているからである」と、宗教が科学と袂を分かつ現状をあげ、その例として、「精霊が降る」「「見ることもできず、実証することもできない天や神が、この世を作り、われわれを支配している」「西方十万億土に、極楽浄土があり、アミダ仏という仏がいて、死んだとき、雲に乗って、勢至、観音の二菩薩がむかえにくる」などの教えをとりあげた上、「病気がなおる、金がもうかる等々、およそ科学とこれらの宗教とは一致するはずはないではないか」と述べる。

 科学は日進月歩であるが、宗教はドグマだから時代を経ても変わらない。
 彼はこの後、釈迦時代は「生き生きとして民衆を指導し、非科学的ではなかった…中略…時の科学を指導し、当時の民衆を救った」というが、この時代の科学水準を背景とすれば、釈迦の教えも十分に科学的であっただろう。
 その後彼が言う「その釈迦の真精神は、三千年の間に、うしなわれ去って、仏教のウジ虫が充満した」のは、三千年の間で相対的に科学が進歩し、ドグマがアップデートされなかった当然の結果である。

 続いて彼が厳しく指摘している。
 「だから、宗教が科学と置きかえられて、両者が一致するわけがないのである。一致しないのが当然である。世はあげて、宗教業者だけの世界になり、金もうけをしたければ新興宗教を始めよ、少し気の変になった人間を、神だ、仏だと作りあげて、おろかな大衆から浄財をしぼりとろうとするのである。
 この行きかたは、なにも、きのう、きょうの問題ではない。今日においては、とくに、これで、ばく大な財産と勢力を作った集団が簇生しているのである。これらの集団は、仏や神を利用した詐欺団とみるよりほか、ないではないか。しかも、無名の小さな詐欺団が、これをマネて、次々と簇生しつつある。世の識者や指導者も、相当の知識と見識をもっておりながら、宗教にかんしては、まったく、その実体をつかんでいないから、これにたいして、なんらの対策をたてることができず、無知の大衆は、家も、財産も、身も、心も、むしばまれつくして、やっと気のついたときには、とりかえしのつかなくなっている例が、あまりにも多い。」

 ここは、当時の民衆の、宗教に関する情勢を述べたものだが、これは現在でも同様であり、たとえば教祖になる方法なるハウツー本などもあるくらいである。
 そして、なお痛ましいのは、この指摘が、戸田の末流である現在の創価学会のありさまとも激しく重なって見えるのは、私だけだろうか。


 次に、戸田は、それでは、科学と一致する宗教、科学的宗教が存在するかどうかと問題提起し、その前に科学的という定義について、一つに、
 「科学的というときには、理論と実証が、一致しなければならない。すなわち、その理論が、空理空論であってはならない。ということは、その『教え』で説くところの理論や、哲学が、因果の法則を無視してはならない」をあげ、さらに、
 「因果の法則には、偶然がないとともに、また、普遍妥当性をもっていることは、いうまでもない」をあげる。
 「酸素と水素が化合して、水蒸気になるということは、いかなる時代でも、いかなる地方においても、合致する法則である。」と、その一例を示す。

 そして、科学的宗教とは、客観的・学問的には、
 「その説くところが、かならず実証されて、時と、所と、人種と、環境を問わず、ただ一つの例外なく実証される」ところの『法則』であり『真理』であるとする。
そして生活の面において、幸福になるといったら、かならず幸福になり、不幸になるといったら、かならず不幸になる力強い宗教こそ、もっとも科学的であり、吾人の欲求するところである。」とする。

 これは、科学的再現性を述べているところであり、科学の科学たるゆえんである。

 次に真の宗教・科学的宗教とは、一切衆生に対し、その苦悩を救うべきもの、真の幸福を享受せしむるもの、生命を真に浄化せしむるもの、永遠の生命を悟らしむるものであるとして、科学を指導すべきものであると断じて、さらに、
 「ゆえに、真の宗教は、科学を、平和と人類の幸福のために用いるべく指導し、かつ、この科学を、大衆の幸福を創造するために、利用しなければならないのである。政治も、文化も、経済も、すべて、一切大衆の平和と幸福を建設する方向に指導することのできる強い宗教でなくてはならない。すなわち、宗教とは、われわれが、あらゆる現象の実相を正しく認識し、正しく把握して行動するために必要である。
 ゆえに、真の宗教は、自然科学は、もちろんのこと、政治、経済、文化等、いかなる社会現象とも、相反し、矛盾するわけがないのである。人々は、これによって、偉大な生命力を獲得し、いかなる困難と戦うともおそれることなく、社会は、これによって寂光土となり、科学は、ますます進歩し、文化と平和の国が建設されなくてはならない。」と定義している。

 これは、全く正論であり、理が通っている、
 そして、この宗教とは、道理・証文・現証によって正しく判断すれば、二十世紀の科学を抱き、二十世紀の科学の指向する道を指導する力のある宗教は、『日蓮正宗』であると確信すると断定している。

 その理由の概略を、釈迦の最高の地位ある法華経の予言、末法に出現してその予言通りに法華経以上の『大白法』を日蓮が打ち立てたことをあげて、
 「法華経以上の『大白法』とは何か。それは、本門の三大秘法であり、なかんずく、三大秘法随一の本門戒壇の大御本尊こそ、いっさいの経典の帰趣するところであり、あらゆる生活、あらゆる学問の根源である。
 科学と宗教について、その解決を求めるものは、よろしく、この三大秘法――なかんずく本門戒壇の本尊について、あらゆる方向から、検討する必要があると主張するものである。」と結論している。

 この結論の展開で、第一に残念な点は、科学を論じておきながら「三大秘法随一の本門戒壇の大御本尊こそ、いっさいの経典の帰趣するところであり、あらゆる生活、あらゆる学問の根源である」と、大石寺の板マンダラに対するアニミズムを、初めに結論ありきの如く断定している点である。

 第二に残念な点は、戦後であっても時代の科学水準に立てば、釈迦や日蓮の時代の科学水準は容易に伺われたであろうに、戸田が自身で述べている「科学は、ますます進歩」することをきちんと踏まえないで、科学が未発達な時代に説かれた非科学的ドグマを、検討することもなくそのまま根拠にしていることである。
 この姿勢は、戸田自身が邪教であると批判した宗教団体とまったく変わることのない姿勢である。

 科学であるならなおさら、「依法不依人」が鉄則である。
既に述べたように、日寬以降の大石寺門流は、日寬を「依人不依法」で盲信・継承したが故に、法難などの様々な歴史的場面においても、「依法不依人」として法に頚を捧げた日蓮とは対極の、外道・修羅道を演じてきたといえるだろう。

 師である牧口にも当てはまるが、戸田に関しても、日寬教学を、依法不依人の鉄則で考察・検討した論文や講演は皆無である。
 牧口の大善生活実証座談会も、都合よく個人的体験を集めたにすぎず、科学的実証とはほど遠いもので、戸田の座談会も同様であった。ちなみに現在の創価学会も同様である。
 これは依法不依人ではなく、その反対の依人不依法である。
 単に個人的な感想・体験を集めるだけでは何の科学的実証(=現証)にもならない。
 日蓮の時代にはこれでも現証として通用したのだろうが、現在はそうはいかない。
 自宗が真の科学的宗教であり他宗が邪宗であることを科学的に証明するには、少なくともランダムに個人を自宗と他宗とに振り分け、その経過を集団として比較し、検討しなければならないことは言うまでもない。

 そして、第三に残念な点は、「あらゆる方向から、検討する必要があると主張」しておきながら、その後の彼自身やその末流は、信頼された科学的手法(コホート研究やランダム化比較試験など)によって、科学的再現性の研究・検討を、一切行っていない。

 それだけではない。

 科学的再現性の研究・検討には程遠い、単なる個人的な成功例を体験談として数多く宣揚して自宗の偉大さを誇大宣伝して教線を拡大したり、一時は暴力的な折伏を行っていた時期もあり、批判者を暴力に訴えて屈服させたり(狸祭り事件など)、その内容に関する批判を政治家やマスコミをまきこんで出版妨害したり(言論出版妨害事件)、批判者への諜報や司直に訴えたり、はては暴力団まで利用して正本堂や墓地公園を建てて、終には、曼荼羅に対する科学的検討を全く行うことなしに、戸田が科学的と掲げ「幸福製造機」とまで絶賛した大石寺の板マンダラに対する信仰を捨ててしまったばかりか、日蓮正宗を邪宗として批判するに至ること等、様々な悪態・師敵対の歴史を刻んでいる点である。
 少なくとも日蓮や、日蓮時代の門下には、このようなことは記録に残っていない。

 永遠の指導者と祭り上げた戸田城聖の指導でもある、自分たちの信じる宗教が真に科学的に正しいことを証明するには、粛々とコホート研究などの前向きな実証実験を行い、それを公表しながら数多くの批判を受け入れるべきではないか。
 コホート研究ができないまでも、せめて思考実験ぐらいはあってもいいのではないだろうか。
 科学の進歩は、こうした多くの実験者や批判者たちによる、利益相反を担保した科学的再現性の批判・検討の上に成り立っていることを、もはや戸田の末流は知らないわけではあるまい。

 結論としては、この論文と同様、創価の末流は、自宗の主張する教学などの内容は、科学的と主張しながらも、まったく非科学的な宗教・ドグマの域にとどまっていたにすぎなかったのである。


 P20へ、続きます。
 

☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」


目次(一部リンク付き)
P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開、日蓮遺文の曲解例
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰
P18, 戸田城聖の師弟不二、隠蔽された不都合な内容、大倉商事の実態、通牒や戸田城聖著の小説「人間革命」、日蓮遺文の曲解利用
P19, 戸田城聖の「生命論」と「科学と宗教」の検討
P20, 池田大作「宇宙のリズム」アニミズム