●5 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」 | ラケットちゃんのつぶやき

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●5 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」

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☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
  です。

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■本尊は「法」

 そのほかにも、人(=釈迦仏など)よりも法=南無妙法蓮華経を本尊とすべきことを述べた、確実に残っている真蹟を多く見ることができる。
 この際だから、法勝人劣を説いた日蓮の真蹟を、ゆっくりとご覧になっていただければ幸いである。

 以下は龍ノ口法難以前の真蹟である。
 一代聖教大意(御書P399)
「法を聞き謗を生じて 地獄に堕つるは恒沙の仏を供養する者に勝れたり地獄に堕つと雖も 地獄より出でて還つて法を聞くことを得ると、 此れは仏を供し法を聞かざる者を以て校量と為り聞いて謗を生ずる尚遠種と為す況や聞いて思惟し勤めて修習せんをや」
《正しい法を聞き誹謗して地獄に堕ちる者は恒河の砂ほど無数の仏を供養する者に勝れている。なぜなら地獄に堕ちるといっても地獄から出て、かえって法を聞くことができる』と。これは仏を供養しながら法を聞かない者と比較して述べたものである。法を聞いて誹謗してさえ法に縁したゆえに下種となる。まして法を聞いて思索し勤習することは、なおさら功徳になる》(日蓮大聖人御書講義5中 聖教新聞社)

 顕謗法抄(御書P452)
「又末代の凡夫はなにとなくとも悪道を免れんことはかたかるべし 同じく悪道に堕るならば法華経を謗ぜさせて堕すならば世間の罪をもて堕ちたるには・にるべからず、聞法生謗・堕於地獄・勝於供養・恒沙仏者等の文のごとし、此の文の心は法華経をはうじて地獄に堕ちたるは釈迦仏・阿弥陀仏等の恒河沙の仏を供養し帰依渇仰する功徳には百千万倍すぎたりととかれたり。」
《また末法の凡夫は、何につけても悪道をまぬかれることがむずかしいのである。同じく悪道に堕ちるのであれば、法華経を誹謗させて堕とすならば、世間の罪によって堕ちることとは大いに異なるのである。「法を聞いて誹謗を生じ、地獄に堕ちたとしても、恒沙の仏を供養するより勝れている」等の文のとおりである。この文の意は、法華経を誹謗して地獄に堕ちることは、釈迦仏や阿弥陀仏等の恒河沙の仏を供養し、帰依渇仰する功徳よりも百千万倍すぐれていると説かれているのである。》(日蓮大聖人御書講義6上 聖教新聞社)

 依法不依人御書
「仏は依法不依人といましめ給へども、末代の諸人は依人不依法となりぬ。」
《釈尊は、入滅近くで「依法不依人」であるぞと戒められたが、末法の人たちは逆に「依人不依法」になってしまった》

 以下は佐渡流罪以後の真蹟である。
 どうして龍ノ口の法難の前後で区切るかといえば、その後、建治四年二月、三沢小次郎あての三沢抄で「又法門の事は、さどの国へながされ候し已然の法門は、ただ仏の爾前経とおぼしめせ」とあり、龍ノ口の法難以前の書簡は方便と考えよとしているからである。(もちろんこれも真蹟が残っている)

 開目抄(御書P204)
「若し法華経ましまさずば・いかに・いえたかく大聖なりとも誰か恭敬したてまつるべき、夏の桀・殷の紂と申すは万乗の主・土民の帰依なり、しかれども政あしくして世をほろぼせしかば今に・わるきものの手本には桀紂・桀紂とこそ申せ、下賎の者・癩病の者も桀紂のごとしと・いはれぬればのられたりと腹たつなり、千二百・無量の声聞は法華経ましまさずば誰か名をも・きくべき其の音をも習うべき、 一千の声聞・一切経を結集せりとも見る人よもあらじ、まして此等の人人を絵像・木像にあらはして 本尊と仰ぐべしや、此偏に法華経の御力によつて一切の羅漢帰依せられさせ給うなるべし」
《もし法華経が説かれないならば、どんなに家柄が高く大聖といわれていても、だれが恭敬するだろうか。夏の桀王・殷の紂王と申すは、万乗の主で土民の帰依するところであった。しかれども、悪政のために世をほろぼしてしまったので、今日でも悪人の手本には桀紂・桀紂というではないか。下賎の者や癩病の者でさえも「お前は桀紂のようだ」といえば、バカにされたと思って腹が立つのである。このように、国王であっても、無徳ならば、だれも崇めることがないのである。千二百の声聞も無量の声聞も、法華経が説かれなかったならば、だれがその名を聞くことがあろうか。またこれらの声聞の出す声も、習うことはないはずである。一千の声聞が一切経を結集したと見る人もないであろう。ましてこれらの人々を絵像・木像にかきあらわして本尊とあおぐわけがない。これひとえに法華経の御力によって一切の羅漢たちは大衆に帰依される身となったのである。》(日蓮大聖人御書講義 開目抄 聖教新聞社)

 観心本尊抄(御書P246)
「然りと雖も詮ずる所は一念三千の仏種に非ずんば有情の成仏・木画二像の本尊は有名無実なり」
《しかしながら結局のところ、これらは一念三千の仏種でないので、有情の成仏も木像・画像の本尊も、何の役にも立たない有名無実である。》

 観心本尊抄(御書P246)
「釈尊の因行果徳の二法は妙法蓮華経の五字に具足す 我等此の五字を受持すれば自然に彼の因果の功徳を譲り与え給う」
《一切の釈尊の因行と果徳の二法は、すべて妙法蓮華経の五字に具足している。
私たちは、この妙法蓮華経の五字を受持することによって、自然に釈尊の因果の功徳を譲り与えられるのである。》<受持即観心のこと>

 観心本尊抄(御書P248)
「其の本尊の為体本師の娑婆の上に宝塔空に居し 塔中の妙法蓮華経の左右に釈迦牟尼仏・多宝仏・釈尊の脇士上行等の四菩薩・文殊弥勒等は四菩薩の眷属として末座に居し迹化他方の大小の諸菩薩は万民の大地に処して 雲閣月卿を見るが如く十方の諸仏は大地の上に処し給う 迹仏迹土を表する故なり、是くの如き本尊は在世五十余年に之れ無し 八年の間にも但八品に限る、正像二千年の間は小乗の釈尊は迦葉・阿難を脇士と為し権大乗並に涅槃・法華経の迹門等の釈尊は文殊普賢等を以て脇士と為す 此等の仏をば正像に造り画けども未だ寿量の仏有さず、末法に来入して始めて此の仏像出現せしむ可きか」
《その本尊の様子(相貌)は以下に記す。
「南無妙法蓮華経という現実世界で、大空に宝塔が占拠している。
その宝塔の中、真の法である南無妙法蓮華経、その左右に釈迦牟尼仏と多宝如来がならび、釈尊の付き人として、上行等の地涌の四菩薩がならび、
文殊や弥勒等の迹化の菩薩が地涌の四菩薩の眷属として末座にいる。
その他、迹化の菩薩や他の世界から来た大小諸々の菩薩たちが、
大地の万民が雲閣や月卿を仰ぎ見るように、ひれふして仰ぎ見ている。
(釈迦牟尼仏と多宝如来、地涌の四菩薩を仰ぎ見て並んでいる。)
 全宇宙から集まってきた諸々の仏たちも大地に座っているが、これはうつろいゆく仮の世界を演じる仏とその舞台を表わしている。
 このような尊極の本尊は、釈尊の在世五十年余りにはまったくなかった。
あるとしても、法華経の八年間で涌出品から嘱累品までの八品の間に限ってである。
 正像二千年の間では、小乗教での仏は、せいぜい迦葉と阿難が付き人であるし、権大乗や涅槃経・法華経迹門等の仏には、文殊や普賢等の菩薩がついているにすぎない。
 これらの仏は、正法・像法年間に造り画かれたが、いまだ寿量品の仏は画かれていない。
 この寿量品文底下種の仏の姿は、末法に入って初めて画かせられるべきか。》

 上野殿御返事(土餅供養御書、文永11年11月11日、身延、御書P1508)
「文の心は仏を一中劫が間供養したてまつるより、末代悪世の中に人のあながちににくむ法華経の行者を供養する功徳はすぐれたりととかせ給う」
《文の心は仏を一中劫の間供養するよりも、末代悪世の中で、人が強く固く憎む法華経の行者を供養する功徳が勝れていると説かれている》

 上野殿御返事(水火二品抄、建治4年2月25日、身延、御書P1544)
「月氏に阿育大王と申す王をはしき…中略…此の大王の過去をたづぬれば仏の在世に徳勝童子・無勝童子とて二人のをさなき人あり、土の餅を仏に供養し給いて 一百年の内に大王と生れたり、〝仏はいみじしといへども 法華経にたいしまいらせ候へば・螢火と日月との勝劣・天と地との高下なり〟、仏を供養して・かかる功徳あり・いわうや法華経をや、土のもちゐを・まいらせて・かかる不思議あり・いわうやすずのくだ物をや、かれはけかちならず・いまはうへたる国なり、此をもつて・をもふに釈迦仏・多宝仏・十羅刹女いかでかまほらせ給はざるべき」(〝 〟は私注)
《インドに阿育大王という王がおられた。…中略…この大王の過去をたずねると、仏の在世に徳勝童子と無勝童子という二人の幼児がいた。二人は土の餅をつくって仏に供養した、その功徳によって百年の後、このどちらかが阿育大王として生まれたのである。
〝仏は尊いというものの、法華経に対比すれば螢火と日月ほどの勝劣があり、天と地との高低差である〟。この、仏に供養してさえこのような功徳があるのだから、ましてや法華経を供養するにおいてはなおさらである。土でできた餅を参上してさえこのような功徳があった。ましてやあなたからの法華経への供養は種々の果物である。土の餅を供養した時、国は飢えていなかった。いまは国中が飢えている。これをもって思うに、釈迦仏・多宝仏・十羅刹女がどうしてあなたを守護しないことがあろうか。》

 上野殿御返事(末法要法御書、弘安元年4月1日、身延、御書P1546)
「今末法に入りぬれば余経も法華経もせんなし、但南無妙法蓮華経なるべし、かう申し出だして候も・わたくしの計にはあらず、釈迦・多宝・十方の諸仏・地涌千界の御計なり、此の南無妙法蓮華経に余事をまじへば・ゆゆしきひが事なり」
《今は末法に入ったので余経も法華経も効果なく、ただ南無妙法蓮華経なのである。こう申し出したのも、私の計らいではない。釈迦・多宝如来・十方の諸仏・地涌千界の菩薩たちの計らいである。この南無妙法蓮華経に余計な修行をまじえるならば、大いなる間違いである》

 本尊問答抄(御書P365)
「問うて云く末代悪世の凡夫は何物を以て本尊と定むべきや、答えて云く法華経の題目を以て本尊とすべし」
《問うて言う。末代悪世の凡夫は何をもって本尊と定めるべきか。
 答えて言う。法華経の題目をもって本尊とすべきである。》

 本尊問答抄(御書P366)
「問うて云く日本国に十宗あり所謂.倶舎.成実.律.法相.三論・華厳.真言.浄土.禅.法華宗なり、此の宗は皆本尊まちまちなり所謂・倶舎・成実・律の三宗は劣応身の小釈迦なり、法相三論の二宗は大釈迦仏を本尊とす華厳宗は台上のるさな報身の釈迦如来、真言宗は大日如来、浄土宗は阿弥陀仏、禅宗にも釈迦を用いたり、何ぞ天台宗に独り法華経を本尊とするや、
答う彼等は仏を本尊とするに是は経を本尊とす 其の義あるべし、
問う其の義如何仏と経といづれか勝れたるや、答えて云く本尊とは勝れたるを用うべし、例せば儒家には三皇五帝を用いて本尊とするが如く仏家にも又釈迦を以て本尊とすべし」
《問うていう。日本国に十宗ある。いわゆる倶舎・成実・律・法相・三論・華厳・真言・浄土・禅・法華宗である。これらの宗は、皆、本尊がまちまちである。例えば、いわゆる倶舎・成実・律の三宗は劣応身の小釈迦を、法相・三論宗の二宗は勝応身の大釈迦仏を本尊としている。華厳宗は蓮華台上の廬遮那報身の釈迦如来、真言宗は大日如来、浄土宗は阿弥陀仏を本尊とし、禅宗にも釈尊を用いている。どうして天台宗だけが法華経を本尊とすのか。
 答えて言う。彼ら諸宗は仏をもって本尊としているのに対し、天台宗が経を本尊とするのは、根拠となる道理がある。
 問うて云う。その根拠となる道理とは一体何か。仏と経とは、どちらがすぐれているのか。
 答えて言う。本尊とは勝れたものを用いるべきである。たとえば儒家では三皇五帝を用いて本尊としているように、仏家においては、釈迦をもって本尊とすべきである》

「問うて云く然らば汝云何ぞ釈迦を以て本尊とせずして法華経の題目を本尊とするや、答う上に挙ぐるところの経釈を見給へ私の義にはあらず 釈尊と天台とは法華経を本尊と定め給へり、末代今の日蓮も仏と天台との如く法華経を以て本尊とするなり、其の故は法華経は釈尊の父母・諸仏の眼目なり釈迦・大日総じて十方の諸仏は法華経より出生し給へり 故に今能生を以て本尊とするなり」
《問うていう。そうならば、なぜあなたは釈迦を本尊とせず、法華経の題目を本尊とするのか。
 答えて言う。前述の経釈を見たまえ。それは私が勝手に立てた道理ではない。釈尊と天台大師とが法華経を本尊と定められたのである。末法の今の日蓮も、仏と天台大師と同じように、法華経をもって本尊とするのである。なぜなら、法華経は釈尊の父母、諸仏の眼目であり、釈迦・大日如来等、総じて十方の諸仏は法華経より出生したからである。故に今、能生の法である法華経をもって本尊とするのである》


 三沢抄(佐前佐後抄、御書P1489)
「又法門の事はさどの国へながされ候いし已前の法門は・ただ仏の爾前の経とをぼしめせ、此の国の国主我が代をも・たもつべくば真言師等にも召し合せ給はんずらむ、爾の時まことの大事をば申すべし、弟子等にもなひなひ申すならばひろうしてかれらしりなんず、さらば・よもあわじと・をもひて各各にも申さざりしなり」
《また法門のことは、佐渡の国へ流される以前の法門は、ただ釈迦の爾前経と思いなさい。以前は、この国の国主が我が代を維持しようとするならば、私を真言宗の僧等に召し合わせられるであろう。その時に、本当の大事を言おう。予め弟子等に内々に言うと、披露して彼等に知られてしまう。そうなれば、彼らは逃げて、決して会おうとしないだろう、と思って誰にも言わなかったのである》

「而るに去る文永八年九月十二日の夜たつの口にて頚をはねられんとせし時より・のちふびんなり、我につきたりし者どもにまことの事をいわざりけるとをもうて・さどの国より弟子どもに内内申す法門あり、此れは仏より後迦葉.阿難・竜樹.天親・天台.妙楽・伝教.義真等の大論師・大人師は知りてしかも御心の中に秘せさせ給いし、口より外には出し給はず、其の故は仏制して云く「我が滅後・末法に入らずば此の大法いうべからず」と・ありしゆへなり、
日蓮は其の御使にはあらざれども其の時剋にあたる上・存外に此の法門をさとりぬれば・聖人の出でさせ給うまでまづ序分にあらあら申すなり、而るに此の法門出現せば正法・像法に論師・人師の申せし法門は皆日出でて後の星の光・巧匠の後に拙を知るなるべし、此の時には正像の寺堂の仏像・僧等の霊験は皆きへうせて但此の
大法のみ一閻浮提に流布すべしとみへて候、各各はかかる法門にちぎり有る人なれば・たのもしと・をぼすべし」
《しかしながら、去る文永八年九月十二日の夜、竜の口で頚をはねられようとした時から後は、不便だった、私についてきた人達に、本当のことをまだ言わないでいた!と思って、佐渡の国から弟子達に内々に申し伝えた法門がある。これは仏以後、迦葉・阿難・竜樹・天親・天台大師・妙楽大師・伝教大師・義真等の大論師や大人師は知りながらも、しかも心の中に秘め、口外されなかったものである。その理由は仏が制止して「私の死後・末法に入らなければ、この大法は言ってはならない」と言われたからである。
日蓮はその御使いではないけれども、ちょうどその末法の時にあたっているうえ、思いがけずにこの法門を悟ったので、聖人が出現されるまで、まず前ぶれとしてあらあら説くのである。しかしながら、この法門が出現すると、正法時代や像法時代に論師や人師の説いた法門は、みな日が出た後の星の光、巧匠のあとに拙さを知ることとなろう。この時には正法時代や像法時代の寺堂の仏像や僧等の霊験はみな消え失せて、ただこの大法のみが一閻浮提に流布するであろうと見えている。あなた方はこのような法門に宿縁のある人なのだから、頼もしいと思うべきである》

その他にも、
兄弟抄
法連抄
高橋入道殿御返事
高橋殿御返事
国府尼御前御書
撰時抄
南条殿御返事
宝軽法重事
松野殿御消息
四信五品抄
乗明聖人御返事
下山御消息
千日尼御前御返事
九郎太郎殿御返事
窪尼御前御返事「法華経は仏にまさらせ給ふ事、星と月と、ともしびと日とのごとし」
秋元御書
上野殿母尼御前御返事
諫暁八幡抄
曽谷二郎入道殿御報
 がある。

 では、日蓮は佐渡以前の鎌倉の草庵においては、釈迦仏を具体的な本尊としていたが、佐渡以降は、神国王御書で、これを方便として退けた。
 そして、本尊は法=南無妙法蓮華経(を描いた曼荼羅)に変わり、それ以降、最後まで貫き通したのであった。



■生命の形而上学的考察

 以上も含め、仏法全般、とりわけ法華経を基本として見渡し、万物、あらゆる生命の実相を形而上学的に考察したら、次のようになる。

 時空を貫く自身の生命の統一性・一貫性と、万物の現象における因果を、ともに絶対的なものとして受け入れれば、、死後の生命も存続、輪廻を証明することとなる。
 科学的に再現性を証明することは不可能だが、少なくとも哲学的道理としては、思考実験により実証可能だろう。
 これに、仏法そのものの分析であった諸法無我を基本とすれば、生命の実相は、各自の自覚の有無にかかわらず、各自の「法則」そのものとなる。
 いや、言い換えれば、「法則」そのものとしか、残らない。
 つまり、統一性・一貫性をもって常住・不変・普遍なのは、自身という「法則」なのだ。
 この法則自体は、自動再生する法則である。
 自動再生しながら、その再生を「業}として自身の法則内に自動記録しつつ、一瞬一瞬、自動再生し続ける。
 この一瞬の状態を「一念」とした。
 この独自の法則が、自身以外の万物すべてをリソース(資源)とし、縁として、動的・静的に自動再生され続けている。
 自身以外の万物すべても、それぞれ独自の法則によって再生され、互いに関連・共有しあっているということになる。

 これは、身近なことでは、スマホやPCを立ち上げた際の、自動認識機能の付いたOS上のアプリ(プログラム)に譬えることができる。
 プログラムを自動再生しながら、ログ(経歴)やお気に入り、個人情報・課金情報・電子マネー残高など、様々な履歴を記録していく。
 そしてその情報を基にIT上から情報を集め実行・記録されていく。
 そして、リソースとなるスマホやPCを新機種に乗り換えても、条件さえ合えば、再びアプリは稼働し、または別のアプリとして稼働し、積み重ねた記録情報は確実に受け継がれていく。
 こうして、受け継ぐことができれば永遠にアップデートしながら再生していく。
 自己複製・拡散することをみれば、ウィルスも同様である。

 話を生命というプログラムに戻す。
 自分自身の生命という「法則」は、そもそも存在・非存在も含めた「空」がリソースである。
「宇宙大の生命」「慈悲と英知にあふれた大生命」などと、どこかの団体が盛んに言及しているが、そのリソースの大きさは、そんな「ちっぽけなもの」ではなく、超宇宙大、∞無限大である。
 また、それは元々自分自身の「胸中の肉弾におはします」のであって、対境となる物的な曼荼羅に「内在」するものではない。


 天台本覚思想では、自身独自の法則とは法身に相当し、リソースとして、動的・静的に再生された状態は、報身・応身に相当するだろう。

 感覚のある生物だけでなく、無感覚の素粒子から、ビッグバン宇宙、そしてその他の観測不可能な無数の宇宙にいたるまで、また、悠遠の過去から永遠の未来にわたるまで、時空を超えた、本有のありさまを、「一念三千」という表現とし、その状態・法則を、喝破したのだろう。

 けっして唯一絶対者、創造主、完全無欠のブッダ、久遠実成の釈尊、本仏、これらに類する実体が、存在するわけではない。
 むろん、後世が言うところの、御本尊の仏力・法力なども同様に存在しない。
 むしろ、原始仏教から法華経、また日蓮に至ってまでも、こういった架空の実態を想定したのは、感覚のある生命を、つまり迷える凡夫を、ある方向、いわば成仏という状態へ確実に誘導する手段に過ぎなかったのだ。
 まさに、法華経寿量品における「良医の比喩」と同じ原理・方策を、日蓮も用いていたのである。


 日蓮が、自覚し目標とした人物像は上行菩薩だった。
 上行菩薩は、かつて師匠であった久遠実成の釈尊が成仏した過程を一部始終見ていて、その法則も知っていた。
 日蓮は、その法則、修行法こそが、南無妙法蓮華経(法華経という法則に南無すること)であったことを、理論立てて実践した。
 自分の創作ではない、法則なのだとして。
 そして、あくまで師匠から受け継いだもの(=血脈)として。
 この信念があったから、法華経に一生を捧げて権力に媚びず清貧を貫き、一歩も隠れたり退くことなく、また、入滅前の闘病中も最後の最後まで弟子たちに立正安国論を講義した。
 日蓮によれば、その架空である仏法上の師匠、久遠実成の釈尊が、修行して幸福を追求した、最終目的である「成仏」を成し遂げたとされる法が、南無妙法蓮華経である。

 そして、師とした久遠実成の釈尊は、実は、自らの生命が作り出した仮想・理想像(荘厳・無謬・完全無欠・絶対性)だったが、それも想定済みだった。
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」(諸法実相抄、御書P1358)と説いて、凡夫の側から、自らの成仏や救済のために荘厳な釈尊を空想したのだと暴露した。
 つまり、これまでの仏法が、実は道理ではなくアニミズムだったと言っている。
 
 だから、現実には御本尊は、そういった「曼荼羅」の側ではなく、「南無妙法蓮華経と唱える人」自体の「胸中」にあると、きちんと門下に指導していたのである。
「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり](日女御前御返事(本尊相貌抄) 御書P1244)



■日蓮の目指す成仏

 ここで、改めて日蓮の教えを総合してみてみよう。

 日蓮の教えは、法=南無妙法蓮華経への帰命であり、法が本尊である。
 これは法華経の肝心であって、久遠実成の釈尊を成仏せしめた根本法則である。
これは、木造・絵像・曼荼羅などに代表される偶像崇拝を、完全否定するものである。
 また仏を、超自然的な者・絶対者としてみなすものではなく、仏は自分のほうに存在していて、即身成仏をめざす自己即仏なのであり、法も、超自然的な法・魔法や呪術法ではなく、諸法実相、つまり現実法則そのもの(=南無妙法蓮華経)なのである。

 法が本尊であることは、行動の内容自体ではなく、法を信じて行動をどのように意義付けするかが重点となる。
 成仏の場を、非日常ではなく日常自体に置く。
 法に対する信仰だから、衆生と日蓮とは本質的に差別はなく、同等である。
 つまり、私と日蓮、あなたと日蓮は、同じ人間であり、差別はない。成仏した久遠実成の釈尊も同等である(生死一大事血脈抄)。
 異なっているのは境涯、努力し続ける境涯だけとなる。
 成仏に向かって修行する主体は、あくまで自分自身、衆生の側にある。
 それは、日蓮の生き方を、自分の生き方の模範として取り入れ、役立てていくことにほかならない。
 日蓮が、人間離れした超能力を持っていて、凡夫ではなし得ないことを成し遂げたとするなら、私たちがそれに感涙することはあっても、私たち衆生とは無縁の人間である。
 しかし、そのような超能力者・完全無欠のスーパーマンは、ドラマの世界でしか存在しない。
 日蓮が、私たちと同じ、ごく普通の人間であって、喜怒哀楽・四苦八苦に悩む日常を送っていた、誤り多き人間であったからこそ、かけがえのない先輩として、指導者として尊敬できるのである。
 法を、南無妙法蓮華経を徹底して実践し、自身の極限にまで挑戦し続けたからこそ、その生涯にわたる行動は、私たちにとって意味があり、聞くだけでも価値がある。
 日蓮の生き方の中から、南無妙法蓮華経の何たるかを得て、自分の生き方に取り入れていく、これが成仏へ向かっていく、法への信仰である。
 けっして人=日蓮を、完全無欠の人間として崇め、すがることではない。
 日蓮の指導も、後述する「罰論」のように、時と場所によっては誤った指導とも受け止められる事項もあるのである。

 そして、規格・形式や化儀も、もともと日蓮の時代にも存在しなかったことでもあって、修行や信仰はマイペース、つまり自分に最も合ったものでよい。
 日蓮の教えの基本理念さえ自覚があれば、自由に決めていいのであって、そしてそれが最高なのである。
 特定の教団や組織の定める修行や形式は、たしかに参考にはなるが、単にそれだけのものであって、ただひとえにそれに所属したり、会合に参加するための条件に なっているだけである。
 自分一人の場所・時間では、必ずしもこれに従わなければ法への信仰ができないことは、決してないのである。
 他力本願の信仰なら、様々な規定や掟が定まっていて、画一的・企画的・形式的となる。
 しかし、この教えは法への信仰なのだから、完全な自力の法門であるので、そんな規定などは本来無いのである。
 後の大石寺門流、日蓮正宗は、人本尊・法本尊を人法一箇を立て、身延派は釈迦像をたてた。
 人や釈迦像を本尊に立てると、信仰者である人は、これに絶対的に帰命・依する、これを絶対者として拝むことになり、必然的に本尊と人との差別が生まれ、他力本願(アニミズム)となり、不満の責任転嫁へとつながっていく。
 これが、後世の誤った理解を伝える(後述する)日蓮教団同士の争いごとの一原因にもなっている。
 法を本尊とするのは、本尊と人との差別は発生せず、平等であって、完全な自己責任・自力の法門である。
 そして、他力本願・自力本願は、どちらも本願であるので、本質的には両立しえない。
 どちらを本願、すなわち基本的信仰姿勢とするかであるので、両方ありという表現、人法一箇などというのは本来有り得ない法則である。
 そして、末法、とりわけ科学が発達した現代においては、自由平等、人権思想、自己選択・自己責任が重んじられる時代なのであり、このようにしなさい・あのようにせよというような、仏(絶対者)が衆生を一方的に教化するという「化他」の修行は、釈迦自身が法華経で予言したように、時代遅れなのである。



■究極の目的「成仏」とは、いったい何なのか。


 改めて振り返ってみよう。
 原始仏教では、十界は歴劫修行によって、輪廻を繰り返しながら一段階づつ上がっていくものとされ、阿羅漢(声聞・縁覚、二乗ともいう)が最高であり、女性も成仏できないとされてきた。
 これらは、最初にアニミズムを否定した釈迦が、衆生の主観的救済の方便としてアニミズムを復活させ用いたものであった。
 法華経に至って初めて、二乗や女性、菩薩の成仏が説かれ、これを形而上学的にまとめたのが天台の一念三千であり、彼はこの成仏を観念観法(瞑想)によって悟る。
 末法においてはこれも効果が消失すると予言されたが、日蓮が南無妙法蓮華経の唱題行(受持即観心)として、見事にこれをよみがえらせた。
 成仏という目標を、アニミズムから脱して客観的現実変革として明かした。

 ならば、日蓮が究極の目的とした、その「成仏」とは、いったい何なのか。
 自ら自覚した弟子としての上行菩薩、師とした久遠実成の釈尊まで、結局は仮想・理想像と織り込み済みだった日蓮にとって、最終的にたどり着いていた「成仏」とは…?
それまで仏法上での常識だった天台の一念三千のなかで、最高・究極の悟りの境涯である仏界に至ること。
 「九識心王真如の都」とまで讃嘆した仏界とは?
 これは、諸法実相の原理からすれば、迷いと悟りの違いという、「成仏」とは、形而下における、具体的、科学的、客観的には、どういうことになるのだろうか。
 創価学会や日蓮正宗など、多くの日蓮教団が、仏界を、言葉に言い表せない境涯といってごまかし、明確に「科学的・哲学的理論」として語ってこなかった「仏界」とは?
 文化的生物として繁栄している人類の一人ひとりにとって、前述の日蓮が遺文によって示したことを総合して推定しうる、整合性のとれた、科学的仮説としても耐えうる「成仏」とはどんなことか。


 このことは、日蓮の義浄房御書に明確な解説がある。
 ここでは、下記のように、寿量品自我偈の「一心欲見仏 不自惜身命」という凡夫の姿を「仏」と説明している。

「寿量品の自我偈に云く「一心に仏を見たてまつらんと欲して自ら身命を惜しまず」云云、日蓮が己心の仏界を此の文に依つて顕はすなり…中略…
一心に仏を見る心を一にして仏を見る一心を見れば仏なり」
(義浄房御書(己心仏界抄) 御書P892)
《如来寿量品の自我偈「一心に仏を拝見しとうとして自ら身命を惜しまない」とある、日蓮の己心の仏の境界を、この文によって顕すのである。…中略…
一心に、仏を見ようとする。心を一つにして仏を見ようとする、そういう『一心』の状態が見られれば、それが『仏』である」ということである。》

 つまり、九界の衆生である、未完成な状態の凡夫の、「心を一にして、ただひたむきに仏を見ようとする(=限りなく完成(完全無欠)へ向かって努力する)」一念、これを「仏界」としているのである。


 それは、一瞬一瞬の一念(肉体的・精神的そして社会的、すべてにわたる生命境涯)が、
凡夫のまま、どこまで修行し向上しても依然として未完成なままだが、限りなく「完全無欠の完成」へ向かうことそのものを、伝統的な仏法、とりわけ天台教学を借りて、成仏という最終目標として示している。

 簡潔に言うと、限りなく完成(完全無欠)へ向かう未完成な状態の一念。
未完成という状態ながら完成へと目指す「一念」をもって、完成(成仏の姿、実相)とした。

(「一心欲見仏 不自惜身命」は、すなわち、私たち創価学会員が毎日勤行をして読んでいる、お馴染みの自我偈である。この続きが「時我及衆僧 倶出霊鷲山」(=その時に仏が僧と共に霊鷲山に出現する)であり、この部分はまさに、成仏の生成の比喩表現なのである。ここで、霊鷲山とは、自身の九界の生命、一念三千である)

 もう一度繰り返そう。
 仏(完全無欠、無謬で荘厳され完成された人格)を、一心に自己の中外に見出そう、目指そう、仏という完成のゴールを開こう、こうしたただひたむきに追求する一念の姿、そしてそのためには命をも惜しまない、ましてカネや財産や名誉などはなおさら惜しまない、全てを捨てて命を懸けて、何としても見たい、少しでもそこへ限りなく近づいていこう…こういった姿である「一心欲見仏 不自惜身命」の一念が、すでに「仏界」つまり完成、現実においての「成仏」と表現した、まさに、この世に生まれてきた真の幸せというゴールというのだ。

 単純明快に言えば、現実に、全てを捨ててもかまわない覚悟で、法を信じて修行し続けている一念自体が、日蓮がたどり着いた「成仏」である。

そして、これは、現実変革を伴わない単なる「主観的な満足(救済、功徳ともいう)」ではなく、大小の差はありながらも「客観的」な効果が確実に表れ続けるという、現実変革をもたらすのである。

(な~んだ、と、多くの人は落胆するかもしれない。
手品の種明かしのようだ。)


 こうして日蓮は、、末法以前の一念三千では、自ら「九識心王真如」とまで讃嘆した仏界を、末法において始めて現実に即して、「仏界即九界」・「九界即仏界」としたのである。
 つまりは、九界(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩という現実の姿・境涯)の中での修行そのものを「仏界」とした。
 そして修行そのものとして到達する「仏界」も、九界の姿となって現れるとしたのである。
 さらに掘り下げて、九界での様々な煩悩も仏界の現れ(煩悩即菩提)、生死の姿も仏界を知ること(生死即涅槃)としたのである。


 これが「観心とは我が己心を観じて十法界を見る」(観心本尊抄)であって、その方法が「受持即観心」となっているのである。

「大倫盗の者、大謗法の者」「白癩黒癩等の重病」など、盗みや病気、様々な苦しみに喘ぐ姿の「地獄界」、名聞名利や際限のない欲望を追求するが満たされないで苦しむ「餓鬼界」、「強気を恐れ弱きを脅す」「父母兄弟姉妹を簡ばず妻とし、夫と憑ば畜生道」つまり本能の赴くがままの「畜生界」、常に他に勝つことのみに執着し、「腹あしき者」「下剋上・背上向下」、媚び諂い面従腹背の「修羅界」、欲が一時的に満たされた状態の「天界、悟ったとした我見で悦に入る「声聞・縁覚界」、このような九界でも、九界のどの状態であっても「仏界」を目指そうとすることでもって「仏界」が湧現する。(九界即仏界)
 そして、その仏界は、改めて限りない智慧と慈悲をもって、自身の現在の生命状態を見つめなおし、その状態のまま新たな向上・行動へとつながっていく(仏界即九界)

(注、上記「 」内の文言が述べられた日蓮遺文は、以下の通りである。

「大偸盗の者大謗法の者其のとがを論ずれば 提婆達多も肩を並べがたく 瞿伽利尊者が足も及ばざる閻浮第一の大悪人なり…中略…我が身は科なしとおもへり無慚無愧の一闡提人なり」(下山御消息、御書P349-361)
「現身には白癩黒癩等の諸悪重病を受け取り 後生には提婆瞿伽利等がごとく 無間大城に堕つべし」(神国王御書、御書P1525)
「悪瘡身に出て三月の七日・無間地獄に堕つ」(善無畏抄 御書P1252)
{飢渇発れば其の国餓鬼道と変じ疫病重なれば其の国地獄道となる軍起れば其の国修羅道と変ず」(筒御器抄、御書P1074)
「畜生の心は弱きをおどし強きをおそる当世の学者等は畜生の如し智者の弱きをあなづり王法の邪をおそる」(佐渡御書 御書P957)
「父母・兄弟・姉妹をば簡ず妻とし夫と憑めば其の国畜生道となる、死して三悪道に堕つるにはあらず現身に其の国四悪道と変ずるなり」(筒御器抄、御書P1074)
「腹あしき者をば天は守らせ給はぬ」(崇峻天皇御書 御書P1171)
「日月を射奉る修羅は其の矢還つて我が眼に立ち師子王を吼る狗犬は我が腹をやぶる…中略…東大寺興福寺を焼きし清盛入道は 現身に其身もうる病をうけにき」(神国王御書、御書P1525)
「下剋上・背上向下は国土亡乱の因縁なり」(善無畏抄 御書P1234)
「一切は現証に如かず」(教行証御書))


 だから、科学的・哲学的には
「成仏とは、限りなく完成へ向かう未完成な状態の一念」
と、明確に表現できるのである。
 日蓮は、これを即身成仏、これをやり続けることを一生成仏と示したのである。
(まさに、科学の未発達な封建時代に)

 釈迦在世から正法・像法時代では、アニミズムによる救済で、衆生は満足するしかなかった。

 いや、科学が未発達なので、逆にそれで十分な満足を得ていたといえる。

 まさに、方便であるアニミズムによる満足が得られるのが、人類の科学が未発達な正法・像法時代であった。
 しかし、末法以降になると、釈迦の教えの効力がなくなるという予言は、科学や文明の発達によって、アニミズムによる救済効果が薄れ消滅するであろうとの予言であって、見事に的中することになる。
 これは、日蓮仏法に限らず、古今東西、他の優れた宗教や近代の哲学の中でも、似たような結論がある。
 つまり、こうした時代経過とともに科学・文明が発達することをあらかじめ想定した観点で見れば、日蓮の「法」への教えは、仏法の教えの中ではびこっていた架空・方便の教えにすぎない有害なアニミズムやシャーマニズムの、全否定と克服だったのである。
 それが、「念仏無間・禅天魔・真言亡国・立国賊」という四箇格言に、端的に表現されているのである。
 日蓮の教えは、「法」への帰命により、限りなく完成へ向かうことを指向したのであり、アニミズム時代での目標であった「成仏」の正体を、「一心欲見仏 不自惜身命」(未完成ながらも限りなく完成へ向かう一念)と述べたのである。


 ここで注意すべきことは、成仏の修行と、個人的な祈祷とは、まったく次元が異なることである。
 創価学会員をはじめ、多くの仏法者は、祈りと修行を混同している。
成仏への一念は、法への帰命の一念であって、自分の勝手な願望の成就を念じることではない。
 願望を念じること、すなわち「祈り」は、あくまで祈祷であって、完成へ向かうこととは別次元である。
今、己の勝手な願望を念じることを「祈り」と言ったが、その内容によっては「呪い」となることは、説明がいらないであろう。
 この、自分の勝手な願望は雑念であって、一念の中にこの雑念が現れた時点で、その一念は、日蓮の言う「心を一にして仏を見る一心」ではなくなる。
 私たちは凡夫だから、唱題中でも、ついつい願いという雑念が生じて、完成へ向かう一念から外れることもよくあることだろう。

 そして、そもそもその一念が外れた時の唱題(本来の唱題ではなくなっている=祈祷)であっても、願いの内容が、限りなく完成へ向かう内容(成仏の内容)かどうか、もしくはこれに近いかどうかが問われるのではあるまいか。
 つまり、単なる己の欲望を満たすための祈りか、高尚な成仏への志向か。
同じ、南無妙法蓮華経と唱えている一念でも、その内容が問われているのであり、それが因となり現証となって厳然と顕れるのである。


 日蓮教団の中で、もっぱら「祈りは必ず叶う」「具体的に祈ってみなければわからない」などと呪術的な言い逃れをし、こういった明確な科学的言及・解説がなされてこなかったのは、科学と袂を分かち、信教の自由が保証された戦後以来も、旧態已然として、他宗・他教団との差別化・尊厳化や我田引水のために手品の種と同様な秘伝としたか、さもなければ、日進月歩する科学・文明に対して教学自体への理解が至らなかったためであろう。


 話を戻して、前述の遺文から言えることは、
日蓮は、そのことを、60年という生涯、戦いの連続であった生涯を通じて、自身の思索と自覚と行動を積み重ねながら獲得し、まさに晩年、死去するその年になってまで、法華経の依文を根拠に少しずつ門下に言い残していたのである。

 「限りなく完成へ向かう未完成な状態」を、究極の「成仏」として指向した修行法則。
 永遠に、その法則は、完成(完全無欠)でなく、様相は相対的だから、「南無妙法蓮華経」という表現は変わりゆくことだってありうるし、別の方法も探求され解明される可能性もある。
 現に、他の方法もあるかもしれないし、究明され実践されている集団が世界中に存在するかもしれない。
 そして、仮に同一の表現ではあっても、個別の意味する内容では常にアップデート、バージョンアップしゆくことになる。
 そして不思議にも、これは、現代科学の発展する姿と同一である。

 だから、それを説く日蓮教学自体も、依法不依人を原則として、永久にアップデートし続けなければならないことになる。

 ただ、まことに科学が未発達な時代に、ここまで到達していた、まさに驚愕の境地といえる。



P6へ、続きます。

☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次(リンク付き)

P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏ではなかった, 「美作房御返事」の物語るもの, 日興の身延入山時期, 原殿御返事の検討