●8 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰 | ラケットちゃんのつぶやき

ラケットちゃんのつぶやき

ブルセラコスチュームで、あちらこちらに出かけてます。
最近は、主に富士山麓の山に登ったときの、雄大な富士山と、自身の写真をつけてます。
ブルセラアイドルの夢を見ながら、日常の現実に対するいろんな思いを綴ります。

●8 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰


 このページは
☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰
 です。

 ページ末に目次(一部リンク付き)を掲載しております。


 (私の所属する創価学会では、多くの創価学会員は、日目以降から戦前までの大石寺の歴史は、ほとんど知らないし知らされていない。
 創価学会で行われてきた教学試験にも、出題されたところを私は見た覚えがない。
 創価学会のなかで良く知られているのは、創価の源流である牧口会長時代、大石寺59世法主堀日亨あたりからで、創価学会が破門された後は、日顕、日如については、破門騒動に絡んで互いに誹謗中傷合戦が繰り返され、教学試験にも、必ず出題されていて、会員はよく知っているが、それも、一方的に偏ったものであると言わざるを得ないものであることを、このページ以下で明らかにしていく。)

 

■日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い

 日興は、身延山を一時期継いでいたが、他の五老僧との対立から、身延山を離れ、大石寺を開山した。
 身延を離れた理由は、前述の如く、日蓮の「依法不依人」「法勝人劣」に基づいた「曼荼羅」の内容を根本とし、釈迦仏の仏像を本尊としないという考えを守ろうとしたものであった。
 日興門流の原点は、こういった不造像義であって、アニミズムではないのである。

 この例をあげれば、
「御筆の本尊を以て形木に彫み不信の輩に授与して軽賎する由」(富士一跡門徒存知の事 御書P1606)とある如く、曼荼羅でさえも「形木に彫み不信の輩に授与」することを「軽賎する由」として禁じている。
 不造像義の、哲学的または一切根源法的な是非はともかく、この点を予め確認しておく。

 日興は、大石寺開山8年後、法主を日目に継がせたあと、自身は重須に房を立てて(これは後の北山本門寺となる)後世の育成に力を注ぐ。
 日目は日興から受け継いだが、あくまで弟子であって、師は日興であったから、この時代は日興が主であっただろう。

 この時代は、日蓮の立正安国論の予言、自界叛逆難(同士討ち)と他国侵逼難(元寇)が的中し、これによってついに鎌倉幕府は滅亡し、一時戦乱の世になる。

 第3世日目は、鎌倉幕府滅亡の年(1333年)に天奏のため、日興の弟子の日郷と日尊を率いて、京都に向かうが、途中、美濃垂井で遷化する。
 これより直近前の2月に日興が遷化している。
 残された二人の弟子のうち、日尊は日目の志を受けついで京都に赴き天奏を施行、出雲・播磨で布教し京都に上行院(後の要法寺)を創設する。
 一方、日郷は、日目の遺骨とともに大石寺へと帰路に立つ。

 ところが大石寺では、日目の上洛により日道が跡を継いでいたので、ここに翌年、日郷が到着して、状況が変わる。

 「日目が旅先で横死して血脈相承がないところから、日郷と大石寺貫主就任に関する紛争を起し、数年に亘って相争った」(安永弁哲、前掲書P145)

 実際は日道の書に以下の如く記されている。
「弥四郎国重(注、戒壇板本尊の願主)事、日道を大石寺に移す、御本尊御骨并に御筆御書等を守護せしむ、
 日目天奏の為に上洛し給ふ濃州垂井宿に於て御遷化なり、日郷は御骨を取り頸に懸けて…中略…富士に帰りて連蔵房に居す…中略…
日郷云く目師御臨終の時大石寺を以て某に付属し給ふ云云、
之に依って衆義区にして一結し難し、故に日道と日郷と建武元より延元三年に至る三年間互に対論を為し…中略…三度対決あり…中略…道理を日道に付せられ日郷等を追放して…中略…寺中の乱逆を静め畢ぬ」(富士宗学要集P215)
(なお、堀日亨は、これより前に記している、日目が自筆で日道に付属した相伝書は日目の自筆ではないとし、弥四郎国重の事も依拠を知らず、日郷の主張する付属の証拠もなく、付属に関する対決もなかったと注釈している。)

 これより先の1332年、大石寺に土地を貸していた南条時光が死亡、その後、遺産が分割されていた。
 大石寺の大坊を主とする西側を三男の三郎左衛門、蓮蔵房を主とする東側を四男の四郎左衛門尉時綱が相続し、これらをそれぞれ日道、日郷が、寄進を受け、受け継いだ。
 父の南条時光にとっては、遺産分割は仕方がないが兄弟が協力して大石寺を守ってほしいとの意であっただろうが、これが後の坊地争いに発展し、分裂の背景となる。

 日郷がもどった直後の1334年1月大石寺において、ともに日興の弟子であった日仙(日蓮に師事していた)と日代(北山本門寺2世)が、方便品読不についての論争を起こす。
 日代は、迹門でも法華経なら成仏するとして方便品は読むべきと主張し、日仙は、迹門では成仏しないとして、方便品は読むべきでないと主張した。
(富士宗学要集6、P1-14には、方便品読不の問答記録、日仙日代問答が掲載されている。)
 この問答で、日代は、日興門流の義ではないといわれて、北山本門寺を出て西山本門寺を創出する。
 一方、日仙も、日蓮からの方便品読誦に背いたとして、大石寺を出て、讃岐本門寺を創建する。
 この問答の翌年、日郷は、四男南条時綱の支持を受け、大石寺を去って安房保田に妙本寺を創建する。
「日郷は、建武二(一三三五)年に万年救護の本尊や御影像などを持って大石寺を出て、現在の千葉県保田に妙本寺を開いた」(地涌からの通信第691号)
 蓮蔵房を含む大石寺東側の地は、日郷の跡を継いだ、時綱の子である日伝(妙本寺2世)に引き継がれた。
 こうして、日道・日郷の相承争い、日仙・日代による方便品読不読問答における争いに、南城家の相続後の坊地争いがからみあい、大石寺は約70年の長きにわたり東西分裂時代に入る。


 そして、この翌年1336年は、日蓮を用いなかった鎌倉幕府は滅び、京都では足利尊氏が室町幕府を開いたのである。

 その後、日興の弟子、日華は富士上野に妙蓮寺を開く。
 また、妙本寺の門弟が後に富士に小泉久遠寺を開く。
 こうして、今に伝わる、富士五山というのが、大石寺と妙蓮寺(ともに日蓮正宗)、西山本門寺(単独寺院)、及び北山本門寺と小泉久遠寺(ともに日蓮宗)である。
 元来の経緯から、北山と西山は仲が悪く、石山(大石寺)と小泉久遠寺も、同じく仲が悪い。

 さらに加えて、日興が後にした身延では、日向が身延山久遠寺を継いでいる。

 こうした背景が、歴史と共に、日蓮教団の間で、様々な問答や伝説を生んできたのである。


 ところで、日道が日目から相承を受けた有力な証拠がひとつある。
 日郷が開いた保田妙本寺に所蔵の、元亨4年(1324年)12月29日、日目が日興から授与された本尊がある。この脇書「最前上奏の仁、卿阿闍梨日目」に追加されている「日道これを相伝す。日郷宰相阿闍梨にこれを授与す」に注目である。
 この本尊は日興→日目→日道→日郷の順で授与されているのである。
 つまり、日郷は、日目→日道の相伝を理解していたといえるだろう。
 日興は御本尊の授与を「日興の弟子分に於ては在家出家の中に 或は身命を捨て或は疵を被り若は又在所を追放せられ一分信心の有る輩に忝くも書写し奉り之を授与する者なり」(富士一跡門徒存知の事、御書P1606)と、厳格に限定していたので、なおさらである。

 日道は、晩年には、日辰の著「祖師伝」に、「日道佐州に入りて日代御筆の本尊十六鋪を焼失す、其の煙日道の面に当りて癩人と成り大石寺に帰り之を療治するに平愈する能はず河内杉山に隠居す、大石寺の檀那は竜の口等の御難所参りに代て河内杉山に登りて日道の墓を礼拝すと云云」(富士宗学要集5、P38)と、いかにも罰論として意味ありげな現証があり、日亨がこれを「信ズベキニアラザルナリ」と欄外に注釈している。

 また、坂井法曄による詳細な論文である「道郷論争と大石寺東坊地の係争」も大いに参考になる。(http://kawasumi.html.xdomain.jp/bunken/houyou.htm)



■日尊の京都上行院開設、釈迦立像を安置

 ところで、鎌倉幕府が滅んで、時代の中心は京都に移ったが、天奏に向かった日尊は、その後どうなったのか。

 日目の弟子日尊は、天奏途中の旅路で遷化した日目の意思を完遂し、京都に達して、鎌倉幕府滅亡の1333年に後醍醐天皇に対し天奏を果たした。
翌1334年(建武元年)後醍醐天皇は京都の六角油小路に寺地を日尊に寄進し、日尊は1339年そこに上行院を開設した。
 その後1341年(興国二年)、日尊は、なんと上行院に十大弟子を脇士とした釈迦立像を安置した。
 弟子の日大によると、
「一、久成釈迦造立有無の事 日興上人の仰せに云わく、末法は濁乱なり、三類の強敵これあり。しかれば木像等の色相荘厳の仏は崇敬はばかりあり。香華灯明の供養も叶うべからず。広宣流布の時分まで大曼荼羅を安置し奉るべし」(日尊上人仰云 日蓮宗宗学全書2、P419)
と述べている。
 日興も日尊も、元は造像もすべきという見解であったことになる。

 これについて須田晴夫は「日興門流と創価学会」P188において、「日尊は民部日向が身延山に造立した釈迦仏像も容認して身延への参詣を認めている…中略…このような日尊の態度は、日向による釈迦像造立を謗法と断じて身延を離山した日興の精神に違背するものであった。日亨が後年、日尊について『城者破城の反逆であるといわざるをえぬ」(『富士日興上人詳伝』五二六頁)と厳しく弾呵している所以であろう」と指摘し、さらに、
「日尊による後醍醐天皇に対する天奏は日蓮が『立正安国論』で行ったような厳しい諫暁ではなく、むしろ朝廷に迎合するものであった(朝廷に対する厳しい諫暁、折伏があったならば、朝廷から寺地の寄進を受けることはあり得ないだろう)」
と述べている。
 更に、日尊の「経に曰わく、仏法王臣に付して弘むべし。更に僧衆の力に及ぶところにあらず」(日蓮宗宗学全書2,P290)の「申状」を挙げて、
「権力の保護を受けることによって仏法の弘通も可能になるという見解を表明している。そこには日蓮に見られたような、厳しく権力と対峙する姿勢は一切見ることはできない。日尊にとっての天奏はひたすら権力に擦り寄って、その保護を受けることで勢力を拡大していくことに他ならなかった。…中略…建武の中興以後、日蓮宗各派は日郎の弟子日像を皮切りに、競って京都進出を図ったが、それはいずれも朝廷や室町幕府に接近し、その力を借りて自派の勢力拡大を目指すものであった。日尊門流の実態も、日興門流としての独自性を失い、他門流に同じたものであったといえよう。」と述べている。

 そしてこれは、日興門流の中で造像の先例となったが、その後、弟子の日大も1362年に一尊四士の造像を行なった。
その後いつしか、曼荼羅本尊に還ってはいる。


■俗世の血脈が、はやくも分裂か

 ところで、こうした史実を見ると、以下にあげる日蓮の、日蓮仏法の「血脈」を定義した遺文、
「総じて日蓮が弟子檀那等・自他彼此の心なく水魚の思を成して異体同心にして南無妙法蓮華経と唱え奉る処を生死一大事の血脈とは云うなり
然も今日蓮が弘通する処の所詮是なり、
若し然らば広宣流布の大願も叶うべき者か、
剰え日蓮が弟子の中に異体異心の者之有れば 例せば城者として城を破るが如し」(生死一大事血脈抄 御書P1337)

 この遺文の心、「法」に対する心、そして、これに続く日蓮ー日興の、師弟、俗世の血脈は、日興の死去後わずか1年で、富士においても京都においても途絶えてしまったといえる。
 しかし、この時点では、また9世日有までは、現在にみられるような唯授一人血脈主義はみられない。何人かの高僧も本尊書写を行っている。


 話はその後の大石寺の分裂時代へ戻る。


 室町幕府となり、世の中は戦乱が静まり少し安定していたが、金原明彦著「日蓮と本尊伝承」(水声社)によると、活動の中心を安房保田に移していた日郷が滅後、東坊地を日郷より継承した日賢は、南条家が上野郷を退出した後、大石寺における支援檀越を失っていく。
 西坊地を日道より受け継いだ日行は、不在の多い東坊地の占領に乗出し、坊地争いが勃発する。
 1355年の「大石寺連蔵坊咾﨟次事」によれば、連蔵坊以外の東の各坊はすでに西坊地側による占拠が始まっていたようだ。
 日行は1365年、新地頭に、東坊地を「本主寄進」の地と偽って去状を発給させるが、日賢は「南条時綱寄進状」や「日郷置文」でもって、これを不当なものとして対抗し、翌年、東坊地は日賢に返付、安堵される。
 係争は日行の後も日時に引き継がれ、日賢との間で安堵状の出入りが繰り返された末、1405年(応永12年)東坊地は最終的に日時に安堵されて係争は終結する。

「この坊地争いは客観的には西坊地側による不当な横領行為であったが、四十年の係争の間、坊地に常住し、強力な奥州檀越の支援を得て常に優位に立っていた西坊地側は…中略…ついに日郷門徒の追い出しに成功したのである」(金原明彦、前掲書P182)


 日時の後を継いだ日阿は暫定の法主とされ、在位1年足らずであった。。


 次の日影は、日時と同じ年代であるが、栃木平井信行寺にある板本尊は、1412年に彼が造立したものという。
 これは大石寺門流内で現存する板本尊の中で、造立時期が特定できる最古のものであるという。戒壇板マンダラと同じ楠木板で、腰書きが下部余白に記されている。
 その相貌は、日蓮による弘安三年三月の通称、紫宸殿本尊の模刻であり、大石寺蔵紙幅原本と比較すると、首題、名判、四天王、不動、愛染等の太字部分が完全に一致している。
 時の法主日影が写したか又は許可されて写したものを日経が板本尊に造立したものである。
 金原明彦によれば、これが戒壇板本尊の前後に位置している可能性はかなり高いという。

 日影の没の翌年1420年には、日時の創建とされている福島黒須野妙法寺に、板本尊が造立されている。
 これも信行寺と同じ、紫宸殿本尊の模刻で、腰書きも下部余白にある。
「大檀那大伴氏浄蓮 干時應永廿七年卯月十五日」
 堀ノートには「当寺ニテハ戒旦御本尊ト云ヒケルコト 裏書不明」と、当寺では戒壇の御本尊と称されていたようだ。
 日影の後は日有が17歳という若年で継いだことになっていて、この板本尊も日有の造立という。



■原点回帰の第9世日有時代

 第9世日有は南条家出身だったが、ちなみに3世日目は父方は新田家、母方は南条家、4世日道は父方が新田家、祖母は南条家、5世日行・6世日時と8世日影は母方が南条家で、大石寺の法主は代々南条家と深いかかわりがある。
 こうした背景で、
「日精が『家中抄』で日影からの相承を在家の油野浄蓮なる人物に中継させたと記したのは、右板本尊が造立された当時、日有が弱年であったことと、この板本尊の造立主名が『浄蓮』とあったことから、勘案したものであろう」(金原明彦、前掲書P190)

 日有は室町時代中期の1419年、17歳で法主になり、途中で日乗、日底に法主を譲ったが、日底遷化後は再び法主となって、1482年、12世日鎮に譲るまで、長年の東西分裂・疲弊後の大石寺の再興に尽力し、諸堂伽藍を整備し、法門の再興を図った。
 世の中が乱れ戦国大名が台頭・割拠し始める中、京都へ天奏し、諸国を行脚した。
 日有御物語聴聞抄には、この留守中に、大石寺が、留守番によって、18貫で地頭に売られたことがあった。6年後に日有が20貫で買い戻したが、この6年間は大石寺は謗法の山であったこと(富士宗学要集1、P185)など、様々な物語が残っている。

 日有の晩年には、京都で日尊門流の本是院日叶が日有に帰依し、左京日教と改名、当時日尊門流内で流行していた仏像造立を批判し不造像義を展開した。

 この日尊門流の不造像義は、当時の大石寺には存在しなかった義であるが、「本因妙抄」「百六箇抄」「産湯相承書」「一期弘法抄」などの日尊門流で重要視されてきた相伝書に基づいた不造像義である。

 以上、時代を経るにしたがって、日蓮の教えが様々に乱れが生じていたのを、原点に返れとしたのは日有であった。

 日有の「化儀抄」には
「一、法花宗は能所共に一文不通の愚人の上に建立有るが故に、地蔵、観音、弥陀、薬師等の諸仏菩薩を各拝する時は信があまたになりて法花経の信が取られざる故に、諸仏菩薩を信ずる事を堅く誡めて妙法蓮花経の一法を即身成仏の法ぞと信を一定に取らせらるゝなり、信を一法に取り定る時は諸仏所師所以法也と釈して、妙法蓮花経は諸仏如来の師匠なる故に受持の人は自ら諸仏如来の内証に相叶ふなり、されば四巻宝塔品には我即歓喜諸仏亦然と説けり云云。」(富士宗学要集1、P71)

 ここで、「諸仏所師所以法也」とは「諸仏の師とするところは、いわゆる法なり」とよむ。
 日有も、日蓮と同じ、法を師とし、法を根源としている。
 ここで、法とは妙法蓮華経であり、南無妙法蓮華経は、妙法蓮華経に帰依しますという意味である。
 だから「諸仏菩薩を信ずる事を堅く誡めて」「妙法蓮花経の一法を即身成仏の法ぞ」と信ずる対象(=御本尊)を統一せよとしているのである。


 日有は、「大師匠」にして「本尊」と仰ぐ日蓮すら「未断惑の導師」(化儀抄、富士宗学要集1、P65)としている。
 また、連陽房の聞書では「末法今時は悪心のみにして善心無し・師弟共に三毒強盛の凡夫の師弟相対して・又余念無く妙法蓮華経を受持する処を即身成仏とも名字下種とも云はるるなり」「後五百歳の今時に師弟共に三毒強盛の愚者迷者の上にして位・名字の初心に居して師弟相対して又余念なく南無妙法蓮華経と受持する名字は下種なり、此の下種に依って終に脱するなり」(富士宗学要集2、P147)と記されている。


 師弟相対といっても、法に対しては徹底した師弟平等を説いている。

 法主を絶対化するのではない。

 「信と云ひ血脈と云ひ法水と云ふ事は同じ事なり、信が動ぜずば其筋目違ふべがらざるなり。違はずんば血脈法水は違ふべからず、夫とは世間には親の心を違へず、出世には師匠の心中を違へざるが血脈法水の直しきなり、高祖巳来の信心を違へざる時は我れ等が色心妙法蓮華経の色心なり、此の信心が違ふ時は我れ等が色心凡夫なり、凡夫なるが故に即身成仏の血脈なるべからず(化儀抄、富士宗学要集1、P64)

 ところで、化儀抄の以下の文について、
 「一、当宗には断惑証理の在世正宗の機に対する所の釈迦をば本尊には安置せざるなり、其の故は未断惑の機にして六即の中には名字初心に建立する所の宗なる故に、地住已上の機に対する所の釈尊は名字初心の感見には及ばざる故に、釈迦の因行を本尊とするなり、其の故は我れ等が高祖日蓮聖人にて在すなり」
 この文は、本尊は釈迦(釈迦本仏)でなくて、日蓮が人本尊(日蓮本仏論)であるとか、
 また、
 「当家の本尊の事、日蓮聖人に限り奉る可し」(化儀抄、富士宗学要集1、P65)をあげて、人本尊が「日蓮聖人」という文証があるではないかと、今の日蓮正宗の人は主張するかもしれない。

 しかし、「法華宗は何なる名筆なりとも観音妙音等の諸仏諸菩薩を本尊と為す可からず、只十界所図の日蓮聖人の遊ばされたる所の本尊を用ふべきなり、是れ即法華経なり」(化儀抄、富士宗学要集1、P70)
 とあるのであり、本尊論も「法」を前提として「人」を立てている。
 日有にとっても、法に対する「信心」が「血脈」なので、日蓮本仏論ではなく、あくまで日蓮は、自分たちの模範である、という敬慕の表現であった。
 だから、前述の文は、「本尊の事」については日蓮聖人の「説くこと」に限るという意味であって、「日蓮聖人」が本尊ということではないのである。

 また、「有師談諸聞書」には、
 「一、仰せに云はく、此の経の印に依つて後生成仏なりと云ふ事なり意得られず、仮令ば世間通法の言葉なれば此の経を受持申してより信心無二なれば即妙法蓮華経なり、即身成仏とは爰本を申すなり、三界第一の釈迦も既に妙法蓮華経を得たまひてこそ仏とは成れ三世諸仏も爾なり、底下薄地の凡夫なりとも此の経を受持して妙法蓮華経と唱へ奉るは無作本覚の仏なり、去れば経に云はく大乗を学する者は肉眼有りと雖も即ち仏眼と名くと云へり、日蓮聖人仰せに云はく日蓮が弟子檀那は妙法蓮華経なりと遊ばし、興師の御意にも法華経を信ずる色心・法華経なり去れば法華経に違ふべからずと云へり高祖曰はく能持の人の外に所持の法を置かずと云へり、此の義を諸文遊ばすなり、末世の法華経とは能持の人なり加様に沙汰する当躰こそ事行の妙法蓮華経即身成仏にては候へ。」(富士宗学要集2、P142)


 ここで「此の経の印に依つて後生成仏なりと云ふ事なり意得られず」について、
 法華経にも日蓮も後生成仏も説かれているが、ここでは、これらの文証は「死んでから成仏することではない、死後の成仏を目指すのではない」と言っているのである。
 「事行の妙法蓮華経即身成仏」つまり、あくまで現在において、妙法蓮華経によって即身成仏をせよとの指導である。

 日蓮の言う「能持の人の外に所持の法を置かず」とは、法華経を持つ人以外には、持つべき法(=法華経)は存在しないこと。

 これは言い換えると、法華経の存在自体は、法華経を持つ人にある、つまりは、法華経とは法華経を信じて修行する人にある、そのふるまいなのであるということである。
 これは、何度も言及するが、持つべき法(=法華経)とは御本尊なのであって、
 「此の御本尊全く余所に求る事なかれ・
 只我れ等衆生の法華経を持ちて南無妙法蓮華経と唱うる胸中の肉団におはしますなり」(日女御前御返事(本尊相貌抄)御書P1244)
 と、全く同じ意味である。
 「法華経とは能持の人なり」も、これと同じで、法華経とは法華経を信じて修行する人のふるまいそのものなのである、という意味である。
 法華経の受持そのものが即身成仏であり、人のふるまいとなって顕れる、その時のひとつの成仏の姿である。
 観心本尊抄でいう「受持即観心」の説明となっている。

 これらは、日有が、日蓮の原点に帰れ、日蓮の、本来の教えと姿勢に帰れと、強く訴えているのである。


 さて、本尊書写については「化儀抄」にて、
「一、末寺に於て弟子檀那を持つ人は守をば書くべし、但し判形は有るべからず、本寺住持の所作に限るべし云云。
 一、曼荼羅は末寺に於て弟子檀那を持つ人は之を書くべし、判形をば為すべからず云云、但し本寺の住持は即身成仏の信心一定の道俗には判形を成さるる事も之有り、希なる義なり云云」(富士宗学要集1、P71-72)
 として、末寺の本尊書写を認めている。

 このことから、日有の時代には、本尊書写の導師は一人に御座すべきなり(穆作抄、富士宗学要集2、P286)や「明星直見の本尊の事」(御本尊七箇相承の附文)などという、本尊書写は血脈附法の法主にかぎるという思想は存在しなかった。


■戒壇板マンダラの造立者

 ところで、大石寺第9世日有は、他にも末寺の板本尊を造立しているが、現在のところ、戒壇板マンダラの造立者として最も疑われている。
 この大石寺の板本尊の文献が初めて登場したのは、日蓮滅後200年経過後の、この時代である。
 それも、当時、大石寺に対抗していた重須の北山本門寺6世日浄が、1494年(明応2年)重須日浄記に「日有この未聞未見の板本尊を彫刻し、云云」と指摘したのが最初で、その後は保田妙本寺の日我が室町時代末期に「久遠寺の板本尊今大石寺に在り」、また要法寺日陽が「日本第一の板本尊」などと、文献に出てくる。
 関慈謙は重須日浄記について、「日有に対し悪意に満ちた書であるが、その悪意に満ちた分だけ、この『この未聞未見の板本尊を彫刻し』の文は、事実を伝えているように思われる」と述べている(関慈謙著「伝燈への回帰」2010/8/1,鹿砦社,P432)


 日有は、京都の要法寺日辰による祖師伝に、「日有も又癩人と成り日鎮は狂気をし当住日院は中風を患い痴人の如くなり」(富士宗学要集5、P39)とある。
 日亨はこれも「信ズベキニアラザルナリ」と欄外に注釈している。
 安永弁哲はこれについて、以下のように指摘している。
 「このように祖滅後二百年代に初めて板本尊の偽造説や日有癩病説が重須や京都から出たことは、歴史的に極めて重要である。重須本門寺六世日浄が祖滅後二一二年に偽造説を言い始めてから十六世日専…中略…等が『妄伝喋々スル』と五十二世日霑が述べているように、重須と大石寺は犬猿ただならぬ仲なのである…中略…
此の板本尊偽造説は、日有癩病説と共に繰返し繰返して論議されているのである。この歴史的事実は何よりも雄弁に、板本尊が日有によって偽造されて、世に出されるに至ったことを証明している」(安永弁哲著「板本尊偽作論」1956/6/10多磨書房,P158)


 「更に、『宝冊』や『大石寺誑惑著本書』に『日有上人ノ異病ハ是レ過去ノ罪障ノ致ス所、本尊ノ故ニハアラズナドト妄語シ、日有ノ難ヲ免レント欲スト雖モ、猶郡中ノ諸人日有彫刻シテ癩病ニナリタリト云フ事、昔ヨリ今ニ至ルマデ云伝ヘリ』と指摘しているように、日有癩病説は郡中の諸人が知っているばかりでなく、昔から今に至るまで云伝えているという此の事実は如何ともすることが出来ない。…中略…」
 と、史実をあげ、次に法華経の文証を根拠に、
 「斯かる真赤な偽物を世に出した日有が、佛罰を蒙らなければ、法華経は嘘を説いたものである。法華経普賢菩薩勧発品には『是ノ経典ヲ受持セン者ヲ見テ、其ノ過悪ヲ出サン。若シハ実ニモアレ、若シハ不実ニモアレ、此ノ人ハ現世ニ白癩ノ病ヲ得ン』とある。
 法華経を受持する者の過悪を出してさえ、現世に白癩の病を得るのである。まして況や、大聖人の御真筆を偽作悪用して、大石寺を有利ならしめんとして、曼荼羅を偽造するが如き大悪業を犯した者が、現世に白癩病を蒙るべきことは、当然過ぎる当然である」
 と、厳しく指摘している。


 仏教教団、日蓮教団の間では、このような激しい口調の非難合戦は、しばしば行われてきた。
 法華経を始め、日蓮の書簡の中にも、法華誹謗による現世の仏罰について例を挙げている。
 これにならってか、その後継者たちも、今に至るまで同様であるのが、こういった例である。
 現在の一般の人には誹謗中傷のように聞こえるが、こういった問答は、同類教団の間で昔から行われてきて、問答における一種の形式的なものとも考えられるので、どうか、誹謗中傷合戦のように受けとめないでいただきたい。

 また、ここでいう癩病が、今でいうハンセン病とは限らない。また現在ではハンセン病患者も、自ら診断した医者も極めて少ない。
 ただ、その全身の特異な皮疹は、一般人にも一目で異常だと分かるのであり、感染力が強く、恐ろしい伝染病であって、科学の未発達な時代では特効薬はなく、社会から隔離・忌避されたことは確かである。
 少なくとも現実は、日有は、杉山に隠れざるを得ない病だったのである。

 ちなみに、上記の法華経の文は非科学的なドグマであり、もしこれが、科学的な真実なら、日蓮教団の少なからずの人びとが、癩病を患うことになって、理不尽である。
 つまり、これらは信仰を持つ人や教団の者の間にのみ通用する論理にすぎないのであって、信者以外にとっては、一笑にふすようで、単なる脅しにも及ばない。

 もっとも、日蓮も、罰論として多くを法華経等を引用して語っており、たとえば、癩病などについては呵責謗法滅罪抄、御書P1125に、
 「五逆と謗法とを病に対すれば五逆は霍乱の如くして急に事を切る、謗法は白癩病の如し始は緩に後漸漸に大事なり、謗法の者は多くは無間地獄に生じ少しは六道に生を受く、人間に生ずる時は貧窮・下賎等・白癩病等と見えたり」
《五逆罪と謗法とを病に喩えれば、五逆罪は霍乱のような病気で、急にその報いを得る。謗法は白癩病のようなもので、始は緩かに、後に次第に次第に大事になってくる。謗法の者は、多くは無間地獄に生じ、少しは六道に生まれる。人間に生まれる時は貧窮であったり、下賎であったりする。また白癩病にあったりすると経文に説かれている》
 と述べているし、
「一切は現証には如かず 善無畏一行が横難横死・弘法・慈覚が死去の有様 実に正法の行者是くの如くに有るべく候や」(教行証御書、御書P1279)などもある。
 だから、祖師伝や、安永弁哲の主張も、これに沿ったものである。

 また前述した■罰論等の限界を克服するにあたって、において述べた如く、科学が未発達な時代での非科学的教えを、今日の発達した現代において、一般社会にまで拡大して云々すべきでないことは周知の如くである。

 安永弁哲の板本尊偽作論は昭和31年出版だが、罰論での根拠と現証として挙げた例が、大正・昭和時代の日蓮正宗管長や牧口・戸田会長の不幸な内容で、結果として個人的攻撃となっており、日蓮正宗創価学会内では会員に対しても読書厳禁とされたようで、のちに学会から名誉棄損で裁判に訴えられ、事実無根を認めて(当然ながら三世にわたる因果関係は裁判では証明できない)謝罪広告まで出したそうである。(聖教新聞、昭和41年11月2日)
 対する創価学会も、「脅迫、強要といわれても仕方のない折伏行為による社会との摩擦は絶えず生じ…」(山崎正友著「再び盗聴教団の解明」2005/4/8,日新報道,P86)という激しい折伏(相手を折り伏せること)を展開していた時期であり、数々の犯罪に発展したことは後述することになるが、破門後には、阿部日顕に対する誹謗中傷で、裁判に訴えられて名誉棄損が認められたことも事実である。

 思うに、こういったローカルルールによる論戦は、論理が通用する団体同士の間のみで活発にやればいいのであろうが、そこに市民社会のルールを持ち出してしまえば、結局、社会の物笑いの種、教団同士の恥の上塗りとなって、自分たちに返ってくることになる。
 前述したが、日蓮の、こういった罰論の教えも、その真意は、民衆を成仏に導くためにあるのであって、これを理解しないで、文面だけ切り取って利用すること自体が、日蓮の真意に背き、師敵対・裏切りの行為につながるものと、私は考える。



P9へ、続きます。


☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次(一部リンク付き)
P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰