●7 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった, 日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討 | ラケットちゃんのつぶやき

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●7 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった, 日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討

 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
 です。

 ページ末に目次(一部リンク付き)を掲載しております。



■日興の師弟不二、日興は、日蓮本仏論ではなかった


 日蓮は、あくまで久遠実成の釈尊の説いた法華経の肝心=南無妙法蓮華経を、曼荼羅にそのまま描いた。(「是全く日蓮が自作にあらず 多宝塔中の大牟尼世尊分身の諸仏すりかたぎたる本尊なり」(日女御前御返事(本尊相貌抄)P1243)とあるように、日蓮自身でさえ、自分の作でないとしている。
 虚空会において上行菩薩(地涌の菩薩)の持っていた法華経の肝心=南無妙法蓮華経は、元々久遠実成の釈尊から相承したものだった。
 だから、一連の流れで見れば、日蓮自身が自分の作でないと言っている以上、日蓮の師はあくまで久遠実成の釈尊であって、彼が弘めた南無妙法蓮華経も釈迦仏法の法則、従来通り釈尊の仏法だったことになる。
 日興は、地頭の波木井実長が釈迦像を建立したのを謗法とみなし、身延を離山したことも、生身の釈迦を本仏としなかったことの証拠である。

 日蓮は主師親三徳を備える仏だったといえるが、弟子はあくまでも弟子であり、師匠ではないから、日寛がいうところの「御本仏」とはいえない。

 また、日蓮は開目抄で、自身を「しうし父母なり」(開目抄)としているが、同時期の「祈祷抄」、その後述べられた「撰時抄」「曽谷殿御返事」「頼基陳情」「下山御消息」で、明確に釈尊を主師親三徳を備える本仏、教主釈尊としている。

 当時、日蓮を師とする日興は、当然にこの立場だったから、日興にとって日蓮は「本仏」ではなかった。
 つまり、現在でいうところの「日蓮本仏論」を唱えていなかった。
 日興は、敬慕の念からくる日蓮への信仰はあったかもしれないが、
「日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来」(原殿御返事、御書P1731)とし、
久遠実成の釈尊を「教主」(=師)と受けとめている。
 現実には日蓮が釈迦像を常に携帯していたにもかかわらず、それを崇拝してないことは明らかで、日興が、「釈迦本師論」というべきであったこと、生身の釈迦を本仏としていなかったことは、その著作「原殿御返事」や、行動としての身延離山でみても明らかだ。


 その後の日興門流の歴史を見てみよう。

 日蓮は、入滅に先立つ弘安5年10月8日、六老僧を本弟子に定めた。
日興が記録した「宗祖御遷化記録」には「弟子六人事不次第」とある。


「宗祖御遷化記録」には、
「   定
  一、弟子六人のこと 不次第
一、蓮華阿闍梨日持
一、伊与公 日頂
一、佐土公 日向
一、白蓮阿闍梨日興
一、大国阿闍梨日朗
一、弁阿闍梨 日昭
右六人は本弟子也 仍って向後の為に定むる所件の如し
 弘安五年十月八日」


 そして、日蓮の葬儀も長老の日朗・日昭により執り行われたとなっている。
 ちなみに、その2年も前の弘安3年の百六箇抄成立時点で、日蓮が日興を「予が入滅の導師として寿量品を始め奉る可し」と定めたというのは事実に反する。

 この「弟子六人事不次第」について、「日蓮正宗創価学会批判を破す」(創価学会教学部編、鳳書院)P207には、列名の順位が法﨟順(注、入門の新しい順)になっていること、その後長老の日昭・日朗が師敵対となったとして、「大聖人があらかじめ法﨟の長さをもって勝手にしてはならない、一同に平等であるぞ、…中略…その大聖人の御精神は、日昭・日朗を押え、日興上人へ御相承をなされるお考えで、その用意をなされたものと拝されるのである」と、歴史的根拠のない主張を述べ、また続いてP208に「それを六弟子に平等に付嘱された…中略…という珍説をはくにいたっては、開いた口がふさがらない」と、品のない反論をしている。
(ちなみにこの書は、「唖呆」(P236)、「習いそこない」「気違いじみた」(P242)など、下品で差別的な用語を用い、相手を無礼にも罵倒・中傷する個所が少なからずあり、全体としては上から目線で、一般人にとっては読むにたえない書であろう。
 ただ、当時、創価学会会長であった池田大作が、昭和37年4月2日「教学部教授の黒柳明君に命じて編集を一任し、予が校閲の上、ここに公刊」したとの序文もある、当時の創価学会の折伏の様相の一片をうかがい知ることができる資料である。
 創価学会員にとっては痛快に思えるのであろう。
 かつて、私も同様であった。
 引用部分は、あくまで依法不依人の観点から、論旨のみを汲み取っていただきたい。)


 葬儀の後、日蓮の墓所輪番が決められた。

「御遺言に云わく
仏は(釈迦立像)墓所の傍に立て置く可し云云
経は(私集最要文注法華経と名づく)同じ籠にして墓所の寺に置き六人香花当番の時之れを披見す可し」(日興)

「   定
墓所守る可き番帳事 次第不同
 正月 弁阿闍梨(日昭)
 二月 大国阿闍梨(日朗)
 三月 越前公、淡路公
 四月 伊予公(日頂)
 五月 蓮華阿闍梨(日持)
 六月 越後公、下野公
 七月 伊賀公、越前公
 八月 伊賀公、筑前公
 九月 白蓮阿闍梨(日興)
 十月 但馬公、郷公
 十一月 佐渡公(日向)
 十二月 丹波公、寂日房
右番長の次第を守り懈怠なく勤仕せしむ可きの状件の如し。
  弘安六年正月日」


 ところが、ここで、墓所のそばに置くべきとされたという、日蓮が生涯携帯していた「釈迦の立像仏は日郎が、注法華経は、日朗が、盗み取っていった」(日蓮正宗創価学会批判を破すP213)


 その後のことは、日興の弟子分帳には「故聖人の御弟子六人の中に五人は一同に聖人の御姓名を改め天台の弟子と号し爰に住坊を破却せられんと欲するの刻天台宗を行じて御祈禱を致すの由、各々申状を捧ぐるに依って破却の難を免れ了ぬ」
と記されている
 五老僧(日興以外の五人)は幕府の日蓮門下に対する住坊破却の脅迫に負けて自ら「天台沙門」と名乗る申状を幕府に提出するとともに、天台宗として異国調伏の祈禱を行うに至る。(日蓮大聖人御書講義 別巻)

 一方、日蓮の百ヵ日以降、一周忌法要が五老僧たちにより池上でなされ,六老僧が日蓮滅後一周忌に池上にて、日昭の執筆で御書百四十余軸を得たことが「御書目録日記之事」に記されている。ここには六老僧の判形もある。
 これは、日蓮正宗や創価学会教学では、日蓮聖人遺文の散逸を防ぐためと語られてきたが、それだけではない。
 ここには、
「無道心の悪人等有つて、恣に謀書を作り、聖人の御書と称して一切衆生を誑惑する者」があるから、ここには「目録に入るべからず」と、六老僧が連判しているのがみられる。
 しかも、この文の予言は、見事に的中した。
 日蓮教団が紛争・分裂し、それぞれの各門流の正当性を主張するために、偽書や改竄などがなされ、今日の混乱を招いているのである。

 このことは、日蓮正宗に代々伝えられている身延相承書と池上相承書(二つ合わせて二箇相承書)や、本因妙抄、百六箇抄など、また、後述する板マンダラ、またこれらを含む史実の解釈などが、自分たちの唯授一人血脈を主張する根拠として、後に偽書、捏造などとして、作成され、伝えられたこと、そして今日の発達した科学的鑑定を基にした学問的研究によって、はかなくもそういったことが証明されていることで、雄弁に物語っているのである。


 ここで、例として日教書写の二箇相承書をあげておく。
 日叶(日教の改名前)の「百五十箇条」にみられる二箇相承

(身延相承書部分)
「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立すべきなり、時を待つべきのみ・事の戒法とは是なり、中んずく我が門弟等此の状を守るべきなり。
弘安五年壬午九月十三日、血脈の次第・日蓮・日興、
甲斐の国波木井郷、山中に於いて之を図す」

(池上相承書部分)
「釈尊五十年の説教、白蓮日興に相承す、身延山久遠寺の別当たるべし、背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり
弘安五年壬午十月十三日            日蓮在御判
武州池上」(富士宗学要集2、P182-183)


 対して、左京日教へ改名後の「類聚翰集私」では、

(身延相承書部分)
「釈尊五十年余年の説教、白蓮日興に之を付属す身延山久遠寺の別当たるべし、背く在家出家共の輩は非法の衆たるべきなり・
弘安五年九月十三日、日蓮在御判         
血脈次第日蓮日興、
甲斐の国波木井郷・山中に於いて之を図す。」

(池上相承書部分)                            「日蓮一期の弘法、白蓮阿闍梨日興に之を付属す、本門弘通の大導師たるべきなり、国主此の法を立てらるれば、富士山に本門寺の戒壇を建立すべきなり。時を待つべきのみ、事の戒法とは是なり、中んずく我が門弟等此の状を守るべきなり、
弘安五年壬午十月十三日 日蓮在御判。」(富士宗学要集2、P314-315)

 さて、よく見ると、内容が身延相承書と池上相承書とで、入れ替わっているのがわかる。

 そして、身延相承書の日付「弘安五年九月十三日」は、日蓮の一行が身延を出発した9月8日の後であり、富士日興上人詳伝によると9月13日には遠く三国峠を越えて呉地にいたのであって、「甲斐の国波木井郷・山中に於いて之を図す」ことは不可能である。(コメント2参照)
 おそらく、この事実を知らないものによって創作されたのであろう。
 池上相承書の日付は、臨終の日であり、筆を持てる状態ではなかっただろうし、代筆としても、大勢の門下が見ているのである。

 もしこれらの記載が真実なら、日興の記録や、その後の史実とも矛盾する。
 他にも批判書が少なからずあるので、ここでは詳細は割愛する。

 ちなみに堀日亨は、「御書目録日記之事」で、目録百四十余軸の中に日蓮滅後11年目の日頂の書も含まれていること等から、これが池上にてなされたこと、六老僧の判形も、すべて妄説であるとしている(富士宗学要集5、P146)


 その後、結果としては、このお墓の輪番制度は守られなかった。


■「美作房御返事」の物語るもの

 ここで、日蓮の三回忌直後に書き記された美作房御返事を見てみる。(適宜、改行あり)

「熊と申さしめんと欲し候の処、此の便宣候の間悦び入り候。
今年は聖人の御第三年に成らせ給い候いつるに、身労なのめに候はば何方へも参り合せ進らせて、御仏事をも諸共に相たしなみ進らすべく候いつるに、所労と申し、又一方ならざる御事と申し、何方にも参り合せ進らざず候いつる事、恐入り候上、歎き存じ候。
抑代も替りて候。聖人より後も三年は過ぎ行き候に、安国論の事、御沙汰何様なるべく候らん。鎌倉には定めて御さはぐり候らめども、是れは参りて此の度の御世間承らず候に、当今も身の術なきままはたらかず候へば 仰せを蒙ることも候はず、万事暗暗と覚え候。此の秋より随分寂日房と申し談じ候いて、御辺へ参らすべく候いつるに其れも叶わず候。

 以下《 》は、その通解である。(以後も《 》は、引用部分の通解とする)
《わざわざ使いを立ててでも伝えようと思っていたところ、この日弁が下総に向かうというよい機会があったので喜んでいる。
 今年は聖人の第三回忌の年になったので、体が普通であれば、どちらへでも参りあわせさせていただいて、御法要を共々に奉修すべきであったのに、健康を害していることといい、また、波木井殿の容易でない出来事といい、どちらへもおまいりできなかったことは、誠に恐れ入ることであり、嘆きいたしております。
今年は、執権が時宗から貞時へと替わった。聖人後入滅の後、三年が過ぎ去ったが、立正安国論のことについて、幕府の御判断はどのようになっているのだろうか。鎌倉幕府は、きっと検討されているであろうが、私自身は、鎌倉に行ってこのたびのご推移をお聞きしないままに過ぎて、近ごろ体の自由がきかず、働きかけをなさずにいたので、通知を頂くこともなく、万事が暗い思いである。
今年の秋から随分と寂日房日華と話し合い、寂日房をあなたのもとへうかがわせるべく思っていたが、それもできなかった。》


「何事よりも身延沢の御墓の荒はて候いて、鹿かせきの蹄に親り縣らせ給い候事、目も当てられぬ事に候。
地頭の不法ならん時は我も住むまじき由、御遺言には承り候へども、不法の色も見えず候。

 其の上聖人は日本国中に我を待つ人無かりつるに、此の殿ばかりあり。
然れば墓をせんにも国主用いん程は尚難くこそ有らんずれば、いかにも此の人の所領に臥すべき御状候いし事、日興の賜ってこそあそばされてこそ候いしか。
是れは後代まで定めさせ給いて候を、彼には住せ給い候はぬ義を立て候はん。
如何が有るべく候らん。所詮縦い地頭不法に候はば昵んで候なん。
争でか御墓をば捨て進らせ候はんとこそ覚え候。
師を捨つべからずと申す法門を立てながら、忽ちに本師を捨て奉り候はん事、大方世間の俗難に術なく覚え候。」

《何よりも嘆かわしいことは、身延沢の大聖人の御墓が荒れ果て、鹿の蹄に荒らされて、どうしようもない様相である。
「地頭が法に背く時には、私も住まないであろう」との趣旨を、御遺言としてうかがってはいるが、謗法の様子は見えない。

 その上、聖人は「日本国中にだれも私を待ってくれる人がいなかった時に、この波木井殿だけがいた。したがって、私の墓を造るにも、国主が用いることはまだ難かしいだろうから、きっと、この人の領地に臥すことになるだろう」との御手紙があるが、この身延の地を日興が賜ったからこそ、このような仰せがあったのである。
 これは後代まで定められたのに「身延には住まわれていない」との義を立てられた。
どうすればいいのだろうか。
 所詮、もし地頭が不法ならば、のんで同意もしよう。
どうして御墓をお捨てになることができるのか、と思う。
「師を捨ててはいけない」という法門を立てながら、たちまちに本師を捨て奉ることは、おおかた世間の非難に対して、言い逃れのしようがないと思われる。》



 つまり、五老僧は、身延の墓を捨てた。
 その結果、日興は「御墓の荒はて候いて、鹿かせきの蹄に親り縣らせ給い候」と、現状を嘆いている。
 
 こうして日蓮の遺言は五老僧の背反によって崩れ去ることになる。
 これは輪番制という形だけの問題でなく、五老僧と日興との亀裂が生じ、その根底には、日蓮の教義をめぐる日興と五老僧との理解の相違があったからだろう。

 ただ、ここで、身延の地を「日興の賜ってこそ」とあり、自身が「身の術なきまま」だったということから、日興はこの前後は、実際には身延に住んでいたのだろう。
 すると「御墓の荒はて候…」というのは、現実には、墓をしっかり守っていたであろう日興が、音沙汰なき五老僧への嘆き・指摘として言ったのかもしれないという見方もある。
 しかし、この見解は、次に述べる史実の判明によって、脆くも崩れる。


■日興の身延入山時期

 ところで、大石寺第59世法主の堀日亨は、文献を頼りに、大石寺伝燈の見解と異なって、日興の身延入山時期を弘安6年の末と判定していたが、これも誤解であった。
 その根拠となった資料が、実は誤って伝来していた。
 それは、日興の身延入山在中に対する喜びを始めて 伝える波木井日円(実長)の書状である。
 この書状は実は2通あり、最初の一通には
「御わたり候こしやう
 人の御わたり候とこそ思まいらせ候へ」
《日興上人がそのように身延に入山されたことは
あたかも日蓮大聖人が戻ってこられたように思われます》
とある。
これは永く不在であった日興の入山を喜ぶ波木井実長の言葉である。

 この書状が、もう一方の年号なしの2月19日の書状と、年号部分を含む末尾が互いに入れ替わって張り合わされて伝来していたことが分かった。
 入れ替わっていた末尾の年号は、弘安8年正月4日である。
この誤った伝来が故意か錯誤かは不明。
 この判明以前は、波木井実長の書状は、年号なしの2月19日付けとして、様々な憶測を呼び、この年号が弘安7年2月と推定されて、結果、日興の身延入山・以後常住が弘安6年末とされてしまっていたのである。


 堀日亨の「興師入延についての是非の正史料は、このほかはいずれも存ぜぬ」(富士日興上人詳伝P168)との見解と重なって、「美作房御返事」の書かれた弘安7年10月の時点が、すでに日興の身延入山から1年近く経過しているものと見なされていた。

 ところが、その後、この錯誤の書簡が昭和36年に発見された。
 堀日亨が弘安7年2月と推定した、富士日興上人詳伝P166にあるところの、
「その地頭波木井実長においては、余年にわたる空山を慨したるあまり、歓悦きわまりなく鎌倉より延山再現の賀状を呈せり」
は、弘安8年正月のものとなる。
 つまり、日興の身延常駐決定はその前、つまり弘安7年末ごろとなる。


 だから「美作房御返事」の書かれた弘安7年10月の時点では、身延の墓はさんざん荒れ果てていて、日興が「身延沢の御墓の荒はて候いて、鹿かせきの蹄に親り縣らせ給い候事、目も当てられぬ事に候」と書いているのは、文字通り現状そのものであったのである。

 ちなみに年号なしの2月19日の波木井実長の書状は、これに続くもので、弘安8年2月19日のものとしてほぼ確定となったのは言うまでもない。

 また、日尊の行跡・口決を記した「尊師実録」には
「弘安七年 甲甲五月十二日甲州身延山へ登山、同年十月十三日大聖人第三回御仏事に相當するの日、始て日興上人に対面」(日蓮宗宗学全書2、P411)とある。
 これは、日尊が登山した弘安7年5月12日には、日興に会っておらず、後の10月13日に初めて日興に会ったことを記していて、弘安7年5月時点では日興が身延に常住していなかったことを示す有力な証拠である。


 弘安7年秋からの身延の状況は、美作房御返事をもとに整理すると、以下のようになる。
 弘安7年9月、日興は墓輪番で入山した身延で、荒廃した墓を目の当たりにした。
 そこで、寂日房等の弟子と共に身延山の整備復興に取り掛かり、10月13日には整備を終えて日蓮三回忌を行った。
 先の10月8日、老僧たちに向けて美作房を通じて身延山詣を促し、民部日向が登延を表明したが、他の老僧たちはその意思がないと見えた。
 弘安7年末、ついに日興は身延入山常駐を決意し、身延山での新たな展開が始まる。
 この状況が鎌倉の波木井実長に伝えられ、明けの弘安8年正月、彼より、日興による身延山入山・復興を喜ぶ書簡が届く。


 このような史実からも、日蓮正宗が、日興を久遠寺の別当とした二箇相承や、日蓮造立と主張する弘安二年の板マンダラが、この時点で身延に存在していなかったことは、明白なのである。
 日蓮正宗は、初めから日興が身延に常駐していて、この書簡は日興の身延山別当の確定書だと主張するらしいが、それならば、3年も経って後に、波木井実長が日興に対し、「身延に入山されたことは、あたかも日蓮大聖人が戻ってこられたように思われます」と言うだろうか。


 この史実を無視してか知らずしたか、その後の出版である昭和37年4月2日の「日蓮正宗創価学会批判を破す」(創価学会教学部編P220)には、「美作房御返事」読み方に関して、あくまで日興が日蓮入滅後の当初から身延に常住していたとの先入観・建前に固執しながら、次のように石川泰道を批判している。
「美作房御返事は…中略…大聖人滅後、身延に常住あそばされた日興上人と五老僧との交渉…中略…『五老僧をはじめ、諸方の弟子方に、早々に登山せよ』とおのべになった御戒告の文である。この大旨に迷うゆえに、せっかく美作房御返事を引用しながら、これをもって『日興上人が身延に常住していなかった証拠である』などという、じつに奇怪きわまりなき珍説がとび出すのである。
石川流にいうならば美作房御返事の『何事よりも身延沢の御墓の荒はて候いて、鹿かせきの蹄に親り縣らせ給い候事、目も当てられぬ事に候』との御文が、
『日興上人が身延に常住されていたのなら、このようなことをいわれるはずがない。日興上人が総貫主として身延に常住されていなかった証拠になる』というのである。」(P220)

 この中で、石川泰道の説は、史実に基づく正論である。
 しかし、日蓮正宗創価学会教学部は、
「ところが、もしも日興上人が別当職として常住されず、輪番制が守られなかったとしても、はたして御正墓は目もあてられないほど荒れるにまかせられたままに放置されていたであろうか。そのようなことは断じてない。…中略…日興上人の御一門が登山を怠ることがあろうか…中略…
『鹿かせきの蹄に云云』の文は、最初証印までしてきめた墓所輪番制を守って登山するものもなく、弟子として師に対する御報恩のまことをつくす姿を失っている、昨今の状態を形容したおことばである。久遠寺の別当として、またお弟子のひとりとして、日興上人が、これに過ぎたる悲しみはない、とのお心を表現したおことばなのである」
 と、あくまで偽書の二箇相承や弘安二年の板マンダラ等を前提に、日興が身延に常住していたという思い込みによる反論で、猪突猛進している。
 そして、石川泰道の説に対し
「まったくなんにもわかっていないのである」(P220)、
「秋以前より身延におすまいなのだから、とうぜん実際には、御正墓が荒れて目もあてられぬ状態になっていたはずはない。とすれば石川泰道の『美作房御返事からもくみ取れるように…中略…日興上人が身延に住まわれるようになったのは弘安8年正月過ぎのことである』との説は、まったく根拠のないインチキであることが、ハッキリするであろう」(P222)と、無礼にも切り捨てているのである。



■原殿御返事の検討


 その後、身延に登山してきた日向が、日興の理解とは異なる考え方を、地頭・波木井実長に付き込み、日興からの離反を画策した。
やがて、日向や波木井実長が師敵対に至り、やむなく日興は身延を後にすることになる。

 これについて、日興が身延山を離れる事情と心境を述べた「原殿御返事」を詳細に確認してみる。
 これは1288年正応元年(正応元年)12月16日、日興が43歳の時、身延の地から原殿に与えられた書簡である。引用文中の『 』は、私注である。

「抑此の事の根源は、去ぬる十一月の頃、南部弥三郎殿…中略…
『日蓮阿闍梨 仏の御使として』…中略…日興は今年問答講仕らず候いき。…中略…
 此れのみならず『日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来』の画像は一二人書き奉り候へども、末だ木造は誰も造り奉らず候に、
入道殿御微力を以て形の如く造立し奉らんと思召し立ち候を、御用途も候はずに、大国阿闍梨の奪い取り奉り候仏の代りに、其れ程の仏を作らせ給へと教訓し進らせ給いて、固く其の旨を御存知候を、日興が申す様は、責めて故聖人安置の仏にて候はばさも候なん。それも其の仏は上行等の脇士も無く、始成の仏にて候いき。其の上其れは大国阿闍梨の取り奉り候いぬ。なにのほしさに第二転の始成無常の仏のほしく渡らせ給へ候べき。御力契い給わずんば、御子孫の御中に作らせ給う仁出来し給うまでは、聖人の文字にあそばして候を御安置候べし。いかに聖人御出世の本懐の南無妙法蓮華経の教主の木造をば 最前には破し給うべきと、強いて申して候いしを、軽しめたりと思食しけるやらん。…中略…
『三界衆生の為には釈迦如来こそ初発心の本師にておはしまし候』…中略…
身延沢を罷り出で候事、面目なさ、本意なさ申し尽し難く候へども、打還し案じ候へば、いずくにても聖人の御義を相継ぎ進らせて、世に立て候はん事こそ詮にて候へ。さりともと思い奉るに、御弟子悉く師敵対せられ候いぬ。日興一人本師の正義を存じて本懐を遂げ奉り候べき仁に相当って覚え候はば、本意忘るること無く候」


《そもそも身延を離山することの根源は、去る正応元年十一月のころ、南部弥三郎が参詣してきた折に、父の波木井実長が「念仏が無間地獄であるという理由を聞いてください」また「この国に守護の善神がいないということは言うべきではない」と言われたことを聞いたことがきっかけである。
 これこそ、存外なことと思われる。
これは波木井入道殿のお心が替わってしまったと推察できた。

 そこで強く「この国は、念仏・真言・禅・律の大謗法のために、大小の守護の善神が捨て去ったので、その跡の祠に大鬼神が入り替って、国土に飢饉、疫病、蒙古国の襲来という三災が連続して起こり、国土が滅亡する旨を、日蓮聖人は立正安国論として顕し、鎌倉幕府の三代の執権に仰せられ、諌暁されたのである。
この旨こそ、日蓮聖人の立てたところの法門であり、国のため、世のため、一切衆生のために、
『日蓮阿闍梨 仏の御使として』
(日蓮聖人は仏の御使として)大慈悲をもって、命を惜しまず言われたのである」と言った。
すると弥三郎殿は「念仏無間のことは、深く信じている。しかし、守護の善神がこの国を捨て去るとは、まだ不審が晴れない。その理由は、鎌倉におられる聖人のお弟子は、諸天善神はこの国を守護されているから、当然、神社に参詣すべきだという。
一方、身延山の御弟子は、守護の善神はこの国にいないと堅く言い立てられる。
日蓮聖人はすでに入滅されている。
一体、だれに会って、正否を決めたらよいのか」と不審を述べられた。

 そこで
「私と日向の二人以外に、弟子の相違を判定できることがある。
師匠は入滅されたが、その遺された御状がある。
立正安国論がこれである。
この書は私的文書ではない。三代にわたる執権に対して公に示されたものである」
と話したが、なお心の中が判然としないままに帰っていかれたのである。

 これというのは、この南部弥三郎殿が三島神社に参詣されると聞いたので、夜中に、越後坊を遣わして、「この法門は立正安国論の正意であり、なぜに日蓮聖人の大願を破られるのか。 これをご存知ないのか」と言って、これを永らく思い留めさせた。
 これを波木井入道殿が聞き、民部阿闍梨日向に質問した。
日向の返答は「守護の善神がこの国を去ることは、立正安国論の一篇ではあるけれども、白蓮阿闍梨日興は外典読みに、片面を読み、究極の法理を知らない。法華経を持つ者が神社に参詣すれば、諸神もその神社に来るのであり、当然参詣すべきである」であった。
 これによって波木井入道殿は、深くこの旨を信じてしまったので、日興が入道殿の邸に参上して話し合ったところ、案の定、「その通り民部阿闍梨日向の教えである」と答えられた。
 日興は、このことは、もはや天魔の仕業であると考えて、少しも恐れることなく申したのである。
「聖人は、あなたがこんなこと『だから、善神は国を捨てて相去り』と仰っているのだ。
 こう仰るこの国の守護人・日蓮聖人の、一人の弟子である民部阿闍梨日向が、法華の持者が神社に参詣するたびに、反対に『諸天善神は来る』と言うのは、まさしく師敵対であり、七逆罪ではないか。
 こんな誤りを言うならば、民部阿闍梨日向の考えに日興が従うと、日興もその重罪を免れないと思う。今後は、このような謗法の学頭は、追放しなければならない」と申した。

 やがて、続いて波木井殿が南部郷内に念仏福士の塔を供養し寄進した。
これは、もってのほかの、誤りである。
 総じて、この二十余年の間、持斎の法師などは波木井の領内には影すら見なかったのに、波木井実長の信心が弱くなられたから、こんなことになったのだろう。
 これというのも、あの民部阿闍梨日向は、世間の欲が深く、へつらい、正義を曲げた僧で、聖人の御法門を世に立てることなど思いもよらず、大いに破る者であると、この二・三年の間、注意して観察してきた。
 それでも折に触れては、日向の説く法門が曲がっていて、いわれのない、いい加減な内容であることを指摘してきたが、それを日向は一向に聞き入れなかった。
 今年11月の天台大師講の折も、そこで申し述べる祈願の中で日向は「天皇のもとで天永き地久しき平穏無事と、天皇の願いの成就、左右の大臣・文官・武官等の諸願成就を」という願いを述べた。
 それに対して日興は「この祈りは、今は行うべきではない」と、再三注意したのに、日向は「なぜにあなたは国の恩をお知りにならないのか」と言って、制止を破ったので、日興は、今年は問答講を行わなかったのである。

 それだけではない。
『日蓮大聖人の御出世の本懐である南無妙法蓮華経の教主釈尊、久遠実成の如来』の画像は、一人・二人は書き奉ったことはあるが、いまだ釈尊の木造は、誰も造られてはいないというのに、
波木井入道殿が「微力ながら釈尊の木像をその形の通りに造立したい」と思いたたれたのを、別に用途もないのに、民部日向が「大国阿闍梨日朗が奪い去った聖人随伴の仏像の代わりに、それと同じ仏像を造られたらよい」と刷り込んだので、波木井実長は固くその考えに捉われてしまった。
 これに対して日興は、
「せめて今は亡き聖人が安置されていた仏像だったらまだしも、
しかもそれは、上行菩薩等の脇士も無く、始成正覚の仏にすぎない。
その上、すでに大国阿闍梨日朗が持ち去ってしまっている。
なのに何を欲して、それを写した始成正覚・無常の仏像が欲しいと思われるのか。
聖人本来の仏像が、あなたの力ではできないのなら、御子孫の中で造立する人が出てくるまでは、聖人が文字にしたためられた御本尊を御安置すべきである。
どうして、聖人御出世の本懐の南無妙法蓮華経の教主の木造を、いちばん先に破るのか」と強く申し上げたのを、彼は「自分が軽くあしらわれている」と思われたのだろう。
 日興は、このように申し上げたことこそ、聖人の御弟子として、その跡を継がせ、帰依しておられる甲斐国の波木井殿だからこそ、重んじて申し上げた。
これは、誉れある行為であったと思っているのは、聖人が我が身に入り替わっておられるのだろうか。
 いやしくもへつらい曲げることなく、ただ経文の通り、大聖人の仰せ通りに、諌め進めたものだと、自賛しているのである。

 総じてこのことは、三つの指摘となる。
一には安国論の正意を破っている。
二には久遠実成の如来の木像を真っ先に破っている。
三には謗法への布施を初めて行った。

 日興が「これらの事柄は、波木井入道殿御自身の罪ではなく、ひとえに諂い曲がった法師の過ちであるから、よく考え直して『今より以後は立正安国論に仰せのように、聖人がご承知の在世二十年のように信じてまいります』との改心の誓状を書かれて、大聖人の御影の御宝前におささげしなさい」と申し上げたが、信用されないばかりか、かえって日興が軽んじたと思われたのであろう。
「自分は民部阿闍梨日向を師匠にしたのである」と言われたと承った。
まさに法華経の信心が逆さまになってしまった。
日蓮聖人のご法門は、
「『三界衆生の為には釈迦如来こそ初発心の本師にておはしまし候』、これを捨てて、『阿弥陀仏を憑み奉るによって、五逆罪の人と成って無間地獄に堕つべきなりと申す法門』ではないのか。
何をもって、聖人の教えを信仰してきたといえるだろうか。
 日興は、波木井の上下の人々にとっては、初発心の師匠である。
このことは、二代・三代、末の世どこまで続くかは知らないが、いまだ波木井一族の上の人も下の人も、だれが忘れるであろうかと思っているくらいである。

 この身延の沢を立ち退くことは、面目なく、無念さは言葉で言い尽くせないが、何回も深く考えてみれば、どこの場所であっても、聖人の法門を正しく受け継いで、この世に流布していくことこそ、最も大切なことである。

 そうはいっても…と思っていたが、聖人の御弟子はことごとく師敵対してしまった。
 日興一人が本師・聖人の正義を守って、広宣流布の本懐を遂げるべき当人であるとの自覚があるので、本意を忘れないだけである。
また、あなたがたはいずれも、聖人の正義を御存知なので、心から嬉しい。
あなた方がわざわざ身延へ行かれるならば、波木井入道殿が、不条理に落ちはててしまわれることはないだろうと思っている。》




 これに続いて、日向を、様々な不祥事をあげて切り捨てたことを原殿に知らせるための書である旨、結びには、何よりも聖人の御影は、この顛末を、どのように照覧なされているであろうか。お参りして報告するのでなければ、心の中を言い尽くすことはできない、と結ばれている。(コメント1の通解参照)

 以上のように、日興が身延山を離れた理由が、民部日向や波木井実長の師敵対・謗法であったことが詳細に記されている。
 そのうえで、どんな場所であっても、血脈を正しく受け継ぎ、世に立てる事こそが最上であり、その自覚に触れられている。

 そんな中で、下記の記載、
『日蓮阿闍梨 仏の御使として』
『日蓮聖人御出世の本懐南無妙法蓮華経の教主釈尊久遠実成の如来の画像は一二人書き奉り候へども、』
『三界衆生の為には釈迦如来こそ初発心の本師にておはしまし候』
は、いずれも、日蓮の師は久遠実成の釈尊であり、日蓮は釈尊の使い・弟子であった立場・自覚を、日蓮の弟子としての日興が正確に受け継いでいたことを、明確に裏付けるものである。

 これは非常に大切な部分である。

 つまり、弟子の日興は、日蓮を本仏とはしていなかったことになる。
 日興にとって、本仏は、あくまで南無妙法蓮華経の教主「釈尊」であって、今日の大石寺門流がいうところの「久遠元初自受用報身如来=日蓮大聖人」ではなかったのである。

 以上のことより、久遠実成の釈尊~日蓮が師弟不二なら、日蓮~日興は師弟不二といえる。
 また、日興は、日蓮の血脈を、確実に受け継いでいたといえる。


 また、身延相承も池上相承も、この時点では創作されていなかったし、後に出てくる本因妙抄、百六箇抄などの、大石寺門流を正統化する文書や、戒壇板曼荼羅でさえも、史実としての言及が、この時点では存在しないのである。


 このことから、大石寺門流の主張(日蓮正宗創価学会の主張)が、大石寺開山当初、あるいは日蓮自身から「日蓮本仏論」であったというのは、謬説であり、日蓮の血脈が途中で途絶えていることを示すものである。

 日蓮本仏論は、以後の後世、とくに日寛の時代になって、ようやく確立されたものである。
 それも、室町、江戸時代の歴史的背景や、後継による問題が複雑に絡み、その解決の過程において成立したものである。

 では、それは、その後いったいいつごろからどのように創作されていったのであろうか。


P8へ、続きます。


☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次(一部リンク付き)
P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰