●1 仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会―P1 プロローグ | ラケットちゃんのつぶやき

ラケットちゃんのつぶやき

ブルセラコスチュームで、あちらこちらに出かけてます。
最近は、主に富士山麓の山に登ったときの、雄大な富士山と、自身の写真をつけてます。
ブルセラアイドルの夢を見ながら、日常の現実に対するいろんな思いを綴ります。

 

■プロローグ

 私が今、信仰上、所属している団体は創価学会である。

 信仰の対象は日蓮本仏論(人法一箇)の南無妙法蓮華経であり、本尊として、日寬曼荼羅を配布し、それに導いてくれる創価三代会長(牧口常三郎、戸田城聖、池田大作)を永遠の師匠と仰ぎ、絶対の信頼を置いている。
 事実上は、創価三代のなかでも池田大作への師弟不二の実践を通して、本尊への唱題、自行化他の唱題を行い、広宣流布をめざしている。

 組織内では、信仰の対象である本尊、師匠である池田大作への絶対の信(無疑日信)を説き、これを批判することは事実上タブーとなっていて、もしそれを組織内で展開すれば、どんなに正論であっても組織の秩序を乱したとして除名される可能性のある仕組みになっている。
 もとより、信仰団体だから、私も含めて、その多くの学会員は、その信仰の詳細な内容を、自身の頭で真剣に思索・検討することはほとんどない。
 信仰や、指導内容に疑問を持った時は、相談する相手もいるが、そのほぼすべては同様に、池田大作への絶対の信を持つ立場だから、根本的な解決にならない。
 そして、創価学会の関連・推奨する内容以外は、つまりは創価学会を批判する人や書物の内容を信じないようにコントロールされ、自らもそれに積極的にかかわっているからである。
 むろん、日本では信教は自由だから、嫌になったら創価学会を脱会すればよいのだが、現実にはそう簡単にはいかない。
 信仰心が薄い人は簡単にけじめがつくし、組織からも相手にされなくなることもあろうが、私のように幼き時代からこれを基盤として自身の信念を培った人、信仰そのものに人生をかけてきた人は、大いなる自己矛盾と葛藤に直面することになる。
 また、脱会者への嫌がらせや迫害は、組織的なものから、個人的なつながり(恨み・つらみ、損得など)からでも起こるし、実際、起きていて、これが様々な社会的犯罪へと結びついてきた。この事実は、最も創価学会の内部事情を知ると思われる池田大作の弟子で後に造反した山崎正友の著「創価学会・公明党の犯罪白書」(2001/8/15,第三書館)をあげるまでもなく、多くの識者やジャーナリストの指摘する如くである。

 日蓮の最も重要な遺文である観心本尊抄には、
「天晴れぬれば地明かなり 法華を識る者は世法を得可きか」(観心本尊抄、御書P254)
《天が晴れれば地は明かとなる。法華経を識る者は当然に世法を得ている。》
 と述べられている。
 もとより、ある命題が真実であるとすれば、その命題の対偶も真実であることは、中学・高校の数学の授業レベルの知識である。
 理性ある良識人なら誰にも分っている。
 この日蓮の遺文の対偶は、「世法を得ていない者は法華経を知らない」つまり、犯罪を犯すものは、日蓮仏法を分かっていないことになる。
 
 つまり、この日蓮の遺文ひとつとっても明らかなように、世法・国法よりも自らの主張する〝仏法〟や組織の論理を優れたものとして、池田先生を守るためなら国法を犯してもよいという信念をもち、様々な犯罪を重ねてきた創価学会やその熱心な会員に、日蓮直結・御書直結を掲げる資格など存在しないし、この事実は、既に歴史が証明している。
 更には、「御書のとおり実行しているのは創価学会しかない」「日蓮仏法を広宣流布しているのは創価学会のみである」等々の趣旨を現創価学会は言い張っているが、これが文証・理証・現証の点からもウソであること、御書の通り日蓮の教えを忠実に実行してきたとはとてもいえないことは、マインドコントロール(洗脳)されている者以外の、良識ある誰の目から見ても明らかであろう。
 その最高指導者である池田大作の姿勢は、自らが正しいと言い張っている日蓮仏法や日蓮の姿勢とは様々な点で似ても似つかない、対極にあることは、これから後述する。

 かつての日蓮正宗創価学会は、日蓮正宗の教えを絶対真実としてきた。
 日蓮正宗の教えとは、日蓮を久遠元初自受用報身如来とし(日蓮本仏論)、弘安二年造立とされている板マンダラを絶対の本尊としている(板曼荼羅への即物信仰)
 板曼荼羅には、首題としての南無妙法蓮華経と、日蓮の花押がある。
 人としての日蓮と、法としての南無妙法蓮華経を、それぞれ同格の本尊と並べあげ(人法一箇)ているが、元来この二つは道理として並列できないのであって、絶対的な信仰としては二者択一すべきものであるから、現実は、板曼荼羅への即物信仰と、これを維持管理する法主への絶対的な信(法主本仏論)となっている。

 創価学会の師弟不二(師匠への信伏随従)、日蓮正宗の血脈(法主への唯受一人血脈相承)…日蓮正宗も創価学会も、こういった自身の掲げる重要な教学、さらには日蓮や南無妙法蓮華経の内容についての批判検討が全くない。

 宗教では、法であれ人であれ、絶対的な信を設定することがほとんどであり、その対象が本尊となる。それが仏教なら、本仏とされている。
 しかし、道理を絶対的に追求する科学においては、絶対、あるいは絶対的なこと、絶対的な法則は存在しない。皮肉なようであるが、あえて絶対を云々すれば、
「絶対的なことは絶対に存在しない」というのが「絶対的な法則」となっている。
 真理は常に相対的であって、絶えず更新しつづけるものである。
 このことは、釈迦が最初に悟って説いた、諸行無常・諸法無我とも相通じている真理である。
 たとえば、仏法と科学の両者が共通に基準を置いていると思われるのが、日蓮の教えの中にも、道理文証よりも現証には如かず、とか、依法不依人(法に依って、人に依らざれ)がある。
 信仰の世界においても、道理としての正邪善悪の検討の上、その最高を絶対的な本尊とする立場なら、日蓮の教えの根本である、南無妙法蓮華経についても、その道理を絶対的に追求するべきであろうし、これを受け入れないとすれば、そもそも絶対的な信仰の対象とはなりえないことになって、道理における矛盾が生ずる。

 日蓮は、当時の学問レベルで法の正邪善悪・勝劣上下を判断して、最高の真理を法華経の中に見出し、南無妙法蓮華経の唱題を唯一最高、真実の教えと定義した。

 そもそも学問レベルは、日進月歩である。
 今日では日蓮の時代に比べたらはるかに進歩しているにもかかわらず、日蓮門流、日興門流(日蓮正宗や創価学会も含む)においては、ただひたすら日蓮の教えの表現のみに盲従し伝えたというだけで、こういった日蓮の姿勢や考え方が、まったく発生していない。
 その時々の学問レベルで法の正邪善悪・勝劣上下を判断して、最高の真理を見出していくという、重要な基本的信仰姿勢が、日蓮門流や創価学会には根本的に見られない。
 見られるのは、日蓮の教えを掲げながら、その解釈の違いや様々な名聞名利によって互いを排斥しあい、かえって、日蓮が生死一大事血脈抄で述べた「自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして」という日蓮門下全体への血脈の精神に、弓を引いている皮肉な姿である。
 日蓮の教え自体には、「依法不依人」をはじめ、この重要な基本的信仰姿勢が法として説かれているので、このことからすると、現在の日蓮の後継者たちの多くは、日蓮の教えに背いていることになるのではないか。

 つづいて、日蓮の教え、そしてそれを伝える後世の歴史を振り返ってみれば、釈迦が法華経において説いたといわれる、正像末の様相に類似する、またはそれまでとは言えないものの、三つの時期に当てはまるような分析もできることに、私は気づいた。
 この釈迦仏法における、正法、像法、末法にあたるのが、日蓮死去後の五山創立期、江戸時代から明治維新までの檀家制度による比較的安定期、それ以後から戦後から現在にわたる、新興団体乱立と相互紛争期である。

 思えば日蓮の時代の末法は、釈迦仏法が「於我法中 闘諍言訟 白法隠没」《わが法の中において、闘・諍・言訟して、白法が隠没せん》(大集経)時期であり、このなかで日蓮は、当時に伝わっていた釈迦仏法全体を、あくまで当時の学問レベルにおいて、勝劣判断し、法華経こそが最高・最第一と断定したのであった。

 現在は、日蓮の教えの中においても、分裂した各派(身延派、日蓮正宗や、戦後の創価学会、立正佼成会、顕正会、正信会など)が、その表面的内容を鵜呑みにし、変化する時代に取り残され、次第に日蓮の信仰姿勢に背きながら「闘諍言訟」しているのは、広く知れ渡っている歴史的事実であると見える。

 そんな中、たとえば日蓮や日興は、所属していた天台僧の中で、これを唱えたが、今の既成の教団の内部からも同様の姿勢を見せる人たちが出てきている。
そして、私自身も、内内では、その類になりたいとも思っている。

 つまり、代々伝えられてきた日蓮の教えに盲目的に従うのではなくて、日蓮の本来の信仰姿勢に立ち返り、それを根本にすえながら、現在の科学的進歩に即し、時代に合わせて、その根本の「日蓮の教え」自体を批判・再検討・修正・再構築しようということである。
 これが、本来の日蓮の信仰姿勢、いわば釈迦仏法を規範とした信仰姿勢であったはずである。

 そして、それに忠実に従えば、日蓮の教えに説かれている如く、規制集団からの迫害・弾圧が、当然に予想される。
 日蓮自体も、「三類の強敵」(俗衆増上慢、道門増上慢、潜聖増上慢)とか、「三障四魔」などとして、そのこと自体をを教えとして示し、種々の法難を受ける中で身をもって実証しているからである。


 科学においては「絶対的なことは絶対に存在しない」というのが「絶対的な法則」である。
 そして絶えず、人の主張ではなく、法を検証しながら、発展・進歩するし、進歩してきた。これは、仏法における「依法不依人」そのものの姿勢である。
 宗教においても、当然に、個人的にも世界的にも幸福を実現していくためのものであるかぎり、従来の教えに何の疑問も唱えず旧態依然とし、時代に合わない盲目的主張を繰り返す態度は、怠慢、停滞、違背というほかはない。
 まして、最高の幸福、成仏という目的を達成する法則自体は、絶えず批判・検証しながらアップデートしていくものであるし、本来、このこと自体も内包しているのである。


 私は、幼少期からの人生のおそらく三分の二以上を捧げた創価学会の教え、日蓮正宗の教えを通じて、このたび日蓮の教えを再検討することになり、以前からの投稿には内容的に反するような前投稿の「私の池田大作観(1)」に示した如く、皮肉にも、自身の人生の師としてきた池田大作の矛盾を指摘せざるを得ないハメになった。
 その、精神的な傷は今でも疼いているが、そんな中でも自身と戦いながら、日蓮の本来の教え・信仰姿勢を模範として実践し、真実・真理の追究と広宣流布をめざそうと試みている。

 今回は、以上の基本的姿勢を、仏法の当初から歴史的事実とともに述べて確認し、例として日蓮正宗の「血脈」と、創価学会の「師弟不二」をとりあげ、検証し、このことによってさらに真理・真実である「一切根源法」に迫っていきたい。

 このことは、必然的に結果として、前述の内容を含む、様々な教義や伝承の真偽を見直すことになり、それらを絶対として、又は人生の唯一のよりどころとして受け入れている多くの信仰者の感情に逆らうことになる。
 このことは私も同様であったから激しい逡巡・葛藤に直面し、これを乗り越えることは容易ではなかった。


 私は、宗教を否定するつもりは毛頭ない。
むしろ、正しい真実に基づいた信仰は、個人の幸福や人類全体にとって必須であるという信念を持っている。
 かつて、マルクスは、宗教はアヘンであると述べたが、医師である私はアヘンも使いようによっては大いに有益であることを、日常の臨床で経験している。
 牧口常三郎の価値論を持ち出すまでもなく、時空を超えて、全ての正義と善意の人にとって、真実は、価値的・有益であり、ウソ・偽りや捏造・隠蔽は、害悪・害毒である。 (更に価値論では、偽善と悪意の人にとっては、真実は反価値・有害であり、ウソ・偽りや捏造・隠蔽は、価値的・有益であることになる)
 新たな真実を知り、それを素直に受け入れることは、過去や人格を否定することではなくて、その歴史や道筋をより深く正確に理解することであって、信仰自体をより正しく導くことになる。
 時代の発展と共に、いかに意外な事実が発見され、それが従来の解釈や信念の修正を迫るものであっても、怯むことなく、真実に対して誠実でありさえすればいいのだ。
 その姿勢こそが、真の信仰であって、その信仰を更に深めることになるからだ。

 「罪を憎んで人を憎まず」の諺は、「依法不依人」の原則に基づいている。
 誤解を避けるためにあらかじめ断っておけば、この論文は、この諺や原則に基づいて記載したものであり、結果として多くの信仰者のあり方と論理を問うものであって、信仰や信仰者自体を批判・否定するものではない。
 成功した信仰者の姿は、その信仰の対象の力用の違いではなく、どこまでも信仰の内容と、信仰者の信心の厚薄及び行動の強弱が、その成果を生んでいることが明らかであるからだ。

 こうして新たな真実に目覚めた私自身にも、信仰者・仏法者として、自身が信仰する正しい「法則」が、常に新たな智慧と勇気を与えてくれている実感がわいてくるし、その教えは科学的普遍性自体であることを確信している。



■更なる科学的観点から


 所詮、一切根源の法では、原理として「依法不依人」はあるが、「師弟不二」とか「血脈」とかは一切ない。
 いわゆる「神」という存在も、現在は量子論など科学の発達によって否定されている。
 神とは主に絶対者、創造主などと表現されるが、幅広く絶対的なもの、超越的な存在、アプリオリな存在、超自然的な霊魂やモノや概念まで含む、都合よくデッチ上げられた仮想である。
 とはいうものの、最先端を行く量子論などの物理学理論も、二乗したらマイナスになるというありえない「虚数」を仮想して立てられた論理である。
 我々のビッグバン宇宙の始まりから現在までの様相も、この方程式によって説明・解明されている。
 いわば、仮想概念が基盤に含まれているのである。
 そして、それを表現する言語・数式自体も、完全・絶対的なものではない以上、それを使って表現した真理そのもの(たとえば方程式など)も、不完全・相対的なものとなる。
 いかなる論理や主張も、他に比較して相対的に限りなく100%に近い真理のように見えても、100%(絶対)ではない。
 どんな理論であっても、将来、どのように論理が包括されていくかは不明であろうし、だからこそ、全ては未完成・相対的であるとして、絶えなる妙なる完成へのバージョンアップが必要なのである。

 それでは、絶対者を崇め教祖を敬愛する、非科学的宗教の役割は、いったい何なのか。
 それは、他の機会にゆずりたいが、たとえば、イワシの頭も人によっては大化けする。
 大化けするのは宗教だけではない。
 株、土地、景気などから、うわさ、デマ、流行…、俗にいうと、欲望や癒しの対象として投影できるものすべて、大化けする。
 大化けしてバブルとなるが、バブルはやがてはじける。
 繰り返すが、「宗教は阿片(アヘン)である」という、マルクスの有名な言葉であるが、この「阿片」(=麻薬製剤)は、私が日常携わっている終末期医療・ターミナルケアには、なくてはならない価値ある存在である。
 こういうエビデンス(確かな証拠)があるから、終末期医療、緩和ケアでは、世界的に麻薬使用がスタンダードとなっている。(当然に、非科学的宗教も同様である)
 経験的には、絶対者を崇める宗教(その内容を問わず、私の所属する創価学会も含む)の信者は、その信仰が熱心であればあるほど、そうでない人に比べて、明らかに麻薬使用量が少なく、かつ終末期は充実したものとなっている。

 しかし、これらが悪用された害毒は、挙げたらきりがない。
 国体論から太平洋戦争へ発展した信念の基盤となった日蓮主義も、十字軍や暗黒時代のキリスト教や、「コーランか剣か」時代のイスラム教を、批判する位置にはないだろう。
 すべては、それらを受け入れる人や信者による、相対的な現実でしかないのだ。
 日本の軍国主義、西欧の植民地支配、ヒトラーのホロコースト、スターリンの粛清等々、非科学的な宗教的行為を基盤とした、悲惨な歴史は挙げればきりがない。
 常に自分たちの信奉する主張が絶対である(100%正義である)とする信念が、人々に一時的満足(いわゆる幸福)をもたらすことにもなる反面、残酷で悲惨な侵略や戦争に駆り出してきた歴史に、謙虚に目を向けるべきであろう。
 つまり「依法不依人」たるべきである。

■依法不依人

 釈迦の入滅前の最後の言葉とされている「依法不依人」とは、「法に依って、人に依らざれ」と読み、成仏を目指し、真理や価値の追求などにおいては、人の勝手な主張ではなくて、法則に従うべきであることを意味する。
 更に身近には、物事の判断や行動の基準には、あくまで法則を根拠とするべきであり、人の解釈や議論・主張を鵜呑みにしたり用いたりしてはならないという意味である。
 このことは、たとえ乞食であっても鬼であっても罪人であっても悪魔であっても、主張する人の姿・立場・門地や行動など、人の属性・要素は一切問わない。
 その人が、主・師・親であっても、善人・悪人であっても、ウソはウソ、真実は真実である。
 人ではなく、その主張内容が、法則・真理に合っているかどうかを見分けろとする。

 人肉を主食とする飢えた鬼が「諸行無常 是生滅法」とつぶやいた。
 これを聞いた雪山童子が、鬼に対し自分の身を投げ、続きの偈「生滅滅已 寂滅為楽」を聞いた。
 この譬えは、釈迦の歴劫修行の一現世のこととして、有名であるが、これも、依法不依人を示すものであり、仏法の重要な精神の一つである。
 鬼であっても、正しい法を説く場合は、その法を用いるべきであるとする精神である。


 この法「依法不依人」の定義時点では、法とは仏法を指しているが、これは時空を超えて通用する。
 真の法則は変化しないが、人やモノは常時変化し、時と場所を介してうつろいゆく、不安定だからである。
 「依法不依人」での「法」、そしてその真意は、真理法則すべてを意味することは言うまでも無かろう。涅槃経に「一切世間の外道の経書は皆是れ仏説にして外道の説に非ず」とあることもそれを示唆している。
 そして仏法は、成仏という最高の幸せへの道を説いた法則であったから、科学が未発達な時代にあっては驚愕なる卓見である。

 そして、当然に、客観的法則を追求する現代科学の発展も、自然なことに、依法不依人が原則になっているのである。

 多くの非科学的ドグマを持つ宗教は、それゆえに、科学の発展とともに、その袂を分けた。
 こうした中でも「依法不依人」は、科学的論理に矛盾する宗教の教学やドグマが、真に正しいか、真実か虚偽かを判定するうえで、重要な判定基準の一つである。

 一念三千の法理など、数多くの仏法の洞察が、科学の発展に耐えうるのは、この原則があるからであろう。

 実際、人々は、自らの生い立ちや立場、権威権力や財産の有無、また所属団体や独自の信念や体験をもとにして、恣意的な目的のために、法を勝手に都合よく解釈し論議・主張する。
 権威・名声・権力・名誉や多数決の世論などが、正義・真理を曲げ、これが歴史的にも繰り返されてきた。
 教授や支配者や会長や法主が言ってるからとか、多数決で決まったから、また、世論だから、正しいのではない。
 また未成年者・乞食・犯罪者・変人・変態者・暴力団などの主張や、くるくる変わる一貫性のない言い分だからと言って、それらが必ずしも虚偽だとは言えないし、かえって真実に基づいていることもよくある話である。

 これらの主張に共通しているのは、依法不依人とは真逆な「依人不依法」となっていることである。
 あくまで、主張の内容が客観的な「法則」に当てはまっているから正しいといえるのであり、依法不依人とはこのことをいうのである。



 仏法といっても、三大宗教といい、科学といっても、結局のところ、人類は、ヘーゲルの言うところの弁証法的な昇華・発展を積み重ねてきたものでしかない。
 その中に、常に一貫していることは、科学は依法不依人の原則のもと、法=真理を発見し構築することが重視され再現を積み重ねてきたが、宗教の組織では、自分たちの都合の良い理論が真理としてまかり通ってきて、受けとめる人によってとらえ方が都合よく解釈され利用されてきたということか。
 そして、自分たちの受け止め方が唯一正しいという信念が、回りの大衆を巻き込んで、それが紛争や戦争まで発展していった。

 そもそも、仏法の創始者である釈迦は、諸行無常・諸法無我を説き、これはアインシュタインの相対性理論や最先端物理学である量子論でも通用し、高度科学文明社会である現在でも矛盾なく受け入れることができる。
 これを受けた日蓮も、諸法実相・依法不依人を前提として、南無妙法蓮華経を定義した。
 それが、歴史を通じていつの間にか、これとは真逆の、「唯一絶対」アニミズムや、「依人不依法」ともいうべき主張が乱立し、日蓮正宗や創価学会も、この中の分子である。
 そして、「唯一絶対」を掲げる他の非科学的宗教の歴史と同様の、互いに争い合う修羅道を演じてきている。
 最初は清流・渓流であったのが、今は濁流・大河である。

 いったい、いつごろから、そして何が原因・きっかけとなって、清流・渓流が、濁流・大河という流れ・事態となっているのか。

 こうした背景からも、すべての主張は「依法不依人」の原則、つまり科学でいう客観性・再現性に立って、なされるべきであり、評価・検討すべきである。


■師弟不二の検討について

 あらかじめ、現時点で判明している史実を概略まとめ、あくまで依法不依人の原則に立って、仏法の範疇に限定した価値判断で、師弟不二と血脈を、賛嘆・評価と批判・指摘の両面から、公平・客観的に検討してみたい。

 師の教えに忠実に従い実行したか。
 師の教えを全て包み隠さず後世の弟子に伝えたか。

 師の教えを時代や科学に合わせて弁証法的に昇華した場合は、師に忠実に従い実行したと考えた。
 逆に、師の教えを曲解し隠蔽したり、自説を流布する為や、都合よく野心・保身等の為に利用した場合は師敵対の行為と判断することにした。

 そして、最終的に、仏法において師弟不二や血脈があるのか、あるとすればそれらがどう流れているかを、検討したいと思う。

 検討できる文献も、部分欠損・判別不能や書写間違い・故意の書き加えや偽造改竄、火事による消失や盗難などで、数々の矛盾が指摘されている。まあ、そういうことは今も変っていない。



 この検討においては敬愛する人物も例や引用として多く含まれているが、一般的な論文形式での検討である故、特別なことがない限り、仏法者・学者・研究者・ジャーナリスト等の方々へは、ともに真実を追究する視点に立った身内として、あえて敬称は割愛させていただいた。また、社会一般に知られた人物、公人とされた人物や文献なども、同様に敬称は割愛させていただいた。
 また、以下に展開するプロローグからエピローグまでは、長文にわたるが一つの論文である故、一つのページや章の中で、引用が大部分を占めることもあることをご了承願いたい。




☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次
P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏ではなかった, 「美作房御返事」の物語るもの, 日興の身延入山時期, 原殿御返事の検討