●13 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム | ラケットちゃんのつぶやき

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●13 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム

 

 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
 です。

 ページ末に目次(一部リンク付き)を掲載しております。


■要法寺へ日寬教学が逆流

 寛政度の法難は、1759年(寛政7年)春より1807年(文化4年)夏まで、13年間にわたって京都要法寺に加えられた、本尊改奠に伴う法難である。
 前述したとおり、要法寺は、日目が天奏達成の証として日尊が開基した上行院の流れを汲む日興門流の寺院であったが、方便としての造像義も存在し、檀家より寄進された仏像を配置していた時もあった。
 また、比叡山延暦寺の勢力やその圧迫に対抗するために、京都の日蓮門流、法華宗各派との協力体制を余儀なくされ、そこから日辰等のように次第に造像が行なわれるようになっていった。
 時代が進み、大石寺、細草檀林から出た日寬などの影響により、日蓮・日興の伝燈である曼荼羅本尊に回帰していたが、京都の日蓮宗15本山がこれに反発し、公権力に取り入って迫害が加えられたものである。


 要法寺と両山一寺の盟約を結んでいた大石寺は、江戸時代に入っては、一時は日精によってもちこまれた造像も撤廃され、三門や客殿、五重塔も再建され、寺院としての威嚇を具えつつあった。
 要法寺の法主時代に建立された細草檀林も栄え、ここから日寬など、有力な人材が輩出され各地へ赴いていた。
 こうした流れで日興門流の伝燈形式が要法寺にも伝わり、定着した中で引き起こされたこの法難は、大石寺門流にとっても大きな正念場であったし、造像を撤廃した後の基盤となっていた日寬教学の真価が、名実ともに試される絶好の機会であったともいえよう。
 いわば、自門流内での折伏の結果によって引き起こされた法難であったからだ。


 要法寺系、日尊門流について、振り返ってみる。

 日尊は日目の最後の天奏に随行する。日目の垂井における御遷化の後、上洛して代奏を遂げた日尊師はそのまま京都に留まり、六角油小路に要法寺の前身である上行院を創立している(この上行院は、後に弟子の日印に譲られているが、一方、日大によって新たに住本寺も創建されており、この二ヶ寺が合併して要法寺となるのである)。

 ところが1341年(興国二年)、日尊が上行院に十大弟子を脇士とした釈迦立像を安置し、造像の先例となったが、その後いつしか、曼荼羅本尊に還っている。
 寄進された釈迦像を、断わりきれなかったか、他の教団との交流の結果なのか、日尊の真意は不明である。
 日尊は、日興門流の意識であったが、その末流になると、比叡山延暦寺に対抗するために、京都でその後栄えていた法華宗21寺(日蓮系)の間で盟約を結び、そこから教義に乱れを生じるようになっていった。


 1536年(天文五年)7月、比叡山延暦寺の衆徒18万人によって、京都の法華宗21寺すべてが襲撃され、焼失した。(天文法乱)
 後に1550年(天文十九年)16寺体制で復活したとき、造像論・法華経一部読誦論の主唱者である日辰によって上行院・住本寺が合併され要法寺として再建された。 法華宗諸寺とは「一致派・勝劣派ともに法理一統」とし、「一味同心して弘教する」等という盟約までなされた。

 再び繁栄した日辰は勢いに乗って、富士門流を統一しようと、富士五山へ通用を働きかけてきたが、左京日教によって育てられていた大石寺の時の法主は、これを断った。

 その後、経済的に疲弊した大石寺からの通用の申し込みによって、大石寺に法主を15世日昌から、派遣する。

 大石寺は20世日典の時代に謗施を受けた。
 また17世日精の時代から、大石寺末寺に造像が広まったが、その後、最終の23世日啓の代には造像は撤廃され、大石寺出身の24代法主日永に相承した。
 その後も細草檀林にて多くの人材を輩出していく。
 25世日宥には、謗施を受け三門が再建され、26世日寬が日蓮本仏論を展開する。

 日寬は学頭に名って以降、御書などを講義、享保6年には観心本尊抄等を講義、日蓮本仏論や不造像義を説いた。
 この時講義を聞いた人材で、28世日詳、29世日東、30世日忠、31世日因などがその後次々と法主となっていった。
 江戸期の教学を活性化したのはまさしく日寬であった。

 これに感銘を受けた人材が大石寺と盟約を結んでいた、造像していた要法寺とその末寺に次第に広まっていった。

 要法寺は日寬教学によって影響され、その法主日奠によって造像を撤廃した。
 そして要法寺末寺にもそれが広まっていった。
 法難勃発の20年前に、大石寺33世日元は、要法寺の本堂に招かれて、説法をしている。

 こうして約60年が経過し、時代は寛政に入って、江戸幕府は、先代の田沼意次の賄賂政治による腐敗の改革に取り組む。
 これによって不受布施派・異流義など禁制宗教の取り締まりをより一層厳しくしていた。

 細草檀林に学んだ要法寺33世日奠は、1730年(享保15年)就任すると非公式に、釈迦・多宝・四菩薩像を撤廃し、曼荼羅本尊と日蓮御影を安置する。
 次の34世日全は、不造像に公式に変更することを通達した。
 1771年3月1日、大石寺33世日元は、要法寺本堂で説法している。
 続く35代日慈も不造像義の令を出し、36世日良は、1776年、要法寺末寺に対して、日興書写の曼荼羅と日蓮御影の安置、方便品・寿量品の二品読誦で統一するよう通達を出す。
 これによって、末寺も不造像に転換していく。


 1783年(天明三年)、要法寺にならって、末寺の美濃正興寺が仏像撤廃に踏み切ったが、それを不当であるとして、尾州の触頭(寺社奉行からの命令をとりつぐ役割の寺)の法華寺が異流義として告発、これを受けて京都15山は本隆寺日東を代表として他の15山と同様に仏像を安置するよう抗議した。
 要法寺37世日住は譲らず、正興寺に、この様式を富士日興門流の伝燈様式であると届け出るよう指示し、正興寺はこの差出状を提出した。
 このような中、要法寺内部僧の宝洲は、他の15山に対し要法寺が新たな異流義であると内部告発したため、事態は一大法難へと発展する。
 「御奉行森川越前守様…中略…日東申し上げるには、要法寺僧宝洲と申す者…中略…が申すには、日良代に仏像を撤去したと…中略…」(要法寺文書、要約)
 「十五山の犬、僧宝洲…中略…法難前数月、大恩師に背き、一致僧となれり。しかして、本満寺日進、本隆日東、妙覚日琮とともに奉行所に讒訴して云わく、本山要法寺は日良以後仏像を水火に投じ、新異流義を企てて愚婦頑夫を瞞過すること、なお一向宗のごとしと。宝洲が一言は当年の大悲劇を演ずるか」(要法寺文書、要約)


■寛政7年の法難、京都15山の権力取り入りズム

 1795年(寛政七年)4月、15山側の本隆寺日東が要法寺を訪れて、祖師堂の本尊様式に抗議し、他の京都15山と同様に釈迦・多宝等の仏像を安置するよう要求した。
 要法寺は、これを婉曲に断わったところ、15山側は、11月13日、菅文の盟約に違反する異流義だとして京都奉行に、要法寺を提訴した。
 奉行所の菅沼下野守は要法寺日住・日立の両隠居を召喚し15山側と折衝を命ずるが、病気のため代理が出席して理解を求めた。
 しかし15山側は、
 「要法寺儀、近来組合の規約に背き、剰さえ切支丹宗門同一の振舞い、天下御禁制の不受不施内信心者流の怪しき勧め方致し居り候に付き、御役所の御威光を以って御成敗なし下されば有難く仕合わせに存じ上げ奉り候」
 と、要法寺が、禁制のキリシタンや不受不施の化儀に陥っている、と決めつけたのである。
 これが、キリシタンと不受不施派を厳しく取り締まっていた奉行所の判断に大きく影響した。
 同月26日、要法寺は一山大衆残らず召し捕られ、役僧二名は入牢、他の僧侶の身柄は15山の預かりとなり。要法寺には竹柵が廻らされ立ち入り禁止とされた。
 さらに2年後の1797年(寛政9年)には、入牢中の日誠が、あくまで不造像の伝燈法義を貫いたため毒殺され、遺骨は和解終了後に返却される。


 その後、寛政11年に大石寺法主となった日相が、翌1800年(寛政12年)、この法難の余波を被った蓮華寺寺檀の増田寿唱に宛てた書簡に、以下のようにある。
 「其子細は京都十五山と申す内にも妙覚寺日琮本立寺日東等は世事の利慾を専らとし他門への外聞も相構わず年来巧みに巧み候て仕出候事故、表面は要法寺を相手取り候へども、本来は妙顕寺に之有り候四海唱導宗号免許の綸旨を以て惣勝劣一派を相破し一統の一致派に致したき願ひ差出すべきの心事の旨、眼前妙覚寺日琮等当寺に於て申され候…」(富士宗学要集9、P368)
《その詳細は、京都十五本山の中でも、妙覚寺日琮や本隆寺日東等は、世間の利慾を専らとし、他門への外聞も省みず、巧妙に策を進めてきた。表面上は要法寺を相手取り潰そうとするかに見えるが、本来は十五本山の筆頭格である妙顕寺に別の思惑があり、朝廷から四海唱導一乗弘通の論旨を授かっていることから、日蓮門流の勝劣派をすべて壊滅して一致派に取り込み、統一することを目論んでいる。このように妙覚寺日琮自身が直接話した…》


 この京都15山による一連の迫害行為は、日蓮門下としては、極めて醜い。
 そこには、日蓮の「自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして」という血脈の精神が忘れ去られ、法論で戦うならまだしも、意に沿わぬものを権力に取り入って弾圧・排除しようとするのは、日蓮の時代に法論で敵わない邪宗が日蓮に対して行った迫害とまったく同じ構図である。

 その張本人である京都15山は日蓮門下を名乗りながら日蓮の名を汚す師敵対であり、最も恥ずべき行為を行ったと考える。
 「日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば 例せば城者として城を破るが如し」(生死一大事血脈抄 御書P1337)
 であろう。

 しかも、要法寺が造像を撤廃したのは1730年であり、半世紀、60年以上もそれを知っていながら容認していた後の事だから、なおさら悪意の謀略である。
 また、キリスト教と仏教との違いなら簡単であるが、仏教の教学や歴史的知識に乏しい奉行所が、異流義かどうかの公平な判断など、とうてい期待できるものではないだろう。
 これも、日蓮の時代に邪宗念仏を唱える極楽寺良寛などが幕府要人や後家尼御前なごに取り入って讒言した構図とまったく同じく、京都奉行所や江戸奉行所の役人が京都15山とある程度親密な関係であったことは見逃せない事実である。
 後述することにはなるが、創価学会も、法論ではなく、検事や司直などの公権力と、マスコミや暴力団などの民間の権力に策を弄して自身に批判的な者を貶めた史実が見られる。
 つまり、このような傾向は、既にこの時代から明確に見ることが出来る。


■大石寺の裏切リズム(要法寺への裏切り)

 話は史実に戻る。
 その後、奉行所は奉行所なりに、菅沼下野守は、要法寺が新たな異流義であるかどうかの調査を行った。
 要法寺は、その存亡をかけて、自分たちの流儀は富士門流の伝統的法門であり、特に大石寺とは両山一寺の盟約を結び、両寺は歴史的に一体となってきたことを、日興書写の曼荼羅、大石寺から贈られた日目の曼荼羅などを証拠として主張していたからである。

 1797年5月、奉行所は大石寺に六箇条の質問をした。
 その大石寺の回答は、富士宗学要集第9巻、P357-360に、大石寺より江戸寺社奉行所へ答申として詳細に記載されているが、おおむね次のように、権力を恐れるあまり、全く信義に悖るものであった。

《恐れながら、書面をもって、お答え申し上げます。
一、京都要法寺は上行院と住本寺を一寺とし、要法寺と改号したのに相違ないかとの事。
(答)拙寺開山日興の弟子日目が京都弘通のため日尊・日郷をひき連れて出発したが美濃垂井で遷化、日郷は帰り、日尊は上洛し上行院を立てた。
しかしながら、京都において何か寺建立したかは詳細は存じません。
一、上行院・住本寺も開山日興の弟子の続きと主張している。両寺の開山住職、及び合併して要法寺となった時の各住職を詳細に書き出すべき事。
(答)両寺の開山住職、開山日興の弟子の続きと主張している旨、また日尊上洛後の何の寺をどれだけ立てたか、当方は知るところではなく、詳細も存じません。
一、上行院・住本寺のどちらが血脈相承したのか。両寺の歴代系図等を詳細に究明し書き出して提出すべき事。
(答)上行院・住本寺の血脈相承、歴代系図も存じません。
一、大石寺と上行院・住本寺とは一寺の契約がある。現在も通用している。要法寺と改号してからは上行院・住本寺の寺跡はなく、徃古上行院・住本寺はどこにあるのかとの事。
(答)大石寺と上行院・住本寺との一寺契約、徃古上行院・住本寺はどこにあるかも、前述のとおり、いにしえのことは全く存じません。
一、上行院の開山は誰か、上行院開基の年号、住本寺の開山は誰か、住本寺開基の年号等まで詳細に書き出すこと。
(答)…中略…一向に存じません。この度、詳細にお尋ねございまして、古い書類を種々に探して検討しましたが、唯日尊上洛の記録ばかりで、京都においての詳細は、拙山側では存じません。
一、要法寺は、宗体や寺内の備え方まで大石寺と同じと主張している。大石寺の宗体や取り行い方、寺内の備え方などについて詳細に書き出すべき事。
(答)…宗体は十界勧請の曼荼羅と日蓮大聖人を尊信、宗体を定め…以下略》


 振り返ってみると、前述のとおり大石寺は、困窮差し迫った1587年(天正15年)、要法寺日賙に対して日目書写の御本尊を贈り、両山一寺の通用を申し出、要法寺からは日興書写の御本尊を贈られて、1594年15世日昌以後113年間、大石寺出身の24世日永に相承する1707年まで9代にわたって法主の派遣を迎え入れてきた。
 御影堂建立、細草檀林の開設、常在寺・法詔寺、江戸常泉寺、加賀や金沢などへの布教拡大も、要法寺派遣の法主による繁栄である。
 17世日精の造像など、伝燈法門から逸脱することもあったが、それも22世日俊、最後の23世日啓までで撤廃され、細草檀林から出た日寬の教学もあって、逆に要法寺に純粋な伝燈法門が復活し、33世日奠が1730年に就任してから70年近く、曼荼羅本位・不造像で経過しているのであって、1771年には大石寺33世日元が要法寺本堂に招かれて説法までしている。
 日寬教学が前述の如く、日蓮・日興の厳密な法門からずれていたことを棚上げしたとしても、形式上はそれに戻っていたのであって、いわば、広宣流布の盟友・同志であったはずである。


 しかし、このような長年にわたる明確な史実や、多くの貢献をしてくれた要法寺が、しかも伝燈法門を貫こうとした結果、いざ法難を受け窮地にいることに対して、上記のような、あまりにも信義に悖る回答をしたのが大石寺であった。

 どうして、要法寺の不造像・曼荼羅本位は明確な日蓮・日興門流の正しい法義であり伝統であると、正直に堂々と回答しなかったのか。
「彼の寺血脈相承歴代系図の義も猶以て存知申さず」(同P358)は、とても残念な回答である。

 むろん、不造像・曼荼羅本位の宗体こそは最後に長々と答えてはいるが、時の要法寺と同じとの記載がどこを見ても見当たらない。
 この時、あるいは時代の流れで日蓮の折伏精神が忘れ去られていたとしても、
「両寺一寺契約の義往古の事は一向存知申さず」(同P359)は、長年にわたって盟友として付き合って大恩を受けた人倫としてはありえない裏切り回答である。
 せめて、史実ぐらいはきちんと伝えてもよいだろう。
 明らかに、法難が自らへ及ぶのを避けたとされても仕方ない内容である。

 時の大石寺の法主について堀日亨は、
「本山の両隠居とは日琫日純の両上人なれども純師は病躰にて下坊閑居の身分なれば殊に琫師は老強長命なれば動もすれば表面に立たれしなり」(富士宗学要集9、P366)と記載している。
 この時の大石寺法主や要職を擁護すれば、客観的に見れば要法寺と同じであるところの宗体の報告をもって、京都奉行所・菅沼下野守の公平な判断をわずかながらでも期待したのであろうか。


 仮にこの時点で毅然として、盟友である要法寺を断固として守り、両寺一丸となって京都15山への対決姿勢を示していれば、当然に門流内の自界叛逆難のような恥ずべき歴史は変わっていたであろう。


 日寬の教学によって、日蓮の法難に対する姿勢が大石寺に復活していれば、結果として要法寺と共に大石寺も法難をもろに受けて不受派のように流罪になったり、両本山が取り潰しになっていた可能性は十分にある。

 ところが、法華経の中で予言された地涌の菩薩は、けっして一人ではなく、6万恒河沙という夥しい数だったことを、よもや知らなかったわけではあるまい。
 日蓮はその上首に上行菩薩の自覚であったこと、日蓮の流罪・死罪にいたる弘教の生涯を、日蓮の観心本尊抄を講義した日寬、そしてその講義を受けた後世や法主が知らなかったことはあるまい。


 後述するが、要法寺は和解により一時期、伝燈法門が消えたが、幕末にはそれが見事に復活するのである。
 そして、この時点で大石寺本山が法難を受けていても、その姿勢は必ず後世によって復活・後継するのであり、それが日蓮のいう仏法の本質であるはずである。
 そうであれば大石寺が、太平洋戦争中に軍部の圧力から逃れるために神札を受け、創価学会の牧口・戸田を除名にすることもなかったかもしれない。
 もっとも、富士宗学要集9巻には様々な法難の記載があるが、それはほとんど末寺に起こったものであって、大石寺本山の法主などの要人は開山以降、法難らしい法難は、ほとんどうけていないのではないだろうか。

 再び、よく考えてみると、当時の徳川幕府の取り締まり強化などの背景もあるか、このような逃げ腰の回答をした根底には、なんといっても前述した日寬教学の論理的構成(アニミズムや師敵対)、およびそれに影響された態度が具体的な史実として鮮明に現れているように思われる。
 「法」に対する姿勢や布教精神が日蓮の姿勢とは乖離し、目先の利益・保身や、困難の逃避・先送り(アニミズムの一傾向性の現れ)、都合の悪いことに対する隠蔽・捏造・裏切り(師敵対の構図の一部分の現れ)、更には、自分たちの用が済んだら切り捨てるという裏切りの傾向=ウラギリズムが顕著に現れている。


 このような傾向は、後述することになるが、日寬教学の流れをくむ戦後の日蓮正宗や創価学会の歴史にも同様に見られることであり、既にこの時代にも、こうして見ることができる。

 
 その後、この大石寺の裏切り回答は、役僧日誠を牢内で毒殺された後の要法寺を、更に窮地に追い込むことになる。
 盟友の大石寺に切り捨てられ、ついに万策尽きた要法寺は、残念ながら目先の生き残りを選択し、奉行所で後任となった三浦伊勢守が取りまとめた、双方の主張の折衷案を受け入れざるを得なくなった。

 それは、かつての造像を受け入れる、事実上、他の15山に屈した内容だった。
 具体的には、要法寺本堂須弥壇の正面最奥に板本尊、その手前に釈迦・多宝の二仏像、その脇に四菩薩像、さらに手前真ん中に日蓮御影を安置するというものだった。

 これで15山は訴えを取り下げ、1797年(寛政9年)12月には、要法寺の門及び拘束されていた僧も解放されたのである。


■寛政12年の法難

 しかし、要法寺の難はこれで終わりではなかった。
 すでに伝燈法門である不造像義・曼荼羅本位が広まっていた要法寺の末寺は、当然に本山要法寺の和解に納得しなかったのである。
 翌年1798年(寛政10年)2月、出雲国の要法寺末寺は連名で本山に対し和解反対の書状を送り付ける。
 うろたえた要法寺に代わって、15山に属する妙伝寺が、あろうことか、盟約・和解を守って不造像義を捨て、本山に従い改めるように通達を出し、さらに15山は奉行所に末寺の取り締まりを訴える。
 これに要法寺末寺は毅然として反発し、同年9月、代表して妙仙寺が、要法寺を離脱して開山の方式を立てている本山の末寺に乗り換える、でなければ、要法寺本山が末寺に対して従来の伝燈法門を守るように指示してもらいたいと書を送る。
 ここに、本山として進退窮まった要法寺は、京都奉行の上司である江戸奉行所に、大石寺と同じ流義であると出願することになる。

 まず要法寺日立が、筋を立てるため、京都奉行所に許可を願い出る。
この内容は富士宗学要集9、P364に、おおむね次のようにある。

 「…要法寺は当初から大石寺の法義を受け継いでいる旨、申し上げていました。
ところが先般の江戸奉行所への大石寺の回答「大石寺より要法寺の儀一言の請け合ひも之れなく候」により、当惑し、結局京都15山の言いなりに和解となってしまいました。
 しかし、その回答でまず、血脈相承について知らないということは納得できません。
 上行院の開基は大石寺の日目の弟子日尊で、日目弘通の本懐を遂げて建立したのに、それを知らないというのでは済まないと存じます。…中略…
 大石寺18世日精の書物に、日尊が、日興から書写した御本尊36幅を授与されたこと、両巻の血脈抄を日尊に相伝したことなどが記載されていて、その証拠が大石寺にあるにもかかわらず、血脈相承がどこからきたのか知らないというのははなはだ不届きと存じます。
 その上、要法寺・大石寺一寺契約の証拠として、日目書写の御本尊の裏書文、大石寺15世日昌より23世日啓までの派遣請待状、大石寺との法義の通用、年頃書翰の取り交わしもここにあります。宗体方式も大石寺と互いに届けあって相違がないにもかかわらず、大石寺側が「知り申さず」というのは「不吟味の至り」であります。
 江戸寺社奉行所において大石寺と対決して、その儀を糺し、要法寺も日興門流の方式通りに致したいと存じます」

 このような切望に応えて、京都奉行所は江戸奉行所への再度の訴えを許可した。
 同1798年(寛政10年)10月、要法寺の代表役、自成院と一円坊は、江戸寺社奉行所に訴えを起こす。


 しかし、この時の奉行は、極めて残念なことに、脇坂淡路守であった。
 彼は播磨国竜野の藩主であり、竜野にある本行寺出身の本隆寺日東(15本山中心人物)を、自領内の住職として尊敬していたから、この訴訟の結果は当初から決まっていたようなものであった。
 翌年1799年(寛政11年)の1、2回目の審議は、厳しいものであった。
 内実は、奉行所の決裁を不服とした訴えはけしからんということだったのだろう。
 自成院と一円坊は、入牢が想定された。

 「京都にて落著の処に江戸にて出訴候へば裁許破りに相成り候へば一度入牢顕然なり」(大石寺日量状、富士宗学要集9、P372)

 3回目の審議の前に、召喚される予定の要法寺日住、日立と、訴人の自成院と一円坊は、大石寺で合流、大石寺に協力を願う。
 自成院と一円坊を江戸に宿泊させていた小梅常泉寺の日相(後の大石寺43世法主)は、自成院と一円坊が命がけで訴えを貫くことを条件に、大石寺隠居の日琫、日純、代表役の寂日坊などを、協力・支援の約束に導いた。
 ここに及んで大石寺も、ようやく法難の火の粉を被る覚悟ができたかに見える。

 3回目の審議3月22日に、自成院と一円坊は、予想通り入牢となる。
ところが、
 26日の4回目の審議後、自成院と一円坊は入牢に耐えきれなくなったのか、一週間後になって突然、訴えを取り下げてしまい、釈放されてしまったのである。
 これにて、日相の面目は丸つぶれとなり、要法寺日住、日立も、腰が折れてしまったことが目に浮かぶ。

 「身命を惜まず押し切るに年月を厭はず相願はれ候はば加勢申すべし、中途にて願ひ下げ致し候はば外実共相済まず候間加勢致し難しと申し候事は励せの為なり、然るに右両人の役僧入牢七日も立たざるに宿院に無沙汰にて牢内より願ひ下げの願書出し候故、宿院江戸小梅常泉寺時の住持尚道院能化日相上人立腹にて止宿叶はざる段申し聞け候、全く当方より義絶致し候にはあらざるなり」(前掲書P372)


 しかしながら、京都15山の代表も江戸へ召喚されているだろうから、引くに引けない状況で、審議の行方は更に厳しくなった。
 大石寺の日相や寂日坊なども援助するが、それは結局のところ、自らが無情の回答によって窮地に及んだ要法寺を、自らの責任で救い出すには及ばなかった。
 大石寺へは法難が及ばなかった結果から見ても、それは明らかであろう。


 審議はその後も続き、6回目の5月4日、江戸城吹上御殿、将軍の直截で、「脇坂淡路守の辛辣の裁断」(同P363)の、訴訟取り下げ決定となった。
 要法寺は京都15山と再び和解、末寺に対しても和解の造像義遵守(日眷法令)を文書に明記した。
 後日に日相が明らかにしているが、この文書は、この時既に要法寺日立が、将軍の威光を背景とし(た和解をもっ)て、末寺の反抗を抑え込み、一連の問題の終結を図ろうという腹づもりで入れたのであり、後に後悔することになるという日相の警告を受け入れなかったという。
 しかし、この審議中において、また、最高権力者である将軍の目の前で、こういった妥協に堂々と異を唱えなかった大石寺側にも、日蓮の「法」に対する断固たる姿勢を見出すことが出来ないのは、極めて残念なことである。
 これが、当時、大石寺に定着していたであろうはずの日寬教学の実態でもある。
 時代背景が厳しいのは言うまでもなかったことではあろうが、触頭長応寺の意見を素直に受け入れて、穏便に解決を図ろうという、大石寺法主日相の、ある意味で腰の抜けた様子も、下記のようにうかがえる。
 「これは彼らが自分の好きなようにした結果なので、是非もないことと存じています」
 「(触頭長応寺は)また、大石寺まで願い出て叶わなかった時はかえって悪評となって大いに広がるでしょう…中略…と詳細に語った」


 大石寺法主日相の、1800年(寛政12年)4月4日付の「大阪蓮華寺増田寿唱宛の返書」の一部を記す。
《貴殿の書状の趣によると、要法寺から諸末寺への通達後も、諸末寺に対する本山の姿勢は特に取締まることもなく、野放し状態になっていて、気の毒千万に存じます。もっとも、昨年要法寺の両隠居が江戸寺社奉行への再審請求を取り下げた時点で、このような状態になるであろうことは、十分予想できたことで、その時そのことを両隠居にも種々申し上げましたが聞き入れていただけなかった。特に、願い下げの願書の「今後は日眷法令を以って、末寺に下知致します」の文言は、後日の憂いになりますよと、強く申し上げましたが、
 元々、日立師の心の底には、この文言を以って、諸末寺を押さえ込もうという意図があって、強いてその文言を入れたので、このような事態になることは、その時点で眼前であったのに、一向に聞き入れていただけなかった。私としてもなすすべがなく、静観していた状態です。そうこうしているうちに、このような(末寺が直接江戸寺社奉行所に訴訟を起こす)事態に発展し、気の毒に存じています。けれども、これは彼らが自分の好きなようにした結果なので、是非もないことと存じています。》
《触頭長応寺の老僧が言うには…中略…
殊に、彼らは大勢を力とし、幕府の高位高官、奉行所の役人に太いパイプがあり、内々につけ頼み通じ合う状況で、法論は別として、世間的なことでは彼らに勝つのは難しい状況です。
 その上、昨年冬の十五本山と要法寺の江戸訴訟でも、裁許破りのお叱りを受けて、取り下げという顛末で、京都へ帰られました。かくの如く、度々出訴に及びながらも毎回首尾がよろしくなく、恥の上塗りとなり、幕府や奉行所において不信を呼び、要法寺の評判は著しく悪い状態となりました。そして、このことは、単に要法寺門末だけの恥辱にとどまらず、勝劣派全体の恥辱となっています。
 その上、また、大石寺まで願い出て叶わなかった時はかえって悪評となって大いに広がるでしょう…中略…と詳細に語った。》
《江戸城御本丸の奥向きに私の縁者がいます。幸い常泉寺へ参詣された折、面談してお願いを頼みましたが、要法寺の新異流義に対する警戒が強く、要法寺に関わる私どもまでが良からぬように思われています。あるいはまた、近年、寛政の改革の続きで、各奉行所の奥行きのことまで厳重な締め付けのためか、一向に取次ぎができない状態です。
 このような状態からすれば、…中略…とにかくまず穏便に致し、彼らのわがままのし放題にして、何か手がかりが見つかるまで、時を待つのが然るべきことと存じます。》(日相、富士就学要集9、P368-9、この要約は関慈謙著「伝統への回帰」P365-369より)


 その後、要法寺日立は、この、将軍まで巻き込んだ和解による通達を末寺に対して出し、末寺を再度押さえこもうとするが、これでも末寺は納得せず、法難は泥沼化する。

 1800年(寛政12年)2月、末寺である円頓寺一条坊は江戸寺社奉行所に直接訴訟をおこし入牢となったが、牢に耐えきれず訴訟を取り下げた。
 1800年(寛政12年)11月、15本山は、通達を無視している要法寺末寺の住職罷免を要求して奉行所に訴えたが、奉行所の仲裁で訴えを取り下げた。
 1801年(亨和元年)4月、たび重なる15山や要法寺本山からの圧力に、末寺の総代である為久寺日生と慈眼寺日達はさらに江戸寺社奉行所に直接訴訟をおこし入牢、日生は4月に獄死する。
 1801年(亨和元年)6月、要法寺は京都16本山からの離脱を奉行所に請願するが翌月に却下される。
 1802年(亨和2年)3月、要法寺の不造像義の指導者だった日住が入滅。
また、この年から末寺が要法寺本山から離脱願いを次々に出す。
 6月に石見法蔵寺日照、8月に本法寺、続いて出雲要法寺37か寺が連名で江戸役寺へ末寺離脱を訴える。日照は客死。
 1803年(亨和3年)3月、15本山側の有力者だった妙覚寺日琮が入滅。
 この後あたりより、事態を収束に向けようという流れができる。
 1804年(文化元年)4月、出雲要法寺37か寺離末の件は、決済の日延べ願いを双方が提出した。
 1805年(文化2年)8月、出雲妙仙寺日相が、江戸寺社奉行に駆け込み訴訟を起こし、審議中に客死。要法寺代表役一円坊が再度寺社奉行へ提訴、吟味中に客死。
 1806年(文化3年)8月、要法寺末寺離脱の件は、提訴取り下げ和解。
 1807年(文化4年)5月、ようやく要法寺と15本山は最終和解となり、法難は終結となった。

 こうして要法寺は多くの人材と重宝や経済的基盤を失い、結局京都15山に屈し、不造像義の伝燈法門を貫くことが出来なかった。
 永らく住職が決まらなかった要法寺では、日勝が39世となり、伝燈法門は消えた。
 この法難の影響は、大石寺の末寺である大阪北野の蓮華寺にも及び、時の法主日相が急場をしのぐが、これらに対して、大石寺本山にはあまり法難の影響はなかった。


■要法寺に伝燈法門が復活

 しかし以後、時代は進み、要法寺44世日生は再び不造像を主張し始めた。


 正法は必ずどこかで復活するものである。
 次の45世日進は、法難終結後60年が経過した幕末の混乱期、1864年(元治元年)に、時を待っていたのか、ついに仏像を撤廃、曼荼羅本尊と日蓮御影だけを安置し、伝燈法門が復活する。
 その後も造像派との争いが続くが、1915年(大正4年)に「教令」を発布し、「文字所顕の大曼荼羅」を本尊形式と定め、現在に至っている。


 さて、45世日進の時、要法寺において伝燈法門が復活した頃、京都幡雙林寺臨道の書き物の中に、寛政法難の時、大石寺が要法寺の危急を見捨てたものとして、当時の大石寺貫主等を筆誅した箇所があるのについて、大石寺52世日霑が、以下のように反論した。
《要法寺が、精舎の下種家の清風を厭離して、脱家の濁流に汚著した事は、源が14世日辰より始まり、その毒が門家に伝流して久しい。故に、諸山が事を権力に託してついに脱家に降らしめた。これは元々、彼らが自ら招いた災いである。いわんや、彼らは我らの諫めを用いず、ひそかに計って和議を調う。この時に至っては、我らがどんなに力を尽くしてもどうして救うことができるだろうか。しかるに、彼らの輩が、自己の臆病失計を覆い隠そうとして、かえって我が山を怨訾するのは、彼らの癡情である。》(富士宗学要集9、P373、要約)

 さて、これは、大石寺法主としては極めて残念な反論である。
 私が前述した、1797年での、大石寺より江戸寺社奉行所への答申の態度と、依然として何ら変わらないことが、「彼らが自ら招いた災いである」という文言に現れている。

 日寬の教学は、残念ながら、日蓮の血脈、日蓮の「法」に頚をささげた姿勢を復活させたとはいえなかった。
 その内容や限界については、全ページに述べたとおりであるが、それが現証としても証明されたのが、この寛政の法難であった。

 そして、日蓮の血脈でない仏教に、戦前、創価教育学会は源を発するのである。




※コメント
 なお、このページは、その多くを堀日亨編「富士宗学要集第九巻」及び関慈謙著「伝統への回帰」を引用、参考にして、論じた。
 日相は、この法難について、「要法寺諸末寺までの成行き…中略…誠に歎かしく気の毒千万に存ぜしめ候」としながら、様々な点を指摘している。

 これは、堀日亨編「富士宗学要集第九巻」P363-371に、大石寺日相状として原文が記載されている。
 関慈謙著「伝統への回帰」P365-369には、この一部が、以下のように分かりやすく要約されているので、参考のため引用させていただく。

①貴殿よりの書状の趣からすると、日眷法令を遵守するよう求める諸末寺への要法寺からの通達後も、諸末寺に対する本山の姿勢は特に取締まりを強化するということもなく、問題を放置した状態になって、解決の見通しが立っていないのは誠に気の毒に存じます。もっとも、昨年江戸寺社奉行への再審請求を要法寺の両隠居が取り下げた時点で、このような状態になるであろうことは、予想されたことで、そのことは両隠居にもその時種々申し上げました。特に、再審を取り下げる願書に「今後は日眷法令を以って、末寺に下知致します」という文言を入れることについて、この文言は後日の憂いになりますよと、強く申し上げましたが、私の意見は聞いていただけなかった。
元々、日立師の心の底には、日眷法令を以って、諸末寺を押さえ込もうという腹積もりがあって、敢えてその文言を入れたいきさつがあります。したがって、このような本寺と末寺の意見が全く異なり、末寺が本寺の通達を受け入れないという事態にになることは、その時点でわかり切ったことであって、外部の意見を全く用いなかったことが、このような事態になった原因なので、私としてもなすすべがなく、静観していた状態です。そうこうしているうちに、末寺が本山を通り越して直接江戸の寺社奉行所に訴訟を起こすという事態に発展し、気の毒に存じています。けれども、これは彼らが他の意見を入れず、自分たちで望んだ結果なので、是非もないことと存じています。


②触頭長応寺の老僧から聞いた話では、京都十五本山の中で、妙覚寺日琮・本隆寺日東等は、世間的な利慾に専ら執着し、年来他門への外聞も省みず、世間的名聞名利ばかりを追求してきた。そして、表面上彼等二人が表に立ち、要法寺を相手取って叩き潰そうとしているかに見える。けれども、それとは別に十五本山の筆頭格である妙顕寺には、また別の思惑があり、朝廷から四海唱導一乗弘通の論旨を授かっているということから、この際日蓮門類以内の勝劣一派をことごとく壊滅して、一致派に改宗させ、京都日蓮教団を統一して、その頂点に立つことを目論んでいる。けれども、それは決してできることではないということを、妙覚寺日琮自身が直接老僧に話したということであり、したがって、日琮もそのことには一切触れず、ただ要法寺の件だけ話して、退出していったということです。
 こういうことであるから、彼らの考え方は、こちら側が何か仕掛けたら、それ幸いとばかり、ことに乗じて多勢の力をもって、それに対抗するという考え方で、こちらの出方を待っているのです。このような時に、こちらが何かしようとしても、何事も成就することはないと存じます。……
 殊に、彼らは大勢であることを力とし、その上、幕府の高位高官、奉行所の役人に太いつながりがあり、何かにつけて彼らの意が通じやすい状況で、法義のことは別として、行政的なことに関してはまず彼らに勝つのは難しい状況です。
 その上、昨年の十五本山と要法寺の訴訟においても、要法寺は一度決済がおりているものを再度審議することを求めながら、裁許破りのお叱りを受けて、今度は取り下げるという体たらくで、京都へ帰っていきました。このようなことで、度々出訴に及びながら、その都度敗訴と、毎回首尾がよろしくなく、恥の上塗りのような状態で、幕府や奉行所においても要法寺自体に対する評価が著しく悪くなる一方です。そして、このことは、単に要法寺門末だけの恥辱にとどまらず、勝劣派全体の恥辱となってしまいます。


③江戸城御本丸の奥向きに私の縁者がいます。幸い常泉寺へ参詣された折、面談してお願いの義を頼みましたが、要法寺の新異流義に対する警戒が強く、要法寺の件に関わる私どもまでが警戒される始末です。あるいはまた、近年、寛政の改革の引き続きで、各奉行所の奥行きのことまで厳重な締め付けのためか、一向に取次ぎができない状態です。
 このような状態ですから、とにかくまず何かにつけて穏便に致し、彼らのわがままのし放題の状態にして、彼らの失策を待ち、何か手がかりが見つかるまで、時を待つのが今できる最上のことと存じます。


④諦善・会通両僧のことについて、書面にありました通り、私も承知いたしております。両僧ともにすでに江戸に来ており、馬喰町付近の旅宿に居住しているようで、当寺へも参詣しております。どのようにして、私が常泉寺に来ているということを知ったのか、面会を申し出てきましたので、面会してどのようにするつもりか聞きましたところ、やはり円頓寺一条坊が行なった方法で訴訟を起こそうという考えでした。
 私は、そのようなやり方では決して成就しないし、むしろ無益なことです。この上何万人が訴訟の願いを起こしても、肝心の本山要法寺が訴訟を取り下げており、しかも和解の文書に日眷法令を末寺に徹底する旨の文言を入れている以上、どのように願い出ようと叶うことはなく、申し出れば申し出るほど、要法寺本山ばかりか諸末寺までも幕府や奉行所から怪しまれることになり、将来的にも門流として成り立ちがたくなる恐れがあるという旨を話しました。
 たとえば、牛の角が曲がっているのを憎んで、その角をまっすぐにしようとすれば、牛そのものまでをも殺してしまうという譬えの通りです。よくよく思慮分別が大切ですと申しましたが、納得したようではありませんでした。その後、出雲・石見の面々が江戸に出てくるのを待っているようで、いまだに願書も差し出せず、ただ空しく逗留しているように見受けられます。
 ただし、このことはあまり騒ぎすぎると、将来ますます厄介なことになり、解決不可能なところまで行き着くようで、気の毒に思われます。なぜかならば、すでに将軍直截で決済がおわり、幕府や十五本山側から見て、筋の通らないことを何回も願い出るということになれば、江戸の寺社奉行所としても、厄介な門流ということで、要法寺・諸末寺ともに改易処分になってしまう恐れもあり、また要法寺門流そのものを取り潰して十五本山へ処分を任すようなこともありうると、甚だ陰ながら案じているところです。


⑤円頓寺一乗坊、当春二月、江戸寺社奉行所へ出訴に及んでいることは承知いたしております。彼の僧は、元来俗物にして、ただ目立ちたがりのようで、私や大石寺、また江戸の常泉寺・常在寺・妙縁寺の三ヶ寺へも挨拶や相談に来ることもなく、橘町の重兵衛と申す胡散臭い人物を頼みにして、駆け込み訴訟を起こしました。しかしながら、案のごとく入牢申し付けられた後、とうとう耐え切れず、訴えを取り下げ、貴殿の所まで話が聞こえた通りです。結局、この一乗坊は奥州辺へ下っていったということで、このことは先の諦善・会通の両僧から聞きました。


⑥出雲・石見両国の諸末寺と要法寺の話し合いの件、書状にあった通りで、私も承知しております。しかしながら、この話しあいも、いくら話し合ったところで、末寺の望む形で結論が出るものでもなく、無益の論争と考えています。肝心の要法寺が、あのような形で十五本山と和解するに至っては、末寺として、どのような行動を起こしても、決して望み通りになるわけでもなく、たとえ法門的に末寺が本山の日住・日立に論争に勝ったとしても、ただ血で血を洗うだけで、決して本来の姿に戻れるというものでもありません。
 それよりかくなる上は、何事も穏便に致し、内密に深謀遠慮をめぐらし、本山・末寺双方が知恵を出し合い、工夫をするところに現状の厳しい状況を打開する道があると及ばずながら考えます。
 しかしながら、諸末寺の面々も江戸出訴の考えと見受けられ、先に江戸に来ている諦善・会通の両僧も彼らの到着を待っているように思われます。しかしながら、江戸にて寺社奉行所への出訴ということになれば、願いが叶わないばかりでなく、外聞といい、またまた恥辱を蒙るのが見えていて、気の毒に思われます。


 P14へ、続きます。


☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開、日蓮遺文の曲解例
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰