●6 相対的な師弟不二、罰論等の限界、死後の生命についての欺瞞、即身成仏の実態、真の血脈
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☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
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■相対的な師弟不二
ここで、師弟不二について触れておく。
こうした日蓮の教えから見ると、師弟というのは、成仏への修行においての、師は教えを伝える・弟子は教えを受けて実践するという、単なる立場の違いに過ぎない。
その師も、先師から教えを受けて実践する弟子の立場もある。
日蓮の師は久遠実成の釈尊であったし、我々凡夫は、仏法という三世永遠の観点に立てば、瞬時に日蓮を師として仰ぎ、その教えを正確に受け継いでいれば、弟子の立場として、世界中どこでも、どの教団に所属していても、正しく実践することができるのである。
そういった意味では師弟関係はどこまでも相対的なもので、歴史的前後関係等に縛られた概念であり、師を乗り越えるほど弟子が成長しても、あくまで弟子は弟子、師は師であることに変わりはない。
日蓮の教えの中にも師弟についての言及はあるが、師弟不二という言及は見られない。
この師弟が二でなく一体となる師弟不二という概念は、成仏を目指す現実における実践のなかで団結を強調する限りにおいては理想的な関係となるが、それを超えて、たとえば弟子が師に帰命するなどというと、師匠を本仏に祭り上げることに相当し、帰命するべき対象の御本尊が自身の胸中以外となって、日蓮の教えに背き、師敵対することになる。
また、創価学会は創価学会の最初の三代会長(牧口恒三郎、戸田城聖、池田大作)を永遠の師とし、この師を通じて初めて真の日蓮仏法を学ぶことが出来るとしているので、これは古くさいシャーマニズムの典型である。
さらに論理的には、相対的な師弟関係にすぎないところの、最初の創価三代を永遠の師とするので、最初の師である牧口の師を設定できず、それは同時に牧口の弟子としての立場を認めないことになって、論理の破綻をもたらしている。
つまりは、三世の観点であれ俗世のレベルであれ、こうした創価三代の永遠化は、師弟不二どころか、その前段階の師弟関係自体を論理的矛盾に陥れていることになるのである。
久遠実成の釈尊の師は、誰とするのか。
日蓮正宗では、後世に日寬教学の登場によって、久遠元初自受用報身如来(=日蓮)とするが、では、その久遠元初自受用報身如来の弟子としての立場はあるのかと追求すれば、これは無い。それが本有というから、無いことになっている。
万物は法=妙法から発生するという。
妙法は自動再生する法則とすれば、この論理は正しい。
では妙法から発生したところの、久遠元初自受用報身如来の師は、誰なのか。
こうして、その根本的に最初の師弟関係が設定できないことになって、これ自体が無限の退行(無限後退、Wikipedia参照)に陥り、論理破綻をきたす。
つまり、永遠化、絶対化、創造主や最初の設定は、それ以前についての相対的な概念はすべて破綻することになり、ひいてはそれ以後の論理・教えの正当性をも損なってしまうのである。
こうして、永遠化、絶対化の設定は、結局、実体のない仮想・架空の産物を設定することとなってしまうのである。
それも、科学的ではないところの、宗教として、別に新たに設定するというなら、それもよかろう。
現に、日蓮の教えも、方便として、こうした側面が根本的に見られるからである。
しかし、その場合、後世の弟子の立場から、それをわきまえずに、日蓮の教えとは全く別の教えを主張することであり、これを日蓮の教えを受けたとする主張は、師敵対というほかない。
日蓮の教えは、最終的には、三世永遠にすべてが相対的なもの、諸法即実相であって、現実の成仏の相ですら、前記したようにどこまでもいつまでも相対的であって、完成された姿を呈するものではない。
そしてさらに、絶対化したものは架空の迹仏等として排除されているのである。
これは現在の科学的論理に十分に沿うものである。
■罰論等の限界を克服するにあたって
むろん、科学が未発達な時代での教えだから、現代科学によって否定されなければならない欺瞞も多々、あげることができる。
死後の生命について詳細に述べた四有や、その後の功徳、救済についても種々再検討すべき事項はある。
たとえば、現在、最も誤解・悪用されているのが、日蓮が他宗攻撃の現証としてよく用いた「罰論」である。
法華経比喩品の最後の部分には、私も拙記事で
https://ameblo.jp/raketto-chan/entry-12145471117.html?frm=theme
にも記載したが、様々な法華誹謗の罪とその後の結果経過を述べている部分がある。
「若人不信 :もしも信じないで
毀謗此経 :この「妙法蓮華経」を、悪く謗ったならば
則断一切 :すなわち、すべての世界においての
世間仏種 :仏となる種子(仏性)を、断たれてしまう。
…中略…
其人命終 :その人は、 臨終の後、
入阿鼻獄 :阿鼻地獄に入ることとなる。」
この部分を日蓮は、よく引用していた。
すなわち法華経を誹謗したり、法華経を信じて行ずる人を誹謗したり、軽視したり、賎しめ憎み嫉して恨みを抱く者は、死後、無間地獄に堕ち、無限の年数の間、その間で輪廻して出てくることができない。
ようやく出てこれた次は、畜生道に生まれるという。
美しい漢詩で綴られている、この部分の前後の文脈を、詳しく見てみよう。
「又、舎利弗よ
驕り高ぶり、惰り、怠けて、自我に捉われた主張を、あれこれ振りかざす者には、この経を説いてはならない。
凡夫の浅はかな頭は、深く五欲に執着しているので、聞いても理解できないから、
この 「妙法蓮華経」を説いてはならない。
もしも信じないで、この「妙法蓮華経」を、悪く謗ったならば、すなわち、すべての世界においての、仏となる種子(仏性)を、断たれてしまう。
あるいは、顔をしかめ眉をひそめて、疑惑を懐くならば、汝は、まさに、この人の罪報を、私が説くのを聴きなさい。
あるいは仏の在世、あるいは滅度の後に、この「妙法蓮華経」を、誹謗する人がいたならば、
あるいはこの「妙法蓮華経」を読誦し、書持する人を見て、軽んじて賎しめ憎み嫉して、長い間の恨みを抱く者がいたならば、
その人の罪報を、汝よ、いま、ちゃんと聴け
その人は、 臨終の後、阿鼻地獄に入ることとなる。
それから、ある、非常に長い年数がたってその期間が終わっても、また阿鼻地獄に生まれる。
このように、阿鼻地獄のなかで廻り廻って、無限の年数に至ることになる。
それが終わって、地獄より出たら、次は畜生(動物)に、堕ちることになる。
畜生道のなかの、犬や野干として生まれたならば、見た目は、色が禿げて、痩せている。黒い疥(ひぜん)や癩(かつたい)という、できものができて、
人には、もてあそばれ、または、人に憎まれ、賤しまれ、常に、飢えや渇きに苦しめられて、骨も肉も、やつれ、つきる。
生きては、様々に苦しめられ、死ねば、瓦や石を投げつけられるであろう。
次は、らくだに生まれ或は、ろばに生まれて体に常に重い荷物を背負わされ、多くの杖で散々に、たたかれても、ただ水や草にありつきたいと、そのことばかりが頭に廻っていて、それ以外は思わない。
野干と生まれかわって、集落にやってきたら、身体には疥(ひぜん)や癩(かつたい)という、できものがあって、また、目が片方しかなく、多くの子供たちに打たれ、しばかれ、諸々の苦痛を受けてある時は死んでしまう。結局死んでしまった次は蟒(おろち)として生まれ、その形は長く大きくて五百由旬もある。聾(つんぼ)で、愚かで、足がなく腹ばいで動いていき、多くの小虫に体中を食いすすられて、昼も夜も、苦しみを受けて、休息ある間もない。
あるいは、人となって生まれてこれても、多くの素質は、暗く鈍く、背は低くて、片足を引きずり、盲(めくら)、聾(つんぼ)や、背傴(せむし)である。
主張や説明があっても、人には信じてもらえない。口からでる息は、いつも臭くて、鬼魅(おにがみ)に、とりつかれている。貧乏で、窮して、いやしくて、他人に酷使され、多くの病にかかり、やつれて痩せ細り、頼るところもない。
仮に、人に親しくできたとしても、その人は、彼のことなど心においていない。
あるいは、何か得るところがあっても、すぐにまた、忘れるか失ってしまう。
「若修医道 :もしも、医学を修行して
順方治病 :医学的に、その病を治してやっても
更増他疾 :更に、他の病気が増えたりして
或復致死 :あるいは死んでしまう。
若自有病 :もしも、自身が病気になったら
無人救療 :だれも助けて治療してくれることはなく
設服良薬 :たとえ、良い薬をのんでも
而復増劇 :ますます、病気がひどく悪くなる。」
(この部分は、日蓮が太田入道殿御返事で引用している。)
あるいは、他の人から裏切られ、かすめ、脅かされ、盗まれる。
そして、このような行為の罪が、逆にも、ふりかかってきて、災難となるであろう。
このような、罪の人は、永く仏や多くの聖者の王の説法教化しなさるのを、仰ぎ見ることはない。
このような罪の人は、常に、仏の説法のとどかない難所に生れ、気違いで、聞く耳がなく、心が乱れているので、永い間にわたって、「妙法蓮華経」を聞くことがない。数えきれない長い年数の、ガンジス川の砂の数ほどの、長い長い年月の間、生れては、常に聾唖であって、多くの素質が具わっていない。
常に、地獄に落ちていることは、園林や高台で遊ぶようでいて、その他の悪道に彷徨うことは、自分の家にいるようなもののようで、駝(らくだ)、驢(ろば)、猪(いのしし)、犬が、このような罪のものが、次に、めぐり廻る姿である。
この「妙法蓮華経」を謗るが故に、このような報いを受けるのである。
もし、人となって生まれてきても、聾(つんぼ)や、盲(めくら)や、瘖唖(おし)であって、貧乏で、困窮して、諸々に衰えていることが、その人の「厳かな装飾」である。水腫(みずぶくれ)、乾痟(しょうかち)、疥(ひぜん)、癩(かつたい)、癰疽(はれもの)など、このような皮膚の病が、その人の衣服とするように、あまねく発生して、体は、常に臭いところにいて、けがれて不潔である。
深く、自我の見解に執着して、瞋(いかり)恚(うらみ)を増すばかりである。
淫欲が盛んであり、相手が鳥や獣であっても、かまわない。
この「妙法蓮華経」を謗るが故に、このように報いをうけるのである。
舎利弗に言っておく。
この「妙法蓮華経」を謗る者の、もし、その罪を説こうとすれば、非常に長い年月を窮めても、終わることはない。
この因縁をもって、私は、貴方に特別に念を押しておく。
無智の人々の中で、この「妙法蓮華経」を説くことがあってはならない。
若し気根が優れていて、智慧が明了であり、多くを聞いて物覚えが良くて、仏道を求める者がいたら、そのような人のためにのみ、この「妙法蓮華経」を説くべきである。
もし、ある人が、かつて、億百千の仏を仰ぎ見て、多くの善根を植え、信じる心が深く堅固であるならば、このような人のために、この「妙法蓮華経」を説くべきである。
もし、ある人が、精進して、常に慈しむ心を修し、そのために体や命を惜まないという人がいたら、この「妙法蓮華経」を説くべきである。
もし、ある人が恭敬して、異なった心がなく、多くの凡夫や愚かなものを離れて、ひとり山や沢にこもる人がいるならば、このような人のために、この「妙法蓮華経」を説くべきである。
また、舎利弗よ、もし、ある人が、悪知識を捨てて、善友に親しく近づく人がいるならば、このような人のために、この「妙法蓮華経」を説くべきである。
もしも仏の子で、戒をたもち清潔なること、浄らかで明るい宝石のように、大乗経を求めている人がいれば、このような人のために、この「妙法蓮華経」を説くべきである。
もし、ある人が瞋(いかり)なく、心がすなおで柔軟であって、常にすべてのものを憐れんで、諸仏を恭敬する人がいたら、このような人のために、この「妙法蓮華経」を説くべきである。
また仏の子が、大衆の中において、清浄の心をもって、種々の因縁や、譬喩、言辞をもって、自由自在に説法する人がいるならば、このような人のために、この「妙法蓮華経」を説くべきである。
もし、比丘が、一切を知る智慧の為に、四方に法を求めて、人々に合掌してありがたく受け、ただ願って、大乗経典を受持して、ないし、ほかの経の一言をも用いないひとがいるならば、このような人のために、この「妙法蓮華経」を説くべきである。
ある人が真心から、仏の遺骨を求めるように、このように法華経を求め、もらったら有難くいただき、また、ある人がいて、他の経を求めず、また、未だかつて仏教以外の典籍を見たいと思わない人がいたならば、このような人のために、この「妙法蓮華経」を説くべきである。
舎利弗に言っておく。
私は、このように、仏道を求める者のあり方を説明すると、非常に長い年月を費やしても尽きないであろう。
このような人は、よく信じて理解するだろう。
汝は、まさに、このような人のために、”妙法蓮華経”を説くべきである。」と
ここでは永遠の生命、因果(業)の理法の上に立った論理展開が見られる。
その因果を具体的・赤裸々な姿で描いている。
しかし、法華経を誹謗した罪、法華経を信じ行ずる人を迫害した罪が、脅しの如く綴られ、現代科学から見れば、ドグマ的であるのは否めない。
法華経を心から求めるものに対してのみ、法華経を説くべきであるというのは、当時の時代、小乗教集団との争い、政治的な思惑が見え隠れしている。
そして、法華経及びその行者への誹謗の罰の内容は、過剰とか誹謗を通り越して、言論暴力的な脅しにもなっている。
前章の方便品で、法会を去った5000人の増上慢に対する当てつけでもありはしないか。
日蓮も、この文証をしばしば引用して罰論を唱えた。
科学や学問が未熟な時代なら、それも是かもしれない。
しかし、現代に至っても、なお日蓮教団などで罰論として引用されることが多い部分である。
これをまともに引用して、戦後の日蓮正宗創価学会の折伏経典、立正大学助教授 安永弁哲の板本尊偽作論、また池田会長講演集にも、罰論がみられる。
当然であるが、これを一般論の根拠として用いた場合や、特定の個人や団体の攻撃に用いた場合は、その時代・地域・集団によっては、たとえ真実であっても名誉棄損などの犯罪となったり、少なくとも言論の暴力となる。
あくまで、互いに罰論が通用する集団同士の間に限って、用いなければならないであろう。
ただ、科学的証明が不可能であっても、三世にわたる因果を認めれば、日蓮の言う如く、
「心地観経に云はく『過去の因を知らんと欲せば、其の現在の果を見よ。未来の果を知らんと欲せば、其の現在の因を見よ』」(開目抄、御書P230)
と、三世にわたる悪い結果としての罰は存在することになるが、その因果に関する具体的内容は様々で、無限の多様性があるだろうから、特定には慎重であるべきであろう。
日蓮の、こういった罰論の教えも、その真意は、民衆を成仏に導くためにあるのであって、これを理解しないで、文面だけ切り取って利用すること自体が、日蓮の真意に背き、師敵対・裏切りの行為につながるものと、私は考える。
■死後の生命についての欺瞞… 一つの科学的知見からの反証
現代科学の知見を基底にすれば、死後の生命は三世永遠に輪廻を繰り返し、因果も業として受け継がれることは推認・確信することができる。
しかし、業の因果を知覚できるのは、生を受け、感覚器官が作動しているている間のみであり、死んでいる間は感覚器官そのものがないため無知覚・無感覚である。
したがって、臨終の瞬間から次なる生の誕生までの時間間隔は、一瞬でしかない。
その根拠の一つが、昭和時代に始まった全身麻酔である。
鎮静剤、吸入ガスの笑気・フローセンとサクシン(筋弛緩剤)を使用し、意識や呼吸を、中枢神経(脳)を麻痺させて消滅させ、人工呼吸器で生命を維持しながら行う全身麻酔が、今ではフローセンもセボフレン、筋弛緩剤もエスラックスなど、より安全、よりコントロールしやすいように改良されて普及している。
私は日常、少なからずこういった麻酔も手術も担当してきたが、麻酔担当医がドジをふまなければ、手術中、どんなに体が無慚に切り刻まれようとも、それがどんなに長い時間に及ぼうとも、患者の麻酔中の感覚は一切無く、悪夢を見ることもなく、入眠から覚醒までの体感時間はゼロ「一瞬」なのである。
つまり、感覚器官の働かない期間は、麻酔がなければ感じるであろう地獄の苦しみや期間の長さは「一切ない」のである。
そして、臨終から次なる生誕までの期間は、感覚器官そのものが存在しない期間だから、感覚自体がない、つまりこれと同様に体感時間はゼロとなるのである。
この事実は、現代までも様々な宗教で依然としてもてはやされる、死後の生命に関する罰論、またその反対の功徳や救済論が、いかに欺瞞に満ちているかを証明する。
現実には時空が無限大であっても体感時間ゼロという一瞬で転生となることは、感覚器官がある麻酔中でも科学的に体感時間ゼロという一瞬が証明されているので、感覚器官がない死後の生命においてはなおさら同様である。
要するに、仏法で説かれた死後に次なる生を受けるまでの生命に関する内容、つまり死後に無間地獄や餓鬼道などに堕ちて苦しむ、またはこれとは反対の、念仏を唱えれば極楽浄土に生まれる、故人を追善供養すれば救済されるなどの内容については、古今東西、他の宗教にも夥しい著作があるが、すべて非科学的欺瞞・架空であり、現実の中で一切衆生を正しい修行へ導くための方便であったのだ。
転生という事態は体感時間ゼロ(一瞬)で経過するのである。
そして、現実に具体的に悪業の果報が現れるのは次なる生を受けてから、確実にやってくる。善業の場合も同様である。
そして、こういった非科学的欺瞞を刷り込み利用するのが、いかにカルトじみているのかが分かるだろう。
中有を説く四有論も、現代科学の前には戯論となり、チベットの死者の書の内容ももはや欺瞞に満ちたものとなる。
むろん、手術を受けなければならない因、そして手術を受けた因としての果報、つまり実際の地獄は、手術後、覚醒後にやってくるので、厳然とした因果が貫かれていることは確かである。
(話は度々それてしまうが、手術中に地獄があったとしたら、それは医者や医療従事者の側であって、患者にとっての地獄は、手術そのものではなく、術後の回復期である。これは想定されているため、様々な鎮痛処置が行われる。
術後は回復に向かう苦しみ、いわば手術によって作り替えられた肉体環境への「生み」の苦しみなのであり、まさに仏法で説く四苦(生老病死)の一場面である。
仮に手術が失敗して患者が死んでしまえば、患者自身にとっては安楽死と同じ過程である。仏法の因果に従えば、患者は一瞬のうちに来世に生を受け、今世では、残された医者・病院等や患者の遺族の間等に、その後の新たな人間社会環境への「生み」の苦しみ(地獄)が訪れることになる。)
つまり、果報としての地獄は、全身麻酔手術の場合も来世の場合も、日蓮の説くように、次の生を受けてからはじめて現れるのである。
罰論の話に戻る。
罰論を根拠とする主張は、使い方によっては脅しや誹謗・中傷等、言論の暴力につながりやすく、今日においては、たとえその因果が真実であっても、名誉棄損になりかねない。
つまり、死後の生命に関する様々な説、罰論、功徳論、救済論は、科学の発展に応じて、常に修正、アップデートしていかなければならないのであり、宗教といっても、人の幸せ・あるべき人の道を説く以上、こういった変更も受け入れることを含んだ教学体系でなければ、ならないのである。
この意味では、日蓮の教えも、後世が正しく受け継ぐことによって、十分に科学的に耐えうる内容となっているといえるだろう。
■再び仏法における、真の血脈について
ただ、こういった信仰の類は主観的なものだから、科学で客観的には証明できないと言われる。
しかし、主観(一念の一部)は必ず言動・行動として具体的に出てくる(一念三千の原理)ので、客観的な科学的研究の対象になるはずである。
根本の目的である成仏とは、具体的には菩薩像、菩薩の言動・行動となって現れる。
これは、どんなに些細な、わずかな、たとえ目に見えない・意識に上らないことであっても、この瞬間瞬間の、自他への菩薩行の連続、積み重ねである。
だから、その集団の菩薩の言動・行動を研究対象にすれば、成仏の姿、また信仰内容の正邪などは、様々な困難はあるが、人類の科学技術がさらに進歩し、並行してさらに昇華が重ねられ、人格的向上、完成に近づくにつれて、必ず解析できる日がくると考えられる。
血脈については、日蓮が、生死一大事血脈抄において、弟子や後世の姿勢として次のように明確に指導している。
「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり
然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、
若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、
剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば 例せば城者として城を破るが如し」(御書P1337)
《一般化した結論として、日蓮が弟子檀那や後世が、自分や他人とか、彼とこれとかの分け隔てなく、お互いに水魚の思いをなして、異体同心となって、南無妙法蓮華経と唱えたてまつるところを生死一大事の血脈というのである。
しかも今、日蓮が弘通する法の肝心は、これである。
もし、こうであるならば、広宣流布の大願も達成するだろう。
反して、日蓮の弟子のなかに異体異心の者がいると、それは例えば、城者として城を破るようなことである》
しかしながら、後世の日蓮教団は、分派・合流などのなかで、正しく受け継がれている教団はほとんどないといっていいだろう。
今日のような教団の分派の対立は、客観的に見れば「異体異心の者」の姿であり、明らかに、日蓮の教えに背く状態、つまり師敵対である。
その中には、日蓮との師弟不二はおろか、血脈すらも存在しないといえるだろう。
立場や主張の分け隔てなく、互いを認め尊重し、団結しながら、教えを広めることが、日蓮の、師の立場からの教唆であったはずである。
なのに、釈迦や日蓮を本仏としたり、無常の産物、つまり爆弾や火事で消滅する曼荼羅の板(板曼荼羅)や掛け軸(形木曼荼羅)を本尊として、高価な建物や仏壇をそなえたり、仏法が否定している梵我一如を言い換えたような解釈(アニミズム)を展開したり、創価三代、とりわけ人間・池田大作を生きながら永遠関係(シャーマニズム)としたり、…。
本尊は、物体ではない。
曼荼羅には日蓮の悟りが文字を使用して描かれているが、その悟りの内容=法則としての南無妙法蓮華経こそが、本尊なのである。
子供でさえ、きちんとした理性があれば分かることである。
後述するが、以上の日蓮の教えをきちんと踏まえれば、これらの教団の教えは、以上とは異なるものであり、そこには、日蓮の血脈とか、師弟不二などといわれる関係は、道理として矛盾・破綻していることとなる。
これらは、依法不依人に基づいて、正しい法を師匠、そして、正しい法を本尊としている日蓮の教えに対し、明確に弓を引いている。
いわば、師敵対の状態といえよう。
私が、日蓮正宗のいう「血脈」、そして創価学会のいう「師弟不二」に注目し、そのなんたるかを解明しようとするのも、こういったことに関する欺瞞を晴らすためである。
それぞれの教団で、この遺文を指導内容として都合よく説かれることが多いが、それは教団のみの団結と存続を意図したエゴにとどまっており、まさに日蓮による真の仏法の広宣流布が絵に描いた餅のようになっている。
今日の教団は、即刻、真摯にこれを反省・懺悔し、互いを排斥しあう姿勢を改めるべきである。
日蓮は、おそらく、今日の教団の争いあう状態を、あるいは想定していなかったかもしれない。
いや、想定をしていたからこそ、「依法不依人」を説き、上記の内容の「生死一大事血脈抄」を残しているといえるのではないだろうか。
「日蓮が弘通する処の所詮」は「自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして」なのである。
早急に本来の日蓮の教えに立ち返ることを切に願うものである。
後述するが、その後の歴史的変遷の中での日蓮本仏論の台頭、そしてそれと同様な法主本仏論、池田本仏論、また創価三代師弟シャーマニズムが出現し、各教団の間で争いごとが今も絶えない状態である。
その主張内容や状態を、依法不依人に基づいて検討すれば、師弟不二、純粋な血脈の流れは存在しないことが、明らかである。
ちなみに、典型的なアニミズムとして、創価学会副会長・川田洋一医学博士の、日蓮仏法の本尊観の一部が、川田洋一著「新版 欲望と生命」1988/5/20 第三文明社、P196
に、伺うことが出来る。
「日蓮大聖人は、深い自己の悟りの生命を、本尊として具現化し、行動化されたのである。
それは宇宙大に広がった大生命を、人間の意識の水準で顕在化した宇宙の実体であるといえよう。
日蓮大聖人があらわされた本尊こそ、いわば、未曾有の対境であり、人々がこの本尊に、自己の全存在を投げかけるとき、その生命の波動が宇宙生命そのものと一体化し、融合し、本尊内在の慈悲と英知にあふれた大生命が個人の生命の奥底からわきあがってくるのである。
自己の全存在を、本尊にかけるとは、この未曾有の対境を信じ、そこに自己の本源的欲望を投入することを意味する。つまり、自己の生命の深淵からつきあげてくる。(句読点そのママ)生命内奥の〝声〟でもある本源的欲望の、宇宙生命の当体としての本尊への主体的な〝投射〟である。…中略…
人間の生と死を、その本源からささえているものこそ、宇宙生命自体に他ならないからである…」
ここでは、「宇宙の実体」「宇宙生命そのもの」「本尊内在の慈悲と英知にあふれた大生命」「宇宙生命の当体としての本尊」「宇宙生命自体」…
「宇宙」が、これでもか、これでもかと出てきて、川田博士は、よほど「自分以外」である「宇宙」がお好きなようで、ちなみに池田大作の著作にもよく出てくる、創価学会での本尊観である。
ところが日蓮大聖人は、御本尊について、
「全く日蓮が自作にあらず」(日女御前御返事(本尊相貌抄)御書P1243)
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(同、P1244)
「己心の外に法ありと思はば全く妙法にあらず 麁法なり」(一生成仏抄、御書P383)
等々、本尊についての文証は多くあるが、その中には「宇宙」の「宇」の字もない。
「自分以外」である「宇宙」に本尊があるなんていうのは、
「かくの如きの人をば仏法を学して 外道となると恥しめられたり、爰を以て止観には雖学仏教・還同外見と釈せり」(一生成仏抄、御書P383)
ということになる。
その典型例が、このアニミズムである。
こういった、御本尊を「自己の生命以外の実体」に祭り上げる表現は、いかに正しいように見えても、所詮、外道であると、日蓮は断じている。
これは、創価学会が血脈と称して受け継いだ、日寛教学の誤りであろう。
「諸法無我」、「諸行無常」。
これは、仏法の初歩的な基本論理である。
「大我」や「小我」、「真我」等々、「我」のつく言葉などがよく見られるが、あくまで「無我」つまり「我」は「無い」と説くのが仏法である。
日蓮は、これを、「諸法実相」と断ずる。
諸法実相とは、諸法即実相、うつりゆく姿そのものが実の姿、つまり「無我」を包括した論理である。
「爾前の経の心心は、心より万法を生ず、譬へば心は大地のごとし・草木は万法のごとしと申す、
法華経はしからず・心すなはち大地・大地則草木なり、
爾前の経経の心は心のすむは月のごとし・心のきよきは花のごとし、
法華経はしからず・月こそ心よ・花こそ心よと申す法門なり」(白米一俵御書、御書P1597)
《爾前の経の説く心は「心から万法は生ずる。譬えば心は大地のようであり、草木は万法のようである」という。
法華経はそうではない。心はすなわち大地であり、大地はすなわち草木である。
爾前の経々が説く意味は「心が澄むのは月のごとく、心が清いのは花のごとし」と。
法華経はそうではない。「月がそのまま心であり、花がそのまま心である」という法門なのである。》
この御書は、諸法実相の例を明確に示している。
爾前の経は「心」を媒介や根拠として万物を説明しているが、法華経は「心」ですら根拠として入れるものではなく、現象そのものが実相であると説いているのである。
論理のなかに、「実体」とか「モノ」とか、絶対者などが入り込むと、諸法実相ではない。
「人」というのも、変わりゆくもの(実体のひとつ)で、不安定で不確かなものである。
だから仏法では、真理を判断するよりどころは「依法不依人」と説かれていて、日蓮も、これを採用している。
これらから判断すると、「永遠の師弟」とか、創価三代の「師弟不二」等が、御書根本どころか、いかに御書と乖離している主張かが自明である。
これについては、後述する。
■即身成仏の実態
仏法も、科学をも包含した、宇宙一切根源の法から思いを馳せると、
こういった血脈の乱れも、一念三千の法理が、周りの環境をリソース(資源)としながら無常にうつりゆく現実の一瞬といえる。
その中で、僅かながら実現した「観心」という修行、「一心に仏(己心)を見たてまつろうと欲して、自ら身命を惜しまず」、「南無妙法蓮華経」を唱題する修行、それによって得た結果が、さらなる完成へ向かってバージョンアップされていく姿である。
「観心」という修行によって、一切根源法=南無妙法蓮華経という法則そのものの織りなす実現が瞬間瞬間、リソースに対して果報として現れていく。
自身の生命とは、自身という独自の法則=南無妙法蓮華経という法則に含まれる法則であって、これが永遠に三世にわたってその時その場所でのリソースに対して現われていく、まさに諸行無常・諸法無我、諸法実相の姿、一念三千の法則の現れである。
また、真理を表現すべき言語自体も、もっとも、不完全だから、完全に正確には表現できない矛盾を常に携えていく。
それをあえて、一切根源の法=南無妙法蓮華経と定義し、「観心」という修行をして行くことこそが、一切衆生にとって根源的な自己救済、自力救済となる。
日蓮は、これを、即身成仏と言ったのである。
他にすがる、祭り上げた絶対者からタナボタを祈る、これに準ずる他力本願の救済は、物理的現実にはあり得ず、すべてウソ(の方便)といえる。
これは、日蓮の教えの中でさえ、同様の部分と思われる部分が混在するのも事実である。
もとより、日蓮自身も、「法門をもて邪正をただすべし 利根と通力とにはよるべからず」
(唱法華題目抄 御書P16)と、超能力などに依り頼ってはならないと戒めているのであるが、
当時は未開の地ではないにしろ、自然災害・国内の乱れや外国侵略など、人知を超えた状況にに対して、もっぱら呪術的祈祷以外に、その根本的対策法はなかったのだから、日蓮が、この状況において、方便として当時の思想を基盤として利用したのもやむを得ない。
後に進歩した現代を基準として、その未熟な部分を裁断するのは適切ではない。
南無妙法蓮華経の唱題という修行法は、それ自体についても、なんらかの生理学的・薬理学的、そして脳科学的効果は解明できるであろうし、そういったことが研究されつつもある。
そしてそれを基盤とした自己変革の結果は、瞬時ではないか時間をかけて、確実に社会的変革へ影響していく。
しかし、自分自身以外に直接の働きかけを持たずに超自然的な効果を期待すること自体は、非科学的な過ちであり、こうした呪術性は現在では確実に排除されなければならない。
日蓮の言う「通力とにはよるべからず」である。
こういった非科学性・呪術性は、日蓮門下や創価学会に限らず、多くの宗教団体に共通することであり、IT/AI時代の今後は、これらを取り除くための真剣な取り組みが要請されているのではないだろうか。
結局、全てにおいて、自分の人生は自力で切り開いていくしかないのである。
むろん、他人や他の環境、全宇宙を含むリソースの大きさを考慮すれば、自分の肉体や精神の及ぶ範囲は、限りなくゼロに近い微小なものでしかない。
が、ゼロではなく、それも含めて、無限大のリソースを操る自己独自の法則に基づいて、すべてが自身で自動再生している姿なのである。
だから、自己のまわり、つまり他人や、環境のためへの尽力が大きいほど、本来の完成に近づく自己再生なのである。
自己の不遇を嘆いたり、他人や環境への責任転嫁・誹謗中傷は、自己の生命プログラムの悲惨さを曝け出すことにほかならず、まったく愚かで無益な害毒となるであろう。
仏法では、この状態を無明、凡夫としている。
今世が、たとえどんなに思いがかなわなくて無念に終わっても、三世永遠の因果を前提とし、これを認識して実行している境涯であるならば、決して嘆くに当たらない。
また、それが(前投稿・コメントでも指摘したが)一瞬の感覚時間で来世となり、業として新たな肉体を得て受け継ぐので、けっして焦ることもないのである。
つまり、日蓮の教えは、現代科学・哲学をすべて包含する、究極の自己救済、自己確立の法則となっている。
この境涯に立てば、名聞名利・栄誉栄光を求める必要はなく、むしろそれは時間を浪費する「害毒」「障害」となる。
原始仏教から、これを知るのを、悟りと説いていた。
凡夫と仏の差異は、これを知るか知らないか、たったこれだけのことだったのである。
「情けは人のためならず」(諺)
「人のために火をともせば・我がまへあきらかなるがごとし」(食物三徳御書、御書P1598)
とあるように、他人のために、環境のために貢献することが、究極の自己の利益につながっていく。
その姿は、限りなく完成へと努力する未完成な状態、の連続。
日蓮は、事実、自身の生涯において、僧の地位を得た後も、決して名利を求めず清貧を貫き、自己の完成のみならず他人・社会の変革を目指して、へつらうことなく戦ったのだった。
そして、未発達な科学、弱肉強食・暴力が正義であった時代、厳しい自然選択の環境下において、現代日本社会から見れば短命であったとはいえ、上記のような、最高の境涯へ達していたのである。
さて、生涯にかけて権力になびかず清貧を貫き、「法」に頚を捧げた日蓮の象徴的な姿勢・態度は、全ての仏法を志す者の模範・鏡とすべきであることはいうまでもない。
しかし、現在、毎年百億円単位のカネを集めて豪奢な建築物を各地に建て、広大な墓苑を作り、それらに名前をつけて喧伝し、世界中から栄誉称号を集めて自画自賛し、多くの脱会者・造反者・批判者を攻撃・排除しながら、組織の拡大に手段を選ばず策を弄して奔走、政治権力に食い込み媚び諂うなかで、かつての先師の正義の主張すらも曲げてしまっている教団がある。
この姿が、鎌倉時代の日蓮およびその門下の姿勢や態度とは正反対に映るのは、私のたった二つの目だけにだろうか。
こういった日蓮の教えの基本的認識の下で、次のページからは、日蓮の後継者たちの姿、歴史の一例を、師弟不二、血脈伝承を思い浮かべながら、あらかた、検討していきたい。
P7へ、続きます。
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」
目次(リンク付き)
P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏ではなかった, 「美作房御返事」の物語るもの, 日興の身延入山時期, 原殿御返事の検討