●4 日蓮の仏法上の師、「依人不依法」の日蓮本仏論、「依法不依人」の日蓮仏法、日蓮の本尊観 | ラケットちゃんのつぶやき

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●4 日蓮の仏法上の師、「依人不依法」の日蓮本仏論、「依法不依人」の日蓮仏法、日蓮の本尊観

 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P4 日蓮の仏法上の師、「依人不依法」の日蓮本仏論、「依法不依人」の日蓮仏法、日蓮の本尊観
です。

ページ末に目次(リンク付き)を掲載しております。

■日蓮の、仏法上の師


 さらに、仏法、とりわけ法華経における、三世永遠の生命観に立った上での検討に入る。
 日蓮の師は、日蓮自身の、上行菩薩の再誕という自覚からは、久遠実成の釈尊となるであろう。

 もっとも、久遠実成の釈尊を師とするなら、師から受けた内容自体から、それを弟子としてどのように受けとめ、昇華したのかを解明しておくことが重要である。
実は、このこと自体が、彼の教えの根本へつながっているのだ。

 立正安国論による法難で、斬首刑、佐渡流罪にまで至った日蓮は、苦難の中で、自身こそ、師匠である久遠実成の釈尊から受け継いだ(相承した)法華経を弘める使命を持った、地涌の菩薩であること、それを初めて唱えたのだから、その上首・上行菩薩であること、その法、成仏に至る唯一の法は、要するに妙法蓮華経に南無すること、これを弘めることが、一切衆生の幸福(成仏)となること、併せて必ず起こる障害としての三障四魔や、三類の強敵による迫害に屈してはならないこと、この法を自覚し南無し、世界に弘めること(広宣流布)が、自身が生を受けた使命であることなどであった。

 法華経、その他の大乗経典の解釈も含め、仏教全体の形而上学的解釈は、妙楽や天台智顗等の人師によって確立されたものが、あらから日本にも伝わっていた。
 法華経の理論は諸法実相、三世永遠の一念三千であり、天台はこの法に説かれる「成仏」を「観心」「観念観法」によって悟る。
 一念三千の概念は、現在においては、感覚のある命だけでなく、素粒子から観測不可能な多数の宇宙にまで拡大しうる分析概念である。
 だが、天台の観心、すなわち「己心を観じて十方界を観る」方法は、一般的・庶民的ではなかった。
 日蓮は、この修行を一般庶民にまで広げ、形而下・具体的に、受持即観心、南無妙法蓮華経の唱題として打ち立てていた。(観心本尊抄)
 同時に、成仏の主体を、天台の一念三千を根拠に、感覚のある命だけでなく、素粒子から観測不可能な多数の宇宙にまで広げ、木像や画像の曼荼羅自体も成仏できるとした。(草木成仏口決)
 また、折伏とはは、相手を折り伏せて従わせることである。
 日蓮が他教と違って折伏を主たる弘教方法として取り入れたのは、法華経に忠実であった上、予言された末法の時代様相、「闘諍堅固・白法隠没」(闘争・戦乱が激しく、釈迦の仏法が消滅する)という、封建時代の幕開けにも適合し、その中で、とりわけ当時の武士や僧としての階級闘争、国家諫暁に限っては正当な理由を与えるものであろう。
 現実に読み書き・そろばんにはほとんど縁のない一般庶民にとっては、なじみの薄いことであっただろうし、だからこそ、この時代は、無疑日信、信じることのみが強調されたのである。



 日蓮は、晩年の弘安4年(1281年)9月11日、満59歳、身延から、南条時光に宛てた書簡に、
「此の処は人倫を離れたる山中なり、東西南北を去りて里もなし、かかる・いと心細き幽窟なれども教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山にして相伝し・日蓮が肉団の胸中に秘して隠し持てり」(南条殿御返事、御書P1578)
《ここは人倫から離れた山中である。東西南北とも離れて里もない。このような大変に心細い幽窟であるが、教主釈尊の一大事の秘法を霊鷲山において相伝し、日蓮の肉団の胸中に秘して隠し持っている。》

 また、その翌年の満60歳になった春、病気治療のため身延を旅立つ5か月前の弘安5年(1282)4月8日、日蓮が門下の大田金吾に、秘す可し秘す可しとして与えた書簡、三大秘法抄(病気による衰弱のため、この書は日興の筆録という説もある)の中に、その明確な結論部分がある。

「此の三大秘法は二千余年の当初・地涌千界の上首として日蓮慥かに教主大覚世尊より口決相承せしなり、
今日蓮が所行は 霊鷲山の禀承に芥爾計りの相違なき色も替らぬ寿量品の事の三大事なり。」(御書P1023)
《この三大秘法は二千余年前のその時、地涌の菩薩の上首(上行菩薩)として日蓮が確かに教主釈尊の口から直接に相承したものである。
今、日蓮が広めている法門は霊鷲山において相承した通り、少しの相違もなく、色も変わらない寿量品の事の三大秘法である。》


 日蓮は佐渡流罪以前は全くなく、佐渡流罪以降も、これらの書簡までは、「口決」相承について明確には明かしていない。
 たとえば佐渡流罪中の書簡、開目抄までは自身を「法華経の行者」としており、その後の観心本尊抄で「予がごとき人」、また諸法実相抄では「日蓮・末法に生れて上行菩薩の弘め給うべき所の妙法を先立て粗ひろめ…中略…地涌の菩薩のさきがけ日蓮」と述べている。
 須田晴夫はこれについて「日蓮は…中略…謙遜の表現に終始した」(須田晴夫著「日興門流と創価学会」2018/9/5,鳥影社,P27)と主張するが、これは彼の信仰心の影響があるからであろうか、文献的な証拠に忠実に従えば、その後の流罪の免赦、身延入山、熱原の法難などを経験し、長期間の生涯を通じて徐々にその自覚が培われ強固になっていったものと考えるのが相当である。

 そして、日蓮は、その人生の最期にさしかかってようやく、自身の師が大覚世尊(=久遠実成の釈尊)であり、弘めている法(=寿量品の事の三大秘法、南無妙法蓮華経)は、口から直接聞いて相承したと、明確に打ち明けたのである。

 以前にも、佐渡流罪以降の書簡に限られるが、観心本尊抄、撰時抄など、実質的にその意味を推量しうる内容は見られる。
 しかし、後世の誰が何と言おうとも、これが決定的文献となる。


 大串達治著「創価学会批判」(1965/4/25 いのちのことば社 P11)には、以下のような指摘がある。
「日蓮は、『法華経神力品第二十一と属累品第二十二によると、釈尊は数ある弟子の中から特に上行菩薩のみを選んで、この法華経の教説を自分の死後二千年目にインドより東北に位する大乗仏教国に広めるようにと付属している』という明文を発見したようです。…中略…
 当時の日本の数ある僧侶のうちで真の仏説法華経を正統的に受持している行者は、日蓮ひとりだけではないかという推論に、彼の自負が加わって、日蓮自身を上行菩薩の再誕者まで昇華させてしまったわけです。(注5 日蓮が上行菩薩を公に発表したのは、文永十年蒙古侵入の時からであって、学会の言うように開教当初からではない)」


 日蓮の師は久遠実成の釈尊、その内容は三大秘法の南無妙法蓮華経である。
 南無妙法蓮華経は、元来、久遠実成の「釈尊」の仏法であった。
 日蓮は、自身が弟子として、地涌の菩薩の上首(上行菩薩)として、釈尊の仏法を、一部始終、聞いていたのを、全く色付けすることなく、末法に出現して広めたというのである。

「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」(開目抄、御書P237)
「日蓮は日本国の人人の父母ぞかし・主君ぞかし・明師ぞかし」(一谷入道御書、御書P1330)
 として、自らは、教主釈尊の弟子として、主師親の三徳をそなえ、仏としての自覚を得たとしたが、
生涯にわたって、決して、自らを本仏とは言わない。
 また、自身の教えはアニミズムである脱益仏法を否定したにより、自身を本仏とは決して言えない立場にある。
 さらには、仏であっても、弟子は弟子、師匠は師匠である。


 そして、広めている法則=南無妙法蓮華経も、自分の主張とは言わない。(「全く自作にあらず」)
 その証拠は、それを明かした観心本尊抄で、その法は、あくまで師匠のもの、受け継いだものだとしている。
 受持即観心を明かした下記の名文は、
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す
我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」(観心本尊抄、御書P246)
 とあり、妙法蓮華経は、あくまで釈尊の因行果徳の二「法」なのである。

 天台のような修行者しかできないとされた、形而上学の観念観法は、形而下で、実は一般人にも可能であると明かし、
 この妙法蓮華経を受持する(妙法蓮華経に南無する=南無妙法蓮華経の唱題)、そのことが、すなわち観心、即身成仏となる、と説いた。
 このことは後述するが、脱益の仏「久遠実成の釈尊」をも架空の産物であったと喝破し、最も根本とすべき本尊としての「法」は、具体的にはそれぞれの生命の胸中にあると説明したものである。
 これを弘めることを下種といい、釈迦の解脱以来、一旦は様々な架空の仏を設定するアニミズムに陥っていた仏法を、再び「法則」の信仰へ蘇らせたのである。

 これは、根本的に重要なことである。
 架空の設定としてではあるが、日蓮の師は、久遠実成の釈尊であり、説いた仏法は、その弟子として、釈尊から血脈として受け継いだ法華経なのである。
 凡夫であり、凡夫でありながら、釈尊の弟子として、主師親を備えたのである。
 釈尊も、同様に凡夫であり、凡夫でありながら、久遠の昔に南無妙法蓮華経を修行して、主師親を備えたと設定したのである。
 この設定は、因果の理法を三世永遠まで広げ、最初の本仏というドグマを排除して、成仏の法則を南無妙法蓮華経と定義した点で、非常に重要なことである。
 日蓮の後世は、このことを原点として、ふまえるべきであったが、残念なことに史実はそうではなかった。



■「依人不依法」の日蓮本仏論

 例えば日蓮本仏論を展開する須田晴夫は自著「日興門流と創価学会」P332-335の中で、
「日蓮の真蹟や直弟子写本がある御書において日蓮本仏義を明確にうかがうことのできる文はいくつも挙げることができる」として、仏の特質とされていた主師親の三徳を述べた文を文証を挙げ、
「このように主師親の三徳の観点から見ても日蓮が自身を仏(教主)として自覚していたことが分かる」
と持論を展開している。
 そして撰時抄、一谷入道御返事、竜泉寺申状などから「聖人」「主師親」「法主」等を含む文を切り文として、同様の説を展開している。
 たしかに仏の特質とされていた主師親の三徳を述べた文は前述した分以外にも多々挙げることができ、これらは日蓮の成仏、仏としての自覚とすることは前述した。

 しかし、それを根拠として、日蓮自身が自ら本仏(教の主、教主)であり自らに南無せよ・帰命せよと明確に宣言したものに相当するかの如き主張は、宗教心(日蓮への信仰というアニミズム)の故なる飛躍であるか、又は勝手な偏見であると言わねばならない。
 日蓮の教えは、その遺文を丹念に検討すれば、けっして自らを本仏(教主)として崇めよ・帰命せよというアニミズムではない。
 日蓮の教えは、「依法不依人」の原則を踏まえ、あくまで正しい「法」に帰命して成仏せよとの教えである。
 自身の師は、久遠実成の釈尊と言ったが、その釈尊も歴劫修行をしているのであり、最初の本仏を設定していないのである。
 だから、前述の通り、自身の教えを根拠として自身を本仏とは決して主張できない立場にある。

 日蓮自身が主張しないことを、「依法不依人」の原則に従わずに、後世の私たちが勝手に主張して良いわけはないだろう。

 後世で大石寺法主となった日寬も、時代の背景や自身の立場などによって同様な落とし穴にはまってしまったことを後述するが、この説はおそらく日寬(という人)に依る日蓮本仏論と同等であり、日蓮の教えである「依法不依人」とは全く逆の「依人不依法」というアニミズムに堕ちいっているのである。

 現在に受け継がれている日蓮本仏論者たちの堕ちいっている、その典型的な例であると思われる部分や考え方を二つ挙げておく。
 たとえば須田は、上記の前掲書部分で、撰時抄の「提婆達多は釈尊の御身に血をいだししかども 臨終の時には南無と唱えたりき、仏とだに申したりしかば地獄には堕つべからざりしを 業ふかくして但南無とのみとなへて仏とはいはず、今日本国の高僧等も南無日蓮聖人ととなえんとすとも南無計りにてやあらんずらんふびんふびん」(御書P287)
《提婆達多は釈尊の御身から血を出す迫害をしたが、臨終の時には「南無」と唱えた。「南無」に続いて「仏」と申していたら地獄にはおちなかったであろうに、謗法の業が深く、ただ「南無」とのみ唱えて、「仏」とまで言わなかった。今、日本国の高僧等も、「南無日蓮聖人」と唱えようとしても、南無だけで終わるのではなかろうか。ふびんである。ふびんである》
 を文証に挙げて、
「『南無日蓮聖人』の言葉は日蓮自身を南無(帰命)の対象、すなわち人本尊と規定している明文である」   と述べている。(前掲書P332-335)

 だったら、日蓮自身が『南無日蓮大聖人』と唱えよと、生涯にわたって指導しなかったのは、いったいどういうことなのか。
 そして、こうした日蓮本仏論者の主張が真実なら、どうして彼らは『南無日蓮大聖人』と唱えないのか。
 そして私たちが『南無日蓮聖人』と唱えたら功徳があるのか。
 功徳があるのなら、唱える題目は南無妙法蓮華経でも『南無日蓮大聖人』でも、どちらでもよいことになるではないか。
 私はこうした矛盾点を解決する科学的再現性のある論理を、思考実験でもよいから、現在の創価学会や日蓮正宗などが唱える日蓮本仏論者たちに伺ってみたい。

 結局、日蓮本仏論を唱える者たちは、概して、日蓮の教えある「依法不依人」を全くはき違えて、その真逆である「依人不依法」になっているのである。
 前述の撰時抄の文面も、日本語できちんと前後の文脈をとらえて判断すれば明らかであろう。
 日蓮は、この部分では「提婆達多」や「日本国の高僧等」の立場に立った謗法に基づく論理展開をしているのである。
 つまり、業が深い故に彼らは南無としか言えなかったが、続いて「仏」を言っていたならば少なくとも地獄に堕ちることはなかっただろう、彼らが今、その間違った謗法論理に従って成仏を望んだと仮定すれば『南無日蓮聖人』と唱えることになるが、業が深いためにそこまでは貫けないだろうと、皮肉的に述べ、結果として「ふびんふびん」と嘆いているのである。
 言い換えれば、日蓮はあくまでもその間違った論理(謗法、実態は「依人不依法」というアニミズム)による展開・帰結を例を挙げて述べ、あわれんでいるにすぎない。
 『南無日蓮聖人』という表現は、確かに日蓮自らに帰命せよとの意味には間違いないが、だからこそ、彼らが犯している謗法を展開した哀れな結末の例、すなわち「依人不依法」の例として、『南無日蓮聖人』と表現しているのである。
平たく言えば、謗法に対する当てつけであって、当然に、日蓮自らに帰命せよ=『南無日蓮聖人』ということは全くの謗法の論理だと破折している意図を、きちんと理解しなければならないのである。

 日蓮自身に帰依せよという「日蓮本仏論」は、アニミズムであり、古来からある習熟の一種である。
 日蓮の教えは、こういった、アニミズムではけっしてない。

…「私は実は聖人である。仏である。主師親を具えている。
だが、あなたたちは私に帰依するのではない。
私が成仏した「法」に帰依するのである。」…
 私には、師匠としての日蓮の声が、このように明確に聞こえている。
 これこそが、科学的再現性をもった一切根源の「法」として「南無妙法蓮華経」を説き顕し、永遠に輝き続ける日蓮の叫びではないか。

「人」や「仏」ではない、あくまで正しい「法」(=南無妙法蓮華経)に帰命せよと、日蓮は頚をささげて何度も何度も叫んでいるのである。

 つまりは、結局のところ、創価学会が用いているような、御書の切り文のみで論理を立てると、このような、全く逆の意味になる袈論となってしまう好例である。

 次いで「滝泉寺申状」を取り上げている須田の学問的解析は的確で素晴らしい。 彼に限らず、多くの日蓮本仏論者が喜ぶであろう讃嘆である。
 彼は、日蓮が自身を「日本第一の大人」(撰時抄)、「大導師」(頼基陳情)、「大聖人」(法蓮抄)と表現した文証をこれでもかこれでもかと挙げ、これらは仏を指す言葉とし、日蓮自身が末法の教主(本仏)であるとの自己認識に立っていたことをうかがわせると述べた後、更に明確な文証として「滝泉寺申状」を挙げている。

「滝泉寺申状」の前半は、熱原の法難の際に、迫害を受けていた当事者である日弁・日秀の名前で、彼らに代わって日蓮が、権力側の行智の訴状に対抗して執筆した陳状(答弁書)である。
 須田の解析、すなわち日弁・日秀という日蓮の弟子が公の機関に宛てた公文書を、日蓮が執筆したということは、日蓮の客観的な位置づけが示されていて、日蓮の対外的な「自己認識」が明示されているとし、一般の御書と違って様々な配慮を省いた日蓮の真意が現れている重要な意義を持つと解析している点は、彼の実に見事な明晰である。
 その中で、日蓮が弟子の名前で自身のことを
「此の条は日弁等の本師日蓮聖人」
「之を以て之を思うに本師は豈聖人なるかな 巧匠内に在り国宝外に求む可からず」
「法主聖人・時を知り国を知り法を知り機を知り 君の為臣の為神の為仏の為 災難を対治せらる可きの由・勘え申す」(いずれも御書P850)
 等と宣言しているのを挙げるところまでは素晴らしいが、それを根拠として、
「日蓮が自身について『法主』と明言している意義は重大である。『法主』とは、中阿含経に『世尊を法主となす』とある通り、本来、万人を救済する法を教示する仏、教主を指す言葉であるから、日蓮が自身を末法の教主(本仏)と明確に自覚していたことを示す文証といえよう」
 と述べ、これを日蓮本仏論(アニミズム)の根拠としているのは、これまた残念であると思う。
 まず、日蓮の末法における仏としての自覚は前述したが、それを根拠として、日蓮自身が自ら本仏(教の主、教主)であるから自らに南無せよ・帰命せよと明確に宣言したものではない。
 日蓮仏に南無することは、法に南無するのではなく、人や仏に南無する、すなわち阿弥陀仏等に南無するのとまったく同じ論理であり、生身の日蓮への信仰というアニミズムであることは繰り返し繰り返し強調しておく。
 そして、更に残念な点が、そもそも日蓮が方便であるとしている中阿含経の『世尊を法主となす』を論拠としたこの論理は、日蓮本仏論が「法主本仏論」につながっていく致命的論理であることを示唆している点である。


 ところで日蓮は「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」(開目抄 御書P235)
と述べた。
 この部分は有名な「日蓮は日本国の諸人にしうし父母なり」に続く文脈の中で、「一切天台宗の人は彼等が大怨敵なり…中略…皆 法華経のゆへなればはぢならず」に続く文である。
 自らを仏の徳である主師親の三徳を具えたと宣言した後に、間違った教えを唱える者(謗法の者、依法不依人でない者)から褒められることは最大の恥であると述べているのである。

 また、「賢人は八風と申して八のかぜにをかされぬを賢人と申すなり、利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽なり、をを心は利あるに・よろこばず・をとろうるになげかず等の事なり、此の八風にをかされぬ人をば必ず天はまほらせ給うなり しかるを・ひりに主をうらみなんどし候へば・いかに申せども天まほり給う事なし」(八風抄 御書P1151) 
《賢人とは八風といって八つの風に犯されないのを賢人というのである。八風とは利・衰・毀・誉・称・譏・苦・楽である。およそ利益があっても喜ばず、損をしても嘆かない等ということである。この八風に犯されない人を、諸天善神は必ず守られるのである。なのに、道理に反して主君を恨んだり等すれば、どんなに祈っても諸天は守護することはない。》
との文証もある。
 この八風の中に、「誉」と「称」があることに注目すべきであろう。
 道理に反して日蓮を誉め称えることは、賢人である日蓮を蔑んでいることにはならないだろうか。

「かかる日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし、」(種種御振舞御書 御書P919)
 この文は「教主釈尊の御使なれば天照太神・正八幡宮も頭をかたぶけ手を合せて地に伏し給うべき事なり、法華経の行者をば梵釈・左右に侍り日月・前後を照し給ふ」
《日蓮は教主釈尊の御使いであるから天照太神・正八幡宮も頭を下げ手を合わせて地に伏されるべきである。法華経の行者へは、梵天帝釈は左右に仕え日天月天は前後を照らされる。》
 に続く宣言、つまり「教主釈尊」の御使いという、「弟子」としての宣言なのであり、
「このような尊い法華経の行者である日蓮を用いたとしても、『悪しく敬う』ならば必ず国が亡びる」と述べ、日蓮自身はあくまで教えを広める法華経の行者であることを強調しているのである。

 以上の文証から、日蓮の教えに背きながら一方で生身の日蓮を本仏(=教主)として讃嘆し帰命すること、いわゆる「日蓮本仏論」を、日蓮が当然の事ながら喜びはしないことは明々白々であろう。
 ちなみに、これを根本とした後の創価学会は、自らへの批判書や反対勢力を妨害し(言論出版妨害事件、数々の謀略や裁判など)日本はおろか世界中に池田の名前を冠した施設等を造り、池田大作への名誉称号を集めている現状は、まさしく八風に含まれている利・衰・毀・誉・称・譏に犯された姿の一例だろう。
 日蓮の教えや清貧の生涯とは、これらはまったく対極にある。


■「依法不依人」の日蓮仏法

 この科学的な検証はさておき、また、その他の教学はこのあたりで他の機会にゆずる。
 日蓮が久遠実成の釈尊から受けた教化・指導、いわゆる相承した内容は、真の仏法、成仏への法則・修行法であった。

 彼は、生涯にかけて、壮大なSF物語のような法華経の中から、その核心・真実の部分を抽出した。
 それを、南無妙法蓮華経と言い表し、一切衆生を救済する根本法、本尊とし、最終的にはその内容を筆文字で、一般庶民に容易に得られ、普及させるために描いたのである。
 具体的には、曼荼羅として、その中に描いた内容を本尊とした。
 本尊とは、根本的に尊敬し帰依する対象をいう。
 宗教において多くの教えでは、本尊とは絶対者や絶対仏(絶対物)である。
 しかし、本来、日蓮自身が説いた本尊は、法、法則なのである。

 まさに、「依法不依人」であるが、余談ながら、多くの日蓮継承者は、ここをきちんとわきまえず、敬慕のあまりか、すでに消滅した生身の日蓮自体を本尊としたり、日蓮やその継承者が作成した、物体としての曼荼羅を唯一絶対の崇拝対象(本尊)としている。(アニミズム)
 さらに輪をかけて、それを指導する人も絶対者、本仏、永遠の指導者等と、聖なるものとして崇めるに至る。(シャーマニズム)
 そもそも、依法不依人と教えた生身の日蓮自体が、その教えとは全く逆の「人」としての本仏=絶対者とされてしまった。(アニミズム)
 皮肉なことに、これが、後に出てきた日蓮本仏論なのである。
この流れで派生したのが、法主本仏論、池田本仏論などである。
 さらには、敬慕の度が過ぎたのか、創価学会では創価三代を永遠の指導者としてしまった。

 これらは依法不依人でなく、依人不依法。
 アニミズムにシャーマニズムが伴った、典型的な非科学的宗教である。
 これがそもそもの誤りなのであった。


■日蓮の本尊について


 話を戻す。
 以後は、改めて日蓮の本尊観について述べる。

 漢字の意味をみると、南無とは帰命、命を帰する・帰依する、命を捧げるという意味であり、妙法蓮華経とは、法則である。
 妙法とは妙なる法、蓮華のような妙なる経ということである。
(鳩摩羅什が、「サ ダルマ プンダリーカ スートラ」(蓮華のような妙なる法)をそのまま訳した意味である)
 つまり、自分の命を妙法蓮華経という法則にすべて預ける、という意味である。
 これを何度も何度も唱えることは、この意思・宣誓を何度何度も行うこととなる。


 日蓮は、これを、成仏、即身成仏への修行法とした。
 そして、これを「本尊」(=もっとも尊敬し帰命する法則)としたのである。
 本尊とは、根本尊敬といって、根本として尊敬・帰依する対象をいう。

 一部の文献をあげて検討してみる。
「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」(本尊問答抄、御書P365)
 つまり、法華経の題目とは妙法蓮華経、これに帰命する南無をつけて、南無妙法蓮華経となる。
 日蓮は、これを本尊というのである。あくまで「法」であって、仏や人、物体ではない。
 ましてや、生身の日蓮自身をいうのではない。

 続いて、
「問うて云く 何れの経文何れの人師の釈にか出でたるや、 答う法華経の第四法師品に云く「薬王在在処処に若しは説き若しは読み若しは誦し若しは書き若しは経巻所住の処には 皆応に七宝の塔を起てて極めて 高広厳飾なら令むべし復舎利を安んずることを須いじ 所以は何ん此の中には已に如来の全身有す」等云云、
涅槃経の第四如来性品に云く「復次に迦葉諸仏の師とする所は 所謂法なり是の故に如来恭敬供養す 法常なるを以ての故に 諸仏も亦常なり」云云、 天台大師の法華三昧に云く「道場の中に於て好き高座を敷き法華経一部を安置し 亦必ずしも形像舎利並びに余の経典を安くべからず唯法華経一部を置け」等云云。」

 つまり、この法華経が、如来の全身である、(此の中には已に如来の全身有す)
 そして、諸の仏が師とするのは「法」すなわち妙法蓮華経である、というのである。(諸仏の師とする所は 所謂法なり)
 つまり、すべての仏は、最初から仏ではなく、「法」を師匠として、つまりは「法」に則って修行したから仏なのである。

 これは、日蓮独自の本尊観、成仏観、そして師弟観の一部である。

 続いて、日本の他宗の本尊を挙げてそれらは皆、「仏」を本尊としているが、天台宗だけどうして法華経を本尊にするのか…
「彼等は仏を本尊とするに是は経を本尊とす」
 と、明確に、法華経とした。
 その根拠は、本尊は勝れたものを用いるべきで、仏教では「釈迦を以て本尊とすべし」だが、と続き、ならば、あなた(日蓮)はどうして釈迦を本尊としないで法華経の題目を本尊とするのかの答えが、私の己義ではなく「釈尊と天台とは法華経を本尊と定め」た、「今の日蓮も 仏と天台との如く 法華経を以て本尊とするなり」、なぜなら「法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり」「釈迦・大日総じて十方の諸仏は 法華経より出生し給へり 故に今能生を以て本尊とするなり」
 と、明確に文証と道理を根拠に、法華経が本尊であると断じている。

「彼等は仏を本尊とするに是は経を本尊とす」との主張は、現在にも、いや、未来永劫、信仰としての科学的真実として光るだろう。
 日蓮の立てた教えは、絶対者(仏、創造主など)へではなく、真の法則(=南無妙法蓮華経)への信仰なのである。そして、その法則を師匠としているのである。

 ここが、他の一切の宗教と異なる点である。
「神」や「仏」、「曼荼羅」や「仏像」などへの信仰は、他力本願となり、何があっても「おすがり」信仰である。
 これに対して、「法」への帰命は、自力本願、すべてを自己の責任で切り開くという信念と努力への誓いである。
 問題となるのは、帰命した法が、現実に「正しいかどうか」だけなのだ。

 現実に「正しいかどうか」の判断は、実際に実験・証明する必要がある。
 一人ひとりの単位から、集団としてもその対象となる。
 これは、科学理論の発見・発展と同じ道理である。
 だから、本来は、科学と袂を分かつ必要などない。
 依法不依人に忠実に基づいていけばいい。

 ただ、日蓮の時代は、科学が未発達だったから、どうしても、信じるしかない。
 だから「信」が強調されたのである。

 科学は、かなり発達しているが、人類が存続する以上、どこまで行っても発達していく。
 だから、日蓮の教えも、本来から、こういった性質のもの、つまり、正しく受け継がれれば、時代が進むにつれて、さらに深く実験証明されていくような法則なのである。



 日女御前御返事(本尊相貌抄)御書P1244には、以下の如くある。
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・
只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり、
是を九識心王真如の都とは申すなり、
十界具足とは十界一界もかけず一界にあるなり、之に依つて曼陀羅とは申すなり、
曼陀羅と云うは天竺の名なり此には輪円具足とも功徳聚とも名くるなり、
此の御本尊も只信心の二字にをさまれり以信得入とは是なり。」

《この御本尊は、全く余所に求めてはならない。
ただ、我等衆生が法華経を受持し、南無妙法蓮華経と唱える胸中の肉団にいらっしゃるのである。
これを「九識心王真如の都」というのである。
十界具足とは、十界の各界が一界も欠けず、そのまま一界になっていることである。
これによって、御本尊を曼陀羅というのである。
曼陀羅というはインドの名前であり、これは輪円具足とも、功徳聚ともいうのである。
この御本尊も、ただ信心の二字におさまっている。「信を以って入ることを得たり」とあるのは、このことである。》


 本尊は「南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団」にある。
 南無妙法蓮華経と唱える人の生命(胸中の肉団)自体が、本尊であるという意味である。
 この部分は、信じる人の、唱えている瞬間の生命状態が、御本尊そのものであり、それがすなわち、成仏という究極の境涯だということになる。

 凡夫である、すべての衆生が、これによって成仏という究極の状態となる。
 これが、日蓮の、凡夫本仏論である。
 これこそ、時空を超えて貫かれている、科学的法則と定義できるではないか。


 諸法実相抄 御書P1358ー1359にも、次のようにある。
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、
然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず
返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり、
其の故は如来と云うは天台の釈に「如来とは十方三世の諸仏・二仏・三仏・本仏・迹仏の通号なと判じ給へり、
此の釈に本仏と云うは凡夫なり迹仏と云ふは仏なり、
然れども迷悟の不同にして生仏・異なるに依つて倶体・倶用の三身と云ふ事をば衆生しらざるなり、
さてこそ諸法と十界を挙げて実相とは説かれて候へ、
実相と云うは妙法蓮華経の異名なり・諸法は妙法蓮華経と云う事なり、
地獄は地獄のすがたを見せたるが実の相なり、
餓鬼と変ぜば地獄の実のすがたには非ず、
仏は仏のすがた凡夫は凡夫のすがた、
万法の当体のすがたが妙法蓮華経の当体なりと云ふ事を諸法実相とは申すなり、
天台云く「実相の深理本有の妙法蓮華経」と云云、
此の釈の意は実相の名言は迹門に主づけ本有の妙法蓮華経と云うは本門の上の法門なり、
此の釈能く能く心中に案じさせ給へ候へ。」

《凡夫は体の三身にして本仏である。仏は用の三身であって迹仏である。
 したがって、皆、釈迦仏は我ら衆生のために主師親の三徳をそなえられていると思っているが、そうではなく、逆に、仏に三徳を具えさせているのは、凡夫なのである。
 そのゆえは、如来というのは天台大師の法華文句の解釈には「如来とは十方三世の諸仏・真仏・応仏の二仏、法身・報身・応仏の三身・本仏・迹仏の一切の仏を通じて如来と号するのである」と判じられている。
この解釈に「本仏」というのは凡夫であり、「迹仏」というのは仏である。
しかしながら、迷いと悟りは同じでないわけで、ここに衆生と仏との異なりがあり、このため衆生は倶体・倶用ということを知らないのである。
そうであるからこそ諸法という言葉で十界を挙げ、これを実相と説かれたのである。
「実相」というのは、妙法蓮華経の異名である。
「諸法」とは妙法蓮華経ということなのである。
地獄は地獄の姿をみているのが実の相である。
餓鬼と変じてしまえば地獄の実の姿ではない。
仏は仏の姿、凡夫は凡夫の姿であり、
万法の当体の姿が妙法蓮華経の当体であるということを「諸法実相」とはいうのである。
天台大師は「実相の深理は本有の妙法蓮華経である」と述べている。
この釈の意味は「実相」の名言は迹門の立場から言ったものであり「本有の妙法蓮華経」というのは本門の上の法門なのである。
この解釈の意味をよくよく心中に案じられるがよい。》

 ここでは、諸法実相を原理を述べている部分である。
 詳しくは、他著を参照願いたい。過去に拙記事も投稿した。

「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、
然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず 返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」

 この部分の意味は、実は、本当は、凡夫こそ本仏である。
 釈迦仏は単なる仮想、空想、方便の仏である。
 今まで皆、釈迦仏は理想的な主師親の三徳をそなえたから私たち衆生を導くことができたと思っているが、そうではなく、全く逆であって、釈迦仏に三徳という完全無欠の理想像を設定し讃嘆しているのは、凡夫の方なのである。
 私たち凡夫の方から、仏は完全無欠の理想的な姿であってほしいと思い望んできたからこそ、その思いが、現実にはあり得ない理想像を生み出してきたのである。

 私たち衆生は、その理想像につられて、導かれてきたが、文明が進んで末法に入って、もはやそれが通用しなくなっているから、もう、種明かしをして、本当のことを知らなければならない、と日蓮は、言うのである。
 つまりは、主師親の三徳をそなえる久遠実成の釈尊も、他の色相荘厳の迹仏と同じく、迷える凡夫のために、また凡夫の願いに答えようとして、完全無欠の絶対像を備へている、いわば仮想・空想の姿なのである!

 ついに日蓮は、本当のことをここで暴露した。
 これは、究極の、凡夫本仏論である
 そして、他にすがることなく、自力本願に戻れとの「法」である。
日蓮が立宗以後、他宗、初めに念仏を破折した理由もここにある。
(日蓮の破折の対象はすべて、「依人不依法」すなわち絶対者にすがる他力本願や増上慢の教えであった)

 つまりは、日蓮にとって、自らの師と仰いだ久遠実成の釈尊も、実は自らの空想の絶対者であって、その弟子=上行菩薩の再誕としての自覚も含めて、凡夫こそ本仏であることを説くための方便であったことにもなる。
 だからこそ、御本尊は、「曼荼羅」の側ではなく、「南無妙法蓮華経と唱える"人"」自体の「胸中」にあるとしているのだ。

 そして、この「法」に、つまりは一切衆生へ「法を弘めること」に、自身の首を捧げたのである。

 日蓮も、釈迦仏と同じ、大日如来や阿弥陀仏と同じような、方便を使ってきたことにもなる。
 その生涯は、三世レベルで見れば、喜怒哀楽も含めて、完璧に近い芝居を演じたといえるかもしれない。

 さらには、佐渡にて、現代科学にも透徹する法則を説かれている。
「法華経の心は法爾のことはりとして一切衆生に十界を具足せり…中略…一切衆生のみならず十界の依正の二法・非情の草木・一微塵にいたるまで皆十界を具足せり」(小乗大乗分別抄 御書P521)

 ここで「依正の二法」とは、観測できるできないにかかわらず、自己と宇宙およびその関係を言っているのであり、「一微塵」とは、当時におけるこれ以上分割できない最小の物理的単位を言っているのだから、現代科学における「素粒子」にあたる。
 そして、これら全てに「十界を具足」していると述べている。

 また、これを説く以前に、佐渡において著作した草木成仏口決において、有情非情、すなわち万物の成仏にも触れ、これを前提としているのである。

 草木成仏口決 御書P1338ー1889には、以下のようにある。
「問うて云く草木成仏とは有情非情の中何れぞや、
答えて云く草木成仏とは非情の成仏なり、
問うて云く情非情共に今経に於て成仏するや、
答えて云く爾なり、
問うて云く証文如何、
答えて云く妙法蓮華経是なり・
妙法とは有情の成仏なり蓮華とは非情の成仏なり、
有情は生の成仏・非情は死の成仏・
生死の成仏と云うが有情非情の成仏の事なり」

《問うて云う。草木成仏とは有情・非情の中、いずれの成仏であるのか。
 答えて云う。草木成仏とは非情の成仏である。
 問うて云う。有情も非情もこの法華経において成仏できるのか。
 答えて云う。成仏できる。
 問うて云う。その文証はどうか。
 答えて云う。妙法蓮華経の五字がそれである。
妙法とは有情の成仏であり、蓮華とは非情の成仏である。
また有情は生の成仏・非情は死の成仏である。
生死の成仏というのが、有情非情の成仏のことである。》

 また、
「口決に云く「草にも木にも成る仏なり」云云、
此の意は草木にも成り給へる寿量品の釈尊なり、
経に云く「如来秘密神通之力」云云、 法界は釈迦如来の御身に非ずと云う事なし」

《口決にも「草にも木にも成る仏」云々とある。
この仏とは非情の草木にまで成っているところの、法華経寿量品の釈尊をいうのである。
 寿量品に「如来秘密神通之力」云々と説かれているが、十方法界はことごとく、釈迦如来の御身でないものはない。》

 つまりは、草にも木にも成仏した姿があるというのだ。
 そして、それらもすべて、釈尊の実の相だというのだ。

 ここにおいて、成仏の主体は、当時の世界観で塵レベルから全世界まで広がった。
 これを一切衆生と称する。
 これは、科学が発展した今日の世界観では、成仏の主体が、素粒子から、観測不能の複数宇宙大にまで、広がっていることに相当する。


 これらは、科学や哲学の未熟な時代の中で、驚くべきことばかりである。


 ところが現在では、この凡夫本仏論とは対極である○○本仏論(釈迦本仏論、日蓮本仏論、板マンダラ本仏論、法主本仏論、池田本仏論など)が飛び交い、あたかも我こそは正統だと主張し(私もその一人ではあるが)様々に争い合う日蓮教団の中においで、はたして、このような日蓮を、真に理解している信者が、いったいどれほどいるだろうか。


 今でもなお、「御本仏日蓮大聖人は…」などという指導がはびこっている。
「日蓮を用いぬるともあしくうやまはば国亡ぶべし」(種種御振舞御書、御書P919)とあるが、
「日蓮を…あ(悪)しく敬う」とは、こういうことをいうのである。


 P5へ、続きます。

 

 

☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次(リンク付き)

P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏ではなかった, 「美作房御返事」の物語るもの, 日興の身延入山時期, 原殿御返事の検討