●9  室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰 | ラケットちゃんのつぶやき

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●9 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
 

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☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」での、
P9,  室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論

 です。

 ページ末に目次(一部リンク付き)を掲載しております。
 


■室町時代から江戸時代の流れ、天文法華の乱

 一方、日有によって大石寺の再興が図られていたこの時代より以降の推移を大雑把に見ると、室町時代後半から江戸時代の前半にかけて、郷村制の成立によって、村々に葬祭執行をつかさどる専属の僧侶と、寺院を必要とする民衆の要望が強くなっていった。
 室町幕府が弱体化、戦国大名が群雄割拠し、農民層も経済的に自立する者が出る中、各宗の寺院が全国的に建立し、強く一般民衆とのつながりをもつようになった。

 寺院自ら町衆の豊かな財力に支えられ、政治的にも大名に劣らない勢力を持つに至った。
 そのなかで、京都においては、鎌倉幕府滅亡の1333年に天奏を果たした日目の弟子日尊は、京都に上行院を開設していた。


 1341年(興国二年)、日尊は、上行院に十大弟子を脇士とした釈迦立像を安置した。
 これは日興門流の中で造像の先例となったが、その後はいつしか、曼荼羅本尊に還っている。
 また、日尊の弟子日大が開いた住本寺では、1362年に一尊四士の造像を行なった。
 その他法華宗(日蓮宗系)寺院は、日蓮門流が次々と国家諫暁、天奏を目的に進出し開いた寺院である。


 このように、檀信徒から供養を受けた造像や天台宗の影響を受けながら造像を行なったりして、京都で大きな支持を受け、京都だけでも法華系本山21か寺が林立していた。


 鎌倉幕府滅亡後は、国の中心は京都に移っていて、富士地方や身延は田舎であった。
 京都でその後栄えていた法華宗21寺(日蓮系)の間では、強大な勢力を持つ比叡山延暦寺に対抗するために、盟約を結んでいた。
 これのみについては、
 「自他彼此の心なく水魚の思いを成して異体同心にして」(生死一大事血脈抄)
 という日蓮の血脈を受け継ぐ精神に沿ったものといえよう。
 受け継いでいた日蓮の教えは一致派、勝劣派それぞれに解釈の違いがあったものの、互いに問答などで切磋琢磨して発展していたに違いない。
 しかし、そんな中で造像も行われ、教義に様々な乱れを生じた。
 現在の様々な文献的研究の知見によれば、日興・日尊門流内で「本因妙抄」「百六箇抄」等が日蓮作として偽作され、伝承が始まったのもおそらくこの時代からであったと推定される。


 一方、田舎地方になったこのころの大石寺は人材難で、日有も登座は17歳であったし、日有の後継もいずれも若年の日鎮(14歳登座)・日院(10歳登座)日主(20歳登座)であった。

 若年法主たちは要法寺系の左京日教の影響を受け、しだいに「本因妙抄」等の要法寺系相伝書による久遠元初自受用身即日蓮説が定着していった。

 時代が進んで、京都においては朝廷や1336年に開いた室町幕府が弱体化し、各地で戦国大名が台頭するようになって、1536年(天文五年)7月、比叡山延暦寺の衆徒約18万人の襲撃によって京都21か寺はことごとく焼失した。
 そして朝廷からも京都から法華宗の退去令がくだされる。

 これが天文法華の乱である。
 この弾圧も契機となって、権力への対応等をめぐり、各門流は内紛と混迷を深めていくのである。

 その6年後には法華宗系の各寺は京都への還許がなされ、上行院と住本寺は合併して要法寺となり、その他含めて新たに16本山体制となった。
 1564年(永禄7年)16本山は盟約を結ぶ。
 これは、当面の内紛を棚上げし、経済的基盤の確立を先決としたのであった。
 法華宗諸寺とは「一致派・勝劣派ともに法理一統」とし、「一味同心して弘教する」等という盟約までなされた。
 その背景として、当時の京都における弾圧を避けるための妥協もやむをえなかったことは否めない。


 この時造像論・法華経一部読誦論の主唱者であった日辰は、上行院・住本寺を合併し要法寺として再建し栄えた。
 日辰は、はじめは「本因妙抄」「百六箇抄」を秘伝の書として三大秘法をとなえながら、天文法華の乱以後は、久遠の釈尊を本尊として、方便としてその像を造立していたのである。
 そして勢いに乗って富士門流の北山本門寺と西山本門寺の不和を調停したり、大石寺に通用を働きかけたりして門流の統一を画策した。
 この時の大石寺の若年法主日院は、後述するが、同じ門流の「本因妙抄」「百六箇抄」を主とする不造像義である左京日教の影響を受けていて、衆生済度の方便とはいっても造像は不審であるとして、日辰の通用を拒否している。
 ちなみに、要法寺系で日辰が最も批判したのが左京日教であったといわれる。



■受不受論争~江戸時代の寺請制度による仏教の国教化

 安土桃山時代に入り、1579年(天正7年)安土城において浄土宗との公場対決が行われた際、法華宗は信長より敗退を裁断され屈辱的な詫び状を提出させられた。
 さらに1595年(文禄四年)秀吉から大仏建立のために各宗から計千名の僧を出すよう命がくだったが、その出欠をめぐって京都の16本山は分裂する。


 日蓮は権力に屈することなく、権力からの供養も受けることはなかったが、謗法の信徒のために経をよみ、見返りに供養を受けることが日蓮の教えにかなうかどうかで、今さら大論争となったのである。

 本満寺日重を代表とする「受派」は、謗法供養の不受につき、権力者だけは例外とする王侯除外論を展開する。
 他方、妙覚寺日奥を代表とする「不受派」は、あくまで日蓮古来よりの、他宗からの供養不受を貫いたのである。
 これがいわゆる受不受論争である。
 両者は秀吉の死後1599年(慶長4年)にも、大阪城において、浄土宗の信者であった徳川家康の面前で対決した。
 むろん、反権力の日奥の負けは初めから決まっていたようなもので、その後家康の弾圧により対馬に流罪となり、他の不受派も弾圧され散っていく。

 日蓮の「法」に対する血脈の一部が、京都において蘇った感があるが、大石寺は残念ながら蚊帳の外であった。

 富士方面は政治の中心である京都から見れば田舎であったにちがいない。
 そして、たび重なる権力の弾圧に対し、生き残り優先の教団擁護論と、教義の妥協を目的とする教義時宣論が、次第に処世術となっていった。

 1603年成立した江戸幕府は、1637年(寛永14年)に勃発した島原の乱もあって、キリシタンや不受派排除のため、宗教統制をさらに厳しくした。
 寺請制度の下、民衆はすべてどこかの宗派に帰属させ、戸籍ともいうべき宗門人別改帳を寺院に全て管理させ、寺院を行政機関とした。
 結婚と離婚(戸籍に関する訴訟や審判)の管理、移住、旅行(通行手形の発行)等、現在の法務省が担う行政等、これら任務すべてが寺院に押しつけられ、布教も禁止された。
 そしてそれに随順しないかぎり寺領も取り上げられ、その存在さえ許されないという、政治と宗教の主従関係が構築された。
 こうして、宗派を問わず、仏教が「国教」となったのである。



 1612年、日奥が赦免されて京都に戻ると再び不受派が活発になる。

 1626年二代将軍徳川秀忠夫人の弔いの後、不受派であった池上本門寺は、布施を受けた受派の身延山久遠寺を非難したため、身延は池上を幕府に訴えた。
 1630年、幕府は不受派弾圧のため、受派身延対不受派池上の対決を江戸城で行わせ(身池対論)、領袖であった日奥は再び対馬流罪となったが、配流前に死去したので遺骨が対馬に送られた。池上の日樹も流罪、対決した他の高僧も追放となった。


 その後身延は幕府を背景に不受派の寺を屈服させ、次々に末寺としていく。


 富士五山への圧迫も続き、大石寺は態度を不明確にしていたが、19世日舜の時、ついに権力に屈して、1641年(寛永18年)、66石8斗5升余の朱印状をもらい、受派として禄の供養を受けた。
 1665年(寛文5年)第20世日典は、幕府が寺領を供養として下付するとして、各寺に請書の提出を命じたとき、公に「受派」であるとの証文を出した。
 「大石寺は日蓮大聖人の弟子としての法義を捨て、国家権力の威迫の前に名実ともに屈服したのであった。日奥の率いる京都妙覚寺などとは比べるべくもない不甲斐なさであった…中略…それ以降、大石寺は幕府より下される寺領などを御供養であるとし、謗施をもって生活することに甘んじたのであった」(地涌からの通信別巻2、不破優著、1993/11/28 はまの出版 P89-90)

いわば暗黒時代といえるが、この期間が幕末まで続いた。



■日尊門流・左京日教のもたらした影響

 話を戻し、大石寺に日蓮本仏論が持ち込まれる過程を見ていく。
 大石寺では、日有の跡は、時代は室町時代後半、日鎮、日院、日主、いずれも若年法主である。

 これ以降は、日有の晩年に帰依した、要法寺系の左京日教が、「本因妙抄」「百六箇抄」「産湯相承書」「一期弘法抄」などの日尊門流で重要視されてきた相伝書に基づいた不造像義を持ち込み、次第に日蓮本仏論、それに続く法主本仏論が形成されていった時期である。


 そのきっかけとなった問答が、日有が遷化する約3週間前の1482年(文明14年)9月初旬、病気で大石寺を留守にしていた時に発生した。
 関慈謙著「伝燈への回帰」P145からすると、その様子は以下のようになる。
 大石寺と、北山本門寺・小泉久遠寺・保田妙本寺との論争が2回にわたって起こる。
 14歳という若年で相承を受けた日鎮の後見として、日有は湯野の行連入道を指定していた。老年の日有・若年の日鎮に大石寺の重要事項を託された彼は、長年の係争による絶縁状態を改善しようとして、小泉妙本寺に話し合いを持ち掛けたのがきっかけである。

 同年9月7日午の刻、大石寺で日興の命日の法要の時、小泉日院・日会・日遵、北山日浄、ほかそれぞれ集徒・檀家が総勢30人が押し掛け、法要の開始、その後にかけて法論を仕掛けた。
 その主張は、
 日目・日道の相承の証拠を見せよ。
 不和のもとは東坊地の相続問題であり、血脈有」無の問題ではない。
 西坊地は日代が日興から相続したものだ。日代が離反したため無住状態になり、そこに日道がよこしまに住んだ。
 というものであった。
 この法要に法主の日鎮は不在で、大石寺側の代理の念行事も、次の三位阿闍梨も問答を避け逸らす。
 日会は「こんな返答しかできないのは、大石寺に仏法が断絶しているゆえである」
 大石寺側は「重々多く尋ね責めるといえども舌頭を動かさず閉口す」ばかりで、
唯一の対応は湯野行連の「無我の信心をもって大石寺に復帰すべし」だったという。
 このような平行状態の末、時刻が申の刻となって宗徒は引き上げたという。

 様々な見方はあるだろうが、若年法主、日有不在の中、これに続く優秀な人材がいなかったことは確かだ。

 こうした背景があって、日教は、未熟な日鎮を支えるため活躍した。
 日教はいくつかの著作の中で、法主の権威を強調している。
「類聚翰集私」では
「当代の法主の所に本尊の躰有るべきなり」
「法主に値ひ奉るは聖人の生れ代りて出世したまふ」
「当代の聖人の信心無二の所こそ生身の御本尊なれ」
「持経者は又当代の法主に値ひ奉る時・本仏に値ふなり」などと述べている。

 日教は、「穆作抄」にも
「閻浮第一の御本尊も真実は用なり」とある。
 ここでいう「御本尊」は、日蓮の本尊だから、総合すれば「法主が体で、御本尊は用」になり、明確な「法主信仰」である。
 法主の権威を、周りに対して振りかざさざるをえなかったのだろうが、この日教の法主絶対論は、後世に甚大な禍根を残した。
(文献※http://kawasumi.html.xdomain.jp/bunken01/matsuoka3.htm)


 また日教は、「穆作抄」にて、
 「此の御本尊は忝くも高祖聖人より以来付法の貫主のあそばしたまふ授与の御本尊より外に抑も雅意に書く可きや」(富士宗学要集2、P283)
 「富士門跡は貫主一人より外は書き奉らず云云」(富士宗学要集2、P287)
 として、ここではじめて、本尊書写の権限を血脈付法の貫主に限るとしたのであった。

 (今日では「戒壇の大御本尊と不二の尊体」という、法主絶対論として受け継がれているのである。
「本宗の根本は、戒壇の大御本尊と唯授一人血脈付法の御法主上人であります。具体的には、御法主上人の御指南に随従し、御本尊受持の信行に励むことが肝要です。なぜならば、唯授一人の血脈の当処は、戒壇の大御本尊と不二の尊体にましますからであります。したがって、この根本の二つに対する信心は、絶対でなければなりません」(大日蓮 1991年9月P87、教宣ハンドブック2012 P36など))


 日鎮から相承を受けた日院は10歳であった。
 日院は、要法寺日辰からの通用を拒否した件で有名である。
 日目から継承した日尊門流は、当時、要法寺としてまとまり、幕府や朝廷へさかんに奏上していることは評価できるが、いくら方便とはいえども造像読誦を行うことは不審であるとして、本因妙抄を引用して、
 「仏は熟脱の主・某は下種の法主なり。彼の一品二半は舎利弗等がためには観心となり、我等凡夫のためには教相となる。理即但妄の凡夫のための観心は余行に渡らざる妙法蓮華経これなり」
 「迹門妙法蓮華経の題号は本門に似たりといえども、義理を隔てること天地にして、成仏もまた水火の不同なり。久遠名字の妙法蓮華経の朽木書の故を顕さんがために一と釈するなり。末学疑網を残すことなかれ。某 会上多宝塔中においてまのあたり釈尊より直授し奉る秘法なり。」
 と述べ、さらに、日蓮と釈迦を比較して、日蓮を、
「本因妙日蓮大聖人を久遠元初の自受用身と取り定め申すべきなり」と述べている。


 この時すでに、左京日教による「久遠元初自受用身=日蓮」の説が、大石寺門流に定着していたことが、この「返状」にあらわれている。


 その次の14世日主は、二十歳の時左京日教著「穆作抄」を写し、その奥書に名を記し、また同著「四信五品抄見聞」「類聚翰集私」にも相伝を奥書している。

 これらのことから、関慈謙は、
 「日鎮・日院・日主の三代の特徴は、左京日教の教学が富士門流に完全に定着した時代である…中略…表面上は日有のように見えて…中略…なぜそういうことになったのか。…中略…通常、法主は修行及び教学が成って、法主に登座するものだが…中略…この三師はともに若年で法主になっている。極端な言い方をすれば、法主になってから修学が始まるようなものである。したがって、この三師の時代は、法主が門流内に法門的影響を与えたというより、その逆の法主が影響を受けた時代ということができるのである」(前掲書P158)と述べている。


 左京日教の教学の特徴は、関慈謙(前掲書P161)によると以下の6点であり、「どちらかといえばより今日的である」と述べている。
①、「本因妙抄」「百六箇抄」「産湯相承」等の相伝書を教学の根本に据える
②、本仏久遠元初自受用身即日蓮大聖人である
③、釈迦如来の因行である本因妙の修行においては、上行菩薩が師、釈迦如来は弟子。久遠実成においては、釈迦が師、上行菩薩が弟子で、時機によって互いに師弟が入れ替わる互為主伴の論を立てる。
④、二箇相承が宗祖の真撰として、教義の根幹になっている。
⑤、「一期弘法抄」「三大秘法抄」等によって、富士に本門戒壇堂を建立する富士戒壇論。
⑥、「代々の上人は日蓮聖人の如き御本尊なり。…当寺の聖人は日蓮聖人なり」に代表される代々法主即日蓮と解釈されうる法主本仏論が散見される。



■本因妙抄の考察


 ここで「本因妙抄」の伝来などについて考察する。
『本因妙抄の考察』 (東佑介著 大石寺教学の研究 2004/8/15 平楽寺書店)によると、本因妙抄は弘安5年、日蓮から日興へ相伝されたと伝えられているが、「三大章疏七面相承口決」を土台として記されていることは、大石寺も『日蓮正宗要義』において、
 「本因妙抄は天台の三大章疏七面相承口決を台とし、これを大聖人弘通の本因妙の義において説かれたものであり、天台教学の思想的展開に対する本化弘通の規模における付嘱の法体の碩別を拝する」(日蓮正宗要義二二四頁)
 と述べている。

 この「三大章疏七面相承口決」の中には、伝教が「大唐元24年5月日」に相伝を受けたと記されているが、「伝教大師傳」によれば、彼が唐から日本に帰ってきたのは延暦24年であり、この年は中国では大唐元21年であるから、その3年後の大唐元24年に中国で相伝を受けられることはなく、史実に反するので、天台宗の中でも偽書とされている。
 また、その中には
「此伝に於て弥陀の三業を念ず…中略…故に止寬学行の輩、若は修行純熟の者は、今生に真の弥陀の内証を喫可し。若し学行不熟の者は、西方浄土に必生して、彼に於て弥陀の内証に進至す可し…中略…この内義を以て止観の文句を通す可し」
 とあって、念仏思想が含まれていて、このような念仏系の文書を、これを真っ先に破折していた日蓮が、土台として作成することはありえないことである。

 この反論として、須田晴夫著「日興門流と創価学会」では、
「『三大章疏七面相承口決』の記述自体がもともと歴史的事実を無視した創作なのであるから、伝教が貞元二十四年ないしは二十一年に天台山に行っていないことを問題にしたところで何の意味もなく、それをもって『本因妙抄』を偽作とする根拠にはできない」(P50)と述べられている。


 そして、東佑介が指摘することは、本因妙抄の全文をみると、
…中略…
「問て曰く、前代にこの法門を知れる人之有りや。答て曰く、之有り…中略…
疑心なく正義を伝ふる者は希にして一二の小石の如し。秘す可きの法門なり」
…中略…
「問て云く、本迹雖珠不思議一、本迹の教に於て…中略…
日蓮霊山会上多宝塔中に於て親り釈尊より直授し奉る秘法なり。甚深甚深秘す可し秘す可し伝ふ可し伝ふ可し」
…中略…
「若し末法に於て本迹一致と修行し所化等に教ゆる者ならば我が身も五逆罪を造らずして無間に堕ち、…中略…
其の時方人一人も無く唯我日蓮と唯我日興と計りなり」
…中略…
「又日文字の口伝、産湯の口決二箇は両大師の玄旨にあつ。本尊七箇の口伝は七面の決に之を表す。教化弘教の七箇の伝は弘通者の大要なり。又此の血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり。相構へ相構へ秘す可し秘す可し伝ふ可し
法華本門宗血脈相承の事」
 と続き、上記の「 」部分が、後から順次追加され、最後に
「弘安五年太歳壬午十月十一日 本因妙行者日蓮記之」
となっていることである。(日蓮宗宗学全集2、P1-10)
 ちなみに堀日亨編、1772/6/20 願主戸田城聖、発行者池田大作の日蓮大聖人御書全集も、上記の「 」部分は他とは明確に分け、小さな文字で記載されている。
 堀日亨は「両巻抄講義」において、この本因妙抄の末文「若し末法に於て本迹一致と修行し…中略…又此の血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり。…中略…」について、
「宗祖より開山へ相傳された本には恐らく無かったと思ふ。右に是等の文は宗祖の言はれる筈にあらざる文、后世でなくては言へない文が多い。開山已后西山等に傳つてから記されたものと思ふ」と述べ、この部分を、後世の偽作としている。
 したがって、この追加文「此の血脈並に本尊の大事は日蓮嫡嫡座主伝法の書塔中相承の稟承唯授一人の血脈なり」を根拠として、日蓮本仏論や、法主の「唯受一人血脈」を主張することはできないのである。


 大黒喜道は「日興門流における本因妙思想形成に関する覚書(一)」において、
『本因妙抄』の最古写本として、これまで富士大石寺第五代・日時師の写本が大石寺に所蔵するとされてきたが、これには署名・花押や書写年記がなく、その筆跡は日持本人のものとは文字の骨格が違っていて、(『興風』14、P214に、それぞれの中にあった文字「伝教」の比較検討がある)
 その後の日有も、これになんら触れていないことから、この写本は、それ以降の作である。

 また、一方「富士門家中見聞上」に
「正和元年十月十三日に両巻の血脈抄を以て日尊に相伝し給ふ」(富士宗学要集5、P170)とある。
 これをうけてか堀日亨は「類聚翰集私の要領」にて両巻の血脈抄は日尊門流に相伝されたと重ねて述べている。

 しかし本因妙抄の奥書には、日辰が日尊自筆本を書写したとあるが判形が無いとあり、日尊がこれを書写したという記録(証拠)がない以上、日尊門流の誰かが作成し、これを日蓮作としたことになるだろう。

 以上から、本因妙抄は、日尊門流の誰かが、京都で比叡山などと交わる中、「三大章疏七面相承口決」をお手本として、日蓮思想的に換骨奪胎し、それを日尊の写本と伝えることで、大石寺門流に対抗する相伝「最も秘珍して貫首伝法の書」とされてきたと考えられる。



 ここでも、公平を保つ観点から、日蓮本仏論者の例として、須田晴夫の解釈に触れておく。
 「『本因妙抄』によるならば、日蓮と日興がどれほど一般文献上で釈迦を宣揚していても、それは当時の機根を考慮したための方便であり、日蓮・日興の真意は釈迦本仏ではない」(須田晴夫著「日興門流と創価学会」P84)
 と述べて、前述してきた日蓮・日興の真蹟の内容や史実を根拠なく覆し、続いて、
 「本文に明らかな通り、真の根源の法とは法華経文底の事行の一念三千である南無妙法蓮華経であり、従って真の根源仏は南無妙法蓮華経を所持する南無妙法蓮華経如来ということになる」
 と述べている。
 これは一応是認できるが、これを認めると、では根源仏である南無妙法蓮華経如来が誰から南無妙法蓮華経を受け継いだのかという因果の追求が再び発生してしまい、後述すように、無限の退行(無限後退)に陥ってしまう。

(「無限後退(むげんこうたい、英: Infinite regress)とは、ものごとの説明または正当化を行う際、終点が来ずに同一の形の説明や正当化が、連鎖して無限に続くこと。一般に説明や正当化が無限後退に陥った場合、その説明や正当化の方法は失敗したものと見なされる」(Wikipedia))

 そして続くところの、
 「『本因妙抄では日蓮本仏論までは明示されないが、南無妙法蓮華経を弘通したのは事実の上で日蓮以外にないのであるから、『本因妙抄』の立場はその延長線上において日蓮本仏論に帰着すると考えられる」
 さらに飛躍して、
「『本因妙抄』は日蓮本仏論が日蓮・日興の段階から存在したことを示唆するものとなっている」と主張している。
 また、「本因妙抄」が文献学的な裏付けはできないとしながらも「本因妙口決」や日尊写本と伝日持写本の存在をもって、日興門流の極めて早い段階の教義を示す思想書であり、釈迦本仏論排除の姿勢は日興門流の初期から存在していたとした上で
 「『本因妙抄』が日興門流の最初期の思想を反映した教義書であることを直視するならば、日蓮本仏論は後世の日有や日寬の段階になって成立したとの見解は事実を反映したものとはいえないだろう」(前掲書P84)
 さらに、日興が五老僧に対し「師敵対」として破折し、日興自身が日蓮の真の教義を弘通している確信を抱いていたことを根拠に挙げて、
 「日蓮が日興に対し、一般には公開しない教義を相伝として伝授した蓋然性は極めて高い…中略…『本因妙抄』はまさに日蓮から日興への相伝を記した書であると理解してよい…中略…本抄を単純に『偽書』として排除することは公平な態度ではなく、むしろ偏頗かつ不適切な在り方というべきであろう」(前掲書P85-86)
 と述べている。
 この見解は、私がこれまで長く前述してきた通り、依法不依人を根底に、科学的に、史実や文献の内容から忠実に真実のみを積み重ねようとしてきたものとは、かなり異なった立場や見解であると思う。

 ちなみに、日興の釈迦本仏論や五老僧に対する指摘は、日興自身の書簡である原殿御返事を挙げて前述したとおりであり、無理な推量をしなくてもすべて文証や史実に基づいて十分説明済みである。




 また、須田は、前掲書P81-82で、日蓮が、時には自身を釈尊を超越した存在と位置付けていて、釈迦一代の全ての仏は応仏にすぎないという本因妙抄・百六箇抄の言明は日蓮の一般的な思想から逸脱したものではないと主張している。
 この文証として挙げられているのが、以下である。
「如我等無異と申して釈尊程の仏にやすやすと成り候なり」(新池御書、御書P1443)
「教主釈尊より大事なる行者」(下山御消息、御書P363)
「凡夫は体の三身にして本仏ぞかし、仏は用の三身にして迹仏なり、然れば釈迦仏は我れ等衆生のためには主師親の三徳を備へ給うと思ひしに、さにては候はず返つて仏に三徳をかふらせ奉るは凡夫なり」(諸法実相抄、御書P1358)
「仏は法華経謗法の者を治し給はず在世には無きゆへに、末法には一乗の強敵充満すべし 不軽菩薩の利益此れなり」(諌暁八幡抄、御書P588)

 しかし、この指摘も、詳細は割愛するが、これらの文の前後の文脈を把握すれば、日蓮は末法の時代に即応した純粋な凡夫本仏論に立脚して論を展開しているのであって、釈迦仏・教主釈尊を架空の存在としながらも、師弟関係は律儀に保っているのであり、決して日蓮が師である釈尊を超越した存在であるという趣旨ではないことは明らかである。

 また、須田は「久遠元初」という用語も本因妙抄・百六箇抄のみに見られるが、本来の日蓮の御書の中にも当体義抄、総勘文抄、三大秘法抄にある「五百塵点(劫)の当初」「久遠実成の当初」とほぼ同様の意味を示すと述べ、文上寿量品の五百塵点劫をも超越するが、それをさらに遡る一時点を指すのではなく、「根源」「無始無終」の概念であると述べる。その上で、
 「したがって『久遠元初の自受用身』とは根源の法である無作本有の南無妙法蓮華経を行ずる凡夫をいうのであり、いわば万人が等しく久遠元初自受用身となりうるのである」と主張展開している。
 しかし、この結論は、後述するが、結果として日寬の日蓮本仏論の展開に沿ったものであって、あくまで日蓮を、教主釈尊を飛び越えた「久遠元初自受用身」とするところの「日蓮本仏論」を前提としたものである。
 このような師弟関係を逆転させた、いわば師敵対・下剋上の論理の上に立った「久遠元初自受用身」をもって、南無妙法蓮華経を行ずる凡夫(一切衆生)の成りうる姿とするのは、万人を師敵対に導くものであり、「久遠元初自受用身」の説明自体も、無限の退行に陥って説明に失敗したアニミズムの対象にすぎないことは、日寬の日蓮本仏論の検討の際に後述する。
 また、こうした天地逆転した論理を根本として発展した日蓮正宗や創価学会の、その後の「現証」として様々な問題を引き起こした歴史についても、後述する。



■要法寺日辰の、造像義と人本尊法本尊一体論

 日辰の造像論も、日蓮の一部の文証にきちんと基づくものであった。
唱法華題目抄(御書P12)には次のようにある。
 「問うて云く法華経を信ぜん人は本尊並に行儀並に常の所行は何にてか候べき、答えて云く第一に本尊は法華経八巻一巻一品或は題目を書いて本尊と定む可しと法師品並に神力品に見えたり、又たへたらん人は釈迦如来・多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし、行儀は本尊の御前にして必ず坐立行なるべし道場を出でては行住坐臥をえらぶべからず、常の所行は題目を南無妙法蓮華経と唱うべし、たへたらん人は一偈・一句をも読み奉る可し」
《問う。法華経を信じる人は、本尊や行儀、並びに普段の所行はどうすべきか。
答えていう。
第一に、本尊は法華経八巻・一巻・一品あるいは題目を書いて本尊と定めるべきである、と法師品並びに神力品に説かれている。また、それでも足らない人は、釈迦如来・多宝仏を書いたり造って、法華経の左右に立てて奉りなさい。またそれでも足らない人は、十方の諸仏・普賢菩薩等を造ったり書いたりして奉りなさい。
行儀は、本尊の前では必ず坐立行である。道場を出たならば、行住坐臥を選ばない。普段の所行は、題目を南無妙法蓮華経と唱えなさい。これで物足りない人は、一偈・一句を読んで奉りなさい。》

 この書は日蓮が満38歳、立正安国論提出の2カ月前の真筆である。
「釈迦如来・多宝仏を書いても造つても法華経の左右に之を立て奉るべし、又たへたらんは十方の諸仏・普賢菩薩等をもつくりかきたてまつるべし」
とあるが、この本尊観については後に日蓮自身が事実上訂正した内容であることを頭に入れておく必要がある。
 日辰はこれらをそれぞれ略、広の本尊とし、曼荼羅を要の本尊とした。
 また、観心本尊抄見聞には、日辰の総体・別体本尊論が説かれていて、
 総体の本尊は曼荼羅本尊、別体の本尊として人と法をあげ、人の本尊を釈迦如来、法の本尊を妙法蓮華経の五字と論じている。
 そして、一方を取って他方を捨てるべきではないとし、人法一体であるからどちらも矛盾しないとした。
 つまり、
「法華経八巻一巻一品或は題目」を、要の本尊、法本尊
「釈迦如来・多宝仏」これに四菩薩を、略の本尊、人本尊
「十方の諸仏・普賢菩薩等」を、広の本尊、人本尊
日辰は以上の3種、広略要の本尊観と、人法一体を唱え、造像したのであった。
また、この論を、日蓮の三大秘法にも解釈を広げ、
┌本門本尊:久遠実成の釈尊(造像)
├本門題目:南無妙法蓮華経
└本門戒壇:四菩薩の造立、広宣流布の事の戒壇堂
 ここで、久遠実成の釈尊と南無妙法蓮華経は一体であるから、実際は二大秘法とした。

 日辰以前にも身延山や比叡山にも造像論はあり、京都において日辰にもこの影響があったのかもしれない。

 以後、要法寺には曼荼羅と共に、論理的根拠をもって造像も行われ、その影響を受けた日精などが、大石寺法主として派遣されて、造像義が大石寺末寺にも及ぶことになるのであった。

 

 

 

P10へ、続きます。


☆論文「仏法における血脈と師弟―釈迦,日蓮,日興門流~創価学会」

目次(一部リンク付き)
P1, プロローグ
P2, 釈迦在世の師弟不二、法華経に説かれる久遠実成の釈尊
P3, 日蓮の生涯とその教え、日蓮の、在世の師
P4, 日蓮の仏法上の師, 「依人不依法」の日蓮本仏論, 「依法不依人」の日蓮仏法,日蓮の本尊観
P5, 本尊は「法」、生命の形而上学的考察 日蓮の目指す成仏 究極の目的「成仏」
P6, 相対的な師弟不二, 罰論等の限界,死後の生命についての欺瞞, 即身成仏の実態,真の血脈,即身成仏の実態
P7, 日興の師弟不二、日興は日蓮本仏論ではなかった,日興の身延入山時期,「原殿御返事」の検討
P8, 日目の天奏途中遷化、日道・日郷の血脈相承争い、日尊の釈迦立像、日有の原点回帰
P9, 室町~江戸、天文法華の乱~受不受論争~仏教国教化、左京日教の影響と本因妙抄の考察、要法寺日辰の造像義と人本尊法本尊一体論
P10, 要法寺との通用、日精時代の造像と法主信仰、国家権力に屈して日蓮本仏論へ
P11, 時代に迎合した日寬のアニミズム、人間日蓮を人本尊、板マンダラに霊力、日蓮教学の流れ
P12, 師敵対の日寬アニミズム、日蓮の教えの一哲学的展開
P13, 寛政度の法難、京都15山の権力取り入りズムと、大石寺の裏切リズム
P14, 明治時代以降の大石寺と創価教育学会の戦争観などについて
P15, 神札問題、戸田城聖の小説「人間革命」、創価教育学会弾圧と「通牒」、逃げ切り捨ての大石寺
P16, 終戦前後の因果応報、独善的アニミズムが引き起こす修羅道
P17, 牧口常三郎の師弟不二、創価学会の源流、価値論と結びつけた呪術的信仰